夢が特異点の存在を暗示する

霞を喰ってでも

 

到頭、金が底を尽き、

後、一月の間、飲まず食はずの生活を強ひられるが、

それでもおれは楽観的だ。

所詮、生活のことなど取るに足りぬ問題でしかなく、

そんな窮乏の状態にあっても俺は、

尚も問はざるを得ぬのだ。

その周りをぐるぐる回って

Waltz(ワルツ)を踊るやうに

どうも優雅な気分でゐる。

――いいか、よく聞け、其のものよ! おれはお前の尻尾は摑んだが、それでも俺はお前に問ふ! 其は何ものぞ!

そいつは不敵な嗤ひを残して姿を消した。

俺は霞を喰らってでもと言ふ思ひで、ぢっと待った。

途中、幻覚にも襲はれながらも、

ぢっとそいつが俺の息の根を止めに

再び姿を現はすのを待った。

案の定、そいつはおれがふらふらとなって

幽霊の如く彷徨ふ時を見計らって

ぎらりと光る大鎌を手にして現はれた。

その姿はCronus(クロノス)のやうでもあり、

死神のやうでもあったが、

そんなことなどどうでもよく、

唯、そいつはすっかりと窶れ弱った俺の首を刎ねるべく、

現はれたのだ。

――へっ、 望むところだ!

と見栄を張る俺ではあるが、

無防備に素手でそいつに対しても

こてんぱんにやられ負けるて首を刎ねられるのは解り切った話で、

さうならぬためには俺がそいつの首を刎ねるのみなのであるが、

果たせる哉、おれにはもうそんな力は残ってをらず、

――ええい、ままよ! どうにでもなれ!

と腹を括ったのであるが、

それがそいつの気を害したのか、

そいつはあかんべえをして

再び、おれの前から姿を消してしまった。

どうやら、まだ、おれは死ねぬやうだ。

 

生きる

 

仮令、天使を鏖(みなごろし)にしても

それが生きる正しい道ならば

迷はずそれを実行し、

何としても生きるのだ。

手を穢すことを厭はず

何食はぬ顔をして

平然と天使を鏖にし、

ホモ・サピエンスならばホモ・サピエンスらしく

大地に屹立し、

不敵な嗤ひをその浅黒い顔に浮かべて生きるのだ。

生温い幻想に縋り付くことは禁忌で、

神と刺し違へることでしか生き延びられぬのであれば、

迷はず神を殺し、

それでも尚、生を選ぶのが人類に課された宿命なのだ。

とはいへ、神がその御姿を隠して久しいが、

神はそれでも生きてゐて、

最後の最後に何時もへまをやらかす人類を嗤ってゐる。

さうして神に対するRessentiment(ルサンチマン)が昂じて人は人を殺す。

さうやって身を滅ぼすことにCatharsis(カタルシス)を感じる哀しい人は、

大概、自殺願望を抱いてゐて

無差別に人を殺しては、

自らの欲を満たして、

社会的な抹殺に身を委ねることで、

神を殺す疑似体験をしては悦に入る。

しかし、それは神に対する全的な敗北を意味し、

神は腹を抱へて嗤ってゐるの過ぎぬ。

さうしてへまばかりやらかす人類に

神は尚も神殺しを命じ、

それでゐて神は人殺しを暗に奨励してゐるに過ぎぬのだ。

殺人を犯したものは、神の詭計にまんまと嵌められ、

神殺しと自殺の両方を成し遂げたと大いなる勘違ひして、

邪なRessentimentのCatharsisを恍惚の態で味はひ、

その罪として無残な自死を甘受するのだ。

さうして、人類は何時も神の気紛れに翻弄されながら、

虫けらの如く殺されることで、神の人類に対するRessentimentを晴らしてゐる。

 

「自分らしく」に潜む欺瞞性

 

「個性、個性」と叫ばれて喧しいが、

個性なんぞが人間にある筈がない。

人間が、例へば犬になるのであれば、それは個性であるが、

しかし、人間が人間である以上、其処に個性なんぞある筈はない。

つまり、「個性」と言はれてゐものは欺瞞でしかなく、

それは「個性的であれ」と叫んでゐる人間の

如何に没個性的であるかを見れば明らかだ。

ここで、Fashionと言挙げするものがゐるかも知れぬが、

其処に個性を見てしまふから個性は欺瞞なのだ。

Fashionに対して「個性的」といふものほど没個性的な人間で、

其処に才能を見るのであれば、Fashion leaderと言はれるものは、

己が如何に没個性的であるのか知ってゐるものなのだ。

それ故に「個性的であれ」と叫んでゐるもの程、

どれ程、没個性的であるのか、知ってゐなければ、

「個性」と言ふ言葉に踊らせて、

「自分らしく」といきり立って、更に没個性の土壺に嵌まるのだ。

個性的なものは、もともと個性なんぞにこだはってをらず、

さういふものは、端倪すべからずものなのだ。

それでは聞くが、存在にそもそもと個性があるかい?

存在を思索すればする程、其処には最早個性などなく、

人間存在は没個性で、其処に個性を持ち込むと、

そもそも存在論は複雑怪奇なものになざるを得ぬのだ。

それでも尚、「個性」を強調したいのであれば、

それは人間を已めればいいことに過ぎぬ。

人が「個性」と呼んでゐるものは、所詮、《他》との微妙な微妙な差異でしかなく、

そんな差異で自己満足してゐる輩は、

とてもぢゃないが、個性から一番遠い処に存在するものだ。

人が「個性」と口にする度にそれを疑へ。

個性的な人間程、没個性の象徴でしかなく、

其処に仮に個性を見出せても、

それは《他》とのほんの僅かな「ずれ」でしかなく、

そんな差異を競ふことの虚しさは当の本人が一番よく知ってゐる。

若人よ、「個性」なんぞの言葉に脅されること勿れ。

「個性」とは極論すれば、五十代以降に自づから醸し出るもので、

若人にそんな器量がある筈がないのだ。

存在論的に見て個性ほど不確かなものはなく、

如何に自己との対話に沈潜してきたか、

これのみが三十代以降の生の濃淡を決定する。

それは簡単に答へは見つからぬが、

人生とはいづれも回答不可能なことばかりで、

その鬩ぎ合ひの中にこそ個性は表はれ、

さうして壮年に達するとその人の深浅がはっきりと解り、

それ故に、濃密で深みのある存在になるべく、人は須く没個性的であれ、と言ひたい。

 

水底で揺るてゐるやうな

 

ぐにゃりと奇妙に歪んだ太陽を仰向けで眺めながら、

その柔らかい陽射しに揺らめく炎を眺めてゐるやうな

何となく慈しみに満ちた雰囲気に抱かれたおれは、

溺死した死体に過ぎぬ。

然し乍ら、閉ぢられることなく見開かれたままの眼は、

ぼんやりと水底からの景色を眺めてゐて、

意識は、いや、念は、おれのところにおれとして留まってゐたのか、

念のみは溺死したおれの骸に宿ってゐた。

星が最期を迎へる時に、

大爆発するやうに

念が大爆発を迎へる束の間の静けさに、

おれはあったのだらう。

おれが沈んでゐた水底はとても閑かで、

水流の揺れに従っておれはぶら~ん、ぶら~ん、と揺れてゐたが、

おれはそれがとても気持ちよく、

念はそれにとても気をよくして笑ってゐた。

さあ、爆発の時だ。

それは凄まじいもので

一瞬にして《一》が《無限》へと変化する

その威力はおれの気を一時遠くにしたが、

直ぐにおれはおれへと収束し、また、発散するのだ。

おれはその両様を辛うじておれ一点で成り立たせ、

おれは無限に広がったおれを何となく感じ

念はそれでも消えることなく、

おれの亡骸をある宿主として

おれは一瞬にして此の宇宙全体を眼下に眺めては、

おれの眼から見える水底からの風景をも眺め、

もう苦悶は何処かへ霧散したのである。

おれの念は時折、誰かと共振し、

おれはその誰かと束の間、話をしては、

他の誰かとまた共振するといふことを繰り返しては、

無限といふものの不思議を味はってゐた。

おれはそれが白昼夢に過ぎぬこととは知りつつも、

おれは《一》と《無限》の収束と発散の両様が、

同時に成り立つ奇妙な世界が存在することを

その時初めて知ったのである。

 

 

それでも壁を叩く

 

眼前に立ち塞がる巨大な巨大な壁を前にして

おれはそれが無駄な足掻きに過ぎぬと知りながら、

どうあっても素手で叩いてぶち破る妄想のみ抱き

狂気の人と化して蜿蜒と叩き続ける。

壁といふものは誰にも存在するものだらうが、

おれはそれを上手に乗り越えてしまふ世渡り上手になるのは断固拒否し、

おれは何十年もその巨大な巨大な壁を素手で叩き続ける。

根っから生きるのが下手くそなおれは、

下手は下手なりに藻掻き苦しみ、

その巨大な巨大な壁を目の前にして

乗り越える術が全く解らぬまま、

どうして皆は壁が乗り越えられるのか不思議に思ひながら、

膂力が足りぬのか、

眼前の巨大な巨大な壁に攀ぢ登るその端緒が見つからず、

唯唯叩き続けるしかなかったのだ。

それは正しく狂気の沙汰でしかないのであるが、

どうあっても乗り越えられぬ壁が厳然と存在する以上、

おれはその巨大な巨大な壁を素手で叩き続けるしかないのだ。

既に血塗れになった両の手は、

紫色に変色してゐて、

パンパンに腫れ上がってゐるが、

その強烈な痛みをぐっと呑み込み、

おれは狂ったやうに巨大な巨大な壁を叩き続けるしか術がない。

さうすることで何か得ることがあれば、

もっけの幸いと腹を括って、

今日も相も変はらず巨大な巨大な壁を叩き続ける。

さうするしか物事を知らぬ愚鈍なおれは、

何十年も叩き続けても窪みすら出来ぬその巨大な巨大な壁を前にして、

途方に暮れはするのであるが、

然し乍ら、時が来れば乗り越えられるといふ淡い期待は疾に消えた今、

もしかするとおれの人生は

この巨大な巨大な壁を叩き続けることなのではないかと思ひながら、

今日も狂人と化して巨大な巨大な壁を叩き続ける。

 

 

誰でもよかった

 

――誰でもよかった。

また、自殺願望者が無差別殺戮を理不尽にも断行した。己の手で自死出来ぬその未練たらたらな生への執着が無差別殺戮の凶行へと駆り立てたのであるが、そのやうに彼を駆り立てた本当の正体は、己に対する憤怒である。本来、暴力は徹頭徹尾内部へ向かふものである。また、さうでなければならないのであるが、自己鍛錬を怠ってきた輩は、憤怒に対する自己耐性が羸弱で、徹頭徹尾内部に向かふべき暴力が、マグマ溜まりが直ぐさま膨脹して噴火する如くに、簡単に外部に対しての凶行に及ぶのである。殺戮はそもそも内部の専売特許で、《吾》は何度《吾》によって殺戮されたか数知れぬのであるが、無差別殺戮の凶行に及ぶ自殺願望者は《吾》殺しを多分一度も行ったことがない意気地無しに違ひないのである。

暴力は、例へば地殻内部のマントルの如きものなのである。それは徹頭徹尾内部で完結し、とはいへ、マントルはマグマの温床でもあるのであるが、マグマは時に荒ぶる神の如くに破壊と焼尽を齎す。しかし、マグマは一方で温泉など恵みを齎すもので、平時、マグマは恵の源泉なのである。そのマグマの産みの親でもあるマントルは、地震といふ途轍もない災害を齎しはするが、しかし、多くの時間は、マントルは地殻内部で完結してゐるものなのである。それが暴力といふものであり、暴力は内部の《吾》殺しを何度も行ひ、内部には死屍累累の《吾》の骸が堆く積まれてゐなければ、その輩は己の存在に対して凝視するといふ生きる上で最も重要なことから目を背け、逃げ回ってゐたのである。それが何を齎すかは火を見るよりも明らかであらうが、さうした輩は一度も《吾》殺しを行ってゐないから、一度追ひ込まれると内部がマントルに成り得てゐない為に、精精マグマ溜まり程度でしかない故に自死すら出来ぬそれらの輩は、もどかしい《吾》の憤怒を制御することを端から已めて、憤怒の赴くままに《他》を殺戮することで死刑といふ《他》の手を借りて己を殺して貰へるといふ「甘え」の構造が其処にはあるのである。そんな甘ったれだから最後の最後に追ひ込まれたときに、一度も《吾》殺しに手を染めてゐないので、《吾》を殺すのではなく、無差別殺戮が行へてしまふといふ幼稚さしかないのである。つまり、無差別殺戮を行ふ輩は社会に「甘え」てゐるのである。

それで殺されたものは浮かぶに浮かばれない。この理不尽は克服すべきもの、或ひは乗り越えるものであってはならず、未来永劫、殺されたものの魂は成仏できずに此の世を彷徨ってゐると看做して、残念なことであるが、全身全霊を込めて供養するしか殺されたものを救ふ術はないのである。

 

 

誰の為にぞ

 

さうまでしておれ自身を追ひ詰めるのは誰の為にぞ、と問ふたところで、

その愚問に答へる馬鹿らしさに苦笑ひするおれは、

所詮立つ瀬がないのだ。

恥辱に塗れてやうやっと息が継げるおれは

何ものか解らぬ幻影をぶん殴ることで、

おれといふ馬鹿げた存在にさっさと見切りをつけて

逃げ出したいだけに過ぎぬのだ。

しかし、そもそも逃げて何になるのか。

かう問ふおれがゐて

おれは辛うじておれとして踏ん張る。

おれがおれとしてあるといふことが、

これ程苦悶に満ちてゐることであることは、

多分、それは《他》においても同じことで、

存在に苦悶が付随するのは

それではそれは普遍のことと言へるのか。

おれがおれといふ存在に我慢がならぬのは、

唯、おれがおれ以外の何かに変容するべく

その自由を欣求して、

のたうち回ってゐるに過ぎぬのであるが、

それは誰の為にぞ、といふ愚問をおれに突き付ければ、

その問ひによって自刃したいおれがゐて、

そんなおれと刺し違ひたいおれは、

さうすることでしか自由が獲得できぬとふことを

多分、本能的に、つまり、ア・プリオリに認識してゐるのだ。

これはおれが成長するといふこととは全く種類の違ふことで、

唯唯、おれが此の世に存在することに我慢がならぬのだ。

さうしておれは何度もおれを抹殺しては、

おれは薄氷の自由を獲得する。

自由を獲得するにはどうあってもおれを抹殺せずば、

雁字搦めのおれに囚われたおれは、

窒息して死を待つのみのおれは受け容れ難く、

坐して死を待つのではなく、

おれの闇の中で抹殺されるおれは、

蜂の一刺しとして

おれに対しておれが嘗て存在してゐたといふ痕跡を残すべく、

おれはおれと刺し違ひ、

――へっへっ。

と嗤って闇に葬られたいのだ。

 

 

ゆるして

 

――ゆるして。

かう書き残して虐待死した幼児の

その小さな小さな小さな胸に去来したものを

果たして抱へられ得る現存在がどれ程ゐるのか不明ではあるが、

唯、死を以てしてもその願ひは叶ふことなく、

決して赦されることがなかった其の幼児の思ひは、

《他》を殺すのにドストエフスキイではないが、

芸術的な才能を発揮する人間の心に対して

何かしらの楔は打ち付けることは出来たのであらうか。

いやいや、それで人が人に成り得たら勿論それに越したことはないが、

人は人を殺す時に一番の才能を発揮する愚か者故に

人は《他》をじわじわと痛めつけて

ゆっくりとゆっくりと死へ追ひやるその残酷さは、

人が人である以上、直る筈もなく、

更に人は《他》を殺すことにおいてその残酷さに磨きをかけて

芸術の域に達する程に高めなければ決して満足せず、

尚のこと、人は《他》を嬲り殺すのに手練手管を尽くして

死の好事家たる人間は、それでも

――ゆるして。

と書き残して死に追ひやられた幼児の思ひを

少しでも軽くしようと祈るのであるが、

それが全く幼児の思ひと不釣り合ひなことは絶望的に明白で、

死しても尚、決して赦されなかった幼児の思ひは、

まるで白色矮星の如く途轍もない重さを持って

此の世に未来永劫縛り付けられ、

浄土へ向かふ気力すら剥ぎ取られて、

只管、その場に留まって赦されるのを唯唯、待ってゐるのだ。

その幼児の思ひを直接的に受け止めるには

自らBlack holeに飛び込み、

Black holeのとんでもない重さを抱へ込むに等しい振舞ひしかなく、

自ら四肢を引き裂かれる痛みを知ることでしか

死を以てしても赦されなかった幼児の絶望は知る由もない。

だからといって死した幼児に対して涙を流したところで、

それは幼児に対して何にもならず、

それは涙を流す本人がその無力を嫌といふ程に知ってゐるのであるが、

その幼児は今も尚、赦されることのみを欲して泣いてゐるのだ。

其の思ひを解きほぐせる存在には、果たして神のみなのか。

それこそ不合理といふものであり、

死しても赦されなかった幼児の

唯唯、その小さな小さな小さな胸に去来する思ひで、

果たして此の世の森羅万象を赦す時は来るのであらうか。

 

 

衰滅する時の断末魔の醜悪さ

 

衰滅するものは、

それだけで背筋をピンと伸ばし、

最期に黙礼をして此の世から去るのが筋といふものだ。

それを怠って最期に断末魔を発するのは、論外である。

衰滅する時、それが如何に無念で苦悶に満ちてゐようが、

衰滅するのは此の世の摂理であって、

何ものもこの期に及んで、それを避けようもなく、

況して自然こそ衰滅する最たるものである。

自然が衰滅するその時、決して断末魔を発することはなく、

自然は衰滅を全的に受け容れ、

衰滅の時、静寂か渾沌か解らぬが、しかし、その中でその最期を迎へるのは必然であり、

それはまた、太陽系の衰滅に際しても同じことが言へるのである。

そんな自然の振舞ひに倣って、

此の世の森羅万象が衰滅する時、

何かにならうとしたけれども何にも変化出来なかったといふ無念に苛まれるが、

それでも此の世の森羅万象は衰滅する時、

折り目正しく黙礼をし、

此の世から去るのが最も自然な振舞ひで

其処で最期の悪足掻きとして断末魔を発する愚行を犯すものは、

仮令、衰滅する恐怖に対して正座をし、

黙礼する準備が出来てなかったとしても

心の底から湧出する断末魔を何としても呑み込んで

四肢が引き裂かれようと

全く無言で衰滅して行くのが最低の礼節といふものである。

それが出来ぬやうであれば、

その存在はそれだけの価値しかないものとして

自ら腹を括って嗤ひのめす度量があってしかるべきで、

衰滅するとは存在の価値を決定する

最初で最後の機会であり、

その時、断末魔を発してしまふものは、

それが如何に破廉恥なことか、へっ、醜悪なことか知るべきで、

それすら自覚がないとすれば、

もう開いた口が塞がらず、

唯、軽蔑の対象にしかならぬ存在であるとの自己表明であると

覚悟だけはしておくべきなのだ。

 

 

孤独を嗜む

 

でっち上げた虚構といふ過酷な世界に《吾》を放り込んで、

あれやこれやと《吾》をいびりながら、

《吾》が不図漏らす呻き声に耳を傾ける時、

俺はブライアン・イーノの音楽を流すのが流儀で、

ざまあ見ろ、と《吾》にあっかんべえをして、憂さを晴らしてゐると言ふのか。

しかし、さうせねば、一時も一息すらつけぬおれは、

多分、《吾》に甘えてゐるに違ひない。

何とも難儀な気質なのであるが、

おれは《吾》をいびらずしてはゐられぬ。

さうせずば、安堵出来ぬおれの正体は、

Sadisticな顔をした《吾》虐めに長けただけの

寂しい男に過ぎぬ。

然し乍ら、おれの悪癖は歯止めが効かぬ処。

おれはこれまで何人もの《吾》を虐め殺してゐて、

それはおれによる私刑でしかないのであるが、

その時の恍惚は得も言へぬもので、

おれは《吾》殺しが已められぬのだ。

アルコール中毒患者のやうに震へる手で、

おれは《吾》を殺す快楽に溺れ、

その血腥い手が放つ臭ひに陶然とし、

さうして酔っ払ふのだ。

吸血鬼の如く更なる《吾》の血を求めて

おれは、おれの内部に《吾》が産み落とされる度に《吾》を殺す。

その手捌きは芸術的に美麗なもので、

《吾》を次第に断崖へと追ひ詰める時間の充実ぶりは、

孤独を嗜む上で必要不可欠のものと言へる。

嗚呼、俺の内部に死屍累累と堆く積まれた《吾》の亡骸共よ。

何時までも何時までもそのどす黒い血を流し続けてくれ給へ。

その血を呷ることでしか生を繋げぬおれは、

哀しい生き物に過ぎぬ。

孤独を嗜むには、

さうやって《吾》を私刑し、いびり殺しては

その血を呷る覚悟が必要なのだ。

それが出来ぬのであれば、

孤独などに関はらぬことに限る。

 

 

穴凹

 

黄泉の国が出自のものたちがゆらゆらと揺れてゐる。

彼らは既に自分の居場所を見失ってゐて、

行燈の如く淡く光を放ちながら、

己の肉体を出たり入ったりを繰り返し、

さうして黄泉の国に流れてゐる時間を計ってゐる。

その計測はすこぶる正確で、殿上人も思はず舌打ちしながら、

――う~ん。

と唸り声を上げ、

彼らのその振り子運動を両手を挙げて賞賛するのであるが、

さて、そんな中、おれはいふと、

生きてゐるのやら死んでゐるのやら覚束なく、

おれもまた、その足は薄ぼんやりと発光させながら

最期は闇の中へと消えゆく運命が近付きつつあるのを、

わくわくしながらおれが闇に完全に呑み込まれる姿を想像しては、

――これで無限へと昇華出来る。

と、歓喜に打ち震へてゐるのである。

然し乍ら、黄泉の国が出自のものたちとおれの差異は、

月と太陽程の違ひがあると思ひたいが、

実際のところ、それはどんぐりの背比べでしかなく、

生者と雖も常時片足を棺桶に突っ込んでゐて、

また、さうでなければ生そのものが成り立たない。

ならば、自分の居場所を見失ったものたちをせせら笑へるお前は、

果たして出自が黄泉の国とはっきりと否定出来るのか。

此の世といふものは圧倒的に死者の数が多く、

生者は圧倒的少数派に過ぎぬのであるが、

さうであるにもかかはらず、生者は此の世を我が物顔で闊歩してゐる。

その傲慢さが鼻につき、

既に死臭を放ってゐるのにも気付かずに、

生者は不意に死ぬのが関の山。

何処を見回しても死者ばかりの此の世の有様に、

全く驚かない生者の滑稽な事よ。

有限と不連続に、然し乍ら、その隣に無限が存在するように、

生者と不連続に、然し乍ら、その隣には死の深淵の穴凹ばかりが存在する。

生者は何時その穴凹に落ちるとも知らずに、

――はっはっはっはっ。

と、哄笑する生者の無邪気な様は、

喜劇といふよりも、もう悲劇でしかない。

 

 

あの日のやうに

 

もんどり打って奈落の底に落ちるやうに

一歩歩く毎に腰が砕けるこの感覚は、

最早一生消えることはないでせう。

それは額に捺された焼印の如く

罪人の徴として重く私にのし掛かるのです。

もうあの日のやうに

私は無邪気に自然と戯れることは赦されないのです。

どうしてこんなことになったのか

思ひ当たる節はなくはないのですが、

年を重ねるといふことは

罪人の如く苦悩を抱へ込むことに等しいと、

漸くこの年になって気付いた次第です。

さうしてこの拷問の如き酷暑は

私にはちょうどよい贖罪の機会となってゐるのです。

基督教における煉獄の如く、

または灼熱地獄に堕ちて魂が癒やされる罪人の如く

この酷暑は私には慰みなのです。

じっとりと汗をかきながら

只管、酷暑の中で端座する私は、

すっかりと苦悶から解放されぬとはいへ、

生きてゐること自体に対する負い目を軽減してくれるのです。

この生きること自体に対する負い目は、

額に捺された焼印の如く

もう一生私から消えることはなく、

一生を通して償ふしかないのです。

存在自体に猜疑を抱いてしまったあの日、

私は最早無邪気ではゐられず、

罪人の一人として生きる覚悟をしたのです。

然し乍ら、私に巣くふ苦悶の深さは、

何度私を自死へと駆り立てたでせう。

生きることが罪深いことを知ってしまったあの日、

私は私の肉体を虐め尽くして、

死ぬことばかりを渇仰してゐたのです。

ところが、運良く私は生き延びられて、

今日この日を迎へられたのです。

 

 

退隠

 

現はれては直ぐにその姿を消し、

闇に退隠する表象群に対して

さて、困ったことにおれは、

一体おれ自身と表象群のどちらが、

闇に退隠してゐるのか最早解らぬのだ。

趨暗性なおれは絶えず闇の中に身を隠し、

さうしなければ一時も心安らぐ時などないおれは、

外部を眺望する時は

ひょこっと闇から魂魄の首のみを出して

外界を一瞥しては

一瞬にして闇の中に魂魄の首を引っ込めるのであるから、

再現前する表象群が果たして闇中から現はれるのか、

それともおれが闇中からひょこっと魂魄の首を出した時に

おれが表象群に対して再現前してゐるのか最早区別がつかぬのだ。

ならばおれが闇中にゐる時に眼前に再現前するのを待てば済む話ではないかと

思はれるところであるが、

年がら年中びくついてゐるおれは、

ひょいっと魂魄の首を闇中から出したと思ったら引っ込めるのである。

しかし、闇中に心安らぐのもほんの一時のことで、

再びひょいっと魂魄の首を闇中から出しては

外界を眺望するのだ。

では、おれが身を隠してゐる闇は何の闇かといへば、

それは瞼が作る薄っぺらな影といふ闇でしかなく、

其処におれは全身全霊を以てして隠れるのであるが、

頭隠して尻隠さずではないが、

瞼の影におれが全て隠れるのは窮屈で、

無惨なことにおれの肉体はさうであっても野晒しのままなのである。

また、おれは瞼をぢっと閉ぢてゐられる程に達観してをらず、

おれは瞼を直ぐに開けてしまっては、

外界が何時ものやうにあることを確認しては、

瞼を閉ぢるのであるが、

せっかちな性分のおれは、瞼裡に表象群が再現前する暇もなく

パッと瞼を見開いてしまふのである。

それはそもそも私に巣くふ不安の為せる業なのであるが、

取り分け不安症のおれは、瞼をぢっと閉ぢることが苦手で、

趨暗性と言ひながらも闇が怖いと見えて、

おれはそこでも矛盾してゐるのである。

そして、矛盾してゐることからおれがおれであるとなんとか言ひ切れてゐるのが

何ともさもしいおれといふ存在なのである。

さうして瞼裡に退隠したおれは、

ぢっと蹲ったまま、身動ぎもせずに「もの」について思索を続けるのである。

 

 

開眼(かいがん)

 

生殖器たる花のやうに此の宇宙が開眼してゐるとすれば、

おれは此の身の恥辱に堪へられるであらうか。

直截に言へば存在することは恥辱以外の何ものでもない。

何故ならどう足掻いたところでおれは不完全な存在であり、

不完全なおれは開眼してゐる宇宙にその身を晒すことは、

宇宙に対する憎悪が増すばかりで、

宇宙に抱かれてゐるといった甘っちょろい感傷には浸れないのである。

おれは、不完全なおれは、づきづきと痛む頭を天へと向けて擡げては

きっと睨んで天へと唾を吐くのだ。

その唾がおれの顔にべちゃっとかかった時に

おれは或る種のCatharsis(カタルシス)を覚え、

おれの駄目さ加減を嗤ひ飛ばす。

しかし、その時にこそ幽かな幽かな幽かな希望があるといふもので、

おれは顔にかかった唾を手で拭い取り

再び天に唾を吐くのだ。

結果は見るも無惨に全く同じで、

この一見して全く無意味なことを何度も何度も繰り返す。

それを見てゐた宇宙が仮におれを見て嗤へばしめたもので、

おれがおれの存在に対して抱いてゐるRessentiment(ルサンチマン)も

少しは和らぐ筈で、

また、開眼した宇宙を顚覆する無謀な試みをも

成し遂げる糸口を其処に見出せる筈で、

――くすっ。

とでも、宇宙が嗤へば、

おれはその隙を狙って宇宙の心の臓を刺すことも可能なのだ。

とはいへ、おれには未だに宇宙の心の臓が何処にあるのかも知らず、

唯、おれのやうな存在を生み出した宇宙の不幸を終はらせるためにも

此の宇宙は死滅することが何よりもの幸ひなことで、

さうすれば、此の不完全なおれも

何か別のものへと変貌出来るのではないかと

一縷の望みを繋いで恥を晒して生きてゐるのだ。

 

常在、灼熱地獄

 

いよいよ現世が灼熱地獄の様相を呈してきた。

この酷暑は現世を生きる人人が罪を犯してゐるといふ証左であり、

地球の気候変動は、現世の人人に対する地獄の責め苦の一つである。

これから夏は更に暑く、冬は更に寒くなり、

特に夏の尋常でない気温上昇は、地獄の、灼熱地獄の現世化に外ならず

それだけ現世を生きる人人の罪は深い。

自業自得といへば、それはさうなのだが、

地球の尋常じゃない気温上昇は

――お前は罪人だ!

と、各人の己の罪深さを誰もが解るやうに直截に突き付けてゐる。

つまり、生きることが既に罪になってしまったのだ。

これを地獄と呼ばずして何を地獄と呼ぶのだ。

冷房に涼んで酷暑を回避してゐるものは、

これから訪れる更なる酷暑に冷房など何の役にも立たなくなった時に

どうするつもりなのか。

直に冷房が役立たずの時代がやってくる。その時、

――お前は生きてゐられるのか?

と閻魔大王は嗤ってら。

この酷暑に身を晒し、

其処で生死を賭ける危険な生を選ばずして

将来、どうして生きてゐられるといふのか。

灼熱地獄は確実に現世に越境してきてゐて、

現世を生きる人人は、全て罪人といふことを自覚させる為に

地球は更に急激な気温上昇をし、

灼熱地獄の責め苦に生きながら見舞はれ、

この地獄の中で、当然、死者は続出し、

然し乍ら、地獄で死んだものは、やはり地獄に堕ちるに違ひない。

地獄の責め苦を直截受け止めなくして

罪人は救はれぬ。

そのことで死者が続出しようとも

地獄の責め苦をまともに受けねば、

罪人は未来永劫救はれぬのだ。

 

 

逆巻く憤怒

 

何故、こんなにもおれは、おれに対してどうしようもない憤怒が湧き上がるのだらう。

この憤怒はおれが此の世に存在する以上、消えることはないのか。

それ以前に、おれは何に憤怒していると言ふのか。

それすらも解らぬままに、おれはおれに対してあらぬ嫌疑をかけながら憤怒してゐる。

唯、解るのは、おれといふ存在が決して許せぬおれは、

それだけでも頭に血が上り、おれに対して理不尽にも途轍もなく憤怒するのだ。

短気は損気とはいふが、この憤怒だけは湧き立つのを止められぬ。

それは、多分に近親憎悪に似てゐて、その闇は途轍もなく深いに違ひない。

余りにおれに似てゐるが故におれはおれが嫌ひなのだ。

これは特段に驚くべきことでもないが、

おれの執拗さが異常なのだ。

 

何処までもおれはおれを追ひ詰めなければ気が済まぬ。

さうしてやっとのことおれはおれの均整を保ってゐるのだ。

心の均整といふものを。

此の世に独りで佇立することを選んだおれは、

どうしようもない憂鬱を抱えながら、

只管におれを追ひ詰めながら、

溜飲を下げてゐるだけなのかも知れぬが、

そんなことでもしなければ、

おれはおれが此の世に存在することを断じて許せぬ。

何故、断じて許せぬのかは、本当のところ判然とはせぬが、

唯、言へることは、おれがおれであることがどうしても受け容れられるのだ。

 

世界を見渡せば、ぶつぶつと囁いてゐる存在達の不平不満の声が聞こえるだらう。

其処の物陰でひっそりと存在する名も知れぬ草花たちの不平といったら、

聴くに堪へぬもので、その罵詈雑言といったら目も当てられぬ。

また、重力が発してゐるのか、

この苦悶に満ちた呻き声のやうなやるせない呟きは、

何をも引っ張り込んでしまふ宿命を受け容れられずに、

重力ならではの在り方に疑念を抱く重力は、

然し乍ら、重力の宿命に少しでも憩ふ

此の世の存在達の在り方に途轍もない絶望を見てゐる筈だ。

 

其処に石ころも己の存在に恥ぢてゐるに違ひない。

先づ、何故に己は石ころなのか堪へられぬ筈なのだ。

それで其処の石ころは、石ころであることをぢっと堪へるしかない。

さうしながらも石ころは何かに変はるべく、ぢっと念じてゐる。

己が変はるのに何万年かからうが、

其処の石ころでさへ、重力の宿命の中、己の存在に憤怒してゐるに違ひない。

 

それ故に、おれがおれに対して憤怒しないといふことは

そもそもあり得ぬことなのかも知れぬ。

ならば、おれはこのおれの逆巻く憤怒を持ち続け、

おれもまた、何ものかに変化する夢想を念じながら、

憤怒を力にこの重力に縛られた存在を我慢し、

おれは此の世で一番嫌ひなおれを宥め賺しながら

この存在をぢっと堪へるしかないやうだ。

 

それでいいぢゃないか。

と、思へるまでにはまだまだおれの心の鍛錬は不足してゐるが、

しかし、この世の中で一番憎いおれに対してのおれの在り方は、

唯、端座してゐればいいのかも知れぬ。

 

 

風に棚引く柳の枝のやうに

 

何処からでも吹き込んでくる風に対して自在に振る舞ふその柳の枝の柔軟さが、

どうやらおれには決定的に欠落してゐる。

風と戯れながらも自然と遣り過ごしてしまふ柳の枝に感心しきりのおれは

己は羸弱でか細いながらも大木の如くに

此の世に屹立することが

己の存在を証明する唯一の方法と長らく思ひ込んでゐたが、

どうやらそれは大いなる誤謬で、

揺られることに快楽を見出さずば、

此の世で生きるなんてたまったもんぢゃなく、

不運極まりない逆風をまともに食らって

おれは己自身を此の世の襤褸雑巾同様の何かに見立てて、

己を鬱状態の中で、

その傷を嘗めながら此の世を憤怒で恨み通すに違ひなく、

それの何と理不尽なことよ。

それでは此の世に全くおれは顔向けが出来ぬではないか。

己ばかりが可愛くて、

此の世に恨みしか抱けぬ途轍もなく狭量なおれといふ存在は、

柳の枝の如くに何もかも戯れながら遣り過ごす境地に絶対に至らぬであらう。

逆風にまともにぶち当たっても、

それを振り払へるだけの器量がおれにあれば、

また、事は違ふのであらうが、

おれにそんな器量は微塵もなく、

逆風にまともにぶつかれば、

づたづたになるだけで、

それで負った傷が癒えるのに長い長い年月が必要な筈なのだ。

 

涼やかな風が吹き、

柔らかな柳の枝はさわさわと音を出しながらゆらりゆらりと揺れて

宙でにこにこと笑ひながら嬉嬉としてゐるに違ひない。

その余りに軽やかな物腰におれは頭を垂れる思ひがするのであるが、

風に柳とはよく言ったもので、

それが出来ぬおれは、

屑同然の存在でしかなく、

――おれはおれは!

と、此の世に対して自己主張してゐるだけの虚しい存在のおれは、

事、此処に至って初めて思ひ至る馬鹿者でしかないのであるが、

そんな大馬鹿者すら何の文句も言はずに受け容れてくれる此の世に対して、

おれはおれに対してどうしようもない憤怒の炎に駆られて、

魂魄の自傷行為を繰り返しながら、

何時かは己の魂魄を剔抉して

その内部にヘドロの如くに沈殿してしまった

邪な思ひを

全て魂魄から吐き出しして、

清澄な心持ちで静かに過ごしたいだけなのであるが、

慌ただしい此の世の時勢がそれを許さず、

時時刻刻と異様に臍が曲がった邪な沈殿物がこのおれの魂魄には溜まって行くのみなのだ。

その魂魄に唆されて、

おれはまたしても今も尚、おれを憤怒の怒りに駆られて

おれをいたぶり続けるのだ。

さうしてやっとのこと、おれはおれの心の均整を保ちながら、

くっと歯を食ひ縛りながら、

――おれは!

と、ぼそっと呟きながら、独りで此の世に屹立してゐるやうな心持ちでゐるのであるが、

そんな矜恃は憤怒の炎で焼き切ってしまって、

今直ぐにでもおれの魂魄を剔抉して

邪な意思の沈殿物の残滓を洗ひ流し、

もっと心が解れて、

柔和な心持ちで

何が起きても穏やかに対処出来るやうになればいいのだが。

 

然し乍ら、もう数十年もの間、

只管、歯を食い縛って生きてきたおれは、

さう簡単には変わりやうもなく、

どうしてもこのおれに染み付いてしまった生き方に、

真っ向から反対する生き方は、

どうしても受け容れ難く、

魂魄からのおれの変容は、

望むべくもなく、

唯、かうして柳の枝を見て、

羨ましながら、地団駄を踏むのが落ちで、

柳の枝を見るのは気恥ずかしいだけなのである。

それでもおれは

――おれは!

と、此の世に対して怨嗟の声を上げながら、

独りでドン・キホーテの如くに

夢現に誑かされながらも、

それでも眼前に現はれてしまった「敵」に対しては

おれが生き残るために徹底的に殲滅しなければならぬのだ。

さうして柳の枝の高笑ひが聞こえ、此の世に高らかに響くのだ。

 

 

物憂げな日も喰らふ

 

何をする気力も湧かなくて、

只管、一所に座り続けるのみの物憂げな日も

おれは生にしがみつくやうに喰らふ。

さうすることでやうやっと死の誘惑に抗ふ外ない苦悩の日日は

かうして何日も続くからには違ひないのであるが、

おれは、この物憂げなものがおれの心を日日、蝕んで行くのを堪へねばならぬので、

おれは無理してでも喰らふ。

さうして気力が失はれて行くのを阻むが、

さて、困ったことに物憂げな心持ちに日日蝕まれて行くおれの心は、

生きることそのものに対して萎え始め、

おれは気のせいか、次第に死臭を発し始めるのだ。

そんな時は、座視して死を待つのみの物憂げな日日を

なんとか遣り過ごさうと唯、味のしないものを夢さぶるやうに喰らふ。

どうしてこんなにも砂を喰らってゐるのと同然なのに

おれは奥歯をガリガリと軋ませてものを喰らふことで、

死神にあっかんべえをしてみるのだが、

それも束の間の慰みにしかならず、

このどうしようもない物憂げな日日の終はらないことに

心は、生きようとする意思は、既に完全に物憂げな心持ちに蝕まれ尽くされて、

既におれの八割は死んでゐるも同然なのだ。

 

ゆるりと流れる水に揺れる水草に

生を見たのかも知れぬ彼女は、

クスッと笑ひ、

美しい横顔をおれに見せては、

「意識の無限性」

などとおれに問ふては

おれを面食らはせてみせて

また、クスッと笑ひ、

おれを煙に巻くのが大好きだった。

そんな彼女に振り回されるだけ振り回されて、

おれは彼女を救へなかったのだ。

 

彼女は突然自死してしまった。

 

そんな思ひ出も遠い昔の出来事として

おれの胸に去来しなくもないが、

ゆるりと流れる水に揺れる水草に

生を見たのかも知れぬ彼女は

自然のRhythmに溶け込みたかったのかも知れぬが、

それが出来ずに底無しの泥濘に嵌まってしまったのかも知れぬ。

自然にも見放されたのかとの思ひを強くした彼女は、

おれの懊悩を傍で見ながら

この物憂げは一生消えぬとの覚悟の末の自死だったのだらう。

しかし、ゆるりと流れる水に揺れる水草は、

一見優雅に見え、自然のRhythmに溶け込んでゐるやうでゐて、

必死に生きてゐたのだ。

彼女はそれすらをも見逃してはゐなかった筈だが、

思慮深い彼女は、それに絶望したのかも知れぬ。

 

ゆるりと流れる水に揺れる水草は

人に呪ひをかける悪魔の申し子だったのかも知れぬ。

 

さあ、今日も喰らふのだ。

この物憂げな日日が終はるまで、

砂同然の味気ない食べ物を、

奥歯を軋ませながら喰らふことで、

おれはやっとのこと今日といふ一日を生き延びる。

さうして明日の絶望を生き延びるのだ。

おれも何時しか、ゆるりと流れる水に揺れる水草のやうに

一見優雅に、そして、自然のRhythmに溶け込んだ風にして

この絶望の日日を生き抜く覚悟だけはあるのだ。

 

 

刻印

 

何時も全身に電気が走るやうな痺れに悩まされながらも

おれはおれの存在におれといふものを刻印す。

このやうに刻印せねば、おれは正気を失ふかもしれぬ。

それだけ追ひ詰められてゐるおれは

一時もおれを見失ってはならぬのだ。

例へばおれがおれを見失った途端、

おれは邪気に満ち満ちた存在に成り下がり、

おれを早速おれをむさぼり食ひ出すに決まってゐる。

その証拠におれはおれが心底嫌ひだ。

これに対して何を甘っちょろい事をほざいてゐると

大いに批判を受ける筈だが、

それでもおれはおれが大嫌ひなのだ。

だから、尚更、おれはおれにおれといふものを焼印を押すやうに刻印する。

さうしてやっとおれはおれが何ものなのか多少なりとも理解出来、

かうしておれはやっとのことおれの事を独白出来るのだ。

 

しかし、刻印された側の魂は、堪ったもんぢゃないのは解るが、

仮令、おれに魂といふものがあるとすれば、

其処におれといふものを刻印し、

死後までも尚、おれはおれとしておれを呪ひながらも

刻印された箇所を嘗めるやうに吹き付ける朔風にじんじんと痛みを感じ、

さうしておれはおれとして奮い立つ。

その気概なくして、今のおれはおれとしてこの殺伐とした大地に屹立する気力も湧いて来ず。

心身共に疲弊しきったおれにとって

此の刻印のみが唯一頼れるものであり、

此の刻印なくして、

おれがおれであるといふ存在証明としてこれ以上のものはない。

 

哀しい哉、おれはおれを避けて通れず、

況してやおれはおれを遁れて行くわけには行かぬ。

夜中に吹き付ける朔風は

ひゅーっとおれを嘗め尽くしては、

えへら、とおれの刻印の痕を見て嗤ってゐる。

だからこそおれはおれを見失ってはならぬのだ。

 

不快にして

 

己の存在を意識するその端緒は

何よりも主体が不快を感じてゐなければならぬ。

つまりは不快は存在に先立つのである。

己が不快であることで、

初めて己は

此の世に存在してしまってゐる業を意識し、

さうして己は現世でしか最早存在出来ぬといふ断念を以てして、

吾は此の世に存在してゐる事を

黙して受け入れる事がやうやっと出来るのだ。

 

例へば十六夜の月下の吾の影が、

何処かしら退屈に見え始めた時、

その影は、

吾の影である事を不快に感じ、

それ故にその影は己の事を自己認識してゐるに違ひない。

その時の一抹の寂しさと可笑しさは、

名状し難き感情となって押し寄せ、

それはまた、影の側も同じ事で、

月下の影が自律的に蠢くその時、

吾は、

――ぶはっはっはっはっ。

と、哄笑する外ないのだ。

 

不快が存在に先立つその哀しみを知ってゐるものは、

絶えず吾は吾である事を不快に思ひながら、

吾は吾からの脱皮を試みつつも、

吾は吾に以前にも増してしがみ付くのだ。

その吾と呼ばれるものは肉体に先んずる念であり、

とはいへ、しがみ付いてゐるものは肉体でしかないのであるが。

さうやって二律背反する吾の吾に対する複雑な感情は、

全て不快により始まる。

 

 

脈絡もなく鬱勃と湧く言葉群の緩やかな繋がり

 

ぼんやりとしてゐる時間がなんとも愛おしい私は、その時、意識上に鬱勃と湧き上がってくる脈絡のない言葉群に溺れる悦楽に酔ひ痴れ、さうしてそれらの言葉を味読し、摑まえてみれば、それがあまりに無意味な言葉の羅列さである事に苦笑する。

しかしながら、その一見無意味に見える言葉の羅列には無意識の相が現はれてゐて、無意識は単に意識では捉へられぬ論理形式を持ってゐる、と看做せるかもしれぬが、どうもそれに対して私は強烈な違和を持ってゐるのだ。無意識には、意識よりも自在なる、否、意識下でよりも寛容な繋がり方が可能な、例へば、人間と犬が何の障害もなく会話するといった現実においては奇怪な事が、何の躊躇ひもなく、つまり、現実に厳然とある決まり事を軽軽と飛び越へて、俄に無意味に見えた言葉の羅列は、荘厳な意味を帯び出してくるのだ。

私は無意識といふものは、単に心理学上の、或ひは精神分析学上の狭隘なる中においては意味を持つ便利な言葉に過ぎぬものでしかなく、そもそも無意識なんぞは存在しないと思ってゐる。それは、例へば氷山の如くであり、海上に浮いてゐる約二割ほどの氷の塊と海面下の唯、見えないだけの八割ほどの氷の塊も、海上の氷の塊と同じであり、それは、可視か、不可視かによる違ひでしかなく、実相は氷の塊で同じである。それと同じ事が意識と無意識にも言へ、意識が例へば光が当たったもので現実の決まり事に縛られた論理の積み上げに過ぎず、無意識は単に光が当たってゐないだけの量子力学的に言へば、シュレディンガーの猫の状態の、或ひは深海生物の闇の世界故にさうなったとも言へるGrotesqueな姿も理にかなった、やはり、現実の決まり事に則った論理の積み上げによるものに違ひないのである。その違ひは、私においてはあってなきが如きものであり、意識と無意識の区別する意味はないと断言せざるを得ないのである。

意識と無意識は、その区別が既に無意味であって其処に何ら差異はないと看做さざるを得ないのである。

 

 

瓦解

 

おれの人生の目標は、

おれの完全なる瓦解であり、

確かにおれはすっかりと自己を瓦解し尽くし、

廃人同様の痴人に成り得たのであるが、

生命とは不思議なもので、

すっかりと瓦解し尽くした自己は、

そのTrauma(トラウマ)を抱へながらも

自己再生の道を

とてもゆっくりではあるが始めたのである。

 

とはいへ、一度瓦解した自己は元通りに再生する筈もなく、

それはとても歪な自己として再構築されたのであった。

 

その自己は悉く吾に反抗し

最早、吾の手には負へない鬼として

吾の内部で暴れ回ったのであった。

それを御するのはこれ以上無理だと断念した吾は、

自己が内部で暴れ回るに任せ、

その時の胸の痛みは甘んじて受け容れ、

時時刻刻とその鬼に侵蝕されながら

吾が正気を保つのは最早不可能であった。

 

狂気に支配されるに至った吾は、

最早常人の範疇から零れ落ち

何人にも理解される事はなく

途轍もない孤独の中、

独り内部の狂気に振り回されながら

饒舌な自己との対話を繰り返しつつ、

他人には指差され、

狂人として此の大地に屹立する苦悶を抱へ込んだのである。

 

――ざまあないな!

と、他人に罵られ、

将又

――自業自得!

と、毒突かれ、

それでも吾は最早

――おれはおれだ!

と言へず

憤懣遣る方ないおれは

おれに毒突いたのである。

また、おれは吾を破壊し、

自己を瓦解する気なのであらうか。

 

唯、只管に自己に沈潜しながら、

おれは吾の反抗を遣り過ごしつつ、

既に狂ってゐたおれの反抗を甘受しつつも、

おれは安寧を欣求したのだ。

しかし、そんな安らかな時が来る筈もなく

おれの内部で荒れ狂ふ狂気の自己は

おれを喰らひつつ、

――わっはっはっ。

と狂気の嗤ひを放つのであった。

 

 

断念といふ狂気

 

日常を断念するといふ無益な事に執着する私は、

既にそれは狂気の人と呼ぶべきものなのだらう。

さて、そもそも日常を断念するとは何を意味するのだらうかといふと、

幸せを求める事を断念する事であり、

それは敢へて己から進んで闇の中を灯火なしに歩く事を意味する。

一方で、光を当てられたものは、

羞じらひから穴があったら入りたいといふ程に

その羞じらひは凄まじく、

存在の尻尾を摑まれたかのやうに身を縮込ませる。

 

私はそれが堪へられぬのだ。

光の下、醜悪な姿態を晒すなどといふ恥辱は、

それこそ断念するしかないのだ。

何事に対しても断念する強靱さを

私は身に付けたいところだが、

まだまだ未熟な私はその境地には程遠いとはいへ、

それが此の狂った日常を生き抜く唯一の道なのだ。

さういふ経緯で私は断念するに至った。

 

私が恥辱を何の不満もいはずに噛み締めるから

それを他人はMasochistic(マゾヒスティック)な狂った人と呼ぶが、

私としては狂人で結構。

そもそも狂気なくして此の不合理な日常を

生き抜く事は不可能で、

その不可能は狂気を以てしてではなくては

ぶち破る事は出来ぬのだ。

それしか此の不合理な日常を生き抜く術などあらうか。

現在に存在するとは、

狂気なくしては存在する事は不可能を意味してゐて、

現在とは狂気が犇めく不合理な世界なのだ。

だから、私は日常を断念し、

狂気を手にして

此の不合理な日常を生き抜くのだ。

とはいへ、一度狂人と化すと

もう後には退けぬ。

その覚悟がなければ、

断念などそもそも出来ぬ相談だ。

 

 

落ちる落ちる何処へと落下するのか

 

ぐしゃりとひしゃげた黒い太陽を

真正面に凝視しながら、

吾は何処へと落下するのか。

 

その時に頭に過る

屋根瓦の上に寝そべって見上げた

あの蒼穹と流れる白い雲は

今は何処へと消えたのであらうか。

 

辺りは次第に暗く成り行き、

この状況から判断するに、

吾は、多分、闇に吸ひ込まれてゐるのだらう。

それにしても、何とも在り来たりの事の成り行きに

この既視感には苦笑ひしながら、、

吾が落ちると言ふ事は、

闇への旅立ちに過ぎぬといふ

余りにも陳腐な出来事に落ち着いてしまふといふ哀しさ。

 

吾はこれが地獄行きならば、

どれほど肩の荷が下りることか。

地獄行きならば、多少、吾は救はれるのにと思ひつつ

どうしても素直に吾(わ)が自己を受け容れられぬ吾は、

己に常に罰が当たる事を性根では渇仰してゐるのだ。

何故にそんな事態に陥ったかといふと、

その淵源にあるのは幼少期の執拗に行はれた母親からの虐待にあるのかもしれぬ。

その吾(わ)が存在の全否定を残虐に受けた吾は

そのTrauma(トラウマ)は回復する筈もなく

また、その心的外傷は仮象の瘡(かさ)蓋(ぶた)に蔽はれることはなく、

その傷痕は癒える事なく剝き出しのままなのだ。

その吾を解放するのが地獄であり、

徹底して刷り込まれてしまった吾が存在する事の悪は、

地獄の責め苦を以てしてしか解き放たれる事はないのだ。

 

さて、今確かに落ちてゐる吾は一体何処へと落ちてゐるのであらうか。

ぐしゃりとひしゃげた黒い太陽を真正面に見据ゑてゐる吾は、

確かに落ちてゐるのは間違ひないが、

闇へと吸ひ込まれる吾は

一体何処へと吸ひ込まれてゐるのであらうか。

 

それとも、吾にとってそもそも何処へといふ事は端からどうでもよく、

唯唯、落下することで

吾は只管に精神的な安寧を得てゐるだけなのかもしれぬ。

落ちるといふ事が発する安寧。

吾は只管にその事に縋りながら

存在悪と刷り込まれた吾の存在を

一時の安寧に憩はせたかったのかもしれぬ。

 

 

もう思ひ出の中にしか生きてゐないものが恋しくて

 

お前に会ひたくて

おれは瞑目するが、

おれの胸奥深くでは、

お前はもう年を取ることを止めてしまひ、

相変はらずの元気な姿でゐるが、

現実に目を向けるとお前が死んでもう数年経った。

もう思ひ出の中ででしかお前に会へぬが、

おれは最近になって漸くお前の死に慣れてきたところで、

しかし、お前の死を受け容れるのにはまだ、暫く時間が必要だ。

お前の死が、おれの心に静かに沈降するには

まだ、何度もお前を抱き締めて

お前の嬉しさうな顔を何度も見て、

おれがお前の死を納得するまでは

今暫く待って欲しい。

 

愛するものの死を受容するのは、

何度も書籍を味読するに等しく、

読む度に印象が変はる如くに

思ひ出の中の愛するものは

何時も変はることなく姿を現はすが

しかし、それに対するおれの感慨は変容し、

それは偏におれが年を取って

着実に死へと近づいた事に起因し、

年降る毎に

思ひ出に対する感慨は

己の死への接近が反映されてゐて

懐かしい日日は

年を経る毎に次第にヘンテコな肉付けをされて行き、

それ故に思ひ出が余りにも生生しく立ち現はれる。

このやうに思ひ出が現実を凌駕するかのやうな

この逆転現象は、

おれが、唯、年を取り、

死期へと一歩一歩と近づいてゐるその跫音が

次第に大きくなって

本当に現実で聞こえるかの如く鮮やかな音として鳴り響く中、

思ひ出が生き生きと闊歩する。

 

 

無意識、若しくは前意識を疑ふ

 

存在に果たして無意識、若しくは前意識といふ意識状態は存在するのであらうか。

思ふに、もしかするとそれらは全て

この不合理な日常を持て余した結果の方便に過ぎず、

全てはまやかしに過ぎぬのではないだらうか。

存在に現はれる無意識の表象、若しくは前意識の表象は

唯単にその淵源が見通せない故の方便に過ぎぬのではないだろうか。

無意識、若しくは前意識は、大概が非論理的故に

意識下とは区別してゐるが、

そもそも日常は不合理であり、非論理的なものであり、

意識下の統制にあらぬものである

それでは日常は無意識、若しくは前意識の類ひかと言へば

それが全く的外れな事でしかなく、

日常は歴とした意識下での出来事であり、

それは冷酷な現実である。

それに対峙するために、

存在は無意識、若しくは前意識の状態でなければ、

存在はその存在に堪へられず、

便宜上、無意識、若しくは前意識といふものを持ち出して

日常の不合理な冷酷な有様から目を背け

只管、日常から遁走してゐるだけに過ぎぬのではないか。

そもそも無意識、若しくは前意識の行動はあり得ず、

全ては意識下に統制されてゐると考へると

逃げ道のない存在にとって

此の不合理な日常に真摯に向き合へ、

己の存在の不合理に対しての辻褄が合ふのではないか。

此の世は概して合理的なことは限りなく少なく、

殆どが不合理である。

その不合理を合理で繋ぐことを思考するのが存在の性であるならば、

合理であることは全てにおいて欠陥があるといふ事であり、

合理は存在の途轍もない楽観が成せる業であり、

不合理は何処まで行っても不合理なのである。

此の世に法則が存在すると看做すのはある意味存在の傲慢であり、

それは神への冒瀆に匹敵するのである。

アインシュタインが何ものぞ。

物理法則は日常のほんの一部を合理的に説明したに過ぎず、

日常は合理的な事から溢れ出るのが一般的である。

厳然と現実に存在する日常は夢現ではなく、

その不合理な日常に対する方便として、

存在は無意識、若しくは前意識なるまやかしを持ち出して

日常の不合理に目を瞑るが、

それは全て嘘っぱちであり、

そもそも無意識、若しくは前意識なんぞはないのである。

存在は無意識、若しくは前意識といふ現実に対する緩衝材を作ったために、

冷酷極まりない日常から逃げ果せ、

何時まで経っても

日常を身を以て体験する事をせず、

そうして解らず仕舞ひなのである。

だから、不合理に堪へ切れず、

合理を志向しては

此の世を理解したと自惚れてしまったのである。

 

 

膨らむ疑心暗鬼は吾を追ひ詰める

 

一度自己の存在に対して疑惑が生じると

その疑心暗鬼は何処までも膨らみ

吾を存在の断崖へと追ひ詰めずには気が済まぬ。

そもそも吾の存在に対して疑ひを持たぬ主体は

信用出来ぬもので、

誰もが蒼白い顔をして深夜の道路を行進する。

それを幽霊といふ人もゐるが、

それらは決して幽霊などではなく、

吾を求めて彷徨ふ我執の醜悪な姿に過ぎぬ。

さて、それでは吾は何故に吾を疑ふ事になるのであらうか。

その答へは単純明快で

疑ふ事でしか存在は存在たり得ぬのだ。

存在の全面肯定出来る輩は信が置けず、

そんな輩の言ふ事の何と薄っぺらな事か。

吾へと向かふ吾に対する残酷な攻撃性は、

手を緩める事はなく

それは吾を殲滅するまで執拗に続く。

しかし、それを全く経験してゐない自己の脆弱さは、

見る影もなく、ちょっとの事でぺちゃんこなのだ。

何処までも膨らむ疑心暗鬼は吾を追ひ詰める事で、

溜飲を下げ、存在をやうやっと存在たらしめる。

そもそも存在とはその基盤がない根無し草で、

不安に苛まれながらの疑心暗鬼の化け物なのだ。

そんな存在を抱へ込む吾は、

当然、吾に対して残酷極まりない仕打ちをして、

吾から存在を追ひ出し

吾は尚更吾に対して疑念を深め、

吾が存在を伴ってゐない事に改めて愕然とする。

吾が吾である事は幻想に過ぎず、

吾とは吾でない何ものなのかなのだ。

それを身に染みて知ってゐるもののみ、

やうやっと吾は吾だと呟け、

さうして吾の探索へと赴けるのだ。

だが、吾は吾の探索から遁走に遁走を重ね、

吾にのこのこと捕まるわけがない。

さうして吾は吾の非在を知るのだ。

 

 

考へる事に対して信を置くのは余りに楽観的過ぎるのか

 

考へるといふ事は存在の果たして最後の砦として相応しいのか。

不意に襲ふ思考の陥穽に落ち込む吾に、

吾は苦笑ひをしては思考に対してすら疑心暗鬼に陥る。

この思考にすら信が置けない不信の悪魔に化してしまった吾。

この吾を抱へてゐるからこそ、吾は吾に対して徹底的に疑ふのだらうか。

 

パスカルの考へる葦としての人間存在の定義は、

余りに楽観的過ぎるのではないか。

確かに極端な事を言へば、

あらゆる存在は考へるものであるが、

しかし、その思考する事は信たり得るのか。

つまり、例へばデカルトのcogito, ergo sumの「吾思ふ、故に吾あり」は、

余りに楽観的過ぎるのではないか。

かうなると底無しの思考の陥穽に落ち込むのは

火を見るよりも明らかだが、

しかし、吾は悦んでその陥穽に飛び込む。

さうでもしなければ、吾が吾である事に堪へられぬ吾は、

自虐の逆巻く中を、へらへらと力なく嗤って

己を徹底的に攻撃するのだ。

さうして吾を忘れる事で

吾はやっと存在たり得てゐる。・

この惨めなやり方でしか吾は吾たり得ず、

吾を忘失する、または、卒倒する事の中でしか、

吾は吾に信が置けぬ卑屈さに

吾ながら呆れるとはいへ、

さうする事でしか吾が吾である事が保てないのだ。

このどうしやうもないやるせなさは、

気を失ふ事でしか消えぬ。

 

吾思ふ、故に吾信じぬ。

吾卒倒す、故に吾あり。

 

 

残酷で芸術的な殺戮は人間の本能なのか

 

また、無差別殺人が起きたが、

何時から人は独りで自死する忍辱の美学を美学と思はず、

派手な無辜の人達の死を死屍累累と堆く積み上げて、

其処に美を見出すやうになったのか。

 

そもそも人間といふ存在は殺戮に残酷で芸術的な美を求めるものなのか。

個人的な少ない経験則から鑑みるとさうとしか言へないだ。

何故なら殺戮といふ興奮と恍惚の状態で

人間が求めるのは更なる恍惚状態で、

それを満たすのは芸術的な美しかないのだ。

儚い死は元来、美を含有してゐるものではあるが、

他者を殺戮する快楽は何時しか最期の自己肯定の方法となり、

自己顕示欲を満たすのに他者の死がもってこいの手段で、

自己顕示欲を満たすといふ事はそれこそ恍惚状態を昂進するのだ。

だから安易に他者を殺める事に躊躇ひはなく、

この上ない興奮状態で発作的に他者を次次と殺戮し、

其処に芸術的な美を見出してしまふ誤謬は

人間存在が、そもそも誤謬にあるからであり、

美は変質してしまってゐて、

派手にこそ美があるとの勘違ひが本質かのやうに振る舞ひだし、

そこには奢侈が潜んでゐるのであるが、

人間は何時しか誤謬の自己満足に閉ぢてしまった。

 

個人的な自死においてさうなのだから、

これが国家による大量殺戮においては

尚更Technology(テクノロジー)といふ論理的な美をも加味した美しい殺戮の方法が

徹底して追求されてゐる。

それはArtificial(アーティフィシャル) Intelligence(インテリジェンス)、

つまり、人工知能によるProgramming(プログラミング)といふ論理による殺戮に

人間は芸術的な美を見出してしまったのだ。

この美への狂信は宗教が曖昧模糊となる現代において

成果がはっきりと確認出来、

また、Programmer(プログラマ)は己のProgrammingにうっとりとし、

恍惚に浸れる宗教なのだ。

自戒なく、

国家の許可があるといふ大義名分の下、

いくらでも大量殺戮出来るといふ歓びに

心打ち振るはせ、

感動する人間のなんと愚劣なことか。

死に芸術的な美を求めだしたならば、

それは宗教なのだ。

そして、さうして無辜の他者達を大量殺戮する中、

仮に己が死んだならば、それは宗教における殉死に等しく、

それは自己満足の極致でもある。

そんなもの、糞食らへ!

 

 

私は太宰治も三島由紀夫も大嫌ひだ

 

太宰治のやうに軽軽しくは

「生まれてきてすみません」

とは言へぬ私は、そもそも太宰が大嫌ひだ。

とはいへ、三島由紀夫が好きなわけでもなく、

約めて言へば、どちらの作家も大嫌ひなのだ。

私の大好きな作家は梶井基次郎で、

その詩的でゐてとても私的なものを題材にした二十篇余りの作品群の虜で、

「檸檬」がよく取り上げられるが、

私は「冬の蠅」や「闇の絵巻」、「交尾」などが好きである。

 

太宰治も三島由紀夫も自死したが、

梶井基次郎は生きたくとも生きられず、肺結核で亡くなった。

其処には大きな跳び越えられぬ巨大な壁があり、

太宰も三島も最期は自ら死んでしまへば片が付くと此の世を見くびってゐたが、

それは私の心を掻き乱し、憤懣遣る方ないのだ。

つまり、極端な言ひ方をすれば、

太宰の生も三島の生も梶井基次郎の生に比べればお気楽そのもので、

その死の派手さはあるが、

生そのものに重みがないのだ。

確かに太宰も三島も文章は上手いのかもしれぬが、

いやいや私はちっともそんな風には太宰も三島も思へぬが、

死へ逃げるのは卑怯者のすることだ。

これをして憤怒に駆られる太宰ファンや三島ファンが五万とゐると思ふが

何度でもいふ、太宰も三島も卑怯者である。

それは文体にも嫌みなほどに表はれてゐて、

その最後の所で生とぶち切れてゐるその文体に美を見る人はゐるだらうが、

自死を以て人生に幕を下ろすその卑怯者の文体は私の心を殆ど打ち振るはせないのだ。

読んでも感動もしなければ、心を動かされることもなく、

唯、文字が並んでゐるに等しい薬の効能の文を読んでゐるかのやうな感覚なのだ。

小説としてそれを善とする人が五万とゐる事は承知してゐるが、

私は、そんな文章を読むのは恥辱である外ないのだ。

太宰と三島の小説を読む時にそこはかとなく湧いてくる気恥ずかしさと憤懣は

太宰文学と三島文学の大きな欠点なのだ。

 

それに引き換へ、

梶井基次郎の文章の何処までも死を見つめざるを得ないながらも

最期まで生に縋ったその文章は、

しぶとくぶっとく、それでゐてとても繊細で、

それは生にこだわってゐた梶井基次郎ならではの強みであり、

生の側に最期までゐたからこそのもので、

暖かい澄明さが其処にはあるのだ。

だから梶井基次郎の作品に登場するものは、

いづれも梶井基次郎の温かい眼差しの残酷さに晒されて

細部に神が宿るやうな描写に唸るしかないのだ。

それは確かに凄みがあり、太宰も三島も到達できなかった境地にいとも簡単に達してゐる。

それは自死が最期の人間には到達不可能な深みであり、

文章におかしさと重さがずっしりとあるのだ。

私は梶井基次郎は日本文学で初めて存在の尻尾を見出し、捕まへやうとした作家であり、

それはいくら賛辞を送っても物足りない。

此の世に得体の知れぬものの存在を明らかにしたのは梶井基次郎であり、

梶井基次郎はその得体の知れぬものに振り回されながらも、にじり寄ってゐる。

それは前人未踏のことであり、梶井基次郎こそ近代文学の父である。

 

 

盂蘭盆会

 

祖先の霊を祀り、

盂蘭盆会で祖先の霊と再会する時のその生者の作法は、

厳格なものでなければならない。

生と死は時に簡単に飛び越えてしまふ境が厳然とあるが、

盂蘭盆会の時は、

互ひにほどよい距離を保って

互ひに礼を尽くし、

厳格な作法に則り、

生者と死者が相対するその有様は、

終始緊迫感が漂ふものでなければならない。

さうでなければ、祖先の霊は落胆するばかりで、

妙に霊に馴れ馴れしい振る舞ひは

そもそも霊に失礼なのだ。

霊としては生者はより長生きして貰ひたいもので、

盂蘭盆会で再会する祖先の霊は、

嬉し涙を流しながらも

生者とは一線を画してゐる。

さうしなければ、祖先の霊の願ひは蔑ろにされ、

生者は何かの拍子にひょいっと生死の境を飛び越えて

死者の仲間入りをしかねぬ。

だから死者達は生者の領域には

厳格に作法を守って生者の生活圏に踏み入る。

 

そもそも生と死は何時も渾然一体となって交はってゐるが故に

盂蘭盆会の時は生と死は厳格に線引きされ、

生者は祖先の霊を恭しく迎へるのが

祖先の霊に対する最高のおもてなしである。

それでは祖先の霊が寛げぬといふかもしれぬが、

生と死の境はさう簡単に飛び越えてはならぬといふ祖先の霊の思ひこそが

祖先の霊の最高の願ひである。

その願ひを叶へることこそ

生者の務めである。

 

盂蘭盆会では、

生者と死者は厳格に作法に則り

終始緊迫感漂ふ中で再会するのが

祖先の霊の願ひであり、

祖先の霊は生者に生き長らへてほしいと願ふのが

普遍的であらうが、

それならば、

生死の境は盂蘭盆会では尚更強調され、

生者は簡単に生死の境を踏み越えてはならぬと

祖先の霊は生者を諫めるのが盂蘭盆会の普通の風景である。

 

 

心痛む

 

何度も何度も夢破れ

何度も何度も挫折を味はひ心が腐っても

それでも奥歯をぐっと噛み締めて顔を上げ前を見つめて

この屈辱に塗れた己を鼓舞するやうに

何度味のしない飯を喰らった事だらう。

それもこれも少しでも腹を満たして次なる闘ひに備へて

深く窪んだ眼窩の奥の瞳をギラつかせながら、

飢ゑた野良犬のやうに生に縋るべく何でもいいので獲物にありつくために、

年中唸り声を上げながらふらふらとほっつき歩いてゐたおれは、

当然、心中忸怩たる思ひを抱いて、時代錯誤の上昇志向に未だに囚はれてゐるとはいへ、

社会の底辺で藻掻き苦しみながら

全て善と徹底した現状の全肯定を拒絶し、

おれはおれの心に自ら絨毯爆撃をし、

おれの心に巣くふ弱虫を殲滅するのだ。

とはいへ、それで傷だらけになったおれの心からは

ドクドクと血が流れ出し、

その傷は一生癒える事なく、

心の痛みとしておれは背負はざるを得ぬのだ。

さうしておれの心は何時も疼き

その心はおれに問うのだ。

――もしやお前は本当の自分などといふまやかしを追ってはゐないだらうな。もしやお前は理想の自分といふまやかしを追ってはゐないだらうな。それが全ての過ちの原因だ。

おれは少なくとも本当の自分などといふ糞みたいなものや理想の自分などといふ余りに馬鹿げた己に対しての楽観過ぎる幻を重ね合はせることで自分を慰撫する事は拒絶し、

只管に眼窩の奥でギラつく瞳で冷酷な現実を冷徹に見者として見つめ、

その狂ひ咲きする現実の不合理に歯噛みしながらも

虎視眈眈と状況の反転のChance(チャンス)を窺ってゐて

この最低の人生を諦めることなく、

最期は最高の人生だったと言ひたくて仕方がないのだ。

これを未練がましいと言へばそれまでだが、

まだ、おれは社会の底辺にありながら、

一発逆転の厚かましい夢を抱いているのだ。

でも、それでいいじゃないか。

それでおれが生き延びられるならば。

人生に正解などないのだから、

どう生きようが各人の勝手なのだ。

 

 

不信に潜む吾がどす黒いものよ

 

一度芽生えてしまった不信は

行き着くところまで行かないと

その不信の底に流れてゐるどす黒いものは見えぬ。

そのどす黒いものは己の目を蔽ふばかりの嫌な面で、

それを見ずして不信は消えぬ。

特定の他者に対して抱いてしまった不信は、

その因を探れば、その初対面の時に己といふ存在は感覚的に捉へてゐて

初めは小さな小さな萌芽だったものが、

会う度毎に不信の感情は増幅され、

ここまで己は意地が悪いのかと自己嫌悪に陥るほどに不信は募るものだ。

不信は相手あってのものだが、

ここで、仮に他者といふものが己の鏡と看做してしまふと

他者に対する底無しの不信感は裏を返せば己に対する底無しの不信感でもある。

ここで、虚勢を張って自己正当化すればするほど

不信は増幅に増幅を重ね、

土壺に嵌まり、

嫌な気分が己を蔽ふ。

その嫌な気分を晴らすために他者に対して罵詈雑言を浴びせて

自己満足したところで、嫌な気分は微塵も晴れやかになることはなく、

むしろ、尚更の自己嫌悪に陥る。

然し乍ら、よくよくその自己嫌悪に陥った己を観察してみれば、

自噴を他者にぶつけてゐるに過ぎず、

さうする事で尚更己は己に対して腹を立て

ここに至って漸く己が己憎しとの化けの皮が剝げ、

不信は、大抵が己に対する不信の場合が多いのだ。

その己のどす黒い部分を目の当たりにした時、

なんて膂力がないのかと

己の不甲斐なさに呆れるのであるが、

一度、己のどす黒い部分を見てしまふと

不思議なもので人は落ち着くものである。

ここで深呼吸をしてどす黒いものを手で握り潰し、

呑み込んでしまうのだ。

さうして相手を見ると、

相手のなんと幼稚じみて、不義者なのかと思ひ至り、

これまで、相手と同じ土俵に立ってゐた事を恥じ入り

事、此処に至ると、自己は煮ても焼いても食へぬ腹の据わった大人(うし)となる

 

ところが、相手が道理の立たぬ大馬鹿者だった場合、

己は憤懣遣る方なしで、

相手を徹底的にたたきのめすに限る。

さうしなければ、相手のためにならぬのだ。

さういふ輩は道理を説いても馬耳東風で何一つ理解できぬし、

己が正しいと端から思ひ込んでゐるので

此方は腸煮えくり返りながらも涼しい顔をして

相手の首を真綿で絞めるのだ。

さうして相手がぐうの音も言へぬまで真綿で首を絞め続け

最後にとどめを刺して相手を平伏させる。

大馬鹿者は其処までしないと解らぬものである。

 

 

暑い夏の日

 

体温を超える暑さにすっかり参ってしまひ、

一日中ぐったりとしてゐた。

熱中症の前段階だったのだらう。

頭痛が酷く、脂汗をかきながらも

私はこの内部でどうしても生に縋らざるを得ぬ臆病者の私を揶揄しながら

それでゐてそのじたばたする内部の私を知るにつけ、

私は少しだけ生命の危険を感じ、

内部の私を揶揄してゐたのも束の間、

私がじたばたし始めたのである。

私は水をがぶ飲みし、そして、身体を横にした。

さうなっても私は冷房を付けない。

それは、常在、灼熱地獄をこれから生きなければならぬ身としては、

この気候に身体がついて行けぬならば、

死を覚悟して生きてゐるからだ。

死と隣り合はせの生を生きる日常に適応出来ねば、

生命としては失格で、

それで死すのであれば仕方がないとの諦念が既に私にはあり、

また、その覚悟がなければ、

それは生きることに対して嘘をつくことになると思ひ込んでゐるからである。

つまり、さもしい意地っ張りに過ぎぬのだ。

しかし、このさもしさこそが、私を生に駆り立てる原動力で、

そもそも生命なんぞはさもしいものなのである。

さもしさの自覚あればこそ、

私は胸を張ってこの地に屹立出来、

あの眩しくギラギラ輝いてゐるお天道様に顔向けが出来る。

私は恥辱の塊とはいへ、

卑屈にならず、自然に対しても唯、平伏するのではなく、

この何時でも牙を剝く冷酷な自然に対して変に怖がらず

この自然と絶えずぎりぎりの対峙をして生き延びる事こそが、

正直者の生き方と心得、

私は臆病者の内部の私と戯れながら生き延びるのだ。

 

 

晩夏に思ふ

 

虚を衝き不意を襲ふそのものは、

真夏のギラつく太陽の陽射しには影に隠れて

じっと身を潜めてその時を待ってゐたのだらう。

私はと言ふとすっかり真夏の暑さにやられて

バテバテの中、

無防備でそのものと対峙しなければならぬのだ。

そのものの矢継ぎ早に問ふ私に対する難儀な質問に

今はまだ答へる気力すらない私は、

それでもそのものに対して礼儀を尽くし回らぬ頭を無理矢理回転させながら、

ぼそぼそと囁く。

――作麼生(そもさん)!

――説破……

――何故、吾なる存在はそれが吾と看做せるのか!

――それは夢幻の類ひに過ぎない。何故って、吾なる存在が吾と看做せる根拠なんぞそもそもないからね。

――それでは、吾は現の中で、譫妄状態の、または夢遊病者のやうに現実を見失ってゐるといふ事か?

――さう。吾なんぞ夢遊病者と変はりやしない。

――何故、そんなに自信有り気に言へるのかね?

――それはデカルトのcogito, ergo sum.がまだ、吾を捉へるには不十分極まりないからさ。吾の思考にそんなに重きを置いていいのかと問へば、吾なるものは誰もそれを肯ふだけの根拠を持ってゐない。

――根拠を持ってゐない? しかし、思考してゐるのは徒(ただ)ならぬ吾ではないのかね?

――さうさ。しかし、だからといってその思考が徹頭徹尾、吾が思考してゐると言えるかね?

――つまり、思考は吾を超越してゐると?

――ああ。思考は吾を超越してゐる。思考してゐる吾は、吾が思ひも寄らぬものを考へつくもので、それが吾が考へたと誰が看做せるだらうか? 殆どのものはその思ひつきは吾を超越してゐて、「神が降りてきた」とか「憑依した」とか言って吾以外のものにその思ひつきの因を結びつける。つまり、思考は軽軽と吾を飛び越えてしまふのだ。

――ならば、吾が吾の根拠がないのにどうして吾は慌てないのか?

――それはね、そもそも吾は吾が嫌ひなもので、吾は吾に殆ど興味がない。

――そんな馬鹿な! 吾は吾の事が知りたくて仕方がない生き物だぜ!

――それは吾を買い被りすぎてゐる。吾に吾を考へる能力はそもそも欠落してゐる。

――欠落してゐる? へっ、今、思考は吾を超越してゐると言ったばかりだぜ! 吾を超越してゐる思考ならば何時しか吾が吾であると言ふ事に対する答へを見出せる希望はある筈だぜ。

――それは楽観的過ぎるね。落胆させて申し訳ないが、吾の制御を超える思考で吾が吾である根拠を見出せるなんて夢物語だよ。言っただらう。吾は夢遊病者と変はりがないと。そんな輩に冷徹な思考が出来るかね? 現実すら見失ってゐる吾にどうして吾が吾である根拠を見出せるのかね? 吾が吾である根拠が見出せた時、多分、宇宙は泡を吹く筈さ。

――何故宇宙は泡を吹くのかね?

――これまで解けないAporia(アポリア)を解いてしまったんだから泰然自若の宇宙でも吃驚仰天さ。

――吾が吾である事はAporiaと言ふのかね?

――ああ、Aporiaだ。さう言ふお前が解いてみればいい。解けないから私に質問を浴びせるんだらう? だからAporiaと言ってゐるんだ。

――ちょっ、食へねえ奴だなあ。

などと吾についての疑問を私に打つけてきたのであったが、そのもの自身で解いてみればといった瞬間、そのものはしゅんとなり、不意に姿を消したのである。

 

 

絶望と言ふ名の甘え

 

普段から足下が覚束なきよろよろと歩く私は、

それでも歩く気配がないらしく幽霊のやうに他者に近づき、

他者は私がいつの間に近づいたのか解らずに、

背後に私の姿を見ると吃驚とするのであるが、

だからと言って、私は意外と転ぶ事なく私の歩行は意外としぶとい。

また、一度捕まへたならば鼈(すっぽん)の如く決して放さず

粘り強いと言へる。

しかし、それが災ひして、

私の心は我慢に我慢を重ねて

ポキリと折れ、絶望の底に落ち込むのだ。

その時の私の内部の人の歓喜は計り知れず、

私はと言ふと弱り目に祟り目で、

絶望してゐるのにその内部の人の責め苦を受ける事になる。

内部の人は容赦がない。

――かうなった全ての責任は、ほれ、さう落ち込んでゐるお前にある! ならば責任の取り方といふものがあらうが。ほれほれ、三島由紀夫のやうに切腹でもしたらどうかね? それが虱よりも悖るお前に最も相応しい、他者がやんや喝采を送るお前の絶望の責任の取り方だ。

――絶望に責任を取る? これは異な事を言ふ。絶望する事は全的に主体に認められたものぢゃないかね? つまり、絶望に責任を取る必要はない!

――いいや。絶望する暇があったなら立ち止まらずに走れ、走れ! 絶望は究極的に自分への甘えでしかない!

――へっ、何を言い出すと思へば、絶望は自分の甘えだと! それは間違ってゐる。絶望は自分の存在を全否定する苦悶であって、決して自分に甘えてゐるそんな楽しいことぢゃない!

――それが甘ちゃんなんだよ。存在の全否定? それが出来るならお前は人類史上初めて存在の尻尾を見たものとなるが、そんな事は全く起きない。存在の尻尾を見たらお前は歓喜に吾を忘れる筈だ。それが未だ嘗て起きていなって事はお前の絶望なんてそれ仕切りの事さ。甘ちゃんなんだよ、お前は。絶望に逃げ込んでお前自身、お前を可愛い可愛いと頭を撫でさすってゐるだけさ。へっ、お前はそんなにお前が可愛いかい? このNarcist(ナルシスト)が!

――ええい、黙れ! Narcistとの何処が悪い?

――結局自分を自分が今あるがままで全肯定したいがためのPose(ポーズ)に過ぎない! そこに何の発展性があると言ふのか! 全くない! 今のままで十分だから絶望するのさ。

――いいや。絶望することで私は自分を乗り越える方策を常に探求する。絶望する事は死に至る病とキルケゴールが宣ったが、絶望とは自己との絶望する自己との関係性、また、神との関係性に集約したキルケゴールはある意味、絶望を謀略的に肯定したが、自己との関係性に逃げ込んだ感は否めない。お前に言っておく。絶望するとは決して壊れない頑丈な壁に素手で叩いてそれでも壊そうとする無謀な闘いなのだ。

――馬鹿らしい。無謀な闘い? それが出来てゐれば、おれは何にも言はないが、お前は全くそんな素振りらすら見せず、自分の傷を嘗めてゐるだけさ。

――ちょっ、糞食らへ!

などと徹底的に攻めた立てる内部の人はかやうに容赦がないのである。

最後は捨て台詞で逃げた私はそれでも責め立てる内部の人に防戦一方なのだ。

それは何故故にか?

それは私が存在を捉へ切れてゐないからに外ならない。

 

 

夢が特異点の存在を暗示する

 

夢見てゐる時、

主体は夢での出来事を何の疑念も抱かずに

夢での出来事を全肯定するが、

それは詰まる所、

此の世界に特異点が存在する事を暗示する。

それは何故かと言ふと、

そもそも特異点とは有をぎゅっと圧縮して行って

仕舞ひには無へまで有を圧縮する事、

つまり、ある質料(ヒュレー)と形相(エイドス)がある物質を圧縮に圧縮を重ねて

無へまで、つまり、世界からその物質を消し去る事であるが、

例へばそれはBlack(ブラック) hole(ホール)の中心にある核となる例へば中性子星が

それが更に圧縮されて核が消え失せて無となる事である。

その時、重力場はBlack holeのやうに

Schwarzshild(シュバルツシルト)半径の事象の地平線がある有限ではなく、

無限になる。

それの何処が夢と結び付くのかと言ふと

例へばBlack holeの内部は現時点では不明な点ばかりであるが、

唯、其処は物質で充溢し

光すら逃れられない故に逃れられない光で満ち満ちた眩い世界と思はれる。

そして、Black holeの内部では

既に一般的な秩序は成り立たず、

つまり、物理法則が成り立たず、

因果律が破綻した世界と想像される。

つまり、因果律が破綻してゐると言ふ事は

其処は夢幻の世界に近しいのである。

それは何故かと言ふと、

夢幻の世界は物理法則から食み出してゐて

つまり、因果律は破綻してゐて

其処では何が起きても不思議ではないのである。

そして、それ睡眠中に見る夢の世界と同じと言へるのだ。

夢では因果律が破綻してゐる。

その上、夢見る主体はその因果律が破綻してゐる世界を

何の疑念も抱かずに全肯定する。

そして、夢の世界から逃れられるものはなく、

一度(ひとたび)夢を見始めたならば、

主体は勿論の事、

何ものも夢から遁走できぬのだ。

夢に落ち込んだものは夢が途切れるまで夢の世界に囚はれ

夢から消える事はない。

消えてゐるやうに見えるのは、

それは夢の舞台が移動しただけの事であり、

夢に落ち込んだものはもうBlack holeに囚はれたもののやうに

夢から逃れられないのだ。

それは光とても同様で、

夢から光すらも逃れられない。

この事から夢幻の因果律が、物理法則が破綻してゐる世界が存在すると言ふ事は、

此の世界に特異点が存在する事を暗示するのだ。

特異点が存在すると言ふ事は

其処には因果律が、物理法則が破綻してゐる世界が存在してゐると言ふ事なのだ。

つまり、夢幻が此の世界に存在すると言ふ事は

此の宇宙の何処かに特異点は存在し、

此の地上に棲んでゐても夢を見られると言ふ事は

特異点の因果律が、物理法則が破綻してゐる世界は

此の宇宙全体を含有してゐて

無限に拡がってゐ手ね此の宇宙全体はその影響下にあると考へるのが妥当なのだ。

つまり、夢を見られると言ふ事は此の宇宙の何処かに特異点が存在する事を暗示するのだ。

 

 

つくつく法師の鳴く夜明け前に私は独り苦悶する

 

何にそんなに落ち込む事があるのだらうか。

私はぼうっと考へ事に耽ってゐたならば

何処からかつくつく法師の鳴き声が聞こえてきて、

はっと吾に返ったが、

気が付くともう夜明け前になってゐた。

私は其処で、途轍もない寂しさを覚え、

孤独が一際際立つこの夜明け前の時間に

それまで私の魂は彼方此方と彷徨しゐたが、

その彷徨の途中で死すまで他(、)人(、)の《私》を探し続けてゐた挙げ句に

やっと見つけたと思った瞬間の其の時に私は《私》にビンタを食らひ、

私は左の頬はじんじんとした痛みを感じつつ、

独り闇の中を逍遙してゐたのだが、

私の魂のその私への帰り道、

私の魂はぽつりぽつりと悔し涙を流しながら、

闇の中では見えずとも足下ばかりに視点を向けて俯いて歩いてゐたのである。

その私の魂は私への帰り道の間ずっと底無し沼にでも嵌まったかのやうな錯覚を覚えては

四肢が何かに摑まれて動くに動けぬどうしやうもない不自由を感じてゐた。

私の中では何処にも持って行きやうもない鬱屈した憤懣とも屈辱とも言へぬ

己に対する侮蔑した感情を制御出来ずに狼狽へてゐたのであった。

その己の羸弱(るいじゃく)を振り切るやうに動くに動かぬ四肢を引きずるやうにして

私の魂はやうやっと私への帰還を果たしたのであった。

その後の私の落ち込みやうは言ふに及ばず酷いもので、

私は私自身を徹底して責め立てたのであった。

その不毛の時間が何時間続いたのだらうか。

私は永劫の他人の《私》にビンタを食らった事に対して

私を侮蔑してゐたのではなかった。

私が《私》と相容れない其の深い深い深い溝の存在に対して

腹が立つやら絶望するやら私の心は紊乱に紊乱を極め、

その混乱した心の遣り場を失ってゐたのであった。

斯様に真夜中の魂の彷徨は危険なのであるが、

私は赤の他人の《私》がさうとは素直に受け容れられず、

正直なところ、最後の最後まで《私》との和解は可能と

仄かな望みを抱いてゐたのであるが、

それは未来永劫あり得ぬことを知った哀しみを

私自身に気付かれぬやうに息つく暇もないやうに

私は私自身を責め立てたのであるが、

私の魂は私への帰還の途中にその哀しみをつくづく思ひ知ったのであったので、

それを私自身が知らぬ筈はないのであった。

つまり、私は遣り場のない憤懣を

私自身に八つ当たりしてゐただけなのである。

この孤独感は、しかし、底無しなのであった。

私は其処に落っこちたまま這ひ上がれず、

夜明け前までぼうっとしてゐたのである。

 

――おーしんつくつく、おーしんつくつく。

つくつく法師はそんな私の思ひなど関係なしに己の生を精一杯生きてゐた。

私はそれが羨ましくて仕方がなかったのである。

何とさもしい私なのか。

それとも自然に対しての羨望とも嫉妬とも取れぬ

憧れを私が知らぬ振りをしてゐただけなのだらうか。

何とさもしい私なのか。

 

 

野分けが直撃してゐたその時に

 

暴風雨が吹き荒れ、家が大揺れする中、

野分けとは斯様に私の心を躍らすのだ。

それは気圧が下がる事でさうなるのか

それとも”恐怖”が襲来するからさうなるのか

その因は様様あるだらうが、

主に生命の危険を感じる事で神経は興奮状態となり、

例へば映画を観てゐる時とは全く違ひ

当事者は私自身である事が逃げ場のない恐怖の事実を私に突きつけ、

そこから生じるやけくそがをかしくてしやうがないのだ。

かうも恐怖でわなわなと震へながらも

それでゐて何が起きるか解らないわくわく感、

それは私自身が此の世とおさらばするかもしれぬと言ふ事も含めて

未来がかうも解らぬといふことの清清しさに得も言へぬ愉悦を感じる。

仮に一命を取り留めて此の世を眺むれば

野分けが過ぎれば地上の惨状は悲惨極まりなく、

その猛威に茫然自失となるに違ひないが、

その未だ見ぬ未来も含めて、

私は野分けによって此の世が一変する事の

その瓦解に希望を見てゐるのかもしれぬ。

何とも浅ましい心持ちではあるが、

野分けの破壊力によって現状が打破される凄まじさに

心躍らずして何に心躍らうか。

解らぬ未来であるが待ってゐる未来は悲惨である。

だから、私は奮ひ立ち武者震ひするのだ。

このやけくそこそは野分けが齎す巨大な力のお陰で、

命あれば、何糞、と破壊された大地に私は顔を上げ、屹立する。

さうして、上空の野分けが過ぎ去って現はれた碧い空を見上げながら、

苦境に立ち向かふ力を得るのだ。

瓦解した街の中で、

遮二無二立ち直らうとする力に吾ながら驚き、

沸沸と湧き上がる高揚感に私の心持ちも一変し、

覚醒する。

現実に翻弄される吾に私は世界に触れた感触を覚えながら、

その感触ににんまりとしつつ

私は確かに私が此の世に存在してゐる歓びを噛み締める。

驚異の恐怖を前にしてやうやっと吾の存在を感じられる幸運に

今私は遭遇してゐるのだ。

 

 

 

中秋の名月に世界は目を開く

 

仄かに明るい満月の下、

世界はゆっくりと目を開けて、

吾を睨み返す。

すると、此の世の森羅万象は次次と目を見開き、

吾を覗き込み出す。

世界は仄明るい中秋の名月の満月の明かりで目覚めたのだ。

その瞬間に立ち会へた歓びと恐怖の間で

ぶらんぶらんと揺れ動く吾が心は、

世界が善意の眼差しで吾を見てゐるとは思へず

その無数の目は悪意に満ちた眼差しで、

吾を睨んでゐるに違ひない。

何故と言ふに

吾がそもそも世界を悪意の目で見てゐて、

心密かに此の宇宙の顚覆を目論んでゐる吾は、

此の宇宙に疎まれてゐる筈なのだ。

それにしても、何処を見ても目、目、目の世界は

壮観とは言へ、

それは恐怖の眺望であった。

到頭、世界が牙を剝いた事に

吾は歓びを感じつつも、

この事態にぽつねんと世界に屹立しなければならぬ吾は、

やはり、途轍もない孤独に囚はれ

この悪意に満ちた世界に対して

たった独りで立ち向かわなければならぬ覚悟を

改めて自覚し、

目を見開いた世界の覚醒に対して

吾ももう一段階、心のGear(ギア)を上げねばならぬ。

さうしなければ、吾はこの覚醒した世界に押し潰され、

塵屑の如くふっと一拭きで吹き飛ばされ、

吾の存在なんぞ、

この無際限の世界に比べれば、

圧倒的に不利な吾は、

この覚醒し、目を見開いた世界に呑み込まれるだけだ。

さうならなぬためにも吾は自己をしっかりと保ち、

歯を食ひ縛りこの大地に屹立しなければならぬのであるが、

そもそも吾に対して不信しか抱けぬ吾は、

圧倒的に世界に対して不利な闘ひを挑んでゐるのであるが、

それでも吾は吾を辛うじて保ちながら、

吾を世界に打ちのめされながらも

その痛みにより吾を吾に繋ぎ止めてゐる。

正気を失はずして

世界の顚覆なんぞ目論む馬鹿を試みる無謀に踏み出せぬ事を

大いに自覚しながら、

吾は狂気のPassion(パッション)でそれをぶち破らうと巨大な巨大な巨大な世界に対して

素手で立ち向かふのみ。

 

目を見開き覚醒した世界に囲繞された吾は、

かうしてたった独りで玉砕覚悟で無謀な闘ひに挑んでゐる。

さうして新たな道は開けるのかどうかは解らぬが、

どうあってもこの悪意に満ちた世界を顚覆しなければ

吾の存在の存続は保証されぬ事だけは間違ひないのだ。

 

 

酷い眠気の中に残る吾と言ふ意識の矜恃

 

ふらふらーん、ふらふらーんと、

独楽がもうすぐ倒れるやうに

吾と言ふ意識もまた、吾からふらーんと揺れ動きふらつきながら、

吾から食み出ることの快感により眠りに就かうと吾を見失ふその瞬間に

吾は何処へ飛び立つのか。

 

そこにデカルトのcogito, ergo sum.の限界がある。

吾思はず、それでも吾あり。

これがデカルトの誤謬を露はにする一つの瞬間である。

さあ、意識を持たずして吾は眠りに沈降するのだ。

吾の思ひは吾を軽軽と超える。

デカルトの謂を正確に言へばさう言ふ事だ。

さあ、飛び立たう、夢の世界へ。

 

 

驟雨が降ってきた

 

薄ぼんやりと考へ事をしてゐたら

ざあっと驟雨が降ってきた。

それまでの時間、

世界は早く流れる雲に対していつでも驟雨が降る準備で忙しかっただらうが、

私はと言へば、

心此処にあらずの状態で驟雨に不意を突かれた形となった。

一体全体、世界に対して隙だらけの状態で私は何をぼんやりと考へてゐたのだらう。

それすらももう思ひ出せない私は、

無為な時間を浪費してゐただけなのであるが、

その無為な時間にこそ私は己の存在の活路があると看做してゐて、

しかし、それは世界と上手く繋がらず、

残念ながらドゥルーズが言ふやうに

身体のない欲望機械は離接が機能せずに唯、断絶してゐるのだ。

驟雨が降るのも解らずに、

森羅万象の事象を相手にする思索の空回りは、

薄ぼんやりと考へ事をしてゐた私の限界なのだ。

それでも思索する事を已めぬ私は

驟雨が降る中、

屋根に雨粒が打ち付ける雨音を聞きながらも、

内から沸き起こってくる内部の声に聞き耳を立て

密かに此の世界の顚覆を企ててゐるのであるが、

内部の声はそれをあからさまに嘲笑し、

――先づは世界の声を聞くのが先決ぢゃないかね。

と、呆れてゐる。

思索に夢中になれば成る程思索は空転を極め、

それは現代音楽さながら不協和音が迸る交響曲を聴くやうに

私と私の内部は軋む。

私は私の内部とも離接が上手く機能せずに

其処にも深い深い深い溝がある断絶があるだけなのだ。

 

私が私を見失って久しいが、

世界の変容がはっと私が私である事を気付かせてくれて、

無理矢理にでも私は世界に繋がらうとじたばたするが、

どんくさい私は世界の変容についてゆけずに、

ぽつねんと独りあらゆるものから取り残される。

それでも世界は私を掬ひ止め、

私の存在を世界は許すのであったが、

その居心地の悪さは尋常ではない。

それやこれやで私は密かに此の世界の顚覆を企てるのであるが、

そんな不遜な理由で、

つまり、私の我が儘で居心地が悪いと言ふ理由で以て

世界の顚覆を企てたところで、

当の世界は私を嗤ふばかりで、

屁とも思はぬであらう。

 

これまでの人生、私は蛆虫以下の人生を歩んできたが、

それはそれで肯定も否定も出来ぬもので、

今尚、生きてゐる私は

何とも踏ん切りが悪い人生に対して屈辱感しかないのである。

何に対しての屈辱かと言ふとそれは世界であって、

恥辱に塗れた私は穴があったら入りたいのは本心であるが、

然し乍ら、恥知らずな私は開き直って、

世界内に存在する居心地の悪さに我慢するのだ。

何とさもしいことか!

 

驟雨は果たして私の穢れを洗い流してくれるか。

しかし、この禊ぎの雨は恥辱に塗れた私を救ってくれる筈もなく、

私にとっては一事象に過ぎぬこの驟雨は

世界が私を憐れんで流してゐる涙とも私は気付かずに

私は唯、雨音を聞きながら、

早く空を流れる雲を見上げ、

さうしてこの蛆虫以下の私を罵倒する。

 

 

漆黒の闇に溺れて

 

地の下では悍ましく瘴気を発する黒雲が渦巻き、

更にその下には大蛇がとぐろを巻く如く漆黒の闇があり、

其処からは憤怒の炎が囂々と音を立てながら吐き出されてゐた。

漆黒の闇は地から堕する吾達を手ぐすね引いて待ってゐて

漆黒の闇は地から堕する邪な吾を餌に肥え太り、

其処には永劫の時間が流れてゐた。

その漆黒の闇は或ひは地獄と呼ばれる代物なのかもしれぬが、

その内部は地獄に堕ちた邪な吾どもの呻き声で満ち溢れ、

呻き声が大きくなればなるほど憤怒の炎は巨大な火柱を上げた。

それは或ひは未来の太陽なのかもしれず、

大蛇の如くとぐろを巻く漆黒の闇は

或ひは天国、若しくは極楽の正体なのかもしれなかった。

 

つまり、天国、若しくは地獄は地続きであり、

共に其処は漆黒の闇なのであった。

私は夢で何度となく死んでゐたが、

夢の中で死んだ後、私はううっと声にならぬ呻き声を

電磁波を発する如く身を小刻みに震はせながら発しては、

中有を漂ひ最後は悍ましく瘴気を発する黒雲を通り抜け、

漆黒の闇に呑み込まれては

入水するかのやうに息苦しさに堪へられず、

漆黒の闇の中で溺れ、

遠くで憤怒の炎が囂々と音を立てて立ち上る様を

見上げるのであったが、

それも束の間、

足下にぐにゃりと柔らかい感触を感じて

虫唾が走り、

恐怖に戦くのである。

 

よくよく見ると漆黒の闇には人が犇めき合ひ、

私はそれを踏んづけたのである。

人、人、人で溢れんばかりの漆黒の闇は、

悪臭漂ふ人いきれで噎せ返らんばかりであったが、

漆黒の闇ではそれらの邪な吾達は

異形の吾としてその正体を剝き出しにしてゐて、

それは悍ましいといふものでは語り尽くせない、

醜悪極まりない剝き出しの人間なのであった。

私もその例に漏れず、

醜悪極まりない異形の吾としてその正体を剝き出しにしてゐるのは

間違ひないのであらうが、

漆黒の闇の中ではそれを確かめる術がなかったのである。

 

漆黒の闇に溺れて、

私は而して自由を手にしてゐたのかもしれぬ。

其処が地獄でも極楽でも構はぬが、

唯、悍ましい化け物達が人間を食み出して

異形のものとして確かに存在してゐたのである。

それが存在の本質なのかもしれぬと思ひながらも、

私は人間の悍ましい正体に反吐を吐くのであった。

 

 

非対称の関係の絶対的非力さに思ひなす

 

所詮、現存在は自然に対して、また、世界に対して

完全なる非対称の関係にあり、

その非力さは目を蔽ふばかりである。

それは天災を被る度に厳然と露はになるのであるが、

日常においてもなんら変はる事なく、

絶対的な専制的な力を持つ自然、若しくは世界に対して

現存在は一見従順に、それでゐて世界に対抗するべく、

世界の改変を試みるのであるが、

皮肉なことに、現存在がさうする事で、

尚更、天災は非常に冷酷になり、

その絶対的な力でぎゅうっと呻き声さえ発せられずに、

現存在は虫けら同然に自然に弄ばれる。

それは生死すら自然の手の内にあり、

現存在のその非力を苦苦しく噛み締めながら

天災が過ぎるのを唯、ぢっと待つのみ。

 

然し乍ら、死が近しい天災の起きてゐる状態において、

現存在はそれが死に対する現存在の正しき作法のやうに

心躍る心の状態は隠しやうもなく、

そのやうな状態でしか、

多分に現存在は己の死に対峙する事は出来ぬのであらう。

それは生命が誕生した時から脈脈と受け継がれた死の間際の生命の「正しき」状態であり、

ある種、Trance(トランス)状態の中、「光」を求めるやうに死んで行くのであらう。

それではその光とは何の謂なのか。

例へば死に行くものは死の直前、

人生の思ひ出が走馬灯のやうに駆け巡ると言はれてゐるが、

その時、時間は面白いほどに間延びして

とんでもなくゆっくりと流れてゐると感じてゐるに違ひない。

実際に脳、つまり、私的な言葉で言へば五蘊場は

これ以上ないと言ふほどに目まぐるしく「回転」し、

固有時は現実を突き抜ける筈なのである。

その回転は光速に近しく、

その結果、時間は途轍もなくゆっくり流れる。

 

世界、若しくは自然に対して非対称である現存在の在り方は、

世界を顚覆しない限り、

太古から変はりはしないのだ。

 

 

反復から生じる破調

 

何事も反復を繰り返してゐる内に綻びが生じ、

更に反復を繰り返すとその綻びは致命傷となり、

蟻の穴の一穴ではないが、

その綻びが呼び水となり、

巨大な壁は瓦解する。

それまで、しかし、私の形相は無傷で巨大な壁にぶち当たり続けることは不可能で、

とはいへ、ぼろぼろになりながらも巨大な壁に何度も何度もぶつかり続ける。

最早、巨大な壁をぶち破るのに私は肉弾戦を挑むしかない。

それが花開くことがなくとも、

何度も何度も巨大な壁にぶち当たり、

巨大な壁に跳ね返されながら、

小さな小さな小さな綻びが巨大な壁に生じるまで、

巨大な壁にぶつかり続ける。

 

巨大な壁に肉弾戦を挑む覚悟をした私は、

――ぐふっ

と、呻き声を漏らすほどの

巨大な壁からの圧力に対して負けない強靱な形相を

鍛へ上げてゐなければならぬ。

強靱な存在の鍛錬は、

形相と質料の両方を痛めつけて自己鍛錬しながら、

或ひはそれは 自己破壊と言ふ危険を秘めてはゐるが、

それをせぬ事には巨大な壁をぶち壊す萌芽すら生じない。

 

その無謀な反復運動は、しかし、やがて実を結ぶかどうかは解らぬが、

然し乍ら、玉砕覚悟の体当たりの反復運動は、

一縷の望みなのだ。

仮に玉砕覚悟の体当たりで巨大な壁に破調が表はれれば

それは僥倖で

さうなったならば、もう壁が瓦解するまでもう一息。

それまでの永劫に思へる長き長き長き時間に堪へ得る強靱な存在を

私は作り上げてゐなければならないのだ。

 

 

蛻(もぬけ)の空の吾

 

確かに私は存在するのですが、

その核となる吾は蛻の空で、

何処にも見当たらないのです。

何処に行ってしまったのでせう。

私は私を腑分けするやうに

内部を俯瞰してみたのですが、

吾らしきものは何処にも見当たらないのです。

そんな筈はないと

更に目を凝らして私の内部を覗き込んだのですが、

やはり吾は消えてしまったのです。

それでは私の意識はどうかといふと、

確かに意識はありましたが、

何処と無くそれはよそよそしく

その意識が私の意識とは判然としないのでした。

そんな事があるとは思へぬでせうが、

私の意識が私の意識と言ひ切るほどに

はっきりと私の意識である証左が私にはないのです。

それでは私が私と名指してゐるその根拠は何なのかといひますと、

正直申してそれは悪しき習慣に過ぎぬのです。

かうなると私は私である事の自信が何処かへ吹き飛んでしまって、

わなわなと震へ出したのです。

私が私の存在に対してかうも疑心暗鬼に陥ると

後は野となれ山となれではないのですが、

自棄っぱちの私がこの大地に呆然と佇立してゐるのです。

さらさらと頬を撫でながら風が吹き抜ける中、

私は落涙し、

吾のゐないがらんどうの私の内部を

後生大事に抱へ込み

吾の還りを待つのみなのであります。

果たして吾は還ってくるのかと不安いっぱいでありますが、

哀しい哉、吾なしの私はそれでも此の世界で生きて行くのでありました。

それは困難を極めるでせうが、

それでも私を捨て去る事は吾の還るところがなくなってしまふので、

私は自死する事なく艱難辛苦の中、

歯を食ひ縛り生きて行くのでありました。

今日も夕焼けはとても美しく、どろーんと夕日は沈んで行きました。

 

 

がらんどうをどうする事も出来なくて

 

気が付くとおれの意識が宿る場はがらんどうだった。

それを認識したおれがやらなければならぬ事は

自分探しのやうな下らぬ事はせずに、

ぼうっと終日(ひねもす)過ごす事だった。

さうしておれはこの下らぬおれを切っ先鋭い刃で斬首する。

ころりと首から落ちた頭部は

首なしのおれが左手で髪を摑んで天空に掲げる。

さうすれば、斬首されたおれはかう叫べるのだ。

――おれは何処へ消えた!

 

そんな幻視の中、

おれはぼんやりと終日過ごすが、

おれはぼんやりとおれを斬首する光景を思ひ浮かべ、

さうして自己憤懣を晴らすのか。

 

がらんどうのおれは、

がらんどうのおれを後生大事に抱へ込む事なく、

薄気味悪くもぼんやりとおれを斬首する幻視を見ながら、

――くっくっくっ。

と、にやつく事でがらんどうのおれを少しでも充塡しやうと

おれを束の間、瞞すのだ。

ぼんやり終日過ごす事は

がらんどうのおれには吾を忘れる幻覚剤のやうに作用し、

さうしてコロッとおれは幻視に瞞される。

欺瞞の中に溺れるおれは、

――これ程楽しい事はない!

と、有頂天となり、

がらんどうのおれを束の間、おれががらんどうである事を忘れる事で満足し、

さうして意味のない一生を生き切る。

さうなのだ。

人生には元元意味などなく、

意味があると考へてゐる輩は能天気な幸せ者で、

意味のない一生を生き切る苦悶、否、袋小路の人生は、

存在の尻尾を見るのに、若しくは物自体の尻尾を見るのに

最適解の一つなのだ。

 

 

たじろぎて

 

嫌に人慣れしたゴキブリでも

その複眼で以て此方の目と合ったと思った瞬間、

たじろぐもので、

そそくさとゴキブリは目が合った刹那にもう何処かへと身を隠すやうに

大雨を降らし稲妻が轟く巨大な積乱雲に

睨まれたと思った刹那、

雨脚は更に激しくなり、

稲妻は肚の底から響く轟音を放って

近くに落ちた稲妻の閃光に辺りが一際明るくなる時、

私は不覚にもたじろぐのだ。

 

たじろいだ私は

それではどうするのかといふと

只管(ひたすら)瘦せ我慢をする。

瘦せ我慢をしながら内心では恐怖で震へる仔犬のやうに

ぶるぶると震へ

巨大な積乱雲に対して何も出来ぬ己の非力さを嘲笑しながら、

私はそんな私をいたぶるのだ。

己に対してだけ自虐的でSadistic(サディスティック)な私の本質は、

私に対してさへ非力な私をいたぶる弱いもの虐めに精を出しては

早く巨大な積乱雲が頭上から通り過ぎないかとぢっと待つのである。

 

何と痛痛しい事か。

手も足も出ず、

巨大な積乱雲にこてんぱんにやられながら、

心は私の自虐で傷付き血だらけになっては、

頭上を恨めしく思ひながらも

竜巻が何時起きるかとびくびくし、

既に心は竜巻の表象に巻き込まれてをり、

心はずたぼろになり恐怖で捩ぢ切れさうになりながら、

それでも何とか正気を保たうと

ほんの少し残ってゐる己の矜恃に縋り付く。

 

然し乍ら、一つの巨大な積乱雲が過ぎ去っても

巨大な積乱雲が次次とやってきて、

これでもかと恐怖を撒き散らす。

既に心は堪へきれずに胃が痛み出し、

心身共に巨大な積乱雲にいたぶられ

そんな己に対して私は更に嘲笑っては

何と非力な己であるのかと、

嘆いては、

ゴキブリの太太(ふてぶて)しさを羨むのであった。

 

 

果たして意識には重さがあるのか

 

仮に意識の生じるのが

Neuron(ニューロン)の発火現象に帰せられるのであれば、

それは熱を発する筈で、

さうならば意識はほんのほんのほんの僅かばかりではあるが、

重さがあると言ふ事になる。

つまり、これが厳格な事実ならば

意識もまた、重力の魔力から遁れられぬ宿命を背負った存在で、

そもそも意識活動は活動する毎に

その重さは変化して行き、

物凄く精密な重さを計量出来る秤があるとするならば、

意識のAurora(オーロラ)の如き変容を巧く捕捉する事に成功するかもしれぬ。

しかし、もし、意識がEnergy(エナジー)に帰せられぬ何かであったなら、

意識はNeuronの発火現象では説明出来ぬ何かであって、

意識は、物理化学の現象とは違ふ今の科学で説明出来ぬ代物と言ふ事なので、

須く意識の重さを計量すべきなのだ。

現在の科学技術ではそれは可能な筈だ。

 

仮に脳活動で重さの変化が見られ、

それを巧く捕捉出来た暁には、

その重さの変容と意識活動の変容が近似で一致してゐると看做せるならば、

人間は科学と言ふものを更に信じ、

現在の”科学教”は更に信者を信心深くし、

科学万能の世が花開くに違ひない。

 

然し乍ら、計量の結果、仮に脳活動と意識が近似出来ずに

何ら関係性が見られないとなると、

またぞろ、霊魂の、妖怪の、幽霊のお出ましだ。

既存の宗教の信者も増えると思はれ、

科学は躍起になって意識を捕捉するに相応しい理論を生んでは

信者を科学に繋ぎ止めようとする筈なのだ。

 

人工知能の登場で

記憶に関してはどうやら重さの変化があると看做しても

差し支へなささうであるが、

ヒトの多能性幹細胞から作製する豆粒大の人工脳”脳Organoid(オルガノイド)”は、

現代の神経科学で最も注目されてゐるものであるが、

仮にその脳Organoidが意識を持つのであれば、

意識の重さの計量はお茶の子さいさいで

早晩、意識と言ふものが何なのか

仮初めにも明らかになるのかもしれぬ。

 

私の個人的な希望は、意識は、脳活動による重さとの関係性は見られず、

何か現在の科学では説明出来ぬ

不可思議な力が働いてゐると言ふ結果になればいいがと思ってゐる。

といふのも、私は何事も科学的論理に呑み込まれてしまふ

この遊びがない論理づくしのある種の圧迫感のある世相からの少しの解放を夢見てゐて、

科学万能の世がどれほど息苦しい世の中か

ほとほと思ひ知った現在、

妄想することでしかその解消は出来ぬのであるが、

その妄想までが、科学に搦め取られてしまふとなると、

この科学万能の世でほとほと生き疲れた人の逃げ場を、

何処に求めればいいのか歎息する声で満ち溢れる筈で、

科学の影の部分が色濃く闡明する筈である。

 

地獄の再生を夢見、幽霊が存在してほしい私は、

意識は当然脳活動を通して興るのであるが、

然し乍ら、意識は、科学の論理を超えた何かであってほしいと願ひつつも、

脳活動ですら科学の論理からは自由になれぬ現在、

その代わり、人工知能がBlack(ブラック) box(ボックス)として現はれ、

Neuralnetwork(ニューラルネットワーク)等の人工知能の論理的処理能力が

人間の人知を超えてしまってゐる事で生じるBlack box化は

私には皮肉にしか思へず、

人知を超えたものは幽霊等の”紛ひ物”と何処が違ふのか私には解らぬが、

機械学習のAlgorithm(アルゴリズム)を人間が導き出したものだからといふ理由のみで

人工知能が全的に信用出来るものなのかは疑問の余地が沢山あるが、

それでも人工知能は人の情報処理能力を

圧倒的に上回る事で、

人工知能の活用は多岐に渡り、

その結果、人間社会の貧富の格差は更に酷くなる。

この社会的矛盾を緩和するためにも

幽霊は存在し、魂の居場所は確かに確保されるべきなのだ。

積 緋露雪

物書き。

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