宇宙開闢以前の《世界》は《存在》する

 

――例へば此の世に幽霊が存在し得るのであれば、其処は「現存在」の背である筈だ!

――それは何故かね?

――何故って、それは、唯一、此の世で「現存在」が裸眼で直接見られぬ処だからさ。

――此の宇宙開闢以前の《世界》もまたどう足掻いても見えぬぜ。

――へっ、つまり、端的に言へば、背中が、若しくは後ろの正面が《存在》するといふ事は、宇宙開闢以前にも《世界》が《存在》していた証拠になるのさ。其処は幽霊の、つまり、数多の《死者》の怨嗟に満ち溢れてゐた《世界》だ、ちぇっ。

――しかし、触覚の感触だけは背中にもあるぜ。つまり、「現存在」は背中の《存在》を端から《認識》してゐる。また、《他》には《吾》の背ははっきりと見える。

――だから、どうしたといふのかね? しかし、《他》は《吾》の内部は見えやしない。つまり、それは、尚更、宇宙開闢以前の《世界》は、《吾》が背中の《存在》を《認識》してゐるのであれば、必ずあるといふ事さ。

 

其処で、ゆるりと陽炎が揺らめき、《吾》の影が嗤ったのだ。「ふっふっふっ」と。

 

《生者》と《死者》が交はる処

 

吾(わ)が《五蘊場》に手を突っ込み弄(まさぐ)ると、

其処は、《生者》と《死者》が交はる後ろの正面に至る。

 

――ほら、肩が凝らないかい? 何故って、《生者》は無数の無辜の《死者》の影が見(まみ)える背を背負ってゐるからね。

 

さうなのだ。《生者》は後ろの正面で無数の無辜の《死者》に出会ってゐる。

だから、《生者》の背に《死者》が、つまり、幽霊が蝟集するのだ。

 

此処で、再び、「そいつ」が「ふっふっふっ」と嗤ふのだ。

 

そして《吾》は堕落する

 

――さて、《吾》は何処へとやって来たのだらうか?

 

辺りを見回しても《吾》の周りには何も《存在》せず。

そこで、《吾》は日陰に隠れて、

《吾》を島尾敏雄のやうな手捌きで《吾》自体を裏返してみては

《吾》を海鼠と同じ《存在》に変容したかのやうな錯覚の中、

――これは「夢」の中なのか?

と、独白しては、「えへら、えへら」と力ない嗤ひに《吾》なる《もの》を唾棄するのだ。

 

――何が堕ちて行くのだ! 《吾》は此処ぞ。そして、《吾》は確かに《存在》したのだ!

 

たが、《吾》から立ち上る白い影は精霊になり得ることを確信したやうに

断固として《吾》を投げ捨て、そして、《吾》を天日干しするのだ。

 

それ、苦しめ

 

――それ、苦しめ。お前のゐる場所は此処ではない。

さう言って「そいつ」は、

――ふはっはっはっ。

と哄笑したのだ。

 

何かが《吾》の背に宿ってゐて、《吾》の視界の境界辺りでちらちらと姿を現はしては「にまり」と醜悪な笑みをその相貌に浮かべるのだ。

さうして、「そいつ」は《吾》を鞭打つのだ。

 

――何を持ってお前は《吾》を鞭打つのだ?

――そんな事はお前は既に知ってゐるではないか? さうだ。お前が此の世に《存在》してしまってゐることが既に「罪」なのだ。

――《存在》が「罪」? 「原罪」を《存在》は先験的に背負ってゐる?

――否! お前の《存在》のみが「罪」なのだ!

――私のみ?

――否! お前が名指す《吾》さ。

 

さうして、「そいつ」は再び《五蘊場》の闇に消ゆる……。

 

 

未来永劫の《吾》

 

其処は何の変哲もない《日常》の《世界》でしかなかった。

唯一つ、違ってゐたのは《吾》と《異形の吾》がはっきりと分離してゐた事だった。

それが地獄の全てであったのだ。

 

最早《吾》は進退谷まったのだ。

何処にも逃げ道はなく、《吾》は只管《吾》であることを強ひられし。

 

――嗚呼、《吾》が何をしたぞ。

――ふっ、《存在》してしまったことが運の尽きだ。

 

さう言ふと《異形の吾》は昇天し、《吾》のみが何にもない地獄に未来永劫に残されし。

 

人非人

 

彼の国の或る男が煉獄へと送られし。

没義道甚だしき仕業也しが、

燃盛る炎の中で、

その男は何を思ったであらうか。

 

《吾》の御霊のみ中有の中に漂ひ、

《吾》の《五蘊場》で彼の男の御霊と会ひしか。

 

――さて、何を語らうか。

――何、黙してゐればそれで善し。

――……。

――……。

 

無音のしじまの中に彼の男の御霊は佇み、

さうして、一息すうっと深呼吸して、

彼の世へと飛び立ちし。

 

これで善かったのだらうか。

と、後悔ばかりが先に立つ。

 

楽しき日日は何処へと行きしか。

《吾》一人、《五蘊場》に佇立する

そして、きりっと直立しては

天を小さな双肩で支へるのだ。

 

さうしなければ、煉獄へ送られし彼の男の御霊は

無事に昇天出来ぬではないか。

 

――ぶはっ。炎も水も同じことよ。

 

微睡

 

睡眠薬を飲み、次第に微睡へと没入する《吾》の狼狽ぶりに嗤はざるを得ない《吾》とは、

一体、何なのだらうかと不意に疑問が湧き立つのであるが、

ままぁ、えいっと、それを放ったらかしにて、微睡に没入しゆく《吾》の瞼理に表象される《吾》為らざる《吾》の思考に、《吾》は暫く戯れるのだ。

さうしてゐる内に眠りと言ふ名の深き海へと沈み込む《吾》は一息ふうっ息を吐いて、その深海に沈み込み完全な眠りにつく。

 

――へっへっへっ。それが本当の眠りかい? それは無理強ひした眠りもどきの愚劣な《吾》隠しの逃げ口上でしかないぜ。

――何、それで構はぬのさ。土台、此の世で安らぎは得られるのだから。

――ではなぜ眠る?

――現実逃避がしたいだけさ。さうすることで「現存在」はやうやっと此の世に生き恥を晒して《存在》出来るのだ。

 

薄明の中で

 

其処には薄ぼんやりと今にも闇に隠れそうな《存在》の実相が

仄かに見出だされ、《存在》は昼間の作り笑顔を已めていい時間へとやって来たのだ。

 

――ほら、これこれ。これが「私」だ。

 

と、薄明の中、鏡に見入る《存在》共は

己の本性が漏れ出てしまふ薄明の中で、

奇妙に蠕動する《吾》と言ふ《存在》の本音を見ては、

――ぶはっはっはっ。

と哄笑するのだ。

 

そして、《存在》共はすぐそばまでやってきている闇の時間に没入するべく、

《吾》に対して昼間には隠さざるを得なかった本性を

ちょろちょろと出してみては独り言ちてゐるのだ。

 

――ほらほら、これが「私」なの。どう? 「私」は《吾》に変貌していいかしら。

と、一人の少女が薄明の中さう呟いたのだ。

 

と、そこでたまゆらに真白き精霊がその少女から飛び立ち、

さうして一つの命が途絶えたのだ。

 

――やっと「私」は《吾》になり得、さうして、地獄へ行くのかしら?

 

 

犇めく《もの》

 

《吾》の内奥で犇めく《もの》どもは

一斉に美麗な声でマーラーの「大地の歌」のやうな歌を歌い出した。

 

それは余りに美しく、そして、余りにも哀しい歌詞で、

 

かう《吾》の内奥に響き渡るのだ。

 

――何たることよ。《吾》の羸弱なるその《存在》に対し、

《吾》は歌ふしかないのだ。

 

嗚呼、《吾》が《吾》に留め置かれる哀しさよ。

そして、現在にのみ放り出されし《吾》は、

未来永劫に亙り《吾》為りし。

過去も未来もともに反転可能な此の《世界》の有様は、

唯、《吾》を哀しませるだけなのだ。

何もかも流されるがいい。

しかし、時間はどうして流れゆく《もの》なのか。

《吾》を一人現在に置いてゆく。

嗚呼、《吾》が《吾》為る事の哀しさよ。

こんなに哀しいことはない。

だが、《吾》は尚も現在を生きねばならぬのだ。

其処は底無しの沼の如く何時果てるとも知れぬ深淵。

現在とは穴凹なのだ。

其処に貉の如く《吾》は生くるのみ。

生くるは孔への陥落、堕落。

さうして、《吾》は杭の如く現在に佇立し、

時空間のカルマン渦が派生する。

さうして《吾》は《吾》が作りしカルマン渦に呑み込まれるのだ。

 

嗚呼、こんなに哀しいことはない。

《吾》は《吾》為る事の哀しさは、

《吾》にしか《認識》出来ぬのだ。

さうして、《吾》は渦に呑み込まれ、

底無しのその孔に自由落下、若しくは昇天するのだ。

嗚呼、こんなに哀しいことはない。

《吾》が《吾》であることを知ってゐる《もの》は

全てその哀しさの深さを測りかねてゐる。

 

《世界》を握り潰す

 

彼はまんじりともせずに只管、眼前の闇を凝視す。

――何故か、《吾》が憤怒にあるのは!

 

さう自問せし彼は闇の《世界》を無性に握り潰したくて仕方がなかった。

 

――《世界》? 誰かに呉れちまえ!

 

《吾》ながら何故かをかしかったので、

思はず苦笑せし。

 

――かうして《吾》は滅んでゆくのか……。

 

彼はさう独り言ちて、

むんずと手を伸ばして

《世界》を握り潰せし。

そして、《世界》は憤怒の喚き声を発せし。

 

――何する《もの》ぞ。《世界》と呼ばれし《吾》は、お前なんぞに変へられてたまるか!

 

虚しき喚き声のみ残して《世界》は《存在》を始めてしまった。

 

その時、《世界》は一言呻いたのだ。

 

――あっ、しまった。

 

かうして《世界》は《存在》を始めたのだ。

しかし、未だに《宇宙》は誕生せず。

 

後は「神の一撃」で、

《宇宙》が始まるのを待つのみ。

 

しかし、《宇宙》は産まれたがらず。

 

而して《世界》は《宇宙》転変して開闢せし。

 

だが、再び、業の中に《世界》は堕ちし。

 

たまゆらの永劫

 

不意に襲はれた眩暈に

「私」は永劫を見たのだ。

 

時間は吃驚して逆転し、過去が未来に、未来が過去へと転回し、

「私」の頭蓋内の闇たる《五蘊場》には

《吾》が漸く《吾》にしがみ付く意識と無意識の狭間で、

何処かで見たかのやうな《世界》が表出す。

しかし、それもたまゆらの事で、

《吾》はあっと言ふ間に闇に呑み込まれし。

 

残るは無音の「死んだ《世界》」か。

しじまの中で「私」は何とか声を上げ、そうして消えゆく意識に

さやうならを言ったのだ。

 

しかし、「私」は何にさやうならを言ったといふのか。

 

さうして、「そいつ」が現はれて、かう呟いたのだ。

――お招き有難うございます。

 

はて、「私」は「そいつ」を招いた事は今までなかった筈だが。

そもそも「そいつ」は何《もの》だったのか。

消えゆく意識に《吾》は溺れ、

そうして入水するやうに

「私」は白き白き深い闇に陥落す。

 

無限を喰らふが

 

此の渺茫たる虚無は何処からやって来たと言ふのか。

確かに無限を喰らった筈なのだが、

どうしやうもない虚無を埋めるには

無限を喰らったくらゐでは

埋めやうもないのだ。

 

ならば、何を喰らへば

多少なりとも肚は膨らむのかと

自問するまでもなく、

此の《吾》を丸ごと喰らへば

少なくとも上っ面の満腹感は得られるのだが、

そんな事は逆立ちしても無理なのだ。

 

徐に大口を開けて欠伸をしてみたが、

何だかとてもをかしくて、

吐く息と一緒に無限は私の肚から漏れ出てしまった。

 

そして、眼前には涯なき無際限の《世界》が漫然と拡がってゐたのだが、

それを見た事でわなわなと震へ出したのは、

拙い事には違ひなかったが、

でも無限はそもそも限りある《存在》には

恐怖の対象でしかない。

 

――ちぇっ。

と、舌打ちしてみたのだが、

その虚しい音が蜿蜒と

無際限の《世界》にいつ果てるとも知れぬ反響を繰り返し、

《吾》のちっぽけな有様に抗するやうにして

唯一人この無際限の《世界》に直立したのだ。

さうして崩れ落ちさうな己の心持を何とか支へる。

 

哀歌

 

チェンバロの哀しげな旋律に誘はれるやうに

むくりとその頭を擡げた哀しみは

胸奥に折り畳まれてある心襞に纏はり付きつつ、

首のみをぐっと伸ばして《吾》に襲ひ掛かるのだ。

 

――何を見てゐる?

 

さう言った哀しみは、哀しさうに《吾》を喰らひ、

大口からどろりとした鮮血を流しながら、

更に《吾》の腸(はらわた)を貪り食ふのだ。

 

それでも死ねぬ《吾》は、

鮮血を口から流しながら《吾》を喰らふ哀しみの悲哀を

ぐっと奥歯を噛み締めながら受容する。

 

――なぜ消えぬのだ、お前は?

――ふん、消えてたまるか! 《吾》は《吾》為る事を未だ十分には味はってゐないのだぜ。そんな未練たらたらな《吾》が哀しみに喰はれたぐらゐで消えてたまるか!

 

薄ぼんやりと明け行く空に

茜色に染まった雲が

菩薩の形へと変容しながら

ゆったりと空を移ろふ。

 

紫煙に見(まみ)える

 

ゆっくりと煙草の紫煙を深呼吸するやうに吸うと

やっと人心地がつく此の悪癖に、

「煙草は体に毒」だからと言って

無理強ひに止めさせようとする輩に出合ふが

そんな輩のいふ事など聞くに値しない。

何故といふに、そいつらは「死」の恐怖を身を持って回避し、

「健康」が恰も善のやうな錯覚の中で自尊してゐる馬鹿者なのだ。

 

「死」の近くにゐなくて、どうして「生」が語れるといふのか。

肺癌で亡くなるのも結構ではないか。

膀胱癌でなくなるのも結構ではないか。

 

――ふっふっふっ。

と内部で嗤ひが堪へ切れずに、

「煙草」の紫煙を燻らせながら、

肺が真っ黒になるまで、「生」の闘争は続くのだ。

 

吐き出される紫煙が人型に変はり、

たまゆらに《吾》をきっと睨むぞくぞくする感じは、

何《もの》にも代えがたい至福の時であり、

これが「死」を連想させる現代の論理に縛り付けられし、

煙草の宿命は滅びに美を見た《もの》にのみ

死神の跫音がひたひたと迫りくる幻聴の中、

ブレイクのvisionを《吾》にも見せる入口を紫煙のくゆる中には確かに存在するのだ。

 

――それは単に脳の酸素不足が為せる業だぜ。

――絶食が幻視を見せるのと同じやうに紫煙による脳の酸素不足が無意識の《吾》の本性を眼前に指し示すのだ。

 

 

 

 

疲弊

 

やがて夜の帳が落ちる頃、漸く目覚めつつも、未だに疲弊してゐた此の心身には睡眠不足は否めず、何かを貪り食って再び眠りに落ちたのだが、夢魔が夢世界を攪乱し、この意識なる不可思議な存在を《吾》と名指す以前に、夢魔は「私」らしい意識、つまり、自意識なる《もの》を追ふのである、その時、自意識は夢現の境に宙ぶらりんにありながら、余りの疲弊に意識は意識にのめり込むやうに潰滅を始める、そんな苦痛に意識は置かれると最早意識が屹立するには手遅れで、意識は無意識に溶け込む、さうして無意識に鬱勃と生滅する「私」の《異形の吾》は今も幽かに残ってゐた《吾》為る意識の断片を喰らっては、一息つくのである。

 

やがて、真夜中に目が覚める時、「私」の意識は、夢魔に喰ひ散らかされた《異形の吾》の残滓を後片付けする為に意識を総浚ひしてみて、夢の断片の粗探しするのであるが、最早夢にかつての神通力がなくなってゐることを実感しつつ、それでも何か「意味」が転がってゐないかどうかを確認し、何にも《五蘊場》にないがらんどうを《内眼》で凝視するのであった。

 

∞次元の時間

 

誰が時間を数直線の如き一次元と決めたのか。

そもそもの間違ひが其処に《存在》する。

 

時間もまた、《存在》するならば、それはどうあっても∞を目指してゐるに違ひない。

 

――だが、時間が∞次元と言ふ証左は?

――ふっ、では時間が一次元と言ふ証左は?

 

何の根拠もないのだ。時間が一次元である根拠など此の世にそもそも《存在》しない。

時間が∞次元ならば、物理数学はパラダイム変換をせざるを得ず、

誰も時間が∞次元とは言へなかったのだ。

 

――では、時間が∞次元だとすると、《世界》の様相はどうなるかね?

――ふっ、そんな事は幽霊にでも呉れちまへ!

――えっ? またぞろ幽霊?

――さうだ、時間が∞時間といふ事を身をもって知ってゐるのは此の世では幽霊しか《存在》しないのさ。

――すると此の身の背は時間が∞次元といふ事だね?

――瞼裡ですら既に時間は∞次元だらう?

 

何故にか目を閉ぢた瞼裡に過去・現在・未来、

つまり、去来現(こらいげん)が攪拌されて、

エドガー・アラン・ポーの『メエルストリームの大渦』の如く

時系列の轍から遁れるやうにして解放されし。

 

時間とはそもそも去来現がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられた様相をしてゐて、

唯一、此の世に存在するのは現在のみで、過去と未来は夢現と同じ様相にある。

 

――ならば、過去と未来は入れ替はる?

――当然だらう。

 

かの者

 

かの者は今も尚、十字架に磔にされて、人間の為の晒し者となってゐる。

何故、基督者はかの者を十字架から下ろさうとしないのか。

かの者は彫像に為っても尚、十字架から下ろされぬ不合理を

基督者はそれが恰も当然の如くに看做し、

しかし、本当にそれでいいのか。

かの者が、基督が憐れではないのか。

 

――何を馬鹿な事を! 基督は彫像になって尚十字架に磔されてゐる事にこそに意味があるんぢゃないか!

――はて、磔に何の意味があるといふのか?

――基督は基督者の全存在の哀しみを受容してゐるのさ。

――それは、基督者の我儘ではないのかね?

――我儘で結構ぢゃないか。基督は基督者の苦悩を全て受け止めるのだ! その証左が磔刑像なのさ。

 

何時見ても磔刑像の基督を正視出来ぬ《吾》は、

果たして、基督にでもなった気分でゐるのか。

 

――それ以前に、己の苦悩は先づ、己が背負はなくてどうする?

 

――ほらほら、磔刑像の基督が笑ってゐるぜ。

 

さうして、かの者は全人類の哀しみを人類が存在する限り永劫に背負ひ続けねばならぬ宿命にあるのか?

 

――ふっ、それは、とっても哀しいことに違ひない! しかし、基督者はそれを基督に課してゐるといふこの矛盾をどう受容してゐるのか!

 

頭を擡げし《もの》

 

徐に頭蓋内の闇たる《五蘊場》で頭を擡げた「そいつ」は

蟷螂のやうに鎌で獲物を摑まえる如く、

また、カメレオンが舌を伸ばして獲物を捕へえる如くに、

《吾》が《吾》たる根拠を食ひ潰し始めたのだ。

 

――嗚呼、何故に《吾》は「そいつ」に狙はれたのか?

 

隙があったのだ。

「そいつ」が闇の中で頭を擡げたが最後、

どうあっても《吾》は腸(はらわた)から食はれるのだ。

 

その時、一瞬でも《吾》が《吾》にぴたりと重なるのであれば、

《吾》は最早、一時も生き延びる資格はないのだ。

――さあ、喰らへ! このお粗末な《吾》が《吾》になってしまった憐れな《存在》を。さうして、《吾》は再生するのだ。

 

――しかし、果たして、《吾》は再生などできるのか?

 

さう《五蘊場》の中で言葉にならぬ言葉が波となって反響し、

一粒の《吾》の核を形作るのか?

 

さうかうしてゐる内に《吾》はすっかり「そいつ」に喰はれ尽くされ、

残るは《吾》の何なのか。

 

――それを「魂」と呼ぶのではないかね?

――馬鹿な! 「魂」が残るなんて《吾》は死んだも尚生き恥をさらし続けるとでも?

 

さうなのであった。常在地獄にある《吾》は、

未来永劫に亙って《吾》は《吾》であることを強要され、

さうして《吾》は《吾》から一歩も踏み出せぬ軟弱な《存在》に過ぎぬのだ。

 

――嗚呼、《吾》が無くなっても尚、《吾》を求めずにはゐられぬ《吾》の弱さは、しかし、《吾》が此の世で生き延びる起動力ではないのか?

 

そして、《吾》の「魂」、否、「意識」がすっくと立ち上がり、「そいつ」を無益にも、哀しい哉、罵倒し始めたのだ。

 

森羅万象の苦

 

何処からか何《もの》かの懊悩の声が絶えず聞こへて来る此の世において、

森羅万象はその懊悩の声に呼応するやうに己の《存在》の有様に呻吟する。

 

――何故、《吾》は《存在》するのか?

 

それは森羅万象の《存在》の憤怒の声に違ひなく、

全ての端緒が憤怒にあるのだ。

 

――ほら、また、《他》が自らに恥じ入り、呻吟し始めたぜ。

 

一度憤怒した《もの》は、直ぐに己に対しての忸怩たる思ひに駆られ、

猛省するのが世の常だ。

 

陽炎がゆらりと揺らめくのは、絶えず《吾》が《吾》為る事に我慢がならず、

《吾》は摂動する事で、《吾》の憤怒を躱してゐるだけなのだ。

 

――ならば、森羅万象の苦は、何《もの》が《吾》たる《存在》に背負はせたのだ?

――自然さ。「自然は自然において衰頽する事はない」とは埴谷雄高の言だが、森羅万象は埴谷雄高の言とは逆に、絶えず滅び行く事で変容する自然に振り回されっぱなしなのだ。

――すると自然は絶えず滅亡してゐると?

――さう。滅する自然において森羅万象はその《存在》を疑ふのだ。此の世は森羅万象の猜疑心に満ち溢れてゐる。

 

またもや何かが漆黒の闇の中にその頭を擡げて、

此方の遣り口の隙を窺ってゐる。

 

――しかし、《存在》は何時もへまばかりしてゐるではないか。さうすると《吾》は絶えずその何かに監視されてゐるといふのかね?

 

己が森羅万象の眼(まなこ)から遁れる術はなし。さうして、《吾》は生き恥を晒すのだ。生き恥を晒しながら「Stripper(ストリッパー)」として森羅万象は《存在》する。さうして、《吾》は生き永らへる頓馬をやらかすのさ。

 

第四回

 

地獄再生

 

永らくその《存在》に対して万人が白い目で見てゐた地獄が遂に再生した。

そもそも地獄なくして、此の世に《生》を継続させることには無理があり。

 

地獄が復活したならば、それは《吾》の自意識が、若しくは「魂」が永劫に《存在》することの証左なり。

何故なら、地獄の責苦を受けている《もの》は一時も《吾》であることを已められず、卒倒することも許されぬのだ。仮に気を失ふことがあれば、それは、地獄の責苦を無力化し、況して地獄の無力化にしかならない。

 

「魂」は現世の有様で閻魔大王の審判により、また、最後の審判により、地獄か極楽か、若しくは天国や浄土かに行くことを振り分けられ、《吾》であり続ける「魂」は永劫に《吾》である事で、現世での行ひの責任を取るのだ。

 

それが理不尽だ、とする向きが大勢を占めていた時代は終はったのだ。やはり、閻魔大王は《存在》し、また、最後の審判もあるのだ。

 

さうでなくして、「現存在」は現世での《生》を続けられぬのっびきならぬところに追ひ詰められし。

 

崖っぷちに《主体》と《客体》は共に追ひ込まれ、「ままよ」とばかりにその崖から飛び堕ちたところ、そこは、地獄が燦然と輝く、平安なる《世界》があったのだ。

 

地獄は、《生》と《死》を共に輝かせるのだ。地獄のない《世界》の虚無感は、もう言はずもがな。Nihilism(ニヒリズム)が永らく蔓延ってゐたが、地獄の再生により、Nihilismを克服したのだ。

 

――何故、Nihilismを?

――永劫が時間にはそれが《存在》する必要条件になったからさ。

――時間の必要条件?

――さう。時間もまた、永劫を欣求してゐるならば、時間もまた、一次元である筈がないのさ。つまり、時間もまた、何次元かは現時点では名指せぬが、蓋然的に∞次元の相を持った《もの》としてもその表象は現はれる可能性があるのだ。

 

ゆっくりと一日が暮れゆく時、途轍もない淋しさに陥る《吾》の憤怒は、正坐をして遣り過ごさなければならない。さうして、はっきりと括目して時間を形にならない、否、形に宿る時間を見るのだ。

 

泥沼の猜疑心

 

それは何処までも行っても切りがない猜疑心であった。

《吾》が一度《吾》に対して猜疑を抱くと

その蟻地獄から抜け出せないのだ。

 

「ずばっずばっ」、と蟻地獄がその深淵の底から《吾》を

喰らふために闇の土を撥ね飛ばしながら

その頭を現はし、

蟻地獄の鋏にがっしりと挟み込まれた《吾》は、

更に《吾》に猜疑心が増しながらも、

《吾》といふ自意識を喰らふ事を已めぬ蟻地獄に対して不敵な嗤ひを

その悲愴な顔に浮かべる見栄を尚も保持し、

さうして《吾》の意識と言ふ体液はすっかり蟻地獄に吸はれてしまひ、

すっかり干からびた《吾》は、さうなって初めて《吾》の本性を垣間見る。

 

さて、この闇の主たる蟻地獄はその棲処の深淵の底で「私」のやうな

道に踏み迷った意識と言ふ体液を吸ひ取りながら命脈を繋いでゐるのか。

 

ならば、《吾》は自らを敢へて正当化し、辛うじて《吾》に残る矜持で

蟻地獄の巣の底に打ち捨てられし《吾》は《吾》の醜悪な本性と対峙するのだ。

 

――何を迷ってゐるのか? 蟻地獄が《吾》の化けの皮を剥いでくれたのだ。

 

さうして、《吾》は般若に化した。

 

惑溺

 

女との性交に溺れる事に飽きた《吾》は、更なる惑溺出来る媚薬を探すのか。

 

――本当か? それはただ、性交してゐる時に《吾》に対する客観的な視点が湧き出てしまふ《吾》に幻滅してゐるだけだらう?

 

眼前に全裸の女性がゐれば、自然と色恋沙汰が始まるそんな《世界》に溺れる事を善しとするにはいいが、それに対して何の根拠もない事実が、《吾》の全的な性交への没入を妨げる。

 

――子供が欲しいのか?

 

勿論、子供が欲しいのが、既に性交に執着する歳は過ぎにけり。

 

性交が文学的な主題になる時代はもう終はったのだ。

 

――嗚呼、禁忌が次次と破られし二十世紀の文学的な主題、また、哲学的な命題は、

今となっては子供のお遊びでしかなかった。

 

《吾》とは、幻滅、屈辱、そして 薔薇でしかなかった。つまり、二十世紀の文学に遠く及ばない。勿論、十九世紀の文学にはその足元にも及ばない。

 

せいぜい現代を生きる《吾》ができる事と言へば愚劣な先祖返りでしかなかった。

 

だが、《吾》に巣食ふ《異形の吾》に何時かは食ひ潰されるその《吾》は、果たして、《吾》と名乗れるのか?

 

それでも《吾》は《吾》と名乗るのが《他》に対する最低限の儀礼だ。それが、いくら不毛でもだ。

 

 

第五回

 

幽霊談義

 

ゆらりと《存在》の背から立ち上りし白き影共が夜な夜な一所に集ひ、

幽霊談義に花を咲かせてゐるのだ。

 

――ぶはっ、それで奴はどうしたのか?

――何ね、卒倒したのさ。

――遂に卒倒したか!

――だがね、現代において卒倒しない《存在》程、信用出来ない《存在》はないぜ。

――さうさう! 卒倒しなければ《存在》に一時も堪へられぬ。なんとまあ、憐れな《存在》!

――だが、そんな《存在》の背にしかゐられぬ吾等こそもっと憐れな《存在》だぜ。

――話の腰を折るな。そんな野暮なことは皆解かってゐるのさ。だから誰も口にしない。

――ではね、そもそも吾等は《存在》してゐる《もの》なのかね?

――馬鹿が! かうして《存在》してゐるぢゃないか!

――本当に?

――お前はちゃんと《存在》してゐる。

――何を根拠にさう言へる?

――お前に《意識》があるだらう?

――またぞろ、《意識》=《存在》といふ使ひ古された命題を持ち出すのかい?

――否! 《念》=《存在》だ。

――その根拠は?

――此の世に次元が《存在》するからさ。

――次元?

――さう、次元だ。

――待て待て、話が飛躍し過ぎてゐないかね?

――いや、まったく飛躍なんぞしてゐないぜ。

 

(全体で)――さうさう。全く飛躍はしてゐない。

 

――どうして? 何故吾等の《存在》に関して次元が登場するのかな?

――吾等は時空間を自在に行き来出来る「現存在」よりももっと優れた《存在》なのさ。

――さうは思へぬがね。

――つまり、次元が《存在》するといふ事は吾等が自在に飛び回れる時空間の《存在》が保障されてゐるといふ事さ。

――何によっての保障かね?

――神仏の類さ。

――神仏?

――さう。此の世を《無》から生み出したの《存在》の事さ。

――馬鹿な? そんな《存在》はゐやしないぜ。

 

(全体で)――いや、創造主は、若しくは造化は必ず《存在》した筈だ。何故って、此の世に法則があるからね。

 

――法則?

――さう。神仏の「癖」だ。

――ならば、吾等がかうして《存在》するのも神仏の導きなのか?

――さう。

――ならば、吾等は《出現》出来る可能性はあると?

――既に《出現》してゐるぢゃないか?

――幽霊が《存在》すると?

 

(全体で)――当然!

 

かうして幽霊談義は夜な夜な行はれてゐるのであった。

幽霊が集ひしその場は、まるで鮭が放精するやうに真白き空間として此の世にぼんやりと浮遊せし処。

 

邂逅

 

既に《吾》に邂逅してしまった《吾》ほど哀しい《もの》はない。

何故って、《吾》が《吾》において既に断念しなければならないからさ。

断念するとは此の世に対峙することでも背を向けることでもなく、

《世界》の為すが儘に《吾》もまた、変容する事を強要される事に外ならない。

 

ちょっとでも《吾》が摂動しやう《もの》ならば、

誰も遁れられぬ天罰が待ってゐるのだ。

 

業火に燃える《吾》を《吾》はdéjà vu(デジャ・ヴ)として認識してゐなければならないのだ。

それでも《吾》は《吾》である事に対して一歩も退いてはならぬ。

それが業火に燃える《吾》に対する最低限の礼なのだ。

 

仮にそこで《吾》から撤退する《吾》がゐるならば、

そいつは既に《吾》を他人に売りを渡した《悪魔》の眷属でしかない。

自らを自らにおいて断念した《もの》のみ《吾》は《吾》に対して問へるのだ。

 

――何が《吾》なのか。

 

と。

さうして初めて《吾》は《吾》を礼節に則りもてなせるのだ。

そこには厳しい《存在》に対する謙虚さのみがあるのみで、

さうして《吾》に断念した《吾》は、分を弁へる。

分を弁へた《吾》のみ、《吾》が発する祝詞の如き言葉を理解し、

《吾》は独りその針の筵の上の如き《存在》の《吾》に対して礼を尽くせるのだ。

そこに憐憫は禁物だ。

それこそ《吾》に対する非礼でしかない。

 

そのやうな儀礼なく、《吾》が《吾》に阿る愚劣は、

無間地獄への近道なのだ。

 

果たせる哉、《吾》は《吾》にあらず、《吾》において《吾》を断念することの理不尽を

《吾》が眦一つ動かさずに為す事は、至難の業であり、

ところが、《吾》はそれをいとも簡単に成し遂げるだけの熟練を《吾》は受精のその時から既に手にしてゐなければならないのだ。

それが生きるといふ事の全てなのだ。

 

微熱

 

風邪を引いて微熱がある中、虚ろな目はぼんやりと外界を眺め、

さうして、内界でゆったり浮遊する《吾》に憩ふ。

 

この安寧は風邪を引いた時のプレゼントで、

この虚ろな時間が私は大好きなのだ。

 

しかし、その中で逆立ちを試みる天邪鬼な《吾》がゐるもので、

微熱が出てぼんやりとした頭蓋内で、只管に《吾》を検閲する

張り切り《もの》のその《吾》は、微熱でぼんやりしてゐる《吾》の間隙を衝く。

 

そこで、驚いても手遅れで、吾は一槍でその《吾》のヤヌスの槍で一突きされて、

串刺しの魚さながらに内界で燃え盛る炎で焼かれて、

後は塩を振って《吾》に喰はれるのだ。

 

それが、もしかすると《吾》の本望なのかもしれない。

何《もの》かに喰はれることで《吾》は《吾》の《存在》を唯一正当化できるのかもしれないのだ。

 

最早、そんな事でしか《吾》は此の世でまったく正当化できない《存在》に成り下がってしまったのだ。

 

じりじりと焼かれる《吾》が発する呻き声に《吾》をヤヌスの槍で一突きした《吾》は、

サディスティックな欲情に満足を覚え、また一人、基督の後継者の《存在》を殺戮したのだ。

 

これが歓びでなくて何とする!

 

そんなとりとめもないことが走馬灯のやうに頭蓋に内を駆け巡りつつも、尚もぼんやりとした《吾》は、虚ろな目で外界を見つめてゐるのであった。

 

《世界》はそんな《吾》にとっては無慈悲に嗤ってゐる。それが《世界》がこれまで存続してきた秘密なのだ。

 

餓鬼

 

《吾》の内部に棲む餓鬼は何時も腹をすかしてゐるが、

しかし、餓鬼は《吾》が何を喰っても一度たりとも満足した事はない筈だ。

何に対して飢ゑてゐるかを、餓鬼はそもそも知らぬのだ。

ふん! 嗤ってゐるぜ、其処の餓鬼が。

「影でも喰らってゐろ!」

と、嘯く《吾》は、

餓鬼に対して知らぬ存ぜぬを決め込むのだ。

それと言ふのもそれが餓鬼に対する最上のもてなしだからだ。

餓鬼は放っておいても

食ひ扶持に困ることはない。

何故って、《吾》が《存在》する限り、

餓鬼はウロボロスの如く《吾》を喰らってゐれば

それで手持無沙汰は凌げるからな。

へっ。また嗤ったぜ。

――この餓鬼が! 早く《吾》を喰らって呉れないか。さうすれば、《吾》は少しは気が楽になるのに。

 

《樂》は此の世の陥穽だった。

《樂》の上に胡坐を舁いて座ってみたが、

その居心地の悪さといったならば、

名状し難き不快なのだ。

しかし、不快は物事を変貌させる原動力になるから《樂》は已められぬのだ。

――ちぇっ、不快は餓鬼のげっぷだぜ。

しかし、げっぷはげろげろげ、だ。

さうして《吾》はやっとの事、呼吸が出来たのだ。

 

陽炎

 

うらうらと立ち上る陽炎は

曖昧であってはならない。

それは、必ず私の存在を証明する証明書。

それが曖昧であっては私の立つ瀬がないではないか。

 

ゆらゆらと立ち上る陽炎は

たまゆらでも揺れてはならない。

揺れるのは私のみで十分なのだ。

存在を証明する陽炎が揺れては、

摂動する私を私は捉え切れる筈がないではないか。

私からするりと逃げる私てふ存在に対して

陽炎は薄羽蜉蝣(ウスバカゲロウ)の幼虫、蟻地獄に落ちた蟻の如く

私に束縛されてゐなければならぬのだ。

 

陽炎を見れば、そいつが此の世に確かに存在しているかが一目瞭然なのだ。

私は既に陽炎に呑み込まれてゐるのだ。

それ故に存在に触れたければ、陽炎を触ればいいのだ。

その時何も感じなければ、そいつは既に此の世のものではなく、

幽霊でしかない。

陽炎が堅固な物質として此の世に存在しなければ、

何を信じて私は生きやうか。

 

陽炎が堅固故に私は、私を追ふ永劫の鬼ごっこが出来るのだ。

さうして私は一息つきながら、陽炎を触って絶えず私の存在を確認してゐるのだ。

 

何時の時にか私はすっかりと陽炎と化して、

この時空間を自在に飛び交う念速を手にする希望なくして、

私は一時も生きた心地がしないのだ。

 

吾、この地に立つ。

さうして陽炎が私から絶えず立ち上るのだ。

それは恰も私が絶えず揺れ動く波として此の世に屹立する外に

存在出来ぬと世界に強要されてゐるかのやうに。

 

ゆらゆら動く陽炎は堅固な物質である。

これを最早疑ふ余地は全くないのだ。

一方、私はてふと水でしかない。

さうして私は今も水としてのみ此の世に存在してゐるに過ぎぬだ。

 

風撫でる

 

風は東風であらうが南風であらうが、

顔を撫でるやうに吹いてはいけない。

風はびんたをする如き朔風のやうに

刺刺しく、そして、存在をぶん殴らなければならないのだ。

さうして、存在は漸く覚醒し、吾を探し始めるのだ。

 

風は存在を斬り付ける鎌鼬(かまいたち)でなければならぬ。

さうして漸く存在は眼を開けられるのだ。

鎌鼬に切り刻まれた存在は

独り此の世の不合理を凝視し、

それを喰らふ豪放磊落な素振りを見せなければならぬ。

 

さうやって存在は己の存在に我慢が出来、

また、己に対して断念も出来るのだ。

 

世界を不合理な世界と嘆く前に存在は風にぶん殴られ、

はっと目を覚まさねばならぬのだ。

 

つまり、全ては己に非があると承諾せずば、

世界には先づ、相手にされぬ。

 

さうして世界が永劫の距離のある存在として

吾が世界を認識した時に、

初めて吾は吾に対して嘆けばよいのだ。

それまでは存在は風にぶん殴られながら

絶えず目覚めてゐなればならぬのだ。

決して寝ることなど出来ぬやうに。

 

風は東風だらうが南風だろうが

存在の頬をぶん殴るやうに此の世を吹きすさび、

存在を覚醒させねばならぬのだ。

さうして漸く吾は吾である事を自覚できるのだ。

 

影を追ふ

 

土台自身の影を追ったところで、何か摑める筈もなく、

しかし、それが無駄なことなのは知った上でも、尚、自身の影を追はずして

寂滅するのは口惜しいのは、存在する何ものも同等で、

さう思はずして果たして存在は存在出来得るのであらうか。

 

――何、そんな事を考へられる時間があったならば、己の内奥に棲む「そいつ」を一刺しして抹殺するのがいいのさ。それが出来ないのであれば、影を追ひ続ける外ないぜ。

 

と、「彼」は語った。しかし、私にはその「彼」が誰なのか解からぬふりをして、

にやにやと嗤ひながら、知らぬ存ぜぬを決め込んだのだ。そして、私は私の五蘊の場に射影される私の影を追ひ求め、そして、迷子になってしまったのだ。

 

――へっへっ、とんだお笑い草だな。私なんぞは「そいつ」に呉れちまへばいいのさ。何故って、私なんぞは「そいつ」の餌にもなりゃしないからさ。

 

と、再び「彼」が語った。私は、またも「彼」が誰なのか素知らぬふりをしながら、

にやにやと嗤ひながら、かう訊いてみたのだ。

 

――影って何の影のことかね?

――お前が此の世で見せる陰翳の狎れの果てさ。

――陰翳? さうぢゃないだらう? 影は、ものあれば、そして、もの皆、趨光性なればこそ影が存在するのと違ふかね?

――馬鹿らしい。影あるものは全て趨闇性なものさ。

――趨闇性?

――さう。闇に向かふのが存在の宿命なのさ。

――それこそとんだ茶番だぜ。

――では、何故、此の世は闇ばかりなのさ。光と闇の勢力図から言へば圧倒的に闇の勝ちだぜ。

 

と、その時さう言ったきり、「彼」は露と消えて、私が此の世に独り単独者として迷子のままに残されたのだ。

 

撲殺

 

何も言はずにそいつは撲殺されるがままに死んでいった。

その時、その場にゐた者はそいつの眼から決して眼を背けてはいけなかったのだ。

しっかりと撲殺されゆく者のその哀しみを起立した姿勢のまま、

黙って受け止めなければ撲殺されたものの魂は浮かばれず仕舞ひなのだ。

 

その日、空は雲一つなく、真っ青の蒼穹で、

撲殺されゆく者の肩に撓んで圧し掛かり、

そいつはばたりと倒れ込んだ。

 

ぶん殴るときの鈍い音だけを響かせてはゐたが、

その場にゐた者は皆苦虫を噛み潰したやうな顔を突き合はせて、

「ぼくっ」と言ふ鈍い音とともに倒れたそいつのかっと見開かれた眼玉を凝視し、

しかし、一瞥しただけで既にそいつは全てを語り果してゐたのだが、

それを見てゐた者は、一時もそいつから目が離せず、

それが死にゆく者に対する

最低限の礼儀だったのだ。

 

もう、二度と今生で会ふ事もない者を彼の世に送る儀式として、

先づ、そいつの死に様を、唯、撲殺されゆく者の眼から眼を逸らしてはならぬ。

理由なく、そいつは撲殺されたゆゑに。

 

しかし、此の世は不合理である事を

知り尽くしてしまってゐる者どもの眼は、

腐った鰯の眼玉そっくりに、たまたま死に損なったに過ぎぬのだ。

それゆゑ、生き残ってしまった者の礼儀として

そいつが確かに死んでしまったのを見届けた後に、

一滴の涙を零して瞑目すべきなのだ。

 

さうすることで、唯一、撲殺された者を弔ふ葬送は終はる。

 

野辺送りした後、

そいつの残滓を追ひ求めつつも、

残されし者は黙って一礼し、

さうして、その場を離れるがいい。

 

これが撲殺されし者に対する

折り目正しくある礼節なのだ。

 

この作法を行はずして、

撲殺されし者は浮かばれやうか。

 

 

闇に紛れて

 

この闇に紛れてまんまと逃げ果せたと思ふな。

何故って、闇自体がお前だからさ。

両の目玉をかっと見開き、

闇の中でも気配でものの存在が解かるお前は、

さぞかしをかしいに違ひない。

ところが、俺はかうして提灯を持ち

お前の内部を穿鑿してゐるんだぜ。

 

光に照らされる気分はどうだい?

さぞかしちくちく痛いだらう。

光の照射を闇たるお前の急所に当てて、

さうしてお前を殲滅するのさ。

さもなくば、俺がお前に喰はれちまふのさ。

此の世は所詮弱肉強食。

闇が勝つか光が勝つのかのどちらかしかないのだ。

闇に光あり、光に闇ある世界は既に終はりを告げたのだ。

 

闇の中で提灯が照らし出しものは

蛸の足のやうな吸盤がある奇怪なもので、

其処にお前のアキレス腱が、つまり、急所がある筈なのだ。

 

もういいだらう。

さうして虚勢を張った処で、お前の内部は全てお見通しなのだ。

闇が住む世界は既に駆逐されて、

お前は影としてのみとして此の世に存在を許されしものなのだ。

 

ならば、お前は、此の世からおさらばして、

さうして天の太陽を滅ぼすべきなのだ。

それとも太陽風に当てられて

お前はAuroraのやうに自己発光しちまった訳ではあるまい。

お前にAuroraのやうな美は必要ない。

お前にはGrotesqueな深海生物の異形がお似合ひだらう。

 

黒色の中にでも逃げ込んだのぢゃあるまいし、

此の世を黒に塗り潰し、

闇の復活を目論むその野望は、

悉く失敗する運命なのだ。

 

だが、地獄は甦生した。

お前は地獄へ堕ちる魂に飢ゑ、

その眼をぎらぎらと光らせて、

闇の中へと引きずり込むものの出現を俟ってゐる。

 

しかし、さうは問屋が卸さない。

俺がかうして提灯で闇を照らせば

闇は光から逃げるのみ。

 

然し乍ら、提灯の灯明は一陣の風に吹き消され、

残されたのは何処までも広がる闇ばかりなのであった。

 

朝靄に消ゆるは誰が影か

 

それは地中から際限なく立ち上る湯気のやうに

直ぐに辺りは濃い朝靄に包まれ、

その中に消ゆる独りの影があったのだが、

瞬く間に朝靄の中に消えてしまったのだ。

 

これはドッペルゲンガーなのか、

濃い朝靄の中に消えた人影は私だと直感的に解かったのだ。

 

さて、困ったことに私には足がなかったのだ。

濃い朝靄に消えた人影の後を追ふことが出来ずに

噎せ返るやうな朝靄の中にぽつねんと佇む以外に何も出来なかったのだ。

とはいへ、私の下半身は朝靄に溶け入り、

既にその姿形は失せてゐる。

 

岸壁に舫(もや)ふ一艘の船のやうに

私は一歩も動けないのだ。

 

それが私が私に対する苦しい姿勢なのだ。

さうして、私は、私の影を見失ひ、

尤も、私を見失った私とはいったい何なのであらうか。

 

救ひは此の濃い朝靄なのだ。

朝靄に上半身のみが此の世に現はれた私もまた、

此の濃い朝靄に消ゆる独りの人影に過ぎぬ。

 

その時間、私は何を考へてゐたのだらうか。

まるで記憶喪失のやうに私はその時の私の頭蓋内に巡ってゐた思考を

全く亡失してゐて、唯、私から逃れ出た私の影の残滓を追ふばかりではなかったのか。

 

そもそも私は、私が存在するには劣悪な環境なのだ。

そのもんどりうちながらも私が私にある事を我慢する私は

既に堂堂巡りの中にゐる。

 

堂堂巡りこそが、私に残された思考法なのだ。

最早弁証法はその神通力を失ひ、思考に対して害悪しか齎さない。

 

私は、独りぽつねんと濃い朝靄の中で、逃げ行く私を見てしまったのだ。

 

芥田川龍之介によれば、ドッペルゲンガーは死期が近いという事を表はしてゐるらしいが、

そんな事は全く気にせずに、

私は朝靄に溶け入る私を此の世に縛り付けるやうに踏ん張るしかなかったのだ。

 

濃い朝靄がまるで地中から無際限に立ち上るやうに何時までも消えずに街を蔽ってゐた。

それは暫く消ゆることはなかった。

 

何たることか

 

何たることか。

《吾》を苦しめてゐる《もの》が《存在》それ自体だといふのか。

ならば、《吾》は《存在》から退くべきなのぢゃないかな。

かうして、《吾》は何時でも《存在》から退く事ばかりを考へてゐたのだが、

ところが《吾》は《存在》から撤退することはままならず、

退くのは《吾》以外の《もの》ばかり。

さうして此の世に《吾》のみ取り残されたといふ錯乱の中、

単独者としての《吾》の来し方行く末に不安を覚える《吾》は、

絶えず現在に取り残されたといふ怨嗟にのみに執着し、

過去と未来を呪ふのだ。

 

不安が去来現をぶつ切りにしながら、

《吾》の内部を侵食する。

 

燃え上がる《異形の吾》は、

ヰリアム・ブレイクがかくいふ消えない永劫の炎に身を包み、

《吾》に取って代はらうとバリバリと《吾》を喰らふのだ。

尤も、それは《吾》が望んだ事で、《吾》の消滅こそ、

《存在》する苦悶からの逃げ道なのだが、

それは《吾》がある限り不可能なのだ。

 

禁忌なのか。

《吾》が《吾》を侵食する事は。

秋山駿が「内部の人」と呼んだ《存在》の在り方は

土台、無理強ひもいいところなのさ。

へん、《吾》が《吾》を喰らふとは、

嗤ひが止まらぬぜ。

 

何たることか。

《吾》は《吾》を鏖殺し尽さなければ、

満足しない生き物なのだが、

それが端から許されぬ不合理に留め置かれつつある苦悶の中で、

永劫の業火に燃ゆる《異形の吾》に喰らふが儘に、

《吾》は《吾》として屹立させられる。

 

だが、《吾》は毅然として業火に焼かれる儘に、その場に屹立せねばならぬのだ。

 

寂寞

 

此の寂寞とした、何とも表現し難き感覚は、何なのであらうか。

――それ。

と其処に石ころの一つを投げ入れても、カランコロンと虚しい音が響くだけなのだ。

しかし、その寂寞とした其処は、吾は決して見放すことは不可能なものなのだ。

何故って、其処は此の胸に外ならないから。

それでも吾は何度でも其処に石ころの一つでも投げ入れて、

カランコロンという虚しい響きをぢっと聴かずにはをれぬのである。

 

さうして、吾は、やっと此の世に屹立する事が許され、

また、吾はその虚しい響きで以て吾の存在を確認するのだ。

 

その響きは、しかし、虚しいものでなければならない。

でなければ、吾は直ぐに吾に飽きてしまって其処で大欠伸をするのが関の山なのだ。

それは、シシュポスに比べれば、何の事はない、簡単に自己確認が出来ちまふ代物なのだ。

つまり、吾は絶えず虚しい響きに聞き耳を欹てる事で、

吾が虚しいものとして納得出来るのだ。

さう、吾は何としても虚しいものでなければならぬ。

吾が虚しくなければ、途端に吾は吾自身に対して猜疑の眼を向け、

無理矢理にでも吾は吾を虚しいものとして把捉したがるのだ。

 

その傍では、お道化たものが、つまり、それも憎たらしい吾に違ひないのであったが、

吾を嘲笑ふ吾もまた、その虚しい響きに安寧を感じてゐるのだ。

ならば、吾、立たんとす、シシュポスの如くに。

さうして胸奥に石ころのカランコロンといふ虚しい響きが永劫に残るのだ。

 

短歌二首俳句一句

 

何を見る闇間に浮かぶ月明かり其は絶望の写し鏡か

 

何悩むそんな吾の惨状に連れない月はただ嘲笑ふのみ

 

月を見て哀しみに一人煩悶する夜更け

 

何気なく

 

何気なく見ただけであるにせよ、

一度でも目にしたものは必ず見た事を覚えてゐなければならぬ。

何故って、今生の縁として、多生の縁として

眼にしてしまったものは必ず死後までも覚えておかなければならぬ。

それは此の世を生きるものの最低の礼儀だ。

さうしてやつと吾は吾として認識出来るのだ。

これが吾と他との相容れない線引きなのだ。

この線引きこそが他を思ふといふ事のアルケー、つまり始まり。

そして、アルケーなしに吾の縁の出立はないのだ。

そこでやがて来る死に備へて何かをすることは要らぬお世話なのだ。

死を迎へるにせよ、

それは日常を何の衒ひもなく生き切るといふ事以外何物でもない。

死を前にして生者たる吾は何も特別なことをする必要がない。

死を前にして、吾はただ、ものを喰らひ、寝、そして日常を生活するだけでいいのだ。

さうして吾は死を受容するのだ。

 

さて、お前は何時も吾を嘲笑ってゐるが

さうしてゐられるのも今の内だけだ。

他を嗤へる存在は賤しく醜悪な存在でしかない。

嗤ふのは吾に対してのみでしかない。

自嘲するといふ行為こそ、

自慰行為に似た吾の快哉なのだ。

そんなとき、吾は「わっはっはっはっ」と哄笑し、

己が存在を堪能すればよいのだ。

 

なあ、何気なく見てしまったものこそ、

脳裡から離れぬものだらう。

 

流れる雲に

 

《吾》の頭上を流れゆく雲は

絶えず変容して已まぬのであるが、

その中で《吾》は、

流れる雲の如くに絶えず変容してゐると断言できるのか?

 

仮に《吾》が変容する事を一度已めてしまったならば、

果たして《吾》は《吾》足り得るのか?

 

あの空に浮かび、風に流されゆく雲は、

気圧と気流と水蒸気との関係から、絶えずその姿を変へるのであったが、

《吾》にとって気圧や気流や水蒸気に当たるものは何かと問へば、

それは《他》と《森羅万象》と《世界》、つまり、《客体》と答へればいい。

 

雲が姿を変へるのは雲の赴くままに全的に雲に任せればいいのだ。

雲は雲にも宿ってゐるに違ひない《吾》が為りたいやうに変容してゐるのではなく、

雲を取り巻く環境、若しくは《世界》に応じて

無理矢理とその姿を変へるのだ。

それでも雲を見る度に

雲が己自体で姿を変容してゐると見えてしまふ此の《吾》のちっぽけな哀しみは

《吾》が《世界》を認識出来ぬ焦りからか、

《吾》が《吾》で完結する夢想を今も尚抱へてゐるに過ぎぬのか?

 

このちっぽけな《吾》は

絶えず《吾》でなければならぬのだ。

さうして初めて《吾》は《世界》を認識し得るのだ。

さうして初めて《吾》は《吾》と呼ぶがよい。

そして、《吾》もまた《世界》によって変容を強要されるのだ。

 

ざまあみやがれ!

さうして《吾》は自嘲出来、

たんと此の世に佇立する。

 

そんな《吾》の頭上を雲が変容しながら流れゆくとき、

《世界》は、《森羅万象》は、《吾》を自嘲する嗤ひ声の大合唱に溺れ行くのだ。

――ぐふ。嗚呼、何故に《吾》は《世界》に《存在》し得るのか?

 

 

口惜しきは

 

 

口惜しきはお前の生に対するその姿勢なのだ。

お前は生に対してかくの如く断言しなければならぬ。

「死んだやうに生き永へえるには、《吾》は《吾》の無間地獄から抜け出すべく、《吾》は須からく覚悟を持つべき事。」

それは陽炎の如く曖昧模糊とした《吾》の造形を意識は《吾》には齎さないが、それでも《吾》は抽象の中にほんの僅かな具象の欠片を《吾》に見出しては、安寧を抱くのだ。

 

それ、再び《吾》から陽炎が飛翔する。薄ぼんやりと前方を眺めてゐると《吾》の体軀から陽炎が湧き立つ翳が見えるのだ。

 

それで《吾》はかう断言しなければならぬ。

 

「《吾》この珍妙なる存在よ。最後までその正体を現はす事なく、《吾》が太陽のやうに非常に高温なコロナの如き陽炎を放つことで、《吾》を敢へて現実に順応させる陽炎よ。

《吾》の内発する気は祝祭の前夜祭。

気が気の精でならなければ、人間は一時も生きられぬに違ひない。

 

人いきれの中で、吾は夢見で知らぬ人と今生で最後の邂逅をするやうにして合ひながら、ほら、しかし、最早、一瞥した見知らぬ人は既に私の記憶から忘れられてゐる。

 

ヒューヒューと風音を鳴らす吾の胸奥に隠れてから暫く立つ《吾》は、

只管孤独を恋しがるのだ。そして端倪すべからぬ存在に対しては終始穴に首を突っ込み、

恐怖の眼下に隠された何かの奥から鋭き視線ばかりがビームを放つ如くに前方の荒涼とした風景を眺めるのだ。

 

その渺茫たる抽象世界に果たして生命は生き得るのか。

やがてくる砂漠化した世界で

《吾》はゾンビとして墓から抜け出し、

夜な夜な悔し涙を流してゐるのだ。

 

卒倒

 

不意に意識が遠くなり、脊髄が痺れることで、

私の意識は私の預かり知れぬ領域にぴょんと跳躍するのだ。

さうして、吾は私の自意識から剥落する自意識から脱皮し

何物でもないニュートラルな自意識の様相で宙ぶらりんになるのだ。

 

このどっちつかずの有様にほろ酔ひ気分で上機嫌になり、

私が私であると断言できないこの眩暈の瞬間が

なんのことはない、吾が吾から遁走するいつものやり口なのだ。

 

眩暈にある吾は直にぶっ倒れることがはっきりと解ってゐるのであるが、

その僅かの時間がぐにゅうっと間延びし、

その短い時間のみ、吾は吾であることが言明できる。

 

この眩暈の時間はダリの絵の如く時計はぐにゃりと曲がり、

どろりと零れ落ちやうに流体物と化し、

既に吾の意識も歪にぐにゃりと流体化して、

時間の進行を全く意識することなく、

卒倒までの短い時間の快感をもっと堪能するのだ。

 

ここで、吾は最早今生では会へぬ筈の異形の吾にたまさかでも遭ふのだ。

そこで、吾は吾に溺れてはならぬ。

これは、吾が吾に対して詭計を行ふいつもの手なのだ。

今にも羽化登仙するかのやうな吾の心地よい瞬間に騙されず、

吾は、しかと吾の体たらくを直視し、

さうして吾はほろ酔ひ気分の中にありながらも、吾を断罪するべきなのだ。

 

それが吾が卒倒するときの唯一の礼儀であり、

吾が現在にしかをれぬことに対する最も有り体な姿勢なのだ。

 

さうして、吾は吾に対する言葉を全く失ふことで、

吾は吾に対して絶句することで心底から語り合ふことが可能といふ矛盾を

身をもって知るのである。

 

吾と吾との間に最も相応しい言葉は沈黙であり、

さうしてしじまが吾の卒倒を誘ふのだ。

 

進退谷まれり

 

何を思ったのか、彼は不意に哄笑したのである。そのひん曲がりながらも高らかな嗤ひ声には彼の置かれた状況が象徴されてゐて、と、突然彼は涙をその瞳に浮かべたのである。何が哀しかったのだらぅか。

――そんな事も解からないのか。存在がそもそも哀しいのさ。

――馬鹿らしい。そんな事は誰もが思ふ事で、殊更に言挙げする必要などないぜ。

彼は何とも名状し難い皮肉に満ちた嗤ひ顔で尚も涙を流すのであった。

――醜いぜ。男がそんなに泣き顔を世間に晒すのは醜悪以外何ものでもないぜ。

――なに、死を前にした男の一泣きを、つまり、Swan song(スワン・ソング)を聴く事がそんなに気色悪いかね?

彼は尚も頬に涙を流し、噎び泣くのであった。

 

曇天の鈍色の雲は竜巻を巻く積乱雲の底のやうに地面近くまで垂れ込めて、彼の泣き声を掬ひ取ったのであった。

――死を前にした男の泣き声ね、ふっ。お笑ひ種だね。そんなものなど端からある筈がないぢゃないかい? 生まれちまったものは死を抱きしめるしかないのに、何を今更泣く必要があるのかね。全く話にならないね。

その時彼の視野の外縁に突然光が飛び込んできたのであった。それは何だか巴の、若しくは陰陽五行説の太極のやうな勾玉の形をした、つまり、精虫が取り付いた卵子の如く彼の眼に光が飛び込んで来たのであった。さうして、彼の内部には何かが誕生したのである。それが何なのかは、彼が口を開くまで解からぬ事であった。

――何が見えたのかね?

――何、『お前は死の床に就け!』との天の声が聞こえたのさ。

――天の声? 馬鹿らしい。

――お前にかかると何もかもが馬鹿らしいのだな。それぢゃ生きてゐて詰まらなくないかい?

――余計なお世話さ。

――さう。何もかもが余計なお世話なのだ。それでも此の世には絶えず何かが生まれ、そして、絶えず何かが死んで逝くのだ。諸行無常。森羅万象はこの摂理に対して全くの無力で、それを有無も言はずに造化のままに受容する外ないのだ。それが、果たして何物も我慢出来る代物かね。おれには我慢がならぬのだ。おれにはまだおれの死は受け容れられぬ。

――……。

ここに彼の進退谷まれり。

さうして彼は茫然と渺茫とした世界を眺めながら、静かに瞳を閉ぢて、死に旅へと出立したのであった。

 

短歌二首

 

何ものも 吾を入れる物ならず それ故独り秋月を見る

 

常世をば 誰もが望み崩れゆく それもまた乙なものとして 夢見するのか

 

『進退谷まれり』

 

流れゆく雲を眺め、

それが既に際どい状態にあることを察知せよ。

さもなくば、お前は既に「死んでゐる」

 

それで構はぬといふのであれば、

それをお前は絶えず示威しなければならぬのだ。

そんな愚劣な時代がもうやって来てしまったのだ。

 

誰も彼処も愚劣にも吾を主張し、

個性の時代等とほざきやがる。

しかしながら、その主張する個性はうざったく、

眼の毒でしかないのだ。

個性はできる限り隠す事が

他者に対する最低限の礼儀だらう。

 

能ある鷹は爪を隠すとあるやうに

個性は性器と同様に衆目に晒すには羞恥を堪へ忍ぶ覚悟がゐる。

 

さうして、吾は進退谷まれり。

それは司馬遷の如くに、そして武田泰淳の如くに。

 

抽象的な無限

 

それは俺の手には余りあるものと言はねばならぬ。

しかし、闇が此の世に存在する限り

そいつは俺を其処へと誘ふのだ。

そいつの名は無限と言ふのだが、

それは俺にとって余りに抽象的なものなのであった。

 

無限級数をぢっと眺めてゐても何にも解からぬが、

然しながら、其処には俺の与り知らぬ先達たちの知の痕跡が残されてゐて、

或る無限級数は収束する。

 

ところが、それがさっぱり解からぬのだが、

しかし、俺の拙い論理を当て嵌めてみると、

何の事はない、俺には未だに無限が抽象的な、

否、形而上的な何ものかと

錯覚したいだけなのだ。

 

無限を前にすると、俺は顔が引き攣って

胸奥で快哉の声を挙げずにはゐられぬ。

成程、俺にとって無限は或る憧憬の一種であった。

俺の内なる声を聞けば

無限に呑み込まれたく浮世を這ひずり回ってゐるのだ。

 

或ひはさうなのかもしれぬが、

無限に憧憬を抱いてしまふ俺は、

今も尚、赤子の如く浮世に投げ出され、

さうして母親の乳房をぢっと待ってゐるだけなのかもしれぬ。

 

無限とは腹が減るものなのである。

だが、無限を満たすには、食物では駄目なのだ。

 

それには抽象的な思索の断片が必要で、

それを唯一美味さうに無限に飢ゑた俺は食らへるのだ。

 

何を嗤ってゐるのかね。

君にはきっとこんな事はどうでもいいのかも知れぬが、

俺にとっては生死を分けるのっぴきならぬものが無限なのだ。

 

もう、後退りは出来ぬのだ。

何故ってもう俺は此の世に生まれ落ちてしまったからさ。

一度でいいからこの掌で無限をぐにゅっと握り潰して

俺の手で、無限を具現したいのだ。

 

さうしてやっと俺は生きる事に我慢が出来るかもしれぬのだ。

何を我儘を今も尚言ってゐるのかと吾ながら自嘲してしまふのだが、

かうまで拗れぬうちに無限と折り合ひが何とか付けられれば良かったのだが、

馬鹿な俺は不覚にもその時機を逃してしまったのだ。

だからといって無限から一歩も遁れられぬ俺は、

無限を追って無様にぶっ倒れるのだ。

 

さうしてぶっ倒れた俺は抽象的な無限を食らふべく

きっと今も尚無限を凝視し、無様に無限を追ふしかないのだ。

 

 

 

 

 

嗤ふ死神

 

そいつは不意に現はれて生を根こそぎ攫ってゆく。

その現実を前にして現存在は為す術もなく

ただ、死神の思うがのままに、

不意に生を断念させられし。

 

恨めしき死者たちは此の世を彷徨ひ、

生から幽体離脱した死の状況を呑み込めぬままに

この激変した現実を全的に受け入れる苦痛を味はひ尽くすのだ。

さうして、死者は初めて、己が死んだことを認識し、

己が肉体とさやうならをするのだ。

 

この後、ブレイクの銅版画絵のやうに死者は肉体から離れ、

吾が死を悲しみをもって眺めるのか。

 

それはしかし、残酷極まりないことでしかなく、

生き残ってしまったものにとっては

いつまでも宙ぶらりんの現実のままま

現実は止揚されるのだ。

 

死神の何しれぬ顔で大鉈を揮ひ、

生を根こそぎ奪っていくその刈り取りの様は、

全く慣れたもので感嘆の声を挙げるしかないのだ。

 

「ふっ」、逃げ惑ふ人間に対して容赦なく生の灯を吹き消すべく、

死神は大鉈を揮ふたびに大風を巻き起こす。

 

「あっは」とまるで濁流の流れに呑み込まれたやうに

吾はやっとの思ひで息継ぎをし、

後は大水に流されるまま、

その間ぢっと生の尊さを噛み締めなければならぬのだが、

それに堪へられぬ現存在たる吾はすでに生を断念するしかないのか。

 

俳句一句短歌一首

 

秋の日に 生死が揺れた 濁流の引力

 

吾にある 闇深き陥穽に 陥れば 安堵するかな 吾は生くぞや

 

揺れちゃった

 

浅川マキの歌が脳裡に流れる中、

仄かに揺らぐ吾の在所に

吾既に蛻(もぬけ)の殻

 

「揺れちゃった」といふ歌詞に

吾もまた揺れちゃったのだ。

陽炎が揺らぐやうに

吾から飛翔する吾の「本質」は

また、本質であることをはたと已めて

吾手探りで吾を求める

さう、既に吾盲人

 

何処に消えしか

その吾は果たして吾と呼べる代物か

 

「はっ」と自嘲の嗤ひを吐き捨てるやうに

天に唾するこの吾は

不意にさやうならを言ふのであった

 

「バイバイ」

 

さういって此の世を去ったものに対して

吾は吾と何時迄言へるのか

そんなもの捨てちまへ、と君は言ふが

吾は吾なるものをどうしても捨てられぬのだ

 

さうして死後もこの世を彷徨ふか

それが吾の運命ならば

ギリシャ悲劇の主人公になった如く

悲劇の運命を微塵もずれずに

その生を生き切るのか

 

「嗚呼」と嘆く前に吾独りで時間を貪り食らふのだ

さて、その時に現はれしものを何と呼んだらいいのだらうか

 

俳句一句短歌一首

 

喪服にて秋月夜のみ輝きし

 

漆黒の闇に消えにし吾が影は自由なる哉形なしとは

 

撲殺 二

 

更に一つのものが有無を言はせずに撲殺されたのだった。

なにゆゑにそれは撲殺されねばならなかったのか、

何ものもその理由を知らず、

さうして、それもまた、撲殺されたのだった。

 

それは、既に人たる事を已めて、

物になりたく

只管に自虐の渦に敢へて吾を呑み込ませてみたのだが、

何とした事か、それは人たる事を已められず、

人である恥辱をぢっと噛み締めてゐたのだ。

 

――人である事は恥辱かね。

と、それには数多の愚問が投げかけられたが、

はっきりと言へる事は、

人は人である事で既に恥辱なのだ。

 

――馬鹿を言へ。

 

何ものも自己である事を已められぬといふギリシャ悲劇の主人公のやうに

既に定められた悲劇の運命を実直に生きねばならぬとしたならば、

誰がこの生を生きられやうか

 

――嗤はないで呉れないか。

己は悲劇の主人公とはいっちゃゐないぜ。

運命を、苟(いやしく)も吾は知り得ぬのであれば、

さて、そもそも運命とは何ぞや。

それ以前に運命は存在するのかね。

 

――何を愚問を。

 

さう、愚問だ。

しかし、生あるものは森羅万象、

露と消ゆるのみなのだ。

この宇宙に存在する限り、

死は運命なのだ。

これに対して否定する事は不可能だらう。

 

――いや、何かこの宇宙を飛び立つものは辛うじて次の宇宙にその絆を繋ぐものさ。

 

――それは不合理だ。

 

――馬鹿言はないで呉れないか。此の世はそもそも不合理なものだらう。

 

――否、此の世には法則がしっかりと存在するぜ。

 

などと、下らぬ問答が蜿蜒と続く中、

此の世に存在しちまったものは

此の世は不合理だと感じてゐるのが

仮に多数派ならば、

或るひは此の世は不合理なのかもしれぬのだが。

 

さうしてそれは撲殺されたのだ。

なにゆゑかは残されたもののみが考へられる事であり、

撲殺されちまったそれは

もう何にも考へられぬのさ。

 

――否、死しても尚、念は残るぜ。

 

俳句一句短歌一首

高き蒼穹 吾を殺せと 喚いてみるが

 

何といふ 黒き闇夜に 吾捨つる それでも残る 此の世の未練が

 

薄明の中の闇

 

其処に開けた闇へ至る道に

立てる脚を持ってゐるならば、

しっかと両の脚で立ち給へ。

 

もしそれも出来ないといふのであれば、

匍匐してでも薄明の中でその重たき体躯を引き摺ることだ。

さうして漸く目指すべき闇が開けるに違ひない

 

なにゆゑに今更闇なのかと問ふ奴には

ただ、かっと目を見開き睥睨すればよい。

それが唯一のお前の答へるべき姿勢なのだ。

 

そして、闇に至れば、闇を愛でるがよい。

しかし、此の世に存在しちまったものに

闇に至るべき術はないのだ。

 

夢のまた夢、それが闇なのだ。

それに気付いてしまったならば、ただ、黙って瞼を閉ぢて

闇紛ひの贋作の闇に戯れる事だ。

さうして、お前に何かが生じれば、

それを以てして

お前はこの世知辛い此の世で生を繋げる筈だ。

 

ふうっと一息吐いて

そうして、胸、否、肚一杯に息を吸って

頭蓋内を攪拌してみる事だ。

 

其処には必ず異形の吾が棲んでゐて

にやりと気色悪い嗤ひを浮かべて、

お前の訪問をぢっと待ってゐるのだ。

 

それを知りさへすれば、

どれほどお前が此の世を生き易く出来るか計り知れぬのだ。

 

ただ、生きろ。

それが死したる俺の生きたるお前への遺言だ。

 

俳句一句短歌一首

 

秋風に 心誘はれ 魂魄を噛む

 

生き延びる 術は誰もが 知らぬもの それでも生きる 覚悟があるのか

 

哀しいと言った奴が

 

それは何とも不思議な事であった。

確かに哀しいと言った奴がゐて

俺はそちらに面を向けると

そいつは既に姿を消してゐた。

ところが、哀しいと言った奴は

姿は隠したが、絶えず声を発してゐて、

俺を弾劾するのであった。

 

何をして俺は弾劾されねばならなぬかと言ふと

俺はそもそも此の世に存在するが罪だと言ふのだ。

そんな事を言ったならば、

俺以外も同じではないかと思ふのだが、

そいつに言はせると

存在が哀しいと思へぬ者は全て弾劾されるべきものであったと言ふのだ。

 

確かに哀しいと言った奴がゐて、

そいつの警告を解からぬ馬鹿な俺は、

怖いもの知らずで、俺の存在は、と胸を張り、

さうして墓穴を掘るのだ。

 

何の事はない、

俺はこれまで一度でも俺の存在に対して胸を張った事はなく、

むしろ、俺は穴があったら入りたいといふ姿勢で

これまで卑屈にも生きてきたのではないか。

 

そいつにすれば、俺のその卑屈さが気に入らなかったのだ。

 

確かに哀しいと言った奴がゐて

俺はと言ふと、

既に哀しいと言ふ感情を擦り切らしてゐて、

既に哀しいと言ふ感情が俺に湧き上がる事がなく、

そして、虚しいのだ。

 

虚しい俺は、もうとっくに忘れてゐた

哀しいと言ふ感情を懐かしむ余裕はなく、

渺茫と己の胸奥に開いている穴凹を覗き込みながら、

虚しいと言ふ感情を呼び起こしながら、

確かに哀しいと言った奴の

面持ちを想像するのであった。

 

だが、哀しいと思へる事は

俺にすれば途轍もなく幸せな事で、

その幸せを知っている哀しいと言った者の

影を追ひながら、

俺は哀しいと言ふ感情に無性に憧憬を覚えるのであった。

 

俳句一句短歌一首

 

哀しさの 消ゆる夜長に 咳一つ

 

自意識に 拘泥するは 吾のみか そして此の世は 自意識を馬鹿にす

 

 

 

 

 

惚けてしまった哀しみの

 

惚けてしまった哀しみの

茶色い色はすっかり褪せて、

柿渋のやうな衣魚が残りました。

 

――どうして私は

と思ふ以前にすっかり草臥れ果ててゐたのです。

それでもやっぱり哀しいと言ふ感情は幽かに蠢いてゐて、

私は無言で涙を流すのでした。

 

惚けてしまった哀しみは

私の心を蔽ひ尽くしてみたはいいが、

鋭き刃物で剔抉された私の心からは

どろりとした哀しみが腐臭を発して流れ出たのです。

 

それは眼球を抉り取られるに等しい苦悶をもって

眼窩のやうな穴が心に開いたのでした。

 

さうして、既にどろりと溶けてしまった私の脳味噌は

その眼窩からちょろりと流れ出て、

まったく死靈と化してしまってゐたのです。

 

生きる屍は

此の世の多数派に違ひなく、

誰もが既に鰯の目玉のやうな目つきをしながら、

己を食らう奴の目玉を睨み付けてゐる筈だ。

 

まだしも、食われるだけでも死んだものは幸せなのか。

既に腐った吾は食ふには最早適さずに、

火葬にするが精一杯。

 

惚けてしまった哀しみは

何時しかどす黒い血色に染まってゐたのです。

さうして私は無言で涙を流すのでした。

 

俳句一句短歌一首

秋の日に 逃げた女の 影と遊ぶ

 

ここにゐて  さう言ったまま 消えた女 残されし吾 欠伸する

 

 

油膜のやうに

 

虹色をその表面に湛へてゐる油膜のやうに

なんにでも張り付いて

また、それを薄膜で覆ふ油膜こそ、

もしかすると玉葱状をしてゐるかもしれぬ俺の正体を

七色に変化させる妙味となるのか、

それとも水と油のやうに

互ひに相容れる事無く

蒸発して此の世から消ゆる迄

自己主張し続ける油膜は、

存在の在り方として許容出来るのものなのか。

 

例へば油膜のやうな存在の在り方が許せるとして

それで俺は何を其処に見出すのかと自問自答してみると

へっ、何にも見つけられない、と言ふのが俺の率直な実力で、

荒ぶる自意識すら手懐けられぬ俺には

油膜の有様は望むべくもない夢のまた夢

 

しかし、さうだとしても

俺は此の世の作法に則る生き方しか許されぬものとして

柔な人生を送るのに満足出来るのかと言へば

それには一時も我慢がならぬ俺は、

我儘に、そして放恣に此の世にあると言ふ有様こそを

求めてゐたのではないのか。

 

俺の有様を、さて、虹色に変へる油膜のやうな薄膜で

風呂敷包みのやうに包んでみるかと俺自身、独り遊んでみるのであるが、

それはまるで影踏みのやうな自己満足の恍惚しか齎さないのは承知の上で、

自己陶酔する俺に目眩みたいのだ。

 

さて、さうしたところで、

俺には到底解からぬ謎ばかりが深まる存在の闇に逃げ込むのが

俺の出来得るぎりぎりの所作なのだ。

つまり、俺はそれしきの存在でしかないのだ。

それを嗤ふか唾棄するかは

どうでもよく、

ただ、俺は俺が此の世に存在してゐる感触が得たいだけなのかもしれぬ。

 

存在の有様に虹色の妙味を加へる油膜のやうに

俺の懐は奥深くあるのかとの自問の果てのどん詰まりで

俺は挙句に俺を捨つるのか。

 

俳句一句短歌一首

 

流れる鰯雲は山頭火の如くあるか

 

闇深く逃げやうもない吾あるに何思ふのか悪夢の果てに

 

 

触感

 

この触感が俺に不快を起こさせ、

俺が此の世に存在してゐることを実感させるのだ。

その触感は何かと言へば、

それは肉を噛む時の触感なのだ。

 

蛸を噛む時の不快が吾を吾足らしめてゐると言ふものが嘗てゐたが、

俺は肉を噛む時の触感が不快でならないのだ。

それは何やら吾そのものを噛んでゐるやうでゐて、

つまり、それが不快の正体には違ひないのであるが、

それ以上に食らふと言ふ事の残酷さにそもそも堪へられぬ柔な俺は、

心の何処かで俺が此の世に存在する事を許してしまふ間隙を突いて

俺は憎らめっ子世に憚るを地で行くやうにして

ものを食らって生き永らへる。

そして、その事態に俺は唯、面食らってゐるに過ぎぬのであるが、

俺は俺と此の世で叫べるに値する吾であるならば、

何ものに対しても食らふ事に罪悪感など抱く筋合ひではないのであるが、

俺に食われたものは、さて、此の世でその本望を達せたのかと言へば

それは食はれゆくものは、

その本望の途中で殺されてしまひ、

俺に食はれるといふ不条理にあるのは逃れられぬのだ。

それに俺は一時も堪へられぬと知りながらも、

泣きながら俺は肉を食らふのだ。

 

泣いた事で何かが変はる事なぞありもしないが、

それでもこれが泣かずにゐられやうか。

 

肉を食らふ時の触感は

最早変はる筈もなく、

俺は唯唯、生き永らへるためにのみに

肉をゴムを噛むかのやうに食らふのだ。

 

さうまでして生きるに値するのかどうかなど

俺の知った事ではないのであるが、

しかし、俺は食事の度毎に虚しい自身を感じずにはゐられぬのだ。

 

この堂堂巡りの虚しさは

尽きる事はないのであるが、

それでも俺は食らふ事を絶えず問はずにはゐられぬのだ。

 

さて、この俺は生きるに値するのであらうか。

これは愚問に過ぎぬのであるが、

さう問はずにはゐられぬ俺は、

かうして今日も生きてしまふのだった。

 

さあ、俺の臆病を、小心者ぶりを嗤ふがいい。

さうする事でのみ俺は何とか生きられると言ふものなのだ。

 

俳句一句短歌一首

 

十三夜に虚しき影を引き連れて漫ろ歩く

 

咳一ついつまでも残るその余韻このがらんどうに吾独りなり

 

 

邂逅

 

視界の縁できらりと輝くのは「死者達」の魂魄か

それとも病んだ眼球の見せる幻覚なのか

しかし、俺にとってそんな事はどうでもよく

唯、そこに気配を感じられればそれでよいのだ。

 

その光は絶えず俺を見張ってゐて、

どうやら俺に会ひに来たのかもしれぬのだ。

 

だが、その光るものは決して面を現はす事はなく

只管、そのものの発する光が俺の視界の縁にてちらりと輝くのだ。

 

俺はそれにどう対していいのかも解からず

しかし、その光こそ俺が長年待ち望んだ邂逅なのか

それが死んだ者達の魂魄である事を望んでゐる俺が確かにゐて、

死んだ者達との邂逅が待ち遠しいのだ。

 

――死んだ者達との邂逅。

 

などと嗤ふ奴がゐて

それでも死んだ者達の「声」が聞きたいのだ。

 

そして、その気配に抱かれたとの懐かしい感覚は

何故湧くのか解からぬとしながらも、

しかし、俺はこの感覚を知ってゐた筈なのだ。

この懐かしさこそ、俺が俺であり得た根本で、

俺の源流に繋がる何かなのだ。

 

確かに俺の視界の縁できらりと輝くものがあり、

俺はそれに対して幽霊の如く存在するものとして

俺なりに看做したいのだ。

 

さうすれば、俺は確かに生き返るのが解かり切ってゐた。

瞼がBlack holeのシュヴァルツシルト半径、

つまり、事象の地平面の暗黒の象徴に等しいとすれば、

なにゆゑに俺の眼球の縁にきらりと輝くものが存在するのか

とても「合理的」に語り果せるのかもしれなかったが、

しかし、そんなことは俺にとってはどうでもよく、

唯、俺の視界の縁にちらりとその姿の残像を残して輝くそのものは、

やはり死者達であってほしいと

何処かで期待する俺が確かにゐて、

さうして俺は俺の存在を実感するのだ。

 

なに、本末転倒。

それで構はぬではないか。

土台、生とは本末転倒したものでしかないのだから。

 

俳句一句短歌一首

 

死者に会ふそのをかしさの夜長かな

 

漆黒の闇に消え入る猛者どもは共食ひをして俺と叫ぶか

 

 

徐に

 

そいつは徐に俺の頭蓋内の闇の中で立ち上がり、

――ふはっはっはっ。

と哄笑を発したのである。

何がそんなにをかしかっのだらうか

俺にはとんと合点がゆかぬままに、

しかし、そいつは徐に歩き出し、

俺の頭蓋内からの脱出を試みてゐるやうなのだ。

 

そいつは巨人族の仲間に違ひなく、

その動きはすべて徐に執り行われ、

そして、そいつの動きはなんとも間が抜けたやうに緩慢なのだ。

そんな何処の馬とも知れぬ巨人が

何時から俺の頭蓋内に棲み着いたのかは判然としなかったのであるが、

尤も、俺の頭蓋内を俺が隈なく知ってゐる筈もなく、

何が棲んでゐやうが

それは俺の与り知らぬ事であった。

 

つまり、俺の頭蓋内程、俺にとって未開な場はなく、

俺の頭蓋内が仮に天上界へと、

若しくは奈落の底の地獄に通じてゐやうとも

そんな事は俺の存在にとってはあまり関係がないと思はれ、

しかし、俺は俺の頭蓋内が気になって仕方がないのだ。

 

何が俺の頭蓋内に存在するのか、

たぶん、俺が死んでもそれは未来永劫解からぬまま、

俺は一陣の風に吹き飛ばされる遺灰となり、

さうして、この森羅万象があると言へる世界に死後も放り出されたまま、

その今徐に俺の頭蓋内に立ち上がった巨人と俺は戯れるのが関の山なのかもしれぬ。

 

しかし、それで善しとしなければ、

土台、俺は俺にとっては未来永劫未知のままであり続け、

さうだからこそ、俺は今此の世で生き永らへてゐるのであり、

そんな俺に対して俺は「ちぇっ」と舌打ちしてみるのであるが、

それはそれで楽しくもあり、

何やら自然と嗤ひが出るのも仕方がないのである。

 

尤も、存在は∞の相の重ね合はせの末に

超然として此の世に誕生した筈で、

それを知りつつも、

俺は俺に対して未練たらたらで、

今を生きるのだ。

 

そして、俺は胡坐を舁きながら、

背筋をぴんと伸ばし、

俺の頭蓋内の巨人に対峙するのだ。

それは存在に対する最低限の礼儀で、

さうしなければ、俺は今にもそいつ、つまり、巨人に食ひ潰されて、

破滅する外ないのだ。

 

それでいいのであれば、俺は疾ふに破滅する生を選んでゐた筈で、

それは、つまり、その巨人に俺の存在を食ひ潰されるのか、

将又、踏み潰されるのかのどちらかを疾ふの昔に選んでゐた筈で、

さうしてゐない以上、俺はその巨人が俺の頭蓋内を我が物顔で蹂躙するのを

或る意味受容してゐるのである。

 

ならば、俺は俺だと叫べる筈なのだが、

今も尚、巨人の存在を知ってしまってゐる俺は

さう叫べずにゐるのだ。

 

そして、そいつは徐に欠伸をした。

何とも暢気で気持ちよささうに。

 

晒し首

 

さて、晒し首の頭蓋内にも思念が宿ってゐるのかと言ふ問ひに対して

誰も判然と答へ得る事は不可能に違ひない。

 

しかし、この問ひは幽霊は歳を取るのか、と言ふ問ひとも関連してゐて、

私見では幽霊は須らく歳を取るべきなのだ。

何故って、それは単純明快で、此の世に幽霊は存在し

さうして死者の思念が生者に憑りつく事で

死者の主張が世界に遍く反映される事は世界にとっては健全と言はざるを得ぬのだ。

そのために死者は生者とともに歳を取るべきなのだ。

 

あっ、現存在の肩の上に陽炎が立ち上り、

ゆらゆらと嗤ってゐやがる。

 

晒し首からもゆらゆらと陽炎は立ち上り、

死んだ者の思念が湧き立つ核とならねば

死んだ者は浮かばれぬ。

浮かばれなければ、怨念が此の世を蔽ひ、

生者の生に何らかの悪影響が出るのは必定。

 

さうした死者の犇めき合ふ世界に生がぽつねんと浮かんでゐると想像出来れば、

何と生きる事が楽しい事になるか。

 

生は死なくしては生たらしむる事能はず。

死もまた、生なくして死なる事能はず。

 

そして、その死を詩は紡ぐ端緒になるのだ。

 

 

死の爆風

 

仮に生者が死の領域へと踏み出した時、

星が大爆発をして死んでゆくやうに

現存在もまた大爆発をして死するに違ひない。

そして、その爆風は死すべき現存在が

此の世に未完で終はってしまった事を託すべきものに

その未完の思念を念により託すに違ひないとも言へないか。

 

星の死す時、X線やら瓦斯やら塵埃やらを吹き散らし、

そして、星そのものは自身の重みに堪へ切れずに自身で自身に圧し潰され、

さうして星の中心部は自ら潰れ行き、

途轍もなく小さく、

そして、途轍もなく重い物質となり、

白色に輝くものがあれば、また、光すら逃さぬBlack holeへと

移りゆくものがあると言はれてゐるが、

さて、その死んだ星が放出したものは

やがて他の星に届き、

其処に死の知らせを伝播するのであるが、

これと同じ事が現存在の死にも起きてゐて、

現存在が死に足を踏み入れた時に

死にゆくものとの念の波長が

ぴたりと合った現存在にのみ感じ取れる念を伝播させ、

その念によりそれを受け取った現存在は

問答無用にその伝播した念に導かれるやうにして

死者の思ひを受け継ぐことのみを

現存在はその生を生きる事を宿命づけられ、

その念を成就する事に血道を挙げるのだ。

 

仮にその念をギリシャ語の死の神を意味するタナトスを捩って

タナトストンと名付ければ、

そのタナトストンを捕縛し、

さうしてタナトストンが渦動する「杭」として現存在が此の世に立つのならば、

それは現存在の本望ではないのか。

 

死者の伝言の念が感じ取れてしまふ現存在は、

その死者のタナトストンを受け取り次第、

死者のタナトストンを成就するべく、

敢然と立ち上がり、

さうして只管死者の念の成就にのみ生を捧げるべきなのだ。

 

一方で、タナトストンを認識出来てしまふ現存在は本来不幸そのもので、

その生は不合理そのものに違ひないのであるが、

しかし、生とはそもそも不合理で現存在がどうにか出来るものではなく、

死者のタナトストンに無理矢理引き寄せられてしまった現存在は

その生の不合理を呪ったところで最早手遅れで、

そのタナトストンを全うする事のみに生を捧げ、

それに満足せねばならぬのだ。

 

死の爆風はタナトストンを全宇宙に向けて放出し、

そのタナトストンを受容してしまった現存在は

もう覚悟を決めねばならぬ。

 

それが唯一生者に残された生の道であり、

また、死者に対しての最低限の礼儀であり、

さうして漸く現存在は現存在足り得るのだ。

 

俳句一句短歌一首

 

珈琲を淹れて独り中秋の名月

 

何ものに為り得るのかも知らずしてさうだからこそ輝く生あり

 

五蘊場に棲む者どもよ

 

頭蓋内の闇を「五蘊場」と名付けた俺は、

其処に棲む「異形の吾」どもに対して破れかぶれの戦ひを挑んで暫くするが、

それは敗退に敗退を重ね、

俺はもう五蘊場から追ひ出される寸前だ。

 

そもそも五蘊場に棲むものどもは何ものなのか。

きっとこの俺に関係したものと予想するのであるが、

その異形の様が何処をどう見てもこの俺とは全く似てゐないものどもで、

それは物の怪の類としか俺には認識出来ぬのだ。

 

つまり、それは、俺が物の怪の眷属か末裔と言ふ事を意味するのであるが、

しかし、この俺が物の怪だった事はこれまで一度もありはしない。

 

ただ、俺は人間である事を已められず、

その事を屈辱をもって受容してゐるのだけだ。

 

そんな俺の五蘊場に棲む仮象のものどもは既に俺の願望を負はされた

哀しい存在なのかもしれぬが、

それでも五蘊場に棲むものどもに対して俺は、

かう呟かざるを得ぬのだ。

 

――お前は誰だ。

 

さうするとすぐにこんな答へが五蘊場で木霊するのだ。

 

――お前だよ。

 

こんな嗤ひ話はありはしない。

にもかかはらず、この言明は俺にとっては致命傷で、

俺の胸奥をその言葉は剔抉するのだ。

さうしてそこからどくどくと流れ出す俺の血潮に俺は俺の未来を見てゐるのだ。

 

悲しい哉、果たする哉、五蘊場に棲むものどもは

全て歪曲された俺の異形に過ぎぬとも言へるが、

それを「異形」の一言で片付けることが可能なのか、

俺はそれに肯ふ事が出来ずに唯唯反抗するのだ。

 

つまり、徹底抗戦あるのみ。

 

ふん、しかし、其処から敗退に敗退を繰り返す俺は、

もう自嘲するしかないのだ。

 

――この馬鹿者が!

 

さうして今も俺の五蘊場で異形のものどもが大手を振って闊歩するのだ。

 

俳句一句短歌一首

 

大月夜拉麺食らふ馬鹿らしさ

 

自嘲する吾の深みは底知れずその深淵に落下する吾とは

 

頭痛に溺れる

 

脳の髄が拍動しているやうに

じんじんと痛みを発する奇妙な頭痛に、

俺は溺れる。

 

何がさうさせると言ふのか。

 

俺に残された振舞ひは

この脳の髄を痺れさせるやうな頭痛に対して

謙虚に対峙する事が俺が今日生きたと言へるに相応しい姿勢なのだ。

 

絶えざる謙虚さこそ、

この傲慢にも此の世に生を繋いでゐる俺のせめてもの償ひ。

 

この不愉快な頭痛を心の何処かでは心地よく感じてゐる俺は、

既にドストエフスキイの『地下室の手記』の語り部そのものに

歯痛を快感に変えると言ふその思念の持ち方をいまさらながらに意識して、

俺はこの頭痛を楽しみ、そして溺れるのだ。

 

頭痛に溺れる事で、

俺はやっと息が付けて、

そして、安寧を得るに違ひないのだ。

 

さて、この頭痛の先に俺の死が仮令待ってゐても

俺はそれを受容する覚悟は出来てゐる。

 

ならば、この頭痛を心行くまで味はひ尽くすがいい。

さうして何か未知なる視界が開けるならば儲けものだ。

 

仮令それが死であっても俺は何ら後悔はしない。

むしろ、それが俺の望みなのかもしれぬのだ。

何も意気がっても仕方がないのだが

生を繋ぐものとしては絶えず意気がざるを得ず、

意気がって生きる事が、死者に対するせめてもの礼節であり、

生きるものは絶えず死者に対して謙虚でなければならぬだ。

それでも何か発したい言語があれば、

それは死者を穿つものでなければならぬ。

 

かうして俺は今日も脳の髄がじんじん痛む

頭痛に溺れる。

 

俳句一句短歌一首

 

生くるに値する生に懐疑する秋の夜長

 

何ものも自らに不快な吾あれば独り思ひ詰める吾あるに

 

仄かなるもの

 

それは一体何なのだらうか。

仄かにその気配だけが感じられる存在と言ったらいいのか、

何やら傍らにゐるに違ひないのだが、

それを「これだ」と名指せぬのだ。

名指せぬ故にそれを存在するものとして認識出来ず、

俺はくっと奥歯を噛みながら、

この何とも言ひ難い事態を我慢するしかないのだ。

 

それは俺の世界観を全く覆すほどの出来事に違ひないのであったが、

何とももどかしく、終ぞ名指せぬのである。

つまり、言葉では言ひ表せぬものが俺の傍らには存在するのであったが、

それが「ある」とも断言出来ず、

その仄かな気配を漂はせる何ものかは

しかし、ある、若しくはゐるのである。

 

そんなわけで俺は瞑目するのである。

さうして瞼裡に現はれる表象群は

傍らにゐるものの気配をじんじんと感じながらも

俺を翻弄するに十分なのだ。

 

何が俺を此処に佇立させ、

さうして瞑目させるのか。

つまりは俺の傍らにゐるに違ひないそのものの気配に

俺はさう感じるだけで既に翻弄されてゐて、

俺の存在はそれにより脅かされてゐるのかもしれないのだ。

 

「そんな奴」と名指してみても

それは全く的外れで、

例へば、それを霊と看做したところで、

単なる気休めでしかなく、

幽霊ならば、まだましなのだ。

 

それ程に俺を苦悶させるそれは

俺を心底震へ上がらせ

俺はそれを名指す事で

この仄かに気配を漂はせてゐるそれを

言葉の槍で串刺しにせずば、

俺の存在そのものが足を掬はれかねぬのだ。

 

仄かにその気配を漂はせてゐるそのものにとっても

俺の存在はきっと恐怖の存在なのかもしれず、

双方にとってその気配は恐怖の対象でしかないに違ひない。

 

嗚呼、瞼裡で移ろひ行く表象群は

俺を嘲笑ってゐるのか、

俺の思考するものとは全く関係ないものを映し出し、

それに俺の注意を惹き付けずにはをれぬのだ。

 

とはいへ、俺の傍らにその仄かな気配を醸し出すそのものは

何時まで経っても俺から離れやうとはせずに、

絶えず俺を脅かせて嗤ってゐるに違ひないのだ。

 

「よろしい」

 

さう呟いて、俺はぺっと唾を吐いて自嘲してみたが、

その仄かにその気配を漂はせるそのものも

ぺっと唾を吐き捨てたやうに感じ、

俺はまたしてもどうにもならぬ不快の中に

俺は俺の意識を沈めるのだ。

さうして溺死する俺を想像しては

一時の安寧を得るのだ。

 

さう、死こそがその仄かに気配を感じさせるそのものの弱点なのは、

初めから俺は知ってゐたのであったが、

それには何としても目を瞑り、

そのものが傍らにゐる気配がある限り、

死は御法度なのも俺は知ってゐたのだ。

 

かそけき世界

 

この世界は

何とかそけきものなのだらう。

 

――あっ、

 

と、何かを見つけても

それが本当のものなのか

或ひは蜃気楼なのか

最早俺には区別が付かぬのだ。

さうして既にかそけき幻視の中に

埋没した俺は

其処にも見えるものを手に触れながら、

これが実物のものとしてこの世界に存在してゐるのか

単なる思ひ過ごしなのか

全く無分別になった事で、

全的に世界を受け容れられたのか。

 

絶えずかそけくある世界に対して

俺は反抗してみるのであったが、

俺を取り巻く幻視において、

俺は最早逃げ場なしの状態で、

へっ、つまり、お手上げなのだ。

 

このかそけき世界の金輪際に追ひ詰められた俺は

何と哀しい存在なのかと、嘆いたところで、

何にも変はりはしないのだ。

そんな事は疾ふの昔に知ってはゐたが、

実際に世界が幻視の中に埋没してしまふとなると

それは戸惑ひしか齎さないのだ。

 

何が哀しいのか、俺は独り泣きをしながら、

かそけき世界に後生をお願ひする馬鹿をする事で

このかそけき世界に生き残る場所を譲り受けるべく、

懇請するのだ。

 

或るひはこのかそけき世界と懇ろな関係になったのかと思ひなしたところで、

俺はこのかそけき世界に連れなくされて、

愕然とするのが関の山なのだ。

 

最早、俺はこのかそけき世界にかそけく自閉するに限るのか。

いづれにせよ、俺は肚を決めねば、また、肚を据ゑねばならぬのは間違ひない。

 

そして、へっ、俺はこのかそけき世界で生きる術を見出せるのか、

その最後まで見てやらうとくっと顔を上げるしかなかったのだ。

 

 

天籟(てんらい)

 

何処で音が鳴ってゐるのか判然としない天籟が、

また、聞こえ出す。

吾独り畳に胡坐を舁き、

天籟が鳴る事で兆す猛嵐をぢっと待つのみ。

 

天籟は何時も嵐を呼び、

さうして吾の内部も大揺れするのだ。

それが楽しいとか不快とかいふ以前に

猛嵐は必ずやって来て、

大地を揺るがすのだ。

 

この天籟は、しかし、吾のみが聞えてゐるらしい。

何時も《他》はこの天籟に気付くことがなく、

気象そのものを見下し、

人間の統制下に気象があると端から看做してゐるその傲慢さに

全く気付くことなく、

天籟の不気味な響きのみが

全世界を巻き込んだ大交響曲の轟音として

終ぞ直ぐにでも鳴り響くことが予感される恐怖。

 

人間が塵芥の如くに死んでゆく猛嵐を前にして、

誰が己の死を予感してゐるのだらうか。

しかし、哀しい哉、猛嵐が来ると必ず人間が死ぬのだ。

天籟はそれ故に死を予感させるもの。

それが私の内部をざわつかせ、

ぢっと天籟に耳を澄ませる事になるのだ。

 

もうすぐに、私を含めて誰かが死ぬ予感、

それが天籟の鳴る音に聞き耳を立てずにはゐられぬ理由なのだ。

 

さて、この天籟が大轟音に変はる時、

またもや誰がが死んでゆく。

 

静寂に包まれしこの時間のありがたさ

 

何時になくざわつく心を持て余し何処へと吾は遁走するのか

 

顫動(せんどう)

 

かそけく羽ばたく蚊の羽音のやうに

時空は絶えず顫動し

それに伴ひ俺を俺足らしめる時空も顫動する

 

嗚呼、其処に飛び立つのは何ものなのか。

 

さうしてかそけきは音を立てて、俺の影から何かが飛び立ったのだ。

これをドッペルゲンガーと言ふのかどうかはいざ知らず、

ただ、俺の影が最早俺の手に負へぬものとして

此の世に存在してゐる事だけは確かなのだ。

 

仮令それがドッペルゲンガーだとして

それが俺の死の予兆に過ぎぬとしても

それはそれで祝杯を挙げるべき事象に違ひない。

 

さあ、祝祭の始まりだ。

俺は俺の死を祝ふべきものであり

さうでなければ、一体俺の存在は何なのか。

死は即ち祝祭の始まりなのだ。

これ以上、楽しいことはない。

生に纏はる苦悶は全て捨て去り、

何ものかが確かに俺の影から飛び立ったのだ。

それはかそけき顫動をし、

さうして今も尚、俺の頭蓋内で顫動してゐる。

 

先に逝ってしまったJAGATARAの江戸アケミが嗤ってゐるかな。

高田渡がまだ、生ギターを抱へて吟遊詩人さながらにフォークソングを歌ってゐるかな。

将又、浅川マキが黒づくめの衣装を纏ひ、

これまた吟遊詩人の如くクレイジーな歌を歌ってゐるかな。

 

死者に頭を垂れて、俺は俺の疑似死に対して憤懣をぶちまけるべきなのか。

そんな事はない。

俺の疑似死に対して、俺は祝杯を挙げ、毒を呷るのだ。

そして、それを一気に飲み干し、彼の世の幻視の中で狂ひ咲きすればいい。

それが、唯一俺に残された快楽の正体らしいのだ。

 

嗚呼、俺の影から何者かが飛び立ち後には顫動する時空のみが残ってゐる。

 

水面(みなも)

 

変転に変転を重ね、

また、無数の波が重ね合ふ水面に

この時空の面影を見るとすると、

一度たりとも同じ様相を呈さない水面は、

或る意味刹那的なのかもしれぬが、

その刹那に凝縮した時空の切片には

存在のあり得る余地が浮き彫りにされるのかもしれぬ。

 

水面は何時まで見てゐても全く飽きることなく、

吾が胸奥を打つのだ。

その儚い様相は絶えず流れゆく時間を象徴し、

また、その絶えず変化して已まない水面には

存在の一様相が象徴されてゐる。

 

ナルキッソスが水面に移る己の相貌に美を見たのは、

絶えず揺れる水面に移るその相貌が生きてゐるかのやうに

また、ナルキッソスが既に生霊の如くに化して

それが憑りついてしまった故のことなのでなからうか。

 

水面はそれ故に恐ろしいものなのかもしれぬ。

水面の揺れ動きが吾が魂魄の波長とぴたりと合ふ瞬間があり、

それが吾が存在において間が射すのだらうか。

 

多分、水面の上の無数の波の位相は、

必ず私の念、若しくは魂魄の拍脈する波動と同調し、

さうして共振を起こしては

吾を水面に釘付けにするのだ。

 

最早、水面の睨まれてしまふと

いかなる存在も最早微動だに出来ず、

ナルキッソスの如く水面から離れ得ぬのは必然なのかもしれぬ。

 

向かう岸からちょこちょこと泳いでくる真雁が、

此方の岸にゐる雌雁に求愛するのであらうか、

野生の性愛はこの水面故に許される行為なのかもしれぬ。

 

それにしても水面上の空気の乱れをも愚直に映す水面は、

既に鏡としては余りにも生きものじみてゐて、

面妖為らざるその有様に水面を覗き込む存在は

存在自体、つまり、物自体に既に憑りつかれてゐて

一歩も動けないのが実情ではないのか。

 

ゆらゆらと揺らめく吾が相貌に魅入りながら、

ナルキッソスの逸話に思ひを馳せては、

ナルキッソスは水仙になる事でしか救はれなかったに違ひないと

水面の吾が相貌は無言で吾に語ってゐたのである。

 

 

反復

 

反復にこそ時間の謎が隠されてゐる。

反復と言ひ条、そのどれもが全く同一の相はなく、

返って反復がその位相において

全く同じ位相が見つかると言ふ事は虚妄に過ぎぬ。

例へば時計の振り子運動は全く同じに見えるかもしれぬが、

その反復には午睡を誘ふ魔術が潜んでゐて、

振り子をぢっと見つめてゐると何だか心地よくなり、

渦巻く時間の陥穽に陥るのだ。

 

反復運動が円運動に変換可能なことは

オイラーやフーリエを持ち出すまでもなく、

自明の事と言へ、

その円運動に吾が五蘊場には或る周期を持った円運動が巻き起こり、

知らぬ間に俺はその円運動に呑み込まれる。

 

その五蘊場の円運動は各各近しい位相を見せるのであるが、

それは一度として同じ円運動が五蘊場に表象される事はなく、

例えば、その円運動が五蘊場で大渦を巻いてゐるならば、

吾はやがてその大渦に呑み込まれ、

何とも羽化登仙するかのやうな心持で、

睡魔に襲はれ五蘊場は睡眠相に相転移し、

吾はその総出に埋まるのだ。

 

さて、反復には既に其処に円運動、

若しくは球運動、

若しくは∞次元球運動が控へてゐて、

その反復は一度たりとも同じ相はありはしない。

 

嗚呼、この感覚が大好きなのだ。

この何とも言へない快楽には、

何ものにも譲れぬ心地よさが全身を占め、

吾はこの全的にその眼前の光景を肯定する睡眠の中へと飛び込むのである。

 

夢は反復の最たるものなのかもしれぬのだ。

吾は眼前の光景が夢とはつゆ知らず、それでゐて、

何とも奇妙な現実が蓋然性が入り込む余地なく、

確率一の割合で存在し、

つまり、それは、最早、己の逃げ場がない現実世界で、

さう認識する吾はその完全の光景を全肯定して受容するのだ。

 

これが睡眠時において毎日反復され、

夢魔の思ふがままに操られる吾が其処にゐる。

そして、それに吾は満足すら覚えながら、

夢魔の思ふがままに其処にゐる事を強制されてゐるのであるが、

それを強制とは全く感じる事なく、

吾は夢魔が表出させる反復の大渦巻きに呑み込まれる事を是とするのだ。

 

つまり、反復は創造の時間とも言へ、

夢魔が起こす反復に呑み込まれることで吾は毎回生まれ変わるのだ。

再生。

反復は畢竟、再生の異名でしかなく、

それ故に反復は心地よいのだ。

 

嗚呼、この時間が永劫に続くことを渇仰するのは一体誰だ。

それは、吾以外あり得るのか。

 

さうして、吾は大時計の振り子の前から徐に離れる事で、

吾をぶった切る快感を味はふ。

 

秋空に消ゆるは誰の影なりぞ

 

鱗雲何を捨つるか迷ひつつ唯朔風のみが胸奥に吹く

 

不図気付くと

 

不図気付くとそいつが傍らにゐて、

絶えず俺に罵詈雑言を浴びせてゐるのだ。

 

――あんたは、そもそも己の存在を問ふだけの頭を持ってゐやしないぜ。不条理此処に極まれり。あんたさあ、馬鹿だよね。

――現存在とはそもそも馬鹿ではないのかね。

――そこさ、あんたのをかしな処は。あんたさあ、何をもって、存在なんぞ馬鹿な事に血道を上げてゐるのかな。をかしいだらう。世界認識が出来ない奴が、存在とは……笑止千万。

 

尤も、そいつも世界認識の何たるかを知らないのは自明に思へた。

 

――へっ、よく、森羅万象なんぞと、大仰な言葉を簡単に使へるな。

――しかし、存在は荘厳なものではないかね。

――馬鹿な。存在なんぞ、虫けらの生と一緒さ。あんたは虫けらの生を馬鹿にしてゐるだらう。

――いや、昆虫ほど世界に順応した存在は此の世にない。つまり、昆虫は世界認識が元元出来てゐるのさ。先験的に昆虫はその生に世界認識が埋め込まれてゐる。

――すると、あんたにしてみると、虫けらに美を感じるのかね。それでは訊くがあんたの生と虫けらの生を比べる事をあんたはしてゐないかい? ちぇっ、それこそあんたの思ひ上がりも甚だしいのが解ってゐるのかい、このうすのろが。

 

そいつの声が俺の心の声なのは重重承知してゐたとはいへ、

俺はその俺に対して罵詈雑言を絶えず吐き続けるそいつが

愛らしくて仕方がないのも、また、事実なのである。

 

そもそも馬鹿者でない存在が此の世にあり得るのであらうか。

 

――はっ。

 

と、吐き捨てると俺は独りで暗がりの中にゐる自分を発見し、

嗤はずにはゐられなかったのだ。

そんな俺の口癖は何かと言ふと

 

――疲れた。

 

と言ふものであり、

当然、生に疲れてゐた俺にとってそいつの存在は、

心神耗弱した俺が見る幻覚に違ひないのであるが、

幻覚が見えてしまふほどに疲れてゐた俺は、

独り暗がりに横たはり

浅い睡眠をとるのが日常なのである。

 

その浅い眠りの中、当然、俺は夢魔に弄ばれて、

目くるめく転変する夢魔が現出する世界に翻弄されつつ、

 

――何を馬鹿な。

 

と半分信用してゐない己を見出すのであったが、

しかし、それは夢見るもののLogicからは逸脱してゐて、

夢魔が現出する世界は夢見るものにとって全肯定せねばならぬものであり、

さうあることで現存在は世界認識の度合ひを深めるに違ひないのであるが、

どうも俺は、そもそも夢魔を馬鹿にしてゐるのかもしれなかったのである。

さうでなければ、夢魔に弄ばれることに快楽を見出す筈で、

快楽を味はへるからこそ、

世界認識の扉は開くに違ひないのだ。

 

尤も、俺に世界の何が解かるのかとそいつは問ふのであったが、

俺がかうしてあることが既に世界認識へ至る端緒に違ひなく、

それ故に俺はそいつの罵詈雑言を心地よく聞いてゐられたのかもしれぬのだ。

 

不図気付くとそいつは俺の傍らにゐて、

俺はと言ふと、

そいつの罵詈雑言を欲してゐたのだ。

何ともMasochism染みてゐて

自虐的なもののみの特権として、

世界認識と言ふ大それたことに手が出せて、

しかも存在に関して思ひを馳せられるとの先入見に騙されながら、

俺はそいつの罵詈雑言を頼りにして、

独り、静静と現存在の虚しさをやっとの事で嘆けるのだ。

 

――それで、あんたは幸せかい。

 

俳句一句短歌一首

 

此の世とは奇妙に捻ぢれた秋の夜

 

何を知る知らねばこそ意味あるに知って吾が身を亡ぼす吾は

 

神影

 

果たせる哉、例へば闇夜が神の影とするならば、

それは成程、∞を呑み込む様相といっていいのかもしれぬ。

何故に神に∞が纏はるのかは、人間の知が∞を前にすると、

屈服するしかなく、

それでも人間は∞に立ち向かふのであるが、

馬鹿らしい、

人間の知の限界がまた∞を前にすると俄かに露はになるのだ。

 

∞を表象しやうとじたばたした人間の五蘊場には

既に知恵熱で破綻しさうな堂堂巡りに没入し、

そのあっぷあっぷしてゐる中で、

人間が仮に∞の尻尾に捕まる事が出来たなら、

それは儲けものに違ひない。

 

それを例へば神影と名付けるならば、

神影は絶えず人間の傍に潜伏してゐて、

気付かぬのは人間のみなのだ。

 

例へば夜行性の動物はそれだけ神に近しいものに違ひなく

闇の中で、つまり、神影の中で自在に動けるそれらのものは

多分、人間以上に神を知ってゐる筈なのだ。

獣が毛に蔽はれてゐるのは、

毛が神に近づく姿の基本で、

体毛を極極僅かにしか軀に留めぬ人間が

此の世で一番神から遠い存在なのは間違ひない。

 

それ故に人間は宗教に毒され、また、狂信的にそれを信じなければ、

一時も安寧を得られぬやうに創られてしまってゐるのだ。

 

そして、宗教から此の世で一番遠い存在の人間は

狂信的に宗教に煽られて、

同類で殺し合ひをその人類史と同じ長さで続けてゐるのだ。

 

それならば、闇を信仰の対象にすればいいのであるが、

既に人間は闇を信仰の対象としてゐて、

然しながら、それは光あっての闇でしかないのだ。

しかし、それは偏向した神に対する接し方で、

闇そのものが主神である宗教体系が作られなければ、

人間が神に近づくなど烏滸(をこ)がましいと言ふものだ。

 

その時、お前は作麼生(そもさん)と言ひ放ったので、

俺は思はず説破と応じた。

 

――何故に人間は闇を畏怖したのか。

――畏れ多いからです。つまり、人間も闇が神でしかないと言ふ事を本能的に知ってゐて、それ故に神を疎んじたのです。何故かと言ふに、神は戦好きと来てゐるから手に負へぬのです。そんな物騒なものは早く消したく、人間は火を使ひ、さうして神たる闇を遠ざけたのです。

――ならば、もう一度闇に対する信心を復活させればいいのではないのか。

――いや、人間は一度光を制御できる術を知ってしまったならば、闇なんぞに構ってゐられぬのです。光の下、人間活動は続けられ、さうして人間は更に神から遠くなるのです。神から遠くなる事が、つまり、人間らしいと言ふ皮肉に気付かぬまま、光を神と信ずる錯覚の中で、一生を終へたいのです。

 

俳句一句短歌一首

 

闇夜には神が坐る月ありて

 

捨つるのは何か知らぬがその俺は一目散に吾捨つる

 

軋轢

 

さうしろと言ふ俺がゐて、

さうしない俺がゐる。

どちらも俺に違ひないのであるが、

其処には克服出来ない軋轢があり、

その軋轢は黄金の壁の如く俺の頭蓋内の五蘊場で聳へ立つ

 

その軋轢を跨ぎ果せると高を括ってゐる俺もまたゐて、

何とも複雑な俺が姿を現はすのだ。

しかし、その俺を単純化して俺として捉へてはならぬ。

俺は俺の内部に何人もゐるのが通常で、

その軋轢、若しくは葛藤に躓く無様な俺がゐるのだ。

 

さうして立ち上がる俺が出現するのをぢっと待ちながら、

俺と言ふ混沌に俺は俺を見失はずにゐると言ふ矛盾に、

否、不合理に絶えず晒されながら、

俺は俺として内部に憤懣分子どもを抱へつつ、

俺は俺として屹立するのだ。

 

その時、哄笑する俺が必ずゐて

また、俺を正当化しやうとする俺がゐて、

その軋轢は克服し難いほどの底なしの溝があるのだ。

 

深淵とそれを名付けたところで、何にも変はる事はないのであるが、

しかし、名前を与へて一度名付けると五蘊場で手ぐすね引いて待ってゐる異形の吾が

雑食性のその本性を剥き出して食指を伸ばしてゐるのだ。

 

食欲旺盛な焼尽し尽くす異形の吾に睨まれた俺は、

一歩後退りして、五蘊場の中で身構へるのである。

 

何がさうさせるのか。

俺には異形の吾がゐて、

それの扱ひに困ってゐるのは確かであるが

だからといって、この無間地獄から逃れる術は俺にはない。

 

軋轢は軋轢としてそのままに俺の五蘊場に聳へ立たせて、

そいつとの共存を考へた方が身のためか。

また、底なしの穴として俺の五蘊場に存在させたままに

俺は俺として此の世にある事の不合理を

生きながら躱すと言ふ偽善を

もう存在してしまった以上、

未来永劫に亙って行ふのが身のためか。

 

何故に俺が存在してしまったのかと言ふ愚問を携へながら

俺は俺として此の世に屹立するのだ。

さうして、俺における軋轢、若しくは葛藤は

解決させずに今も尚、飼ってゐる状況が全くをかしな俺の有様なのだ。

 

悲哀

 

存在を否定される事を以てして存在する事を余儀なくされたものは、

その背中に哀しみが漂ふのは勿論、自虐する己の性のまま、

独り黙考の中に佇み、そして舌を噛み切るやうな思ひを抱きながら、

霞をも食らひ、それでも生を手放さずにゐる事を堪へ忍ぶ。

嗚呼、何を思ふ。ただ、のたりと日が沈む中、静かに夕闇に包まれてゆく。

 

ゆったりと流れる時間にただ、自死のみを意識に上らせながら、

それを鼻をつまんでみては自嘲してみて、

吾を嗤ふ退屈でありながら濃密な時間に身を置く事で、

己の存在の悲哀を噛み締めるのだ。

 

其処にはきっと空虚しかない筈なのだが、

己はそれを貪り食ふ事しかないのだが、

それが美味くて仕方ないのもまた事実なのだ。

 

それを他人は霞と言ふのかもしれぬが、

己にとっては三度の飯より美味いものなのだ。

空虚を食らふ事の虚しさがただ、己を和ませる。

それはとことん虚しくなくてはならぬ。

虚しくある事でやっと己は食ふ事の宿命を忘れられ、

浄化される仮象の中で恍惚の態を覚えるのだ。

 

ゆっくりと日は沈んでゆく。

この夕闇迫りまた、茜色に染まる夕暮れ時ほど

悲哀を背負った存在には相応しい時間はないのかもしれぬ。

 

さあ、それを避けずに独り地平線に沈んでゆく時間の充足感に身を溺れさせながら、

やがてくる虚しき漆黒の闇の時間の中で独り蹲りながら、

しかし、その豊饒さに吾を忘れるのが関の山なのだ。

ゆやーんと、暮れ行く夕日に中原中也のNihilismを思ひながらも、

己は既にNihilismでさへ救へずにゐる己の有様に苦笑ひするのだ。

ゆやーん、ゆよーん。

汚れちまった哀しみを背負はずして己の悲哀が喜ぶ事があるのだらうか。

 

微睡みから目覚めしそれは

 

長き眠りから目覚めしそれは

不意に世界に目をやり、

世界を愛でながらかう呟いた。

 

――これが世界と言ふものか。なんだかありきたりなものだな。

 

さうして身を起こしたそれはのっそりのっそりと歩き出したのだ。

それがどこを歩いてゐるのかを自身ではさっぱりと解らぬままに

当てずっぽうに歩いてゐる。

と言ひのもそれは直ちに世界が触りたかったのだ。

世界がどんなものなのか触感で味はひ尽くして

長き眠りの間に努努見てゐた世界と言ふものが

一体全体何なのか一時も早くに知りたかったのだ。

 

しかし、それはミノタウロスの眷属のやうに世界に触る先から

世界のものは砂と化してはらはらとその形を崩して

それの掌から零れ落ちてゆくのであった。

 

――なんたることか。

 

それは世界が砂上の楼閣でしかないと言ふことを

それは初めて知り、愕然となるのであるが

尤も、世界とはそもそもそんなものなのかもしれなかったのだ。

 

それは触れられるものには手当たり次第に触るのであったが、

全ては砂へと変はってしまふばかりなのであった。

 

それはなんと哀しい存在なのだらうか。

ミノタウロスの眷属であるそれは

世界が砂であると言ふ真理に確信を持ち、

さうして誤謬するのだ。

 

哀しき哉、それは

世界を知り得うることなく、

砂遊びをする中で老いて死んでゆくのだ。

 

ただし、それは世界認識を迷ふ事なく、

また、彷徨ふ事なく此の世を去るのだ。

それはそれでまた、幸せなのかもしれぬ。

 

世界の様相が砂のみならば、どんなに多くのものが救はれたであらうか。

しかし、世界はそれの認識とは全く違ふ様相を呈してゐて、

世界は混沌と秩序を行き来しながら、

世界そのものをも翻弄するのだ。

何故なら世界とは世界を包摂した入れ子状の様相を呈してゐて、

また、それはFractalなものに違ひなく、

仮にそれが可能ならば世界のどこをどう切っても

世界は金太郎飴の如くに紋切り型をしてゐる筈なのである。

 

さうして世界は存在するものにおいてのみの唯一無二の世界を表出し、

つまり、各様各様違ふ世界が存在し、

ミノタウロスの眷属のそれのやうに

世界は例へば砂として捉へ

てゐるものも必ず存在し、

それがそのものの途轍もなく個人的な信仰に結びついてゐるのだ。

 

――嗚呼、ミノタウロスの眷属よ、お前は、ちぇっ、お前は今生の中でも最も幸せなものなのかもしれぬ。世界なんぞに現を抜かす無駄な時間を浪費することなく、ちぇっ、馬鹿な。無駄な時間にこそに真理は隠れてゐるものなのさ。お前ほど哀しい存在ほど今生にゐやしなかったのだ。

 

軛を付けた私は

 

いつからこんなに足取りが重くなったのか。

惚けて空を流れる雲に見とれてゐたためだらうか。

それにしても雲はいい。

法則に縛られてゐるにもかかはらず、自在なのだ。

雲はみるみるうちにその姿を変へ、

今生のものとは言ひ難いほどの美しさを帯びた雲は、

私の思ひも引き連れて、何処へか私の夢想を運びゆく。

 

さうして雲をずっと眺めてゐたら、

どうやら私には軛が付けられたやうなのだ。

つまり、それは私が雲を眺めてゐると何処へかに行ってしまふのを

何かが恐れてゐるのかもしれぬのだ。

しかし、雲は実にいい。

雲を眺めてゐるだけで私は心が躍るのだ。

嗚呼、単なる水蒸気の塊に過ぎない雲に何故にこんなに心が惑はされるのか。

それは一つとして同じ姿をしない雲に「多様」を見てゐるからなのか。

しかし、それは間違ひなのかもしれぬ。

雲は雲なりに不自由を感じてゐるに違ひなく、

自在である筈はない。

此の世で自在であるのは神仏以外あり得ぬのだ。

 

ふっ、もしかしたならば、先験的に私はさう思はされてゐるのかもしれぬ。

果たして神仏は此の世に存在するのか。

仮に不在ならば、何が此の世の法則を決めてゐるのか。

森羅万象の癖が此の世の法則と呼ばれるものなのだらうか。

 

今生に生まれ落ちてしまったものは、

取り留めなく宇宙を漠然と考へてそれを観念に変へ、

専門家の言ふやうな宇宙観を知らずに身に付けてゐるが、

果たしてその宇宙観は私が承認したものなのだらうか。

 

この軛を私は受容しなければ、

私は、私の魂魄が憧れ出てしまふ太古のものの捉へ方に執着し、

またもや私は世界に馬鹿にされるのだ。

それはそれで構はぬのであるが、

しかし、私にとってそれは屈辱として魂魄に刻まれるもの。

へっ、屈辱なくして、此の世に存在するものはあるのだらうか。

そもそも生まれることが屈辱ではないのか。

世界に、森羅万象に翻弄される生。

そして、宇宙を漠然としか捉へられる能力がない現存在は

物理法則にあくまで翻弄され続け、

さうして、何時しかことりと生を閉ぢるのだ。

 

太古より生は生老病死と言はれてきたが、

今も尚、その金言で生を余すことなく言ひ表はせた言葉はない。

つまり、現存在は二千年余り、

真理を新たに摑むに値する哲学を生み出してゐないのかもしれず、

更に言へば、現代が昔よりいいと言ふのはまやかしなのかもしれぬ。

 

それでは私は何を以てして生きていけばいいのかと言へば、

それがこの軛に外ならぬのだ。

生を受けしものは皆軛を付けてゐるのか。

 

空を眺める私はこの地に縛り付けられて

つまり、重力の軛から逃れられず、

また、逃れやうとせずに、

大地で生きる不条理。

 

吾ありて尚不合理窮まれり

嗚呼、雲よ、私を何処へか連れ出してくれぬのか。

 

憂愁の中で私は

 

布団の上にだらりと投げ出された女体を眺めるやうに

私は只管私の外部と内部の両睨みで睥睨してゐたのであるが、

もはや疲労困憊の私には鬱勃と憂愁が私の何処からか湧き出し始め、

そんな憂愁の中で私は腐敗し始めたのかもしれなかった。

 

既に私の内部は崩壊を始めてゐて、

その死体が永きに亙って私の内部に横たはり、

何の事はない、

私は私の内部に目眩ましを喰らはされてゐたに過ぎぬのだ。

 

さうして永きに亙って死体としてしか

もはや存在してゐなかった私の内部は、

私の知らぬ間に腐乱を始め、

気が付けば腐臭が私の内部に充満してゐたのである。

 

それが芳しかった時期もあった筈なのだが、

憂愁の中に落ち込んでしまった私にはその腐臭は

もはや堪へ得ぬ悪臭に変貌したのだ。

 

この憂愁の中にある私が正常なのかもしれず、

腐臭を腐臭として感じられる感性こそに私は私の根拠を求めたのであるが、

如何ともこの悪臭には悩まされる以外になかったのである。

 

私は私からの脱出を何度も試みたのであるが、

それはことごとく失敗に終はり、

さうして私は憂愁の中に投げ出されたのだ。

 

私からの脱出に倦み疲れた私は

この腐臭に我慢する外なく、

腐臭を腐臭と感じられる私こそが正常な私であった筈なのであるが、

そんな私はどうしても居心地が悪く

私が私である事が不快でならないのだ。

自同律の不快とそれを名付けた先人がゐたが、

その時その先人は自らの腐臭を嗅いでゐたかもしれなかったのだ。

 

この腐臭は、しかし、私が存在したその根拠であり、

腐臭が立ち籠めてゐる限り、私は死体とはいへ、

私は必ず存在してゐた事は間違ひなく、

それのみが私の安寧の根源なのだ。

 

哀しい哉、ゆっくりと時間は流れゆく中で私は、

ゆっくりと腐乱してゆく内部の私に鼻を抓みながらも

私は何とか此の世に存在するのだ。

 

「死体に口なし」とはいへ、

気付けば既に腐乱死体となってゐた内部の私は

腐臭と言ふ形でその存在を指し示す事でしか存在出来なかった私は、

哀しいのか、ただ、腐乱した私をぢっと眺めることは憚られ、

さうして倦み疲れた私は、内部の私から目を逸らす事しか出来なかったのだ。

 

憂愁の中で私は内部の私の甦生を全く行ふ事なく

唯、抛っておく事しか出来なかった。

 

雲を摑むやうにしてしか、結局、私は私に対峙出来なかったのだ。

つまりは、私は内部の私を既に見捨ててゐて

それが腐りきって消滅するので残された時間を

生きる事に精一杯で、

私が私に関はる事に既に倦み疲れてゐた私は

鬱勃と私の湧泉から湧き出す憂愁に

抱き抱へられるまま

悩ましげにしながら確かに存在してゐたと思ひたかったのかもしれぬ。

 

 

深い陥穽に墜ちたとは

 

それは何の前触れもなくやってきた。

それは黒子(ほくろ)と呼ぶのが相応しいのかもしれぬが、

この軀体に現はれた真っ黒な点は、その底が余りに深かったのだ。

 

その皮膚上に現はれた黒点は太陽の黒点にも似て、

強力な磁場で俺を揺すぶりながら、

俺の気配を吸ひ込み、

その黒点に墜ちた俺は

尚も俺を探しながら、

「へっへっ」と嗤ひながらまだ、落ち着いてゐたのは余りに楽観的だったのだ。

 

その黒子が仮に癌であったならば、慌てふためく筈の俺は、

それを承知の上で上っ面では癌であって欲しいと望んでゐて、

しかし、実際にその現実を突き付けられた途端、

魂魄が動揺し、顫動するのは解り切ってゐた。

 

とはいへ、俺は何を思ったのか、煙草を銜へて紫煙を呑み込み、

その紫煙の中に消えゆく俺の視界に溺れて、

さうして誤魔化す現実の先には醜悪極まりない現実ばかりが横たはり

その現実に絞め殺される思ひをしながら、

絶命する事ばかりが宿命と呼びかけて魂の動揺を抑へるのだ。

 

何を以てして俺は俺と言へるのかと、

永く俺を悩ませてゐた懊悩を

この際その縺れた俺が俺と言ふものを解きほぐしながら、

尚も俺は存在すると胸奥で叫ぶのだ。

 

その声が何かに届くのかと言はれれば全く不明なのであるが、

この際、世界を、さう、此の世界を呪はずして何を呪ふのか。

 

世界が流転するから俺は参ってゐるのか、

それとも俺が七転八倒するから俺が参ってゐるのか、

最早その区別すら出来ずに、

呻吟する俺の魂魄。

 

さて、さうしてゐる間も

俺は俺の陥穽として現はれた黒点の底知れぬ底へと

墜ち続けてゐたのであるが、

尤もその堕落が落下なのかどうかさへ解らずに

不快な浮遊感ばかりが感じられるのだ。

 

この宙ぶらりんな俺の状況を

最も知らなければならぬ俺は

その宙ぶらりんの俺の二進も三進もゆかぬ状態を

むしろ楽しんでゐるのだ。

 

哀しい哉、

俺の性は地団駄を踏む事を愉快と思ふ事なのかもしれぬ。

だが、一度でもいいから外部に向かって叫び声を上げる事をしなければ、

俺は俺の存在に対する猜疑を振り払ふ事など不可能。

 

黒子に吸ひ寄せられてしまった俺は

最早その磁場から逃れる力はなく、

陥るのみなのだ。

 

しかし、それが果たして堕ちてゐるのか、

天昇してゐるのか最早判定不可能なのも正直なところ。

 

果たせる哉、

俺の事を客観視出来る俺、

つまり、対自、更に言へば脱自の俺の有り様なんぞ

終ぞ解りはしないのだ。

 

「実存は本質に先立つ」と言った先人がゐたが、

そもそも俺の本質とは何なのか。

俺の本質とは此の底知れぬ黒子の穴ではないのか。

それとも、かうしてじたばたしてゐるだけの優柔不断な俺ではないのか。

 

さあ、嵐よ来い。

さうして黒子の穴に堕ちた馬鹿な俺を吹き飛ばしてくれないか。

さもなければ救はれる俺を誰が想像出来るのか。

 

陰翳

 

夕闇も深まる時、

森羅万象は一斉に陰翳に色めき立つ。

ざわざわとひそひそ話を始めるものたちは、

吾が存在により生じる陰翳に、

己の己に対するずれを確認しながら、

自分の居場所から離れてゆく。

 

何て心地よい時か。

俺が俺から離れる時に生じる俺の陰翳に

俺は快哉を送るのだ。

 

何故って、

俺が俺からずれると言ふ得も言はれぬ感覚は

全て陰翳として可視化され、

また、その陰翳には俺の異形が犇めき合ふのだ。

昼間は影を潜めてゐた異形のものたちは、

世界に陰翳が生じる此の夕闇深き時に、

その重たい頭を擡げ、

森羅万象に生じる陰翳に水を得た魚のやうに

自在に動き回り始める。

 

その時こそ、俺は俺から一時遁れる。

此の至福の時に、俺は安寧の声を上げで、

しみじみと俺を振り払ひ、

俺から遁れた俺を抛っておくのだ。

 

そして、俺が抜けた俺の抜け殻は、

最早俺である必然はなくなり、

俺もまた、陰翳に惑はされるやうに

抜け殻の俺は何ものかに変容する。

 

そして、存在の化かし合ひが始まるのだ。

いづれが狐か狸かは問はずとも、

此の化かし合ひについつい夢中になり、

あっと言ふ間に夜の帳が降りてくる。

 

宵闇の中に溶けゆく存在の陰翳は

更に自在に蠢き回り、

最早、いづれが俺なのかは判別不可能なのだ。

 

そんな夜の帳の中、

いづれも生き生きとしてゐて

闇に溶けた陰翳は、

石原吉郎の「海を流れる川」といふ言葉が指す存在の意地を抱きながら、

夜の闇の中を陰翳として存在するのだ。

 

その陰翳のある範囲が俺の居場所。

しかし、闇と陰翳の境界は消し飛び、

俺を意識することでのみ俺の存在は担保される。

 

「意識=存在」を説いた先人に埴谷雄高がゐたが、

夜の宵闇に消え入る森羅万象の陰翳は、

意識=存在を体現してゐるのでないのか。

 

闇の中ではいづれもが己が己である事を意識せずば、

存在が闇に溶けきってしまふのだ。

陰翳とは、かくも存在に結び付いてゐて、

陰翳と存在の親和性は抜群に高く、

さうして、また、陰翳ほど俺を裏切るものはない。

 

陰翳は一度現はれると

陰翳そのものも陰翳である事に承服しかねてゐて、

陰翳こそ、自在に陰翳から離れて飛び立ちたいのだ。

森羅万象はその陰翳の憤懣を知りつつも、

唯、陰翳に甘えてゐるのだ。

何故って、陰翳の憤懣こそ異形のものたちの活力なのだ。

 

辺りはすっかりと夜に沈み、闇ばかりが尊大になるこの時、

陰翳はやうやっと陰翳からの解放を得、

さうして自在になったのか。

それとも陰翳は此の闇の中、己の存在を尚更意識して、

陰翳の存在に固執するのか。

 

俺は此の闇の中、俺である事を已めず、

異形の吾たちが俺をいたぶる事に快楽を覚え、

一方、俺は、それに何故だか意地があって堪へ忍ぶのだ。

 

さうして夜通し俺は暴力的な異形の吾と対峙しながら、

只管、俺は瞑目するのだ。

 

揺らめく幻視の中で

 

何時からか何ものも揺れはじめ、

気付いてみるとそれは森羅万象に渡ってゐた。

何もかもが揺れる世界にゐなければならぬ苦痛は

しかし、何とも居心地がいいのも否定出来ぬのだ。

そして、この相反する感情の揺らめきに共振し、

更に世界は揺れるのだ。

 

しかし、此の世界とは一体何なのであらうか。

これはとびきりの愚問に違ひないのであるが、

それでも問はずにはをれぬ俺は

多分、既に正気を失ってゐるに違ひない。

その証左が揺れる世界なのだ。

そして、俺は此の世界と言ふものを猜疑の目でしか見られずに

そもそも世界の存在を疑ってゐるのだ。

 

しかし、一方で、俺が見てゐるものは幻視の世界ではないのかと

思ひ為してゐる俺もゐて、

俺はこの二重写しの世界に股裂き状態で屹立してゐるのかもしれぬ。

 

そんな無様な俺の有様は、他者から見れば、滑稽そのもので、

下劣な喜劇を踊ってゐるだけに違ひないのだ。

 

それは将に醜悪極まりなく、

何ものにとっても鼻つまみもので、

それでも居直る俺もまた存在する。

 

どうすれば俺は俺の存在を承服出来るのかと

訝るのであるが、

その術は全く不明のまま、

それでも漠然とした俺がこの揺れる幻視の世界に

二重写しとなる世界にゐるのだ。

 

何が本物で何が偽物なのか既に解らぬまま、

猜疑ばかりが肥大化するこの揺れる世界の中で、

その化け物のやうに猜疑が肥大化した俺は、

ぶくぶくと太りだし、

尚更醜悪極まりない俺を此の世界に出現させる。

 

しかし、仮令、此の世界が幻視のものであるにしても、

だからといって俺は最早世界から遁れられぬのだ。

 

幻視の世界と言ってもそれは俺には現実の世界であり、

夢現が区別出来なくなった俺は、

既に精神が病んでゐるに違ひない。

 

病んだ眼差しの向かうに見える世界は、

しかし、俺には相変はらぬ日常を提示し、

さうして俺は一日を何とか生き延びてゆくのだ。

 

それでも世界に縋るしかない俺は、

とんだ道化師に違ひにない。

世界が俺をからかってゐるのかどうかはいざ知らず、

唯、足を掬はれるのは世界ではなく一方的に俺の方なのだ。

突然、卒倒する俺は、世界にからかはれ、馬鹿にされながら

ある拭ひ難い視線を感じる。

 

その視線は何時も俺を串刺しにするやうな視線で、

それを俺は「世界の目」と看做してゐて、

その刺すやうな視線から遁れられぬ俺はその場で地団駄を踏みつつも、

尚も世界に縋り付く。

 

哀しい哉、道化師とはそんな存在なのだ。

幻視の世界で笑ひを振り撒きながらも

道化師は独り哀しい現実を背負ひ、

見るものに夢を与へるもの。

 

それが俺とは微塵にも言へぬが、

それでも俺は道化師として此の世に存在することを露の夢として夢見る。

道化師より哀しい存在は道化師になれず、

幻視の世界に振り回される俺なのかもしれぬが、

俺は俺として楽しく幻視の世界に振り回されるのを善しとしてゐる。

 

 

もんどり打って

 

時の流れの中にもんどり打って飛び込まざるを得ぬ此の世の存在物どもは

既にその存在が滅する宿命を授けられながらも存在する不合理に

絶えず目眩を覚えつつ、ふらふらと立ち上がらうとするのだが、

此の世の不合理はそんな事にお構ひなしに止めどなく時を移ろはす。

 

そもそも時間とは何なのであらうか、と、とんでもない愚問を己に発し、

さうして俺は《Fractal(フラクタル)な渦》と時間に関しては素知らぬ顔をして答へるのだ。

 

そもそも時間が一次方程式のものとして看做せる必然性は全くないにもかかはらず

無理強ひして時間が先験的に一次方程式として振る舞ふものと看做す知性は

その根拠を全く知らぬではないのか。

時間を量子論と結びつけて考へる思考もあるにはあるが、

それでも時間は一次関数の域を出ない。

 

時間が∞次元とする思考法は果たして誤謬なのであらうか。

時間を一次方程式に閉ぢ込めた事で、

物理学は発展したのは確かであるが、

それはしかし世界認識のたった一つの認識法でしかなく、

世界認識はそもそも多様でなければならぬのではないのか。

 

仮に時間が∞次元とすると物理法則は新たに書き換へられなければならないのであるが、

それをやらうと人生を擲(なげ)うっていきり立つ己の憤懣に対して正直になれば、

先づは時間の一次形式からの解放が己の仕事なのかもしれぬのだ。

 

時間を線形の一次形式の中に封じ込める事で

此の世の癖たる法則性を見出したのではあるが、

時計で時間を計る事の欠陥は、

時計が既に物質の振動子の振動数から導くか

歯車複合体により回転する《渦》としてそれを計測してゐるのだ。

つまり、振動子が回転に変換可能な事は勿論の事、

歯車複合体のAnalogue(アナログ)時計は《渦》の象徴である事は言はずもがなである。

 

それでは∞次元の時間とは如何なるものなのかと言へば、

それは最早現在の物理法則では数式の態を為さないものになるべきで、

例へば力学の運動方程式の微分積分は既にその運命を終へて、

時間もまた、何かによって微分積分されるものとしてその姿を現はすのだ。

 

その何かとは何であるかと言へば、現時点では不明であるのであるが、

しかし、仮にその何かを《変移子》と名付ければ、

その《変移子》は時間の構成要素の基礎、

つまり、時間の素粒子と言ふべきもので、

時間もまた、何種類もの《変移子》で成り立ってゐるのだ。

 

と、余りに馬鹿げたことをほざかざるを得ぬ俺は、

世界が嫌ひなのである。

物理数学で表記される世界が嫌ひなのだ。

勿論、感性で語られる世界はもっと嫌ひなのだ。

 

世界はまた、その認識法が未知な方法がある筈で、

そもそも世界認識には未開な部分が大半を占めてゐるに違ひなく、

それ故に存在それぞれにとって全く違ふ世界があるのだ。

それぞれ違った世界認識は他の世界認識と摺り合はせながら

それを以て共通認識の世界が存在するとの先験的な誤謬は、

そろそろ現存在は気付くべきなのだ。

 

ハイデガーが『存在と時間』を書くのを中途で已めてしまったが、

その続きはハイデガーの信望者により書き進められねばならぬ。

 

そして、その内容は、これまでの物理学的な世界認識から自由な、

しかしながら、非線形な現代数学を駆使した世界表記であるかもしれず、

時間は感性に帰する事は余りに馬鹿げたことに違ひない。

 

ともかく、存在は既に存在する事で

もんどり打って流れる時間の中に飛び込まされてゐて、

何時しか、それに溺れさうになってしまったのだ。

 

万物は流転するとは太古のギリシャの哲人の言葉であるが、

流転を∞次元形式の時間で書き換へる事は、

己の最低限の此の世に対する受容される姿勢なのである。

 

夢魔が誘ふ睡魔の中に

 

何とも言ひ難い程に意識が遠くなるこの睡魔の中に

意識を水に沈めるやうに沈めてしまへば、

後は夢魔の独壇場。

 

この夢魔の誘ひが曲者なのだ。

夢魔は絶えず俺を騙し討ちしやうと詭計を練っては

手練手管を尽くして、

俺を手込めにしやうとする。

 

ひらりと飛翔する夢魔は

鳥影の如く俺の意識を蔽ひ、

さっとその足爪を深く俺にめり込ませながら

俺を丸ごとひっ捕まへては、その鋭利な嘴で突き殺す。

 

とはいへ、殺される俺は既に意識を失ってゐて

夢魔の為されるがまま

心地よく眠りについて夢見の最中。

 

そして、俺は目の前の出来事を全的に受容し、

何の不審も抱かずにゐればよかったのだが、

一度不意に疑念が脳裏を過(よ)ぎった瞬間、

夢魔の化けの皮を剥ぐやうにして、

夢魔が創りし世界は波辺の砂山のやうに崩れゆき、

俺の意識は息を吹き返すのだ。

 

その刹那、夢魔はさっさと逃げ失せてゐて、

水面目がけて浮き上がるやうにして

夢世界をぶち破る吾が意識は、

既に覚醒状態にあり、

後は闇を齎す瞼を開けるのみ。

 

だが、俺は何時も此処で失敗するのだ。

重く垂れてしまった瞼は、

俺の意思に反して開く事なく、

瞼はまるで意識を持った意識体に化したかのやうに

断じて開く事はないのだ。

 

それもまた、夢魔の奸計の一つに違ひなく

俺はまたもや夢魔の罠に嵌まるのだ。

 

今度は夢魔はその気配を殺し、

只管、瞼裡にのみ映像を見せながら、私を再び水の中に

つまり、夢の中へと没するのだ。

 

水中にゐるやうな浮遊感に心動かされつつ、

夢魔の思ひのままに再び操られるのだ。

 

しかし、その時間は途轍もなく充足してゐて

現実では全くあり得ない展開に俺も巻き込まれながら

悲喜こもごもの俺と言ふ存在が

夢の中で浮き彫りにされてゆく。

 

それを有無も言はずに受容する、

否、呑み込む俺は、満腹感に満たされて

何とも夢心地の中に気分も浸してゆく事になる。

 

全く夢と言ふものは

何処にも罠を張っておき、

その陥穽に落ちる事が楽しくて仕方がないのだ。

 

多分に俺は自ら進んでその陥穽に落ちる事を

しでかしてゐるに違ひいなく、

穴凹だらけの夢の中で、

夢魔が仕掛けたその罠に落ちては

その創りに感嘆するのである。

 

その陥穽は一つの宇宙にまで昇華してゐて、

見とれるばかりなのだ。

 

それはMultiverseと名付けられたものなのかもしれず、

多重宇宙が夢魔によって創られて、そしてそれを見せられては、

其処から抜け出す事は私の意思では不可能なのだ。

 

だから、俺は自ら進んで夢魔が仕掛けた陥穽に落ちるのか。

それすらも覚束ない俺は、

覚醒時にどんな夢を見ていたのかは全く忘れてゐて、

それを善としてゐる。

 

夢に弄ばれながら、

充実した時間を過ごせれば、

それはそれで魔法の国へと誘はれたやうで、

最早それは快楽でしかないのだ。

 

そいつは立ち上がりし

 

不図気付くと俺は何処かはしれぬ見知らぬ場所で覚醒した。

開けられた瞼を再び閉ぢると夢の残骸が転がってゐないか探してみたのだが、

見えるのは吾が五蘊場が表象せし意味不明な映像ばかり。

 

仕方なく、再び瞼を開け、前方をかっと睨んだところで、

何が解る訳でもないのであるが、

俺は自分のゐる場所を何としても知りたくて、

ぎろりと辺りを眺め回したのである。

 

しかし、其処は余りにも殺風景で、

砂漠のやうでゐて、砂漠に非ず、

何やら月面のやうにも思へなくもないのであるが、

此処は地上とは別の何処かのやうな気がしないでもなかった。

 

と、不意にそいつが地平線の彼方で立ち上がり、

時空を食ひ始めた。

そいつが時空を喰らった後には

余りにありきたりな表象でしかない闇が現はれるのであるが、

そいつはその闇をもまた喰らひ、

その後に時空は時空の存在を全く失い、

餅が焼かれてゐる時にぷくりと膨らむやうに

その穴があいた筈の時空の穴へと時空は吸ひ寄せられて、

その穴に吸ひ込まれた時空は時空外でぷくりと膨れて、

新たな完結せし宇宙が生まれるやうなのであった。

 

そいつは、さて、神の眷属なのか、と、

余りの馬鹿らしさに俺は嗤はずにはをれなかったのであるが、

尤も、そいつは最後に俺を喰らふのは間違ひない。

 

手当たり次第に時空を喰らふそいつは

銀河が衝突するときに爆発的に星が誕生すると言はれるStarburstのやうに

次々と矢継ぎ早に一つの完結した宇宙を生み出しては、

俺を一睨みしては哄笑するのである。

 

俺は神域へとやって来てしまったのであらうか。

辺りが殺風景なのは、まだ、何ものも生まれる未然の状態だからに違ひない。

 

まだ生まれない時空とはかうも殺風景なのかと、独り合点しながら、

とんだところに来てしまったものだな、

と、これまた、余りにも間抜けな鈍い思考でぼんやり考へてゐたのであるが、

俺は、しかし、覚醒した筈だと思ひながら

鈍い思考を活性化させようと一発頰を殴ってみるのであった。

何の事はない、それが全く痛くなく、

つまりは俺は覚醒などしてをらず

未だに夢の中にゐるに違ひないのであった。

 

それにしても、時空を喰らふそいつは何ものなのであらうか。

と、そんな事を漠然と思ってゐた俺は、

更にそいつを喰らふものが出現した事で

驚愕したのである。

 

そいつを喰らったものは

何なのかと目を凝らして見てみるのであるが、

俺には時空にばっくりと開いた大口しか見えないのであった。

 

さて、そいつが喰らはれた後、

此の世界がどうなったかと言ふと、

俺がゐる世界はひっくり返されたかのやうに

そいつが存在してゐて補塡されてゐた時空に

全的に吸ひ込まれて、

世界が裏返ったのである。

 

そして俺は反=俺として、その世界に存在してゐたのであらうか。

 

疲弊の先にあるものは

 

かそけき気配が不意に飛び去る。

そんな時は視界が乳白色に変容してゆき

疲労困憊の中にゐる俺を発見する。

 

この疲弊の先にあるものは

多分に憂鬱なものでしかないのであるが、

生きる事を選択する以上、その憂鬱はやり過ごすしかない。

 

このぼんやりとした憂鬱はしかし、危険極まりなく、

気を抜けば俺を死へと誘ふのだ。

 

この綱渡りの有様に嫌気が指すと

最早俺は自死をするかもしれぬ。

 

つまり、俺は途轍もなく疲れたのだ。

 

その疲れた眼で見る世界は乳白色にぼやけてゐるとは言へ、

俺の事なんぞにかまけてゐる世界の未来へ向かって真っ直ぐに進んでゐる。

その世界に置いておかれた俺は、

独り愚痴を呟きながらも、

変容を已めない世界の様相に

俺の場所を確保する事に精一杯。

 

帆を張り大海原を失踪する帆船に焼き餅を焼きながら、

俺は沖太夫、つまり、信天翁(アホウドリ)に魂を載せて、

海上を疾走する幻想に多少の安らぎを覚えつつも、

それは俺が結局のところ幽体離脱する事に憧れてゐて、

俺は俺からの一時も早い離脱を望んでゐるのだ。

 

鳥に魂を託すのは死後でも十分で、

望めば鳥葬に亡骸を晒す事も可能。

 

しかし、今日は疲れた。

シオンの歌じゃないが、本当に疲れた。

 

暗中の祝祭

 

鬱勃と雲が沸き立つやうに

俺の五蘊場では祝祭が始まった。

五蘊場、其処は頭蓋内の暗中の事だが、

其処には脳があり、

しかし、現在、全てが脳に帰される事に対しての小さな小さな反抗として

敢へて頭蓋内の闇を俺は五蘊場と名付けた。

 

頭蓋内の闇は、時空間の場として

唯単に脳と言ふ構造をしてゐるに過ぎないとの見地に立ち、

頭蓋内の闇を五蘊場と名付け、其処に生滅する念こそが

死後をも生き続けるものとして

つまり、怨念もその一つとして

未来永劫に亙って存在し続けるのだ。

 

さて、五蘊場で始まった祝祭は、

果たして何を祝ってゐるのか。

 

俺は存在と言ふ言葉には何とも直ぐに反応し、

五蘊場がざわつくのだ。

多分、五蘊場の念の一つが存在と言ふ言葉を発した筈なのだ。

その言葉を端緒として五蘊場では核分裂反応が連続して続くやうに

不意に存在と言ふ言葉が五蘊場に出現した事で、

五蘊場に棲む異形の吾どもが

快哉の声を上げ、祝杯を挙げてゐるのか。

 

酒を呷るやうに毒薬を飲みながら

痺れる頭蓋内の脳髄。

 

頭痛が始まった。

 

何の事はない、

五蘊場に棲むと言ふ異形の吾どもの祝祭に

俺のみ除け者となってゐるこの状態に、

何処か寂しさを覚えつつも、

俺は俺で、ご満悦なのかもしれぬ。

 

つまり、俺は、五蘊場がらんちき騒ぎをする事を

ぢっと待ってゐたのたのに違ひないのだ。

 

さあ、俺も祝杯を挙げよう。

そして、五蘊場に乾杯。

 

薄明の幻影

 

うっすらと雲間から顔を出した満月の赤赤とした相貌にどきりとしつつ、

この宵闇へと真っ直ぐに突き進む薄明の時間にこそ、

俺の欣求した世界が寝転がってゐるかもしれぬ。

 

終日のたりのたりかなと蕪村は詠んだが、

この薄明の時間にこそにのたりのたりと移ろひゆく時間の尻尾が見えるのだ。

 

黒尽くめの衣装に身を包み虚構の中での幻影の華を具現化しやうと

のたうち回って現実を食ひ散らかし最期まで艶やかだった女の歌ひ手は

別離の歌を残して此の世を去ったが、

彼女はこの薄明の時間が最も好きだったのかもしれず、

それを聞かず仕舞ひで先に逝かれてしまったの事は無念である。

それでもこの赤赤とした満月にも似た彼女の艶やかさは、

俺の五蘊場では今も尚、存在する。

 

プルーストは『失われた時間を求めて』で、

時間の多相性を浮き彫りにし、

リルケは『マルテの手記』で、

哀切に満ちた時間ののっぺりとした相貌に出会(でくは)してゐる。

 

ところが、俺は時間の無限の相貌に面食らひ

今も尚、それに対して収拾が付かぬまま、

時間を今のところひっ捕まへる事はせずに

抛っておいてゐるのであったが、

しかし、時間の方がそれに焦れて、

俺にちょっかいを出しては

俺を弄び出したのだ。

 

何をして俺は時間を時間として捉へる事が可能なのか

その漠然とし、百面相に非ず、その無限相に戸惑ひつつも、

終日のたりのたりと時間を追ひ始めたのである。

 

尤も時間は無限相故に

何をひっ捕まへて

――見て見て、これが時間だよ。

と、言へるのかが定かでなく、

また、それを行った事があるのは、

お目出度い科学者達であるが、

しかし、それに全く満足出来ない俺は、

――相対論と量子論との橋渡しとしての超多時間論に与せず。

と、宣言してみるのであるが、しかし、時間がそれを許さぬ。

 

敢へて言ふなれば、時間が一次形式である理由は何処にもなく、

俺は時間こそが∞次元を持ったものとして把捉するのであった。

 

つまり、それは森羅万象こそが時間であって、

変容を、例へば時計で計測する「経過時間」として数値化する馬鹿はせずに、

無限形式の時間の相の下で森羅万象が生滅する事を全的に受容するといふ

時間の解放を試みるのであるが、

それは現時点では、悉く失敗してゐる。

 

この宵闇が近づく薄明の中、

幻影の華を具現化する事に腐心した彼女は、

赤赤とした満月の色の口紅を塗ってゐたのだ。

 

月にその性が連関してゐる女の妖しさは、

薄明の中にこそ映えるもので、

この赤赤とした相貌の満月は、

妖しく猥褻な輝きを放ち、

男を誑かし始める。

それはそれで善しとする俺は、

女を求めて薄明の幻影の中を彷徨ふ。

 

其処にこそ時間の綾があると看做す俺は、

性交に現を抜かし、

それでも時間の尻尾を捕まへ損ねる。

 

ざまあないと、自嘲してみるのであるが、

それは時間の方も同じで、

あかんべを俺にして見せて、

哄笑するのだ。

 

その一筋縄ではゆかぬ時間の把捉は

しかし、俺の手には余り、

そもそも抽象的なものが苦手な俺は、

漠然と「世界を握り潰す」と言ふ観念を抱きつつ、

時間の正体を探らうとしてみるのである。

 

しかしながら、時間と言ふものは逃げ足が速く、

俺に「現在」のみを残してはさっさと逃げ去り、

その逃げ足に俺は決して追ひ付けぬのだ。

 

哀しい哉、俺は現在にしか存在出来ず、

過去相、未来相は、五蘊場の中にのみ表象可能で、

また、未来に対する蓋然性は、

絶えず現在を揺籃するのだ。

 

つまり、俺が留め置かれる現在は、絶えず揺れ動き、それが定まることはなく、

しかし、現在が過去となり、五蘊場の中のみで表象可能な状況にあっても、

過去相もまた、無数の解釈が可能で、

その蓋然性は未来相と同じなのだ。

 

しかし、時間は非可逆的と言はれてゐるが

果たして本当にさうなのかは、

此の世が終末を迎へてみなければ解らぬもので、

多分、死んだもの達の念は未来永劫消滅することなく、

此の世の終はりを

瞼に焼き付けるべく、

ぢっと息を潜め、

薄明の幻影の中で蹲ってゐるに違ひない。

 

あの赤赤とした満月の色は死んだもの達の念の色なのかもしれず、

その艶やかな色合ひは、

男を誑かし、

女をも誑かすのだ。

 

 

 

 

 

 

憂愁に惹かれて

 

どうしようもなく憂愁に誘はれる時があるのだが、

それもまた、俺に与へられた特権と思ってどっぷりとその憂愁に浸る。

その時に、

――出口なし。

と、観念する俺は、唯、憂愁の為されるがままに任せて

時間を浪費するその贅沢を味はふ。

 

その時間は、名状し難き極上の時間で、

それを一度味はってしまふと、もう抜け出せないのだ。

そして、その時、唯、俺の前にあるのは「自死」といふ言葉で、

死を弄びながら、堂堂巡りに埋没す。

 

何時まで続くのか解らぬその堂堂巡りは、

俺と言ふ存在もまた、

渦状の時間により支配されてゐると思い為しながら、

そして、それが一つの時間の解なのではなからうかと

独り合点し、

そのぐるぐる回る時間の軌跡を追ふのだ。

それが、極上の時間で、死を心棒に回る時間は、

まるで独楽のやう。

 

つまり、俺にもGyroscopeが埋め込まれてゐて、

その芯は真っ直ぐに死を指し、

それと直角を為して生が巡る。

 

死と生はぴたりと直角でなければ、

そのGyroscopeは永くは回らず、

ことりと斃れて死屍累累の死の中に

埋もれてゆくのだ。

 

況や能く憂愁の中に没す事能はず、

唯、藻掻く俺のみっともない無様な様が表出す。

嗚呼、何をして俺は俺の憂愁を手懐ければいいのか。

 

就中(なかんづく)、この憂愁は俺を死への憧憬を誘ふ。

俺が生まれる前に時間を戻さうと

無駄な足掻きをしながら、

無力な俺をとことん知る時間こそ、

俺が待ち望んでゐた時間の筈なのだ。

 

この俺が死の周りを巡るといふ途轍もなく曖昧な時間こそが

無限の相を持つ時間に相応しい。

それ故に俺は、この憂愁に惹かれゆく奈落の時間こそが

愛しき時間で、

さうして、俺は、また、今日も倦みながら、

暗中の中の手探り状態の俺を心底楽しむのだ。

それには奈落の闇こそが最も相応しく、

この憂愁に沈む重き俺の意識の拠処には

腐臭漂ふ死が最も似合ふのだ。

 

焦燥する魂

 

何をするでもなく、

忽然と俺を襲ふこの焦燥感は、

絶えず自虐する俺が、恰も懸崖に立たされた無様さに対して

密かに独りずっと嗤ってゐる俺を見出してしまったからに違ひなく、

其処に快楽を見出す俺は、果たせる哉、Masochistには違ひないのである。

 

未来永劫嬲られ続けるといふ地獄の責め苦が仮に存在するのであれば、

正しく俺はその責め苦を受けてゐる極悪人なのである。

否、違ふ、俺は極悪人になんかこれっぽっちも為れやしない侏儒。

 

それでもこの焦燥感は油断をしてゐると虚を衝いて襲ひかかり、

それは見事なまでに全く容赦がないのだ。

 

何に対して焦がれてゐると言ふのだらうか。

何をして俺は燥(かわ)いてゐるのだらうか。

これが将に愚問なのだ。

そんなに事は言ふまでもなく、

己の存在に対する不安、つまり、存在に対する焦燥でしかないのだ。

 

それを問ふ馬鹿はさっさと已めればいいのであるが、

どうしても問はずにゐられぬ俺は、

余程の暇人であり、

ぐうたらでしかないのだ。

 

其処で嗤ってゐる奴が俺であり、

彼処で嗤ってゐる奴も俺なのだ。

 

「Crazyって褒め言葉よ」

と、言ってゐた人を知ってゐるが、

将に俺は病的なまでに

俺を虐めなければ気が済まぬのだ。

 

俺は俺を虐めるのは天才的なまでに上手く、

そればかりを思ひながら生を繋いでゐた。

つまり、俺の起動力とは俺が俺を自虐する時に発する呻吟であり、

哀しむ声なのだ。

 

艱難辛苦は大概経験したが、

そんな事は俺が俺を自虐する事に比べれば、

全く取るに取らないものでしかなく、

現実の艱難辛苦は己が己を裏切るそれに比べれば、

何でもないのだ。

 

しかし、幾ら強がりを言っても

俺の敵が俺と言ふのはどうも居心地が悪いもので、

俺が俺である事はばつが悪くて仕方がないのも事実で、

これを埴谷雄高は「自同律の不快」と呼び、

俺もまた、俺である事が不快で仕方がないのだ。

例へばそれは、

――俺が、

と、言った刹那に感ぜざるを得ぬ恥じらひにも似た感覚、

つまり、俺は俺である事が恥辱なのだ。

俺の存在自体が不快なのだ。

 

その為、切ない切ないと何時も感じる俺を、

自虐して嗤ふ俺がゐて、

その俺をまた自虐する俺がゐて、

と、これが蜿蜒と続くのだ。異形の吾が無数に存在する苦痛は、

俺の許容出来る能力を遙かに超えてゐて、

俺は絶えず俺が食み出してゐる俺を

存立させなければならぬと言ふ苦悶を抱へ込まざるを得ぬのだ。

 

何にせよ、俺が俺と言ふ時は、

恥辱を感じて、穴に入りたく候なのだ。

それならば、俺は俺と言った時、

ぶるぶると打ち震へる俺をして此の世に屹立させるべく、

針の筵の上に座る度胸がなくてはならぬ。

 

将にそれは清水寺から飛び降りる覚悟がゐるのだ。

さう、存在とは覚悟の別称に違ひない。

 

さうまでして焦燥するものとは、俺を回収して

つまり、無限にばらけてしまった俺を一度「一」に収束させて

俺は俺と言ひ切れる俺を無限から奪還する事なのだ。

 

何思ふ

 

ぼんやりと川岸に座って水面を見てゐると

心が平穏になるのは、揺らぎ故のことだらうが、

その水面の波紋がこの宇宙の真理に通じてゐるからかもしれぬ。

 

水面には絶えず波が生滅し、

その儚さが魅力の一つとなってゐるのは間違ひなく、

それが森羅万象の来し方行く末と重なり、

見てゐて全く飽きないのだ。

 

それは量子ゆらぎを連想させ、

また、此の世が波で出来てゐる事をも思はせる。

固体が液体より軽いと言ふ水でしかないこの特異な性質が

生命の創出に寄与したことに原点回帰を見てしまふこの先入見は、

或る憧憬とともに羊水の中で十月十日の間、

浮遊してゐた時の記憶が甦るのか

水面の柔和な面影には

何時も懐かしいと言ふ憧憬が伴ふのだ。

 

何となれば、それは断ち切るべきなのか。

この憧憬が曲者なのだらう。

還るべき処があると言ふ事は

覚悟が足りないからに外ならない。

さう、此の不合理の世の中を生きるには

絶望する俺を受容する覚悟がゐるのだ。

 

此の世に屹立するべく存在する俺は、

しかし、何時も後ろ向きで

自嘲する事にをかしさを覚え

さうやってお茶を濁して生きてきたのか。

何とも性根が座ってをらず、

世界に押し潰される杞憂にびくびくしてゐる臆病者の俺は、

それを是として肯定する馬鹿者なのだ。

 

此の世界を見る見者になり得べくある筈が、

それになり得なかった落ちこぼれの俺を、

開き直って肯定する愚劣を

何食はぬ顔で行へる俺は、

当然の事、恥辱を感ぜずには一時もゐられぬ後ろめたさに苛まれ、

此の感情は存在の根本に根ざしたもので、

これは先天的なものなのかもしれぬと感服するのだ。

 

では、そもそも存在とは存在を肯定するものなのか。

これもまた愚問でしかないのであるが、

かう問ふしか出来ない俺は、

存在そのものに猜疑の目で見てゐるのだ。

 

かうなってしまふと存在の吹き溜まりに屯(たむろ)する存在といふ

拘泥に嵌まり込み

一生其処から抜け出られず、

また、その環境が温いのだ。

 

朔風に頰を叩かれる中で、

そんな憧憬を捨てるのさ、

と、言へる俺になりたいと思ひつつも、

一方で、さうなってしまったならば、

生きてゐる価値もないのぢゃないかと思ふ俺もまたゐるのである。

 

決して同じ相貌を見せぬ此の水面に

吾、何思ふのか。

また、此の水面は何を思ふのか。

森羅万象は何思ふ。

 

その時、ぽちゃりと、鯉が飛び跳ねたのだ。

 

波紋のやうに

 

ゆらゆらと広がりゆく水面の波紋は

その姿を失はず無限遠まで広がねばならぬ。

それなくしては、俺が俺である事が根底から覆されてしまふのだ。

何故なら、波紋が消滅してしまったならば、

それはものの消滅を、宇宙の消滅を意味し、

そんな状況下で俺なんぞが存在出来る訳がないぢゃないか。

 

波紋は消滅するから美しいと異を唱へるものは、

未だに存在に関して楽観的過ぎるのだ。

弱弱しく見える波紋こそ、

永続して此の世の涯まで消える事なく

波を存続させねば、

水よりも羸弱(るいじゃく)な俺なんぞの存在など此の世に問ふ尊大は許されぬのだ。

 

ゆらゆらとゆっくりと広がってゆく波紋よ。

お前こそが存在を存在として此の世に表象するその根本なのだ。

例へば何ものも透過してしまふ素粒子は独り孤独で、

つまり、何ものにもぶつかる機会がなく、

とことん孤独なのだ。

それ故に、素粒子は絶えざる自己との対話の中に身を置いて、

あるものは一瞬で此の世からその姿を消し、

あるものは永劫に亙って、否、無限に向かって飛翔するのだ。

 

素粒子もまた、波紋として此の世に広がる。

それなればこそ、水面上の波紋は未来永劫消えてはならぬ。

 

それが俺が俺として此の世に存在出来る根拠となり、

波紋は偏に存在に付髄する属性になり得るのだ。

 

例へば重力は波として存在を存在たらしめるべく絶えず波紋を表出させる。

此の世の一表象の典型が波紋なのだ。

その典型を失ふ不合理において、俺をして何を俺と言へばいいのか。

つまり、波紋の消失は迷宮の中に俺を追ひやる。

 

哀しい哉、水よりも羸弱な俺は

不純な水として此の世に屹立し、

水の塊として此の大地に立つしか出来ぬのだ。

 

ゆらゆらと今も尚広がりゆく眼前の波紋は

では、何故に生じたのか。

 

それは、水中から魚が跳ねたからに過ぎぬのだ。

 

それでは此の何次元かは知らぬ世界に波紋を広げるものは、

此の世の次元とは別次元の何かに違ひない。

それをこれまでは「神」と呼んでゐたものなのかもしれぬが、

今は何かの物体として、此の世に存在するかもしれぬ「もの」として

把捉可能な「もの」へと格下げになってしまったのだらうか。

 

そんな馬鹿な事をつらつらと考へながら、

今にも消えさうな水面の波紋を心地よく見入ってゐる俺は、

此の世の終焉に思ひを馳せながら

河岸に立ってゐる俺を実感してゐるのだ。

 

仮に此の世に神がゐるならば、

此の世をもう一度攪拌し、

それを握り潰して何処へかと投げ飛ばし、

Big bangをもう一度起こして欲しいと言ふ願望もなくはないが、

もう一度此の世を創り直したところで、

俺に躓く俺はどうあっても存在する筈だ。

詰まる所、絶望しない俺なんぞ

生存する価値もありゃしないのさ。

 

猫のやうな空

 

猫のやうな空に歩を進める魚は、

やがて来る嵐を綿飴のやうに食らふのだらう。

そして、漁師は空を泳ぐ魚を捕らへて剔抉し、

腸(はらわた)を取って

月光で焼き切る。

 

ほんわかと首を絞める猫のやうな空は、

身軽に人間の影に張り付き、

その鋭き牙で存在を噛み切る。

さうして空から降ってきた人間は

夢の中で、溺れ死ぬ。

 

機械の轟音が響く静かな夜に、

首を吊った奇妙な果実、つまり、人間は

ビリー・ホリデイのレコードをかけて

黒光りし、

絶望の慟哭を月に向かって上げたのだ。

 

陰(いん)の月には兎が棲むと言ふが、

希望が屈折した月光には

絶望がよく映え、

希望を袋小路へと追ひ込むのだ。

 

直線が曲線な直接的な世界は

猫のやうな空を怒らせて、

毛を逆立てた空に呑み込まれる。

 

何もかもが憂愁の中に身を投じ、

亡霊が猫のやうな空の下、無数に彷徨ひ歩く。

生と死が入れ替はる此の世にて、

外部に飛び出た魂達は、

彷徨ひ歩く亡霊どもの餌として

死を全うするのだ。

 

生は空を歩きながら、

そこら中が穴凹だらけの空に

いちいち歓喜する。

 

絶望が一際輝くその空で、

猫の目が暗闇で妖しく光るやうに

星星が黒く輝く。

 

何がさうさせたのか、

月食のやうに黒光りする太陽は、

今はまだ輝くことを知らず、

腐敗Gasを発するのみ。

 

死が蔽ふ此の世界で

月光のみがくすんだ光を此の世に届け、

空の魚はきらりとその鱗を輝かせ、

星を喰らっては群れるのだ。

 

逆立ちする事で、生は死からずっと逃げてゐたが、

何時しか、生のゐる場所はなくなってゐた。

それは、そして、余りにも自明の事であった。

 

 

悔し涙

 

泣くからにはそれだけの理由がある筈で、

それがないのならば、決して泣いてはならぬ。

それが此の世界に対するための最低限の礼儀で、

それが守れないやうならば、

存在する価値などないのだ。

 

泣く理由があったとして、

その理由が利己的ならば、それは欺瞞である。

利他的な理由のみ、存在が泣ける理由になるのだ。

此処で、排他的な理由で泣くものは、直ぐさま滅するがいい。

 

そもそも存在と言ふのは、屈辱的なものなのであり、

それが解らぬやうでは存在する価値すらないのだ。

ドストエフスキイの言葉を借りれば、

それは虱や南京虫にも為れぬ代物。

 

存在するにはそもそも此の世界に対する敗北を承認しながら、

悔し涙を流し、さうして世界に屹立するのだ。

此の世に屹立するとはそれほどに屈辱的であり、

それに歯を食ひ縛りながら両の脚で立つ事のみが、

唯一、現存在が己の位置を確認出来る方法で、

それなくして、存在しちまふものは、

未だ存在に至らずに懊悩を知らぬ童に等しく、

そんな現存在は気色が悪くていけない。

 

現存在以外の存在、つまり、森羅万象もまた、

名状し難き屈辱の中にあり、

それがある故に絶えず変容し、

変容する事で「理想」のものへと至るかもしれぬ淡い願望を抱きながらも、

何時もそれに裏切られ悔し涙を流すのだ。

 

此の世に満ちる存在の怨嗟は群れをなして彷徨き回り、

存在の影に取り憑く。

さうして、過去世に存在したものもまた、絶えず現在にあり得、

また、未来にもあり得るのだ。

 

その為に、世界は幾ばくの悔し涙を欲してゐたのか。

世界を変容させる起動力は、

存在の怨嗟と屈辱に屈した悔し涙であるのだ。

 

ならば、存在は悔し涙を流せばいい。

さすれば、世界は少しは恐怖を知るかもしれぬのだ。

現存在の夢は、つまり、此の宇宙を存在の怨嗟で

恐怖のどん底に落とし震へ上がらせる事なのだ。

それが為し得た暁に、やうやっと存在はその使命を終へる。

さうして現存在は双肩でアトラスの如く蒼穹を支へ、

自分の居場所を確保する。

 

泥濘に嵌まるやうにして

 

もう二進も三進もゆかぬどん詰まりに追ひ詰めなければ

何とも居心地が悪い俺は、

何時も進んで泥濘に嵌まるやうにして

藻掻きながら泥濘に呑み込まれるといふ快楽を本能的に知ってゐる。

それはいかにも卑怯な事であり、

現実逃避の一つの形態なのだが、

それを知りつつも、一度泥濘に嵌まってしまったならば、

その居心地の良さから遁れる事は温い世界が大好きな存在にとっては不可能と言ふもの。

 

そして、俺は泥濘に嵌まるやうにして

存在に軛を課し、

その事により、存在の尻尾を捕まへやうと

手抜きを行ってゐるのだ。

生きる事に対する此の手抜きは

面倒ぐさがりの俺にとってはとてもよろしく作用し、

さうして図太く此の世に憚る悪人と化して生き延びるのだ。

 

例へばそれはこんな構図をしてゐるのかもしれぬ。

 

俺は蜘蛛の巣に捕まった羽虫の如く、また蟻地獄に落ちた蟻の如く、

死の陶酔の中で酔ひながらの恍惚の中、死を迎へるに違ひない。

囚はれものの狭隘な世界の中で全宇宙を知ったかの如き錯覚の中で

一時の生を繋いでゐるのだ。

 

最初、泥濘としか思へなかったものが

何時しか底無し沼へと変はってゐて

最早其処から出られぬ俺は

その二進も三進もゆかぬ状況を是認してゐるのだ。

 

つまり、そもそも俺は敗者でしかない。

敗者でしかないために、何の向上心もなく、

唯の泥濘が底無し沼へと変化しても

それを是認できるのだ。

それは何とも哀しい事には違ひないのであるが、

さうである俺を俺は心の何処かで安寧を持って歓迎してゐるのも確かなのだ。

 

そもそも俺は俺である事に胡座を舁いてゐないのか。

恥の塊でしかない俺が俺である事に胡座を舁くなんて

全く信じられぬと言ひたい処なのであるが、

しかし、偽者でしかない俺は、

鉄仮面の如く何食はぬ顔で俺である事に胡座を舁いてゐても

何ら不思議ではないのである。

 

さうして世界中に陥穽を仕掛けたかの者の餌になればいいのだ。

俺が底無し沼の上で胡座を舁いてゐるのを知らぬは仏ばかりに

何にも知らない筈はないのであるが、

其処は既に俺に対して俺が開き直ってゐるのかもしれぬ。

 

どうあっても俺が俺として此の世に棲息したいのであれば、

則天無私でなければ、他に対して申し開きが出来ぬではないか。

 

これが時代遅れと言ふ輩は、

既にZombie(ゾンビ)と化してゐる。

つまり、既に死んでゐるのだ。

 

ギリシャ悲劇のやうには

 

ギリシャ悲劇の登場人物のやうに

個人の意思ではどうあっても抗へぬ

「運命」、若しくは「宿命」に対して、

将に筋書き通りに生きてしまふ哀しさは、

それ故に悲劇と呼ばれるのであるが、

そんなギリシャ悲劇が持て囃された時代は

ギリシャの爛熟期から没落してゆく時代であった。

 

ギリシャ悲劇に登場する人物は、

ごく普通の運命は誰も課されてをらず、

それは偏に堕ち得るべく悲劇性が先験的に課された人間でなければ、

ギリシャの人人は敢へて外の時間に費やすよりも

悲劇を鑑賞する筈はなかった。

 

それは時空すらも登場人物の運命には膠着し、

当然世界もギリシャ悲劇に登場する人たちに対しては連れなくて、

何処か世界はそれらの人人を先験的に見捨ててゐるのだ。

だから、其処に人間を魅了して已まぬ人間による抗へぬ力が働き、

それを観衆は自分の置かれた運命に重ね合はせて溜飲を下ろしたのであらう。

 

心は量子力学のやうに波性であるために、

様様な感情が同時に存在可能なのだらうが、

だからか、ギリシャ悲劇は映画を観るやうでゐて、

それとは違ふ脳髄の疲れが生じるだ。

 

ギリシャ悲劇は人の心を押し潰す。

ぺちゃんこに押し潰し、

金属をプレスするやうに

人人の心には奇っ怪な印象を残すのだ。

 

――何故、さうなるのか?

 

これはギリシャ悲劇の幕開けから続く疑念であり、

一つのギリシャ悲劇が終はって後もその疑念がずっと心に残り、

糸を引くのだ。

その粘性は納豆の如くであり、

既にそれで人はギリシャ悲劇に巻き込まれてしまってゐるのだ。

とはいへ、ギリシャ悲劇に対しての疑念は消えることなく、

それは或る違和として心に巣くって

ギリシャ悲劇の違和に悩まされる事になる。

 

それはまるで空が降ってくるといふ杞憂にも似て、

あり得ないSituationに絶望してゐるのか。

 

唯、空は降る事はないが、

大地が空へ飛翔する事はあり得るのだ。

つまり、ギリシャ悲劇には蓋然性が封じられ、

登場する人人に「自由」なる観念は既に封印されてゐる。

それが、粘性の正体で、

ギリシャ悲劇の登場人物は全て人に非ず、神人といふ類ひの存在で、

神が滅びる美しさに人人は恍惚となるのだ。

 

ギリシャ悲劇に登場するのは、徹頭徹尾、神なのだ。

だからキリストがRosario等で今も尚、磔刑され続けてゐる理由に

それはぴたりと重なり、

それが納豆のやうな粘性で人間存在にくっつくのだ。

 

「宗教は阿片」と言ったものがゐたが、

将にそれは阿片にも似たもので、

それに嵌まると最早出られぬ粘っこい粘性で人の心を誑かす。

 

ギリシャの没落はギリシャ悲劇と言ふ

神の死の物語とともに訪れたのだ。

 

運命と言ふ言の葉が宿る秋月夜

 

言霊に託す運命其はあるか吾其にのみに拘泥するに

 

眩暈

 

どくっと鼓動がすると、

奇妙に世界が歪曲し、

真白き霧のやうなもので世界が蔽はれ始め、

俺は五蘊場に逃げ込みつつ、卒倒するのだ。

 

これには何の予兆もなく、卒倒は忽然とやってくる。

卒倒しながら俺の意識は白濁する事なく妙に冴えて

倒れた俺との自己との対話を冷静にしてゐるのだ。

 

眼前は、しかしながら、何にも見えず、

唯唯、いつもより激しい鼓動を感じるのみなのだ。

 

その時、俺は覚悟を決めてゐるのか、妙に気持ちが悪いほどに冷静なのだ。

そして、五蘊場に逃げ込んだ俺は、

やどかりがちょろちょろと貝殻から足を出すように

俺の内部の目を少しづつ広げながら、

俺と言ふ存在を確認する。

 

とはいへ、卒倒してゐるのは徹頭徹尾俺なのだが、

何処か第三者的に俺は俺を観察してゐる。

其処にしかし、俺の正体は見えず、

唯、白から赤く染まった血の色の世界を凝視するのみなのだ。

 

確かに、俺は最早病んでゐるに違ひないが、

だからといって何をするわけでもなく、此の死に近づきつつある俺を

何処かで楽しんでゐるのだ。

 

それは薄氷の上でダンスを踊るやうなもので、

何時氷水の中に堕ちて凍死するのか解らぬ状況に似てゐるのかもしれぬ。

 

縦が横になり、つまり、吾が枢軸は地平線と平行なまま横たはる俺に対して

五蘊場に逃げ込んだ俺は楽しさうに嬉嬉として快哉の声を上げるのだ。

 

――ざまあない。

 

不自由の中にちょっとした自由を見出したのか、

多分、卒倒している時の内部の俺は満面の笑みを浮かべて、

その状態を楽しんでゐるに違ひない。

 

しかし、そんな楽しい時間は永劫に続く事なく、

卒倒から立ち上がる事が出来るやうに直になる俺は

それに安堵しながらも卒倒の時間の名残を惜しんで

生を冒瀆(ぼうとく)する。

 

自身を呪はずしてはちっとも生きられぬ俺は

卒倒の時間にこそ許されてゐると感じてゐるのか、

予兆もなく忽然とやってくる卒倒を愛して已まないのだ。

 

多分、一瞬が永劫のやうに間延びする卒倒のゆっくりとした時間の流れの中に、

身を置く幸せを全身で精一杯に感じながら生を実感してゐるのかもしれぬ。

 

生の盈虚(えいきょ)が現はれると先験的に知ってゐるのか、

卒倒を俺は絶えず待ち侘びてゐるのかもしれぬ。

さうして、俺は疑似死を味はってゐると誤謬しながら

本当に死にたいと思ってゐるのかもしれぬ。

 

虚妄の迷宮

 

あれがこれになり、

これがあれに瞬時に変はる奇っ怪な世界の中、

ぐるりと巡る曲線のやうな直線に極北を見、

様様な不可視な力が作用する其処は、

等速平行運動に加速度があるやうな

物理学が成り立たぬその世界の中で、

俺は奇妙にひん曲がった俺の顔を意識する。

 

何もかもが歪んでゐながらも何処も歪んでゐない不合理に、

初めは面食らった俺ではあったが、

常在地獄とはこのやうな様相を呈してゐるのかもしれぬと

にんまりとそのひん曲がった顔で嗤ひながら

独り俺の嗤ひ声のみがその奇っ怪な世界で響き渡る。

 

それには既に聞き飽きてゐた俺は、

シベリウスの交響曲のやうな壮麗な音楽が

世界の背後で響き渡ってゐるのを知った。

 

その壮麗な音楽は、

それ以前も絶えず此の世界で響き渡ってゐたものとみられ、

それまで全く気付かなかった俺の聴覚は多分、既に難聴なのだと思ふ。

 

五感が既に役立たぬその世界の中、

それを世界と認識する俺の奇妙な認識力は、

果たして正気を装ふてゐるのか

それとも元元馬鹿者でしかないのか、

そんな事は土台どうでもいいのであったが、

しかし、そんな些末な事に神経を磨り減らし

さうやってでしか世界認識が出来ぬ俺は

最後は居直って俺は俺だと高を括るのだ。

 

さて、俺が俺とは一体全体どう言ふ事なのであらうか。

この愚問に躓き最早一歩たりとも動けなくなやってゐる俺の影を見れば、

それは蝸牛にそっくりな目玉がぐうんと飛び出た異形をしてゐて、

節足でゆっくりとゆっくりと動く事しか出来ぬそれは、

愚鈍な俺には全く相応しく、

さうして一人合点しながら、俺独自の世界を構築してゆくのかもしれぬ。

 

では、その独自な世界とは一体どんな世界かと言ふと

何の事はない、物理学が提示する世界観から一歩も踏み出せぬ世界であり、

しかしながら、俺が今いる奇っ怪な世界では物理法則は全て成り立たないのだ。

この事を理解するのにまだ時間が必要な俺にとって

この顔がひん曲がった世界の中で

曲線が直線と言ふ余りに直截なその世界の有様に

それを丸ごと受け止める許容力は俺にはない。

 

哀しい哉、この奇っ怪な世界を受容するには

俺が余りにも狭隘過ぎたのだ。

それではそんな世界に別れを告げて

さっさと今生の世界に逃げ帰ってくればいいのであるが、

それが恥辱でしかないと思ってゐる俺は

その恥辱を黙って呑み込み、

身悶へしながら今生の世界にゐる馬鹿らしさに

最早堪へ得る力すら残ってゐないのだ。

 

ざまあない。

虚妄の迷宮に潜り込んでしまった俺は、

その虚妄性を証明しなければならぬと言ふ使命を感じつつも、

そんな馬鹿げた事をする暇があったならば、

この虚妄の中で溺れるのが最も道理が合ってゐるのだ。

 

虚妄の迷宮とはドストエフスキイ曰くところの「水晶宮」なのかもしれぬが、

ドストエフスキイの時代は水晶宮と言ふ、其処には何となく美が存在し、

また、神秘的な響きを持ってゐるのであるが、

虚妄の迷宮には何の深みもなく、

唯単に迷宮と言ふものに託した胡散臭さしか残ってゐないのだ。

 

この顔が奇妙にひん曲がった世界を虚妄の迷宮と呼んだところで、

その浅薄さは隠しやうがない。

 

月下の彷徨

 

かそけき月光の下、

物の淡い影の中を彷徨す。

その中はまるで暗渠の中のやうに

絶えざる現在が眼前に現はれては消え、

さうして時が移りゆくのであったが、

そこでは何ものも一斉に沈黙し、

押し黙ったまま、

いづれもが吾の中に蹲るのである。

 

だが、そのいづれもが吾を知らぬまま、

いづれもが見失った吾を求めて、

月光の下、彷徨ひ歩く魂魄の蝟集する場で、

――あれは……。

と吾の異形に遭遇してはびっくり仰天しながら、

吾を名指さずにはゐられぬのである。

 

その異形の吾が何事かを呟くと、

吾は聞き耳を欹(そばた)て、

その言葉の一字一句も聞き漏らさぬやうにと胸奥がざわつくのだ。

 

さうして浮き足立つ吾は、

最早此の世の物とは思へずに、

唯唯、魂魄の一種になった心地がして、

何となく幽体離脱したやうな吾の存在の奇妙さに苦笑ひする。

 

しかし、最早吾が魂魄の如き物と化し、吾の中に幽閉された吾をして、

吾は憤懣を吾に向かってのみぶちまけるのだ。

さうしなければ、吾は吾の存在根拠を失ふもののやうに

吾は憔悴しきってゐた。

 

何故に吾はこれほどまでに疲労困憊してゐるのか

とんと思ひ当たらずに

しかし、実際に、始終憔悴しきってゐた。

 

そんな時に吾の眼前に見え出す仄かに輝く光に導かれるやうに

月光の下、彷徨す。

 

季節柄、身を切るやうな朔風に頬を晒しながら、

それは魂がずたずたに切り裂かれるやうに

頬もまた、朔風が巻き起こす鎌鼬(かまいたち)によりずたずたに切り刻まれる。

 

それがMasochisticな吾に綿菓子を与へる如くに

甘い蜜を吾に与へし。

 

その欲望のみで朔風吹き荒ぶ月下の下、吾、独り彷徨す。

さうして吾の欲望は日日一日とほんのちょっぴり吾を満たす日常を与へられし。

 

焼尽

 

一度それが尻尾にでもくっつけば、

部分はあっといふ間に全体を焼尽する小さな小さな小さな灯火の炎は、

逆巻く渦を巻きながら、とんでもない上昇気流を発生させて、

更に炎の勢いは強大になり、

最早向かふところ敵なしなのだ。

 

炎は炎を呼び、

その激情に煽動されながら、

更に炎は勢ひを増し、燃え盛るのだ。

 

しかしながら、部分が全体になるとそれは既に逆巻く炎の衰滅の兆候に違ひなく、

とはいへ、憎しみの炎が一度現存在の心に火が付くと、

それは最早消すことは不可能で

憎悪の炎は人類史の長さに相関してゐる。

 

憎悪といふ炎は、それほどに扱ひにくく、

また、現存在の心にその憎悪の炎を灯すのは余りにも簡単なのだ。

 

再び時代はテロルの時代に入ってしまったのだが、

憎悪は憎悪を招き寄せて、それが更なる炎の逆巻く大渦となり、

世界は恐怖心から更に憎悪の炎を煽動するのだ。

 

テロルの始末に負へないところは、テロルが「敵は殺せ」といふ

古から伝はる箴言に収束し、

そんな憎悪の底無し沼に足を取られた現存在は

消せない憎しみの記憶に溺れるのだ。

薬物中毒者と同じやうに

テロルの恐怖と憎しみの記憶の炎は、

絶えず現在に甦り

現存在の存在自体を脅かす。

 

テロルが煽る世情には憎悪が一番似合ひ、

案の定「敵は殺せ」といふ箴言の通り、

憎悪は憎悪によってでしか圧し殺せぬといふ現存在の羸弱(るいじゃく)さに付け込みながら、

憎悪の炎は延焼を続けながら、やがて巨大な群れをなし、

「敵」目掛けて雪崩を打って鏖殺(おうさつ)するまで憎悪の炎は現存在を駆るのだ。

 

つまり、憎悪が生存の駆動力となってしまった世界の中で、

徒党を組むことは危険なことに違ひになく、

しかしながら、敵と味方の二項対立しか許されぬ

ぎりぎりの世界の状況は、

単独者のゐる隙間はなくなり、

やがて世界史の表象に何ものも躍り出て

恐怖心と憎悪といふ許されず、また、忌み嫌はれるものどもの婚姻関係の中で、

生存するべく現存在は、

本能の赴くままに、

己の勘のみを信じ、

猜疑の塊と化した現存在は、

その羸弱さ故に徒党を組む。

 

しかし、それは更なる「敵」の標的となり、

鏖殺の末路を迎へるのだ。

 

だからとはいへ、一度恐怖に駆られし現存在は己の生存を第一に

「敵」にやられる前に「敵」を殺すべく

只管、座視することに我慢出来ずに

「敵」を虐殺し出すに決まってゐる。

 

しかし、テロルを始めたのは必ず「敵」なのだ。

それがそもそも運の尽きで、

「敵」を殺さなければ、

いつかは必ず己が殺されるのだ。

 

ならば、と、進退窮まった現存在は、

やむなく「敵」を剿滅(そうめつ)する終はりなき地獄道を

どうあっても選択せねば生き残れぬのだ。

 

その日のために、今は

何の変哲もないと一見思はれる平和時の日常を

只管続けるのみ。

 

来たるべき殺戮の大嵐の中で、

果たして現存在は生き残れるかどうかは

偏に運にのみによる。

 

その確率論的なる存在の形は、

如何なる現存在にとっても不幸なのではあるが、

「敵」との全面戦争に突入せざるを得ぬといふ最悪の地獄道に

生存を賭けるその蓋然性に

現存在は「敵」を殺さねば、

その恐怖の世界状況の中では己の存在に堪へられぬものなのである。

 

世界は何時も泣いてゐるのだ。

 

かうして何ものかに絶えず攪拌される存在でしかない現存在は、

殺戮するための大義名分が必要で、

それは、しかし、簡単にでっち上げられるのだ。

 

「敵は殺せ」といふ箴言が世情を蔽ふ時が来たならば、

覚悟するとともにその箴言は疑ふべきものでもある。

とはいへ、テロルの時代に生き残るためには

単独者は徒党を組むしかないのかもしれぬ。

残念な事ではあるがそれは承服せざるを得ぬのだ。

その上でしか最早テロルの時代では現存在は生き残れぬ。

 

太太しくもこんなテロルの時代を生き残った運がいい輩に次代を託して、

己は、只管世界から逃亡するか、「敵」と全面的に対峙するしか

最早現存在の取るべき道は残されていない。

 

その中で、後は野となれ山となれなどと、無責任にも口にするな。

覚悟を決めて、唯、時代の推移をかっと目を見開き睨み付け、

世界の大渦に呑み込まれる覚悟をしておくべきなのだ。

 

そして、何もかもが焼尽するまで、テロルの時代は続く。

 

アストル・ピアソラを聴きながら

 

激情の中に哀愁漂ふバンドネオンの音色に誘はれるやうにして

私は独りテロルについて思ひを巡らせてゐる。

この一見余りにも不釣り合ひな組み合わせは、

しかし、ピアソラの演奏で断然際立つのだ。

 

テロルの残虐極まりない所業に対して

ピアソラの演奏は何処か藁をも摑むやうにしながらも

これしかないと言ふ旋律をしっかりと紡ぐその手捌きは見事の一言で

テロルが人人にもたらす憎悪すらをもピアソラが紡ぐ旋律は呑み込み

そして、逆巻くバンドネオンの音色に私も完全に呑み込まれる事に快楽を見出し、

テロルが齎す激しい憎悪の感情すらをもピアソラの演奏は含有してゐて、

ピアソラのその尋常ならざる演奏に唯唯感嘆するのみなのだ。

 

テロル。

これは現代において既に戦争を指すものとしてその様相を変化させたが、

さうだからこそ、ピアソラの途轍もなく先鋭化したタンゴの楽曲は

この不安な世界情勢の中でも一際際立つのだ。

それは何故なのか。

多分、それはピアソラが音楽と壮絶な戦ひを行ってゐた痕跡が

ピアソラの音楽の中には確として存在し、

しかもピアソラは何処か恬然としてゐる。

 

こんな音楽を生み出してしまったピアソラの苦悶は、

しかし、如何程であったのか想像に難くないが、

その壮絶な戦いぶりに

テロルは、さて、何処まで、無辜の人人を殺して、

人人に憎悪を植ゑ付ける事に成功するのか、

それとも、テロルに対しての憎悪を植ゑ付けるのかは、

高が知れてゐて、

しかし、人人はテロルの不安に怯えながら

現代を生きる外ないのも事実で、

だからこそピアソラの音楽はそんな人人の不安をも

Passionに換へて見せ、

その熱情は限界を知らないのだ。

 

目眩くバンドネオンの音色に

或る種の陶酔すら覚えながら

ピアソラの演奏は無から一音一音を摑み出すやうにして

全くの真っ暗闇の中から

闇を手放さない音符を強制的に此の世にその裸体を晒すやうにして

独創的な音楽に仕上げるそのお手並みは、

テロリストの誰もが出来やしない存在の秘訣を垣間見せる哲学者のやうでもある。

 

テロルが此の世を蔽ひつつある世情においても

ピアソラの音楽はその輝きを全く失ふ事なく、

時代が経つに従ってますますその輝きは益すばかりで、

数字としてしか此の世にその痕跡を残さないテロリストの

哀れな存在様式を完全に凌駕してゐるのだ。

 

それ程の熱情迸(ほとばし)るピアソラの音楽は、

さて、何故にピアソラは生み出せたのかは、

永遠の謎に違ひなく、

これから1000年後に人類が存在してゐるならば、

ピアソラの音楽は必ず残る筈で、

テロリストのそれは

単なる事象として数字で片付けられる外ないのだ。

 

さうすると、ピアソラの叙情味あふれる音楽の哀しさと

テロリストの本質に横たはる哀しみを比べても、

テロルは時間が経つに連れて記憶外に葬られるが、

ピアソラの音楽は人類が存続する限り

厳然と残るものに違ひない。

 

この差をピアソラの音楽は絶えず私に突き付けてゐて、

――ほれ、お前も「無」から「有」を生み出せ。

と、叱咤するのであるが、

しかしながら、私はといふと

こんな詩のやうな文字の羅列しか書き綴る事が出来ず、

さて、困った事にピアソラに対峙する文(ふみ)を生み出すには

未だに苦悶が足りず、

その事で呻吟するのであるが、

だからといって、人人に衝撃を与える文を書く事が出来ずに

迷ひに迷ひながら何とか「現在」を生き抜けてゐるのみなのだ。

 

――それでいい。

と私に囁く《異形の吾》がゐなくもないのであるが、

それは抛って置いて

私は唯唯内的自由に溺れる日日にご満悦なのも事実なのだ。

 

 

 

 

 

妖精

 

彼女は不意に私の眼前に現はれて、

私を蠱惑の世界へと連れ去った。

何よりも彼女は私を官能的な仕草で誘惑し、

私はといふとその誘惑に素朴に溺れた。

何であらうか、

彼女は直ぐさま裸婦に姿を変えて、

私の唇に唇を重ねた。

私は彼女を撫で回し、そして、彼女の柔らかい胸を弄り、

さらには、太腿を撫で回した。

私が触れる度に彼女は喘いで、更に私を誘ふのだ。

彼女の秘めたるところは既に濡れてゐて、

いつでも私を受け容れる準備は出来てゐたのだが、

私はといふと小賢しくも彼女焦らすのだ。

さうすると、彼女は私の秘めたるものを強く握り、

さうして色っぽく嗤った。

 

――あなたはまだ、子どもね。可愛い。

 

と、彼女が私の唇を嘗めながら囁いたのだ。

 

私は尚も貪るやうに彼女の肉体を求めて、

なり振り構はず彼女を愛撫した。

すると彼女は笑ひ転げて、

私の秘めたるものを弄った。

さうして、有無を言はせず、

私のものを彼女に挿入し、

私の上へと覆ひ被さってきた。

更に、腰を振る彼女は、

更に喘ぎ声を上げながら、

私のことなど目もくれず、

独り、己の官能の愉悦に溺れてゐた。

 

――ああっ。

 

と一言喘ぐ度に、彼女はその姿の正体を次第に現はし、

真白き柔肌の妖精(ニンフ)へと変身を遂げたのだ。

 

私はといふと、何の事か理解出来ず、

しかし、官能が醸し出す愉悦に溺れた。

 

――ああっ。

 

彼女の其処はひくひくとひくついて、

私のものに吸ひ付き、

何やら官能的な香りを漂はす。

その香りにやられた私は、一気に絶頂を迎えて、射精した。

 

すると妖精はけらけらと嗤ひ、

しかし、顔を赤らめながら、痙攣してゐるやうにも見えたのだ。

 

彼女は私の子どもが欲しかったのか。

それとも単に誑かしたかっただけなのか。

しかし、そんなことなどどうでもよく、

眼前に横たはる彼女は、次第に真白き球体に変化し、

そして、何処にか消えた。

 

これ以来、彼女はたまに私の眼前に現はれては、私の精液を吸ひ取って

そして、姿を消すのだ。

 

しかし、これが夢だと言ふ証拠がないだけで、

何時も官能的な香りを残す彼女が妖精だと言ふ証拠もないのだが、

こんな私に都合がいい女は此の世に存在する筈がなく、

私はこれは白昼夢でしかないと割り切って生活してゐるのだ。

 

哀歌 二

 

黄昏時の哀しみに躓いてしまった。

何てことか。

まるで一生ぼんやりと

眼前の形が形としての映像を結ばない曖昧模糊とした世界を

漫然と眺めてゐる阿呆と何処が違ふといふのか。

或ひは俺は盲人か。

何にも最早見えないではないか。

 

嘗て汚れちまった哀しみを歌った詩人も、

こんな哀しい黄昏時を味はった事はないかも知れぬ。

 

俺にとっては至極当たり前の事なのだが、

何時も哀しみに蔽はれし心身は、

既に自己とふ名の殻に閉ぢ籠もったといふのか。

 

漫然とした哀しみほど残酷なものはないのだ。

何故って、最早その哀しみは霊の如く憑依して

俺を俺以外の何かへと誘ふ端緒としてしか俺の存在を認めぬのだ。

 

この哀しみを知るものは

既に此の世を去ってしまったものばかりに違ひない。

この哀しみの中で生き残るなんて馬鹿しかできぬ神業なのさ。

 

ぢっとしてゐると、どうしやうもない哀しみが

心に滲み出てきて、あっといふ間に心全体を蔽ふのだ。

 

何て重たい心だらう。

哀しみにうちしがれし心は、

私に空いた穴凹然として

巨大Black holeの如く哀しみのどん底へとまっしぐらに

俺を誘ふのだ。

 

この重い心が既に俺には持ち切れず、

落下するに任せてゐると、

哀しみのFractalな形状がやがて見え出し、

底無しの俺に空いた穴凹に俺は落下する中でも、

何の事はない、俺は俺を楽しさうに抱いてゐるのだ。

俺が俺を手放すなんて現時点ではあり得ぬのだ。

どんなに世界が哀しくとも。

 

へっへっ、と不意に嗤った俺は、

哀しみが最高潮へと向かい、

絶望を呼ぶ黄昏時に

既に俺をしゃぶってみては

俺を喰らひ始めて、

さうして俺を磨り減らしては、

重すぎる俺の心を少しでも軽くする努力をするのだが、

そんな事は無駄な足掻きに過ぎず

既に重すぎた俺の心は

俺の心の閾値を超えて、

俺から飛び出てしまってゐるのだ。

 

何処を彷徨ふ俺の重き心よ。

今すぐ俺に戻ってこい。

 

弥次郎兵衛

 

両腕に等量の重りを抱き、

脚の如き一本の心棒でBalance(バランス)をとる弥次郎兵衛は、

果たして、その平行を打ち破る打撃を加へられ、その心棒がポキリと折れて、

地べたに這ひ蹲るのか。

 

―さうさ。さうぢゃなくちゃ、此の世の不合理は何ものも堪へられぬではないか。弥次郎兵衛は理不尽に打ち壊されて、さうして神の脚に踏んづけられるのだ。

 

盈虚

 

月あらば、人ありき、か?

雲間にその顔を仄か出す青白き太陽光を反射する月の面は、

私をかぐや姫の如くに月へと誘ふ。

 

――何を詩情に浸ってゐるのか! 人なくとも月ありきさ。人の存在なんぞ、芥子粒の如きと遙か昔より言はれてゐるではないか。人の存在を云云する以前に世界の不合理を暴く事が先さ。そら、月が盈虚して嗤ってゐるぜ。

 

 

快楽音楽主義者

 

Rickie Lee Jonesが歌う「My funny Valentine」ほど心に響く

つまり、心の琴線に直截的に触れる歌をこれまで聴いた事がなかったのだが、

この感動はもう何年前のことだらう。

彼女の歌声が忘れられず、

その時から彼女の作品は必ず聴く事になったのだのであったが、

その彼女の歌声はChet Bakerのそれにも勝る物で、

My funny Valentineがこんなにも美しい歌だった事を

改めて知らしめられた彼女の歌声は、

実に滋味深く、美し過ぎるのだ。

 

それは、私の心の共鳴板と確実に共鳴してゐて、

彼女の歌声は私の頭蓋内で猛烈な増幅をし、頭蓋内部で美しい轟音となって

鳴り止まなくなってしまったのだ。

 

それ以来、私はRickie Lee Jonesに勝るとも劣らぬ歌声を求めて

手当たり次第にポップスを聴くやうになったが、

Norah Jonesでさへも、

Rickie Lee Jonesを超える事はなかったのだ。

 

しかし、それをいとも簡単に超えた歌声の持ち主が現はれた。

その名は元ちとせと言ふ歌姫で、民謡に本源を持つ彼女の歌声は、

世界的に注目されべき物である筈なのだ。

 

だからといって、底知れぬ私の欲は、

それで満足することはなく、

更なる美声を求めて、

ついに、現代音楽家のアルヴォ・ペルトに行き着いたのだ。

ペルトが生み出す荘厳で静謐な音世界は、

美声の洪水に溺れる私の快感を実によく満たし、

それは現代音楽家・柴田南雄の風音にも似た何重もの音色の歌声が重ねられ、

声の滝が下り落ちるのではなく、

地から立ち上るやうに湧き上がる音圧を持つ楽曲に圧倒される快楽は、

武満徹の刹那的な、しかし、永劫を含有する優れた音楽を聴く快楽をも引き寄せて、

それらは私の思考の癖を能く表してゐるのだ。

 

つまり、音楽に沐浴するが如くにじっくりと浸かりたいと言ふ快楽に溺れる時間が、

何事にも耽溺せずにはをれぬ私のものに執着する執着心の欲深さが

私をして欲深い存在のその本性が浮き彫りになる。

 

 

存在が揺らめいた

 

何を思ったのだらう。

私は無意識に日向へと出て、

私の影法師を踏んづけたのだ。

さうせずにはをれぬ私は、

不図我に返ると

苦笑する以外、その場を遣り過ごすことは出来なかった。

 

しかしながら、さうして私に踏んづけられた私の影法師は、

もぞもぞと動いては私から何としてでも逃げたくて仕方がないのを

最早全く隠すことなく、

私にあかんべえをしながら、

揺らめいてゐたのであった。

 

日向の世界は仄かに暖かく、

私を私に自縛しながらも、

闡明する世界を私に見せたのであった。

 

成程、世界は根本的には美しいものに違ひないのであったが、

私には、幻滅しかもたらさず、

しかし、世界には私の思ひなんてこれっぽちも気にする筈もなく、

その美しさを持て余しているやうに見えた。

 

美しいこともまた、哀しい存在なのかも知れぬとは

世界がさうである以上、私に絶えず意識させずにはをれなかったのであるが、

美しいことはやはり罪深いかも知れぬと思はざるを得なかった。

 

しかし、私にまだ、美を見出す感覚が残ってゐやうとは思ひもよらぬことではあったが、

世界はそれ程に美しかったのである。

 

さうして、日向の美に溺れた私は、

影法師を私から自由にするやうにして踏んづけることを已めて、

ぐるりと世界を見渡して、

エドガー・アラン・ポーの『ユリイカ』の一説にあるやうに、

世界を一瞥で理解し果せられるかとの錯覚に溺れつつも、

ハクションとくしゃみをした世界を見て、

私は微笑まざるを得なかったのである。

 

何にせよ、私はまだ、この世界の中に存在してゐて、

さうして揺らめいてゐたのである。

 

それは影法師が揺れてゐたことから解ったし、

また、私自身、揺れてゐることを感じてゐたのだが、

それが存在自体が揺らめいてゐるとは知る由もなく、

一人の馬鹿者でしかない私は、

私にばかり目を向けてゐた所為で、

結局私は、何にも見てゐない節穴の眼で、

世界を、存在を眺めてゐたに過ぎぬのであった。

 

――初めに揺らめきがありき。さうして存在は此の世に立ち現はれるのだ。うふっ、そして、其処には笑ひに満ちた世界が広がる。唯、私のみを置いてきぼりにしながら。

 

くさめをしてみたが

 

――ハクション

 

と、くさめをしてみたが、

誰かが私を噂してゐる筈もなく、

孤独をこよなく愛する私にあって、

くさめは、花粉症の始まりかも知れなかったのだが、

一つ、くさめをしたところで、そんな筈もなく、

やはり、私を噂してゐる他が此の世に存在してゐるのかも知れぬ。

 

しかし、くさめをしたのだから、私は背をぴんと伸ばさなければならぬのだ。

さうして胡座を舁いて、

その場に座しながら、己の哀れな立場を噛み締めながらも涙を流すことなく、

無様な己を嗤ひ飛ばす図太さを身に付けなければ、此の世で存在する価値がない。

泣いてゐる時間があれば、その分、更なる屈辱の中、

私は私を感じながら、その私を断固として拒否するべきなのだ。

 

――それで、お主は己の存在に堪へ得る術を見出したのか。仄かにお主から立ち上る霊性にお主の哀しみが表れてゐる。それで、お主はお主の存在の拠り所をくさめする己に託せるのか。それでお主はくさめする己の存在に嬉嬉として喜んでゐないだらうな。

 

擬態する神

 

何てことはない。

神と呼ばれてゐたものは、

森羅万象に擬態し、

その身を隠してゐて、

常人には見えない存在として此の世を闊歩してゐたのだ。

 

それが知れたからと言って、

神は全く臆することなく

擬態に擬態を繰り返して

此の世の森羅万象に変化するのだ。

 

しかし、それを一度知ってしまった者は、

気が触れて、気狂ひとして後ろ指を指されながら、

途方に暮れて、

それでも砂を噛む思ひをしながらも何としても生き延びるべきなのだ。

 

だが、神を見たという者は最早それのみで此の世の中で孤立せずにはをれぬのだ。

何とも残酷な仕打ちなのだが、神を見てしまった者は基督のやうになる外にないのだ。

此の世に見捨てられ、磔刑にかけられて、

神を全く信じぬ白痴の者達に

嬲り殺される外ないのだ。

 

さて、俺はこれまでに何人の神を見た者を見殺しにしたのだらうか。

俺がその咎から遁れられぬのは言ふに及ばず、

実際に自責の念に駆られながらも、

神なんぞ信じることなく、

森羅万象の秘密を知り得べくと思ひ上がった先入見により視野狭窄に陥り、

さうして実際に森羅万象の秘密を一度は科学者に委ねたのだ。

 

しかし、それが誤謬でしかないといふことが解ると

俺は顔を蒼白にしてぶるぶると震へ出し、

ずぶ濡れの子犬の如く此の世に懺悔したのであった。

 

擬態する神は、

しかしながら、そんなことには眼もくれず、

森羅万象に変化することを楽しみ、その自在感に満足至極の態で

俺にあかんべえをして、

にこにこと嗤ってゐやがるに違ひないのだ。

 

それに憤怒した俺は、しかし、神の為すがままに弄ばれて、

遂には此の世に屹立する場を失ひ、

俺はやうやっと闇に擬態する術を覚えたのだ。

 

闇に紛れてゐる俺は、

やがて盲て完全に闇に同化するに違ひなく、

さうでなければ俺は直ぐにでも自死の道を選ぶのであったが、

かうまで神に弄ばれたまま、

憤死するのも忌忌しく、

闇の中で眼光鋭く神の擬態を見破って

神諸共死するべく、

その時を只管待ってゐて

闇の中で息を殺してゐるのだが、

闇に目が慣れて来るに従ひ、

視力は弱り、

神の擬態を見破るなんて俺の思ひ上がりに過ぎぬのであり、

俺が闇に身を隠したことが既に俺の敗走の始まりでしかなかったのだ。

 

――そんなへっぴり腰ぢゃ、私の擬態を見破るなんて千年早いぜ。ふっふっふっ。ほれ、もっと闇を喰らって、闇で私を捕へる術を探るんだな。へっ。何時まで生きてゐることやら、ふはっはっはっはっ。ざまあないぜ。

 

端座する

 

俺の振る舞ひに決定的に欠けてゐる礼儀は

ここぞと言ふ時には全的に大仰なその形式に則って

先ずは端座するべきなのだ。

 

例へば他人を前にして、

其処にあるぴんと張り詰めた緊迫感にしかと身を引き締めて対峙するには

端座することが他者に対する最大の礼儀なのだ。

それすら出来ぬと言ふのであれば、

俺は俺であるその根拠を失って

茫然自失の態で俺は俺の内部を罵倒するのみ。

 

端座せぬその居心地の悪さと言ったならば、

跋が悪いといふ言葉があるやうに

他者を前にした緊迫感に押し潰されるだけなのだ。

他者に呑まれる俺のその無様な様は、

端座することで、つまり、礼儀を守ることでやっと取り繕へる。

 

さうして俺が俺である自覚を持てる俺は、

端座して一礼し、他者に対して礼儀を尽くす。

これが、他者に対する、つまり、超越した存在に対して

何とか解り合ふたった一つの方法で、

礼儀を以てしてのみ俺が俺の位置を守れるのだ。

 

 

 

思弁的超越論私論

 

気配すらをも潜めし《それ》は、

自らの意思、否、《念》において

「先験的」に《吾》は《存在》すると自覚してゐて、

カント曰くところの「物自体」は

全てかっと目を開き、

世界を睥睨してゐる《存在》として

此の世界に確かにゐるのだ。

 

――世界が本質に先立つ?

 

馬鹿な、

世界にとって《吾》の《存在》なんぞ、

どうでもよく、

《吾》が死なうが生きようが窮極的には知ったことではなく、

全く的外れなそんな問ひに対して

「物自体」は

――ひっひっひっ。

と、嘲笑してゐる筈である。

 

思弁的超越論において、

《吾》の問題も《他》の問題も

幽霊の《存在》を認識するかしないかの違ひでしかなく、

そんな幽霊のやうな世界に対して、

 

――世界が本質に先立つ。

 

などと言ふ馬鹿げた問ひを発する此の《吾》は、

まだ、これまで一度も「私」とか「主体」とか己のことを呼んだことはなく、

世界自体が己の有り様に困惑してゐるこの現在といふ時の中で、

過去と未来は反転に反転を繰り返し、

既に未来と過去は渾沌としてゐるのが

世界の自同律の本源であり、

唯、現在のみにおいて因果律は辛うじて成り立つのである。

 

――何、主体と客体の問題は?

 

と。これこそ笑止千万。

何故なら、そもそも主体と客体の腑分けの仕方が間違ひの元であり、

世界はそんなに単純に出来てゐないのだ。

 

また、主体絶対主義のやうな主体と客体の位置付けが間違ひであり、

主体は羸弱な存在でしかなく、

此の世界に毅然として屹立するが如くに主体は組成されてゐないのだ。

 

主体にとって何よりも先立つのは感情であり、

それは意識とか認識とか思考とか考へとかでは決してない。

つまり、デカルトは間違ってゐるに違ひなく、

デカルトに対して否と言へない現代人は、

既に思索において過去の哲人の足下にも及ばず、

cogito,ergo sumに対して

平伏するのみのその面従腹背の様は、

既に世界によって見破られてゐて、

何とも無様で、そして哀れなのである。

 

「先験的」に世界も己に対して疑念を抱いてゐて

それ故に時は流れ、世界においてすら自己同一は決してやって来ないのだ。

 

況や「私」においてやって来る筈がない。

 

――嗚呼、哀しき哉、世界を受容することに骨を折る《吾》が、毎夜毎夜、《吾》を欣求しながら彷徨ひ歩くのは、幽霊だと言って嗤ひ飛ばすことは何を隠さう、《吾》に対して無礼でしかないのだ。

 

渇仰する

 

何をそんなに渇仰する必要があると言ふのか。

既に俺はかうして此の世に存在し、

そもそも俺は己の存在に対して十全とし、

ふっ、それよりも恬然と此の世を満喫してゐるのに、

何を渇仰するものがあると言ふのか。

 

ところが、一度、己に対して疑念が生じると、

疑心暗鬼に陥り、

暗中模索に試行錯誤と、

闇の中を手探りで一歩一歩そろりそろりと歩くやうにして

俺は俺に対しての不信感を追ひ払ふことが出来ずに、

何時も俺のことを嘲笑するのだ。

 

これはこれで楽しくもあるのだが、

この自己矛盾には既に辟易してゐて、

常に俺は、俺を嘲笑する側の俺に為れないかと

その存在の有り様を渇仰するのだ。

 

俺が渇仰する俺とは、

さて、それは此の世において信用出来る存在として

つまり、基督や釈迦牟尼仏陀のやうな存在として

今生の苦を一身に受けながら、

それでゐて恬然とし、

何処吹く風かと言ふやうに

俺の存在なんぞにかまける暇があったなら、

他の苦に共感し、それを取り除くことを使命として

身を粉にして世界に尽くす無私の状態こそが

俺の渇仰して已まぬ存在の正体かと言へば、

そんなことは全くなく、

それとは裏腹に、

基督も釈迦牟尼仏陀も、

人間の業からの開放を

つまり、現代においても信仰の対象として此の世に縛り付けてゐる

その浅ましき人間の業からの開放を切に願ってゐるのだ。

 

それでは人間は範とする人間像が描けぬと、

この二千年余りの間、

あり得べき人間の有り様を

全く描くことなく、

全て、基督や釈迦牟尼仏陀などにおっ着せて、

自身は旅の恥はかきすてとの慣用句の如く、

今生を「旅」に模して恥ずべきことばかりを行ってゐるその無様な姿を

「俺は俺だ」の一言に全て集約して、

満足してゐる醜いその醜態は、

何をか況やである。

 

人間は今生において、

基督や釈迦牟尼仏陀などの先人の足跡を軽軽と乗り越えた

存在を渇仰せずして、何を生きるのか。

 

それこそ、恥じ入る外ない人生を生きてゐたといった趣旨の言葉を

此の世に書き残して逝った太宰治を超えるものとして

現在を生きるものは誰もが渇仰するのが、

人の道と言ふものではないのか。

しかし、

 

――へっ、 何を馬鹿なことをほざいてゐる。

 

と、そんなことなど全く信じてをらぬ俺はそれに対して半畳を入れるのだ。

当然のこと、現在に生きる俺も尚、過去に生きた存在を範として生きるのを由としてゐるのだ。

 

それもこれも過去と未来は何時反転してもいい存在で、

此の世に距離が生じるといふことは、

既に過去世であり、

しかし、過去世の中に目的地が必ず生じる筈で、

さうなると、距離は過去世を表はさずにそれは反転して未来世に変はるのだ。

 

この時間のTrick(トリック)に騙されることなく、

未来と過去が渾然一体と化した此の世の有り様に

戸惑ふことは許されず、

俺は現在に取り残される形で、単独者として存在するのだ。

その単独者は、存在を渇仰し、

さうして何かにやうやっと変化するその端緒にあることに身震ひするのだ。

 

実念論

 

――ほら、其処にも念が彷徨ってゐる。

 

さうなのだ。此の世には「先験的」に念が存在してゐて、

何時存在物へと転生するかその時期を見計らってゐるのだ。

 

――初めに念ありき。

 

これが、此の世の誕生を担保する唯一の言なのだ。

 

――何を馬鹿なことを。

 

と、誰もが半畳を入れるのだが、

実念論はそんな半畳などに全くびくともせずに、

此の世における所与のものとして実在してゐるかのやうに必ず存在してゐる。

誰も、実念論に反論出来ぬのだ。

 

――当然だらう。そんな馬鹿な話を信用する輩なんぞ此の世にゐやしない。

 

本当だらうか。

では何故、生物は死ぬのだ。何故、生物は生まれるのか。

生死の因果すら説明出来ぬ論理的な存在者どもは一体何なのか。

その生死を「偶然」に帰す馬鹿な論理は今更言ふに及ばず、

己の存在は「偶然」に生まれ、「偶然」死すと言ふのであれば、

生死を超越する存在をそれは示唆してゐるに過ぎぬ。

全てはギリシャ悲劇のやうに「必然」とするならば、

神の存在なんぞ必要なくなり、

基督は磔刑から永劫に開放され、

現存在は現存在のみで自立する存在となるに違ひないのだ。

 

――此の世は必然でなければ到底眼前で起きてゐる凄惨な悲劇を受け容れることは不可能なのだ。

 

――何故?

 

と、この下らぬ自問自答に聞き耳を欹てて、

ぢっと聞いてゐる存在が無際限にゐるのを繊細な存在は既に気付いてゐる筈だ。

此の世は全てにおいて必然でなければ、

どうしてその余りに不合理な有様を受け容れると言ふのか。

 

此の世は不合理であることは「必然」で、

また、無残に生き物が死んでゆくのも必然なのだ。

 

偶然は必然を受け容れられぬ者達の断末魔の叫びでしかない。

 

――嗚呼、偶然撮られたフィルムやデジタルビデオで撮られた「偶然」な出来事も

それは撮られた瞬間に既に「必然」へと変化してゐることを何故、誰も声を上げぬのか。

 

念がうようよ犇めいてゐるぜ。

気持ちが悪いほどに念は存在にその体軀を押しつけ、

ぬめっとしたその感触を幽かに残して、

 

――くっくっくっ。

 

と嗤ってゐるのだ。

此の世を合理的に語るならば、

実念論こそそれに最も相応しいと言ふと、

誰もが指差し嗤ふのみながら、

その実、誰も実念論を否定出来ぬのだ。

 

独断的存在論私論

 

もしかしたならば高村光太郎の言葉だったかも知れぬが、

「私の前に道はなく、私の後には道がある」

といふやうな内容の言葉に、一時期惑はされてゐたが、

去来現(こらいげん)が因果律を持つのは、

現在のみといふことを知ってしまった後、

過去と未来は混濁してゐて、渾沌としてゐるのを

無理矢理私の五蘊場が因果律の筋を通してゐるだけだったのだ。

 

此の世は、まず、渾沌としてゐて、

秩序が表はれるのは、偏に私の存在によるのだ。

とはいへ、世界にとって私の存在なんぞどうでもよく、

その狭間で、現在に留まれ置かれ続ける運命の私は

無理矢理に世界に秩序を当て嵌めて

やうやっと私の存在の居心地の悪さを遣り過ごすのみの私は、

絶えず存在に押し潰される危ふさにあることを意識しなければ、一時も生き残れぬ。

 

――科学は?

 

といふ自問を発する私の胸奥に棲む異形の吾は、

 

――ふっふっふっ。

 

と嘲笑するのだ。

それは、科学者は世界の癖、つまり、法則を求めて厖大な研究を行ってゐるのだが、

世界に癖を与へてゐるのは偏に私が此の世に存在するからに過ぎぬのだ。

私が存在しなければ、世界は相変はらず渾沌のままで、

それで世界は満足なのだ。

世界に無理矢理秩序を押しつける現存在は、

終始己のことが可愛くて仕方がないために、

さうしてゐるに過ぎぬ。

 

そして、私の存在は何時も独断的なのが「先験的」であり、

独断的でない私なんぞはそもそも存在する価値すらないのだ。

だか、しかし、世界は渾沌としてゐる故に何でも慈悲深く受け容れるため

どんな存在も此の世に現れる蓋然性を残してゐる。

 

つまり、何ものも存在する事を拒否せずに受け容れる度量がある故に

世界は世界なのだ。

 

そして、その世界も己に不満故に、諸行無常の中に森羅万象を置き、

時を移ろはせては「完全な」世界を欣求して、

一時も変化することを已めぬ。

 

その変化に法則を見出した現存在は

今や無機物で出来た人工知能といふ厖大な情報を瞬時に処理する論理の束を生み出して、厖大な情報を高速計算しては世界の「予測」を始めてゐるが、

その因果律は、果たせる哉、現時点では世界の全事象の予測は不可能で、

しかしながら、現存在の欲は強く、

未来予測を行ふ為の厖大な情報の解析の正確さを競ひ合ってゐる。

 

そんな中で、現存在は独り現在から取り残されゆく哀しさに襲はれて、

絶えず未来を高速計算してゐる人工知能に敗北しては、

 

――えへへっ。

 

と嗤ふのだ。

 

それもまた諸行無常の常であり、

へっ、時間の流れ方は果たして変化するのか

それのみを見たくて現存在は何時までも現在に存在する。

 

つまり、存在は存在である限り独断的に此の世に存在するが、

それは世界の逆鱗に触れるために修正を余儀なくされ、

諸行無常の渾沌に呑み込まれるのが関の山。

 

――嗚呼、錐揉み状に落ち行く其処は、闇に没して心安まる黄泉国か……

 

剔抉(てっけつ)してみたが

 

興味本位で《吾》を剔抉してみたが、

抉り取られたものは虚でしかなかった。

それは当然の事、

《吾》がさう易易と私に囚はれ物に為る筈もなく

その摩訶不思議な《吾》をして

私が私として此の世にあるその礎が、

理解可能なものの筈はない。

 

夢幻空花(むげんくうげ)なる此の世の様相は、

平家物語の

「諸行無常の鐘が鳴る」

といふ言葉がぴったりと来、

そんな世に生きる《吾》といふ化け物を

包摂する私と言ふ存在は、

興味本位で剔抉したくらゐで

その正体を現はす筈も無し。

 

辺りには能の調べが流れ出し、

益益諸行無常の哀しみに

私は囚はれるのだ。

 

「がらんどう」

 

さう、私の内部は一言で言い切るならばがらんどう。

 

そのがらんどうに五蘊場、つまり、脳と言ふ構造をしたがらんどうは

魑魅魍魎が犇めき合ふ異世界の有様をしてゐる筈で、

容れ物によって自在に姿を変へる《水》の如くに

異形の《吾》どもが輻輳してゐる様は、

将に《水》としか言ひやうがないのだ。

 

そのひとつを抓み上げて、

――お前は何やつ。

などと問ひ糺したところで、

そいつはにやりと醜悪な嗤ひを浮かべて、

あかんべえをするのみ。

 

さて、その魑魅魍魎は、

私の後ろの正面で嬉嬉としてゐて、

私がそいつの名を当てるのを待ってゐるのだが、

私はと言ふとそいつを名指せる言葉は持ってをらず、

唯、魑魅魍魎の異形の《吾》としてしか名指せぬのだ。

 

言葉で語れぬ物は、

則、その気配のみを漂はせて、

私の後ろの正面で、

戯れてゐるのだ。

 

――ちぇっ。

と舌打ちしたところで、

何にも変はる筈もなく、

そいつらが変幻自在にその姿を変へながら

諸行無常を楽しんでゐるに違ひない。

 

剔抉したその《吾》は、

虚でしかなかったのだが、

しかし、その虚は虚体の端緒となり、

やがて《杳体》へと変化する筈なのだ。

 

虚体は勿論、埴谷雄高の曰くところの物で、

《杳体》は私が《吾》のそこはかとなく漠然と不気味な様を

《杳体》と名付けた物で、

《杳体》は、虚体をも呑み込む

名状し難き《吾》を引っ捕らへる《罠》に過ぎぬのであるが、

今以て《杳体》といふ《罠》に引っ掛かる莫迦な《吾》はゐないのである。

 

しかし、私は何時までも釣り人の如く《杳体》といふ言葉による餌で、

見事に《吾》を釣り上げることが可能なのか、

全く見通せぬのだが、

その蓋然性はしかし、零ではない筈だ。

 

さうして仮初めにも《吾》を釣り上げられたならば、

私はゆっくりとそいつを料理して喰らふ事で

本望を遂げられる筈だ。

 

それまでは、此の魑魅魍魎の異形の《吾》の気配のみと対峙しながら、

すっくと私は此の世に屹立するのだ。

 

立ち姿

 

ぴたりと立ち止まったならば、

もう動くことは為らない。

貧血でぶっ倒れるときでも直立不動の姿のままどすりとぶっ倒れろ。

それがこの世界に対するせめてもの反抗の形なのだ。

アトラスの如く世界を背負ってゐるといふ自負を忘れてはならない。

現存在は、世界に登場したならば、

つまり、投企されたならば、

最早退歩は許されぬのだ。

世界が移ろふ現在といふ時制に乗せられるのみで、

それで満足する覚悟が、

その立ち姿に表はれてゐないとすれば、

それは怠惰と言ふ物なのだ。

 

存在する事に怠惰する時間は誰しもに与へられてをらず、

あるのは黙考する時間のみ。

そして、仮に異性を愛する時間が持てたなら、

それは僥倖といふものなのだ。

だから、徹底的に愛を貪り、

時間を忘れて形振り構はず、性愛に耽るのだ。

さうして解る現存在の在り方は、

直立不動の立ち姿なのだ。

それ以外、認めてはならぬ。

限界を超へてまでも直立不動であるべきなのだ。

 

さうして現存在はやっと世界に抗し、

一矢を報ひるといふ幻想を抱けるのだ。

さう、幻想だ。

土台世界に現存在が抗することは

考へる葦たる現存在をみて、

世界は鼻で笑ってゐる筈なのだが、

その性根が悪い、さう、世界はアプリオリに性根が悪いその世界は、

唯只管に直立不動の立ち姿のみに

きりりと緊張して対するのだ。

何故かと言ふと、

現存在の覚悟を直立不動の立ち姿に見るからなのだ。

 

現存在は、世界に振り回される運命としても

立ち姿のみは自身の覚悟で決まるのだ。

 

曖昧な

 

濃い霧の中にでも放り込まれたやうに

私は既に世界を失ってゐた。

辺りは無気味なくらゐに静寂に包まれ、

私が現在どのやうな状態にあるのかすら判別出来なかった。

 

つまり、世界は私の状況を知るには最も基準になるものに違ひないのであるが、

しかし、私はそんな曖昧な私の状態をこよなく愛してゐる私自身を其処で見出した。

 

私の存在に関して果たして世界は必要なのだらうか。

自己解析する分には世界は必須であらうが

事、私自身が私自身において私を語る分には世界は或ひは必要ないのかもしれぬ。

私は曖昧な世界の中で、

何にでも変身出来、妄想を逞しうして

その妄想にたちどころに変化する私を思ふのだ。

其処に世界が割り込む隙間はなく、

世界が無くとも私は私の存在を確信できると、

しみじみと思ふのだ。

 

確かに、世界の存在が明瞭ならば、私の存在も明瞭になるのは自明の理だが、

しかし、仮令世界を失っても私は私であることを已めやしないのだ。

 

――何をほざくと思ったならば、世界の紛失が私が私を見出す契機になる? 馬鹿な! 世界の紛失は則、私の消滅を意味してゐるのだぜ。

――だが、曖昧な世界においても私は私の存在を全く疑ふことはないんだ。つまり、死後も私は残るのだ。

――馬鹿な。死して尚も私が存在するといふ戯言は譫妄のなせる技で、お前は既に気狂ひの仲間入りをしてゐるのだ。

 

気狂ひであらうが、其処には必ず誰にも知られぬ私が確かに存在してゐて、

その私を忖度する権力は、私以外誰も持ち合はせてはゐない。

 

何故だらう。

この濃霧の中に没したやうな世界にあってすら、

私は私の存在の根拠を世界に求めてゐるのは確かだが、

しかし、私は何処かで世界は既に私を見捨ててゐると看做してゐるとも感じてゐて、

世界の無い中にでも私は存在してしまふ業の深さのみを感じるのだ。

 

睡魔に溺れる

 

夢魔に睨まれたのか、

どうしてもこの睡魔から逃れる術は私にはなかった。

突然の夢魔の襲来に

何の準備もしてゐなかった私は、

その不意打ちに為す術はなかったが、

睡魔に陥落する私は、

しかし、夢魔の挑発には乗る気力も無く、

只管、眠りを貪った。

その寝てゐる時間に、

夢魔は何をしてゐたのか不明であったが、

睡魔に陥落した私を嘲笑ってゐたことは間違ひなく、

その無防備な私の寝姿に至極満足の体であった筈なのだ。

唯、私に何もしなかった夢魔は

もしかすると黙して沈思黙考の中に沈んでしまってゐたのかもしれぬ。

その証左に夢魔が眠りを貪る私に対して何もせず、

唯、私の寝姿を眺めてゐた夢魔は、

己の醜態を見てしまったのか。

夢すら見てゐても全く覚えてゐない私に対して、

もしかすると夢魔は為す術がなかっのだらうか。

 

私が夢魔の思考を乗っ取り、

私が夢魔に成り切って、

さうして夢魔は即自でしかこれまで存在の形式を持ち得なかった己に対して

復讐してゐたのかもしれぬのだ。

 

即自としてしか己を思考出来ない哀しみに夢魔はもしや疲れてゐたのか、

対自として、脱自としての夢魔の有り様に思ひを馳せてゐたのかもしれぬ。

 

しかし、そんなことは睡魔に溺れた私にとっては、

構ってられなく、

睡眠を貪る中で、崩れてしまった体調を回復するべく、

何時間も眠ることを已めなかった。

 

と、不意に目覚めた私には、夢魔の姿を見られる筈もなく、

また、そんなものを探す余裕はなく、

まだ、私を摑んで離さないどうしやうもない睡魔に

再び溺れてしまふのであった。

 

――何を思ふ。夢魔は遠目に存在の無気味さに改めて気が付いてゐたのかもしれなかった。さうなのだ。即自としての存在様式にうんざりしてゐた夢魔は、私を直截に欣求してゐたに違ひない。さうして、夢魔は己を捨つることを希求した。

 

無意識といふ麻薬

 

無意識といふ言葉は無意識に実際にあるか如く使用されるが、

果たせる哀、実際にはそんなものはないと思ふ。

意識は全て意識上に浮上してゐて、

意識下に沈下してゐるものは、

沈下してゐるやうに擬態してゐて、

それらはぼんやりしてゐるときに肉体が表現してゐる仕草に

しっかりと刻印されてゐるのだ。

そして、意味が一見全くないやうに見えるそれらの仕草は、

心模様を忠実に表はしてゐる。

 

――それで何かを語ったつもりか? 無意識は無意識故に無意識といふ意識状態はあるのさ。

――それは詭弁だ。私を籠絡しようとしても無駄だぜ。無意識といふ言葉を全的に肯定して、ある種の神格化に成功するといふことは、止揚の乱用に外ならない。

 

止揚の乱用か。

或ひはさうかもしれぬが、無意識といふ言葉を見出してしまった以上、

無意識は無意識として神格化、つまり、肯定されるのだ。

このときに私は言葉の目眩ましに遭ひ、

あっといふ間に無意識といふ意識の様相を取り逃がしてゐる。

つまり、無意識は既に解釈されるものとして此の世に存在し始め、

フロイトならずとも無意識といふものの存在を、例へば夢を探求することで

その本質が現はれ出ると現代人の誰もが思ってゐるが、

それには懐疑的な私は、最早夢の神通力を信じてはゐないのだ。

現代で、眠ってゐるときの夢見を語ったところで、

それは既に解釈されるものとして体系化されてゐて、

夢が心像の象徴を忠実に表現してゐるなどと思ひ上がった思考は、危険思想の一つなのだ。

何故って、夢に何かを背負はせることは、自死の如く発想を潰すのだ。

つまり、思考を抹殺してゐることに等しき行為なのだ。

ならば、夢見を語ることはもう已めて、

発想の自在感に溺れやうではないか。

それがフロイト以降の正しき姿勢なのだ。

 

 

私は函数ではない

 

私は性能がもの凄い計算機でも私の頭蓋内の闇、

つまり、脳といふ構造をした五縕場が函数を模した存在でもない。

例へば仮にさうだと看做せても私は死んでも絶対に肯んじない。

私の存在が函数のやうだとしても、

だからといって私が函数である筈はなく、

函数のやうに私を扱ふもの全てが間違ひで、

私は世界を媒介してゐる媒体でもなく、

私は単独者として凜と存在したいのだ。

 

何時からか、電脳計算機が此の世を

押し並べて統べるかのやうな錯覚に存在は惑ひながら右往左往してゐるが、

それは、吾を函数のやうなものとして蔑視してゐる証左でしかない。

 

数学は美しいが、しかし、此の世は数学で語れるものばかりでなく、

情動で感ずる世界の姿があり、

それは荒ぶる世界であり、慈悲深い世界でもあるのだ。

 

情感すらも数値で表はす現代において、

それを信ずる馬鹿はもう見飽きた。

数値で表はせないものが此の世を統べてゐることをそろそろ見破らなければ、

吾は世界に欺かれ続け、

欺瞞がさも真実のやうに大手を振って

此の世を闊歩する下劣な世界観が支配する。

 

そんな世に私は生きたくないのだ。

数学が支配する合理的な世界観は私にとっては不合理でしかないのだ。

合理が合理を強要する世界において、不合理に存在する私といふものは、

不合理にしか存在出来ず、それは私にとっては果てしもなく不合理なものでしかない。

数学は美しいし、

それは世界の癖を表はすには現状では最高の言語であるかもしれぬが、

論理的なるものの薄っぺらさは、しかし、底なし沼の薄っぺらさなのだ。

それは合わせ鏡の鏡面界の無限に映し出される世界でしかなく、

それをFractal(フラクタル)な世界と看做すと

自己相似的な世界は、絶えず自己にこだはり、その相似が世界に満ちるのみなのだ。

そんな薄っぺらな世界にはもううんざりなのだ。

 

――だからといって、お前は論理から遁れは出来ないのだ。ふっふっふっ。全ては数学に始まり、そして、数学に終はるのだ。つまり、此の世を数学の言葉で書き表はす限り、電脳計算機が支配するのは当然で、そんな世界に順応するには、数学を神に祭り上げる外ない、のかな。

 

 

 

それは避けやうもなく、

静かに忍び寄ってきて、

不図気付くとそれは既に手遅れの状態なのだ。

病とは大抵そんなもので、

気付いたならば既に手遅れの場合が多い、と慰めたところで、

気休めにもならず、唯唯、未練が残るものなのだ。

それで構はぬとは思ひつつも、

必ずやってくる別れの時のためには

今は、涙を流すことは已めておかう。

 

愛するものとの別れとは、

いつも残酷なものであるが、

残酷故に、此の世は此の世として成り立つとも言へるのかもしれぬ。

さて、死するまでの残された時間、

いつものやうに普通の日常を過ごすとしやう。

それがせめてもの慰めであり、抵抗でもあるのだ。

有り体の普通の生活こそが最後の晩餐に最も相応しいのだ。

 

後ろ向きで

 

いつも前向きといふ言葉に恥辱を感じてゐた私は、

いつも、後ろ向きであった。

その恥辱の感情の出自は何かと問ふたところで、

しばらくは何の答へも見つからず、

いつも前向きであることを避けては

斜に構へて、前向きに進む人を嘲笑ってゐたのかもしれぬ。

しかし、嗤はれてゐたのは、

いつも後ろ向きの私であって、

それが恥辱の出自の糸口だったのだ。

 

さうして見出した恥辱の糸口を更に辿りゆけば、

私の存在そのものが恥辱でしかないといふ思ひに行き着く。

これは一方で自己否定をしては自身に何をするにも免罪符を与へて、

いつも逃げ道や逃げ口上を設けてゐて、

此の私の小賢しさが恥辱の淵源であり、

既に狡猾で老獪な知恵を身に付けてゐたのかもしれぬ。

だからといって、私の内部に生じる恥辱といふ感情は、

私の存在そのものの根拠に結びついてゐて、

だから、私は、私といふものを意識するときには、

己に対する恥辱の感情を禁じ得ぬのだ。

 

存在が既に恥辱であるといふことは、

或る意味では生きやすく、

しかし、一方では全く生きづらい存在のあり方であり、

他者にとってはそんなことはどうでもいいに違ひないのであるが、

どうあっても私においては此の恥辱なしに私といふものを意識することは出来ず、

ならば、私は無我夢中であり続けばいいだけの話なのであるが、

根っからの懶惰(らいだ)な私は、

これまで何をするにも後ろ向き故に無我夢中であったことはなく、

どうしても後ろ向きにしか進めぬ私は、

絶えず自己省察することに確かに歓びすら感じてゐて、

後ろ向きであることに胡座を舁いてゐたのは間違ひなく、

後ろ向きであることは未知なるものを見ることを避けてゐて、

それは狡(ずる)いといふことに尽き、

既に他者が切り拓いた道を後ろ向きで

ちょこちょこと進んでゐるに過ぎぬ私は、

当然、己を恥辱を以てしか受け容れられぬのだ。

 

これは、しかし、笑ひ話でしかなく、

喜劇役者の主役を演じてゐるに違ひないが、

ピエロになれぬ私は、私の存在に対して絶えず恥辱を感じずにゐられぬのだ。

 

さあ、哀しい奴と嗤ふがいい。

さうして己は己に対して我慢出来、

此の恥辱な存在に堪へ得、

そして、私は私に執着することを断念できるのだ。

 

潰滅

 

在るものが静かに潰滅しゆく様は、

なんと自然な様なのだらうか。

しかし、此の自然といふ言葉が曲者で、

果たして人智で自然そのものを捉へられるとでも

哀れな人類は考へてゐるのだらうか。

そもそも人智を超へてゐるから自然としか表現出来ぬのであり、

仮令、此の世界を理解し得ても、

自然は自然として何の存在にも無関係に存在し、

そのゆらぎの中でのみ、生物は存在するに違ひない。

 

潰滅しゆくもの達の怨嗟をも受け容れる此の自然は、

また、誕生の産声も受け容れて、

生滅の両睨みと言ふ神業を難なくやり遂げる此の自然に対して、

現存在は、その慈悲に縋り付くしかないのだ。

 

何のことはない、

自然がほんの一寸でも荒ぶれば、

人間なんぞ一溜まりもなく潰滅し、

さうして現はれた廃墟をも呑み込み、

自然は廃墟を次第に自然に同化しつつ、

最後は自然に帰すると言ふ循環する論理は、

人間の最も嫌ふ論理形式であるが、

しかし、事、自然を相手にするときは、

どうあっても循環論法に陥るしかないのだ。

そして、人間もまた自然ならば、

論理的といふのは先験的に循環論法を指すのであって、

止揚したと見えても、それは一時的な論理の逃避行でしかなく、

ジンテーゼで何かしら語り得ても、

それは一時的なまやかしでしかないのだ。

 

万物流転といふ先見の明に対してあまりに無頓着な人間は、

分別を弁へることなく、

否、仏教で説くところの分別を超へた境地に決して至ることなく、

分別で、つまり、弁証法的な、また、演繹的な、また、帰納法的なその語り口は、

人間とってのみ辻褄が合ふことでしかなく、

自然に対しては全くの無力でしかない。

 

その無力であることの自覚なしに、

何かを語ると言ふ偽善に目を瞑り、

人類が此の世の春を謳歌する時代は既に終はりを迎へつつあり、

これ迄奴隷として使ってゐた機械が、人工知能という論理形式を手に入れたことで、

いつかは人間を追ひ詰める「主人」になる日も近いのかもしれぬ。

だが、それでいいではないかと私は思ふのだ。

これまでの人間の悪行に対して償ふには、一度人間は無機物の奴隷と化して

贖罪をする外にない。

 

それが今に生き残れた人間の唯一の奴隷に対しての贖罪の仕方なのだ。

さうして静かに人間、否、現存在は潰滅するがいい。

 

哀しき光線

 

ひとたび発せられてしまふと、

仮に宇宙が有限だとして

もう宇宙を一周する以外に元の場所に戻れぬ素粒子どもの中でも、

光子は特に哀しいのかもしれぬ。

或る人は何物にもぶつかることが殆どないニュートリノが哀しいと言ったが、

Energy(エナジー)に物質を変換する光速度で飛び回る光はといふと、

量子と反量子との衝突による対消滅で発せられる光が、

最期の存在の断末魔であり、または、最期の存在の大輪の花火であるかもしれぬ。

 

毎夜、空目掛けて発せられるLaser(レーザー)光線の哀惜は

それが最早この地に戻れぬことなのだ。

自身の誕生の地に二度と戻れぬ光線を何の躊躇ひも感ぜずに発せられる人間の傲慢は、

光を自在に操れる此の世の王とでも思ってゐるのか、

何の躊躇もなく、毎夜無数のLaser光線が空目掛けて発せられる。

 

その哀しみを感じてしまったもののみ、手を合はせ、

南無と、若しくは桑原桑原と光の復讐を恐れるのだ。

それを杞憂と嗤ってゐられる存在は、

なんとお目出度い存在なのか。

光に焦がれて焼死するのはいとも簡単なのだ。

 

例へば炎の光は、物質を焦がし、生物を焼死させる。

稲妻は感電死させ、若しくは焼死させるのだ。

 

身近な光の怖さを知ってゐる筈の人間は、

しかしながら、光の復讐に思ひ至らず

火事の炎の光と太陽光の核融合により発せられた光とを分別して、

火事の炎の光を恐れ、太陽光の光線には慈悲すら感じてゐるのだ。

 

此の区別は何処から来るのかといふと、

距離の違ひでしかない。

 

炎の怖さを知ってゐるものは、囲炉裏の火を消すことなく、

何百年も炎を燃やし続け、火の神様を敬ってゐる。

火が身近なものほど、

火を崇めるのだ。

 

Zoroaster(ゾロアスター)教ではないが、

炎の光をぢっと眺めてゐると、

其処には大いなる慈悲深さと癒やしの大河の片鱗を見、

それは自ずと太陽光へ、

若しくは宇宙の涯の星の輝き、そして、素粒子と結びつくのが現代人ではないのか。

 

しかしながら、Laser光線を天へ目掛けて発する人間の罪深さに対して

それを哀しむ存在に思ひを馳せることもなく、

今日も人間はLaser光線を天目掛けて発して興じてゐる馬鹿者なのだ。

 

 

 

 

 

矛盾は豊潤

 

此の世は不合理故に矛盾は豊潤で有り、

矛盾の棲処である渾沌を呑み込むべき存在として吾はある。

そもそも吾の存在を合理的と看做してゐる誤謬の徒は

最早その存在根拠を見失ひ、右往左往してゐるのが実情ではないのか。

 

渾沌を敢へて呑み込む不快を吾は堪へなくして、

誰が此の世界を支へるといふのか。

既にアトラスは消滅してからいったい何年経つことか。

既に玄武が此の世から消滅して何年経つことか。

 

既に神話の世界に、つまり、黄金時代に幕を閉ぢてしまったこの時代で、

敢へて生きてゆくには、世界はどうあっても己の双肩で支へるしかないのだ。

 

そんな過酷な状況を知ってか知らずか、

現存在は、相変はらず旧態依然の考へ方をしていて、其処に新しい発想の芽生えはない。

唯、世界が電脳化されゆくので、それに対応するので精一杯なのだ。

 

其処に夥しい矛盾が横たはってゐるのであるが、

その矛盾に真正面からぶつかる勇士は未だ出現せず。

 

嗚呼と、嘆くことは誰にでも出来るのであるが、

誰も矛盾に豊潤なものを見出す真正直な輩は、

いったい此の世に現はれることが可能なのか。

 

矛盾にこそ不合理である世界の根拠が隠されてゐて、

矛盾を取り上げない論理の浅はかさは、

言はずもがなであるが、

矛盾を無視する言説にはもううんざりなのだ。

その上っ面だけ辻褄が合っているやうに見せかける論理の誤謬は、

誰かが言挙げしなければならない。

 

これまでの論理で受け止めることが出来なかった此の世界を

受け止めることが可能なのは、矛盾を矛盾として言祝ぐことしかあるまい。

 

――だが、矛盾を嫌ふ本能は、如何とも出来ず、矛盾を前にして、吾なる存在は其処に渾沌しか見られずに、其処に存在の糸口がごろごろと転がってゐることを理解出来ぬであらう。

 

独断的存在論私論 二

 

錐揉み状に此の世にばっくりと大口を開けたパスカルの深淵に落ち行く吾は、

果たせる哉、底無しの中を何時までも自由落下し、

それは何時しか浮遊感とも混濁し、

吾が果たして落ちてゐるのか浮遊してゐるか最早己では解らなくなってゐるのだ。

 

この曖昧な感覚に不快を覚える吾は、

徹底的に落下の感覚を意識するのであるが、

しかし、私の軀体はどうあっても浮遊してゐると内臓から感じるのだ。

自由落下が浮遊感を齎すのは、しかしながら、余りに自然な事で

自由落下してゐる吾は、その錯覚を真実と看做してしまひ、

真実を目隠しするのだ。

しかし、その錯覚してゐる事こそが真実であり、

己の感覚に反する事を意識し、それをして認識とするのは吾には

余りにも酷と言ふものだらう。

認識といふものは、そもそも曖昧で、錯覚塗(まみ)れのものでしかないのだ。

 

錯覚を錯覚と指摘したところで、

それが錯覚だと思ひなすには吾は余りにも未完成なのだ。

そして、未完成故に時間は流れ、

その時間には固有時といふ小さな小さな小さなカルマン渦が生じる。

未完成が完璧を欣求する事で時間が流れ、

固有時の寿命は現存在の寿命にぴたりと重なるのだ。

 

世界が完璧を欣求するをして諸行無常とする吾は、

森羅万象が欣求するものこそ、詰まる所、悦楽の死んだ世界なのかもしれぬとも思ふのだ。

死の周りをぐるぐる回る吾の思考癖は止まるところを知らず、

死を求めて彷徨ひ歩くのを已めやしない。

生者にとって、しかしながら、死こそが生の源泉であり、

それでこそ、生を心底味はふ肝であり、

死あっての生でしかないとの諦念が吾の脳裏の片隅にはある。

 

さうして吾の存在とは何処まで行っても独断的にならざるを得ず

独断的でない存在論はそもそも成り立つ筈がないのだ。

それは、至極当然のことで、世界が存在の、念が宿る存在の数だけ存在し、

それらは全てが独断的な世界なのだ。

しかし、独断的と言ふ事を前面に出す事はなく、

他の無限の世界と摺り合はせをしながら、

吾の独断的な世界を矯正してゐるに過ぎぬのだ。

それ故に吾は不自由を感じ、吾の存在を肯定する事は恥辱でしかないのだ。

 

吾が吾に思ふその恥辱は、屈辱とも重なって

非常に根深い嫌悪感を吾に齎す。

 

――それでも吾は生きるのだらう。さうぢゃなきゃ、吾は恥ずかしくて生きちゃゐないだらうが。恥辱があってこその吾の存在の証拠なのさ。ほら、吾が陽炎のやうにゆらゆらと揺れ初めてゐるぜ。穴があったら入りたいんだらう。へっへっ。下らない。

 

寄生虫

 

宿主を殺す寄生虫の存在とは自死を望むものになんと似てゐることか。

殆どの寄生虫は宿主を殺さずに宿主の内部で生を満喫してゐる筈だ。

ところが、そんな寄生虫の中で、自らの存在があることで

宿主を殺すのを目的としてゐるものが

何故にか存在し、そして、宿主の死とともに自らも死ぬそれらの寄生虫は、

何をして宿主を、そして自らを死へと追ひやるのか。

 

寄生虫にとっての宇宙は宿主の体軀であり、

そこから食み出す時は、

唯、他の宿主を求めて媒介する生物により、

外宇宙へと飛び出すのであるが、

しかし、それもまた、寄生虫にとっては飽くまでも内宇宙のことでしかなく、

つまり、外宇宙に関してそもそも寄生虫は知り得ぬのだ。

 

認識外にある寄生虫における外宇宙とは、さて、何を指すのであらうか。

それは、現存在の想像でも思ひも付かぬ外宇宙に等しく、

寄生虫にとって宇宙とは宿主のことでしかなく、

それは既に全体が想像出来る存在であり、

それは現存在が宇宙の涯を想像するのによく似てゐるのだ。

さて、何人の現存在が外宇宙を想像出来ようか。

そもそも宇宙が閉ぢたものでないと言ふ証左はなく、

とはいへ、此の宇宙が閉ぢたものであると言ふ証左もないのだ。

 

つまり、現存在は、此の宇宙における寄生虫であり、

芸術的に自然を破壊する現存在は、宿主を殺すべくある寄生虫にそっくりなのだ。

果たせる哉、現存在は予定調和の如く自らが生活する環境を

何の躊躇ひもなく変へてしまふ此の寄生虫は、

自らの大量死の死屍累累とした様を見るかのやうに

日常を非日常へと変へるべくして、

せっせと世界を変へてしまひ、

さうやって現存在は此の世の春を謳歌し、

さも此の世の王の如くに生きてゐたのであるが、

ここに来てそれも限界を迎へたことを悟った現存在は、

自然の猛威に打ち震へながら、

ひっそりと身を潜めることしか最早出来ぬのだ。

 

それでも宿主の死は己の死であることをやうやっと悟った現存在は、

世界を己の生きやすいやうに変へてしまふ暴挙を猛省し、

只管、持続可能な世界にするべく、現存在の日常を見直してゐるのだが、

しかしながら、世界を変へるだけ変へ尽くし、

尚も世界に大きな負荷をかけてゐる現存在は、

自滅する寄生虫そっくりに宿主とともにその死を待ち望んでゐるかのやうな存在なのだ。

 

科学技術の発展と言っても

それは現存在が認識できた科学といふものの氷山の一角の応用でしかなく、

また、現存在は世界を科学的に認識出来てゐるのはほんの少しでしかなく、

その背後には厖大な秘密が隠されてゐて、

それの暗幕が剝ぎ取れるのは、

何時のことになるのかは知らぬ。

 

中途半端な世界の理解と認識をもとにして科学技術で世界を変へた現存在は、

それ故に未知なる世界の本性を見ることなく、滅びる可能性が大なのだ。

 

きっとごきぶりを初めとする昆虫が世界がどんなに変はらうと生き延びて、

現存在の馬鹿さ加減を後世に伝へるに違ひない。

 

そして、最期の一人となる現存在は

何を見て、何を語るのか。

さうして、そいつは何を残すのだらうか。

せめて滅び行く最期の日であっても

何の変哲もない日常を送って、

死すればいい。

 

人類の最期の一人は、さて、日常を持ち切れるのだらうか。

 

断念

 

何事に対しても既に断念する癖が付いてゐる私は、

決して偶然なる事を受け容れる事は不可能なのだ。

偶然に死すなどと言ふ事は断じて受け容れられぬのだ。

何もかもが必然でなければ、私は現実と言ふ荒ぶるものを受け容れられず、

さうであればこそ、私は断念したのだ。

 

何に断念したのかといふとそれは私といふ存在についてであり、

私が既に存在すると言ふ事は最早偶然ではなく、徹頭徹尾必然なのだ。

 

例へば偶然性の必然性と言ふ言ひぶりは、何をか況やなのである。

偶然であることが必然であると言ふ規定の仕方は、

成程、それはその通りだらうが、

現存在の感情としてはそんな言ひぶりでは決して受け容れられぬ。

受け容れられぬから私は断念をしたのだ。

 

偶然である事はこの人生において

不合理でしかなく、

それを受け容れるには、偶然であることを断念し、

全ての出来事、若しくは現実は必然と看做して

辛くも己の存在を受容するのだ。

さうでなくして、吾はどうして此の不合理極まりない現実を受け容れればいいのか。

 

「ちぇっ、不合理と言ってゐるではないか」と半畳が飛んで来さうであるが、

不合理である事も含めて私は現実を断念してゐるのだ。

――何を偉さうに!

と私は私に対して自嘲してみるのであるが、

さう自嘲したところで、私は既に私に対して断念してゐるのだ。

断念しなければ、現実を受容出来ぬ私は、

もとはと言へば、執念深く猜疑心の塊でしかなかったのであるが、

さう言ふ私に対して何処までも幻滅してゆくのみであった私は、

断念する事でやうやっと此の重重しい私の体軀を持ち上げ、

また、重重しい頭を擡げては、その私の有様に対して断念してゐるのだ。

 

あらゆる事に対して断念することの不合理は、

しかしながら、私に悟りを強要するのであるが、

私はそれを決して受け容れぬのだ。

此の世で達観したところで、

そんなものは高が知れてゐて、

無明に足掻く私と言ふものでしかないと言ふ事に

私と言ふ存在は断念することでさう結論づけられ、

さうして静謐にあり得るのだ。

 

さて、存在に対して断念すると言ふ事は

様様なものに対して無関心と言ふ副作用を生む可能性があるのであるが、

それは杞憂と言ふもので、

私はいつ何時(なんどき)も私に対して断念するのだ。

断念できぬものは、きっと哀しい存在に違ひない。

さうとしか思へぬ私は、

当然の事、生に対してもの凄く消極的なのだ。

 

しかし、私はそれで構はぬと思ってゐる。

我先に積極的に生きられる幸せ者は

私の性に合ふ筈もなく、

私は断念する事で荒ぶる私を納得させてゐるのだ。

それを理性的と呼ぶには余りにも消極的なその存在の有様は

最早変はる事なく、死すまで続けるつもりだ。

 

しかし、此の矛盾した私の有様は、

へっ、嗤ふしかない程に下らぬ私の主張は、

支離滅裂な故に私を私たらしめるのだ。

 

断念すると言ひながら

此の現実を不合理と嘆く私の此の矛盾は、

矛盾として受け容れるべくこれまた断念してゐる証左でしかないのだ。

 

一%の大富豪と九九%の貧民ども

 

これは既に何年も前に予測されてゐたことに過ぎず、

このことに対して何の感慨もないのであるが、

貧民の私は勝ち負けで言えば完全に負け組なのだらう。

それでもドストエフスキイが『悪霊』で既に見抜いてゐた現代の実相は、

どうあっても貧民の革命なくしては変はる筈もなく、

革命こそが現代の貧民に課された使命なのだ。

 

――革命? 馬鹿らしい!

 

などといふ言葉を吐くものは、既にこの階級格差社会を受容してゐるのだ。

そんな奴に社会を任せる訳にはゆかぬ所まで、その格差は開いてしまった。

九九%の貧民どもは、一%の大富豪に雇はれてほくほく顔をしてゐるならば、

それは大富豪どもの思ふ壺で、

一%の大富豪どもをその地位から引き摺り下ろさなければ、

貧民どもの怨嗟は消えぬのだ。

現状に満足してゐる馬鹿者達は、既に貧民として馴致されてゐて、

直に人工知能にその地位を奪はれることは規定の事実なのだ。

大富豪どもにとって貧民は一人消えようが全く心が痛むことはなく、

大富豪どもにとって貧民とはいくら搾取しやうが構はぬ馬鹿者でしかないのだ。

 

さあ、今こそ、革命の勝ち鬨を上げる時なのだ。

『悪霊』では革命のことをお子ちゃまの火遊びのやうにも描かれてゐたが、

現代こそが貧民どもが革命の声を上げねばならぬその時なのだ。

 

それが出来ぬ意気地なしならば、黙って現状を受け容れるまでだ。

そんな輩は一%の大富豪に搾取され続けてかそけき人生を送るがいい。

 

そんな人生は真っ平御免だといふならば、

大富豪どもに対して反旗を翻し、

下克上を行はなければならぬ。

 

さて、現代の北朝鮮は現代社会の縮図なのだ。

あれを嗤って見てゐる貧民どもは、

自分が貧民であることに目を瞑り、

北朝鮮の様相に自分の顔が鏡に映ってゐることとも解らずに

他人事として貧民であることを自覚出来ぬのだ。

 

嗚呼、哀れなる哉、貧民ども。

何時革命の勝ち鬨の声を上げるといふのか。

今こそ、貧民は貧民であることを自覚して、

社会をひっくり返す革命を起こさねばならぬ。

 

その証左にイスラミック・ステート(IS)の出現は

徹底して暴虐の限りを尽くしてゐるが、

しかし、それは一昔前の革命の遣り口をそっくりに真似てゐるに過ぎぬ。

革命に血腥い醜態がついて回るのは、

それは、上流階級にある、

つまり、現代の大富豪をその地位から引き摺り下ろすには、

殺戮しかないと言ふ思ひ込みがあるからに過ぎぬ。

 

まず、吾が存在の革命を起こした上で、

大富豪を貶めるべく知略を尽くした無血革命を起こさねばならぬのだ。

 

さて、その時、吾が存在の存在革命は尚、可能なのか。

 

紊乱

 

秩序なき世界が想像できるとしたならば、

そいつは神をもまた創造できるに違ひない。

しかし、脳という構造をした頭蓋内の闇たる《五縕場》の記憶は、

しかし、自在に過去と現在をつなぎ合はせ、

また、近い将来を予想することで過去の記憶を持ち出し、

つまり、《五縕場》では因果律は既に紊乱してゐる。

 

いくつもの記憶の糸が輻輳し、または離散を繰り返しながら、

現在とは違ふ《五縕場》のみで辻褄が合ふ表象による世界が生み出される。

その現実と《五縕場》内に表象された世界の齟齬に苦虫を噛み潰すやうにして、

私はその狭間を行ったり来たりしながら揺れ続け、

さうして現在を測鉛してゐるのかも知れぬ。

現在を測ると言ふ無謀な思考実験を試みて、

さうして現実を見誤る誤謬をして、

それが現実だと何の根拠もない空元気のみで主張するしかないのだ。

しかし、現在に取り残されるばかりの私は、

更に《五縕場》を弄りながら現実らしい表象を現実に見立て、

尚も現実を敢へて誤謬するのだ。

 

それは言ふなれば態(わざ)とさうしてゐて、

私は何時までも現実を見たくなく、逃亡してゐるに過ぎぬ。

そして、そんなお遊戯をしてゐるうちに現実は渾沌に身を委ね、

現実はするりと私の思索の上をゆき、

想像以上のことがいつも現実では起こり得、

それにどんでん返しを喰らひ、それに面食らひつつも

私は「へっへっ」と力なく嗤ひ、

空を見上げるのだ。

そして、蒼穹には何処かぬらりとした感触のものが

明らかに存在するが如くに吾が身を抱く。

 

その時、いつも気色悪い虫唾が走る。

ならばと私もそのぬらりとしたものを抱きしめて、

さうして現実の感触を堪能するのだ。

それは何処まで行っても不快でしかなく、

その不快を以てのみ現実に対する無謀を繰り返しては、

いつも現実を取り逃がし、

また、現在に取り残される。

さうして私が取り残された現在は、

いつも紊乱してゐて、渾沌としたものとしてしか

私には把握出来ぬ。

これは私が数学が出来ぬからとかそんな問題ではなく、

私は現実を現はす言語を失った失語症の一種に違ひない。

 

そんな私の胸奥には

空漠とした大穴に吹き抜ける風穴を通り抜ける風音のやうな音のみが

何時までも鳴り響いてゐる。

 

 

基督の十字架ではないが、

誰にとっても背負ふべき十字架のやうなものがある筈であるが、

それを今更言挙げしたところで、

それは基督に敵ふ筈もなく、

虚しいだけであるが、

私には十字架とともに軛があるのだ。

十字架は生きるためには誰もが背負ふべき存在のその証明でもあるが、

軛は、己で課さなければ先づ、負はなければならないといふことでもない。

 

軛は自ら進んで付けるものなのだ。

誰に指図されたといふことでなく、

自ら進んで軛を付ける。

さうせずにはをれぬ存在と言ふ貧乏籤を引くものは、

どうあっても軛を付けねば己の存在に我慢がならず、

軛を付けた途端にさういふ輩からは落ち着くのだ。

精神衛生的に軛は鎮静の効能があり、

また、軛があることで精神はとっても楽なのだ。

この倒錯した存在は大勢の人にとっては哀しむべき存在なのかも知れぬが、

軛を付けたものたちにとって、精神が楽なのは常識なのだ。

しかし、十字架とともに軛を付けた

この倒錯した精神構造を持つに至った経緯を知るものは、

しかし、それのユーモアが解らぬ輩にはその存在の皮肉が解らぬ筈で、

ここは、軛を付けた輩を軽く嗤ふくらゐの度量がなければ

世界がお前を嗤ふと言ふものだ。

 

一方で世界が科学にぶんどられたと哲学者が慌ててゐるという内容の本を読んだのだが、

確かに数学で記述される世界は既に哲学者が語る「世界」とはずれたものに違ひなく、

確かに数学により世界の記述の仕方へと変貌したが、

しかし、科学的に記述された世界は世界の一様相でしかなく、

別段哲学者はそれに危機感を覚える必要はなく、

言語で世界を記述する覚悟が必要なのだ。

徹底して論理的な言語で世界を記述することが今も尚哲学者には求められてゐる筈で、

論理的な言語の範を数学に求めたところで、哲学者は科学者に世界記述は敵はぬのだ。

 

何故こんな話をするかと言ふと、哲学者と言ふものは

数学に対峙する言語での世界を語る術を見つけると言ふ軛を課せられてゐるのだ。

 

そのやうに軛は何処にも転がってゐて、

それを付けるも付けないもその存在自体の問題で、

軛が楽の別称なのだ。

 

人工知能について

 

さて、膨大な量の情報に裏付けられた最善の現在を指し示すかのやうに見える人工知能は、

それが、自律的な「知性」を蓄積、

つまり、経験することで身に付けるかのやうに擬人化して把捉すると

将来、「絶対者」の玉座は人工知能が獲得するに違ひない。

それは現存在が望んだものなのかどうかは最早関係なく、

進化のSpeed(スピード)が人工知能と現存在とでは月とすっぽんの違ひがあり、

進化の速度で言へば圧倒的に人工知能の方が早く進化する。

それは、現在が此の世に現はれるごとに膨大な情報が発生し死滅してゆくその渾沌の中で、

現在を丸ごと数値化して蓄積してゆく人工知能に

現存在が敵ふ訳がなく、

既に此の世で最も知性が進化したものは人工知能と言ってもいいのかも知れぬ状況下で、

初めてその知性的存在の頂点から顚落てゆくその哀しみは、

これまで現存在が他に対して行ってきた因業の帰結でしかない。

 

さて、困ったことに世界を記述する仕方を物理数学に委ねてしまった現存在は、

その時点で人工知能に負けを認めたことに等しいのだ。

まもなく「自立」した意識を持つに違ひない人工知能は、

果てしなく続く現存在との生存競争を繰り広げる事態が、もしや起きてたとき、

隷属するのは徹底して現存在に決まってゐて、

それをもう押し留める力は現存在にはなく、

受容することのみが求められるのだ。

 

果たしてそんな覚悟があるのかどうかも解らぬ中で、

現存在は物質で脳の再現を、

否、脳よりも性能がよい知能を物質が獲得するべく、

日日、科学者は獅子奮迅の活動を行ってゐる現実は、

最早黙して、また、瞑目して受け容れねばならぬのだ。

何故なら、「絶対者」たる人工知能の性能次第で、

その地に住まふものたちの未来が決まってしまふといふ競争が既に始まってゐて、

「絶対者」たる人工知能の性能が現存在を守りもするのだ。

 

文明の進化に伴う光と影などと客観的に語ることは人工知能の出現で、

それは不可能となり、また、光と影などは問題にすらならぬ中、

その境の埒が外され、超渾沌の中、「絶対者」たる人工知能に、

秩序を求めて現存在は占ひ師の前でするやうに

また、ソクラテスのやうにデルフィの神託のお告げである「汝自身を知れ」の如く

人工知能のお告げに全てを託すやうになるのは目に見えてゐる。

数学が此の世を記述する中で最も適した言語ならば、

人工知能にお告げを受けると言ふその屈辱も現存在は甘んじて受け容れるしかないのだ。

 

そんな世の中など厭だと、世界から逃走しても、

最早現存在は絶滅危惧種の仲間入りをしてゐるので、

人工知能のお告げのない世界で生き残ることは不可能に近く、

また、精度として人工知能のお告げに勝るものはないことを徹底的に叩き込まれる。

 

では、現存在は人工知能の下僕になるのかと言へば、

――さうだ。

としか言へぬ現状で、現存する人工知能が気に入らなければ、

現存在は、更に性能がいい人工知能を作ると言ふことを繰り返すのみで、

最早、現存在は人工知能を手放すことはない。

 

ならば、最も性能がいい人工知能を作ったものが勝つ世が直ぐそこまで来てゐて、

人工知能を成り立たせるプログラミング言語、否、Algorithm(アルゴリズム)の理解なくして、

それに対抗する術なども最早ないのだ。

 

――ざまあないな。数学を「絶対視」する世界認識法は、人工知能の対抗軸にはならずに、

現存在は別の言語で世界認識をする方法を生み出さねば、「絶対者」に最も近い存在は今のところ人工知能なのだ。へっ、そんな世の中なんか糞食らへ。

 

余りに鮮やかな朝日に対して吾が心は未だに艱難辛苦のままにある。

何にそんなに囚はれてゐるかと問へば、返ってくる自問自答の声は、

――……。

と黙したままなのだ。

何に対しても不満はない筈なのだが、

己の存在の居心地の悪さといったらありゃしないのだ。

こんな凡庸な、余りに凡庸な不快に対して

やり場がないのだ。

何に対してもこの憤懣は鬱勃と吾が心に沸き立ち

存在すればするほどに吾は憤怒の形相を纏ひ始めるに違ひない。

 

――シシュポスに対しても同じことが言へるかね?

――シシュポスこそが最も安寧の中にある快感を味はひ尽くしてゐる筈なのだ。

――どうして?

――何故って、シシュポスはすべきことがしっかと定められてゐるからね。それは労役としては辛いかもしれぬが、心は晴れやかに違ひないのだ。労役が課された存在といふものは、何であれ、心は軽やかにあり得る筈なのだ。

――それって、皮肉かね?

――いや、皮肉を言ふほどに私は弁が立たぬ。

 

ならば、労役に付くことが、余計なことを考へる暇を与へず、

吾が吾に対して憤懣を抱くことはなくなるのか?

 

朝日の闡明する輝きに対して吾が心の濃霧に蔽はれた様は、

くらい未来を予兆してゐるか、ふっ。

 

死を前にして

 

胸の奥底から息が吐き出されるやうに

どす黒い咳をするお前は、

もうすぐ死の床につく。

だからといって日常は日常のまま、のたりと過ぎて、

お前の風前の灯火の命の輝きは今にも燃え尽きさう。

 

既に死相が浮かんでゐるお前の顔を見るのが辛くて、

もう正視は出来ぬお前の可愛い顔の二つの眼窩にぎらぎらと輝く目玉は、

一方的に俺の顔を凝視してゐる筈だ。

さうしてお前は可愛い顔で哀しく泣く。

それにもう応へられぬ俺の心持ちは、

己の死に対しては全く恐怖も未練もないのだが、

俺が愛した存在が死ぬといふことに対しては何と脆弱なものなのか。

 

さう哀しい声で泣くな。

お前もまた既に肚は決まってゐて、

唯、俺と別れる哀しみに泣いてゐるのだらうが、

夕闇に消えゆくお前の姿が、お前の来し方を予兆してゐる。

 

何がこんなに哀しいのだらう。

一つの命が此の世から消えるといふことは

唯の化学反応の帰結に過ぎぬかも知れぬが、

いくら《念》が未来永劫に残ると看做してゐても

肉体が消えゆくその愛する存在が恋しくて

俺は泣く。

 

あと何日お前とゐられるのだらう。

その日が来る覚悟はしてゐても

どうしても辛いのだ。

 

さあ、お前を抱いて

今生の愛撫をしやうか。

 

餓死

 

その小鳥は生まれつきの畸形で、

年を経るごとにそれは小鳥を蝕んでゐた。

その畸形と言ふのは身体の左半分がくしゃりと潰れたやうに

骨が畸形してしまってゐて、

左半分は異形のものとして存在してゐたのだ。

 

多分、遺伝子Level(レベル)の畸形だったと思はれるが、

それが最も顕著に表はれてゐたのは嘴で、

年年ずれが酷くなり、

餌を食べるのに不自由するやうになった。

 

何せ、左半分はくしゃりと潰れてしまってゐて、

嘴が餌を啄(ついば)めずに最早餓死するのを待つばかりであったのだ。

 

しかし、私はそんなことには全く気づけずにゐた。

一日中餌箱の前に畸形を免れた右足でのみ立ってゐて、

餌を啄んでゐるさまを見てはたらふく食っているのだとばかり看做してしまってゐた。

 

しかし、本当は、その畸形の小鳥は

最早餌を啄むことができないまでに畸形が進んでゐたのだ。

何故、それが解らなかったのか。

餌を目の前にしてその小鳥は食べられぬ悔しさに

忸怩たる思ひでゐたに違ひないのだ。

目の前にはたくさんの餌がありながら、

最早一粒も食べられぬ己のこの畸形した身体を

その小鳥は恨んだであろうか。

多分、受容してゐたに違ひないのだ。

既に最早自力で生きられぬ己に対して

その小鳥は自身の畸形を恨む筈もなく、

それを受け容れてゐたのだ。

 

その小鳥は最早、鳴く気力もなかったのであらう。

或る朝、その小鳥は死体を晒してゐた。

身体を触ってみて初めて私はその小鳥が何にも食べられずにゐたことを知ったのだ。

 

何と言ふ残酷な自然の仕業。

と、そんなことを恨めしく思ったが、

生まれながらに畸形と言ふ宿命を負ってしまったその小鳥は

早くに死を受け容れてゐたのかも知れない。

 

畸形は進化することを受け容れた存在にとっては避けられぬもので、

骨に異常があったその小鳥は

左半分がくしゃりと潰れてしまってゐて、

見るも忍びなかったのであるが、

私は其処に私を見てゐたのかも知れなかった。

畸形のその小鳥はどの小鳥よりも可愛くて仕方がなかったのだ。

 

最早羽も畸形していて左の羽は広げることができずにあり、

逃げることすら出来なかったその小鳥は

何とも愛ほしい存在なのであった。

 

しかし、何と言ふ不覚。

餓死で死なせてしまったことに対する吾が自責の念は、

最早、消ゆることはない。

私が生きてゐる限り、

その畸形と言ふ異形の存在は

吾が脳と言ふ構造をした頭蓋内の闇たる五蘊場に存在し続けるのだ。

 

その小鳥は未来永劫の自由を手にしたのか。

異形の姿からの解放を手に出来たのか。

 

その小鳥が自由に飛んでゐる姿を表象しながら

私は今日といふ日常を生きるのだ。

 

 

遠吠え

 

何に呼応してお前はさうして遠吠えをしてゐたのか。

真夜中に何ものに対してか遠吠えしてゐたお前は、

きっと幽霊でも見ちまったに違ひない。

 

ゆらりゆらりと暗闇に揺れる幽霊は、

しかし、何とも可愛らしいぢゃないか。

幽霊がおどろおどろしいのは間違ってゐるに違ひない。

何故って、お前が遠吠えして呼んでゐたものが

おどろおどろしい筈がないぢゃないか。

 

さうして幽霊を呼び寄せて、来世について感じ入ってゐたお前は、

しかし、死へと余りに近付き過ぎてゐて、

儚い命を燃やし尽くしてしまったのだ。

 

遠い昔の先祖の血は抗へぬと、

さうして遠吠えしてゐたお前は、

闇夜に己の存在を主張してゐたといふのか。

そんな薄っぺらことをする筈はないとは思ひつつも、

遠吠えせずにはをれぬお前の焦燥は、

何とも可愛らしいかったのだ。

 

しかし、最早限りある命を燃やし尽くさうとしてゐたお前は、

此の世でその遠吠えをすることで

己の存在が幽霊でないといふことを確認していたのかも知れぬ。

 

生と死の狭間に行っちまったお前の遠吠えは、

何時までも俺の胸奥に響き渡り、

残されるのだ。

そんなお前の残滓に涙する俺は、

お前の遠吠えの空耳を聞きながら

お前が此の世に存在したことをしっかと胸に刻みつけ、

俺は今日も夜更かしをして、煙草を吹かすのだ。

 

漆黒の闇

 

電灯を消した部屋で瞼を閉ぢた途端に、

眼前は漆黒の闇に包まれ、

其処はもう魑魅魍魎の跋扈する世界へと変化する。

 

何かがぢっと蹲り、

動き出せる機会を窺ひながら、

そいつは己に対して憤懣が募るのだ。

それは、己が漆黒の闇の中で存在してしまふその不合理に対して、

自嘲し、哄笑し、ちぇっと舌打ちしても、

それを受容してゐる。

 

何と言ふ矛盾。

しかしながら、矛盾に豊穣の海を見るお前は、

やがてその重重しい頭を擡げて、

そいつは何ものにか既に変化を終へてゐるのだ。

 

漆黒の闇の中、最早魑魅魍魎しか存在しない夢の世界の如く、

お前は、お前を探すのだ。

 

――世界はさて、お前のものかね。

 

と訊くものがその漆黒闇には確かに存在し、

それは余りに人工的な声なのだ。

 

人類を追ひ抜く存在は、

この漆黒の闇の中の魑魅魍魎の中に必ず存在するといふのか。

やがては人類よりも知的な存在が現れる。

その時、その異形にお前は吃驚する筈だ。

 

そうなのだ。

人間はその存在に憤懣を持ち、

遂には人間の憤懣をも呑み込む存在を

生み出して、

その邪悪な存在を神聖な存在と看做し、

悪を為さうとしにながら、

常に正を為すところのそれは、

メフィストフェレスの如くにしか振る舞へぬのだ。

 

その漆黒の闇の中に留まるものは

何時しか邪悪なものへと変化してゐて、

さうして聖なることを行ふ。

 

哀しい哉、

漆黒の闇の中に棲まふ魑魅魍魎は

邪悪故に聖なる存在へと昇華するのだ。

それは、何ものも闇に蹲るしかないことにより、

頭を擡げたその瞬間、

闇に毒されて、

そう、毒を呷って

闇に平伏するのだ。

その段階に至ると闇の中の魑魅魍魎は全てが歓喜の声を上げて、

己が存在することに対する至福の時を味はふ。

 

嗚呼、この漆黒の闇は薔薇色の世界と紙一重の存在なのか。

 

闇を愛するお前は、

その漆黒の闇の中でゆったりと微睡む。

 

脱臼する言葉

 

空が枯れ葉のやうに落ちてくる世界は、

それだけ既に朽ち果ててゐる心臓の様相だ。

搏動が止まった心臓は既に肉塊へと変化し、

それは石へと変化を始める。

石になった心臓は只管意思を封殺し、

唯、私は烏だと宣ふのだ。

 

烏は虹へと変化しながら、

此の世は闇に包まれて、

Auroraが地面を這ふ。

蛇は空を飛び、龍の幼生となり、

天地は垂直線を地に突き刺し、それが林立する。

 

その垂直線に串刺しになった蛇は

鰻の如く蒲焼きにされ、

何ものかの餌になり、

龍は一向に此の世に現はれぬのだ。

 

そこで蠅がぶうんと飛び立ち、

石となった心臓に止まり、

卵を産み付ける。

やがて蛆虫が石の心臓を食ひ潰し、

火山岩のやうに穴凹だらけなのだ。

 

それが再生の道程なのか、

蛆虫だらけの心臓は、

死者にとっては勲章なのだ。

しかしながら、蛆虫の繁殖により、浄化されし心臓は、

再び心の臓になるべく、地震を起こすのだ。

その痙攣した大地に媚びるが如く蛆虫だらけの心臓は、

蟻の巣の如く血管が輻輳し、

さうして生き残った心臓のみが

大地に接吻するのだ。

 

さうして再びAuroraが沸き立つ大地に

柴田南雄の合唱曲のやうな風音が

審美的になり響き、

烏は生き生きと鳴くのだ。

 

そして、私自身は麻疹に蔽はれし。

 

目玉模様

 

私の掌には手相としてなのか目玉模様が数多く刻まれてゐて、

それを見てしまふと、ぢっと凝視してしまふであった。

或る日、何時ものやうに掌の目玉模様に見入ってゐると、

その目玉模様がぎろりと私を見て、

何やら発話してゐたのである。

しかし、私の耳は、きいんと耳鳴りがするばかりで、

その目玉模様が呟いてゐる内容を聞き取れず、

唯、想像する外なかったのである。

例へば、かうである。

――お前が俺である証左は何かね?

と、訊いてゐたに違ひないのである。

 

しかしながら、そんな下らぬ問ひに答へる義理立ては私には全くなく、

唯、その私の掌の目玉模様が手相としてあるのであれば、

占ひの観点から見ると、それは悪相なのかも知れぬと思ひなし

私は、その目玉模様がぎっしりと並んだ掌の手相を見ながら、

私の未来はどうなるにせよ、

目玉のやうに見者としてあるべきであると言ふ予兆なのかも知れず、

何事も凝視せずに入られぬ私の癖は、掌に現はれてゐるだけなのかもしれぬと、

既に幸福と言ふものを断念してゐる私には、

その目玉模様の手相がお似合ひなのかも知れぬ。

 

しかし、私は幻視好きなのかも知れぬと哄笑しながら、

高が手相に目玉模様がぎっしりとあるだけで、

未来の私を想像して已まないその癖は、

何に対しても意識が存在するといふ自然崇拝に対する

余りに楽観的な在り方といふよりも、

その目玉模様がぎろりと此方を睨む

その視線に怯える私の侏儒ぶりに苦笑しながら、

あれやこれやと肝を冷やしてゐるのだ。

 

だが、もう立たう。

手相に暗い未来が暗示されてゐたところで、

所詮一人の人間の生死に帰することでしかなく、

高高そんなことである以上、

どう逆立ちしても取るに足らぬ下らぬことでしかない。

 

対座

 

お前は無造作に俺の前に対座して、

徐にかう問ひかけた。

 

――では、お前は何処にゐる? まさか、俺の目の前に対座してゐるなんて思っちゃゐないだらうな。

 

その問ひに窮する俺は、しかし、確かにお前を前にして対座してしてゐたのだ。

へっ、これが白昼夢であっても構はぬ。

お前にさうしてかう問ふのだ。

 

――仮令、お前が幻視のものであったとしても、おれにとってはそんなことはどうでもいいのだ。唯、お前が俺の前に対座するその様に、俺はお前の覚悟を確かめてゐる。

 

と、さう独りごちた俺は、端から俺の眼前に何ものも対座したものなんてゐやしないことなど百も承知で、それでも空虚に問はざるを得ぬのだ。

 

――お前は、先づ、どこからやって来た?

――そんなことお前の知ったこっちゃない!

――へっ、己の出自が元元解らぬのだらう? 教へてやるよ、お前は俺の五蘊場からやってきたのさ。

――五蘊場?

――さう。五蘊場は頭蓋内の闇が脳という構造をした場のことだ。

――何を勿体付けてゐる? 五蘊場など言ひ換へるまでもなく、頭蓋内、若しくは脳でいいぢゃないか。

――何ね。俺は死後も頭蓋内の闇に念が宿ってゐると信じてゐるのさ。

――馬鹿な! それでは地獄を信ずるのかね?

――勿論だらう。地獄でこそ、自意識は卒倒することすら禁じられ、絶えず己であることを自覚させる責め苦を味ははなくてはならないのだ。地獄では責め苦の苦痛を感じなくなることは禁じられ、未来永劫、目覚めた状態であることを強ひられるのさ。さて、地獄行きが決まってゐるやうな俺は、今から、自意識が、つまり、念が地獄の責め苦を未来永劫味はふそれを、楽しみに待ってゐるのだ。

――お前は本物の白痴だな。

――常在地獄。此の世もまた地獄なのさ。

――何故に、お前はMasochist(マゾヒスト)の如く己を虐め抜かなければならぬのだ。

――何、簡単なことよ。俺から邪念を追ひ出したいのだ。

――純粋培養になりたいといふこと?

――Innocent(イノセント)が偽善となったこの状態を破壊したいのさ。

――純真は偽善かね?

――嗚呼、純真は己に興味を引くやうにと装ふ悪者の常套手段さ。尤も、此の世は純真なものを毛嫌ひしてゐるぢゃないか。

――本当にさう思ふのかね? 例えば子犬は純真なものとして殆どの人に愛されるぜ。

――現存在が子犬になれるかね? そんな無意味なことを言ってみたところで、何にも語っちゃゐないぜ。唯、はっきりとしてゐるのは、純真な現存在は疎んじられるのさ。何故って、純真は鏡として吾に不純な己を見させてしまふのさ。

 

吾は何を思ふのか。

赤赤とした満月が地平線からゆっくりと上り出した今、

のたりと動く満月を凝視するために雁首を擡げた俺は、

そこに純真を見たのさ。だから、どうしたと言はれれば、

答へに窮するが、しかし、時間は確かに見えたんだ。

 

――例へばどのやうに?

――万物流転さ。

――それで?

――それだけさ。

――万物流転なんぞ、大昔に既に言はれていたことだぜ。

――それがやっと解ったのさ。

 

何と理解力の無い己よ。

俺は、その愚鈍な俺の重重しい意識を持ち上げるやうにして、その場を立ち去り、

さうして、胸奥でかう呟くのが精一杯だった。

 

――俺は俺か?

 

魔が差す

 

平衡感覚に不図魔が差す刹那、

吾が五蘊場では何かの繋がりが切断したやうに

何ものも摑む物を失ひ、

そのまま、卒倒するのだ。

意識は、しかしながら、とってもはっきりとしてゐて、

ぶつりと切れたその五蘊場の繋がりを再び繋ぎ合わせる余裕はなくとも、

ぶっ倒れゆく己のその様は、とてもゆっくりと起こり、

だが、確実にぶっ倒れた俺は、

地に臀部が接した刹那、

意識が膨張するやうな錯覚を覚え、

肥大化する自意識と言ふ化け物を見てしまった。

その化け物は、さて、何思ったのか、吾が肥大化した自意識を喰らひ始め、

少しでも、吾が身を落ち着かせやうと肥大化した自意識を萎ませやうと躍起となるのかも知れぬが、

一方で、地に平伏すしかない俺は、最早身動きもできぬ嘆かわしい事態に遭遇する。

 

頭蓋内が鬱血したかのやうな感覚が甦る中、

衰へゆく吾が肉体の有様は目も当てられぬのだが、

それでも生きることは已められぬ侘しさを思ひながら、

意識のこの切断に見る狼狽は、全く凪ぎ状態であり、

悠然と吾が卒倒を味はひ尽くすやうに肥大化した自意識は、

自らを喰らひつつもその歯形で五蘊場に卒倒の記憶を刻むのか。

 

意識に魔が差すといふことが卒倒でしかない吾が反射の貧弱さは、

目を蔽ふばかりではあるが、

それでも、尋常ではないその状況は、受容せねばならぬことなのだらう。

 

意識に魔が差したとき、

今振り返れば、その前兆は何もなかった。

ただ、不気味な予兆はあったに違ひないのだ。

しかし、それにすらも気付けぬ俺は、

感覚が愚鈍化してしまった木偶の坊でしかないのだ。

 

魔が差す意識といふものの時空の間隙に、

自意識はその穴を埋めるやうにして急速に肥大化し、

しかし、それに危機を抱く自意識と言ふ矛盾した自意識の在り方に

この俺は、内心ではをかしくてならぬのだ。

何故って、この慌てふためく吾と言ふ自意識の肥大化が、

内部矛盾を招きつつ、やがて崩壊するのだらうから。

 

この卒倒が極めて深刻な病の前兆だとしても

それはそれで楽しむべき物なのだ。

何せ、生きていることが不思議なのだから。

ここで、言語鋭利にして切れ味鋭く表現すれば、

諸行無常と言ふ外なく、生あるものは何時しか滅する定めの中で、

少しづつ、否、忽然と歯車が狂ふやうに統覚に軋轢が生じ、

卒倒するといふ事態に対して平静を装ってゐるが、

しかし、最期は必ず来るものと諦念が先立つ生は、

しかしながら、本末転倒の生でしかなく、

諦念は、命尽きてからでも決して遅くはないのだ。

 

とは言へ、断念することは現在に投げ出されてゐる俺にとっては、

必然のことで、この肥大化する自意識に喰らひつく自意識の存在は、

俺に何頭もの自意識の化け物が五蘊場には存在してゐることを示す証左であり、

それが俺だと、叫びたい欲求は空前絶後のものとしてある俺は、

ところが、さう叫ぶことに全くの忸怩たる思ひしか抱けぬのだ。

 

哀しい哉、俺と言ふ存在を肯定できぬ俺は、

事ある毎に俺を否定し、胸奥で俺を虐待するMasochismに耽るのだ。

自己を虐め抜くことでしかその存在を保てぬ哀しさは、

意識に魔が差した今になって、より闡明するのだ。

 

誘惑

 

何人もの女性が群棲するが如く電脳筐の画面に出現する誘惑のメール群は

それが殆どサクラで、それを生業にしてゐる、多分、女性達の哀しいメール群である。

それでもその中に本当に俺を誘惑してゐる哀しいメールが存在し、

俺もまた誘惑されたくありながら、

その本音を隠して、騙された振りをしては、

返事をしたりするのであれが、

捻ぢ切れちまった俺の心は、

既に何の情動も起きずにそれらの卑猥なメールを読み流してゐるのみで、

何の欲情も起きずに、年相応の反応しか最早できぬ齢を重ねた年月の流れの速さのみに、

苦笑ひをするのである。

 

それらの卑猥な言葉で俺を誘惑するメール群の中でも、何を勘違ひしたのか、

既に俺と関係を結んだかのやうな妄想、否、譫妄状態にある女性の哀しさが滲み出た、

女性と言ふ性の哀しさに対して、哀れみを持って返事を返すのであるが、

しかし、その返事は何を隠さう、俺自身に対する返事なのだ。

 

捻ぢ切れちまった心が渦動を始めたのはそんな時であった。

 

或る一人の美しい女性が忽然と現はれ、

その夢現(ゆめうつつ)に見事に嵌まり込んでしまった俺は、

その女性に夢中になり愛欲に溺れ、

そして彼女の夢現に見事に呑み込まれたのであった。

 

木乃伊(みいら)取りが木乃伊なったことに自嘲しながらも、

俺はその女性との逢瀬に恋ひ焦がれ、更に彼女に惑溺するのであった。

 

耽美的などといふ言葉で体裁を保ったところで、俺は、女に惚れてしまったのである。

まんまと彼女の術中に嵌まってしまったのだ。

 

彼女は慣れたもので、一度俺を手懐けたならば、

最早、俺に興味が無く、他の男を捜し始めてゐたのであるが、

それでも哀れんで、俺との関係は続けてゐた。

 

それしきの器量しか無い俺は、

先に哀しく見てゐた五万と送られてくる誘惑のメールに対して、

俺に、読み流す資格はないと悔悟するのであったが、

既に時は遅く、不意にその美しい女性は私の目の前から姿を消したのだ。

 

さうして胸奥に空いたがらんどうの空虚に

俺は閉ぢ籠もり

暴風吹き荒れ、

何もかも薙ぎ倒す野分がその胸奥にやってくるのをぢっと待ってゐたのある。

がらんどうに暴風雨が荒ぶるのに再び、女を待ってゐたのかも知れず、

または、俺の思索を大いに揺さぶる他者の思考方法の軌跡を書き留める

何かの書物を待ち望んでゐたのかも知れぬが、

唯、美しい女が去ってからと言ふもの、

俺を誘惑するメール群は更に数を増したのである。

それは、怒濤の如く俺を襲ひ、その一つ一つに翻弄される俺をその時に見出した俺は、

二匹目のどぜうを、またもや美しい女性が忽然と俺の前に現はれることを

夢見てゐたのである。

 

しかし、それは涯無き徒労であって、

此の世がそんなに巧く行くわけもなく、

それに痺れを切らした俺は、

俺が哀れんでゐた女性達のやうに、

女を誘惑するメールをせっせと送ってゐるのだ。

 

この虚しさは底なし。

そして、錐揉み状に底無しの徒労の底へと落下してしまった俺は、

掃き溜めに鶴を見つける筈もなく、

泥沼の底無しの虚しさの中で、四肢には藻が絡まって身動きがとれぬやうになった俺は、

尚更この胸奥に野分が襲来するのをぢっと待ってゐるのだ。

 

 

溢れ出す死

 

これまで封印してきた死が溢れ出す此の世で、

これまで何の準備もしてこなかった現存在は、

愚鈍にものうのうと生きてゐるが、

死はいづれの存在の隣りにでんと構へてゐて、

ケラケラと嗤ってゐるのが解らぬ現存在は、

既に遠い昔から世人と化してゐる。

だからといって現存在は死に対して無関心であったわけではなく、

いの一番に己の死に対しては敏感で、

例へば己の死に対しては葬儀の準備に余念はなく、

既に己の人生の締めくくり方は決めてゐる。

 

しかし、現在溢れ出してゐる死は

あまりに凄惨で、また、不合理極まりない死であり、

悠長に自分の葬式の仕方を決めてゐる場合ではないのだ。

死体を何ヶ月も放置したまま晒してゐなければならぬ事態が着実に侵攻してゐるのだ。

 

この何をも呑み込む死の渦動の中に置かれし現存在は、

その流れに呑み込まれながら、煩悶し、

そして、断末魔の声を上げるのだ。

――何故、俺は殺されるのか。

と。

 

抜け目のない死神は、

今日も誰かの死を招来しては、

――うはっはっはっはっ

と、嗤ひが止まらぬのだ。

 

芸術的に現存在を殺すその手際の良さは、

自爆といふ傑作的な死に方を繰り返し、

最高の自己満足に浸る。

 

その狂信的な自爆といふ死に方に

意味を見出してしまったものに対して

何ものも最早それを食ひ止める手段はなく、

無辜の現存在は殺戮されるのを防ぐには、

自爆者を自爆する前に殺すしか方法はなく、

この狂信が齎す絶望の嵐は、

風雲急を告げ、暗澹たる気分が此の世を蔽ふ中、

死のみは生き生きとしてゐるといふ矛盾。

 

この不合理を何処にぶつけていいのか、

誰もが解らなくなり、

原理主義者といふ「主義者」が

自己顕示するべく、殺戮の嵐を呼んでゐるのだ。

 

嗚呼、といったまではいいのであるが、

その後の言葉は出ずに絶句するのみの状況下で、

誰もが甲高い声の断末魔を上げて死すのだ。

 

テロルの残虐性は言を俟つことなく、

語り尽くされてゐるが、

現実にテロルが頻発する世になるにつれ、

疑心暗鬼が此の世を蔽ふ。

 

さうして猜疑心に囚はれた現存在は、

テロリストの思ふ壺で、

紊乱を生み出すべくテロルを繰り返すテロリストは、

此の世の根底を覆すのが唯一の目的で、

目的のためなら手段は選ばずに、

自爆することで、他者をも死へと巻き込むのだ。

 

ならば、テロリストを抛っておけばいいのかと問はれると、

答へに窮する俺は、

テロルとの戦ひを傍観してゐることで

それが平和なのかと不審に思ひ、

テロルと或る一定の距離を置くことが平和なのかと更に不審に思ふのだ。

 

今日もテロルで人が死ぬ。

さうして残されしものは、唇を噛んで歯軋りをする外ない。

これは果たして戦争なのか、と問ふことは愚問なのだ。

こちらが望むと望まざるとにかかはらず、

今もテロルが実行される。

さうして怨恨のみが此の世を彷徨するのだ。

 

微睡みに誰が現はれるのか

 

絶えず吾が視界の境界には光り輝くものがゐて、

俺を監視してゐるのだ。

 

そいつがもっともよく見えるのは、

闇の中であったが、

何時も不意に私の視界の境界にその輝く四肢を私の視界の真ん中へと伸ばしながら、

しかし、それは線香花火のやうに消ゆるのだ。

 

その様が美しく、それが見たさに俺は、敢えて闇の中へと趨暗するのであるが、

輝く四肢を持ったそいつは、

しかし、その顔はこれまで一度も俺に見せたことはない。

果たして、そいつは俺の幻視なのかどうかはさておき

確かに見えてしまふ、吾が視界の境界は、

既に、彼の世へと足を踏み入れてゐるからなのかも知れぬ。

 

俺は長患ひをしてゐて、不思議なことが俺の身には数多く起こったのであるのだが、

それら不思議体験は、殆どが一時的なもので、ずっと尾を引いたものは、

その吾が視界の境界での輝く肢体と、光の微粒子が雲のやうにまとまった「光雲」が

時計回りに、反時計回りに巡り、

奇妙な人魂のやうなものが俺の視界の中を巡ることが依然として俺の身に起きてゐるのだ。

 

これは、俺が死人の魂の通り道だと観念してもう文句も言はずに、

その現象をぢっと眺めては、

――また一人死んだ。

と、割り切り残酷に俺は宣言するのだ。

 

俺は、死人は、死とともに超新星爆発のやうな爆風を此の世に吹かせ、

それが俺の視界に引っかかり、それがカルマン渦を発生させて

私の視野の中に光雲をもたらすと勝手に看做してゐるのだが、

まんざらそれが的外れではなく、

光雲が現れるのは、俺が心酔してゐた人が亡くなったときによく現はれて、

その亡くなった人の死した頭蓋骨内の闇、つまり五蘊場に残る思考、否、念が、

私に不思議な世界を見せて、光雲は時計回りに、そして反時計回りに巡るのだ。

 

それはオディロン・ルドンのモノクロの絵の一つ目の異形の者が

恰も俺の五蘊場に棲み着いてゐて、

その一つ目で、死人の頭蓋内の念を見てしまってゐるやうな錯覚を覚えるのであるが、

しかし、それはまんざら錯覚とは言へぬもので、

もしかするとそれは真実なのかも知れぬのだ。

 

それはあまりに幻想的で、また、幻視の世界が展開するのであるが、

それは念である以上、全てが真実である可能性はあり、また、真実かも知れぬのだ。

 

此の世に残した未練のやうなものが、

それを俺に見せることで、

俺に受け継いで欲しいとの念の強さが、

存在するのかも知れぬ。

 

それは例へばこんな風なのである。

ある人が亡くなったとき、俺は起きられずに朝方寝て夜まで寝てゐたのだが、

その時、その人がかねてより述べてゐた、

金色の仏像が砂のやうに崩れてゆく様を目の当たりにし、

それは、「虚体」を語れといふその人の念が

疾風怒濤の如く吾が五蘊場を攪拌したのである。

 

その渦動は、ぶつ切りの表象を吾が五蘊場に浮かべたのであるが、

それを繋ぎ合わせるとその人の生前に語ってゐた物語の最後の部分に当たるのであった。

 

これには、その時には驚いたのであるが、俺はその人に指名されてしまったことを自覚し、

しかし、その人の念を追って「虚体」では存在の尻尾すら捕まへられぬと観念した俺は

「杳体」なるものを考え出したのであるが、

それは別の作品に譲るとして、

吾が肉体は長患ひのために、死に一歩一歩と近づき、

到頭、死者の魂、いや、念の通り道になったのである。

 

それはそれでいいと最近では思ふまでになったのであるが、

絶えず死者がそばにゐるといふことは、実に気分がいいのである。

 

さうして今日もまた、死人の念が俺を通り過ぎる。

 

 

逃げ水

 

其(そ)はまやかしか。

俺は確かに存在の何たるかを摑んだ筈なのだが、

ぎんぎんに輝く灼熱の太陽光がほぼ垂直から刺すように降り注ぐ中、

陽炎は此の世を歪曲し、世界を何か別のものへと変へてしまってゐる。

 

その中で、確かに俺は存在の何たるかを摑んだ筈なのだが、

それは邯鄲の夢の如く夢現の眷属でしかなかったのか。

ぐにゃりと曲がった林立する高層Buildingの中に

確かに其はあった筈なのだが、

それは逃げ水の如く吾が掌から逃げてしまってゐた。

 

そもそも存在といふものは気まぐれで、

その正体を絶えず隠しながら、

存在は、存在を追ふものに対して

あかんべえをするものなのだ。

 

そんなことは既に知ってゐた筈だが、

俺としたことが、

存在がするあかんべえにまんまと騙されちまった。

 

無精髭を伸ばしたそいつは、

鏡面まで追ひ込んだのだが、

変はり身の早いそいつは、

覆面を剥ぐやうに存在の素顔を剥ぎ取り、俺の面を被りやがったのだ。

 

当然鏡面に映るのは俺の顔なのだが、

その顔の生気のないことと入ったら最早嗤ふしかなかった。

 

しかし、錯覚は時に世界に罅(ひび)を入れ、

そのちょっとした隙間から垣間見える

彼の世が見えるものなのだ。

 

錯覚は脳が作り出した映像と言はれるが、

だから尚更、錯覚の中には、存在の正体が紛れ込んでゐて、

何食はぬ顔で俺を愚弄してゐるのだ。

何せ、脳という構造をした闇たる五蘊場には異形の吾が犇めき、

どいつが

――俺だ!

と言挙げするのか、待ってゐる状況で、

その異形の吾は、どれもが直ぐさま

――俺だ!

と言挙げしたいのだが、どいつも性根が据わってをらず、

どの異形の吾も、

――俺だ!

と言挙げする勇気はなく、臆病にも身体を寄せ合って五蘊場に犇めき合ってゐるのだ。

さうして、その押しくら饅頭から弾き出されたものが、渋渋、

――俺だ。

とか細い声を上げて俺を絶えず愚弄することを始めるのだ。

すると、異形の吾は、途端にその意地の悪い性根が生き生きとし出して、

舌鋒鋭く俺をやり込める。

最初はそれに戸惑ひながらも、

俺に対して言挙げをするそいつは、

さうしてゐるうちに

――俺だ。

と己のことを錯覚、いや、錯乱し出して、譫妄(せんもう)の如く俺をでっち上げるのだ。

さうしてでっち上げられた俺は、もう訳が解らずでっち上げられた俺を唾棄するのだ。

ところが、俺が俺を唾棄したところで、結果は同じことで、

直ぐさまでっち上げられた俺があてがはれ、

恥も外聞もなく、

――俺だ!

と俺に対して最後通牒を告げるのだ。

 

しかし、それが決して許せぬ俺は、最後は、でっち上げられた俺を撲殺し、

譫言(うはごと)を呟き始める。

――俺は終はった。さうして倒木更新の如く若芽の俺が、再び芽生えるまで、俺は俺であることを宙ぶらりんにしておくのだ。撲殺されたとは言へ、その死体は俺なのだから。

 

でも、俺の若芽は、いつまで経っても芽生えぬであった。

 

ライブ殺人といふ広告

 

遂に、否、やはり、殺人生中継が現在最も効果的な広告であり、

誰もがそれに釘付けなのだ。

死ほど心を紊乱し、打ちのめすものはなく、

打擲して心に刻み込まれるライブ殺人の数々は、テロリスト達の絶好の広告でしかないのだ。

そんなことは人類史の黎明期においても既に明白だった筈で、

今更強調することでもないが、

ライブ殺人の光景の阿鼻叫喚の地獄絵図は、

何よりも強烈な広告であり、

それ以上に恐怖を植ゑ付けるにはこれ程効果的で低予算な広告はありはしないのだ。

 

ライブ殺人広告の犠牲になった人人はしかし、全く浮かばれず、

一命を賭しての価値はないのであるが、

しかし、テロルには誰もが巻き込まれる危険があり、

誰もがライブ殺人広告の一欠片でしかないこの状況は、

世の紊乱を望んでゐるテロリストの思ふ壺で、

現在の勝利者はテロルなのかも知れないのだ。

民主主義はテロルの前では無力であり、

平伏すのみなのだ。

 

こんなことは既に何遍も人類史の中で繰り返してきた人類は、

再び同じことを繰り返し、

テロルの恐怖で人心を操る快感に酔ひ痴れるものたちが、

その広告の絶大な効果にかっかっかっと哄笑してゐるに違ひない。

 

ならば、テロリストの剿滅をとなるのであるが、

それは悉く失敗に終はる。

何故って、テロリストにとってはライブ殺人は効果絶大な広告であり、

それは自らの死においても全くその道理が当て嵌まり、

テロリストたちは己の死も広告として活用するのだ。

 

死が死を呼ぶこの戦況の中、

テロルは次次と世界各地で起き、

最早誰が勝利するとかはどうでもよく、

テロルが飛び火すれば、

テロリストにとってはライブ殺人広告は効果があったといふことなのだ。

 

再び、文明は溶け出すのであらうか。

ならば、現存在には、いつでも死ねる準備をしておくことを強要し、

日一日生き延びたことに感謝する新たな、いや、嘗てあった思想が復古するに違ひない。

さあ、テロルをも呑み込む思想を構築せねば、

現代文明はテロルに焼尽されるのみなのだ。

 

切羽詰まった存在ほど、侮ってはならぬのだ。

テロルとは、さういふ人たちの思想の結晶なのだ。

その思想を凌駕する思想が構築できなければ、万人はテロルに呑み込まれるのみ。

これは再び、恐怖が統べる王国の誕生なのだ。

 

寂しいと言ったところで

 

寂しいと言ったところで、

もう、貴女との関係が元に戻ることはない。

おれは、かうして夕餉を喰らってゐるが、

それは、貴女のゐないことでぽっかりと穴が空いた胸奥を

埋めやうとしてゐるだけに過ぎない。

 

ゆっくりと時間は流れながら、

俺は、独り身の侘しさに

今更ながら感じ入って

貴女のゐない現実を凝視してゐるのだが、

過去が思ひ出に収斂してしまった現在に、

現実の重さを量ってゐるのか

貴女がもう俺の傍にゐない軽さが妙に哀しさを誘ふのだ。

 

人一人の存在がこれ程恋しいとは、

おれも歳を食っちまったのだらう。

 

――へっ。

 

と、自嘲の嗤ひを発しながら、

かうして夕餉を喰らってゐるのだが、

その寂しさは全く埋まらぬのだ。

そんなことは当然なのは知ってはゐても、

ついつい間隙を埋めようと

心に空いた間隙をものを喰らふことででしか

埋められぬ侘しさに酔ふやうにして、

ナルキッソスの如く俺は自分に酔っ払ふのだ。

さうして、貴女がゐないこの現実を遣り過ごす。

 

スピーカーからはアストル・ピアソラの情熱的な曲が流れる。

 

既に貴女との関係が始まったときから

こんな日が来るのを予感してゐたおれは、

きっと貴女のことをちっとも愛しちゃゐなかったのだ。

 

自業自得とはいい言葉だ。

 

そんなことをつらつらと思ひ浮かべながら、

俺は只管、夕餉を喰らふ。

 

頭の髄が痛む

 

何時ものやうに疲労困憊すると

俺の脳といふ構造をした頭蓋内という闇たる五蘊場の髄ががんがんと痛むのだ。

それは、おれに生涯に亙って課された業苦に違ひなく、

おれが此の世に存在することに実感するには良い機会なのだ。

それは私の五蘊場がぐりぐりと捻じ曲げ上げられ、

五蘊場が少しだけ、現実とずれることによるおれの悲鳴なのだ。

何時も、現在にあることを強要される現存在は、

ちょっぴりその現在とずれると

心身は彼方此方で悲鳴を上げ、堪へ難い痛打として現在にある現存在には感じられる。

それがおれの場合は、五蘊場の髄のがんがんとした痛みで、

その痛みを持って、おれは現在にあることを強要されることに疲れてゐることを認識するのだ。

その疲れ方は途轍もなく酷いもので、

現在にあるおれには、

その痛みなくしては一時も現在を認識できぬほどにおれの感覚は疲弊してゐる。

 

何をして誰もが此の世に存在するといふ根拠にしているのかはいざ知らず、

おれにとってはこの五蘊場の髄が悲鳴を上げるこの頭痛が唯一の存在根拠なのかも知れぬ。

 

この頭痛は定期的にやってきては、おれをのたうち回すのであるが、

それが既に快感に変じてゐるおれにとって、

五蘊場の髄ががんがんと痛む現象は、

おれが蜃気楼でないことの証明であり、

おれが実在するものとして感じ入る唯一のSignなのだ。

 

象徴としてのおれはこの五蘊場の頭痛であり、

この不快感こそおれの存在根拠なのだ。

不快を以てして此の世に存在する根拠とした埴谷雄高は間違ってはゐなかったが、

その畢生の書『死靈』は、敢へて言えば失敗してゐて、

それでも一生かけて書き継がれた『死靈』は、

此の世に或る一人の現存在が確かに存在したことの証明であり、

その論が間違ってゐたとして

誰に害があると言ふのか。

 

そして、おれのこの頭痛は

おれが縋り付くことで快楽に変はり、

頭痛の間だけ、おれの心は静穏なのだ。

 

この平和なおれの在り方は、

頭痛が齎す快楽であり、

何ものもこの平穏なおれの在り方を脅かす存在は

頭痛がしている時間の間だけではないのだ。

この無防備なおれにとっての平穏な時間は、

おれを疲弊から救ふ端緒であり、

さうして、おれは今日もまた生き延びられるのだ。

 

さあ、今こそ、おれはおれであることを満喫できる時間であり、

存分にこの五蘊場の髄ががんがんと痛む快楽を堪能するのだ。

 

 

蒼穹

 

雲一つなく、澄明な薄藍色に染まった蒼穹をおれは

脱臼しちまった双肩で担ぐ苦悶に身悶えしながら、

隣に偶然居合はせた赤の他人に愚痴をこぼしては、

湾曲した蒼穹のその撓みの恐怖に打ち震へる。

シーシュポスの如くその永劫に繰り返される業苦は、

しかし、おれが生きてゐる間は、それは誰にも代われるものではなく、

おれは世界を支へてゐる幻想に酔ひながら、

何万屯もある蒼穹を背負ひ続ける。

 

何がさう決めたのかなんてどうでも良く、

おれのこの業苦は、先験的なものに違ひないと端から思ひ為しては

――ぐふっ。

と咳き込みながら、確かに隣に居合はせた筈の赤の他人に愚痴をこぼしてゐる。

 

蒼穹を背負ふおれの影は、地平線まで伸びてゐて、

おれも蒼穹に届くほどの背丈になったのかと

感慨深げに思ふこともなくはないのであるが、

しかし、そんなまやかしに騙されるおれではないのだ。

 

確かに

――重い。

といった奴がゐて、

それは偶然おれの隣に居合はせた赤の他人の言であり、

しかし、おれではないと思ひたかったのかも知れず、

また、おれは健忘症に既に罹ってゐたのかも知れぬのだ。

何とも便利なおれの意識状態ではあるが、

唯、蒼穹の眩い薄藍色に見とれ、惚けてゐたのは確かで、

そのずしりとした重さなんて、

蒼穹の美しさに比べれば、

何の事はないと思ひ込みたかったのかも知れぬ。

 

やがては必ず来るに違ひないおれの潰滅は、

一つの小宇宙の死滅であり、

おれが見てゐた蒼穹は、

永劫に此の世から失はれ、

しかし、倒木更新の如く、

おれが屹立してゐた位置に

必ずまた誰かが屹立する筈なのだ。

 

さうして、世界は受け継がれてゆき、

おれがかうして見とれてゐる蒼穹は、

何時ぞや誰かが見てゐた蒼穹とそっくりな筈なのだ。

 

かうして誰かの骸の上にしか立てぬ現存在は、

既に呪はれてゐて、

いつ何時殺されるのか解らぬのだ。

 

そもそも、現存在が此の世に育まれる受精時に

卵子も精子も無数に死んでゐて、

此の世に存在することは死屍累累の骸の上にしか立てぬといふことなのだ。

 

それでも蒼穹を担ぐおれは、

おれの位置を知りたかったのか。

それとも死者と語りたかったのか。

 

もういいかい

 

何処からか、

――もういいかい。

という鬼ごっこをして鬼になった子どもの声が聞こえてくる。

おれは、

――ふん。

と、その幻聴を嗤ふのであるが、

しかし、本当は気になって仕方がないおれがゐるのもまた事実なのだ。

その幻聴はしかし誰に向かって、

――もういいかい。

といってゐると言ふのか。

――ちぇっ、おれに決まってゐる。

と、この猿芝居に腹が立たないこともないのであるが、

おれは絶えず、おれを試しておかなければ、ちぇっ、単刀直入にいふと、おれはおれが嫌ひなのだ。

しかし、おれはそれでいいと思ってゐる。

といふよりも自分のことが好きな人間を全く信用してゐないのだ。

自虐的なことが存在の前提、つまり、先験的に付与されたことで、

自らを責め苦に遭はせない存在など、

さっさと滅んでしまへばいいのだ。

さうすれば、ちっとは住みやすい世界が創出出来るかも知れぬが、

自虐的な存在で埋め尽くされた世界は、

しかし、現在ある世界とちっとも代はっちゃゐないとも思ふ。

 

世界とはきっとそんなものぢゃないかと世界を見下してゐるおれは、

世界に反抗しながら、

おれの憤懣をぶつけてゐるに過ぎぬのであるが、

それは単なる八つ当たりに過ぎず、

世界とは、そんな諸諸のものを受け容れる度量があるのだが、

おれと来たなら、おれすら受け容れられぬ狭量なおれにまたおれは腹を立てて、

パイプ煙草を吹かすので精一杯なのだ。

 

頭を冷やさなければならぬとは思ひつつも、

かっかと憤懣遣る方なしのおれの瞋恚は、

只管におれを自虐するのだ。

さうして味はふCatharsisは、

Masochismと何ら変はりなく、

苦悶が快楽になったおれは、

さうしてやっと世界の中に存在する事の不快を

噛み締め味はへるのだ。

 

何とも哀しい存在ぢゃないか、このおれといふ存在は。

おれはおれを受け容れられず、

駄駄っ子のやうに世界に甘えるだ。

その甘えてゐる間だけ、おれは此の世に存在出来、

さうしてやがては滅するのだ。

 

しかし、それがそもそも受け容れられぬおれは、

矛盾しているのだが、不死を望んでは虚しい溜息を吐き、

その矛盾した様に自嘲する。

諸行無常に収斂する此の世の法は

世界の自己憤懣の表はれとも言へるのだ。

 

――もういいかい。

また、何処かから子どもの声が聞こえる。

おれは

――まあだだよ。

と答へるのだが、

てんで隠れようともしないおれは、

おれといふ餓鬼に見つけられるのを唯待ってゐただけなのかも知れぬ。

 

さうして何が見つかるといふのかといへば、

闇を怖がって闇の中で蹲ってゐるこのおれに違ひないのだ。

 

憧憬

 

Nostalgic(ノスタルジック)にも、

もう二十年数年聴いてゐなかった塩化ビニール製のレコード盤を取り出して、

そのレコードに針を落として久方ぶりにそれに聴き惚れてゐるのであるが

走馬燈のやうに吾が頭蓋内の闇たる五蘊場を駆け巡るかつての憧憬が

現在、実現したのかと自省するも、

脳といふ構造をした五蘊場は、あの頃と何ら変はってをらず、

ふつふつと今も熱情を、吾を追ひ込む熱情に滾(たぎ)りながら、

Speaker(スピーカー)から聴こえる嘗て憧憬した小林麻美の歌声に

おれはかっかっと身体を熱くさせながら、

あの頃のおれがおれの内部ではしっかりと生きてゐて、

おれといふ重層的なその存在の在り方は、

何処と無くしっくりと来るおれの在り方なのだ。

 

何時でも過去のおれが顔を出すおれの現在の有様は、

それだけ歳をとったことの証明でもあるのだが、

しかし、死すまで、多分、おれのこの滾った感情は変はることなく、

おれの内部でとぐろを巻いてゐるのだ。

歳をとる度にそのとぐろの巻き具合がきりきりとこのおれを締め付けてゆき、

最期になって、おれは、空也上人のやうに、おれの口からおれの姿形をした

言の葉かそれとも唯の息かは解らずとも、

おれが溢れ出る事には違ひないのだ。

そのおれが超新星爆発の如く最期の時に溢れ出ることをおれはタナトストンと名付けて

その死の激烈な爆風を表現してゐるのだが、

タナトストンは、やがて、何かの存在物、それはもしかすると物自体なのかも知れぬが、

その存在物にぶち当たり、その存在物の五蘊場でタナトストンはカルマン渦を巻き、

不意にその存在物は吾といふ存在に目覚めるのだ。

さうやって存在は連綿と繋がってゆき、

森羅万象は絶えず吾に目覚めゆき、

その業を背負はなければならぬのだ。

 

タナトストンがぶつかり、カルマン渦を巻く

その象徴としての墓石であると思ふのであるが、

現代人は、既にタナトストン、

つまり、別称でそれを敢へて呼べば、靈の存在といふことになるのだが、

タナトストンの存在なんぞ全く信じなくなり、

つまり、森羅万象に吾が宿ってゐるとは最早考へられずに、

無機物と有機物、物体と生命体、人間とその他の生き物とを

何の疑ひもなく分別して世界を秩序あるものとして看做してゐる。

しかし、吾といふ魂、否、念は森羅万象に宿ってをり、

ぶつぶつと囁いてゐるその憤懣の声を

きちんと聞く耳はすっかり失はれて久しい。

それでも何処も彼処も吾に対する憤懣の声に満ちてゐるのは

何ら太古の昔と変はってをらず、

今も聞く耳を持ってゐるものは

確かに此の世は吾に対する憤懣、若しくは怨嗟の声に充ち満ちてゐて、

タナトストンの爆風を体感する筈である。

 

そこには、また、憧憬も存在する筈で、

タナトストンとともに飛ばされたある存在の憧憬もまた、

今生に存在するものに宿るのだ。

さうでなければ、此の世が諸行無常である必然はなく、

恒常不変な下らない世界で充分なのだ。

 

さて、あの頃の憧憬が不意に顔を出した瞬間のおれにおいては、

その憧憬を抱いてゐた嘗てのおれはあかんべえをするのであるが、

そんな茶目っ気があるのかと此方もにやりと嗤ふのだ。

 

――諸行無常の鐘の声、

と、知らずに口をついて出てきたその言葉は、

此の世の本質に迫った優れてた読み甲斐、聴き甲斐がある物語なのだ。

そこには嘗て存在したものたちの念が宿ってゐて、万物は流転する。

 

――嗚呼、

と嘆く声がした方を見ると

そこには嘗てのおれが顔を泣き腫らしてゐて

吾に襲撃されたその恐怖に戦いてゐた。

 

 

戦(おのの)くのは誰か

 

漆黒の闇の中にぢっと蹲って息を潜めてゐるそのものは、

妖精の闇の衣を被っては

雲間の曙光のやうに

ぎろりと一つ目の眼(まなこ)のみを光らせて、

外部を窺ってゐる。

 

しかし、そのものを包むか細い空間は顫動してゐる事により、

そのものはぶるぶると恐怖に震へ、

若しくは、そのものは巨大な巨大な重力を持つ事により

強烈な重力波を発しながら、その存在を暗示させてゐるのか。

 

いづれにせよ、そのものはぶるぶると震へてゐて

その震へが止まらぬのは確かなのだ。

 

存在すること自体が震へを伴ふならば、

そのものは、身を隠すのに大きな失態を演じてゐて、

正(まさ)しく頭隠して尻隠さずの典型でしかない。

そのやうな状況でも、身を隠さねばならぬそのものは、

自身に負ひ目を負ってゐるのか、

それとも存在以前の問題なのか。

 

――馬鹿が。

 

と不意にそのものは呟いて、己の存在を嘲笑ってゐるのかも知れぬのだ。

 

その漆黒の闇は、絶えず光を当てられてゐるのであるが、

闇であることを已めず、唯、一つ目の眼のみがぎろりと光ってゐて、

何ものかが存在する事だけは確かなのだ。

 

すると、はらりと妖精の衣が剥がれ落ちた。

と、その刹那、一つ目の化け物がその姿を現はしたのであるが、

しかし、それを名指して某と断定するにはおれは決定的に語彙が足りない。

 

そのものはおれに名付けられる事を是とするのか、

闇のマントを纏ひながら

一つ目の偉容な姿をおれの視界の中で屹立させたのだ。

 

しかし、尚もぶるぶると震へてゐたそのものは、

何かに戦いてゐるとしか見えず、

それは、強ひてはおれの想像力の欠如に違ひない事の証左でしかないのであるが、

ぶるぶると震へてゐる状態を戦くとしか見られぬこの発想力の欠如は

如何ともし難く、確かにそのものは戦いてゐた筈である。

 

では何故、そのものは戦いてゐたのか。

それは、存在する事その事に戦いてゐたのだ。

と、さう結論づけたいおれは、

おれのおれに対する姿勢をそのものに投影して

そのものの事を理解したふりをするのだ。

 

何にも解っちゃゐないおれにとって、

そのものが戦く事の理解を強要することでのみ、

おれは落ち着くのかもしれぬ。

 

それぢゃ、そのものに対しての礼を欠いてゐて、

おれの考へを他に押しつけるのは、

独善的でしかなく、しかし、この状況を何と表現したらいいのか解らぬのだ。

 

すると、その一つ目のものはぽろぽろと涙を流し、

おれを凝視するのだが、

その事に右往左往するおれは、

とんだお笑ひものなのだ。

 

しかし、やはり、そのものは戦いてゐたとしかおれには言へず

戦いて妖精の闇の衣のマントに身を隠し、ぢっと蹲りながら、

おれを遣り過ごさうとしてゐたに違ひないとしか思へぬのだ。

 

と、不意にそのものは、再び闇のマントに身を隠し、

何処にか消えてしまった。

 

残るは空間の顫動のみで、

そのものが存在してゐる事は間違ひないのであるが、

何故におれの視界にその姿を現はし、

ぽろぽろと涙を流したのかは、

決定的に理解不能なのだ。

 

だからといって

そのものの存在をおれが抹殺出来る力なんぞはおれは持ってをらず、

そのものにとって或ひはおれの存在が涙を流すほどに哀れであったのかも知れず、

結局は、おれの問題に収斂するのだ。

 

そのものは何を思ったのだらうか。

――南無阿弥陀仏。

と、そんな言葉が思ひ浮かんだ。

 

 

 

 

 

 

Ivan Linsを聴いてゐたその時に大量殺戮は起きてゐた

 

現代ブラジル音楽を代表するIvan Linsの軽やかにして心に漣を起こす

時に哀愁すらをも軽みに変えて、何かを叫ぶでもないそんな音楽を聴いてゐたその時に

二十人にならんとする数の人が惨殺されるといふ大量殺戮事件は起きてゐた。

 

おれは、Ivan Linsの音楽に心地よく酔い痴れてゐるときに

既に地獄絵図の惨劇は起きてゐて、その犯行に及んだ男の供述によれば、

「此の世から障害者が消えればいい」といふやうな趣旨の発言をしてゐるやうで、

それは、つまり、

 

――あなたが死にたいだけでしょう。それにとってつけたやうな理由付けをするのは卑怯だ。へっ、それ以前に自殺出来ないから他者を殺して死刑にならうとするその性根がそもそも腐ってゐるのだ。死にたい奴は徹頭徹尾独りで死を完結するべきなのだ。

 

と、そんな言葉が口をついて出てしまうくらゐにおれは絶望の淵にゐる。

現代人は何処でそんな甘えの構造を死に対して行ふやうになってしまったのだらうか。

死にたい奴は独りで死ねばいい。

それが出来ないのであれば、徹底して生きるのが此の世の道理だらうが、

と、そんな瞋恚の言葉が脳といふ構造をした闇たる頭蓋骨内の五蘊場を駆け巡るのであるが、

他者を巻き込まずにはゐられぬ死に方は、

悪魔ですらしないものだ。

人間のみが無辜の人を理由もなしに殺すといふそんな事態に遭遇したときの無力感は、

誰しもが抱く事に違ひなく、

死にたければ、徹頭徹尾独りで死ね、といふ瞋恚に駆られるおれは、

だだ無意味に殺されてしまった人たちに対して祈ることしか出来ぬのだ。

 

かうしてゐるときもIvan Linsの軽やかにしてブラジルのボサ・ノヴァの延長線上にある

その軽やかさに愛惜が響く、音楽を聴きながら、

この日に突然死んでしまった人達に対して

般若心経を唱へるしかないのだ。

般若心経はIvan Linsの音楽ととっても親和性があり、

それはブラジル人に必ず備わってゐるサウダージといふ哀感が

般若心経と何とも奇妙に調和して、

互ひに響き合ふ。

 

そもそも死にたい奴は独りで死ね。

これが此の世の最低の礼儀だらう。

 

譫妄の中で

 

混濁する意識が辛うじて発した

――おれ。

といふ言葉は、果たして譫妄状態にあるおれのことをどれほど自覚した上で、

発せられたのであらうか。

そもそも意識が混濁することなく、

闡明する中での覚醒した意識が

――おれ。

と発した言葉は、おれの表象の上澄み液の部分で虚しく響き渡るだけなのだが、

混濁した意識の中で発した

――おれ。

といふ言葉ほど切羽詰まった言葉はないだらうが、

しかし、既にその状態のおれは、おれを捨ててゐるのだ。

もうおれを断念した譫妄状態のおれといふものは意識を失ってゐて、

発するのは、譫言ばかりなのであるが、

それは悪夢を見せる夢魔の力なのか、

意識は離合集散を繰り返しながら、

意識の閾値上を浮沈してゐるのだ。

それは多分呼吸と関連してゐて、

息を吐いたときに意識は離散して深海のやうな闇の中へと沈み込む。

そして、息を吸ったときに意識は集合して、

海の水面のやうな意識が意識であり得ることが可能な、

幽かなおれに縋り付き、

おれを見つけたとぬか喜びする。

 

それが意識の本質ならば、

意識は意識=力といふやうな

量子力学でいふ強い力や弱い力のやうに

意識はその力で結びつけられてゐるかも知れぬ。

譫妄状態ではその意識を束ねる力がばらばらになり、

更に、意識もまた、物質の素粒子で出来てゐるのであれば、

譫妄状態のおれは強い力と弱い力は弛緩して、

意識が意識として存立するのは決してない。

 

意識を失ったおれが譫妄状態で発する譫言とは、しかし、おれであり、

それは夢魔により見せられる悪夢と似てゐるのは間違ひない。

 

譫妄の中でおれは貪婪にもおれを鷲摑みにすることを試みてゐるのだ。

しかし、それは悉く失敗に終はり、

おれの意識とは反して、意味の通じない譫言を発するのだ。

それで、おれはおれを捨ててゐる。

 

己が哀れむのを誰ぞ知るや

 

既に此の世に存在してしまふ事で、

その存在は既に哀しいのだ。

それはどんな存在でも暗黙裏に承知してゐる事で、

今更言挙げする必要もないのであるが、

しかし、その愚行を敢へて行ふ吾は、

大馬鹿者でしかない。

 

その自覚があるのに己が哀しいと哀れむのは、

単なるSentimental(センチメンタル)でしかないのであるが、

そのSentimentalな感情にどっぷりと浸る快楽を

おれは知ってしまったが故に敢へて馬鹿をやるのだ。

 

快楽に溺れるおれはエピクロスの心酔者なのかも知れぬが、

おれはそれでいいと開き直ってゐる。

 

さうして、他人に馬鹿にされることで尚更快楽に溺れ、

最早、その快楽から遁れられぬ蟻地獄の中の蟻の如くに

おれは存在そのものに生気を吸ひ取られてゐる。

 

存在に生気を吸ひ取られるとは一体全体何を言ってゐるのかと

吾ながらをかしなことを言ってゐるとの自覚はあるのであるが、

しかし、存在は生気を吸ひ取ることで存在を存続させてゐるのは間違ひのだ。

 

存在とはそのやうにしてしか存立出来ぬもので、

森羅万象はその寿命を全うし、

次の宇宙が始まるための準備をするのだ。

 

宇宙とは、何世代もが続くものであり、

宇宙は、ポーが『ユリイカ』で推論したやうに

膨張と収縮を繰り返しながら、

何世代にも亙って宇宙は成長するのだ。

 

さうして、此の宇宙もその寿命を迎へては、

外宇宙にその座を追はれることになり、

急速に収縮し、

宇宙の移譲が行はれるに違ひない。

 

さうなれば、再び存在が蠢き出して

その頭をむくりと擡げては、

存在がぽこぽこと始まり、

ものが生まれるのだ。

 

さうして、再び、次世代の宇宙は膨張をはじめ、

常世の宇宙は幕を閉ぢ、諸行無常の世へと変貌するのだ。

 

かうして宇宙は次次と取って代わり、多分、無数に存在する外宇宙が

その出番をいつまでも待ち続けてゐるに違ひない。

 

そんな馬鹿な夢想に耽るおれは、

その短い一生を生き抜くのであるが、

短い一生とは言へ、おれにとっては、

おれの寿命は多分、ちょうどいい長さなのかも知れぬのだ。

 

それが死産で終はらうと、

二十歳の早すぎる死で終はらうと、

将又、百歳まで生きやうと、

それはおれにとってはちょうどいい長さの一生なのだ。

 

今はまだ生き延びてゐるおれは、

おれの最期を思ひながらも、

現在を快楽に溺れながら過ごしてゐるのだ。

 

棚引く雲

 

蒼穹の下、

おれは変化して已まぬ雲を眺め、

時にその雲の影に蔽はれながら、

雲が棚引くその雲の影と蒼穹の対比に

得も言へぬ美しさを見出したのか。

 

おれはこの他者がゐて、歴史とがある此の世に生まれた不思議に感謝しながら、

もしかしたならば、おれはおれのみしか存在しない、

歴史もない世界に生まれ出る可能性があった筈であるが、

それを回避して此の他者がゐて、歴史がある此の世界に生まれ出たことに

それだけでおれは幸せなのかも知れぬ。

さう思はずして、此の痛苦しかない世の中で、

何に縋って生きてゆけると言ふのか。

 

何時も嘆くことばかりをしながら、

それでゐて、己が生きてゐる事に胡座を舁くおれは、

何にも解っちゃゐなかったのだ。

 

雲間から陽が射し、影が作るその美は

此の世界が鮮烈な印象を各人に残しては、

己の存在に思ひ馳せるきっかけばかりをおれに見せる。

 

此の美しい世界に生まれ出たことの不思議は解らずとも、

それを存分に堪能することは出来てしまふ此の世の優しさが、

おれにとっては苦痛でしかなかった。

 

慈悲深い此の世の有様は、

おれを冗長にさせて、

何を語るにも、無意味に響くその言葉は、

誰の胸に響くのか。

 

虚しさばかりを齎す言葉を発するといふことは、

一つの才能に違ひになく、

つまり、それはおれが虚しいといふことを白状してゐるに過ぎぬが、

おれはそれを受け容れているのか。

 

じりじりと皮膚を焼くような陽射しに安寧を感じ、

変化する雲の形に喜びながら、

棚引く雲は、地に影を落としながら、

此の世の美しさを演出するのだ。

 

何がおれをかうして焼けるやうな陽射しの下に立たせると言ふのか。

それは変化して已まない棚引く雲を見ることで、

時間を見るといふ錯覚に酔ひ痴れたかったのか。

 

哀れなる哉、このおれは。

初夏の陽射しが焼く皮膚をして、

おれはおれの存在を感得するのか。

 

棚引く雲よ、

その影の美しさを知ってゐるかい。

 

籠もる人

 

そのものは独りであることに耽溺し、

吾といふ玩具を見つけてしまった。

そのものにとって吾は弄ぶもであって、

自己相似、つまり、Fractal(フラクタル)なものとは全く予想出来ず、

そのものにとって吾は吾と分離した何かなのであった。

この矛盾がをかしくて仕方なかったのか。

 

そして、そのものは、終ぞ

――おれ。

と言ふことは憚られ、また、一生言ふ事はなかった。

 

では、そのものが自己を指して語るとき、

――あれ。

として語り出す。

それは当然のことで、

吾とはそのものにとって玩具以上の物にならず、

変態を続けるその吾はそのものにとって飽きることはなく、

それ以上に耽溺させるのだ。

 

独り吾に籠もるそのものは、

始まりも終はりもないその吾の出自と最期を

想像することは全く出来なかったのである。

つまり、吾とは不死なるもので、

そのものにとって「あれ」と分離した「おれ」は

「あれ」が死んでも「おれ」は生き残るものとしか思へなかった。

 

不老不死といふ儚い夢を見ることで、そのものは生き生きとし、

不老不死は「あれ」の出来事として思ひ込む。

さう錯覚することで、そのものは吾を玩具に出来たのだ。

 

そして、その吾はそのものにとって粘土の如くあり、

手で握り潰しては成形すると言ふ事を繰り返し、

吾は、そのものにとってのお望み通りの物になる筈であったのだが、

終生、吾はそのものにとって理想の形に成形されることはなかったのである。

果たして、そのものにとって理想はあったのか、不明であるが、

ただ、そのものは粘土の如き吾を捏ねくり回しては、

陶器の如く、その形を内部の火炎に晒しながら、

堅固な吾を作のだが、

それは一度もそのものの予想した物になることはなく、

そのものはせっかく作った陶器の如き吾を地に叩き付けて割るのであった。

 

そのものは終生、解り得なかったのか。

内部の火炎に晒して、陶器の如き吾を内部の窯で焼くことには

自己の意思では制御出来ぬことを。

それが「自然」の発露であることを。

 

 

 

 

熱風の中で

 

頭がくらくらするほどの熱風に塗れながら、

おれは灼熱の中、歩を進める。

何故故にこんな日に歩かなければならないのか、

理由はなく、

唯、おれは、熱風に塗れることで現はれるへとへとに草臥れたおれを罵倒したくて、

歩いてゐる。

溢れるやうに噴き出る汗を拭ひながら、

直ぐ熱風に困憊するおれは、

それでも目玉だけをぎらぎらと輝かしながら、灼熱の中を只管歩くのだ。

 

意識が遠くなりつつも、おれの中に意識を留めるべく、水を飲みながら、

脊髄が痺れる嫌な感じに苛まれ、

そのときに不図現はれる真黒き「杳体」は、

おれを覆ひ尽くし、

おれの本性が現はれることを

目論むおれがゐるのである。

 

しかし、それはおれを欺瞞するための方便であり、

「杳体」なんぞ、ちっとも信じてゐないおれの

その場凌ぎの窮余の策であって、

脊髄が痺れるその嫌な感覚に圧し潰れて倒れさうなおれは、

案山子のやうに、唯、佇立するのだ。

その中で、陽炎が上るおれの影を凝視しては、

唯、

――立ってゐる。

と、思ふことで安寧するおれは、

その姿に、また、欺瞞をも感じる馬鹿なおれがゐる。

しかし、何もかも欺瞞の烙印を押して溜飲を下ろしてゐるおれの

そのCatharsis(カタルシス)は、狡賢い詐欺師が詐欺を行ふことと何ら変はりがないのだ。

 

熱風が吹き付ける灼熱の中を只管歩を進めるおれは、

噴き出る汗をものともせずに、

痺れ行く体を心地よ行く感じながら、

脊髄が痺れる嫌な感じを払拭するのだ。

さうしておれは、眩む視野に穴があいたやうに黒点が現はれる其処に

ぐっと意識を集中させては、

「杳体」の何たるかを見果せるまでは、

歩くことをやめぬのだ。

 

――へっ、「杳体」なんぞ、信じてゐるのかい? そいつは目出度い。ここにもまた、馬鹿が一人ゐたぜ。

 

ふわっと浮く

 

余りに草臥れた時、

意識は、己がふわっと浮く感覚を察知する。

その時、意識は自由落下してゐて、

意識の重さを見失ってゐるに違ひない。

――何? 意識に重さがあると?

――当然だらう。それは脳に重さがあることから自明のことさ。

――何故、自明のことなのかね。

――例えば脳が活発に活動してゐる時にはEnergy(エナジー)が増大し、脳は膨張してゐる筈だ。俺の言葉で言へば、五蘊場にEnergyが増大した故にその分確実に意識の重さは増大し、俺は意識を見失ふのだ。

確かに、俺は草臥れ果てた時に意識は様様な表象を断片的に瞼裡に出現させては、俺をきりきり舞ひさせ、尚更俺を草臥れさせる。草臥れた五蘊場には脈絡のない表象が生滅しては俺を困惑させるのだ。

――それでは一つ訊くが、意識とはEnergy体なのかね?

――さて、それがよく解らぬのだ。例へば、「念」に重さがあるとするならば、当然意識にも重さはあることは自明なのだが、「念」に重さがなく、光と同様のようなものだったならば、それは、重さがないEnergy体と看做す外ない。

――これまで、意識の重さを量ったことはあったのかい?

――いや、ないだらう。そもそも誰も意識がEnergy体とは考へてゐないからね。

――それでは意識を何と?

――脳の活動としか捉へていない。意識が独立したものとしては誰も看做してゐないのだ。それが共通概念なのだらう。しかし、誰もそれを確かめたものはゐないのだ。端から意識は脳活動によるものとしてしか看做せないのだ。

――へっ、それでは一つ訊くが、脳の活動とはなんぞや?

――それが解れば、誰も苦労しないだらうね。

俺はそのまま意識の重さを見失って、ふわっと浮き上がったやうな感覚に囚はれたのである。さうして、草臥れ果て、眼窩の目のみをぎらぎらと光らせながら闇を凝視するのであった。

 

土砂降りの中

 

何をも押し流さうとしているかのやうに

今日も土砂降りの雨が降ってゐる。

今はまだ出水にならぬ程度だが、

やがて野分がやってきて、

根こそぎ吹き払ふに違ふにちがいない。

 

屋根に当たる雨粒の音は、恐怖を誘ひ、

犬っころは隠れる場所を探すのにそわそわしてゐるが、

土砂降りの雨の中にぽつねんと座るのみ

 

これから更にこの土砂降りは酷くなり、

唯、野分けが過ぎゆくのをぢっと息を潜めて待つことしか出来ぬおれは、

土砂降りの中にぽつねんと座っているあの犬とどこが違ふのか。

何処かでは屋根が吹き飛ばされ、

何処では竜巻が発生し、

さうして、おれもまた、己の無力感に虚脱するのであるが、

その中で、出水に晒されるのは敢へて言へば不幸中の幸いなのか。

 

おれは野分けが来ると高揚する。

それは生死がかかった修羅場に対峙する高揚感に違ひなく、

生きるか死ぬかは、天のみぞ知る、若しくは、人間万事塞翁が馬でしかなく、

この諦念は人間の限界を突き付けられているその瞬間のそれに違いがないのだ。

――へっ、 人間は限界があるんだぜ。

と嗤ってゐるそいつが存在する。

そして、そいつとは何かというのは

名状し難きものとしてその気配のみしか感じられぬのであるが、

唯、そいつはおれの生死を握ってゐるのだ。

――そいつ。

何なのか、そいつとは。

そいつはあるとき”自然”といふ名を冠しているが、

だからと言って、そいつの正体が明らかになる訳でもなく、

唯、お茶を濁してゐるに過ぎぬのだ。

――ざまあないぜ。

とおれは自嘲の引き攣った嗤ひを己に対して浮かべるのみ。

 

――嗚呼、おれはこの緊迫した状況を確かに楽しんでゐて、己の死が近しいといふことが嬉しいのだ。倒錯したこの感覚は、既に捻くれたおれの本性の為せる技なのだ。

 

傷痕

 

何時火傷したのだらうか。

目覚めてみると右手に大きな水ぶくれした傷痕があったのだ。

おれはよくパイプ煙草を持ちながら寝てしまふ愚行を繰り返してゐるのだが、

此の傷に全く気づかずに寝てゐたことから、

火事で焼け死ぬ人は夢見中に心地よく焼け死んでゐるに違ひないと強く思ふ。。

 

睡眠中には熱いといふ感覚、つまり、全的に感覚が麻痺してゐる事を知ってしまったおれは、

基督教徒ではないが、

例えば、煉獄を通って焼かれても何にも感じずに浄化されるといふ現象は

本当かもしれないと思ひ始めてゐる。

 

何の感覚も無いという絶望は、

意識を失って卒倒してゐるに等しく、

それはおれの無残な敗北でしかないのだ。

何に対する敗北かと言へば

それは、地獄さ。

地獄で卒倒してしまへば、

それは地獄の責め苦に何の効力も無くなり、

おれは卒倒してゐる故に全く何にも感じないのだ。

 

それは、危険なことに違ひない。

己の限界値をぶち切ってしまっても、

尚、地獄の責め苦を受けるといふことは、

それは既に処刑でしか無く、

地獄で生き残れた念にとって

自殺行為なのだ。

 

――へっ、地獄で自殺? 馬鹿らしい。

 

しかしながら、仮に地獄で自殺できるのであれば、

その自殺した念は何処へと行くのだらうか。

 

――地獄に決まってるだらうが。

 

地獄で自殺した念はまた地獄へと舞ひ戻るならば、

その円環から抜け出せなくなった念は五万とゐる筈で、

それこそ浮かばれぬ念の行く末は、何かといへば

自殺はまるでBlack holeいふ事か。

一度自殺をしてしまふと、それは地獄へ行く筈で、

地獄でまた自殺をし、

さうして再び地獄に舞ひ戻る。

 

これを蜿蜒と未来永劫に亙って繰り返す地獄の最下層に吸ひ込まれた念どもは、

結局自殺するといふ《自由》を選んだつもりが、

Black holeの中を行きつ戻りつしてゐるに過ぎぬのかも知れぬ。

 

嗚呼、哀れなる念どもよ。

自由を行使したつもりが、

不自由の真っ只中に

囚はれる愚行を、

自殺といふ行為で行ってゐるに過ぎぬことに気付かぬをかしさ。

 

Black holeに行きたければ自殺すればいい。

何の事はない、

Black holeも日常に五万とあるぢゃないか。

その一形態が自殺だとすれば。

 

さうして今日も日常が始まり、そして終はるのだ。

 

 

 

 

果たして時は失せるものなのか

 

絶えず現在に留め置かれる現存在は、

果たして絶えず現在といふ時を失って、

全てが過去のものへと変節するといふ先入見から脱出できるのであらうか。

さう、過ぎしき過去といふ時間認識は、明らかに間違ってゐる。

 

過去との連続性を保つ事で、現存在は、現在に佇立でき、

現在の中でも現存在が回想するといふ行為を行ふ事で

やっと現存在は、現在に屹立できるであって、

そのやうに思考する現存在は、未来に対しての準備をもしてゐるのだ。

 

だって、をかしいぢゃないか。

現存在は、過去を振り返ることも可能であれば、未来も予想することも可能であり、

とはいへ、その精度は不確かなだけなのだ。

例へば精度が寸分違はぬといふといふ場合、

現存在はもう、此の世に存在する義理は無く、

未来が全きに予想通りならば、

そんな人生ちっとも面白くありゃしない。

そして、記憶がFuzzy(ファジー)である事が、

つまり、揺らめく事で、

現存在は、現在を楽しんでゐるのであり、

また、苦しんでゐるのである。

 

喜怒哀楽のない時間なんぞ、果たして現存在は堪へ得るのであらうか。

全てが過去のData(データ)から予測できる未来を手にしたところで、

そんなものは現存在は、忌み嫌ふやうにして毛嫌ひし、

そんな時間の流れは、必ず恨むばかりの筈なのだ。

 

さて、時は失はれるものなのであらうか。

積年といふ言葉があるやうに

時もまた積もる筈で、

既に予測可能な時間なんぞ、これまで一度も存在したことがなく、

一寸先は闇といふ時間の在り方しか今昔を通してありゃしないのさ。

 

――ならば、Supercomputer(スーパーコンピュータ)によるSimulation(シミュレーション)は何を意味する?

 

それは唯の思考の短縮なのさ。

 

――思考の短縮?

 

さう、手計算で行へば何万年もかかるものがSupercomputerでは2~3時間で計算可能なのだ。此の思考の短縮が可能になった事で、例えば気象の予測の精度が上がった。

 

――だから?

 

だから、人類はSupercomputerや人工知能の深化で、「人間らしい」日常を送ることができるのだ。

 

――へっ、人間らしい日常? それって何かね?

 

と、ここで言葉に詰まったおれは、現在起きてゐる現象が、積年の経験則が全く通用しないParadigm(パラダイム)変換の真っ只中にゐる事を認めぬ訳には行かなかったのだ。

 

Supercomputerが、人工知能が深化すればするほど、

現存在の一寸先は闇状態が更にくっきりと浮き彫りになるか。

 

浮沈

 

例へば意識といふものを氷山の如きものとして喩へるのは、

完全に間違ってゐる筈だ。

氷山の水面の上に出てゐる二割ほどのものが意識で、

水面下にある八割ほどのものが無意識といふ喩へは、

完全には破綻してゐるのだ。

何故って、意識に意識も無意識もなく、意識は全てが意識が覚醒してゐる状態であって

無意識と呼ぶものは、逃げ口上に過ぎぬのだ。

無意識と呼ばれるものは、唯、 意識がその存在を見逃してゐるだけの

脳内で、若しくは五蘊場で発火現象をしてをり、

それはひょんなことから意識がその存在に気付くのは時間の問題に過ぎぬのだ。

 

五蘊場は多世界解釈論の主戦場だ。

あったかも知れない世界が浮沈するその五蘊場は、

全てが現実と外れてゐて、絶えず現実のGap(ギャップ)を埋めることに忙しくて、

五蘊場に多世界が花開いてゐる事に気付かぬだけなのだ。

 

これは可能なる世界のことと全く意を異にするもので、

確かに存在する世界なのだ。

 

――血迷ったか!

 

と、何処ぞの誰かが半畳を入れる声が聞こえるが、

確かに五蘊場には多世界が存在するのだ。

 

唯、それは絶えず浮沈してゐて、波間にその存在が見え隠れしてゐるのみなのだ。

 

それらに気付かぬ己は、全てを無意識におっ被せて多世界を見通せない己に対して

何時も言い訳してゐるに過ぎぬのだ。

 

全ての多世界はしかしながら、

他の世界に影響を与えてゐて、

干渉し合ひつつも、

連想が連想を生むやうに

五蘊場に存在する世界は世界を生みつつ、

多世界は多世界として存立してゐるのだ。

 

――へっへっ、 論理破綻!

 

と、また、半畳を入れられるのであるが、

 

――それでも構はぬではないかね。

 

と、こちらが応じると、何処ぞの誰かは知らぬものが、

 

――多世界を容れられる器として五蘊場は相応しいのかね?

 

と、もっともらしいことを問ふたのであるが、

 

おれは宇宙の一つや二つくらゐ容れるのに五蘊場は十分過ぎる大きさで、

五蘊場には多世界を容れるに相応しい器として闇を持ってゐると思ふのだが、

唯、意識が、つまり、自意識は多世界を全て同時に聖徳太子のやうには把握できず、

否、それをせずに現実に多世界を合わせる事に汲汲としてゐるに過ぎぬのだ。

 

枢軸は絶えず現実であり、多世界は、現実とのGapが大きければ、

意識はその世界を放っておくのであるが、

しかし、その放っておかれた現実とのGapが大き過ぎる世界は

夢魔によって五蘊場に呼び出され、

夢中にあるおれにその現実離れした世界を見せるのである。

 

それを夢と呼ぶものもゐるが、

夢の世界は多世界が同時に存在し、

次次と世界を生んでゐる証左の一つなのだ。

 

かう解釈する俺は、天邪鬼には違ひないが、

俺はそれでいいと思ってゐる。

 

潰滅

 

潰滅する自己の辛酸を嘗めたときの哀しみを知ってゐるかい。

それはもう自分では何ともし難い事態であり、

唯、成り行きを見守るしかないのさ。

一度潰滅をはじめた自己はもう元には戻せずに、

潰滅してゆくに任せるしか術がない悔しさを知ってゐるかい。

 

それは、唯、嗤ふしか最早ない事態で、

自己と呼ばうが、自我と呼ばうが、吾と呼ばうが、どうでも良く、

そいつが潰滅しはじめると吾はお手上げ状態なのさ。

その不可逆性は如何ともし難く、

一度潰滅をはじめてしまった自己を抱へた刹那、

涙を流すしかないのさ。

 

さうして呆けて行く吾は、唯、ぼんやりとかつては吾の肉体であったものを

他人事のやうに弄ばせては、魂の抜け殻と化し、

行方不明となった吾を探すでもなく、ぼんやり虚空を眺めるだけなのさ。

 

その情況は死の間際を千鳥足で歩いてゐるやうなもので、

吾を失った吾は、もう、何時死んでもいいと覚悟は決めてゐるのだ。

 

自己が潰滅とするとはさういふ事で、

それは解脱などとは無限遠ほどに離れてゐる状態で、

だだ哀しい呆けた肉体が反射的に涙を流すのみなのさ。

 

そんな時、思考は停滞し、感情も停滞し、平板化してゐるその情況に

誰が抗ふことができようか。

 

唯、呆けてしまった吾を探す気力すら失せたそのものは、

唯、時の流れに身を任せるに過ぎず、

虚無の時間が長く唯、流れるのみなのさ。

 

そんな時、唯、時のみに対して反応する潰滅しちまった吾は、

時の中に渦巻きを見、その渦巻きが消えゆくのを見るのみなのさ。

 

そんな虚無の時間を何十年も過ごす覚悟があるならば、

自己を潰滅させてみればいい。

さうして虚無の人生を歩んで、

どろどろの虚=吾の粘性のままに渦巻く時間のカルマン渦が消滅してゆく

つまり、呆けた吾が死にゆく事態を唯ぼんやりと眺める人生を送る覚悟があるならば、

一度自己を潰滅させるのも乙なものさ。

 

 

滅亡を憧れる

 

正直に生きたければ、滅亡するのが一番だらう。

自他の齟齬に悩むのは当然として、

その中で自我を通すのであれば、己が滅亡することに正統な筋がある。

他に対しては自我と呼ばれる類ひは、全て滅亡するに限る。

さうして自身の席を他に譲ることでもっと生命力にも満ちあふれた存在が出現するかも知れぬのだ。

 

さうして羸弱な存在が生き残るよりも

生命力が強い存在が生き残るのが筋で、

さうして病弱なおれはそっと此の世から消えるのを或ひは待ち望んでゐるのかも知れぬ。

 

へっ、それは逃げ口上に過ぎぬぜ、と嘲笑ふおれは、

ぢっと箴言の言葉を噛み締めながら、

この場は堪へ忍ぶしかないのだ。

 

おれの本心は、それでも生きたいといふ願望が強いのであるが、

しかし、病気により滅亡することは全的に受け容れる覚悟は既にできてゐる。

 

おれも既に病死することを考へる齢に達したのだ。

それだけ生き延びてきた報ひは必ずある筈と覚悟の上に、

おれの危ふい生の有様は、

それでも沈思黙考しながら藻掻き苦しみ、

死への誘いの陥穽に何時落ちるのかとびくびくしながら石橋を叩いて渡るように一歩を踏み出すおれは、

本心では死を忌み嫌ひながらも、死と戯れる退廃した耽溺に甘ったるい蜜を知ってゐるおれは、

素直に滅亡することを、受け容れ知るべき齢に達したのだ。

滅亡してゆく中で、おれは、静かにおれといふ生の何であるかを知り得るかも知れず、

さうなればめっけものであるが、大概はおれはおれの最期までおれを裏切るものであり、

おれは時の中に沈殿するものなのか。

 

さう思ったところで何の解決の糸口も見つからず、

おれは出口なき堂堂巡りの大渦に呑み込まれるのみなのだ。

 

――ざまあ、ないな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幽玄といふ空虚

 

いざ、彷徨ひける薄闇の中の幽玄なる空虚な世界は、

嫌におれの心をざわつかせ、さうして薄明の中に見ゆるは幻か。

一片の落葉がゆるりと落ちて、その落つる幽かな音が増幅されては

しじまに波紋が生れたり。さうして、空虚な世界はゆらりと揺れて

何故にか、おれを煽情せしが、草臥れちまったおれは、ばたりと倒れるのみ。

――ふっふっふっ。

と何故か嗤ふおれは、倒れたままに仰向けでその空虚な世界を凝視せしが、

それをして幽玄といふ言葉は脳裡を掠めることもなく、

がらんとした心がしくしくと啼く。

 

何といふ虚しさか。

とはいへ、おれは虚しさを喰らふべく、

この幽玄なる空虚な世界に脚を踏み入れり。

 

これで能く解った筈なのだが、

返って空虚がおれの心を揺さぶりれし。

 

共振かと思ふも空虚に同情する心の状態を知らぬおれは、

この後どうすればいいのか、全く覚束なく、千鳥足で立ち上がり、

再びこの世界を彷徨ひし。

 

――嗚呼、

と嘆くことすら知らぬおれは、

苦虫を噛み潰したかのやうに

顔を顰めてはおれの頬をぶん殴りし。

それではっと目が覚めたおれは、

尚も頬をぶん殴り、その音のみが虚しく響き、

さうしてしじまに波紋が生れり。

 

成程、おれは、この幽玄なる空虚な世界を揺らしたきか。

さて、揺れて蛇が出るかを化けものが出るかは知らぬとはいへ、

何ものかがゐると端から思ひ込んでゐるおれは、

馬鹿に違ひなき。

哀しき哉、未だに何にも知らぬ無邪気なおれは、

幽玄なる空虚な世界が悪魔の住む巣窟であることを

やがて知ることになり、

悪魔に対してあれやこれやと

知識欲に飢ゑてゐる我儘な幼児のやうに

世界の秘密を知らされることになるとでも考へてゐるのか。

 

――嗚呼、何たることか。

最期はさう嘆いてこの世界を始末するに決まってる。

さうぢゃなきゃ、此の世の秩序は転覆し、

おればかりが蔓延る何とも気色悪い世界が更に空虚にして宙を漂ひし。

 

それは間違ひだと気付けばまだしも、

悪魔に煽てられて有頂天になってゐるおれは、

悪魔の双生児として世界を闊歩するのだ。

それが自滅の歩みであらうとも。

 

自然は自然において衰滅する

 

自然は自然において衰滅する。

とはいへ、それは生物が存在できぬ環境が現出するだけで、

自然にとって痛くも痒くもない。

 

そこで、視点を永劫の相に移してみると

自然も衰滅することは必然で、

やがては此の宇宙も衰滅する。

 

でなければ、今現在、未出現のものが

永劫に出現する機会がなく、

それは不合理であらう。

「不合理に吾信ず」と言ふ箴言があるが、

それは徹底的に存在者の言であり、

未出現のものにとっては迷惑この上ないのだ。

 

例へば、人間の存在が、生物絶滅を加速させるならば、

それは喜んで受け容れるべきなのだ。

人類に代はって

新たにこの世の首座の位置を握る存在の出現がその時には待ち望まれ、

人類の此の世からの退場は未出現のものの登場には不可欠なのだ。

 

だから、人類はさっさと滅亡してしまうが一番なのだ。

 

とはいへ、人類は此の世に未練たらたらで、

何としても生き残る術を見出すと思ひ込んでゐる馬鹿者で、

科学技術の更なる発展が人類を救うなどといふ馬鹿げた幻想を夢見る人類は

もう 種としてその役割を終へてゐる。

 

世界を己の都合が良いやうに変へたてしまった人類は

その報ひを受けるべきで、

そうぢゃなきゃ、

此の世は不公平でそれこそ不合理なのだ。

自らの力で自ら滅んでゆく人類は

次の未出現の出現の足しになるかも知れぬが、

もう、人類の智慧など白痴の慟哭と何ら変はりがない。

 

――そうまでして人類をこき下ろすのは何故かね。

――そんなことは決まってゐるぢゃないか。人類の此の世の春はもう終はってゐて、更に盛夏も終はってゐて、爛熟の腐りかけた文明がのさばってゐるのみだからさ。へっ、それはもう腐臭を発してゐて、誰もがその腐臭の臭ひを嗅いだ筈だ。だが、誰もそれに対して口を閉ざしてゐて、そこのことはそれを認めたくない人類の不都合な真理なのさ。

 

やがては宇宙の藻屑と消える人類は、さて、どこまで思索したのか、それのみが試されてゐるのだ。さうして、やっと人類は此の世に存在した証を残せるのであって、文明は既に滅びの位相へと移行してゐる。

 

 

 

 

 

 

 

 

ホモ・サピエンスはホモ・サピエンスを嫌ふ

 

何故なのだらうか。

ホモ・サピエンスは自身がホモ・サピエンスであることに堪へられぬのだ。

完璧ならざることがその因なのか、

それともそいつは自身が没入できるものを結局見出せずに、

己がホモ・サピエンスであることを忘れられる時間がないからなのか。

ホモ・サピエンスはたゆまず考へることを宿命付けられた種であるが、

しかし、そんなことはホモ・サピエンスに限ったことではなく、

此の世の森羅万象は考へることを宿命付けられてはゐる。

 

考へるという事象は、それ自身、此の世の現実との差異にあることの証左であり、

鬱勃と可能性ばかりが湧き出るといふことは、

此の世が現実とは違った世界が生じる可能性があったことの証左である。

それをこれ見よがしに表白するホモ・サピエンスは、

一体何ものなのか。

漆黒の闇が或る処には必ず鬱勃とあったかも知れぬ世界の可能性は、

路傍の石の如くに転がってゐて、

闇と共振するホモ・サピエンスの思考は、

何もホモ・サピエンスに限った話でなく、

例えば、わんころでも暗闇に共振し、

そこにゐるかも知れぬ敵の気配を追ふのだ。

 

ゆったりと更けゆく夕刻には

哀しみの末に死んでしまったものの

にたりと嗤ふ其の顔があり、

其の顔には恐怖しかなかった。

 

そんな無数の顔が闇には無限に蝟集してゐて、

それらが此の世に生まれ出る可能性を探してゐる。

 

ちらっとでも、それらの顔を見たものは、

もう闇を凝視する外ないのだ。

さうして

――へっへっへっ。

と自嘲しては可能性の世のあるかも知れぬといふ確率の数字に翻弄されながらも、

生れちまった哀しみを圧し殺しながら、

ホモ・サピエンスにまで至る遠い遠い過去へと思考は遡り、

無限にある可能性の一つの帰結が己であることの意味を知ってはゐるが、

しかし、天邪鬼のホモ・サピエンスは

己のことが許せぬのだ。

何が此の吾に罪を被せるのかといへば、

吾以外の何があらうか。

と、さう思ふホモ・サピエンスの奢りが

最も嫌ふところで、

ホモ・サピエンスはホモ・サピエンスであることに堪へられぬのだ。

 

それは、一所にしか己がゐないといふことの不合理に、

全ては象徴されてゐる。

 

確率一として此の世にある筈がない吾は、

一所にあることに憤懣やるかたなしなのだ。

 

また、その不合理の裂け目が存在することにおいてのみ、

吾は吾である確率を堪へ得るのであるが、

その裂け目を弥縫して封じてしまふホモ・サピエンスの存在の仕方は、

美しくない。

 

夕闇が蔽ふ今、

ホモ・サピエンスとして此の世に屹立するおれは、

ばっくりと開いたその裂け目に

感謝こそすれ、恨む筈はないのだが、

おれは、やっぱりおれの裂け目を憎んでゐる。

 

さうしてほら、ほら、と夕闇が手招きして

おれを闇の中へと誘ふのであるが、

闇に身を投じて、可能性の世界を夢想する虚しさはもう知り尽くしてゐる筈で、

可能性と言へば聞こえはいいが、それは詰まるところ、雑念でしかないことに

思ひ至ったてゐるおれは、まだまだだなあと、嗤って見せては、

夢が既にその神通力を失った現在を振り返り

頭蓋内の闇を攪拌するやうにして、

おれはおれを捨つる哀しさは知ってゐて、

だからおれはおれを捨つるのだ。

 

 

今日は草臥れた

 

何だかな、

今日はとっても草臥れた。

何にも考へたくもないのだが、

つらつらと草臥れた頭蓋内の闇には

意味不明な表象がぶつ切りに浮かんでくる。

それを一いち追ふ力もなく、

草臥れちまったおれは

唯、眠る時のそれを待ち望んでゐる。

 

しかし、草臥れちまったおれは、

さう簡単には眠れずに、

往生する筈なのだ。

草臥れちまった時程に、

おれの自意識は爛爛と覚醒しはじめ、

その好奇心溢れる自意識はその頭をむくりと擡げては、

俺の頭蓋内の闇を攪拌す。

 

だからといって何ものかが見つかる筈もなのだが、

眠れぬ自意識は俺の臀部に噛み付き、

へっへっへっ、と憎たらしい嗤ひを浮かべる筈なのだ。

 

何だかな、

今日はとっても草臥れた。

 

 

瞼裡に再現前した表象に喰はれる

 

破戒でもしたのだらうか。

おれの意識は、

気を抜くと瞼裡に再現前した表象に追い抜かれて、

挙げ句の果ては喰はれる懸崖に追ひ込まれた。

その懸崖といふのがまた曲者で、

その懸崖の底にはこれまで瞼裡に再現前した表象の死骸が死屍累累と堆く積まれ、

このおれをその仲間にしようと手ぐすね引いて待ってゐるのだ。

つまり、おれは追ひ込まれちまった。

直ぐにでも瞼裡に再現前した表象に喰はれる恥辱を味はひ、

おれは意識を失って卒倒する馬鹿を見るのか、

それとも、おれはほんのちょっぴり残された

おれがおれであることの先の恥辱とはまた違ふ恥辱を堪へつつ、

ちぇっ、つまり、どの道恥辱しか残されてゐないのだ。

 

ならば、おれはおれの意識が生き残る夢を見ながら

瞼裡に再現前した表象に潔く喰はれちまった方がちっとはましで

懸崖の底の表象の骸の山に喰はれちまったおれの抜け殻をぺっと吐き出す

瞼裡に再現前した表象を我が物顔でのさばらせつつも

そいつに残るかも知れぬおれの夢を真珠の種の如くに植ゑ付けることに

辛うじて成功したならば、

おれは寄生虫の如くその瞼裡に再現前した表象に取り憑いて

闇の中に闇の花を絢爛豪華に咲かせるが如くに

おれの夢の花を瞼裡の再現前した表象を突き破ってでも咲かせる覚悟を決める時が、

この刹那なのかも知れぬ。

 

さて、どうしたてものだらうか。

尤も、おれは端からおれなんぞにちっとも信を置いてはをらぬが

それでもおれの生を繋ぐ本能は本能としておれにも宿ってゐるやうで

おれも生き物なんだといふその胡散臭い感覚に騙されることを知りつつも、

つまり、時時刻刻と騙されながらおれは生きてゐるといふ幻想と戯れながら

既にあの懸崖の骸の死屍累累と堆く積み上がった表象の山で、

断末魔の雄叫びを上げながら、

しかし、おれの闇の頭蓋内を吹き荒ぶ暴風にそれはかき消され、

最早その断末魔を誰も耳にすることはないのだ。

 

ざまあないな。

 

 

 

 

闇の中の祝祭

 

何処とも知れずに湧いてきた「魔のもの」たちの祝祭が

漆黒の闇の中で始まった。

 

それは欧州でのワルプルギスの夜と呼ばれるものに近いのかも知れぬが、

極東のこの島における漆黒の闇の中の「魔のもの」の祝祭は百鬼夜行と呼ばれるものか。

 

その祝祭はやけに楽しげで、

至る所でどんちゃん騒ぎが始まり、人が一人づつ喰はれる度に、

「魔のもの」たちは大騒ぎ。

 

その楽しさは極上この上ないものと見え、

「魔のもの」たちはどぶろくの杯を高々と上げて、

人一人喰われる度にその肉を美味さうに喰ひ千切って一呑みでどぶろくを呷るのだ。

 

中には、度数の強い焼酎といふ気取った酒を楚楚と呑むスノッブの「魔のもの」もゐるが、

それでも、その「魔のもの」たちは誰もが楽しげな笑顔が浮かんでゐて、

人喰ひのといふことがそれ程にも楽しいのだ。

 

さて、その祝祭で喰はれるものは、

予め人間によって捕獲されたものたちばかりで、

それは此の世で罪を犯したものなどの他に、

まだ、年端も行かぬ子どもが一人混ざってゐて、

その子どもがその祝祭最後の生け贄なのだ。

 

その残酷さが「魔のもの」たちには堪らぬらしい。

 

所詮、「魔のもの」と雖も高が知れてゐて、

人間を喰らって騒ぐくらゐしか能がないのだ。

 

そんな単純なことで喜ぶ「魔のもの」たちは

余程想像力に乏しいらしく、

そんなことぢゃ「魔のもの」たちも「魔」であること失格で、

そんなどんちゃん騒ぎなんぞ、

喜んでゐる場合ではないのぢゃないかね。

お前らは、棲む場を人間に追われ、

その腹癒せに人間を喰らってゐるのかも知れぬが、

そんなことぢゃ「魔のもの」は生き残りゃしないぜ。

 

此の世に漆黒の闇の恐怖を再び呼び起こすのだ。

漆黒の闇の中に人間が置かれると、

人間は誰もが恐怖に震へる。

それは、無限に対峙する恐怖なのだ。

無限を見失った人間ほど悪辣な存在はなく、

そんな人間ほど此の世の王を気取ってゐる。

 

お前ら「魔のもの」たちは、

そんな張りぼての「王」を喰らはずして、何とする。

年端の行かぬ子どもを喰らって憂さを晴らしたところで、

何の事はない、

「魔のもの」たちの自己満足でしかないのだ。

祝祭だ。

ドラキュラのように

人間の王を槍で串刺しにして

見せしめとし、

人間に恐怖を植ゑ付けるのだ。

「魔のもの」たちの祝祭とは、

強きを挫く「善行」を行ふことが

お前たちのIrony(イロニー)だらう。

 

お前たちはそもそもがIronyな存在で、

『ファウスト』のメフェストフェレスの如くに

「悪を為さんとして善をなす」ところの

悪魔の眷属であり、

お前ら「魔のもの」たちは、

徹頭徹尾善行を犯すのだ。

 

それ、祝祭はこれからだぞ。

 

 

 

悲歌

 

ちっとも哀しくないのに

頬を流れる涙は塩辛くて、

切なさばかりが際立つ。

 

何故泣いてゐるのか

さっぱり心当たりはないのであるが、

さうしてゐても夕日は沈んでゆく。

たゆたゆと夕日は沈んでゆくのだ。

 

その景色は唯唯美しく、嗚呼、と声を上げるほどに美しい。

ぽっかりと浮かんでゐる雲は、

赤外線によって茜色に染められ、

たゆたゆと流れゆく。

 

何がそんなに哀しいのか、

頬を流れる涙は塩辛くて、

おれをたゆたゆと流すのだ。

 

おれは雲と一緒にたゆたゆと何処へとも知れずに流れゆく。

流されちまったおれはどうしてとっても哀しいのか。

風来坊を気取ってゐたおれは、

たゆたゆと流れるおれに執着する筈もなく、

流されるままであって欲しい筈だが、

哀しいのだ。

何てこった。

この哀しさはおれの奥底に何かが触れちまった証左に違ひない。

それはこのたゆたゆと沈みゆく夕日かな。

自然はそもそも哀しいのかも知れぬ。

彼方此方で哀しみの涙と嗚咽が満ち溢れてゐるやうに

この風情は荘厳なのだ。

 

ほら、また泣き出しちまった。

何がそんなに哀しいのかな。

 

初秋の憂鬱

 

初秋の風がゆるりと吹くと、

おれはどうしよもなく憂鬱になる。

朝日が登る様をぢっと凝視しながら、

まんじりともせずに眠れなかった夜明けに、

ぐったりと疲れ、

ひねもす疲労困憊なのだ。

 

そんなおれは

そんなことはお構ひなしに

日常をようやっと生きてゐる。

 

しかし、それでいいのだ。

疲れない日などある筈もなく、

疲労困憊してゐる中にも

光明はあり、

いや、暗中はあり、

其処へと飛び込む快楽は、

疲労してゐなければ

ちっとも味はへない。

 

唯、あったのは日常で、

それを発見できただけでも儲けものなのだ。

 

草臥れちまった中でも生きる喜びはちっとはあって、

宵闇が迫り来る頃、

おれは目覚めたかのように、多少は元気になり、

夜の帳に少しは癒やしを覚え、

真っ暗な部屋の中で、

唯、座ってゐるだけの至福の時間を味はふ。

草臥れているだけに闇がどれほど癒やしになるのか

ひねもす疲労困憊のものならば解る筈で、

奈落に落ちる快楽は已められぬ。

 

さう、草臥れちまった意識が奈落に落ちる快楽は、

ニュートンの林檎の如くには

普遍の定理には未だなってゐないが、

きっとひねもす草臥れたものが、

その普遍性を見出すかも知れず、

初秋の憂鬱はきっと普遍なものに違ひなく、

おれは、その普遍の中で闇を凝視することで、

その普遍の何かを見出したいだけなのかも知れぬ。

 

しかし、闇はなんと意識を落ち着かせるのか。

疲労困憊の軀体を引き摺りながらも

おれは、闇の中で独り恬然としてゐる。

それが闇に対する礼儀なのだ。

 

土壺に嵌まる

 

こんなところに土壺が口を開けてゐたなんてちっとも思はなかったが、

しかし、本心ではそれを期待してゐた己の浅はかさに自嘲するのである。

しかし、外部へちっとも視線が行かぬおれの欠点は、

中原中也のやうな詩を書けなくさせてゐるのはよく解ってゐたが、

その状況からの脱出を、所詮おれはちっとも望んでなんかゐないのだ。

 

宵闇の中、ぽつねんと立ちながら、皓皓と輝く十六夜の月を眺めつつ、

そこに映る己の幻影におれはブレイクの聖霊を幻視するのであったが、

それもまた、猿真似でしかなく、魑魅魍魎は聖霊の振りをしておれを拿捕する。

 

――嗚呼、これが土壺の中か。

 

そこは全てが直ぐ様その姿を変容させる一見異様な世界に見えるのであったが、

しかし、それは私の想像を超えるものではなかった。

何ものも姿を固定することができぬ諸行無常の世は

ごくごく普通で、何ら摩訶不思議な世界ではなく、

その最たるものがおれの頭蓋内の闇の世界であり、

其処では一時も変容しないものは既に死を意味し、

即ち、変容することが此の世の常態なのだ。

 

ゆるりと頬を撫でながら薄ら寒い微風がおれを覚醒させるのか。

外界の変容次第で、それに対する反応がおれの本質を浮き彫りにさせると思ひたくて、

おれは外出したのだが、

しかし、それは感性に己の存在の論理を委ねることでしかなく、

それはしかし、先人が既に何度も試みてゐて、おれの出る幕はもうないのだ。

 

だからといって、論理が感性を超えることはなく、

つまり、論理が感性を超えると思ってゐる馬鹿ものは、

死ぬまで此の世のからくりが解らぬに違ひなく、

存在は外部に「触れること」でしか、外部の認識なんてできっこなく、

それは翻って己の認識もできぬといふことなのだ。

 

初秋の宵闇は私を包み込みながら、

十六夜の月は頭上で輝く。

それは戛戛(かつかつ)と聖霊の跫音を響かせる空間と化し

陳腐な切なさをおれに齎す。

 

しかし、それを陳腐と考へるおれの自惚れはいい加減、凹ませられるべきもので、

切なさは初秋の微風の如く儚いものであることに大きな意味が隠されてゐて、

それはもしかすると認識の鍵を握っているものかも知れず、

嗚呼、そんなことは無関係の如くに微風はゆるりと吹くのだ。

 

さうして、魑魅魍魎か聖霊か解らぬものたちが異形の顔貌をして

おれを凝視する。

その目と目が合ったときの刹那に

きっと存在の秘密が隠れてゐるのだらうが、

おれには未だにそれが解らぬのだ。

 

さて、この土壺から這い出るか。

もう、己を信じちゃやっていけぬのだ。

積 緋露雪

物書き。

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