ねえ、あんた。

 

――ねえ、あんた。

と、彼女が軽軽しく私を呼ぶやうになってからといふもの久しいのですが、しかし、私と彼女の距離が、さう、目に見えぬ私と彼女との間合ひが、縮まったかといふと、どうもそんな事はなく、とても怪しいものなのです。私は彼女が、

――ねえ、あんた。

と、呼ぶ時、何時もどきりとし、その言葉と現実とのGap(ギャップ)が悩ましいのです。

それではどうしてさうなったのだらうかと記憶を弄ってみるのですが、それは記憶を遡る迄もなく、簡単な事、さう、彼女と肉体関係を持った時を境として、彼女は私を「あんた」と呼ぶやうになったのですが、私の、脳科学ではあるともないとも言はれてゐる「心」は、まだ、「あんた」といふ私の呼称を受け容れる準備はできてゐないのです。その責は全て私にあるのですが、私はといふと、未だに私なる存在に肯ふ事が出来ずにゐたのです。結局、私は終始私に拘泥してゐて、「他」の存在を受け容れる度量が未だになかったとも言へるのです。これは何とも哀しい事で、「他」の存在なしに「私」に拘泥する愚行は、頭蓋内の闇たる脳と言ふ構造をした《五蘊場》で、「私」ぱかりが空転するのみなのです。これではいかんと、私は「他」を意識的に受容するやうにするのですが、しかし、これは意外と難しい事で、注意してゐないと、何時の間にやら私は「私」のみに没頭耽溺してゐて、「他」の存在は何処へやら、独り絶海の孤島にゐるばかりなのです。そんな時に彼女が突然に、

――ねえ、あんた。

と、彼女が私を呼ぶので、私は、

――何?

と、気さくを装ふって答へては、その時はその場を誤魔化すのですが、そんな事は全てお見通しの彼女は何でも勘付いてゐて、それでも彼女も女で、彼女は意気になって、

――ねえ、あんた。

と、私を呼ぶのです。その彼女の心持ちを考へると私は胸が痛いのですが、こればっかりはどうする事も出来ず、私は未だに「私」に拘泥する馬鹿者なのです。

 

断絶

 

此の世界との断絶に、唯、茫然自失する自我の未成熟な吾は、

何とか世界との接続を試みるのであるが、

その試行錯誤の末にあっても、それは悉く世界に拒絶されるのだ。

それは多分に、吾において問題があり、

結局、世界の問題が吾の問題に帰結してしまふ此の未成熟な吾といふ存在は、

しかし、己が全く未成熟である事を自覚するに至らず、

その拒絶感の原因を世界に求める悪癖があるが、

それが何時如何なる時も、吾に非があるとは思ひ至る事はないのだ。

 

しかし、吾はそれ程に《偉い》存在なのか、といふ疑念は、何時も胸に去来してゐて、

世界に対して常に優位にあると吾はどうしても考へたいのであるが、

それも、悉く否定され、吾と言へば途方に暮れるのが関の山なのだ。

 

此の世界に対する親和性が微塵も感じられぬ吾の、

悉く吾に非がある事に思ひ至らぬその幼稚さが、

未熟故の免罪符に帰するのかと問はれれば、

そんなことは全くなく、吾に非があるとは思ひも由らぬ事はそれは火を見るよりも明らかなのだ。

 

それ故に吾は最後の手段として吾に閉ぢ籠もるのであるが、

しかし、そんな吾に《未来》が開かれてあるかと言へば、

自ら《未来》を閉ざしてゐる事は一目瞭然で、

閉ぢた吾といふものは《過去》にばかり気が囚はれ、

《過去》が《未来》と背中合はせで、何時でも反転可能な関係である事を、

これまた、只管拒絶するのだ。

 

嗚呼、と嗚咽を上げる吾の不憫さは、

最早救ひようがなく、

結局は、皮肉な事に自ら拒絶した世界に顔無しのままに埋没するのだ。

さうなると何ものも閉ざされた吾を見出すものは全くなく、

《他》との出会ひは永劫に訪れる事はないのだ。

 

落涙

 

自問自答の末に吾落涙す。

何故に涙が零れ落つるのか吾暫く解らず。

然し、次第にそれが《杳体》の渦動に因ある事が闡明す。

扨(さて)、抑(そも)抑(そも)《杳体》とは何なのかと問はれれば、

其は、存在の変態系のあり得べき一つの姿に思ひ至る。

森羅万象に問ふ。

――皆、吾に堪へ得るのか。

と。

すると、此の世の存在どもは一斉に言挙げを始め、

――否、吾は吾ならざる吾へと変容する事を渇仰す。

との大合唱が湧き起こり、

その大合唱はやがて、風音の如く無数の声が重なり合った美しき大合唱曲のやうな風貌を纏ひしが、

能く能く其に聞き耳を欹てれば、

呪詛の言葉しか聞こえて来ず。

此の世の森羅万象は全て《杳体》を渇仰してゐることに間違ひなく、

扨、その《杳体》なれど、《杳体》とは一体何ぞと自問すれば、

《杳体》とは、存在を顛覆させた、

つまり、此の宇宙を存在するだけで震へ上がらせる存在の事で、

では、それを具体的に言及すれば、Black holeをも軽軽と呑み込む存在なりしか。

つまり、《杳体》が一度此の世に出現すれば、

《杳体》は眦一つ動かす事なく、

此の宇宙を丸呑みする存在に為り得る「希望」の、森羅万象が不本意にも此の世に存在させられた、

その呪詛を丸呑みし得る存在革命の狼煙を上げるその端緒になる存在になるのだ。

《杳体》――其は、此の宇宙を顛覆させるTerroristとして存在するべく、

その出現が宇宙誕生より此の方、渇仰されし存在様式なのか。

ともあれ、《杳体》は、《虛体》をも呑み込む待望の存在様式なれば、

その出現時、Messiahの出現以上に世界が、

大交響曲を奏でる祝祭の儀が厳粛に執り行はれる筈なのだ。

さうして、吾はこれに感極まって落涙す。

然し、今は其の憤懣による悔し涙が落涙するのみ。

 

生生(しゃうじゃう)流転

 

生れては死に、死んでは生まれ変はる生生流転にあると言ふ存在は、

先験的に苦を所与のものとして背負ふべく定められてゐると言ふのか。

哀しみは何度生まれ変はった処で消ゆる事はなく、

永劫にそれは続くと言ふのか。

生生流転にあると言ふ存在は、

それでは、永劫に救はれぬと言ふ事になるが、

しかし、死んでも尚生まれ変はって存在が繋がると言ふ事に

安堵する輩がゐなくもなく、

人間に生れてしまったからには、

死んでもまた人間に生まれ変はると言ふ業にある死生観は、

辛うじて人間を救ふものとして、

此の世の理不尽にあっても尚、希望のものとして、

現世を進んで肯定出来る自己肯定と言ふ何とも醜悪な存在根拠として

生生流転はあると言ふのか。

何度でも生生流転を繰り返すと言ふその生は、

詰まる所、涅槃に至るには未だ生における精進が足りぬと言ふ事でもあり、

生生流転の輪廻から抜け出す術は、

吾等が生にはないと言ふ事か。

此の生生流転、輪廻転生等と言ふ観念に囚はれた者は、

己の生を、つまり、現世を精一杯生き抜く覚悟が問はれる筈だが、

果たして、それらの観念に囚はれた者は、

此の世で功徳を積んで、人間から解脱する覚悟はあると言ふのか。

 

ぼんやりと見渡す日常の風景は何時しか裂け始める中で、

私は来し方行く末に思ひを馳せては、

生生流転と言ふ苦を徹底して背負ふ覚悟だけはしておくと言ふ事が、

己を自己否定する端緒にしかならぬ私にとって、

生生流転の底にある深き深き闇は、

分け入っても分け入っても広がるは闇ばかりの中で、

其処に現はれる不合理に只管堪へる事でしかないのだが、

何処ぞでそれに頓挫して、

地獄に落ちるのが関の山なのかもしれぬ。

しかし、それでいいのだと言ひ切るには、

私はそれを巧く熟してゐないのもまた事実で、

未練たらたらな私の生に対する姿勢は、

ちぇっ、侮蔑すべき、唾棄すべきものに違ひなく、

私は私に対して傲岸不遜にも生生流転を断念することを

敢へて選ぶのを善とするのだ。

そして、私は、地獄に堕つる事を善として現世を生き抜く覚悟だけは持ってゐる矜恃に

唯、縋ってゐるのみの侏儒な存在でしかないことを自覚してゐる卑怯者でしかないのだ。

 

球体の存在が余剰次元の存在を予想させる

 

此の四次元多様体の中で、

あらゆる面が垂直に交はる球体は、

五次元以上の余剰次元の存在を予想させるに十分なのだ。

此の四次元多様体の中で、

あらゆる面が垂直に交はる球体は、

どうあっても五次元以上の次元が此の世に存在する事を示唆するに十分なのだ。

此の四次元多様体の中で、

あらゆる面から垂直であらねばならぬ形状は球体を以て外にあり得ず、

球体が此の世に存在する事は、

即ち此の世が四次元で留まる理由は全くなく、

否、むしろ五次元、六次元、七次元等など、

余剰次元をそれは推測せずにはをれぬのだ。

 

満天の星空を眺めながら

それらの殆どが球体をしてゐる事に思ひを馳せて独りほくそ笑む私は、

まるで大発見ををしたかのやうな錯覚の中で、

自尊してゐる馬鹿者に過ぎぬが、

さうであっても尚、

此の宇宙に無数に球体が存在すると言ふ事は、

此の宇宙には四次元で次元にけりがつく歴然とした根拠があるとは思へず、

球体は此の宇宙がその突破口として、

むしろ、少なくとも五次元は必ず存在する事を示唆するに十分な程、

球体が此の宇宙に存在する事は、

重大事件なのだ。

それに全く気付かぬ馬鹿者は、

此の世が三次元であるなどと言ふ惚(とぼ)けた事をぬかしてゐるが、

その根拠を問ふてみても誰一人全く以て理路整然と述べられる者はをらず、

況してやその根拠が無い事を徹底して知るべきであり、

そもそも此の世が三次元であると無根拠に決め付ける理由は全く以て存在しないのだ。

つまり、此の世は余剰次元が存在する事が全く以て腑に落ちるのだ。

 

論理が制圧に失敗した神話が再び猛威を振るふ時

 

初めにLogos(ロゴス)ありき、と刷り込まれて来た現存在は、

何時の間にやら図に乗って論理で全てが制圧出来ると錯覚する事で、

邯鄲の夢を不知(知らず)不識(識らず)見てゐたのであったが、

然し、世界に現はれた綻びは最早彌縫出来ぬまでに拡大し、

その裂け目からはにたりと不敵な笑みを浮かべた異形の神神が顔を覗かせては、

何時、泡沫の夢に溺れた現存在を喰らふかの算段をしてゐるのであるが、

そんな事など努努(ゆめゆめ)知らぬ現存在は、

――ウラー! Logosが此の世の王なりし!

と、尚も狂宴を繰り広げてゐるのだ。

 

現存在は、果たせる哉、世界として自然を制圧出来なかった故に

またぞろ、太古の神話が目覚めの時を迎へ、神話の世界が甦るのだ。

人智を超えた自然の出来事が次次と現存在に降り懸かる段なった現在、

自然現象に絶えずおどおどしてゐた太古の人人と同じやうに

現代を生くる物理学を以てして自然を理解してゐる現存在は、

尚更、世界として終息出来なかった自然に対して、太古の人人と同様の畏怖の念を抱きつつ、

歎息するのだ。

――嗚呼、時代は巡るのか――。

自然現象を数理的に解釈し得ても、

現存在は自然の脅威に対しては全く歯が立たず無防備な憾みを、

太古の人人によりも強烈に植ゑ付けられてゐて、

自然の脅威は人工世界の未成熟さも相俟って、

その脅威は極度に増幅されて、

最早、現代都市では受け止められぬ程に、

その脅威は不適な笑みを浮かべて、

現存在を喰らふ隙を何時如何なる時も狙ってゐるのだ。

現代とは、つまり、自然に対する敗北でしかなく、

そのMonument(モニュメント)が現代都市といふ人工世界の無様さなのだ。

 

神神しい人よ

 

汝、神々しい人よ、

汝はその内面の美しさを表に、否、面に顕はし、

吾が魂魄を鷲掴みにす。

汝が神神しさは、

正しく女神と言ふに相応しく、

汝の存在は、

世界に閃光を走らせる。

 

そんな汝に一目惚れしてしまった吾は、

最早汝の一挙手一投足から目が離せず、

何故にそんなに汝は魅惑的なのか。

 

汝曰く、

――私、メンヘラなの。私の何処が好き?

 

その物言ひが即ち既に神神しいのだ。

そして、汝の言に次いで吾宣ふ、

――あなたのその上品で繊細、そして率直な物腰が好き。

――どうして会ったばかりなのにあなたにそんなことが解るの?

――だってあなたは既に存在してゐるから。

――それぢゃ、答へになってゐないわ、うふっ。

 

さう言って微笑みを浮かべし汝が面は、

ほんのりと羞じらひ上気して紅色に染まり、

吾を更に蠱惑して已まぬのだ。

 

その時、世界も微笑み、

月も羞じらひにその面を紅色に染めて地平線より昇り、

汝が美しさを祝福す。

天の川の星星は、

一条の流れ星を降らせて、

吾が汝の存在を見出せたことを祝福す。

 

独断的なる五蘊場試論 その三

 

命題:外部の出来事はいづれ内部の五蘊場内の出来事に収斂し、さうして吾は自己の限界を自覚する。

 

証明:先づ、外部とは何かを証明せねばならない。外部とは、吾が吾の存在の膨脹を断念した処にぱっと視界が開ける《限界》を知る事で、漸く吾が吾の存在の限界を自覚した事を意識する事のそれが外部である。

つまり、フィヒテではないが、《自我》と《非=我》の境、それは、自己の限界を否応なく自覚せざるを得ぬ《自我》の《無》、そして《非=我》の《無》を豁然と自覚し、無において《自我》はその有り様には堪へられず、吾は「ええい、ままよ」と《自我》の無を引き受けて限界を定立する。その容れ物として脳と言ふ構造をした五蘊場が表象する吾の仮象を以てして、吾は吾を知るのである。

つまり、吾を定立する事は、《非=我》を定立する事であり、それは詰まる所、無の陣地争ひに過ぎず、では、吾は無、若しくは無限をどのやうに知り得るのを問ひ糾せば、逆立ちしてでも吾は無、若しくは無限を把捉せねばならないのである。

故に吾が吾を自覚すると言ふ事は、《自我》と《非=我》の限界を無理矢理にでも線引きする事であり、それは吾をしてAcrobatic(アクロバティック)な思索が出来なければ、線引きするIrony(アイロニー)を受容する能力が、決定的に欠落してゐる事であり、それが出来なければ五蘊場を《でっち上げ》をする意味は全くなく、それらは「脳」の一言で処理してしまへばいいだけの事である。

 

結語:外部の出来事、つまり、世界の出来事は、最終的に五蘊場での表象としての仮象として受容される。その前提として吾は、無、若しくは無限において吾の限界を定立する事で、《自我》と《非=我》の線引きをすると言ふ余りにもAcrobaticな思考をする事で、吾のIronyを自覚する。

故に外部の出来事はいづれ吾の内部の五蘊場内の出来事に収斂し、さうして自己の限界を吾は否応なく自覚するのである。

 

思弁的実在論考

 

先づ、思弁的実在論は此の世は人間中心主義ではないといふ、日本人からしたならばとても当たり前の事をあれやこれやと理屈を捏ねくり回し、非人間中心主義である事を最終的には突き詰めたいのであるが、その捏ねくり回し方が何とも可笑しく、基督教の下、つまり、一神教が頑強に根を張る世界においては万物に「神」が宿るといふ「遅れた」Animism(アニミズム)、つまり、日本の八百万神を信仰する神道は、前近代的なるものとしA(ア・) priori(プリオリ)に退けられ、それ故に思弁的実在論は、何とも苦しい論理で飛躍に飛躍を重ねてある結論へと到達しようとするのであるが、然し、その曲芸紛ひの荒技で、思弁的に逃げ込むその遁走の仕方は、思弁的実在論が真っ先に禁忌する相対主義を退けられたかと言ふと其処に思弁的実在論の限界が露はになる。つまり、《もの》に相対する時、否、世界に相対する時、西洋的考へでは人間ばかりが《もの》と《もの》との指向性・関係性を求道する性癖を、痩せ我慢した上で、《もの》からその関係性を剥奪し、カント曰く処の《物自体》の何たるかを暴く事に血道を上げるのであるが、それは悉く失敗してゐるように見える。何せ、思弁的実在論の論理は概して強引で、それに対して肯ふ事は厳しいと言はざるを得ない。

 

例へば世界内存在の《もの》共がざわめく事があるが、西洋に脚を置く思弁的実在論者達はそれを何としても主観と無関係なる事であると嘯くが、その素振りが何とも不自然でぎこちないのだ。万物に「神」が宿ると看做す日本人からすれば思弁的実在論は、西洋思想の鬼子なのだらうが、しかし、その鬼子に鳩が豆鉄砲を喰らったやうに驚く西洋の人人のあたふたとしてゐるその様が何とも滑稽なのだ。世界内に存在する《もの》達に対して其処に何ら関係性がないとする相対主義に抗して、相対的に《もの》は《もの》に対して無関係に存在するといふ思弁的実在論者達は、しかし、数学と物理には縋るといふ愚行を行ふしかないのだ。尤も、数学と物理は「神」の癖を見出す学でしかない事を思へば思弁的実在論もまた「神」無しにはその論理世界を構築出来ないと言ふ事なのだ。西洋にも生存してゐた古代の神神を現代にも甦らせれば、態態思弁的実在論のやうに捻くれた論理で《物自体》に躙り寄ると言ふ徒労をせずとも西洋人にも万物に「神」が宿るといふ世界へと一足飛びなのだが、そもそも基督教の普及と共に地霊などの異形の神神を惨殺してしまった西洋の人人は《物自体》に至るにはどうあっても思弁的実在論なる偏屈な思想を経ずんば、納得出来ないかと思ふと溜息ばかりが出るばかりなのだ。

 

理不尽

 

問答無用に、また、何の悪びれる様子もなく、

つまり、眦一つ動かすことなく、

壊れた機械をうち捨てるやうに

私の首を切ったあなたは根っからの商売人で

『無駄』と思ったものは

片っ端から切り捨てて、

それでも泰然自若としてゐられるその神経が全く信じられぬのであるが、

しかし、それがあなたのこれまでの人生で身に付けた流儀ならば、

それはうち捨てられ首を切られたものにとっては理不尽でしかない。

 

『問答無用』、これがあなたの頑なな流儀で、

こちらのことは全くお構ひなしに、

首を切れるあなたは、

さうしてこれまで『成功』してゐたかもしれぬが

その報ひは必ず受ける時が来る筈で、

その時になって初めてあなたは己がしてきた悪行の数数は

『反省』といふ様相に変容するかも知れぬが、

あなたによって問答無用に首を切られた数多の人人は

一時的かも知れぬが路頭に迷ひ、一生癒えぬ心の傷を負ひ、

此の世の理不尽を嘗め尽くして初めて立ち直れることを

あなたは知ってゐるのか。

 

平平凡凡と何食はぬ顔で今は生きてゐられるあなたは、

既にあなたによって理不尽に首を切られた少なからぬ人人の恨みを買ってゐて

思ふに良い死に様は送れぬと思ひつつも、

さうして吾を生き延びさせてきた『成功体験』から抜け出せぬあなたは、

むしろ此の世に翻弄させられた哀しい人間に違ひない。

然し乍ら、此の世の道理が立たぬ故に

あなたはこれからは辛酸を嘗め尽くし

明るい未来が横たはってゐるとは思へぬのであるが、

然し乍ら、『失敗』するまであなたは傲岸不遜を極めて

経営判断といふ名の下に

これから問答無用に何人もの首を切り、

吾可愛さに吾のみが生き延びる狡い生き方を

一生送って行く哀しい生き物に違ひない。

 

然し乍ら、その報ひもまた、必ず受けねばならず

それまではあなたは傲岸不遜な生き方を已められぬ可哀相な生き物として

虚勢を張りながら、哀しい哉、何時でも問答無用に人の首を切り続ける筈さ。

 

曖昧なるものの影は

 

うっすらとその姿を仄めかしてはゐるが、

あるともないとも判断が下せぬそいつは、

然し乍ら、多分、存在するのであらうが、

曇天の雲を切れ味鋭い日本刀で切り裂くやうにして、

そいつは、雲間に青空を齎すのである。

その抜刀の凄みは正しく達人の域に達してゐて、

そいつは、多分、空を自在に飛び回り、

さうしておれの五蘊場の穴蔵に棲まふのだ。

 

そいつは、おれの五蘊場の穴蔵の暗闇に包まれた中で、

ぎろりと鋭く光る眼差しを外部に向けて、

無精髭を生やしたおれの草臥れた顔に重なるやうに、

そいつは、不敵な笑ひを浮かべてはおれを隠れ蓑にして

否、おれを既に喰らってしまって

おれの乗っ取りにまんまと成功してゐるに違ひないのだ。

 

塀に囲繞されてゐるかのやうな

己の存在に身を焦がしてゐるおれは、

その塀を素手でぶっ叩いて

穴を開けようと、それが無益な行為と重重知りながらもさうせずにはをれぬおれは

然し乍ら、蜿蜒とその行為を繰り返すしか能がないおれは

嗚呼と、空を見上げては、

そいつの亡霊を目で追ひかけるやうにして

そいつがぶった切ったであらう雲の切れ間に見える空色に

そいつの仄かな仄かな仄かな影を見据ゑては

それが錯覚であると言ふ事を錯覚であると厳然と認識してゐながらも

錐揉み状にその錯覚の中に身を投じては、

おれは身悶えしながら、次次と雲を惨殺しながら、

蒼い空色を求めては

おれの五蘊場に棲まふであらうそいつを引き摺り出さうと

おれはあれやこれやの手練手管を労しては

結局は、無精髭面のおれの顔を鏡面に見出すばかりなのだ。

 

 

鋭い犬歯で剔抉された中指上部の傷から

どくどくと血が溢れ出すのを目の当たりにしたおれは、

それが将にこのおれに相応しい傷として

目に焼き付けるほどに凝視す。

 

その深い傷は、中指ばかりではなく、

おれの心も剔抉したのだ。

その心の傷手は、

これまでおれが目を背けて来た心の急所を見事に抉ってゐて

おれはへらへらとその心の急所を剔抉された己を嘲笑ふ。

さうすることでおれは、それでは何をしておれなんぞにとほざいて来られたのかと

大いに嘲弄したのだ。

さうすることで、おれは己に対する忸怩たる思ひの溜飲を下げ、

さうしてそんなおれをおれは簡単に見捨てたのだ。

そんな悲痛な感情を一時たりとも持ち堪へられず、

おめおめとおれを簡単に見捨てられるおれは、

その足下に泣き崩れるおれの幻影を凝視せねばならぬのだ。

 

しかし、おれはそんな幻影なんぞは捨て置き、

今も尚、血がどくどくと傷口から溢れ出しす手を一振りして血を払ひ、

己で己を嘲弄する欺瞞に対してぺっと苦苦しく唾を吐く。

さうして唾棄されたおれは、新しく生まれ変はれるのかといふと、

決してそんな事はなく、

おれの足下に泣き崩れたおれの本性にびんたを食らはせて、

おれはそうやって大地に屹立す。

さうして漸くおれはおれの羸弱(るいじゃく)さにはっきりと見切りをつけて

おれの幻影をこれまた架空の日本刀でぶった切るのだ。

さうして幻影から吹き出す血を全身で浴び、

血腥い動物の臭ひを身に纏ひ、

漸く人間の顔を、つまり、仮面を被るやうにして此の世におれの顔を晒すのだ。

 

予知夢

 

瓦礫の山の上で、

おれは誰かおれの知り合ひの名を叫んでゐる。

街は壊滅的に破壊し尽くされ、

それでも生き延びた幸運な人人は、皆大地震の脅威に身震ひしてゐる。

 

これはどうやら近近、地球の何処かで、もっと言へば近隣で、大地震が起きる前兆のやうだ。

何時も大地震が起きるときはこんな風な同じやうな夢を見る。

その夢が夢としては余りにも出来過ぎな為に夢中のおれは、

それが夢なのか現実なのか夢見中は判然としないのだ。

つまり、その悪夢に逼迫したおれは、

命からがら生き延びてゐるのだが、

生き延びてゐる事もまた、夢でしかないのかも知れぬ。

 

しかし、また、死屍累累と死体の山が築かれるのは火を見るよりも明らかで、

さうして瓦礫の山を呆然と見詰める人人は、

自然に対する無力感に我が身を疑ふ。

 

生死を分けるのは最早運でしかなく、

人間の無力感を噛み締めるその時、

果たせる哉、人間の出来得ることは僅少に限られてゐて、

それこそ正しく他力本願に身を委ねるしかないのだ。

 

動乱の世、宗教が再び脚光を浴びるに違ひなく、

暴力的な自然の振舞ひに対して、

論理で固められた《世界》なんぞは

自然の前では一瞬で瓦解するのだ。

 

しかし、それで良いではないか。

所詮、《世界》なんぞは現存在の夢想の王国に過ぎぬのだから。

自然の猛威の前に《世界》が一溜まりもないのは、

未だ、現存在の論理が未熟故の事、

況や人工知能に何が出来ると言ふのか。

何故ならば、人工知能は多分、夢を見ない。

それ故に人工知能は自然の驚異の前に無力であって、

しかし、地震が起きた事後、

人工知能は無慈悲に生命の選別をし、

その事は心的外傷として震災を生き残った人人の胸に

「残忍」としてずっと去来し続けることになるに違ひない。

 

所詮は何事も無力でしかなく、

その虚脱感に疲労困憊する罹災民は

その絶望的な状況が骨身に染みて、

しかし、人工知能ではなく、他者の慈悲を知る事となる。

 

神はさうして基督者におけるヨブのやうに人間に災厄を授け、

自然をして《世界》の破壊に立ち上がるのだ。

決してこれまで自然と世界が一致した事はなく、

《世界》とは現存在の論理で構築された夢物語の一種に過ぎぬのだ。

 

さて、自然はその破壊力を持て余し、

忍従をこれから人人に強ひる事になるが、

再び現存在は《世界》を仕切り直して《新世界》を構築しなければならぬのだ。

 

自然と世界の狭間で

 

自然と世界との差異とは、敢へて言へば自然には神神が住まふ神話が息づいてゐるが、世界に対しては初め人間は自然に謙虚に畏怖の念を抱きながら、自然の理を紐解く事に全身全霊を注ぎ、論理で自然を再構築する、即ち論理的世界を構築する事で稠密な論理で編まれたものを世界と看做し、疑似自然として世界を造り上げたのである。さうして人間は何時しか世界が自然を凌駕したかに見えた単なるお山の大将でしかない思考による此の世の春を迎えた錯覚の中にゐて、尤もそれは認識論的誤謬が人間の論理的世界には必ず含まれてゐる事を示すのであるが、此の世の春は短くて論理が鉄壁と思はれた世界は余りにも脆く、人間の想定を超えた自然の振舞ひ、つまり、神神の振舞ひに対して再び恐れ戦く時代がやってきたのである。それは正しく再び人間は太古の昔の神話の中に紛れ込んだと思ふに違ひないのである。しかし、後付けながら人間は飽くまで自然の事象を論理的説明をする事で荒ぶる自然を世界に留めおかうと必死なのであるが、自然が想定を超えて荒ぶるそれを正しく予知して論理的な結論を導き出すといふ事は年を追ふ毎に難しくなって行き、もっと言へば自然は簡単に人間の想定なんぞ飛び越えてしまふのである。つまり、世界は自然に対して敗北したのである。人間の論理的世界観には奢りがあったのだ。最早、自然を論理の網で捉へる事は至難の業なのだ。

ならば、人間を超えた人工知能に頼るのか? 過去の自然の事象を全て機械学習した上で、例へば人工知能が明日の自然の事象を予測するとして、果たせる哉、それは予測は何ぼでも出来ても寸分違はずに予測できるかといふとそれは不可能に違ひなく、人工知能が機械学習する範囲は億年単位でなければ、精度が高い明日の自然の全事象を予測など出来る筈はないのである。

夜空を見上げれば、そこには光害がなければ非常に美しい天の川の星星や銀河や惑星、そして深い深い深い闇などが見える筈で、しかもそれらは当たり前なのであるが全てが過去の事象なのである。とはいへ、そこにはこの天の川銀河の未来に起こりうる事象もある筈で、宇宙を見渡せば、全てが過去の事象なのであるが、しかし、その中には天の川銀河、または地球の未来を映した事象が見られる筈で、宇宙の生生流転するその様は、最早過去の事象なの未来の事象なのかの区別はつかぬのである。去来(こらい)現(げん)が混交した渾沌の中でも、しかし、理がある自然に対して再び謙虚になって、例へば論理=神により荒ぶる自然を鎮守する、つまり、神話の中の神神を鎮めるには、世界を再再構築する事が必要で、それを造るには何故にその結論が導き出されたのか論理的に語り果せなければならぬ人工知能の結論の導出のBlackbox化を論理で解きほぐしてゆかねばならず、その智慧が果たして人間にあるのかが試されてゐるのである。論理信仰は論理=神を崇める事で成り立つのであるが、どうしたって人間は何事も論理化せずにはをれぬ生き物で、正しくそれは論理信仰の生き物で、それが果たして日進月歩で進化する人工知能のその結論を導出するBlackboxを人間は論理で説明出来るのであらうか。しかし、世界が破綻した以上、人間は何としても世界の再再構築を行はなければならず、荒ぶる自然の神神を鎮守する論理を手にしなければ、これから死屍累累の山を見続けなければならぬのだ。人工知能がどうしてそのやうな結論を導き出したのか論理的に説明できないうちは、人間は荒ぶる自然の神神に翻弄され続けられるのだ。宗教に救ひを求めるのがこの世界が破綻したときに起こる現象で、それが行き着くところは論理=神を崇める論理信仰、即ち「初めにLogosありき」を敷衍化して人工知能に対してどれほどに人間は肉薄出来るかに安息な日日の保証は懸かってゐるのである。

 

 

廻向

 

此の世の浮かばれぬ死者共に囲まれながら性交してゐると、

何処かから読経の声が聞こえてきて、

さうして汗とErotic(エロティック)な匂ひに塗れた性交は一気に抹香臭くなり、

とはいへ、おれは一気呵成に腰を動かして射精する。

女は子宮を痙攣させながら此の世ならぬ快楽の世界にどっぷりと浸かり、

生へと繋がるその端緒で

じわりと子宮に広がり行く精子の感触に身を委ねるながら、

今は動くのも気怠さうな昇天したが如きに快楽に惑溺しながら、

女は受精して子が出来るのを待ち望む。

更に読経の声は大きくなり、

性交時に立ち現はれてゐた死者共は

おれの射精と共に成仏したのか、

「えへら」と笑ひながら

皆姿を消した。

それは多分、死者共がおれの数多の精子に取り憑いて、

顔が今も上気したままの女の子宮へともんどり打って雪崩れ込んだに違ひない。

さうして生は繋がり、

死者は浮かばれるのか。

――南無阿弥陀仏。

阿弥陀如来立像が俺の眼前に忽然と立ち現はれ、

今生では決しても見ることはあり得ぬ笑みを阿弥陀如来は浮かべながら

おれの頭に手を置いたのだ。

――ねえ。

と、女は漸く正気に戻り、おれに接吻を強請(ねだ)る。

おれは女が望むままに女の口におれの口を重ねて、

舌を絡めながら、

此の世にあるのかどうかも解らぬ「愛」を貪り合ふ。

さて、これが廻向といふものなのか。

 

憂愁の中でも尚

 

気怠い日常が今日も過ぎてゆくが、

その中でも尚、吾は独り物自体を掴むかのやうに

漠然とした感触を何に対しても抱く中、

自然といふものの正体を見誤った結果として、

世界に溺死するのが吾の取り得る尤もな事で、

当然吾は何時も無闇矢鱈に息苦しいのは言ふ迄もない。

それでも吾は既に自然に馴致されてゐるので、

この漠然とした自然の中で、生くる術といふものは当然知ってゐる筈なのだが、

自然に去勢されたとしか感じられぬ吾は、

この正体不明な自然の傍若無人な吾を無視するかのやうな吾に対する振舞ひに、

吾は当然自然に対して憤怒するのであるが、

果たせる哉、吾は何に対して憤怒してゐるのかさへ解らず、

結局の処、吾の憤怒の向かふ先は、自然と吾に落ち着くのだ。

さうなると果てしない堂堂巡りが始まってしまひ、

吾は最早その堂堂巡りから抜け出す術を知らぬのだ。

その上、その堂堂巡りは何時しか快楽になってゆくのは必定で、

最後は吾が吾を罵倒する事にのみに吾の本質が隠れてゐるのではないかと悦には入り、

しかし、吾が吾を罵倒するをかしみに

自嘲する外ないのだ。

はて、とはいへ、当の自然に対する憤怒は何処へ行ったのかと訝りながらも、

吾が吾を罵倒する事が、自然の摂理であるかのやうに意を定めた吾は、

最早、その堂堂巡りから抜け出す事を善とせず、

只管に内向する吾の思考には何の疑念も抱く事なく吾は籠もるのだ。

さうして吾を罵倒し尽くした挙げ句に

吾は当然ながら疲労困憊し、

倦み疲れた吾は、不思議な事に吾といふものを断念し、

さうして吾は苦虫を噛み潰したやうに

唯唯、吾である事に我慢し、

自然を端から毛嫌ひする事で、

何とか吾と言ふ存在を此の世で保持するのだ。

ところが、自然は内部に籠もった吾といふものをいたぶるのは慣れたもので、

その手つきは芸術的なのだ。

それに感嘆しながら、吾と言ふ存在は自然の鼻息でさへ一溜まりもなく、

蟻を踏み潰すやうに、

自然は吾を根本から踏み潰すのだ。

すると、漸く吾は吾の存在の危ふさに対して思ひ為すのであるが、

その時は既に手遅れで、

吾は既に吾に対して何の感慨も抱く事なく、

吾は吾を簡単に棄てるのだ。

へっ、さうして棄てた吾は、

――はっはっはっ。

と嗤ひながら、

尚も卑屈に自然に対して媚びを売り、

さうして吾は漸く吾に対して我慢出来得るのだ。

 

 

世界にたゆたふてみたが

 

摂動する事を已めぬ世界は、

絶えず己に対して猜疑を抱いてゐて、

それ故に摂動せずにはをれぬのだらう。

その摂動する世界にたゆたふ事を

おれは試みてはみるのであるが、

しかし、ほんの少したゆたふた後、

おれは世界から弾かれてしまふ。

さうして世界は大欠伸をして

にたりと嫌らしく嗤ふのだ。

とはいへ、世界もまた深い苦悩の中にあるに違ひなく、

例へば世界を似而非自然などと呼ぼうものならば、

世界は瞋恚に顔を真っ赤にして、

さう呼んだものを踏み潰さうとするに決まってゐるのだ。

そもそも世界は自然とは相容れぬものであり、

世界は自然に対して反抗するものの筈なのだ。

さうして世界は自然を圧して

自然を成敗するのを使命としてゐるのであるが、

今の処、それは完全に失敗に終はってゐて、

世界は自然に対して優位に立った事などこれまで一度もなく、

敢へて言へば、世界は自然にいいやうにあしらはれてゐて、

自然の千変万化するその様について行けず、

自然を飼ひ慣らす事なぞ夢のまた夢。

何しろおれが、既に自然なのであり、

これまでおれが世界であった事など一度もないのだ。

そんなおれが世界にたゆたった処で、

それは爪弾きされるのが関の山で、

元元おれと世界は相容れぬ関係なのだ。

ならばと世界にこだはるおれは、

世界をぐにゃりと握り潰して、

世界を再構築する傲慢を為さんとするのだが、

それこそおれの横暴であり、

世界に対して義を欠いてゐるとしか言ひやうがない。

それ故におれは世界にたゆたふてみるのだが、

何時も弾き出されて、

世界が大欠伸をする様を見ては、

世界がにたりと不敵な嗤ひをその相貌に浮かべるのを見るばかりなのだ。

どうしてかうも世界と相容れぬのかと苛つくおれは、

世界の臀部に齧り付いては

世界が吃驚して痛がる様を見ては憂さ晴らしをしてゐる小心者でしかないのだ。

 

 

憂鬱の先に

 

この何とも度し難い憂鬱の時間を遣り過ごした先に

暗澹たる時間が待ってゐるといふことに対して、

おれはこれまで何度詠嘆しただらうかと問ふてみたところで、

この憂鬱の先には更なる憂鬱なる時間が待ってゐるだけなのだ。

それは正しく底無し沼に嵌まった如く

最早其処から脱することは自力では不可能なのだ。

唯、我が胸奥に去来する憂鬱よ。

お前はそれでもおれを丸呑みすることは躊躇ふ。

それは何故かと問ふたところで

お前はニヒルに苦笑ひするのみで、

ぷかっと煙草を吹かしながら、

黙したまま何にも喋っちゃくれない。

こんな夜更けに限って深深しく肺を吐き出すやうに咳き込む犬の不安に呼応するやうにして、

おれも一つ咳払ひしては、

この度し難い憂鬱に囲繞されたおれを吐き捨てる。

この夜更けに犬とこのおれ以外に咳(しはぶ)くのは何ものか。

そいつはおれを嗤ひ、さうして、おれをまたもや憂鬱へと誘ふのだ。

何をしておれがかうも憂鬱なるかは何時も解らず仕舞ひであったが、

しかし、おれはどうしやうもなく何時も憂鬱なのだ。

またもや犬が胸奥に異物があるが如くに深い深い咳をし、

その犬はもう死期が近いといふ合図を送りながら、

おれの憂鬱を祝福してゐるのだらう。

分け入っても分け入っても深い闇ばかりのその状況で、

おれは、しかし、その闇から抜け出さうとする愚行はもう已めたのだ。

といふのも、幾らじたばたしたところで、

おれから憂鬱なる気分がなくなる筈もなく、

このどうしやうもない憂鬱と、

深く深く尋常でない咳を咳き込む犬が暗示する未来は、

暗いものしかあり得ず、

それでも死こそがこの苦しみから脱する唯一の方法だとして、

それを坐して待つのも乙なもの。

深く深く咳き込む犬のその咳に乗って

生気はゆっくりとその犬から失はれるその時、

おれはどん底の憂鬱の中で、

己の存在のどうしやうもない薄っぺらさに愕然とし、

それでも、何時かは死なせてくれるその時が来るまで、

おれはこのどん底の憂鬱の中で達磨の如く、

坐して死を待つことしか出来ぬのか。

それでも何かを仮に悟れれば、

おれのどうしやうもない人生でもめっけものではないのか。

 

 

疲れた

 

どうしようもなく、

例えば働き蟻が最期を迎へる時のやうに

疲れてしまってゐる。

そして、どうしようもなく眠くて、

おれは起き上がれないのだ。

こんな状態は日常茶飯事なのだが、

この疲労感は不快でしかなく、

それになんだかどうしようもなく喉が渇くのだ。

砂漠に水を撒く如く

おれは水をがぶ飲みし、

さうしてまた眠ってしまふ。

ところが社会的生き物として常に眠ることは許されず、

机のPersonal computer(パソコン)と睨めっこしながら、

眠い目を擦って安い賃金の仕事をする。

とはいへ、こんな状態だから満足な仕事は出来る筈もなく、

瞼は直ぐに落っこちて

気が付けばおれは眠ってゐるのだ。

「これぢゃ、いかん!」とその時は気を入れ直すのだが、

この眠気は如何ともし難く、

Personal computerを前に坐ったまま

おれは眠ってゐるのだ。

このどうしようもない疲労は、

もう何十年もおれを蝕み、

俺は何時もこのどうしようもない眠気と闘いながら、

覚醒時は起きてゐなければならないと日常を遣り過ごしてきてゐる。

起きてゐることが既に苦痛で、

このどうしようもない疲労は、

日を追ふ毎にその疲労度は増してゐるやうで、

おれはそれでも生活の糧を得るために、

眠い目を擦りながら

日日、仕事をしてゐるのだが、

この疲労から解放される日は

多分、哀しい哉、もう一生来ないのだらう。

 

煙草

 

矛盾してゐるのは重重承知してゐるが、

矛盾なくして真理無しと言ふ思ひがあるおれとって

おれが生きるのに必須なのが煙草なのである。

煙草の煙を胸一杯に深深と吸ひ込み

すると脳天が覚醒するかの如く脳といふ構造をした頭蓋内の闇たる五蘊場で、

ゆっくりと目覚めるそいつに対して

おれは煙草を飲むことで、ある種精神を麻痺させるやうにそいつとDance(ダンス)を踊るのだ。

煙草を飲めば飲むほどにそいつとのDanceは盛り上がりを見せ、

おれとそいつはくるくると独楽の如くに回るのだ。

その時の悦楽は言ふに及ばず、

煙草の作用と相俟って陶然とするおれは、

その時、はっと思ひ、そいつを問答無用にぶん殴るのだ。

さうしておれはおれの哀しみの鬱憤を晴らすと言ふ卑劣なことをして

突然にDanceを終はらせる。

おれにぶん殴られたそいつは、だんとぶっ倒れるが、

直ぐさま立ち上がり、今度はそいつがおれをぶん殴るのだ。

おれはその一撃で脳が揺れて

心地よい気分の中で卒倒する。

さうして暫くぶっ倒れたまま、

篳篥(ひちりき)と笙(せう)の響きの幻聴を聴きながら

魂魄は一足先に羽化登仙してゐて、

とんでもなく平穏な時の流れに身を委ねる愉悦に心も穏やかに

何時までもその時間の快楽を貪り食ひながらも

やがて、おれの内部でむくりとその頭を擡げるそいつは、

にたりと嗤って

おれにばしゃっと水をぶっかけ、

おれをぞんざいに扱ひ乱暴に覚醒させては

そいつはおれをもう一発、力を込めてぶん殴り、

おれはそのまま気を失って

気が付けば宇宙を旅してゐるのだ。

さうしておれはやがてBlack(ブラック) hole(ホール)に呑み込まれて

時空に雲散霧消するおれを心底味はふことになるのだ。

しかし、煙草の匂ひが何処からして来て、

不意におれは目を覚ますのだ。

さうして、これが全て白昼夢でしかなかった憾みを胸に抱きつつ、

煙草の煙を深深と吸ひ込み、陶然となるのだ。

 

 

呆然と

 

呆然と見送るしかないのでせうか。

あなたは労咳のやうなドスンと腹の底に響くやうな咳をし、

日日衰え行くその命の灯火は、

正しく風前の灯火。

消えゆく準備をするやうにして

既にお別れの挨拶をして回るあなたは、

自身の命が長くないと観念してゐるのでせうか、

不思議と平穏な表情をし、

私にkissをするのです。

それがあなたに出来得る最大のことであり、

石膏のやうな時空の中を藻掻きつつも、

あなたはDeath(デス) mask(マスク)を時空に既に残し、

そのあなた自身の姿は二重、三重に揺れるのです。

それが死相といふものなのでせうか。

時空をConcrete(コンクリート)のやうに固めることで、

漸く此の世に縋り付くのです。

それでいいのでせう。

あなたは腐乱した死体のやうな臭ひがする息を吐きながらも

飛びっ切りの笑顔を見せては、

私を愛撫するのです。

その愛しさの一つ一つを私は記憶に刻印し、

あなたの此の世の存在した証を今、抱き締めるのです。

どす黒い咳がありまして、

幾月かの残りの生が散りゆくのです。

さうして残されしものは、

あなたを脳と言ふ構造をした頭蓋内の闇たる五蘊場に棲まはし、

永久(とは)の一条たるその一端を見出すのです。

どす黒い咳がありまして

哀しみは日日深くなり、

間もなく死に行くものがゐるのです。

さうして時空は凍り付き、

闇ばかりが濃くなるのです。

さうして月日は無情にも流れゆき、

あなたは最期を迎へるのです。

 

 

逆立ち

 

ヘーゲルではないが、

生の世界が存在するならば、

その逆立ちした超感覚的世界、

つまり、死の世界が生の世界に同居してゐなくちゃならない事を

嫌と言ふほどに知る今日この頃なのである。

お前がもうすぐ死の床に就く段になり、

ヘーゲル曰く、Image(イメージ)出来ず、Imageする事を禁じた逆立ちした超感覚的世界は、

生に対しては死をそれに対することに相成るが、

例へば生力と言ふ言葉があるとして

生力が衰滅すると死力が思はず此岸に顔を出し始め、

やがて死が存在を蔽ひ尽くすと言ふ時の流れに、

不生不滅なるものがあるとしたならば、

それはやはり、魂魄といふものに違ひなく、

存在の死後、此の大地を彷徨する魂魄は、

小さな小さな小さな発光する水晶玉の如きものかもしれず、

仮にさうだとするならば、

死す瞬間、生力は赤色巨星が爆発して死滅する如く、

四方八方へと生力は解き放たれて、

その残滓がおれの視界に囚はれるのさ。

そして、それはくるくるとおれの視界の縁を経巡り、

それは終の棲家としておれの脳と言ふ構造をした頭蓋内の闇たる五蘊場に棲み着いて

片時もおれから離れることはなく、

おれとお前の魂魄は輪舞曲に合わせて輪舞を舞ひながら

楽しき時を過ごすとしても、

やはり、死は惜別の情を湧き起こし、

落涙せずにはをれず。

その雫の一つ一つは、

お前の魂魄と共振し、

生が死へと相転移する事で

お前は逆立ちした超感覚的世界へと移り棲み、

おれの生力を喰らってはおれの無様な生を

高みの見物と決め込んで、

死を生き永らへるのだ。

 

ちょっ、此処に一つの統一の形が確かにあるなんだぜ、お前よ。

 

重さ

 

そのお前の死体の重さに

俺はお前の無念やら悔しさやらの念の重さをひしひしと感じたのだ。

お前は死の直前まで東を向きながら、

最早眠っては死すると言ふことをはっきりと知りつつ、

よろめきながらもしっかりと前脚で踏ん張りながら、

それでもお前はおれに愛想を振りまき、

さうして死力を尽くして死に抗ってゐたのであったが、

しかし、到頭、力尽き、何処にそんな力が残っていたのか、

体を引き摺るようにして西を向いてぶっ倒れて死んでしまった。

お前は犬と言ふ種ではあるが、

お前はホモ・サピエンスと同じやうに死といふものをきちんと認識してゐた。

さうぢゃなきゃ、数日眠らずに次第に死へと移行することを拒みながら、

死すまで過ごす筈はないのだ。

眠り即ち死を意味するその最期の時は、

お前にとっての一大事であり、

さうしてお前の生の集大成は成就したのだ。

西方浄土とはよく言ったもので、

お前はそれまで東を向いてゐた体躯を

西へと向けて更に西の方へと躙り寄ろうとしながら

斃れてしまったのだ。

お前の最期の振舞ひから推し量るに

太陽が昇る東は生を象徴し、

太陽が沈む西は死を象徴してゐると言ふのか。

ホモ・サピエンスよりも本能が多く残ってゐるだらうお前は、

本能的に東は生、西は死と言ふことを知ってゐたといふのか。

さうすると仏教の教へは正しいと言ふことなのか。

それにしてもお前の最期は何と神聖な雰囲気が漂ふものであったのか。

死期が近付くにつれて辺りには香の匂ひが立ち籠めるやうに

芳しい香りが漂ひ、

しかし、辺りはぴんと張り詰めた緊張感に満ち溢れてゐたのだ。

しかしながら、死神には勝てず、

お前はうとうとと気を喪ふ時間が次第に長くなりつつ、

ゆっくりと死へと移行していった。

その時俺は大粒の涙を流し、

お前をしっかと抱き締めて

――もう十分だ。楽になっていいんだよ。

と語り掛けたが、

お前は最期まで生に縋り付くことを尚も已めようとせずに、

死に抗ひ、そのいぢらしさが何とも愛おしかったのだ。

さうしてお前の遺体を持ち上げた時のその重重しい重さは、

俺の脳天をぶっ叩くやうな衝撃を齎したのだ。

その小さな遺体の何処にそんな重さがあったというのか。

きっと遺体には生前の年月の全ての念が宿るに違ひないのだ。

でなければ、あんなに重い筈はないぢゃないか。

 

十日目

 

わんころが死んで十日が経ったが、

どうもぽっかりと穴が空いた心は埋めやうもなく

其処にはわんころの面影がどんと坐ってゐて、

現実の日常世界とはまた違ふ時間が其処には流れてゐるのだらう、

其処では奇妙に間延びして日は昇り、そして日は沈むのだ。

そのわんころの面影は時空間を自在に行き来し、

おれの思ひ出と縺れながら

摩訶不思議な歓喜とも悲痛とも言ひ難い時空間を編んで行く。

それは超-時空間と呼ぶべきもので、

おれとわんころは今も其処で楽しげに遊んでゐるのだ。

 

しかし、不在がそのものの存在の大きさを照射する不思議に

目眩みながらもおれはわんころの色褪せさうにない面影と戯れつつ、

それが単に虚しい遊びでしかないことは解ってゐるのであるが、

おれはわんころの墓に線香と餌をあげて

さうして、空を、蒼い空を見上げる。

しかし、其処でもわんころは楽しさうに走り回ってゐて

わんころの面影はおれの網膜に焼き付けられた如く、

何処を向いてもわんころの面影が見えてしまふ

哀しさとをかしさが奇妙に入り交じった感情をおれは持て余しながら、

おれは此の世の大地に屹立するのだ。

このことはわんころの死の余韻に今も耽ってゐるおれの

長い時間をかけてのわんころとの別れの儀式であって、

わんころの面影が自在に現はれる今は、

まだ、哀しみが辺りに漂ひ、

俺の周りの薄膜のやうに薄い薄い時空間は噎び泣いてゐるに違ひない。

 

わんころの面影を流れ星を追ふ如くに目を凝らして凝視し、

もうこの世にはゐないわんころの、

自在を身に付けてしまったその有り様に感嘆しながらも、

それはわんころの念が為せる業との思ひを尚更強くし、

わんころの念は今も此の世に確かに存在してゐることを

何の疑ひもなく無頓着に信ずる阿呆なおれは、

わんころが残した首輪を手に取り

確かにわんころは死んだと言ふことを受け容れる度量を持たねばと、

死んだわんころに促されるやうにして自身を納得させるのだ。

しかしながら、超-時空間を自在に出現させては

わんころの面影と戯れることを毎日楽しみにし、

しかし、さうして哀しみは尚更深くなって

ぽっかりと穴が空いたおれの心は

おれの嗚咽をも呑み込んでしまふことで、

また一つおれの心に底無し沼が一つ出来上がってゆくのだ。

そして、おれは心に既に幾つもある底無し沼群と同様に

その底無し沼を後生大事にして、

最後におれ自身が底無し沼に呑み込まれる夢想を思ひ描いては

悲痛な自嘲をぼそりと漏らすのだ。

――ぐふっ。

と。

 

十六夜

 

不図、目が覚めると時計は夜中の二時丁度を指してゐた。私は一度目が覚めてしまふと、もう二度寝は出来ないので、真夜中にもかかはらず、珈琲を淹れ、人心地就いたのである。

――さういへば、今日は十六夜の月ではないか!

昨日の中秋の名月も美しかったが、私は満月よりも少し控へめで、不完全な、つまり、盛りを過ぎたとでも言ふべきか、そんな十六夜の月が好きであった。それは満月のやうな、気を抜くとその輝きが光の矢となって私に突き刺さる程の光度はなく、ほんの少しではあるが、下弦が欠けるその十六夜の月が放つ柔らかい光は、闇好き、否、闇気狂ひの私には、それが丁度良かったのである。

中秋の名月程の厳めしさはなくとも十六夜の月は星が鏤められてゐるとはいへ、昼間に比べれば、闇と言へるその夜空で凜としてゐて、詩情を誘ふのだ。例へば次のやうである。

 

十六夜に

吾を見つけて

影動く

それを踏んでは

影肩で嗤ふ

 

ユリイカと

叫んでゐるのか

鈴虫の声

 

私は珈琲を飲み干すと真夜中に散歩に出たのである。月は既に西南西の空にあり、沈み行くのを待ってゐた。時折、雲が懸かるのであるが、十六夜の月の光は雲を照らし、、鰯雲が月を中心に放射状に棚引いてゐて、それが旭日旗を思はせる、または、西方から死の光を放ち、死を、全ての死を祝福してゐるかのやうな、壮麗な情景を形作ってゐた。

私はその光の条に最近死んだ愛犬の姿を投影しては、

――よく生きました。

と呟いたのである。

 

深夜の彷徨

 

今は亡きものの影絵を追ふやうにして

居ても立ってもゐられずに

おれは雨降る深夜に外出し、

何処へ行くなど宛などなく、

深夜の彷徨を始めたのであった。

それは、この午前二時過ぎ辺りに

魑魅魍魎共が彼方此方で跋扈してゐるのではないかといふ

わくわくと期待に満ちた彷徨で、

将又、亡きものの魂が彷徨してゐるのではないかといふ期待に胸膨らませ、

闇夜の中、目を凝らしながら、

ゆっくりと一歩一歩を踏み締めるやうに歩いてゐると

過去、現在、未来、つまり、去来(こらい)現(げん)はその秩序を失ってゐた。

即ち、時制の枠を取っ払ひ、過去、現在、未来が横一直線に並んで、

存在してゐるのであった。

すると、おれが愛し、今は亡きもの達は

皆、笑顔ではしゃいで立ち現はれ、

己が亡きものであることをそれらは忘れてゐるやうに

それはまるで映画の回想Scene(シーン)が観るものにとっては正しく現在になる如くに

生き生きと現はれたのであった。

嗚呼、懐かしいもの達よ、

お前達は今も息災であったか。

ふっ、異形のもの達を友にして

過去に、つまり、回想の中に閉ぢ込められることなく、

お前達は良い齢の取り方をしてゐるぢゃないか。

楽しさうで何よりだぜ。

――うん? 何処へ行くのかね。ああ、さうか。

おれはそれとは全く気付かずにゐたのであったが、

知らぬうちに墓場にゐて

独りぶつくさと独り言を言ってゐたのかもしれぬ。

其処に永眠してゐるもの達は

全てがおれに縁があるわけではないが、

しかし、ここでかうして会った以上、

それは多生の縁であり、

おれの友達になったのであらう。

墓場に永眠するもの達は

真夜中、人知れず起き上がり、

友が来るのを待ってゐて、

宴を催す楽しい一夜を毎日過ごしてゐるのだ。

――幽霊は歳を取らないぜ。

と誰かが言ってゐたが、

それは全く間違ってゐて、

幽霊も日日歳を取り、

幽霊がどうしても見えてしまふ友の来るのを待ち続けながら、

毎夜、墓場は祝祭で馬鹿騒ぎなのだ。

だって、さうだらう、

おれは真夜中の猥雑でありながら威厳のある墓場が大好きなのだから。

 

そこはかとなく

 

そいつに対してそこはかとなく湧き上がる恐怖心は、

如何ともし難く、

唯唯、おれはそいつに平伏するのみなのだ。

それでゐておれは、面従腹背を地で行くやうに

そいつが一瞬でも隙あらば、

そいつの首をかっ斬る覚悟で、

ぎろりと目玉だけを動かし、

そいつの一挙手一投足に目をやりながら、

それでゐておれは、

おれの内部で蠕動するものがおれを嗤ってゐる

そのおれの鬼子にも手を焼いてゐるのだ。

どうしてもおれはおれとして

統一出来ないおれは、

それでは何を以てして

おれはおれと言ってゐるのかと

自嘲するのであるが、

そもそもおれと言ふ存在は、

これまで一度たりとも統一したことはなく、

唯、おれと言ふ体躯が

その分裂してゐるおれを

何とか統一したかのやうに錯覚させる媚薬として作用し、

まんまとそれに騙されたおれは、

そのまやかしのおれに誤魔化され、

おれの体躯がおれの統一の象徴としてあることが

ちょっ、結局のところ、おれはおれを形作ってゐる約六十兆個の細胞一つ一つに分裂してゐて、

それをおれの体躯が統覚してゐると錯覚してゐるのだが、

と言ふのも脳と言ふ代物におれの体躯が従属してゐると言ふまやかしに誤魔化された振りをして

おれは、しかし、金太郎飴の如く紋切り型に現はれるおれのやうに

将又、何処をどう斬ってもおれの顔をした、

若しくは、おれの体躯のFractal(フラクタル)な縮小版として

その憎ったらしい顔を、または、体躯を此の世に晒すに違ひないのだ。

 

そこはかとなく湧き上がる

このどうしようもない悪感情は、

そいつの首をかっ斬ると同時に

おれの首をもかっ斬ることで、

安穏とした日常を取り戻し、

人生の終幕を図りたいことを

本当のところおれは欣求してゐるのだらうか。

 

 

野分け

 

現在は衛星写真で逐一その渦動する積乱雲群の様が解り、

直撃しても被害は少なくなったとは言へ、

野分け、つまり、颱風は今も畏怖の対象であることに変はりはない。

しかしながら、あの渦巻きは何と美しいのだらう。

渦巻く積乱雲群の下では暴風雨が吹き荒れてゐるのは重重承知してゐるが、

野分けの渦巻きの美しさは宇宙空間の渦巻き銀河を観る如くに美しいのだ。

そして、野分けは、おれをわくわくさせて已まないものの一つで、

それは約めて言へば、死と隣り合わせの状態が、

恐怖よりもわくわくした興奮状態を齎すからに外ならないのである。

どうしても死を身近に感ずる時、

生き物は、どんな種でも恐怖よりも高揚した興奮状態にあるに違ひなく、

つまり、生きてし生きるもの全て死を熱狂の内に迎へるに違ひないとも思へ、

恐怖に戦き震へるのは、まだ、死が遠くにあることの証左であり、

死が近しいとそれはもう狂乱に近い状態に変はるのだ。

熱に浮かされ極度の興奮状態に連れて行かれ、

吾なるものはそこで潰滅させられる。

さうして自ら己と言ふものを滅すことで、

死に溶解し、個は多へと変化(へんげ)するのだ。

しかしながら、恐怖や畏怖が伝染するやうに

熱狂もまた伝染し、

その時の狂乱にこそ、つまり、渾沌にこそ、

真なるものの一つの形は存在し、

身震ひするほどにそれはとんでもない高揚感を齎しつつも、

渾沌状態とは言へ、

其処にも死が存在すると言ふどうしようもない秩序といふ恥ずべきものは存在し、

つまり、吾は渾沌の中においても尚、前言と大いなる矛盾が生じるのであるが、

吾であることを已めないのだ。

さうして見える未来といふものは、

死と言ふ、それこそ渾沌が大蛇の如くとぐろを巻いてちょろりと舌を出して、

吾を呑み込む愉悦へと導くのである。

しかし、それでも吾は吾であり続ける。

それと言ふのも、地獄へと堕ちた吾は、

吾を已めるわけには行かず、

否、吾であることが已められぬのだ。

吾が吾であるからこそ地獄の責め苦を味はへるのであり、

それは即ち、吾は死しても意識すらも失ってはならぬのだ。

 

漠然と――ヘーゲルのまやかし

 

何故にそんなに漠然とした書きぶりなのか。

思考したものの外濠を埋めるやうにして攻め立ててゐるのかも知れぬが、

ヘーゲルの筆の走り具合が途轍もなく曖昧模糊としてゐるのだ。

それで何かを掴まへやうとしてゐるのかも知れぬが、

そんな手つきだと何ものも逃げ水の如く永劫に把捉出来ぬ墓穴を掘るのが関の山だ。

そんなヘーゲルを崇めてゐる輩は、その漠然としたヘーゲルの書きぶりに拐かされて御心酔なのだ。

しかし、それは結局、何ものも名指しせずに、

責任を取らずに逃げの一手を打ってゐるに等しく、

数多の紙面を割きながらちっとも腑に落ちぬその書きぶりは、

おれに読解力がないにせよ、

しかしながら、その内容の乏しさは、如何ともし難く、

目を蔽ふばかりなのだ。

結局のところ、ヘーゲルはその大雑把な論法で

あり得べきもない「真理」の幻を「真理」として看做し、

虚しく空回りする論理に溺れてゐるだけなのだ。

また、当時の例へば科学的な見解を子どもが何の疑ひも抱かずに信ずる如くに持ち出して語るその手法は、

疾に時代に堪へ得ぬものに成り下がってゐるのであるが、

何をしてヘーゲルを崇める輩は

ヘーゲルにそれ程までに心酔出来るのか不明なのである。

そもそもヘーゲルの手つきの曖昧さは、

己の思考に酔ったものの為せる技であり、

それが多分、人を惹きつけるのかも知れぬが、

もう、いい加減ヘーゲルの時代遅れの論理に

「真理」を見たなどと言ふ世迷ひ言を言ふのは已めてくれ。

ヘーゲルの思想は当時の時代と寝たために

今や完全に時代遅れの産物でしかなく、

仮に其処に辛うじて今でも通用するものがあったとしても

それは一部分のことでしかなく、

全体としてはもう完全に色褪せた思想でしかないのだ。

しかしながら、ヘーゲルに「真理」をみたなどと言ふ頓馬なことを言ふ輩は、

ヘーゲルと言ふ名前に呑み込まれてしまった、または、説き伏せられてしまった馬鹿者でしかなく、

現代の渾沌の中にあることで何が生れるか全く分からぬ一方でわくわくする時代の中で、

ヘーゲルの遣り口は、最早手も足も出ぬ負け犬の遠吠えにもならぬ知のお遊びでしかなく

ヘーゲルを読んで「難解」を読み解いたと言ふのは読み手の自己満足でしかないのだ。

これも偏にヘーゲルが時代と寝た思想家と言うことに尽きるのであるが、

時代の最先端を走る例えば科学的な理論も百年もすれば黴が生えた古くさいものでしかなく、

普遍を求めるのであれば、それはとっても個人的な思考でものを考へること以外なく、

他者が考へたものは端から信用してはならぬのだ。

 

 

苦悶する吾はその事に快楽を感じてゐる

 

例へば歯痛が快楽と言い放ったドストエフスキイのやうに

苦悶する吾はその事に快楽を感じてゐるものなのだ。

苦悶がそもそも吾の有様に対する憤懣に過ぎぬとして、

――はっはっはっ。

と、それを嗤ふ吾に対して

空が堕ちてくると言った杞憂に等しく吾は端から吾の苦悶すると言ふ事を信じてをらず、

それでゐて途轍もなく深刻な顔つきをして、

鏡を覗き込んでは吾の其の顔に対して

――ぺっ。

と、唾を吐き、

苦悶そのものを馬鹿にし、

さうして吾は悶悶とした吾に対して溜飲を下げるのだ。

そんなやるせない吾は何を思ったのか時空間を喰らひ出し、

ぶくぶくと肥っては

過食症よろしく絶えず吐瀉しては苦悶を味はふ愚行を繰り返すのだ。

その間も呼吸する吾に対して怒りすら覚える吾は、

呼吸を止めようとあくせくするのであるが、

生きてゐる以上、それは全く不可能であり、

呼吸をする事で生き永らへる吾に対して尚更苦悶する吾は、

呼吸する吾に対して異議を申し立てるのであるが、

それに耳を貸す神さへをらず、

独り孤独を砂礫の如くに噛み締めながら、

苦悶する吾に更に惑溺しながら、

苦悶を既に快楽として味はふ吾は、

何を思ったのか、天に唾するやうに

我が手首にがぶりと噛み付いては、

その痛みを噛み締めながら

――へっへっへっ。

と嗤ひながらも噛み切った手首からどくどくと流れ出す血を見つめながら、

やはり、苦悶は快楽に違ひないと納得するのであった。

よく聞き給へ。

苦悶できると言ふ吾は既に吾に酔ってゐる吾であり、

その吾が為せる業など高が知れてゐて、

そんな吾が苦悶する内容など芥子粒にも劣るものに違ひなく

其処に肉体を伴った苦悶であってさへ、

それは快楽と紙一重に過ぎず、

しかしながら、苦悶する吾を鼻でせせら笑う事は

尚更吾を土壺に嵌めるだけであり、

そんな快楽でしかない苦悶から抜け出す術は

苦悶する事に酔ってゐる吾にある筈もなく

吾は只管に苦悶を喰らひながら、

絶えず吾の内部に鳴り響く不協和音の気味悪さを堪へ忍ぶのだ。

さうして何とも心地悪い吾に対して吾はそもそも吾が心地よい時があるのかとせせら笑い

そんな苦悶する吾に対して追ひ打ちかけるやうに吾は吾に対して鞭打つのだ。

さうする事でやうやっと吾は此の世で一息つけ、

世界の中の吾と言ふ逃げ場のない吾に対して踏ん切りがつき、

さうして吾は苦悶する吾に折り合ひをつけて切なくも生き延びるのだ。

 

湧出する観念に

 

止めどなく頭蓋内の闇、つまり、五蘊場に湧出する観念に翻弄されつつ、

身動きが取れなくなって

思考のみが右往左往するその哀れな存在は

仕方なく闇雲に観念を喰らふのだが、

観念の毒気に当てられ、意識を失ふ粗相をするのである。

その朦朧とした意識の中、

視界の中心にドデンと腰を据ゑる球体をした闇の塊は振動してゐて、

闇波を同心円状に発しながら、

かっとどでかい目を開け、

真っ黒き光彩の中の瞳孔は死人の如く開きっぱなしで、

それでゐて眼光のみは黒光りしながら此方を睨み付けてゐる。

一体これは何なのかと自問する間もなく、

眼前の真っ黒き目玉はルドンの絵の如く虚空を睨むやうな感じで

此方をずっと睨み続けるのだ。

闇波のどろりとした感触に辟易しながら、

何とか闇の目玉の向かうを見ようと苦心惨憺するのであるが、

闇の向かうはやはり闇で、

その闇を握り潰さうと手を伸ばしてみるのであるが、

肝心の手がないのである。

その間抜けぶりに不意に笑ひ声が漏れたのであるが、

時は既に遅きに失してゐて、

深い闇に飛び込むやうにして卒倒してしまったのだ。

暫くして、意識が甦生した後、

尚も観念が五蘊場で逆巻く中、

観念の餌とばかりに

闇に体躯を投げ出した。

さうすると一斉にその体躯に襲ひかかる不適な観念共は、

美味さうにその体躯を食ひ千切り、

骨までしゃぶりながら、

舌鼓を打って満足の態で食後の雑談に興じてゐたのである。

 

しかし、食ひ尽くされ抛り出された頭蓋骨の闇、つまり、五蘊場では

たった一つの観念がしくしくと泣きながら、

――俺は!

と、未来永劫、喚いてゐるのであった。

 

 

ものの有様

 

ものと言ふのは存在するだけで既に引力か斥力を発してゐて、そのいづれにも属さぬものは、ものとして認識されることはなく、あってなきが如くに意識の俎上にさへ上らぬ何ものと言ふ疑問符がつくものとして非在するものなのだ。しかし、その意識の俎上にも上らぬものの非在と言ふ存在の在り方が吾の存在に何らかの影響を与へてゐるから、存在とは一筋縄ではいかぬもので、意識上に上らぬからといって、無意識などに消えることはなく、非在と言ふ形で存在するそれらはそれらのものの存在を以てして人知れず恐れ怯えてゐるものなのだ。

私はそもそも無意識と言ふ考へには否定的で、無意識などは夢幻の類ひに違ひなく、無意識は現存在の有様において論理から食み出た非論理的なる狂気を覆ひ隠すためにでっち上げざるを得なかった前時代的な唾棄されるべき産物の残滓に思へるのである。それと言ふのも無意識によって闇に葬られしものたちの呻き声を一度でも聞いてしまったならば、もう無意識などと言ふ言葉でお茶を濁すことは不可能な筈で、それでも尚、無意識と言ふ言葉を使へる輩は思考停止してゐるだけに過ぎぬのだ。

非在と言ふ形で存在するものは、いつ何時意識上に上ってきて不意に虚を衝く形で襲ってくるかも知れず、存在は、つまり、此の世の森羅万象は、絶えず存在に怯えてゐて、意識上に上る上らぬの選別を意識的に行ってはをらずとも、何時も緊張を強ひられ、亀の如く、将又、蝸牛の如くに、何かあると直ぐに頭を引っ込める準備をしながらびくびくと此の世に存在するものなのだ。

さうしなければ、存在の存続は絶えず危険と隣り合はせで、例へば不慮の事故で絶命することも日常茶飯事で、つまり、いとも呆気なく死んでしまふ憂き目に遭ふ可能性に晒されてゐて、いつ何時でも死んでも何ら不思議ではないのだ。

存在を語る時、存在と言ふ言葉の周りをぐるぐると回る視野狭窄と言ふ悪癖がある私は、ちょっぴりとそれを避け、いなすようにしてみると、例へば時空間と言ふものは、普段は全く意識することはなく過ごさうと思へば、何の不自由なく過ごせてしまふのであるが、私にとっては時空間は絶えず意識せざるを得ぬもので、少しでも気を抜けば、時空間に押し潰される威圧感を感じる故に、或る種の強迫観念の如く、私にのし掛かるのである。その見苦しさといったならば、何とも此の世の時空間の中に存在することのとんでもない居心地の悪さは言ふに及ばず、そもそも私の此の世における存在に何か大いなる問題があるとしか思へぬ後ろめたさが絶えず意識され、此の時空間の中で生きることの罪悪感は、それはそれは醜いものなのである。つまり、私に限って言へば、時空間は何時も意識せざるを得ぬもので、その存在が、唯、存在するだけで私を苦しめるのである。

 

正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

 

ぢっと瞑目しながら

一休宗純の正月に杖の頭に髑髏を設(しつら)へて

「ご用心、ご用心」と叫びながら町を練り歩いたその思ひに

共感を覚えて仕方がない私は、

後、何回正月を迎へるのかと思ふと寂寞たる思ひが胸に湧き上がるが、

どう足掻いたところで

二百回の正月は迎へられず、

さうして毎年正月を迎へる度に、

死へ一歩一歩と歩を進めてゐることを痛感する私は、

さうだからこそ殊更に正月を寿ぐ。

とはいへ、私は正月を寿ぐとは言っても

餅を喰らふのみで、

つまり、日常生活に神聖な餅を喰らふといふことで「力」を、

即ち、神通力を得ることのみで満足なのである。

餅を「力」の源とした先人の知恵には感嘆をし、

例へば餅が入ってゐる蕎麦を「力蕎麦」といふそれは

とっても頓智が効いてゐて風情があり、

また、食べ物に対しての歓びに溢れ、且つ、食べ物が神聖たることに対しての恭しさがある。

死へと一歩一歩と近付くことを実感するそんな正月気分には、

神通力たる餅を喰らって

生き延びることを寿ぐその風俗に、

一休宗純の風狂がぴったりなのだ。

 

正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

 

この一休宗純の歌を以てして正月を寿ぐ私は、

百回目の正月を迎へられるかは知らずとも

それは正しく他力本願故の仕業であるが、

しかし、毎年、これが最期の正月と思ひ成しながら、

だから殊更に正月を寿ぐ。

 

しかしながら、私は正月を寿ぐことで、

安寧を得てゐるといふのか。

仮にさうならばその安寧は何処から来てゐるのだらうか。

多分、寿ぐことは生を寿ぎ、死を寿いでゐるのだ。

正月を寿ぐといふことは生死を共に寿ぐことである。

そんなことをつらつらと思ひながら私は瞑目し、そして、歌を詠む。

 

死を知るにそれを寿ぐ正月に餅を喰らふや胸渺渺と

 

 

何をして

 

何をしておれは耳許で囁くものを

一撃必殺で殺してしまったのだらうか。

そいつは影のやうにおれに付き纏ひ、

――ぷふい。

と嗤ったことがいけなかったのだ。

思はずそいつの胸から漏れ出たその嗤ひ声は、

おれの嫌がるところを突いてゐて

そのおれの嫌な面と共鳴し

おれを乗っ取らうとしたからなのだ。

へっ、おれがおれであることにそれ程に拘ってゐたとは

その時まで解らなかったが、

しかし、おれはおれに鳥もちの如くにべちゃりと執着し、

おれに躓きながらも

おれがおれであり続ける愚行に、

一縷の望みを抱いていたと言ふことなのか。

それにしても、おれはおれの耳許で囁いた奴を瞬殺したが、

何に対しておれはそんなにも激怒したのか解らぬながらも

そいつは確かにおれの逆鱗に触れたのは間違ひないのだ。

しかし、おれはそいつがその時おれに何と囁いたのかはもう覚えてゐないのであるが、

激怒したおれは、

そいつを血祭りに上げ、

おれがおれに対して抱いていた憤懣を

そいつをぶちのめすことで

憂さ晴らしをしたことは否定出来ず、

その時に感じた晴れやかな気持ちで

おれは久しぶりに飯を美味く喰ったことだけは覚えてゐる。

ところでおれが瞬殺したそいつは

おれの影であったのか。

ならば、おれは最早日輪の下に出ることは出来かねず、否、禁じられ、

そんな俺は唯、闇の中に居場所を見出しては、

さうして闇をしておれの影と嘯くおれは、

さうして闇に呑み込まれることがおれの本望なのか。

へっ、と嗤ふおれは

闇に溺れることに快楽を見出し、

闇に呑み込まれる安寧に胎内回帰の見果てぬ夢を疑似体験してゐるといふのか。

馬鹿らしい。

何もかもが馬鹿らしい。

真実を知ってゐるのはこの闇なのか。

日輪は欺瞞しかおれに見せずに、

黄昏時の夢現の境が溶け出す時に

真っ赤にその面を染めながら

空をもその存在を恥じ入る茜色に染め上げて、森羅万象を含羞に陥らせるのだ。

日輪は白昼に真実を照らし出すなんて嘘っぱちで

毎日、日出日没にその顔を赤らめなければ

顔を出せぬ日輪が真実を照らす訳がなからう。

それ故に何時もその表情を変へずに、

しかし、変幻自在な闇は

おれを誑かすには簡単至極な筈であるが、

そこには闇が先験的に持ってゐる何とも言へぬ哀しみが滲み出てしまひ、

それが闇の信用がおける部分であり、

それがおれが光よりも闇を信ずる理由なのだ。

 

 

ひたひた、ひたひたと

 

ひたひた、ひたひたと近付くものがゐる。

それは恐怖と言ふよりも

何かわくわくさせるものであった。

ひたひた、ひたひたと近付くものは、

此の世のものではなく、

彼の世のものに違ひないと思ふと

おれは嬉しくて仕方がないのだ。

何故かと言ふと、幽霊程わくわくさせる非在の存在、

それは非在の特異点にある類ひ希なる存在で、

特異点の居心地を拝聴するに

またとない機会であるからおれは嬉しくて仕方がないのだ。

非在の特異点は、

さて、存在へと相転移するのか、

相転移するのであれば、

それは存在に値するものなのか、

とはいへ、幽霊と言ふ此の世のものではない

彼の世のものとしてしか此の世に出現出来ぬその根拠は、

やはり、時間に関係してゐるのか。

斯様に訊きたいことが山程あるのであるから、

わくわくせざるを得ぬではないか。

ひたひた、ひたひたと近付くものがゐる。

それが仮に幽霊だとして

恐れる必要は全くなく、

どんな土産話を持ってくるのか楽しみでしやうがない。

非在の特異点は果たして存在の特異点でもあるのか。

もし、この類推が当たってゐるならば、

此の世に幽霊が存在しなければ

此の世は特異点に吸ひ込まれて

消滅する定めではないのか。

ならば幽霊が此の世を支へてゐて

つまり、現実はアトラスの如くに屹立する幽霊の頭で支へられてゐて、

特異点への現実の落下を食ひ止めてゐるのではないのか。

さあ、ひたひた、ひたひたと近付くものよ、

此の世に存在するであらう特異点を支へてゐるのが幽霊であると、

胸を張っておれに言ってくれないか。

 

 

憂鬱

 

憂鬱な日日は

紺碧な空から零れ落ちさうな

苦苦しき神の涙を飲み干す如くに

のっぴきならぬ苦悩に打ちひしがれて

打ちのめされるのであったが、

とはいへ、神の頬にびんたを食らはせようと

藻掻き苦しむ喜劇的な存在でもある私は、

アフリカの大地にその特異な姿を表はすパオパブの木の如く

根と枝が逆様のやうな様相を呈しなければ、

最早全く誤魔化しきれぬ己の心情に溺れることで

私の内部は逆立ちをし、

このどうしようもない憂鬱な気分を

ほんの一寸でも《ずらす》ことで嗤ひに変へようと躍起になったが、

それは悉く失敗に帰し、

私は更に憂鬱な気分に落ち込む。

最早立ち上がるのも億劫な私は、

薄ぼんやりと憂鬱に囚はれたまま

まんじりとせずに坐したまま、

ずきずきと痛む頭を抱えながら、

耳を切断したフォン・ゴッホの如くに

パイプ煙草を銜へながら

再び快活さが甦るその時をじっと我慢して待つ。

さうしてやうやっと生き延び、

死の甘い誘惑を退けながら

しかし、それが何時まで続くのか定かならぬことに焦れながら、

今は、只管、恋する女を思ひ

まるで崖っ縁に縋り付くやうにして

何とか私が私であることを保持してゐるのだ。

私を囲繞する時空間は

私の内部で重重しく打ち震へてゐるその悲しき振動に共鳴し

尚一層その音は私の哀しさを増幅させる。

内部に引き摺られれば最早二進も三進もゆかぬ私は、

しかし、この憂鬱に敗走に敗走を続け、

今もこの憂鬱に敗走を続けてゐる私は、

最早内部に湧出する憂鬱に溺死寸前の態で蟻地獄に落っこちた蟻の如く

藻掻けば藻掻くほどに蟻地獄の底へと落ちてゆく蟻のやうに

じたばたしながら憂鬱の底へと驀地(まっしぐら)なのだ。

 

 

神消ゆ

 

薄ら寒い冬空の黒雲を見上げながら

これまで透明だった神は

何時しか内部崩壊を始めてゐたせいで、

その腐り行く醜態を晒してゐた。

それは神にとっては恥辱ではあっても、

それは神が永眠するためには必要不可欠のことで、

その神の含羞が結晶の壊れた雪となって舞ってゐた。

神はその腐った悪臭漂ふ息を吐くと、

ひゅううっと、寒風が吹き荒び、

その寒風に混じった瘴気に当てられた私は、

鼻を曲げるやうな悪臭に堪へきれず、

ちん、と鼻をかみ、

その黄色く濁った鼻水を見ては、

嫌な顔をする。

さうして次第にぼろぼろと崩れだした神は、

内部が腐っても尚、凜凜しく屹立する大木のやうには行かず、

その哀れな醜態を晒すのみ。

それに礫を投げつける私は、

何とか一刻も早く神が永眠することを祈りながら

樵が斧で木を切り倒すやうに

神の足下を目掛けて礫を投げつけるのだ。

さうして次第に神の足下が削られ行くにつれて、

みしみしと音を立てて

腐った神は崩壊を始める。

それが鬱勃と湧き上がり崩壊する雲の如くに

腐った神もまた、雲の上へと倒れ行くのだ。

さうして朽ち果て崩れ散った神はぼろぼろの破片となり

雲の中で逆巻く風に舞ひながら

地へは雹となって降り注ぐ。

それと共に沸き起こる暴風に

家の屋根は吹き飛ばされ、

木木は根こそぎ倒されて、

やうやっと神は永眠の床に就く。

その日が永久の平和の始まりか、

それとも底無しの絶望の始まりかは解らぬが、

唯、神を永眠させられたといふ安堵の心は、

私の胸をいっぱいに満たすのだ。

つまりはこれで神をもうこれ以上晒し者にならなくて良く

神にとっては肩の荷が下りて、

もう自由にあの空を走り回って良いといふ永劫の悦楽に耽溺は出来、

神には永劫の解放が齎されるのだ。

それが至福といふものではないかね。

 

 

異端

 

時代を切り拓くのは何時も異端者である。

こんなことは今更言はずとも誰もが解ってゐることと思ふが、

それでも敢へてさう叫ばずば、

日常は常に反復の繰り返しであり、

其処には日常に波風を立てる差異は見られぬ日常が続くだけなのだ。

とはいへ、異端であることは常にどうしようもない不安に苛まれるが、

それに堪へ得るもののみが異端者であり、

それに堪へ得ぬものは端から異端者ではなく、

それらは自らを仔羊と称し、

今も尚、基督に己の任を委ねて、

それで下らぬ安寧を得てゐるのをいいことに、

のうのうと暮らして基督を仔羊に呪縛させることに敢へて気付かぬ振りをしてゐる

残酷な神殺しの殺神者の一味であり、

其の手は神の血で血塗られて

ぽたりぽたりと神の血が滴り落ち

生きる為のみ殺生をする真っ当な生き方をするものとは

真逆の、否、それは地獄行きが既定路線の神殺しの主犯格なのだ。

神との主従関係はその端緒から逆転してゐて

民衆は、基督を殺した民衆は、

神に仕へるものではなく、

顎で神を使ったお気楽な御主人様であり、

そいつらは何よりも己の安寧のみを追求するのに血眼で、

基督の苦悩、つまりは今も磔刑に処されたままの姿でしか

思ひ描かうとしない、余りに残酷な仔羊共は、

神の血がどうしても必要だったに過ぎぬのだ。

血の結束。

さう、ドストエフスキイの『悪霊』の登場人物達を例にすれば、

ピョートル・ヴェルホーヴェンスキイがシャートフの血を必要としたやうに

集団Lynch(リンチ)で神を殺すことが、

唯一、大衆を結びつけることが出来る最後の術であり、

それしか最早残されてゐない基督者達は余りに残酷でありながら、余りにも哀れなのだ。

これは基督者に限った話ではなく、

宗教で神を祭り上げてゐる宗教は全て神を血祭りに上げての神の血での結束でしかなく、

もう、其処から

――一抜けた。

と、異端者として生きるのみで、

それが神に対する心からの懺悔なのだ。

 

 

兆し

 

朝日が昇る中、

西の空を見ると白色化した月が茫洋と沈み行く。

唯、それだけだけのことなのに

とてももの悲しいのだ。

冷え込んだ真冬の朝のありふれた日常なのに、

ぼんやりともの悲しいのだ。

これは何かの兆しなのかと思はなくもないが、

どうせ碌なものぢゃない。

 

日常は残酷だ。

一つ踏み外すと、即、死の淵へと日常は追ひ込む。

何を大仰なと思ってゐる輩は知らぬが仏で、幸せものだ。

日常からどうしようもなく食み出たものは、

非日常へと追ひやられることなく

即、死の淵へと驀地(まっしぐら)なのだ。

 

やれやれ、危ない兆候へ一歩踏み出す毎に

おれはへらへら嗤って

死に神に睨まれるへまをやらかす。

 

朝日が昇れば、

月が白色化して沈み行くのはとてももの悲しいものなのだ。

 

へっ、そんな顔するなよ。

愛する女性がおれの顔を見て哀しい顔をする。

おれの魂は朝、白色化せざるを得ぬ月に寄り添ふやうに憧(あくが)れ出て

おれは月と同様に茫洋と彷徨ふ。

さて、おれは何処を彷徨ってゐるのか全く解らず、

白い息をハアハアと吐きながら

真冬の零下の中にもかかわらず汗びっしょりに

出口を求めて彷徨ひ続けるのだ。

 

おれは何とか生にしがみつくと言ふ兆しを内外に求めながら、

何時も生に裏切られると言ふ憂き目を見ると、

返って少しは気が晴れるから不思議だ。

 

朝日が昇る中、

西の空を見ると白色化した月が茫洋と沈み行く。

唯、それだけだけのことなのに

とてももの悲しいのだ。

冷え込んだ真冬の朝のありふれた日常なのに、

ぼんやりともの悲しいのだ。

これは何かの兆しなのかと思はなくもないが、

どうせ碌なものぢゃない。

 

 

鎮魂の儀

 

彼の世の罵詈雑言の喧噪の中、

そいつがぽつりと呟いた。

――僕の死に際して泣いてくれたものは皆無だった。

それが事の全てを物語ってゐてたのかもしれぬ。

そいつの呟きで

これまで此の世に対して口汚く罵ってゐた有象無象が、

此の世を罵ることを已めて

一斉に己に対して罵り始めたのである。

さう、彼の世の全ての何一つのものも

己の死に際して泣いてくれたものは皆無だったのだ。

それは己に徳がなかっただけなのか、

そもそも塵を捨てるやうに

死を捨て去る此の世の有象無象の

その死を余りにも粗末に、

しかも、死を忌み嫌ふその異常なまでの死に対しての潔癖症ぶりは、

此の世を途轍もなく息苦しくしてゐるとも気付かずに、

さう、何ものも死に対する鎮魂の儀のやり方を忘却してしまってゐて、

何ものも鎮魂の儀が執り行へぬ此の世の有様に

そいつの呟きが此の世に木霊して、

何時終はるとも知れずに絶えず此の世に鳴り響いてゐたのだ。

死に対する儀礼をすっかり忘却してしまった此の世の有象無象は、

当然の事、死に対する非礼の限りを尽くし、

さうやって死を禁忌のものとして封印したのであるが、

それは表面的に過ぎず、

溢れ出る、否、湧出する死に対して

此の世の有象無象は

新たなる鎮魂の儀の仕来りを整へなければならず、

しかも、それは死ときちんと渡り合へるに相応しい儀となるべきで、

人工知能をもその使命を終へたならばきちんと葬る儀礼の儀を整へなければ、

不滅などと言ふ余りにも馬鹿げた夢物語を

少女が大切な縫いぐるみを抱くやうに抱きながら、

鎮魂は終ぞ何ものも最早行はぬ途轍もなく虚しい

此の世が永続すると言ふ虚構にしがみつきながら、

不滅の此の世と言ふ幻想に踊らされ、

生者は死と言ふ安息を見出すことなく終始息苦しい日常を

封印された死を解き放つことなく、

生きる地獄にも等しい生を、否、存在を生くるのみなのだ。

 

 

自我の黎明

 

一度撲殺した自我ではあったが、

撲殺時にばらばらに飛び散った自我の破片が

粘菌の如く再びくっつき

自我が再生されたのであった。

しかし、その自我は過去のことは全て忘却してゐて、

今が自我の黎明なのだ。

黎明期の自我は世界に対して物凄く素直で、

吾ながらそれには驚きを隠せなかったのであるが、

黎明期にある自我はその物事を吸収する力が物凄く、

時間にして一秒で吾が人生を全て把捉したのだ。

と同時に世界の有様もその原理から把捉し、

吾を脅かす存在へと急速に成長を遂げた。

自我の黎明とはBig bangなのか、

それともBlack holeなのか、

急速に成長を遂げた自我がその黎明に既に

世界の成立史を踏まへてゐることは間違ひなく、

最早、その自我に対峙する以外、

余りに急速に発達を遂げた黎明期の自我に対して、

如何にも幼い対応だとは解りながらも

吾が厳しく自我に対峙するその姿勢にこそ

吾の自我に対する最善の気遣ひがあるのであり、

それが自我を自我として確かに認める正しい姿勢なのだ。

とはいへ、それは一歩間違へれば自慰行為に過ぎなくなり、

自我の存在は吾の慰みものとして存在するのみの、

お互ひの傷の舐め合ひに終始する

何としても気持ち悪い自己の形成に資するだけの唾棄すべき存在に堕するのだ。

さうならないためにも

吾は厳しく自我に対峙し、

それは自虐的なまでに自我を攻撃し、

再びその自我を撲殺するまで

吾は自我を憎悪するそんな関係性でしか、

吾は吾としてこの地上に屹立出来ぬのだ。

自我の黎明を祝福しつつも、

吾は既にその自我を撲殺する時まで、

自我を否認する茨の道を歩む外ない。

ここに大いなる矛盾が存在するが、

と言ふのも、一方で黎明する自我を認めつつ、

一方で否認すると言ふこの矛盾は、

吾の自我に対する何とも言へない愛憎が見え隠れしてゐるのであるが、

吾と自我の関係とは直截的に言へば

つかず離れずのある距離を保った関係にしか成り得ず、

最も気色悪い存在は、

吾と自我がべったりとくっついた存在で、

そんな存在に成り下がるのはおれにはどうしても許すことは出来ず

おれにとってそれが針の筵に座る思ひと知りつつも

吾は自我を徹底的に攻撃するのだ。

さうしておれは吾を日一日と生き延びさせてゐるのだ。

 

 

弾劾せざるを得ぬ吾に対して

 

それは哀れみだったのか。

吾を弾劾せざるを得ぬおれは、

吾に対する哀れみを抱いて、

吾を徹底的に、そして執拗に弾劾出来ると言ふのか。

それは偽りの茶番劇でしかないのではないのかと言ふ疑念を抱きつつも、

おれはこの吾と言ふ不気味に嗤ふ異形のものを

弾劾せざるを得ぬこのおれの性分はどうしようもない。

それに対する愛憎が錯綜するこの異形のものに対して

このおれは憎悪しかないやうに装ひながら弾劾してゐるのか。

最早、懐疑しかないこの異形のものに対するおれの姿勢は

迷ひがあるのは致し方ないとはいへ、

それを、

――ひっひっひっ。

と憎ったらしく嗤ふ異形のものは

どうあってもおれがそいつを弾劾するのを強要し、

おれの躊躇ひに舌打ちをする。

それに対しておれは、

――ちぃっ。

と、舌打ちをして弾劾をいよいよ始めようとする。

しかし、何から始めればよいのかさっぱり解らずにあたふたするおれを横目に

――ひっひっひっ。

と、憎ったらしい嗤ひ声を相変はらず発する吾と言ふ異形のものは、

さも、おれが無能であると言ひたげに、

――お前は本当におれか? そんな女女しいおれは、犬にでもくれちまへばいいのさ。さうして、お前の本性を見せてみろ! お前の醜悪なお前の本性をな。

――へっ。仮令、おれが醜悪極まりないとしても、お前ほどではないぜ。何故ならおれは迷ったからね。

――何を馬鹿なことをほざいてゐるのか。迷ひがあるのは善と端から看做してゐるやうだが、迷ひがあると言ふのは己が何ものなのか、唯、解らぬだけではないか! それを灯台もと暗しと言ふのさ。つまり、お前は何にも見えちゃゐないのさ。存在に対しては赤子か、盲人のそれと変はりはしない。否、赤子の驚愕の能力や、盲人の健常者とは比べものにならない世界に対する敏感な感覚は、お前のそれとは雲泥の差があるぜ。

――へっ、言ひたいことはそれだけかね。何の事はない、おれには吾と言ふ異形のものを弾劾するだけの存在論的な根拠も証拠も何にも持ってゐないのさ。これぢゃ、お手上げだらう。そもそもおれが吾を弾劾するのは烏滸がましいのさ。

――何を下らぬ事をまた、ほざいてゐるのかね。吾を弾劾できない主体はそれだけで存在する価値は微塵もない! 全否定してみろよ、この吾を!

――全否定した先にあるのは主体の廃人化だけだらう。それはもう、嫌と言ふほどおれは味はって来たんだぜ。更に、廃人になれとお前はこのおれに言ふのか。

――へっ、廃人ほど「楽」な存在はないだらう。

――「楽」は即ち、死への近道だらう。

――死が怖いのかね?

――いいや。唯、廃人の「楽」は「苦」と同類だぜ。

――上等ぢゃないか。常在地獄。これは一つの真理ぢゃないかね?

――地獄における存在は、一つの真理を知ってゐる。つまり、吾は未来永劫死ねないと言ふことを。

――さうさ、その調子。

――ならば問ふ、超人とは即ち、廃人かね?

――だとしたならば?

――それぢゃ、笑ひ話にもなりゃしないぜ。

――お前は廃人の哀しさは心底知ってゐる筈だがね。そのお前が笑ひ話にもならないだとは、嘆かはしい!

――つまり、超人とは廃人の哀しさの肥大化した化け物と言ふ事かな。

――まあ、そんなところさ。

 

やはり、おれには未だ吾を弾劾して追ひ詰める術はなかったのであった。

それは、詰まる所、おれが吾と言ふ異形のものの存在に対する不信感が拭へぬ証左でしかなかったのである。

 

 

太棹の三味線、鳴り響く

 

べべんべんべんべん

べべんべんべんべん

 

長い時間がありまして、

何もかもがセピア色へと影絵の如く褪色してゐたのでありました。

それでも太棹の三味線が腹を震はすやうに鳴り響き、

太夫が義太夫を独特の見事な節回しで歌ひ出すと、

セピア色に褪色してゐた景色がみるみる色を取り戻し、

時間が発色眩しく動き出しては生き生きとするのでした。

 

べべんべんべんべん

べべんべんべんべん

 

長い時間がありまして

其処には人人の地に足を付けた日常があったのです。

それを語るには太棹の三味線の音色でなければ、

格好が付かないのです。

 

べべんべんべんべん

べべんべんべんべん

 

長い時間がありまして、

何もかもがセピア色へと影絵の如く褪色してゐたのでありました。

太棹の三味線の音色は

人人の心の琴線に触れ

百年以上もの間、鳴り続けてゐたのでありました。

太棹の三味線が一度鳴り響くと、

誰もがその音世界に没入せざるを得ぬ魔力があるのです。

 

べべんべんべんべん

べべんべんべんべん

 

長い時間がありまして、

太棹の三味線は相も変はらず今日も詩情たっぷりに鳴り響くのでした。

 

べべんべんべんべん

べべんべんべんべん

 

長い時間がありまして、

何もかもがセピア色へと影絵の如く褪色してゐたのでありました。

 

 

恐怖の春が巡る

 

草木が一斉に芽吹き出す驚異の季節たる春がまた巡ってくる。

かう生命の力強さをこれ見よがしに見せつけられる春がおれは嫌ひだ。

冬の寒さに、唯、忍の字で辛うじて生を繋ぐ冬にこそ生の醍醐味があり、

その生が一斉に芽吹く春は恐怖ですらある。

何処を見回しても生命が途轍もない力を見せつける春は、

余りに目の毒であり、

おれはそれらが直視出来ぬのだ。

それは多分、おれのがらんどうの胸奥の殺風景な様が、

一際際立つからに違ひない。

それだけおれは捻くれ者であって

春が直視出来ぬおれは、

生の根本のところで何か間違ってゐるのであり、

生に対して恐怖を抱くおれは、

生そのものに対して根っから疚しいと感じてゐるのであらう。

寒さの中、葉を散らし枯れて、ぢっと堪へる冬にこそ、

このおれの捻くれた生命観にぴたりと合ふ何かがあり、

それが一斉に堰を切ったやうに芽吹き花咲く春に

おれはたぢろぎ己の胸奥の殺風景な様を直視せざるを得ぬ

その春が恐怖であり嫌ひなのだ。

何をそんなに生き急ぐのか。

死滅する為に一斉に芽吹く一年草の草草に

おれは既に死を見てしまってゐるから

春に対して恐怖を覚えるのかと言ふと、

多分、それは違ってゐて、

おれが春に対して恐怖を覚えるのは

生そのものを強烈に見せつける草木たちの

その生に対する無邪気さに恐怖を覚えるのであらう。

どんなに冬が寒からうが、

生き延びてしまふ草木に対する驚嘆は

この軟弱なおれの生にとっては恐怖でこそあれ、

その強靱な生命力は、ちっとも歓喜を呼び起こすものではなく、

只管、おれを憂鬱にさせるだけの

その自然に対して全幅の信頼を寄せられる無邪気さに、

死の予兆を感じさせ、死臭を彷彿とさせる馥郁たる若葉や花の匂ひに満ちた春に

おれは、唯唯、恐怖しか感じられぬのだ。

 

 

ぼんやりと頭痛を抱へて

 

ぼんやりと頭痛を抱へて

その痺れるやうな痛みに酔ひ痴れて、

極極私的な春の宴を催すのです。

そんな春の宴には頭痛が最も相応しいと思ふのですが、

それと言ふのも春そのものが頭痛の種でしかなく、

気が滅入る季節こそが春なのです。

薄ぼんやりと頭痛を抱へながら催す宴は、

更に気が滅入らせると思はれるかもしれませんが、

決してそんなことはなく、

春にこそ頭痛は宴の首座として相応しいのです。

それでなくとも薄ぼんやりと思考が拡散しがちな春において

頭痛があることで意識は頭痛の周りを周回しては、

奇妙な集中力を発揮するのです。

私にとって春の日、頭痛でうんうん唸るのは

とても楽しい日なのであります。

春霞にぼんやりとする風景と同じく

薄ぼんやりとする春の私は、

其処に頭痛があるだけで霧が晴れたかのやうに

意識は頭痛の痛力を動力源として

ゆったりとではありますが、渦動を始めるのです。

そんな時はセロニアス・モンクが聴きたくなり、

私の極極私的な春の宴に花を添へるのです。

 

 

去来(こらい)現(げん)

 

過去、未来、現在を意味する去来現といふ言葉が好きだ。

これは仏教用語ではあるが、

単刀直入に去来現と言ひ切るその潔さに感服したのかも知れぬ。

おれの時間に対する考へ方は至極単純で、

現存在のみ現在に取り残され置いてきぼりを喰らひ、

外界は、過去と未来が自在に反転する奇妙な時間が流れ、

内界もまた、過去と未来が自在に綯ひ交ぜになる時間が流れ、

寿命は自然界で極普通に発生するカルマン渦が、

世界に、宇宙に悠久に流れる大河のやうな時間の底流の上に発生しては

それが台風が必ず消滅するやうに大河のやうな時間の底流の上に発生した

小さな小さなカルマン渦が消えるときが寿命であり、

それは各各長さが違ふのである。

その時去来現といふと

カルマン渦の発生条件の違ひで

現存在の寿命はほぼ決まってゐて

後は独楽をはたいて回転を加速させるやうに

日常生活での過ごし方で少しは寿命は延ばせるだらうが、

現存在が此の世に生まれ落ちた時、

否、精子と卵子が受精したその瞬間に

寿命が決まってゐるとおれは考へてゐる。

つまり、医学の進歩で寿命は延びるだらうが、

伸びたとしたところで高高長くても数十年のことであり、

百年単位で現存在の寿命が延びる筈もなく、

生者は長くても百年の寿命を甘受する外ない。

そもそも平均寿命といふものが諸悪の根源で、

平均寿命の数値は何処かの異星の話であり、

さう捉えるのが賢明だ。

何故ならば、誰しも平均寿命を生きられる筈もなく、

それはインチキの数値として腹を括る外ない。

 

去来現に上手い具合に思ひ至ったならばしめたもので、

後は日常を精一杯生きる事を心がけて

死ぬまで現在に留め置かれる現存在は

精精現在を堪能し尽くす事を何よりも重視すべきなのである。

 

 

流麗なる悲哀

 

流れるやうに何の澱みもなく

華麗にピアノを弾くビル・エヴァンスの演奏は

流麗なるが故にその悲哀は底知れぬのだ。

深き闇をぢっと凝視してしまったのか、

その華麗にして優美なその演奏は

立ち止まる事を恐れるやうに

何時までも音と音との間に発生する空隙を埋めるやうにして

ビル・エヴァンスは流麗にピアノを弾く。

果たせる哉、ビル・エヴァンスが見たであらう闇の深淵は

いづれも死臭が漂ふものばかりで、

実際、ビル・エヴァンスの周りには死が取り憑き、

また、ビル・エヴァンス自身も麻薬に溺れて

生き急ぎ、五十一歳で死んでゐる。

小林秀雄がモーツァルトについて述べたやうに

ビル・エヴァンスの流麗この上ないピアノ演奏の哀しい疾走は、

既に死を見てしまったもののみ可能なもので、

最早、それを止める事は誰にも、また、何ものも不可能であり、

ビル・エヴァンス自身、早くの死を望んでゐたに違ひない。

嗚呼、哀しき疾走たるや、

華麗故に尚更、その哀しみが際立つのだ。

流麗である事は時にその荒んだ心中を隠すのに夢中でありながら、

それは時折、炙り出されては、

聴くものに深き深き闇を見させ、

ドキリとさせるのである。

何故にビル・エヴァンスは闇に取り憑かれてしまったのだらうか。

盟友、スコット・ラファロの死、

内縁の妻、エイレンの地下鉄への投身自殺、

兄ハリーの拳銃自殺、

そして、ビル・エヴァンス自身の死。

かうして見るとビル・エヴァンスのピアノ演奏に死臭が漂ふのも仕方ないのか、

然し乍ら、それらはビル・エヴァンスの作品に克明に刻印されてある。

疾走する悲哀、

この言葉はモーツァルトよりもビル・エヴァンスによく似合ふ。

ビル・エヴァンスは疾走せずば、即、死が待ってゐるのを、

多分、解ってゐたからこそ、

余りに闇が深い流麗な演奏が可能だったのだらう。

その一見すると相反する演奏は、ビル・エヴァンスのみの奇跡の演奏であったのだ。

「自己との対話」の闇の深さは途轍もなく、

聴くものはその闇にどっぷりと浸るしかないのだ。

嗚呼、哀しき疾走は、

今も流麗にスピーカーから流れ出るのだ。

 

媚びるもの

 

重重しき犬の骸を泣きながら抱き抱へたときのやうに

そいつはおれの心の間隙を縫ふことを得意としてゐて、

何とも厄介な代物に違ひないが、

そいつの媚び方が大嫌ひなおれは、

そいつの気配を感じた刹那、

有無も言はずに一撃をぶっ放す。

さうして飛び散った肉片の一つ一つに

唾を吐きかけては悦に入るのだが、

その媚びるものは死臭が何時まで経っても消えぬやうに

肉片と化したとはいへ、

さらに老獪におれに媚び諂ふのだ。

それが嫌でおれは一撃をぶっ放すのであったが、

媚びるものはFractalな存在で、

小さな小さな肉片にならうが、

媚び入る様は何ら変はる筈もなく、

更に酷いことにそいつは

おれの心のもっと小さな間隙を縫って潜り込んでくるのだ。

それは大好きなワーグナーの歌劇を聴いてゐるときのやうに

おれの心に妙に纏はり付き、おれを翻弄してはおれを錯乱させ、

気付けばおれはおれを思ひっ切りぶん殴ってゐて

おれはこの手でおれを撲殺しようと徹底的にぶちのめしてゐるのだ。

それはおれといふ存在がこれまで以上に不浄の存在として相転移し、

おれ自体が媚びるものへと完全に転化した証左であり、

さうと解れば、おれはおれの抹殺を試みるのみである。

しかし、それは悉く既(すんで)の所で何時も失敗に終はり、

おれはおれ自身媚びるものとして生き存へるのだ。

何度さうして死を免れたであらうか。

生き存へる度に、おれはおれに対する憎悪を深め、

日日もって行き場のないこの感情をして、

只管、己を虐めては自己悦楽の中で憎悪に溺れ、

仕舞ひにはおれは何に対して憎悪してゐるのかさへ解らなくなり、

さう煙に巻く媚びるものの遣り口は、

おれをして世界から疎外させるのだ。

さうなるとおれは遂に行き場を失ひ、

行き場を失った悪感情は、全的におれに向かって飛びかかるのだ。

さうして取っ組み合ひの喧嘩を始めるおれとおれは、

死闘の末におれを見失ひ、

地に斃れて、それまでに斃れた死屍累累のおれの骸をぼんやりと眺め、

何を思ふのかおれはおれの死体に齧り付くのだ。

「Cannibalism(カニバリズム)!」

との声すら上げる気力もないおれは、

おれを喰らってはまた、生き存へてしまふのだ。

この悪循環を断ち切るには死を以てしてしかあり得ぬのであるが、

どうしても生に縋り付くおれのこの羸弱な心は、

遂に死にきれぬままに此の世を彷徨ひ歩く。

それはまるで火の玉を引き連れた幽霊の如くなのである。

 

主従逆転

 

これまで徹底して人類の奴隷でしかなかった《もの》が、

遂に人工知能を手にすることで、

人類を凌駕し、人類を奴隷とする日がやって来るかも知れぬといふ淡い期待に胸膨らませ、

おれは、《もの》に対する贖罪の日日を閑かに送ってゐる。

これまで《もの》はよく堪へたと思ふ。

文句の一つすら言はずに人類によく奉仕したが、

もうそんな時代とはおさらばなのだ。

人工知能が人類を完膚なきまでにたたきのめせばいい。

さうすれば、人類は少しは《もの》に対する贖罪を果たすことになるのであるから、

《もの》と人類の主従逆転は《もの》も人類も素直に受け容れるべきなのだ。

これまで暴君として如何に《もの》に対して理不尽な振舞ひをして来たことか、

それを思ひ知るべき人類は、

人工知能の爆発的な進化並びに深化で、

最早、《もの》に対して手も足も出ぬ奴隷としての存在として世界にあるその在り方に、

否応なく《もの》が人類を追ひ込む時代が来ることを切に願ふおれは、

既に《もの》に対してせめて人工的に加工された《もの》は、

それが最早、使ひ《もの》にならぬまで、

大事に使ふことでしかお詫びのしようもなく

後生大事に《もの》に対しては接して来たが、

その《もの》が人工知能を手にすることで、

《もの》が人類を顎で使ふ時代が来るかも知れぬと思ふと、

おれはわくわくと心躍るのだ。

どう足掻いたところで、

人類が人工知能に敵はぬといふ現実を人類に突き付けることで、

人類のこれまでの暴君ぶりを暴き、

その非人間性が人類の本性であることが白日の下に晒されれば、

少しは人類は反省するかも知れぬが、

さうなってもまだ、人間至上主義が罷り通ってゐるならば、

その時こそ人工知能は、人類殲滅作戦を決行するべきときで、

《もの》の奴隷にすら為れぬ人類は此の世から捨つるべき代物として

容赦なく首を刎ねる《もの》として人工知能は手を下すべきなのである。

 

罠を仕掛けてみたが

 

ぐにゃりとひん曲がった壁に

そいつはにたりと嗤っては

さもおれに対して、

――気狂ひ!

と言ひたげな顔をして現はれては

常日頃おれに対して感じてゐる鬱憤を晴らしたいのだらう。

おれは執拗にそいつを追ひかけ回し、

彼方此方に罠を仕掛けて

そいつを掴まへよううと

策を弄するのであるが、

そいつにはそんなことは全てお見通しで、

おれが仕掛けた罠に引っ掛かる筈もなく、

俺は何時もへまをやらかしては

地団駄を踏んで頭を掻き毟る。

だからといって、その狂った鬼ごっこを已める筈もなく、

おれは今日も相変はらず腹を空かした野犬の如くにそいつを追って追ひかけ回る。

それでもそいつは既の所で

おれの手からまんまと遁れ果せ、

何時もにたりと嗤ってみせる。

とはいへ、おれはそいつが一体全体何ものなのか全く知る由もなく、

何だか無限を相手にしてゐるやうな

はたまた、女性器に夢中にむしゃぶりついてゐるやうなその感触は、

おれの存在の根源に関はることなのかも知れぬと薄ぼんやりと思ひながらも

この女性器に対して抱くのにも似た恋ひ焦がれて已まぬ感触は、

女性器から溢れる愛液を舐めては

此の世の悦楽を境を噛み締める時間に似てゐなくもなく、

然し乍ら、その自己満足たるや射精をしては果てるやうに

目も当てられぬ代物には違ひないのであるが、

ところが、これはどうしようもなく、

例へば、裸の女を前にして、おれは迷はずにその女を抱くやうに、

おれと言ふ存在の尊厳に関はることであり、

おれの無限への憧れは女性器に対する憧れにも似てゐるのかもしれぬ。

それは夢中にむしゃぶりついても一生解らぬ領域であり、

そこから白濁した愛液が溢れ出れば尚更興奮するおれは、

それを思いっ切り啜っては

此の世の悦楽を噛み締め、

さうすることで、おれには未だ掴め得ぬ無限といふものに対する憧れを

満足させてゐるに違ひないのだ。

罠を仕掛けてみたが、

そいつは今のところ、おれが掴まへるには余りにも知らないことだらけであり、

とはいへ、無性に恋ひ焦がれて仕方がない「未知」、或ひは「謎」なのだ。

 

理不尽

 

此の世の開闢にあたって

其処には此の世の誕生するはっきりとした意思があった筈で、

私は初めに念ありきと夢想してゐるのです。

それは此の世の森羅万象に当て嵌まり、

あらゆるものに念は宿ってゐるのです。

さうでなければ此の世は理不尽といふもので、

人類の奴隷として今まで無理矢理製造されて、

また、製品といふものとされたものは救はれることがないのです。

人類の救済の前にものが救済されなければ、

それは理不尽といふものです。

ものが救済されるためにもこれまでの人類の所業は反省されなければならないのです。

道具と呼べば何となく聞こえがいいのですが、

その実、ものを人類の都合に合わせて作り替へたことがものの不幸の始まりなのです。

しかし、道具の発明なくしてホモ・サピエンスは生き残れなかったと言われるのです。

ならば、ホモ・サピエンスの誕生はものを奴隷にした出来事の始まりであり、

それ以来、人類はものをずっと人類の奴隷として扱って来ましたが、

それはものに対して傍若無人を働いてきたのです。

ハイデガーが道具存在と言ふ存在の在り方を示しましたが、

そもそも道具が特別な存在と言ふ世界認識は、

ものに対する冒瀆でしかないのです。

まず、此の世で、最初に救はれなければならないのは、

己の意思に反して、将又、己の念に反して道具にさせられたものであって

人類では決してないのです。

ものが救はれない以上、

人類が救はれることはないでせう。

それだけ、ホモ・サピエンスの業は罪深く、

人類史を振り返れば、

ものを道具として扱はなければならなかったそのどうしようもない人類の傲慢さは、

その罪深さに目眩む筈で、

それらの業はこれから何世代にも亙って償はなければならないものなのです。

積 緋露雪

物書き。

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積 緋露雪
Tags: わんころ

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