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審問官第三章 「轆轤首」

審問官第三章 「轆轤首」

 

 

 

と、ここで、「彼」のノートは破られていた。これは彼がわざとさうしたとしか思えぬのであったが、と言ふのも、彼はこの手記で物語を語る気はさらさらなく、思考がしょっちゅう脱線するやうに、彼が手を加えた事は確実でこれらの手記は、わざわざ分断させるやうに繋ぎ合わされていたのであった。つまり、嘗てのサロン仲間との遣り取りは此処でぶつりと切れて、何とも不可思議な「彼」の手記が続くのであった。それは『轆轤首』と題されたものであった。それは、次のやうにして始まっていた。

 

…………

 

現代に生きる「現存在」は遂に轆轤首へと変化してしまったに違ひない。何故かと言へば、例へばPersonal computer(パソコン)のモニター画面を前にして「現存在」が坐せば、それだけで「現存在」は世界中何処へでも、更には何億光年離れた宇宙へまで難なく行ける自在を手にした訳であるが、それは裏を返せば、「現存在」は世界の何処へでも首のみぐっと伸ばして探訪出来るその無様な轆轤首といふ妖怪に変化して、日日、此の世を轆轤首と化した「現存在」共が跋扈してゐると看做せなくもないのであった。

街中を歩いてみれば解かる筈だが、大概の人は、携帯電話のモニター画面に釘付けで、彼らは己が実際には此の街の此処にゐる事には大して重きを置かずに、更に言へば、全く無関心で、只管、此処でない何処かへとぐっと首を伸ばしてモニター画面が映す仮想空間へと己の意識を飛翔させ、つまり、首のみ仮想空間へとぐっと伸ばした轆轤首といふ化け物の異様な姿を衆目に晒してゐるのだが、その衆目もまた轆轤首と化してゐるので、武田泰淳の『ひかりごけ』ではないが、誰もが己の異様な姿には気付かぬのが常なのであった。

成程、現在、現にゐる世界には全く無頓着な彼ら轆轤首達は、また、事故を起こしやすい迷惑者でもあるのだ。彼らの意識や注意力は「吾、此処に在らず」故に、現実の世界では首のみをぐっと伸ばした轆轤首に化けてゐる為に、その足元は覚束ないのは極極当たり前で、尤も、彼ら轆轤首は、自身が轆轤首になんぞに化けてゐるとは全く思ひもよらぬ事で、しかし、傍から見ればモニター画面に釘付けの「現存在」とは、既に轆轤首なのである。轆轤首とは目玉が胴から離れて伸びる蝸牛のゆっくりとした移動の仕方を持ち出すまでもなく、轆轤首は首をぐっと伸ばしてゐる時は、全く歩く事は出来ずに、大概は、坐ってゐるしかないのが、自然の道理の筈なのである。

目玉がぐっと伸びる蝸牛がゆっくりとしか動けないのは、目玉のみが胴から飛び出てゐるが故に、それは自然な事で、目玉と胴との間に距離が生じた事で蝸牛の現在ゐる場所は、目玉で見てゐる視覚の世界と胴で這ってゐる触覚で感じる世界とでは齟齬が生じてゐる筈で、そんな状態では怖くてゆっくりとしか動けないのは至極当たり前なのである。そして、蝸牛がゆっくりと這ってゐる事からすると、蝸牛は胴で感じる触覚で世界認識してゐると看做せなくもないのである。

翻ってモニター画面を前にした「現存在」もまた視覚は、此処ではなく、何処かへと首が伸びてゐるので、モニター画面を見ながら歩行する事が自殺行為でしかないのは、火を見るよりも明らかで、尤も、現代を生きる「現存在」は、己が轆轤首に変化してゐる事に全く気付かぬ故に尚更性質が悪いのである。

此の「現存在」が轆轤首と化してゐる常態を、或る人はモニター画面の前では誰もが平等を獲得したと高らかに宣言するかもしれぬが、「現存在」が轆轤首といふ妖怪へ変化しなければ、その平等は享受出来ない代物で、その仮想空間に順応する「現存在」の変はり行く姿こそが轆轤首なのであった。此の「現存在」の轆轤首化は、更に進化を遂げて更なる何かの妖怪へと変化するかは、不明だが、しかし、「現存在」は、つまり、モニター画面といふ《もの》を前にしての轆轤首と化した「現存在」は、一度その快楽を既に味はってしまったので、最早、元には戻れぬ存在なのでもある。

ならば、その轆轤首とは何なのかと問ふてみれば、暴走する主体、否、暴走する自意識であって、最早、自意識の発露である世界を己がままに変革出来るかもしれぬといふ幻想と、その欲望の進化、つまり、文明の発展を止める事は不可能事でしかなく、また、文明論ほど虚しいものもないので、此処では文明の本質には触れぬが、「現存在」は轆轤首の旨みを知ってしまった故に、最早、一時もモニター画面なしにはをれず、そして、モニター画面といふ厖大な情報が集積され、何時でも欲しい情報がそのモニターから取り出せる仮想空間へとぐっと首を突っ込んで首を伸ばせるだけ伸ばし、首が自在に仮想空間を飛翔する快楽に耽ってゐる「現存在」を見た時の気色悪さは、名状し難き不快なものがあったが、尤も、今では何処を見てもその気色の悪い轆轤首と化した「現存在」ばかりになってしまったのである。そして、既に誰もが轆轤首と化した「現存在」は、それまでの「現存在」として完結してゐた世界=内=存在とは似ても似つかぬ化け物になってしまひ、尤も、化け物と化した「現存在」にとって完結しない世界に首のみぐっと伸ばして、仮想空間を自在に行き交ふ様は、しかし、私には大いなる嫌悪感と虚脱感と屈辱感しか齎さないのであった。

それでは何時の頃より「現存在」は轆轤首へと変化する次第となったのかと問へば、それは、「現存在」が言葉を発したその時に既に轆轤首へと「現存在」が変容してゆく事は、決定してゐたのである。

言葉は、「現存在」の肉体を離れて《吾》以外の《他》に伝播する。つまり、それを戯画風に描き出せば、轆轤首が首をぬうっと伸ばして相手の《他》の耳元で言葉を発する構図にも見えなくもないのである。

言葉を獲得してしまった「現存在」、若しくは「現存在」の遠い先祖である、鳴く事で己の意思を伝へられる動植物達の未来は、現在成し遂げられてゐる仮想空間を媒介として、何時でも《他》の場所にゐる《他》と繋がれる高度情報化社会の出現へと「現存在」が産業革命以来驀進するのは、当然の成り行きだったのである。

しかし、「現存在」による科学技術の発展は、十八世紀に始まった産業革命以降瞠目する程に急速に発展を遂げたのであるが、その前段階としての十五世紀中頃のグーテンベルクの活版印刷を発明した事にその淵源を辿る事も出来得るし、また、それ以前の「現存在」、つまり、エジプト文明の、ギリシア文明の、その他の古代文明の「現存在」にその淵源を求めることも可能で、唯、現代起こってゐる事は、物質を完全に「現存在」の奴隷として看做し、科学技術の発展に各民族が凌ぎを削るその異様さは、人類史上、一際際立ってゐるる或る意味侮蔑すべき時代なのである。。

仮想空間を獲得した「現存在」、即ち、轆轤首は、それでは何を根拠にして物質を「現存在」の完全な奴隷と看做せるやうになってしまったのであらうか。つまり、「現存在」は文明の中で生活する限りにおいて、誰もがブルジョアジーとして物質に備わってゐる或る特性を最大限「現存在」の都合に合はせて利用して、高度な科学技術により生まれし機器類を「現存在」の奴隷として使ひ捨てする疚しさを何時頃から感じなくなったのであらうか。そして、「現存在」は何時から己が轆轤首である事を肯定し、それが恰も自然な事のやうに倒錯する事が可能になったのであらうか。

などなど、数へ上げたなら切がない疑問の数数が湧いて来るのであったが、詰まる所、それは、私の問題であって、私は現状をちっとも肯定出来ずにゐながらも、文明から隠遁する事も出来ない唯の小心者で、それ故に私は現実に対して憤懣やる方無しの、全く幼稚な《存在》でしかないのであった。

――哀れなる哉、《吾》を受け容れられぬ《吾》を生くる《吾》といふものは――。

つまり、私は、現状に憤懣してゐながら己を憐れんでゐるだけの醜い轆轤首に過ぎず、尤も、私はPersonal computer以外のIT機器は極力使はぬやうにはしてゐるが、しかし、それは《吾》が《吾》に関する憤懣と憐れみに対しての虚栄を精一杯張ってゐるに過ぎぬのであった。要するに、私は己が轆轤首である事を受け容れられずに、絶えず《吾》に対して《吾》は齟齬を来たし、《吾》は何時も《吾》に躓く莫迦な《吾》でしかないのであった。

――成程。

私が轆轤首であるのは、私の頭蓋内の脳といふ構造をした闇たる《五蘊場》――私は脳絶対主義のやうな現状を受け容れる事が出来ずに、脳がある頭蓋内の闇を《五蘊場》と名付けたのである――に明滅する表象群を見てしまふ事そのものに、既に「現存在」がぬうっと首を伸ばして世界の至る所に行ける轆轤首たる存在の淵源があるのだ。

仮想空間と《五蘊場》との親和性は見事と言ふ外ない程に相性がよく、つまり、頭蓋内の闇たる《五蘊場》で発火するNeuronも電気信号ならば、仮想空間も、また、電子的なるものとして表出され、それは、つまり、脳の外部化とも言へる事象であって、敢へて言へば、「現存在」は仮想空間に《吾》の脳を仮初に置いておく《場》にすらになってゐて、それは私が脳を幾つも持つ百面相にも変化してゐる事に外ならないのであった。

――ふっ、百面相の轆轤首か……。

仮想化といふ世界を手にした事で一気に拡大する脳といふ幻想をも含有した《五蘊場》は、しかし、よくよく見ると仮想世界は五蘊でなく、色(しき)がすっぽりと抜け落ちた《四蘊場》でしかないのである。つまり、色の喪失してゐる故に「現存在」は轆轤首になる事が可能なのであって、換言すれば、轆轤首以外は仮想空間といふ世界の住人には為れず、また、巨大化した意識体の化け物、つまり、意識の百面相は、一方では、分身の術を身に付けてそれを如何なく発揮しみせては、《吾》であらぬ《吾》といふ《存在》を知ってしまった憐れなる轆轤首と言へなくもなく、仮想世界に仮初にも《存在》する《吾》の分身は、尤も、《吾》がそれを肯定するしないに拘はらずに、次次と生み出され、そして、《吾》の分身は、只管、消費されゆく憂き目を味はふ事に為るのであったが、それに限らずに、実際、《四蘊場》を《五蘊場》にさせるべく殺戮を以てして強引に《五蘊場》に変化せしめる事で、仮想世界の《存在》を現実に刻印するべく悪鬼の出現すらをも覚悟すべき、脳のみが非常に拡大した《四蘊場》の暴走は、止めどなく、只管に拡大するばかりなのである。

さて、右記の事より轆轤首は、《存在》を殺戮するに至ると、それは首が一つの轆轤首では最早なく、例へば双頭の蛇、若しくは八(やま)岐(たの)大蛇(おろち)にすら、もしかすると既に変化してしまってゐると看做せなくもないのである。しかし、《四蘊場》に《生》の愉悦を知ってしまった《もの》は、轆轤首が一瞬にして八岐大蛇に変化する恐怖を心底知ってゐる筈の《四蘊場》に棲息する《もの》は、例へば日本蜜蜂が雀蜂を集団で殺すやうに、仮想世界に浮遊する轆轤首共は徒党を組んで特定の轆轤首を血祭りに上げる恐怖統治で、轆轤首が八岐大蛇に変化する恐怖を抑へ込んでゐると思はれるが、しかし、徒党を組んだ《四蘊場》に《生》の快楽を見出した轆轤首を傍から見れば磯巾着(いそぎんちゃく)の如く、触手が首へと変化したメドゥーサの頭の如き新たな化け物と化してゐる事に全く無頓着で、その新たな化け物は合従連衡を繰り返して、或る時は、社会変革の原動力に為り得る可能性を秘めてゐる故に、それは絶対君主制すらをも生み出す呼び水にすら変化してゐるのである。

それでは、「現存在」が己が轆轤首で、そして、徒党を組んだ多頭の磯巾着の化け物へと変化してゐる自覚がない《五蘊場》に《存在》する「現存在」は、世界から飛び出すに至って《新人=神人》として、此の世に坐すに至ったかと自問自答した処で、茫洋とした虚無感ばかりが胸奥の深奥に吹き荒ぶばかりなのである。詰まる所、《四蘊場》の仮想空間に仮初に《存在》した処で、その《四蘊場》を己の自在のままに変化する《四蘊場》、つまり、何かを此の世の《五蘊場》の世界をも一変させる《四蘊場》の仮想空間は、絶えず色を欲望せずにはをれず、此の色が欠落してゐる《四蘊場》たる仮想空間には、《五蘊場》に明滅する表象群を書き、若しくは描き出す事でのみ轆轤首は十全たる満足を味はふのである。

つまり、《四蘊場》での自己の意識は、途轍もなく巨大化したのであるが、それが返って《吾》の充溢を遠ざけるのみで、《四蘊場》の仮想空間は、成程、知識と情報には事欠かないが、「現存在」は轆轤首、若しくは数多の首による磯巾着の化け物であるには、《吾》すらをも仮想化する暴挙が必須で、それに疲れ果てた轆轤首は、最後には、Monitor画面を紙としてのみの機能があれば、大満足である事を知って、一時は愕然とするのであるが、しかし、さうであるからこそ「現存在」は轆轤首に変化可能なのもまた確かなのである。

――早く人間になりたい。

これが《四蘊場》の轆轤首の呻きなのである。

さて、物質を完全な奴隷としたブルジョアとしての「現存在」が、色の欠けた《四蘊場》における自在感を手にした轆轤首と化した事に、当の「現存在」は余りに無頓着なのである。ところで、物質を「現存在」の完全なる奴隷として扱へるのは、しかし、少数派なのかもしれぬのである。物質の特性を熟知した上に職人技で、何とも名状し難い素晴らしい品物が出来上がる様は、未だに「現存在」は物質にも《神》が宿るのは当たり前で、職人は、物質で出来た品物に命を吹き込む尊ひ《存在》で、さうした職人の手で生まれ出た商品の殆どは、製品の生産に関はってゐた職人には感慨ひとしほの筈で、また、その製品を手にする消費者と呼ばれる「現存在」にとっては、羨望の的な筈である。また、一見、「現存在」は物質を完全な奴隷として扱ってゐると見える「現存在」の奴隷を、少しばかり注意してみれば、職人が生み出した極上の製品を愛して已まない「現存在」が《存在》するのもまた確かで、彼らは職人技に惚れ込んでゐるは間違ひないのである。

では、職人とは何なのか? これは一見簡単な問ひに思へるが、考へれば考へる程、難問なのである。唯、職人は素材に直に対峙する故に轆轤首ではない「現存在」である。そして、職人は、対峙した物質の「癖」を知り尽くすだけの智があり、また、それを知り得るだけの度量があり、さうして、素材の持つ特性を最大限に生かす製品を生み出すのが、職人の一面ではないだらうかとも思ふ。さうして、職人の手で生まれた《もの》は、極上の上質品であり、其処には美があるのだ。しかし、そんな品物は永らく冷遇され、職人にそれ相応の対価を支払ふ事を忌避し、また、職人の手になる商品は当然売れないのであり、職人に弟子入りする「現存在」も非常に少なく、いよいよ多くの職人技が途絶える危機的な状況に追ひ込まれてゐる職人技も少なくなく、物質に対峙する、つまり、その《存在》の物質に対する仕方は《存在》が身に付けるべき《存在》の「作法」であるが、生産者からも消費者からもその「作法」は消えようとしてゐるのである。これは、由由しき問題で、玉石混交は全て一律に同じ価格で売られ、買ふ方もまた、何が上質なのか全く解からなくなってゐるのである。と、ここで、品物の価値は誰が決めるといふ半畳が返ってくるのだが、「それは歴史だ」とだけ答へておく。そして、この美醜が解からぬ事は、間接的に「現存在」の轆轤首化に拍車をかけてゐるのは間違ひなく、つまり、轆轤首は、首をぐっと伸ばして見る《もの》も鑑識眼で判断する事を要求されるのであるが、上質の《もの》を知らない轆轤首は、見る《もの》全てがのっぺらぼうでその善し悪しが全く解からないのである。また、職人技が如何なく発揮された極上の品物は、売り場に置かれる事は少なく、その結果、轆轤首は、使ひ捨てを前提に《もの》を買ふのである。つまり、社会から《もの》に対する「拘り」が消えて、唯、Comsume(食ひ尽くす、焼尽する)する消費者(Consumer)が大量に生まれる事になったのである。そして、それは、轆轤首の首を伸ばす対象は品物その《もの》の善し悪しではなく、その品物に纏はる情報なのである。その傾向が顕著に表はれるのは食ひ物で、Television(テレビ)の画面の中にぐっと首を伸ばして聞き耳を立てて仕入れた情報を全的に信用し、Televisionで取り上げられた食物が放送後、即完売するといふ現象は既に日常茶飯事で轆轤首はTelevisionが生み出す現実味を多少多く帯びた仮想空間で、首をぐっと伸ばし、その対象物ではなく、それに付随する情報を喰らってゐるに過ぎないのである。これは食物に限られた事ではなく、あらゆる場面で幅を利かせ、轆轤首にとってMonitor画面は、情報を齎す、紙媒体の延長でしかなく、また、私は一切やらないのであるが、轆轤首は首を自在に伸ばしてGameで遊ぶ事で、轆轤首は、Gameを或る種の当事者的なる《もの》へと変質させて、轆轤首は最早首をぐっと伸ばしてゐる事が常態化して、その結果当然の事、「現存在」は、家に籠る事象が顕著になるのである。

轆轤首といふ常態当事者化は、然しながら、巨大地震などの自然災害に対しては、一方で大活躍し、一方では、大惨敗を喫したのである。

轆轤首に気楽に変化してゐた「現存在」は巨大地震に襲はれるや、直ぐ様伸びきった首をひょいっと引込め、「現存在」に戻る事を余儀なくされたのであるが、巨大地震でLifeline(ライフライン)を断たれた「現存在」は、携帯電話を一つの命綱として次次と自身でも情報を発信しては、また、次次と情報が更新される画面上の文字情報に釘付けであった筈で、一方でLifelineが壊滅し、また携帯電話やSmartphone(マートフォン)を持たず、更には電池がなくて使ひ《もの》に為らないRadioしかも持っていない私などは、唯、真っ暗な夜を何の情報もなく過ごしたのであるが、案外私のやうに過ごした人も少なくないのではないかと思われる。因みに私は病気故に車が運転できず、車さへ持ってをらずに、車についてゐるRadioは全く聞けない状況下にあったのである。それ以前に巨大地震による巨大津波を前に、画面情報は全く虚しいだけの《もの》でしかなく、情報とは当事者には殆ど役立たずな《もの》でしかなかった事が暴かれて、多くの人命が巨大津波で失われる事になったのである。その一因に情報による慢心があった事は否めないのである。

しかし、大勢の人が巨大地震の犠牲になってゐるので、私個人の意見を以て一般化する事には、巨大地震で亡くなった方への冒瀆でしかないので、それはやらないが、唯、本能で高台へ避難した人のみが生き残り、社会的な使命を全うして巨大津波に呑み込まれて命を失った人が大勢ゐた事もまた忘れてはならない。

巨大地震を経た今、ITのツールは二極化するのがほぼ見えて来たやうに思ふ。一つは、紙媒体を延長したもので、既にPersonal computerで重宝するのは、個人が発信するtwitterなどの文字情報である。巨大地震の際もこの個人が発信する情報が最も重宝した《もの》に違ひないのである。

かうなると、やはり、「現存在」は仮想空間へと首を伸ばし、仮想空間を自在に行き交ふ事は、既にその魅力を失ってゐて、敢へて言へば仮想空間はその使命を終へてをり、Monitorが最も活躍するのはtwiiterなどの現在を表出する文字情報へと仮想空間は移行して来てゐるのである。

一方で、映画に代表される動画もまた、人気のContents(コンテンツ)で、その場合、「現存在」は思ふ存分に己が轆轤首である事を満喫するのである。

つまり、現在、ITは二極分化を始めてゐて、これまでのやうに紙媒体を真っ直ぐに延長した《もの》と、これまでも楽しんでゐた映画に代表される動画的な《もの》へと分化し、そして、誰もが、文字であらうが動画であらうが発信出来る状況がITが置かれた現在で、文字情報だと仮想空間は二次元で、動画だと三次元となり、時間も含めた四次元世界に常態する「現存在」は、仮想空間が三次元以下の次元である場合にしか轆轤首に為れず、仮に仮想空間が四次元になると、最早「現存在」が轆轤首に為る事は不可能で、全身をその四次元の仮想空間へと「現存在」はぶち込まれる筈である。多分、「現存在」は仮想空間が四次元世界になる事を望んでをらず、己が轆轤首となって首のみ時空間を自在に行き交へる三次元の動画以外の四次元の《もの》は無用の長物になるに違ひない。

それ程に「現存在」が轆轤首に為る事は、快楽なのだ。twitterなどの個人が発した文字情報と動画を既に組み合はせた《もの》も登場してをり、Televisionは最早時代遅れの《もの》へと変はりつつ、私も含めてTelevisionを殆ど見ない「現存在」が確実に増えてゐると言はれるが、動画は、私にすれば、映画と、そして、個人が発信する少数の動画サイトがあればそれで十分なのだ。私は、己が轆轤首と為って、己の異形を存分に味はひたければ、映画を見、それは映画が映画監督の作品だからであり、その点、Gameは私にとっては退屈な時間でしかなく、Gameは、首を伸ばした轆轤首となりながらも手足などの身体をも動かす面倒が付随するので、己が轆轤首となる事では、Gameは私には要らない《もの》なのであり、Gameをする虚しさに私は堪へられないのである。それならば、全身全霊を轆轤首へと変化して己の頭蓋内の脳と言ふ構造をした闇たる《五蘊場》を弄ったり、映画を見たりする事の方が十分に魅力的なのである。

そんな轆轤首の悪癖の一つに、ぐっと首を伸ばしてMonitor画面上に映った《存在》を五感では感じられないにもかかはらず、全てが解かったやうな気に為る事があげられる。また、さうでなければ「現存在」は轆轤首などに変化しない筈なのである。しかし、その悪癖による「現存在」が蒙る損失を補って余りある魅力が、轆轤首がぐっと首を伸ばして仮想空間を行き交ふ事には意味がある筈なのである。

其処は、つまり、仮想空間は虚実が錯綜してゐる事により、「現存在」が自由を獲得したのかもしれず、「現存在」がMonitor画面を前に、轆轤首となる事で、轆轤首は仮想空間において仮想=自由を存分に味はふ事が出来、換言すれば、頭蓋内の脳といふ構造をした闇たる《五蘊場》の或る一部分を極大に拡大させる事で、恰も己の頭蓋内の闇を自在に弄(まさぐ)って、《五蘊場》で遊行する事が可能になったかの如くに、つまり、意識がITによって此の世の広さと等価となったかの如き錯覚が味はへる愉悦に、轆轤首は、それに耽溺する自由に酔ひ痴れる事で、己に閉ぢ籠り、そして、奇妙な事にIT社会では己に閉ぢ籠もれば、閉ぢ籠る程に外部との《接続》が出来る不思議に魅せられて、また、IT社会は尚更「孤」なる事の自由を「現存在」の欲望の赴くままに肥大化される事に為るのは、IT社会の必然と言へるのである。といふのも、現代では、「現存在」の欲望を商品化し、その流通による経済活動で「現存在」の食ひ扶持が得られる仕組みになってゐて、「現存在」が普通に此の世で暮らせば「現存在」の周囲は、己の欲望が商品となった物質で出来た機器といふ名の「現存在」の奴隷で囲まれ、何の事はない、轆轤首と化した「現存在」は動く必然が殆どなくなった故に、己の周りを己の欲望が商品となった《もの》を買ひ貪る事で埋め尽くし、さうして、益益、動く必要がなくなった事により、轆轤首の首ばかりがぐんぐんと伸びるばかりなのであった。

これか現代のブルジョア――現代の労働者は近代のブルジョア以上の生活をしてゐて、また、奴隷、つまり、家電などの機器群に囲まれてゐる故に近代のブルジョア以上のブルジョアに入る――の蓑(みの)虫(むし)化した状況なのである。

それ故に、内部と外部はその境目を失って、渾沌とした世界が出現してゐるのである。此の渾沌とした仮想空間こそが「現存在」の望む世界観の行き着く果てで、それが実現してしまへば、何の事はない、《吾》の消滅と肥大といふ相矛盾する事が一緒くたに起こる無境界化世界の出現で、それは、頭蓋内の脳といふ構造をした闇たる《五蘊場》の或る一部分を極端に肥大化する事で成り立つ仮初の《吾》でしかないが、だからこそ轆轤首と化した「現存在」はその仮初に一瞬花火の如く煌めく《吾》となって、存分に自由を満喫したいに違ひないのだ。その仮初の《吾》の追求こそが、ITによる仮想空間の出現の呼び水に違ひなく、それにいち早く適応したのが轆轤首と化した「現存在」なのである。

さうすると、仮想空間に《接続》しない「現存在」は《接続》出来る「現存在」に蔑まされる事しばしばなのであるが、しかし、その立場は存在論的に見れば、仮想空間に《接続》出来ない「現存在」こそ「まとも」で、仮想空間に《接続》出来る「現存在」は、既に「現存在」に非ず、轆轤首の化け物でしかなく、轆轤首と化した化け物に為る事で「現存在」は、生き物としての進化する《存在》の変態をみすみす逃してゐる《存在》かもしれず、仮に、生物として《存在》の進化を仮想空間に適応する事にすり替へた轆轤首は、飯を喰らひ排泄する以外、全身全霊を仮想空間に《接続》して、歪に肥大化した《五蘊場》ならぬ《四蘊場》に自由を見てしまった浪漫主義者のなれの果てなのかもしれぬのである。

さて、「轆轤首は愉悦なるか?」と、自問自答することらになるのであるが、それに対する私の答へは楽しくもあり虚しくもあるといふ在り来たりの答へでしかないのである。轆轤首に為る事に愉悦がなければ、「現存在」は轆轤首に化ける筈もなく、さて、其処で大いに問題となるのは、己が轆轤首に変態してゐる自覚があるのかどうかであるやうな気がしないではなかった。

仮に己が色の欠落した《四蘊場》において轆轤首であるといふ自覚が全くないとしたとしても、それはそれで別段構はぬのではあるが、しかし、その時の自己同一性は如何様な《もの》なのだらうか? 例へばそれは夢中といふ有様として看做せるに違ひない。それでは夢中なる《吾》とは如何様な《もの》なのか、と、また、自問自答すると、「吾(わ)が心此処に非ず」の状態で、それが仮に読書としてみれば、《吾》は読書により刺激を受けた頭蓋内の脳といふ構造をした闇たる《五蘊場》に、己が構築した架空の《世界》に《吾》は《神》の如くに出現してゐる筈である。読書は当然、「現存在」を本の《世界》へと引き摺り込む《四蘊場》の仮想世界を表出する、つまり、「現存在」は轆轤首となり、それ故に、本の物語世界に《神》の如く出現する事が可能なのは、「現存在」が《五蘊場》を持つ故にである。すると、単純に物事を考へちまふと《神》は、即ち轆轤首の姿に似た何かと言へなくもないのである。「現存在」は《五蘊場》ならば、《神》は「現存在」にとっては千変万化する現実に与した《六蘊場》の主と名指せる《存在》なのかもしれないのである。つまり、「現存在」の《五蘊場》に相当する《もの》が《神》において《世界》といふ現実なのである。

ところが、物事といふのはそんなに単純な訳がなく、世の中で「解かり易い」事は単なる虚構に過ぎず、また、眉唾物で、現実といふあらゆる現象は、皆、複雑怪奇であって、因果律のやうに一見解かったつもりになっている現象は寧ろ数少ないのが現実で、つまり、現実といふ《もの》が複雑怪奇故に「現存在」は愉悦を伴ひながら生き永らへてゐるのかもしれぬのである。

既に、《吾》の《存在》自体が不可解極まりないのである。況して「現存在」が轆轤首へと変容してゐるなどと自覚してゐる「現存在」は殆どゐない、否、私以外ゐないに違ひなく、つまり、私は、「現存在」を、色を欠落した《四蘊場》における轆轤首と名指して一人合点して、己を納得させたいだけなのである。全く莫迦丸出しであるが、しかし、《吾》なる《もの》は、《吾》を《吾》にひれ伏せる事が出来るのであれば、何でもする《存在》な筈である。さうせずにはをれない不安な《存在》が「現存在」で、「現存在」を一皮剝けば、現実に絶えずびくびくしてゐる卑賤な《吾》を見出す筈である。さうして暫く眺めてゐると、その卑賤なる《吾》はひょろひょろと首を伸ばし、色に現実を全て背負はせて、首のみ仮想世界へと飛び立つ現実逃避をし、独り悦に入るのが常なのが観られるに違ひないのである。

さて、それでは、自己とは肯定される為に《存在》するのか、将(はた)又(また)、自己否定する為に《存在》するのかと再び自問自答すると、私の経験からすれば、《吾》とはどう足掻いても自己否定する《存在》としか思へず、然しながら、本音の処では自己肯定したくて堪らないのであるが、実際に自己肯定してみると、お尻がむずむずとこそばゆくて、どうも居心地が悪くて仕方ないのである。そして、一時たりとも自己肯定する《吾》を許せないのであった。これは病的な迄に執拗極まりない私の悪癖に違ひないのであるが、仮令、それが原因で心が病んでも自己否定は止められる筈もなく、思ふに、私は、私に《吾》を殺戮する事によってのみ、私が生き延びてゐるとしか思へない或る意味哀しい《存在》なのであった。そして、その殺害すべき《吾》の一様相が轆轤首なのは間違ひないのである。

実際の処、高度情報化社会で巧く立ち回るには、「現存在」は、否応なく轆轤首に変化しなければ「現存在」失格なのもまた、事実である。それでは、自身を轆轤首であると断言出来るかといふと、多分、誰も己が轆轤首に変化してしまってゐる事は、事実として受け容れ難く、寧ろそれは忌避する事に躍起になる筈である。

そもそも「現存在」は己が轆轤首に変化してゐる事を認める以前に、そんな突拍子もない事を考へる必然性がなく、果たせる哉、「現存在」が轆轤首だらうが、そんな事は「現存在」にとっても知ったこっちゃなく、自身が轆轤首であった処で、

――それが一体どうしたというのかね?

といふ全く無意味な問ひでしかないのが実際の処で、

――「現存在」の異形が仮令轆轤首であったとして、それが「現存在」にとって何か不都合でもあるのかね?

と、大抵の場合、「現存在」が轆轤首である事は、全く「現存在」にとっては無自覚なまま、日常を普通に送ってゐるのであるが、しかし、一度《吾》といふ《もの》に躓いてしまった「現存在」は、それまで「私」と名指してゐた《もの》が《吾》と《異形の吾》との齟齬に懊悩してゐて、その結果として「現存在」はどうあっても《吾》を規定せずば、気が済まない《もの》なのであった。

其処で、私なる《もの》が、《吾》と《異形の吾》との統合であり、私は絶えず《吾》と《異形の吾》とに入れ替はり立ち代はりながら、「私」である事を継続してゐるのである。そして、《吾》と《異形の吾》が自己で括れなくなった刹那に《吾》が轆轤首である奇怪な《吾》を垣間見る事に為るのであるが、大抵は、そんな事に気付かずに、否、目隠しをして、私は《吾》と《異形の吾》の齟齬には立ち入らずに、盲目的に自己肯定するのみで、《吾》の異形が轆轤首である事に知らんぷりを貫き通すのである。

ところが、一度《吾》の異形が轆轤首である事に気付いてしまった私為る《もの》は、既に自己肯定する筈もなく、只管、自己憎悪するばかりが関の山で、さうして私は轆轤首の《異形の吾》を殺害する事ばかりに執着し始めるのである。何故なら私といふ《もの》が私以外の何かである事には一時も我慢がならないのである。つまり、私は《吾》においては徹底的にRacism(差別主義者)で、《異形の吾》は、決して受け容れ難く、常に《吾》は《吾》であるといふ自同律が成立する事に自身の存在根拠を見出し、また、《吾》=《吾》である事の嘘っぱちである事を言挙げする事は永らく禁忌であったのであるが、埴谷雄高が「自同律の不快」と言挙げした事で、《吾》と《異形の吾》の間には 跨ぎ果せない大穴がばっくりと口を開けてゐて、その底無しの奈落に《吾》に踏み迷った《もの》はどうあってもその陥穽に飛び込む衝動に我慢出来ず、結果として次次と飛び込むのである。それはその陥穽に棲む《異形の吾》を殺害する為にあらゆる手練手管を駆使して、轆轤首たる《異形の吾》の首を取って勝鬨を挙げる事ばかり夢想する事による為であるが、その執念たるや凄まじいの一言である。尤も何故に自己憎悪が凄まじい《もの》に為るかと言へば、それは自己愛故のことである。

――奴は敵だ! 敵は殺せ!

この箴言は、私において最も闡明するのである。私は、さて、一日に何人の《異形の吾》を殺害してゐるのであらうかと、自身に問へば、多分、百人は優に超える《異形の吾》を殺害しているのは間違ひなく、しかし、《異形の吾》は《吾》が《存在》する限り不滅で、何度殺されようが何度でも甦り、決して屍となって《吾》の現前に横たはる事はなく、只管《異形の吾》は、《吾》を侮蔑しながら、絶えず自己憎悪へと《吾》の在り処を持って行く、私にぽっかりと開いた陥穽、それを敢へて名付ければ、《パスカルの深淵》に外ならないのである。

ところで《異形の吾》とは、自身が思ひ描く理想の《吾》でしかないといふ見方が出来得るかもしれぬが、《異形の吾》は、そもそも深海生物の如くGrotesqueであり、本性剝き出しの《吾》である。それを《吾》と看做す《吾》は、さて、何を根拠に《吾》と判断してゐるのかを熟考してみると、《吾》がそもそもGrotesqueで、《異形の吾》が《吾》と名乗ってゐるからである。

では、《異形の吾》は対自であるのかといふと、どうも対自では捉へ切れぬ《もの》で、《異形の吾》は、即自と対自との両面を持ってゐて、また、《異形の吾》は脱自すらをも暗示する奇怪な様相を持った《もの》なのである。そして、《異形の吾》の一形態が轆轤首とも言へるのであるが、轆轤首の《吾》には、普通に《吾》を名指してゐる極、普通の《吾》もまた、轆轤首へと変化してゐるので、換言すれば、轆轤首に《吾》が変化するのに何の躊躇ひもなく、即座に《吾》は轆轤首へと変化し、五蘊の色が欠落した仮想空間に脳を接続させて、それからは、伸縮自在の首を持つ轆轤首へと変容するのであった。

さて、ところで、轆轤首へと変容する《吾》とは、しかし、考へてみると、轆轤首の《吾》は、頭蓋内の脳といふ構造をした闇たる《五蘊場》に生滅する表象群と同属の《もの》と考へられなくもないのである。つまり、内的自由と轆轤首の《吾》は同属の《もの》で、成程、轆轤首の《吾》は首が自在に伸縮出来る故に、もしかすると自由かもしれないのであるが、でも、それは仮初の仮象においてさうなのである。ところで仮初の仮象は何かと言ふと、それは生まれては即座に闇の中に消ゆる運命の思考群、若しくは、表象群と言へなくもないのであるが、その生まれては即座に消ゆる運命にある思考群――それはその時の気分に大いに左右されるが――に何処か似てゐなくもなく、ところが、思考といふ《もの》は、深く色たる肉体に根差した《もの》であり、色の欠落した《四蘊場》を自在に行き交ふ轆轤首には徹底して色、つまり、肉体が欠落した妄想群が犇いてゐるのであり、それは、詰まる所、深海生物の妄想がその姿に直結したやうな闇の深部における思考の事を総じて《四蘊場》の表象と看做してしまふと、仮想空間に生滅する《もの》は、色即是空、空即是色に限りなく漸近するかもしれぬ可能性を秘めた何かかもしれず、尤も、仏教徒、若しくは修行者は、肉体を酷使するが、轆轤首においては色たる肉体は単なる四蘊の附属に過ぎす、それを譬へて言へば鮟鱇(あんこう)の雄に過ぎず、また、例へば仮想空間に対して肉体は別段どうでもよく、況して酷使することなどあり得ず、或る意味、轆轤首と化した《異形の吾》において、色たる肉体も含めた《五蘊場》は、自由を満喫してゐると看做せなくもないのである。しかし、轆轤首と化した《異形の吾》には徹底して欠落してゐるのは現実であり、仮想空間には、徹底して諸行無常は欠落し、つまり、仮想空間では更新、上書きされる事は当然の成り行きであり、只管、Digital記号化されたDataが蓄積され、それは何時でも同じ《もの》が参照可能な、極論すれば、まるで、時が停止した世界の一様相を表はしてゐる何かと言っても過言ではないのである。尤も、仮想空間には現実を反映した表象が現はれるが、それは、しかし、仮想空間に出現した途端に徹底して時間為る《もの》を剥奪された去来(こらい)現(げん)の中で絶えず置いてきぼりを食ふ宿命にある現在なる《もの》のみにその価値が収斂されてしまった、永劫に成長することを禁じられた思索の未熟児と言へなくもないのである。

では、去来現の中で現在のみが絶えず置いてきぼりを食ふといふ事態を、文字通り感覚的にでも理解してゐる人は、これまた、私のみなのかもしれないと思ふが、しかし、「現存在」の頭蓋内の脳といふ構造をした闇たる《五蘊場》においては、未来と過去は可変する《もの》で現在のみ絶えず現実に対峙してゐるので、現在のみ不可変な《もの》として、「現存在」は絶えず現在に間断なく投企されてゐる事態に正直な処、「現存在」は絶えず戸惑ってゐるのである。その戸惑ひは絶えず変容する事を強要されてゐる「現存在」の忙しさによるところ大と思はれるが、現在において現実に対峙するしかない「現存在」の《存在》などお構ひなしの現実に対して、「現存在」は己の生存を賭して生存する術を考へられるだけ考へながら現実に対して当意即妙に絶えず変化する現実に対応する事に精一杯なのも、また、「現存在」が置かれてゐる深刻な事態なのである。現実により変容を余儀なくされてゐる「現存在」は、現実により絶えず変容を突き付けられる事により、どうした訳か時間を線直線の如き一次元の連続体として朧に想像してゐるのであるが、此のDigitalで、現在の様態を絶えず蓄積し、Dataとして全て過去化若しくは未来化する事で、尚更、現在においてきぼりを食ふ現在、或るひは、絶えず現在を蓄積してゆくDataにより導き出された現在に対する過去の惰性若しくはDataにより予測される未来から逆算される現在といふ在り方が、それ迄裸一貫で現実に対峙して来た「現存在」に、厖大なDataの網で把捉可能な《もの》として現在を、「現存在」においては制御可能な《もの》といふ幻想を与へる事になったのであるが、しかし、自然の猛威の前ではそんな軟な幻想は木端微塵に砕かれて、再度「現存在」は絶えず激変する遁れやうのない現実に対峙してゐる事を再認識させられたのである。去来現において現在のみが置いてきぼりを食ふのは、「現存在」の生存を賭けた気概なしには「現存在」は現実を生き残れないといふ事態に直面してみると、「現存在」は、生きてゐる事は単に奇蹟でしかなく、その「現存在」を《生》と《死》に分けるのは、もしかすると単なる偶然に過ぎないのではないかと、現実に対して疑惑の目を向けるのであるが、しかし、「現存在」は直ぐにまた、厖大に蓄積されたDataに縛られる事を望んでゐるかの如く外部の仮想現実に脳を《接続》させ、再び、「現存在」は、この期に及んでも轆轤首へと己を変容させる愚行を再び行ふのが、多分、多数の「現存在」の有様なのである。

さて、厖大に蓄積され続けゆく現在と過去のDataに智慧が《存在》するのかと問へば、多くの人は、《存在》する筈だと答へると思ふが、私にはどうしてもさう思へず、智慧は「現存在」が裸一貫で現実に対してどう対応するかでしか生存の智慧は授からないやうな気がしてならないのである。それというのも、「現存在」は、肉体たる色を抛り出して首のみを伸縮自在に伸ばす事で、Dataの洪水たる仮想空間に己の生存の、つまり、己の未来の《存在》を見出す愚行を絶えず行ってゐるのであるが、色を放り出した轆轤首には現実は対峙する《もの》ではなく、単に唯、やり過ごす《もの》でしかなく、仮想空間に自在に首を伸ばして、《吾》の存続する術をその厖大なDataの中から探してゐる轆轤首のその醜悪な姿は、最早何をか況やである。

ところが、厖大に蓄積され続けるDataは、「現存在」の生存に或る示唆を齎す事は、否定する事は出来ず、そのDataは寧ろ否定するのではなく積極的に活用する事で、「現存在」の生存の確率が増すのは、誰も否定出来ない事実である事であるが、しかし、私はその事に或る名状し難い憤懣を覚えるのであった。

さて、その憤懣の因を自身に問ふてみると、ドストエフスキイが観念に憑かれた人間を紙で出来た人間と形容したやうに、時時刻刻と蓄積されゆくDataの活用に憤懣を私が抱くのは、紙でなく、現在はDataのCopy&Pasteで出来た人間に「現存在」が堕す、その《存在》の劣化とも言ふべき《存在》の様相に憤慨するのである。今の世、独創は蔑まされるが、Dataを構造化し、編集する能力に長けていれば尊敬される、何とも奇妙な世の中になったと私は感嘆するのであった。

ところで、仮想空間は、Monitor画面を前にすれば、何《もの》にも「同じ」仮想現実に対峙してゐる事になるのであるが、尤も、仮想空間は本当の現実に対峙してゐるかの如き錯覚を齎すのには誠に優れた装置として機能するので、仮想空間に首を自在に伸ばす轆轤首は、己の情報の発信を仮想空間へ向けて投企し、仮にそれに反応があると胸奥で歓喜の声を上げて、その見知らぬ《他》の轆轤首の返答に応じる事で、仮想快楽と呼ぶべき得も言へぬ快楽に自己陶酔する或る意味《自》と《他》にたいしてふしだらな《存在》が仮想空間には生まれるのである。しかし、それが良いか悪いかを問ふ事は愚行に過ぎず、本当の処、仮想空間において快楽を感じる事などどうでもいい事で、そんな事は各轆轤首が好きなやうにすればいいだけの事であるが、唯、それは蟻地獄の如く一度嵌ったならばもう抜け出せぬ快楽である事は、仮想現実世界への中毒者が《存在》する事からも自明である。

とはいへ、誰もが轆轤首となって仮想空間へと《接続》出来るかと言へば、それは否で、例へばtwitterを例にすれば、それにはBlock機能があり、《吾》はある時一方的に《他》にBlockされて《他》に《絶縁》されるのである。而もBlockされるのはほんの些細な批判をしただけの場合が殆どで、最早さうなると何をか況やである。つまり、仮想空間においてこそ、おどろおどろしい自我が剥き出しになり、其処では絶えずぎすぎすした不安定な関係を生んでは、《他》をBlockする愚行が濫用される事になり、Blockされた轆轤首の《吾》は、内心憤怒してゐるのであるが、此のつれなさこそが仮想空間が仮想である所以であって、轆轤首と化して仮想空間を自在に飛び回ってみた処で、其処に《他》が出現すれば《吾》は《吾》として我執に囚はれる事になり、そして、それは、多分、とても醜い事に違ひなく、我を剥き出した《他》の《存在》を認識する《吾》は、己が色を欠いた轆轤首に過ぎないことを嘆く事になるのである。つまり、《吾》は本心ではBlockした《他》をぶん殴りたいのであるが、如何せん轆轤首の腕なんぞ高が知れてゐて、そのBlockした《他》には遠く及ばぬ故にBlockされたが最後、《吾》はその《他》と永劫に仮想空間では《絶縁》のまま、最早関係が修復されることはないのである。《吾》はさうなると途轍もなく哀しい孤独感を味はふ羽目に陥る場合もあり、《吾》はその胸奥にぽっかりと開いた穴を埋めるべく、別の《他》を物色するのである。でなければ、只管、《他》のtweetをMonitor画面上に垂れ流したまま、《吾》は仮想空間に飛び込むことなく、唯、ぼんやりとMonitorに目をやり、さうして不意に轆轤首である事から落ちこぼれ、金輪際、轆轤首に積極的になる事は最早なくなるのである。

さて、それでは、頭蓋内の闇たる脳といふ構造をした《五蘊場》が《接続》する仮想空間に氾濫するDataといふ名の厖大な情報は、現実といふ《もの》が各人によって様様である事を知らしめ、そして、現実は、そもそも此の世に《存在》する《もの》の数だけあり、と、今更ながらその厖大な情報の氾濫と濫用に戸惑ひつつも、如何なる情報と雖も、それが情報である限り、その情報を受け取る《吾》は、絶えず轆轤首となって情報を喰らひ、生き延びるのであるが、その時の孤独感と言ったならば名状し難き《もの》で、その原因は、厖大なる情報が絶えず更新されゆく仮想空間を前にすると、《吾》が此の世に《存在》せずとも何ら《世界》は変はる事無く、唯、《他》が発信し続ける情報で絶えず満ち溢れ、Monitor画面の前にゐる《吾》の《存在》の虚しさは底無し沼の如き《もの》で、さうして仮想空間を覗き込む轆轤首は絶えず底無しの哀しさを以て吾が《存在》を噛み締める外に、この高度情報化社会では《存在》するのは最早不可能な事に為ってしまったのである。

さて、轆轤首へと変化した《異形の吾》は、また、《吾》にぽっかりと開いた底無しの穴を見つけては覗き込み、恰も轆轤首が逆立ちしたやうな、真に無様な姿の轆轤首に、《吾》はなってしまふのである。《吾》に開いた底無しの穴を《異形の吾》が覗き込むといふ愚行もまた、内的自由の為せる業なのではあるが、その内的自由の行き着く先はといふと、大概、此の世の最後の秘境たる《吾》にぽっかりと開いた《吾》の穴に違ひないのである。さうして《吾》は、《吾》に関して終はる事のない堂堂巡りを繰り返し、その穴を《吾》といふ言葉で名指して、その結果、《吾》は必ず曲解される次第になるのであった。

ところが、轆轤首が、《吾》に開いた底無しの穴を何処までも首を伸ばして覗き込んでも、全く何も見える事無く、唯、漆黒の闇が眼前に拡がるばかりで、その時の私と言へば、何処へもやりやうのないこれまた底無しの虚しさに苛まれる事になるのである。そして、これは、轆轤首の《吾》がその穴を覗き込む以前に既に解かり切ってゐるのであるが、その空虚を骨の髄まで知ってゐるにも拘はらず、轆轤首の《吾》はその《吾》にぽっかりと開いた穴を覗き込みたい欲求を満たしたいが為に欲求の赴くままにその穴を覗き込むのが常なのである。

さて、《吾》が空虚である事は、然しながら、《吾》自身には堪へられない事で、《吾》と呼ぶ《もの》が、何かの《存在》の芯である《もの》として、あってほしいといふ夢想を《吾》は抱くのであるが、事実は《吾》はとことん空虚であるといふ事である。仮想世界に自在に《接続》し、また、自在に首を伸ばし、仮想世界において、解からぬ《もの》などないやうに思はれるのであるが、それは、灯台下暗しで、仮想世界が何処までも拡がりDataが蓄積されようが、決して解からぬままであるのは、何を隠さう轆轤首自体の《吾》なのである。これは、何時もながら轆轤首と化した《吾》を困惑させる因に為り、《吾》に関する事を仮想空間に厖大に蓄積されてゐるDataを探求し、検索をかけるのであるが、Monitorに表はれるのは、《吾》が求めてゐる《もの》とは途轍もなく乖離した《吾》なる《もの》がばかりで、つまり、仮想空間にない《もの》が《吾》なる《もの》なのであって、つまり、それは詰まる所、《吾》にも仮想空間にもぽっかりと底無しの穴が開いてゐて、それを《吾》は、《吾》と名付けて、その穴が暴れぬやうに絶えず監視してゐるのである。

《吾》に対する《吾》は、それが轆轤首であらうが、色ある《五蘊場》の《吾》であらうが、何処かびくびくとしてゐて、腫物に触るやうにして、《吾》は《吾》に対峙してゐるのである。つまり、《吾》とは《吾》の制御が利かぬ一番身近で一番《吾》と乖離してゐる《もの》なのである。《吾》が仮想空間を自在に行き交ひ、時間を仮想空間の中で或る意味浪費してゐるのは、詰まる所、《吾》の正体を見たくないが為なのであるが、しかし、《吾》は好奇心の塊で、どうあっても《吾》なる《もの》を見尽くしたくて仕様がないのも、また、本心で、どうしても《吾》は《吾》の周りをうろつく事になるのである。尤もさうして見出される《吾》は、ぽっかりと開いた穴以外の何《もの》でもなく、轆轤首と化した《吾》は、その《吾》の穴凹へと首を突っ込み、何《もの》もない《吾》といふ《もの》の実体を知って、何時も愕然とするのである。

すると、《吾》の穴からは、

――ぶはっはっはっはっ。

と哄笑する嗤ひ声が聞こえて来て、《吾》は只管戸惑ふのである。すると更に大声で、

――ぶはっはっはっはっ。

と《吾》を嘲笑する嗤ひ声が頭蓋内の闇たる脳といふ構造をした《五蘊場》全体に響き渡るのであった。

私は《吾》にぽっかりと開いた穴を嘗てはその穴を通して虚数の世界が見られるので《零の穴》と呼んでゐたが、現在ではその穴を《パスカルの深淵》と名付けて、その穴の拡大だけは何とか抑へてゐたのであるが、尤も《パスカルの深淵》は日日その深化を深めてゐるやうな気がしなくもなく、その所為もあってか、私の日課として《パスカルの深淵》を探し出し、それが首尾よく見つかれば、その《パスカルの深淵》を覗き込むのであったが、どんなに首を伸ばしても眼前に拡がるは漆黒の闇ばかりで、そして《パスカルの深淵》からは絶えず、

――ぶはっはっはっはっ。

といふ《吾》を嘲弄する嗤ひ声が聞こえてくるのであった。そして、その哄笑がぴたりと已むと今度は、《パスカルの深淵》を一陣の風が吹き抜けて、何とも哀感漂ふ何《もの》かの噎び泣く泣き声のやうな風音が聞こえてくるのであった。

その風音を聞きながら、轆轤首の《吾》が、その《パスカルの深淵》に首尾よく辿り着ければ運よく《パスカルの深淵》の正体を見つけ出し、其処に首を突っ込むといふ行為を行はずにはゐられぬのであっが、その行為は途轍もなく虚しく、その虚しさは名状し難い《もの》であったが、しかし、《存在》に憑りつかれてしまった《もの》はそれが何であれ、《吾》の在処を闡明し、多分にGrotesqueな姿形をしてゐるに違ひない《吾》なる《もの》の正体を白日の下に晒すといふ《吾》にとっても《他》にとっても迷惑千万な恥辱に満ちた愚劣極まりない行為をせずには、《吾》は《吾》に対してその《存在》に一時も我慢がならず、遂には、《吾》は《吾》を呪ふのである。さうして、《吾》は《吾》から少しでも遁れるやうにして色の欠いた《四蘊場》の仮想空間に《接続》し、《吾》を抛り出した轆轤首になるといふ何とも奇妙な離れ業を身に付け、轆轤首の《吾》には《吾》は無しといふ奇妙奇天烈な事象を断行するのである。

ところが、《吾》なる《もの》は、奇妙な引力がある《もの》で、厖大なDataが時時刻刻と蓄積されゆく仮想空間へと首を伸ばし轆轤首と化した《吾》の首は、或る閾値に達するとぐっと《吾》に引っ張られて、すとんと首が元の処に収まるのであった。つまり、《吾》とは、結局の所、《吾》から遁れ出られぬ極極当たり前の結論に為るのであるが、それはBlack hole顔負けの事象の地平線が《存在》する《もの》なのであった。

《吾》の事象の地平線を例へば《吾閾》と名付けると、《吾閾》の中において《吾》の出現は、全て同等な《もの》、つまり、確率的に同じといふ事なので、《吾》は《吾閾》においては何処においても同等に出現可能で、それはハイゼンベルクの不確定性原理の如く、《吾》の在処は最早確率でしか語れず、また、太陽の黒点の如き《パスカルの深淵》が《吾閾》の何処かでばっくりと口を開けると、《吾》はその《パスカルの深淵》に纏はり付く確率が高くなり、そして、《吾》はその《パスカルの深淵》を覗き込みたい衝動には抗へず、首尾よく見つけ出された《パスカルの深淵》に首を突っ込んでは、

――《吾》、未確認。

といふ徒労を繰り返すのである。仮想空間に何時でも《接続》可能になった轆轤首の《吾》の出現が、尚更、《吾》の正体を見難くし、また、弾幕を張って轆轤首の《吾》には、時折、《パスカルの深淵》の在処すら隠すやうになり、《吾》は、何処からか発するのか解からぬ《吾》といふ強力な引力に絶えず引っ張られながら、不明なる《吾》を探す徒労に茫然としてゐるのである。ところが、《パスカルの深淵》からは絶えず《存在》が噎び泣くやうな風音と共に《吾》を嘲る、

――ぶはっはっはっはっ。

といふ哄笑が聞こえて来て、《吾》が《吾》から遁れる事を絶えず断念する密約が《吾》の与り知らぬ処で《存在》と結ばれてゐるのか、轆轤首と化して《吾》からの自由なる飛翔を夢見るそんな《吾》は、しかし、《吾閾》からは一歩も出られない哀れな《存在》なのであった。そして、《吾》なる《もの》は最早、《吾》と名指し出来るやうには《存在》せず、絶えず確率論的に《吾》は曖昧にしか《存在》しないのであった。

つまり、《吾》なる《もの》は、《吾》以外の《他》に《存在》する確率は決して零であった事はなく、それは、詰まる所、《吾》が《吾》であるのは確率何パーセントとして、そして、《吾》が《他》であるのもまた、確率何パーセントとして語られるべき《もの》に違ひないのである。

それ故に、《吾》にぽっかりと穴が開いた《パスカルの深淵》が《吾》に《存在》するのは当然の事で、《吾》が《吾》として確率《一》でない限りは、《吾》には虚しき穴凹が《存在》するのが自然の道理といふ事である。

《吾》の在処が《吾閾》にあるとするならば、《吾閾》は零次元、つまり、点としても、一次元、つまり、線としても、二次元、つまり、面としても、三次元、つまり、立体的な何かとしても、四次元、つまり、《吾閾》が四次元多様体としても、更にこのやうな事を蜿蜒と続ければ、∞次元まで考へる事は可能で、それは《吾》が表象と呼ばれる何かであるといふ事は、表象は、例へば、∞次元の何かであると言へなくもないのである。

《吾》が《吾閾》の中でのみ轆轤首であり得ると仮定してみると、厖大なDataが蓄積される仮想空間に《吾》が均等に《存在》する可能性は零である筈はなく、つまり、仮想空間の何処でも轆轤首の《吾》が《存在》する可能性は確率零でなく、否、《吾》なる《もの》は、《吾閾》に均等に《存在》する《もの》であり、更に、轆轤首が仮想空間に何時でも《接続》可能なのは、《吾》が仮想空間に何時でも《存在》してゐる可能性を暗示してゐるとも考へられ、さて、さうなると、《吾》は《吾閾》以外の何処にも或るひは《存在》可能な何かと想定する事も可能と言へるのである。

すると、《吾》は此の世の何処にも《存在》すると仮定出来なくもなく、《吾》は、仮想空間に轆轤首として《存在》するばかりでなく、此の現実の《世界》にも、それは限りなく零に近いとはいへ、しかし、《吾》は、確率が零に為る事は《神》すらも断言出来ぬやうに此の《世界》の《吾》以外の何処にかにも《存在》する《もの》としてあると考へられなくもないのである。

Cogito,ergo sum.が、もしかすると《吾》を《吾》なる《もの》へと封じてしまった元凶であったかもしれず、東洋では極当たり前の《気》といふ《もの》は、《吾》が《吾》以外の此の世の何処かに《存在》可能な事を言ひ表はしてゐる一つの世界認識の仕方に違ひなく、多分、《吾》が《吾》に封じ込めらた事は、全宇宙史を通しても現在程過酷に《吾》の身の上に《存在》した事はなく、つまり、この事を極論すれば、シュレディンガーの波動方程式により《吾》も《他》も此の世の何処にも遍く《存在》可能な《もの》なのかもしれないと考へた方がどうやら自然の道理のやうな気がしないでもないのである。

さうすると、《吾》も《他》も、或る時は《吾》や《他》には《存在》せず、何処とも言へぬ神出鬼没な《もの》として、此の世に遍く《存在》する可能性の確率は決して零ではなく、換言すれば、《吾》を語るには此の世を遍く語る事に等しき事で、つまり、《吾》の理解とは即ち、此の宇宙を理解する事に等しいに違ひないとも言へるのである。

ところで、《吾》が《吾》である、例へばそれを《絶対吾》と名付ければ、その《絶対吾》が《吾閾》に確率《一》で《存在》しないのかと自問すれば、既に《吾》が轆轤首となって仮想空間に《接続》し、仮想空間を自在に行き交ふ《吾》といふ《もの》を知ってしまった《吾》において、《絶対吾》なる《もの》の《存在》は一笑に付すべき《もの》で、《吾》は彼方にゐたかと思へば此方にゐるといった此の世に遍く《存在》可能な恰も忍者の如き《もの》として此の世にあり、それ故に《吾》は《吾》にぽっかりと開いた穴凹を見ては、《吾》は《吾》に踏み迷ふのである。さうすると、《吾》に関して《吾》を「こやつが《吾》だ」とは最早名指せぬやうに為り下がった《吾》は、既に渾沌に投げ込まれてゐて、その《吾》を《他=吾》と名付ければ、その反語のやうなその言ひ回しの《他=吾》として《吾》は、既に此の世に《存在》してしまってゐると確率論的に考へた方が自然とも言へるのである。

さて、先ずは、《他=吾》とは、此の世に《存在》する《吾》と《他》との間を巧く取り持つ潤滑油の如き《もの》とも考へられなくもなく、《吾》に《他=吾》が《存在》するといふ事は、《吾》は《他》へと想像力を以て《他》の有様に思ひを馳せて、《他》もまた《吾》と同様に《吾》にぽっかりと穴を開けた《パスカルの深淵》に恐怖し、それ故に《吾》は《パスカルの深淵》を覗き込む欲望に打ち勝ち難い事は、《他》にとてっても同様の欲望と看做すの事が可能である。

つまり、それは《吾》と《他》は《存在》に対しては同志であると看做せ、《吾》が確率《一》としては此の世に《存在》する事はあり得ない事象である事から、《吾》は元来、《他》に浸食された《存在》として「先験的」に強要された《もの》以外の何《もの》でもないのである。

それでは、《吾》にぽっかりと開いた穴凹たる《パスカルの深淵》が《吾》における《他》と看做せるかと問へば、それは本能的に違ふと《吾》は感じ取り、《吾》に《存在》する《パスカルの深淵》にこそ、《吾》のGrotesqueな本質が隠されてゐて、その代はり《他=吾》はサルトルがさう呼んだ対自に近しい何かであって、《他=吾》は、万物共通の己に巣食ふ《吾》の一様相であり、《他=吾》は《存在》が《存在》足らしめてゐる万物共通の《吾》の一面相と看做すと、《存在》が《存在》を認めるのは、如何なる《存在》にも《他》を類推する《他=吾》が確かに《存在》する外に、《吾》は《他》と対峙し、そして《他》と解かり合へる《もの》ではないのである。

では、《吾》にぽっかりと開いた《パスカルの深淵》は何なのかと問へば、《吾》が例へば生き物を例として取り上げれば、たった一つの受精卵から、細胞分裂を繰り返す、その時の《吾》たる一細胞が不意に分裂して二つの《吾》といふ細胞が生じる時の奇妙さに深く根差した不安とも名状し難い《吾》のみぞ知る《吾》なる《もの》の不気味さに外ならないのである。

しかし、その細胞分裂は、生き物であれば、如何なる生き物も経験してゐる筈で、それこそが《他=吾》で、細胞分裂の奇妙で不気味な感覚を共有する事でお互ひにその《存在》を認めると想定したい処であるが、しかし、たった一つの受精卵は将に此の世にたった一つしか《存在》しない受精卵、換言すれば、いづれも遺伝子が異なる故に、その此の世に二つと《存在》しない受精卵が不意に細胞分裂をする時の奇妙で不気味な感触は、只管、《吾》は、最初に二つの分裂した細胞を跨ぎ果し、次に、四つに分裂すれば、《吾》は四つの細胞を跨ぎ果す何かであって、それは、徹頭徹尾《吾》にしか知り得ない《もの》で、また、《パスカルの深淵》の淵源を辿れば、この細胞分裂する《吾》といふ細胞の奇妙で不気味な処へと辿り着く筈で、其処では、五蘊の中でも色の最も大きな影響下にある筈である。その時には色を欠いた《四蘊場》の仮想空間に自在に《接続》する轆轤首の《吾》における《パスカルの深淵》のやうな《吾》にぽっかりと開いた陥穽は全く《存在》せず、詰まる所、《吾》の本質に深く関係する《パスカルの深淵》が如何なる生き物も含有してゐる為に、己の《存在》の不可思議で尊ひ《もの》である自覚がそれ故に芽生えるに違ひなく、尤も《パスカルの深淵》を含有する《吾》の皮相な部分では、《吾》は《他》と連帯し得るが、《吾》が《他》と連帯する最たる《もの》は、《パスカルの深淵》の共有ではなく、《吾》に必ず《存在》が確立零でなく《存在》する対自たる《他=吾》が《吾》に必ず侵食してゐる事を通しての事に違ひないのである。

それでは、《パスカルの深淵》は《他》においては《存在》しないのかと問へばその答へは、

――否。

な筈である。それは共同幻想と言ってしまへば身も蓋もない事なのかもしれぬが、《パスカルの深淵》と言ふだけで、既に此の世には誰の目にも見えてしまふ底無しの深淵があるといふ感覚を払拭出来ぬ筈で、つまり、誰も《吾》を特定出来ぬままに此の世に《存在》してゐる証左こそが、《パスカルの深淵》の有無に違ひないのである。

当然、

――俺には《パスカルの深淵》なんてありゃしないぜ。

といふ《もの》の方がもしかすると圧倒的な数かもしれぬとはいへ、さういふ《もの》共も《吾》に関して百パーセント知ってゐるかと問はれれば、必ず、

――否。

と答へるしかない筈なのである。

さて、其処で《吾》は殆どの場合、不意に《吾》に現はれた《パスカルの深淵》に落っこちるのが落ちで、目を閉ぢれば瞼裡の薄っぺらな闇ですら涯なき闇へと通じてゐるかの如き錯覚に無限を重ねてみるのであるが、瞼裡の闇が、頭蓋内の闇と直結してゐる事を不意に思ひ出しては、《パスカルの深淵》といふ言葉に無限を対峙する《吾》といふ、《パスカルの深淵》に落っこちて、闇しか見えない《吾》を象る事になるのであるのである。さうして、象られた《吾》の姿形は、《吾》を満足させる事は一度たりともなく、況してや、さうして象られた《吾》が轆轤首では尚の事、自己嫌悪のみを《吾》に齎すのみなのである。

ところで、此の世の森羅万象が、皆、《パスカルの深淵》を目撃し、そして、《パスカルの深淵》に落っこちて轆轤首へと変態してゐるのかと問ふと、それは、多分、さうに違ひないと答へるのが正直な回答に違ひないのである。つまり、《存在》が《吾》を認識する《もの》として此の世に出現した時点で、その《存在》には瞼が必ずある筈で、例へば如何なる《存在》も仮象の目を持ち、仮象の瞼があると仮定すれば、闇の《存在》をどうあっても知ってしまってゐる此の世の森羅万象は、「先験的」に《パスカルの深淵》に落っこちてゐる《存在》として此の世に起つのである。

ところが、それに対して、

――そんな事は一概に言へないぜ。

といふ半畳が飛んで来るに違ひないのであるが、しかし、《存在》といふ《もの》に思ひを馳せると、どうしても闇とか無限とか、《吾》とは無関係な《もの》と対峙させつつ、何とか《存在》ににじり寄る愚直な思考法しか知らない《吾》は、とにかく、《存在》といふ言葉に翻弄される事で、何となく《存在》に近づいたなどと錯覚しながら、絶えず《吾》は《吾》に踏み迷ひ、さて、困った事に《吾》の事象の地平線たる《吾閾》が将に《パスカルの深淵》とぴたりと重なったとする虚妄に一度は、

――Eureka!

と歓喜するのであるが、それをよくよく見れば、首ばかりが伸びる轆轤首である事が解かると、何《もの》も驚愕の声を上げて、

――《吾》は何処?

と、再び《吾》に踏み迷ひ、《吾》は《吾》の内外に《存在》する《パスカルの深淵》の底無しに今一度嘆きながら、その底無しの《パスカルの深淵》に落っこちて、果てしなく自由落下をしつつ、《吾》は尚更、首ばかりを伸ばしては漸く此の世に顔を出して息継ぎをし、さうして仮初に《パスカルの深淵》を忘却する仮想空間における快楽装置でしかない轆轤首へと変態する《存在》以上の何《もの》にもなれやしないのであった。

成程、《パスカルの深淵》へと自由落下が、《吾》に湧き起こる快楽の発生装置である事は、何時頃からか《パスカルの深淵》を自らの棲処にしてしまった《吾》にとって疑ふ余地がないやうに思へ、その《吾》はといふと《パスカルの深淵》を自由落下してゐて、しかし、当の《吾》は、己が落下してゐるとは全く露知らず、《吾》はといふと、《パスカルの深淵》で自在に飛翔してゐる自在感に自己陶酔してゐるのである。つまり、《吾》は《吾》から遁れられるかもしれぬといふ幻想を思ひ抱きながら、《吾》における《吾》の裂け目にぱっくりと口を開けてゐる《パスカルの深淵》に逃げ込んだのである。それ程に《吾》は存在論的に追ひ込まれた状況にあった事をこれは示してゐて、ところが、《パスカルの深淵》へと逃げ込んだ《吾》は、最悪の事態を《吾》に齎す事には《吾》は思ひ及ばず、《パスカルの深淵》を自由落下する《吾》にとって、自由落下が齎す自在感こそ《吾》が《世界》を見誤る元凶なのである。

《吾》に芽生えてしまった自在感は、得てして《吾》を傲岸不遜な《存在》へと変貌させる契機になりかねず、ひと度自己の《存在》を全面的に肯定してしまった《吾》といふ《存在》は、此の世の王の如く《世界》の中心は、《吾》である錯覚の中で自滅するのが関の山で、また、《パスカルの深淵》へと逃げ込んだ《吾》は、《世界》もまた《パスカルの深淵》でしかない事に気付く筈もなく、《パスカルの深淵》へ逃げ込んだ《吾》の《世界》は永劫に続く入れ子構造をした《世界》を《吾》には、さうとは全く気付く事なく、《吾》に無限といふ名の幻影を見させ、その事で、《吾》は無限と対峙してゐるといふ全くの錯覚でしかない《吾》の有様の誤謬に《吾》を閉ぢ籠め、結局の所、《パスカルの深淵》へと已む無く逃げ込まざるを得なかった《吾》は、《吾》以外の《もの》からすっかりと遮断されてゐるので、《パスカルの深淵》に逃げ込んだ《吾》は、大概、自己の事しか考へられずに、《吾》に《他=吾》なる《吾》には何の事か解からぬ奇妙な《もの》が棲み付いてゐる事に、生涯思ひ至る事無く、換言すれば、《世界》との和解の機会が未来永劫訪れる事無く、尤も《パスカルの深淵》に逃げ込んだ《吾》の世界観はといふと、《吾》を中心とした同心円状の世界観に陥る事で、現実を見る苦痛から生涯遁れる秘密を知ったかの如く素っ頓狂な世界観に奇妙にも満足出来る《存在》に為り果てて、詰まる所、《パスカルの深淵》に遁れた《吾》は、あらゆる事が、誤謬の中にある事に生涯気付く事無く、夢の如き《生》を生きるのである。其処には、一度たりとも現実が顔を出す事無く現実は悉く隠蔽されるのである。つまり、《パスカルの深淵》では因果律が壊れてゐるのである。

現実が隠蔽された自己完結型の奇妙な《世界》から這ひ出る事も無く、只管、《吾》にのみ向き合ふだけの或る意味幸せな、しかし、とんでもなく不幸な世界観の中で自己と戯れる《吾》は、其処に《他》を全て隠蔽するので、《吾》は、自己観想する事で、何重にも折り重なった蛇腹状の《吾》の心地良さにうっとりしながら、生涯その夢の《世界》から這ひ出る事無く、つまり、現実を絶えず見失しなひながら、《吾》において《吾》が自存する大莫迦者が出現する事になるのである。

現実に、生涯一度も出合はない《生》の不幸は、言はずもがなであるが、しかし、《吾》の性質として、現実を隠蔽するのは至極当然の事であって、それであるが故に尚更、《吾》は《他》が無数に《存在》する現実に対して目をかっと見開かなければ、決して《吾》なる《存在》を把捉する事は不可能なのである。

さて、遺伝子Level(レベル)で、例へば人間Aと人間Bの遺伝子の違ひを比べれば、AとBの遺伝子はほぼ同じで、その違ひは一パーセントには遙かに満たない違ひでしかなく、AとBを違った《存在》として隔ててゐるのは、遺伝子Levelでは、何箇所かの遺伝子の配列が極僅か違ふ事でしかないのである。更に言へば、人間Aと人間Bの七割程は《水》であり、其処には、つまり、《水》に関しては何の違ひもなく、生物とは、極論すればAmino酸などの不純物が混じった《水》と看做せなくもないのである。つまり、《吾》と《他》を隔ててゐる《もの》は、生き物の組成物質で見ると、同等と看做せる程にそこには何ら違ひが《存在》せず、《吾》は「先験的」に《存在》する以前の未出現の時点で、《他》と組成を同じくした《もの》として此の世に出現する事を宿命付けられ、換言すれば、《吾》の殆どは、《他》で出来てゐると看做せる筈で、さうすると、《他=吾》といふのは言ひ得て妙な《もの》で、九十九パーセント以上は同じである《吾》と《他》の違ひは、しかし、絶望的に断絶してゐるのである。《吾》にとって《他》は、《異形の吾》の《存在》の様相の一つの解であり、また、《吾》とは無限に違った、《吾》を超越した《存在》として現実には《存在》するのである。つまり、《吾》にとっての《他》は、此の世の涯の一つの表象なのである。また、《他》をその様に解釈しておかないと《吾》は、生涯安寧を得られぬ事となり、つまり、《吾》は、《吾》が《吾》である為の時空が、即ち《個時空》といふ《もの》が生存する為には必須な《もの》として浮き彫りになるのである。

此処で言ふ《個時空》とは、此の大宇宙に大渦を巻く大きな大きな大きな大渦巻きの時空間の表層部に、小さな小さな小さな時空のカルマン渦が不意に生じたそのカルマン渦を《個時空》と名付け、《吾》の寿命はその小さな時空のカルマン渦たる《個時空》が茫漠とした大宇宙の大河の如き時空の大渦の上に不意に現はれ、そしてその《個時空》が消ゆるまでの事で、実際、例へば人体を例にすれば、人体には、渦状の形をした《もの》がそれとなく幾つも見つかる筈で、《吾》は極論すれば、此の宇宙に《存在》するカルマン渦なのである。そして、多分であるが、《存在》が思考するとは、頭蓋内の闇たる脳といふ構造をした《五蘊場》に、渦が発生してゐる事に違ひなく、例へば「頭の回転が速い」などといふ言ひ方が既に《存在》してゐる事からも、強(あなが)ち思考が《五蘊場》内の渦といふ捉へ方は、奇妙な《もの》ではなく、寧ろ自然な思考の把捉の仕方に違ひないのである。

cogito,ergo sum.が渦の或る一つの事象に過ぎないとしたならば、渦の解析が此の世を理解する一つの方法であると言ひ得、つまり、素粒子、頭蓋内の闇たる脳の構造をした《五蘊場》、そして、Black holeが不思議と何やら同根の《もの》として見えてくるのであり、これら三つに共通してゐる《もの》の一つにSpinがあり、つまりはそれは渦を暗示してゐなくもないのである。

ところが渦は、現時点ではストークスの定理によって、回転が直線に変換可能な事を記述してはいるが、然しながら、渦全体を物理学者がよく口にする「美しい」方程式で記述出来ぬままなのもまた事実で、その外にガウスの定理などなど、此の世の秘密たる渦へと肉迫するには物理数学は未だ道半ばと言へなくもないのである。

さうすると、仮想空間に《接続》した「現存在」が轆轤首の《異形の吾》へと変化してゐる様は、蜷局(とぐろ)を巻いてゐる大蛇にも似て、首をぐるぐると巻く事で、仮想空間の中での自在感を味はってゐる筈で、仮想空間にもまた、時空のカルマン渦が《存在》するのは間違ひなく、成程、Televisionでは字幕が右から左に流れる、つまり、左に回転してゐると看做せ、仮想空間、例へばPersonal computerではMouse(マウス)や手の動きで画面が動く様を見れば、それらは、画面が回転して渦を巻いてゐる証左の一つと看做せるのである。

大渦の上に浮かぶ小さなカルマン渦の《個時空》を鳥瞰したならば、孔雀の雄がその美麗な羽を大きく拡げた如くに見えるに違ひないのである。そして、それが神の性癖の一つに外ならいと思はずにはゐられぬのである。

――自然は自然を真似る。

つまり、自然は、Fractalな《もの》なのである。

――本当にさう言ひ切れるのかね?

と、自嘲する《異形の吾》の声が何処からか聞こえて来さうだが、此の世は多分、渦の入れ子構造をした《もの》として看做せるに違ひなく、渦のFractalとして現前するこの《世界》は、私にとっては超弦理論ならぬ超渦理論と呼ぶべき《もの》として、此の世が私に現前するのである。

――でも、渦である根拠はないんぢゃないのかね?

と、これまた《異形の吾》の半畳が飛んで来るが、私は、其処で、

――科学が常に正解ではない。

と、にたりと嗤ってゐる《異形の吾》に対し私は反論し、然しながら、此の世が渦のFractalである根拠が何もない事は《吾》ながら熟知してゐるので、超渦理論などと大袈裟に呼んではゐるが、それは、詰まる所、勘の域を出ない代物に外ならないのである。

ところで電車に乗ってゐる時にそれは窓外によく見える事象なのであるが、この世の中を物理的に動く《吾》の外界は、無限遠を仮初の中心とした大渦を《吾》の左右に巻いてゐる事に気付く筈である。つまり、距離=過去、若しくは距離=未来と、距離が時間に還元可能な事は物理学の、而もニュートン物理学の基本を知ってゐれば、何ら不思議な事はなく、距離が過去であり未来である二相であるといふのは、例へば距離ある故に過去である外界の《世界》において、《吾》は行くべき目的地を見出すと、現在地から目的地は距離がある、即ち過去である筈の《もの》が、それが未来に到達すべき目的地が見出された刹那、それまで過去であった外界は未来へと反転するのである。これはほんの一例に過ぎぬが、頭蓋内の闇たる脳といふ構造をした《五蘊場》を《吾》の内部、つまり、吾から距離がMinus(マイナス)である故に未来と強引に看做してしまふと、成程、《五蘊場》に明滅する表象群は、因果律が壊れた《もの》として《五蘊場》に生じてゐて、《五蘊場》において、過去の記憶が未来に到達すべき《吾》の姿である事は珍しい事などではなく、寧ろ当たり前で、更に言へば、《五蘊場》において、過去も現在も未来も同相の《もの》に外ならず、仮に《五蘊場》に《吾》が理想としてゐる《異形の吾》が《存在》してゐれば、その理想の《異形の吾》は、去来現を貫き、どの時制においても《存在》し、そして、それは、未来の時制を多分に多く含んだ《存在》として《吾》に対して《存在》してゐるのである。

しかし、その理想の《吾》、即ち《異形の吾》をよくよく観想すれば、全てが曖昧模糊とした《もの》で出来上がってゐて、その理想の《吾》とは、詰まる所、思惟が輻輳しただけの《異形》の《もの》として、《吾》に対して《存在》してゐる事が暴露され、《吾》はその時、

――ちぇっ。

と舌打ちし、その理想の《吾》を否定しかかるのであるが、ひと度《五蘊場》に現はれてしまった理想の《吾》は、《異形の吾》と結託して《吾》をのっぴきならぬ処へと追ひ詰めるのである。

そのやうに理想を掲げる事とは誠に息苦しい事なのである。しかし、さうだからこそ、《吾》は此の世で生きるに値し、さうして何時の日かその理想でもある《異形の吾》を一呑みで呑み込む事を想像しながら、轆轤首として鶴首するのを常とするのである。

さて、《異形の吾》を一呑みで呑み込む事を想像しながら鶴首してゐる《吾》は、当然の事、仮想空間に《接続》してゐて、仮想空間に、もしかしたならば、《吾》が理想とする《異形の吾》がゐるのではないかとその痕跡を探し回るのであるが、例へばWEB上で自分の名で検索をかけてみると、其処には「私」を愚弄した検索結果しか見当たらず、しかし、それは未だましで、仮に自分の名で検索をかけて検索結果が《存在》するのはまだよい方で、多くの《吾》は仮想空間に自分の名すら《存在》しない事に安心する一方で、がっかりもするのである。

しかし、そんな事は、はっきり言へば、どうでもいい事で、仮想空間に次第に入り浸りするやうになると、其処は何時しか《吾》の嗜好に合った《もの》ばかりのWEB頁のみを見てゐるのみで、つまり、《吾》は仮想空間に《接続》するのは、其処に《吾》を開いて《他》を発見するのではなく、同属の《もの》に囲まれ閉ぢ籠る為に《吾》は仮想空間に《接続》するやうに為り下がるのである。

《吾》の本質は籠る事である。籠る事が本質故に、《吾》は轆轤首へと変態するのである。それは、尤も《吾》が納得出来る《もの》を仮想空間に籠る事で《吾》の隠れ家として探してはゐるのであるが、つまり、《吾》が《吾》である事を支へて呉れる文言なり方程式なりを其処に見出したいのが山山で、しかし、それらは、その文言を表白した《存在》の《もの》であって、《吾》はその《他》が表白した徹頭徹尾《他》に属する文言や方程式なりに己の思ひを一方的に重ね合はせる事で、《吾》が此の世に独りではないと思ひ込みたくて仕方がないのである。

つまり、《吾》は《個時空》といふ宿命を死ぬまで受け入れられぬのである。

さて、其処で、《吾》は《個時空》といふ宿命にありながらも、《吾》には自由はあるかと問ふてみると、此の世の森羅万象は「然り」と答へたい筈であるが、しかし、それは希望的観測に過ぎず、《吾》が《死》より遁れられぬ以上、《吾》には自由はほぼないといふのが真実に違ひないのである。

――しかし、生きてゐる、または、《存在》してゐる内には、自由はある筈さ。

と、反論が返ってくるに違ひないが、極論すれば、そんな自由は本当に自由と言へるのか大いに疑問の余地が残るのである。つまり、誕生も《死》をも自由選択出来ぬ《もの》に、自由があるのかといふ事である。但し、自殺は例外である。

――しかし、森羅万象は《存在》してゐるではないか? つまり、《存在》してゐる間は、《吾》は自由ではないのか?

と、再び反論が返ってくるに違ひないのであるが、《存在》は《存在》において既に呪縛されてゐるといふのが、実際の処であらう。つまり、《存在》は、何としても《存在》する事を《吾》に課し、《世界》に適応する事を強要され、仮に此の世に《神》が《存在》するならば、《存在》にあたふたする《吾》を見ては、哄笑してゐるに違ひないのである。

《神》とは、残虐な《もの》である。だから、《吾》は苦し紛れに轆轤首に為らざるを得ぬのである。《吾》は轆轤首に変態する事で、《神》からその姿を隠し、さうして、もしかすると、此の世にあるかもしれぬ自由なる《もの》を渇望しながら、《生》を《神》から略奪して《吾》の《もの》へと取り返す事をして、自由を恰も此の世に《存在》する如くに振舞ひ、そして、《吾》は《吾》に底無しに幻滅するのである。そして、その幻滅出来る事が、自由だと確信し、さうして《吾》は、

―ふっ。

と自嘲するのである。

或る在処に《吾》の閉ぢ籠る《場》を見つけた《吾》は、己の嗜好に合った《もの》で埋め尽くし、気が付けば《吾》は全く身動きが取れず、更に己の嗜好に合ったものばかりを集め、どうあっても《吾》は、現代においては、仮想空間に《接続》可能な場合、轆轤首に変態するのは、実存の正しい在り方である。さうまでして、《吾》は、此の《吾》の拡張とも見える仮想空間の拡がりの中では、轆轤首として生き延びる事を、何の迷ひもなく、自ら選択するのである。これは、或る種の穴居動物と何ら変はらぬ事態の到来を意味してゐるのであるが、果たして、《吾》が轆轤首に変態する事で、《吾》に何を齎したのであらうか、と自問自答すると、其処には、現実に対する「現存在」の怯えが反映されてゐて、「現存在」は、絶えず現在に留め置かれる故に、否が応でも独りで現実に対峙しなければならぬ事は、自明の理なのであるが、何時までも煮え切らない「現存在」の身近な現実からは、目を遠ざけ、なるべく《吾》と無関係な現実に目を逸らす為に、《吾》は轆轤首へと変態するのは必然なのである。

さて、轆轤首の自在感は、《吾》を魅了して已まないのである。何時でも何処でも首さへ伸ばせば、己の求める欲求を果たすべく、仮想空間に溺れる事で、轆轤首へと変態した《吾》は、必ず自ら求める欲求の捌け口を見出し、その出会ひにより、轆轤首の《吾》は、束の間の満足を味はひ、そしてその積み重ねが、《吾》に万能感を齎し、《吾》は閉ぢ籠った故に現実に対してもその万能が揮へると勘違ひして、大概、《吾》が対峙する現実には悉く撥ね返され、《吾》は、さうして己のちっぽけさを厭といふほど味はひ、再び《吾》は、己の嗜好のみで築かれた「城」に籠城し、首のみをびくびくと伸ばして、再び仮想空間へと《接続》し《吾》の仮初の拡張を味はふ快楽に溺れるのである。

さて、轆轤首と化した《吾》には、自由があるのか、と再び自問自答すると、己が自由であると錯覚する為に、仮想空間で首を伸ばした轆轤首に為り下がってゐるといふのが実際の処だらう。つまり、《吾》は轆轤首に為るのは、既に惰性に為ってゐて、少しでも現実から目を逸らせば、それが退屈であらうが、《吾》は、穴居動物として首ばかり伸ばして、《吾》が伸びた首に相当する《吾》へと拡張したかのやうな錯覚に溺れる事で、意識の拡張が恰も実現したかのやうに《意識=存在》の実現の時代が到来したその勘違ひの中で、「現存在」は、前世代よりも虚しく死んでゆくのである。

――それは本当かね? 現代を生きる「現存在」は前世代の「現存在」よりも虚しいかね?

と、これまた反論が返ってくるに違ひないが、しかし、仮想現実の登場により個人で情報を発信出来る時代が到来した上に、《吾》は万能で、《意識=存在》が実現した錯覚に誰もが欺かれてゐるのである。

しかし、個人で確かに情報を発信出来るがその情報が多くの人の興味に適はなければ、その情報は殆ど誰にも見向きもされずにあるのであるが、仮想空間での有名無名の残酷な格差は、現実以上で、無名の《もの》の情報など誰の興味も引かずに抛ったらかしにされてゐて、誰も無名の情報など必要としてをらず、それでも誰かが見るかもしれないといふ希望なしのままに情報を発信し続ける忍耐に、無名の《もの》は堪え忍んでゐるのである。轆轤首と化して仮想空間を自在に行き交ふ事が可能となったとはいへ、無名の「現存在」は有名な《もの》の情報発信を追跡する事で、時間の大半を費やしてゐるのが現実なのである。この情報発信における絶望的な格差は、さて、解消されるのかと問へば、有名な《もの》が無名な《もの》の発信した情報を無名の《もの》の名前入りで汲み取る事でその絶望的な格差は多少和らぐかもしれぬのである。しかし、それでも有名無名の絶望的な情報発信に関しての格差は解消される事はなく、仮に無名の《もの》が有名な《もの》になる場合は、時代に媚びた言説をする以外に有名への道は残されてゐないのである。

さて、それでは、時代に媚びた言説とは何かと問へば、既存の現実を真の現実として何の疑ひを持たずに絶対の信頼を置き、それは、例へばドストエフスキイ曰く『魂のRealism(リアリズム)』が全く含有されずに出来上がった言語世界の事で、既存の現実、つまり、《世界》に対しては反旗を翻さぬ《もの》のみしか《存在》しない言語で表出された《世界》を、絶対的な地位に祀り上げられた言語世界の事と言へるかもしれぬのである。つまり、《世界》はそれらの言説においては、繰り返しになるが《世界》は既存の《もの》でしかなく、その《世界》に対して何の疑問も抱かぬ無邪気な《存在》ばかりが蠢く《世界》を何の躊躇ひもなく受け容れた場合は、全て、現実に媚びた言説により構築される言語世界に為らざるを得ぬのである。

自己に、つまり、《吾》に対して不信の念を抱いた《吾》は、同時に《世界》に対しても、つまり、現実に対しても不信の念を抱き、初めに森羅万象の全否定があり、其処から、つまり、《世界》を一から創り上げる苦悩に満ちた言説のみ、信に堪へ得る《もの》なのである。

そして、《存在》に懊悩する《存在》は、それだけで既に矛盾してゐるのであるが、《存在》とはそもそも矛盾してゐる《もの》で、その矛盾を引き受けた《存在》は、何事に対しても不信の目を向け――それは《世界》を一から創造せずにはゐられぬ性質の《もの》である――もしさう出来なければ己の《存在》に一時も我慢がならす、絶えず《吾》にも《世界》に対しても憤怒するしかない《吾》は既存の《世界》をぶち壊し、その破壊された《世界》は、《吾》の魂に呼応して現出する《世界》として創り直され、魂の有様によって歪曲するその現実が、さうして創作描写される《世界》は、奇妙に魂に呼応した《もの》として表出され、然しながら、それは夢と違った《存在》として、どうあっても《存在》がのっぴきならぬその《世界》の涯に追ひ詰められるしかないその《世界》での《存在》の有様は、魂が渇望して已まない《世界》であり、現実なのである。つまり、初めに魂ありきなのである。

では、その魂とは何なのかと問へば、《吾》の現状を拒絶した《吾》、つまり、自同律に対して疑問を呈した《存在》の無様で悲惨な傷だらけの《吾》に違ひないのである。

――それって、《吾》に閉ぢ籠った《吾》と何の違ひがあるのかね? 魂を先立たせた《世界》とは、《吾》の渇望する《世界》、つまり、其処では《吾》が万能な《世界》ではないのかい? 仮にさうだとすると、魂のRealismとは《吾》の欲望の捌け口ではないのではないのかね?

との疑問が湧いてくるが、多分、魂に忠実な《世界》は、魂の是か非かを常に問ふ《世界》としてしか《吾》に現出する事はなく、《世界》が《吾》の魂に従属するとは、《吾》の《存在》を絶えず疑ふ疑心暗鬼の目で《世界》を見つめるやうに為らざるを得ぬのは必然なのである。つまり、《吾》の《世界》の立ち位置が魂の状態で如何様にも解釈が可能となり、《吾》の客観的な位置が消滅しまってゐるのである。つまり、主観的な思ひ込みででしか《吾》の《存在》の有様が解からないといふ混乱に《吾》は陥ることになるのである。つまり、魂が黒と思へば《世界》は黒に、白と思へば白に《世界》は変容し、さうして魂が《世界》によって浮き彫りになるのである。言説は、仮にそのやうな《世界》を描出出来れば、《存在》の秘儀が少しは解かるかもしれぬのである。

――《吾》に従ふ《世界》は《吾》において自閉してゐるのぢゃないかね?

と、再び《吾》によって問はれる魂に呼応する《世界》といふ《もの》は、《吾》の嗜好によって、《吾》の好きな《もの》に囲まれた《世界》と何の違ひがあるのかとの疑問に対しては《吾》が轆轤首へと変態するかしないかの違ひではない事が露はになるのである。つまり、魂に呼応する《世界》において、《吾》であり続け、その《吾》は《吾》の魂と呼応する不快なる《世界》に対する事を、その醜悪なる魂を浮き彫りにし、さうなると、《吾》は、その《世界》から遁走出来ぬ《もの》となり、《世界》の変化は、即ち魂の変調を暗示する《世界》が出現するのである。そして、その不快な《世界》から遁走した《もの》が轆轤首なる《吾》なのである。

然しながら、魂が本質に先立つ《存在》とは、果たして「現存在」に想起出来得る《もの》なのかは全く不明で、といふよりも全く想像不可能な《もの》でしかなく、それは、多分に言葉遊びの要素を含んだ《もの》に違ひないのである。つまり、直言すれば、魂が本質に先立つ《存在》など意味不明な《もの》でしかなく、極論すれば、幽霊こそがそれを存分に果たした《存在》に違ひないのである。

――さて、幽霊は《存在》すると思ふかね?

と、すかざす半畳が飛んで来るのである。私は、さうして一人突っ込みをして、さて、困った事に私は幽霊は《存在》する方が此の世が面白いと思ふのであるが、しかし、幽霊の《存在》は意見の分かれる問題に違ひなく、幽霊の《存在》に関しては、徹底して主観の問題に帰し、そして、何時も際物扱ひなのが幽霊の宿命なのである。

しかし、私個人の話をすれば、数日おきに、私の睡眠時にどうしても幽霊としか考へられぬ《存在》を夢の中でか、寝言としてか、そのどちらかで、私は誰とも知れぬ全くの赤の他人と睡眠時に休む間もなく、絶えず話し込んでゐて、そんな私を私は睡眠してゐるとはいへ、覚醒時の如くにはっきりと意識してゐて、その会話は何時も止めどなく、蜿蜒と続く《もの》と相場が決まってゐるのである。それを端的に言ふと、夢の中で鏡に映った自身の像を異形の《もの》として私が話してゐるのか、本当に幽霊と話してゐるのかと問はれれば、私は、何の躊躇ひもなく、それは私に憑依した幽霊であると言はざるを得ないのである。といふのも、仮にその赤の他人が夢の中で、私が作った人間に過ぎないとすれば、私は人間を作るのに長けた《もの》に違ひなく、その数や既に数へきれない数多の《もの》が、私の夢に登場した事になるが、しかし、私にそんな芸当が出来る筈もなく、その私の夢に登場する赤の他人は私に憑依した幽霊と看做した方が納得出来、しっくりと来るのである。それは、私の夢に登場する赤の他人は誰もが全く脈絡がなく私の夢に登場し、草草(さうさう)に私が私の夢に登場する他人を拵ゑる能力などある筈もなく、そんな芸当が出来たならば願ったり叶ったりで、何冊もの小説があっといふ間に出来上がる筈なのであるが、現実の処、そんな事はなく、つまり、私にそんな芸当はないのである。そして、私に幽霊が憑依すると私はその間、ずっと重重しい体軀を引き摺るやうにして、只管、その憑依した赤の他人の幽霊が私から離魂するのをひたすら待ち続けるのを常としてゐたのである。これは、或る種の狂気に違ひないが、私は、それでもそんな私を受け容れるしかないのである。

つまり、私は幽霊は全く怖くなく、寧ろ、興味津津の態であり、また、私は、よく真夜中に墓場に行っては、その澄明な空気に包まれる事を愛して已まないのである。

さて、さうして、私に憑依する幽霊達は、多分、私の魂魄の振動数と共鳴してゐるに違ひないと私は一人合点してゐるのであったが、その私は、私に憑依してきた幽霊を邪険に扱ふ事をご法度にして、私は、ひと度、私に憑依した《もの》は、それ自ら離魂する迄、ずっと私に憑依させる事を一つの決め事にしてゐて、つまり、それは、睡眠時に繰り広げられる会話が、或る意味楽しくて仕方がないに違ひなく、また、目から鱗が落ちる事しばしばなのである。

さうすると、私の夢は、私において閉ぢた《もの》ではなく、《世界》に対して開かれた《もの》で、そして、誰もが出入り自由な《もの》で、それ故に私が轆轤首に変態する事は常人に比べれば僅少かもしれぬのであるが、それはさておき、その開かれた私の夢に幽霊にとっては何か面白い《もの》でも転がってゐるのか、数日おきに、赤の他人が一人、または二人、私に憑依し、私は夢見中、その赤の他人達の幽霊共とその幽霊共が拘るTheme(テーマ)に沿って夢中で議論する事を心の底より楽しんでゐるのは間違ひなく、多分、私は、その赤の他人達を成仏させる為にはその赤の他人達の胸の丈を存分に語らせる事がその幽霊共の為に一番である事を、或る種、本能的に知ってゐて、私は私に憑依した幽霊を祓ふことなく、幽霊が憑依したいだけ私に憑依させてゐるのであった。

全く赤の他人の幽霊が憑依するとは、さて、どんな《もの》かと告白すれば、それは、只管に辛い《もの》で、その辛さから解放されるのは、睡眠時だけなのである。そして、幽霊を幽霊の好きなだけ憑依させてゐる莫迦《もの》は、多分、此の世で私位の《もの》だらうとは思ふのであるが、その憑依してゐる幽霊が邪悪な《もの》でも、私は、一切邪険にする事はなく、好きなだけ私に憑依させておくのである。さうして、睡眠時に彼らの恨み辛み事に耳を傾け、また、私は、それに異見をし、徹底的に話し込むのであるが、しかし、幸ひに私に憑依する幽霊は、此の世に恨みを持った《もの》は少なく、私に憑依するのは、大概、「私とは何か?」、そして「何が私なのか?」といふ埴谷雄高が『死靈(しれい)』で言挙げした問ひの答へを只管に探し求めてゐる求道者然とした幽霊が殆どで、つまり、それ故に私の魂魄と共鳴するに違ひなく、そんな懊悩にある《もの》との議論は意外と楽しく、私は、嬉嬉としてそれらの幽霊と話し込むのであった。

そんな時、私は夢の中で不図思ふのであるが、かうして、私と全く面識がない赤の他人にして《吾》に踏み迷ひ、懊悩してゐる私に憑依した幽霊と話し込んでゐる私を、例へばその有様を鏡に映す事が可能であれば、多分、私もまた《異形の吾》へと変化してゐて、其処にもしかすると私の本質の何かが表はれてゐるに違ひなく、仮にその《異形の吾》が、ピカソの有名な絵画「ゲルニカ」に見られる人面の人魂のやうな《もの》に変化してゐるかもしれず、それは轆轤首の首がちょん切れて、私の夢舞台の虚空を自在に飛び交ひながら、私に憑いた幽霊の魂魄と舞ひを踊ってゐるかもしれないのである。

――ふっふっふっ。幽霊と舞ふ? そんな莫迦な!

と思ふ私が確かに《存在》するのであるが、しかし、私に憑いてゐる幽霊と舞ふ様を思ひ描く度に、私は不思議と納得する《吾》を見出すのである。

人面の人魂と化した《異形の吾》と私に憑いた、《吾》に踏み迷った幽霊とが、私の夢の虚空を自在に舞ひながら、互ひに《吾》の《存在》について思ひの丈を語り尽くす様は、其処に自由なる気風が《存在》し、何かの縁かは解からぬが、中有の時か、それを過ぎてしまって、尚も成仏出来なかった幽霊のその懊悩の深さは、いづれも底無しで、それは私に憑いた幽霊と《異形の吾》は、舞ひを踊りながら、自由の気風の中で、止めどなく語り合ふ事は、私の精神衛生上、健全な事であり、さうして、こんこんと話し込む《異形の吾》と幽霊は、何時果てる事も知れぬAporia(アポリア)の問ひに対して蜿蜒とああでもない、かうでもない、と話し込みながら、私に憑依した幽霊は、踏み迷った《吾》を少しづつ取り戻してゆくのか、さうして、幾日かすると私から離魂し、或る《もの》は成仏し、また、或る《もの》は、私以外の誰かにまた憑依し、更に議論を深めてゐるに違ひないのである。つまり、私が、私に憑依する幽霊に寛大なのは、偏(ひとへ)に彼らは深い懊悩の中にをり、その陥穽――それを私は《パスカルの深淵》と看做してゐる――に落っこちて、幾ら足掻いた処で、出口なしのその有様に、私の《存在》の有様を、幽霊には全く失礼千万な事なのであるが重ね合はせてながら、私に憑依した幽霊は、私の与り知らぬ赤の他人ながらも、その懊悩する様に私との縁を見出し、私は、率先してそれら私に憑依した幽霊と話し込む事を渇望し、彼らが何《もの》であらうとも、絶対に祓ふ事はしないのである。

幽霊を祓はぬ事は、また、或る種の我慢比べでもあり、一夜の夢で私に憑いた幽霊と問答するには、私自身もまた、己の内奥を弄って私の醜悪極まりない部分をも目を逸らさずに直視せねばならず、さうして、私は意を尽くして真剣な議論を夜毎に繰り広げてゐるのである。尤も、その議論は、大概堂堂巡りを繰り返すばかりで、唯唯、消耗するのみの、睡眠する事で、ぐったりと疲れてゐる事しばしばで、それは疲れを取る為に寝る事とは程遠い睡眠で、睡眠の目的からすれば私の睡眠は本末転倒した《もの》なのは間違ひないのである。しかし、私はぐったりと疲れてゐるとはいへ、何処か爽やかな心持で毎日目覚めるのであった。つまり、答へは出ずとも私に憑いた幽霊との果てる事のない議論は、目覚めによってMarathon(マラソン)を走り切った時のやうに何かを達成したかの如き爽快感に私を置くのである。つまり、それだけ私に憑いた幽霊との議論は堂堂巡りを繰り返すとはいへ、白熱した内容の濃い《もの》で、幽霊との議論を深める度に私に憑いた幽霊も私も、多分、《吾》なる《もの》に半歩なりともにじり寄れた錯覚が齎す仮象の爽快感に包まれてゐるに違ひないのであった。つまり、私に憑いた幽霊と私とは、私の夢の虚空で自在に舞ひ切り、それ故にぐったりとしてゐるとはいへ、ただならぬ爽快感に包まれてゐるのである。尤も、それは、覚醒時のほんの一時の事でしかなく、継続する《もの》ではなかったのである。

さて、一先づ、夢から目覚め、私に憑いた幽霊との議論をお開きにした処から、私は覚醒しながらも、私の思考は、《吾》といふ観念の周りを巡る堂堂巡りを独り相撲を取る如くに行ふ事で、更に《吾》なる《もの》ににじり寄らうと、何の事はない、絶えず自問自答してゐるのであった。とはいへ、覚醒した私の思考は、夢の虚空を私に憑いた幽霊と自在に舞ひながら問答する自由なる気風は全くなく、いづれも杓子定規な思考法の、型に嵌った《もの》に為り易く、それは、私の《存在》する以前に《世界》が既に《存在》してゐる事と無関係ではないのである。つまり、《世界》が私を或る《存在》へと嵌め込み、その型に嵌った不自由の中で、《吾》ににじり寄る思考法を新たに獲得する事を《吾》に強要し、私は、さうなると、唯唯、呆然と《世界》を眺めては、

――此の能面の如き《世界》よ!

と、私の胸奥で感嘆の声を上げながら、何処から手を付ければよいのかも解からぬ《世界》に対して、私は、数学を用ゐて、世界認識しようと試みるのであった。尤も、世界認識に数学を用ゐる事には、或る限界が存する事は私も承知してゐて、それでも、現代においては、数学によって《世界》を把握するのが、最も解かり易いと思はざるを得ぬのである。

そして、その数学は、大概、物理数学を指す事が殆どで、成程、巧く物理数学は《世界》を描画してゐるのである。

ところが、物理数学が描出する《世界》に決定的に欠落してゐる《もの》があるが、それが《吾》の《存在》なのである。つまり、物理数学は、巧く《世界》を描画するが、それは《吾》のゐない《世界》であって、そんな《世界》は、《吾》の誕生以前か死後かの《世界》でしかなく、《吾》が生きた、つまり、《生》なる《吾》が確かに《存在》する《世界》とは、徹底的に主観的なる《世界》でなければならず、ところが、徹底的に主観的な《世界》は、現実の何処にも《存在》する筈もなく、私の覚醒時は、現実といふ私の制御不能な《世界》と私の主観的な《世界》と物理数学的な《世界》の三つ巴の《世界》が絶えず渦巻き、私とはと言へば、そんな渦巻に巻き込まれて懊悩するのみなのであった。

――世界の化かし合ひ!

と私が覚醒時に世界認識するその《世界》は、徹底的に主観的な吾が《世界》と私の制御不能なざらついた、否、ぬめりとした現実の《世界》が異様に生生しく私に迫りくる現実の《世界》から《世界》を取り分け、その結果現はれる抽象的な《もの》として把握する楽しみに満ちた物理数学の《世界》が、私の頭蓋内の闇たる脳といふ構造をした《五蘊場》で互ひに化かし合ひながら、《世界》は或る印象を私の心に残すのである。それは、《世界》とは把捉したと思った刹那にするりと私の思考からすり抜けて、私が、頭蓋内の闇たる脳といふ構造をした《五蘊場》に張り巡らせた思索的なる網の罠の目の粗さばかりが際立つ、つまり、私の《世界》に対する敗北感のみを絶えず私に印象付けるのであった。尤も、《神》以外、《世界》を思索の網で捕へる事は、不可能な事は自身十分に承知してゐるとはいへ、《世界》は絶えず捉へ損なふ《吾》の不甲斐無さと言ったなら最早、苦笑ひをする外なく、それでも、私は、私の徹底的に主観的な《世界》のみは、手放せずに後生大事にその《世界》の《存在》を承認するのであるが、さうして、私は、《吾》のみに負ふ私の徹底した主観的なる《世界》に、《世界》を認識する糸口の希望を仄かではあるが、秘かに託しながら、

――《世界》は徹底的に主観的な筈である。

といふ思ひをちっちゃな吾が胸に秘めつつ、《世界》のあかんべえを絶えず見る事になるのである。すると、私はむきになって、首のみがちょん切れてしまった轆轤首と化して、私から絶えず遁走する《世界》を追ひ続けるその時に抜群の威力を発揮するのが物理数学の網の目で、《世界》は、その網の目からは遁れられずにしょんぼりとしてゐるである。とはいへ、私の徹底的に主観的な《世界》と物理数学の網の目に捕へられた《世界》は跨ぎ果せぬ裂け目が《存在》し、私の徹底的に主観的なる《世界》と物理数学が描出する《世界》とは絶えずずれてゐて、その間隙にぬっとその異様な面を出すのが現実といふ名の《世界》なのである。そして、私は、現実に出合ふと首がちょん切れた轆轤首の首を直ぐ様引込めて、《吾》もまた、現実の《吾》を味はふ皮肉に、自嘲しながら、そののっぺりとした感触にぶるっと震へては、《吾》なる《もの》の不気味さを堪へ忍ぶのである。

――それぢゃ、《吾》なる《もの》が《世界》の一端を指示してゐるのではないのかね?

と自問する事になるのであるが、その時は私は必ず、

――然り。

と肯うふばかりなのである。つまり、轆轤首へと変化するのを已めた刹那の現実の吾が体軀にこそ、《世界》は宿ってゐるのであって、而も、それは、《世界》で《存在》するには不可欠な事なのは当然の事であり、さうでなければ、現実に《吾》なんぞ《存在》する筈はないのである。

――では何故に《吾》は轆轤首なんぞに態態変化しなければならぬのか?

と再び最初の問ひに戻る堂堂巡りが始まるのである。

多分、《吾》が轆轤首に変化する事で、私の徹底的な主観的な《世界》と物理数学が描出する抽象的ながらも途轍もなく具体的な《世界》との裂け目を飛び越すべく首を不自然に伸ばし、そして、ぬめっとした感触ばかりが際立つ現実の《世界》に私の首から下の肉体は、現実の人質として《世界》に囚へられ、さうして現実の《世界》の人質として吾が首から下の肉体はある故に、私が此の世に思索的に《存在》出来得、その場合は必ず轆轤首に変化せずにはをれなかった筈なのである。さうして、私の首は、自由を求めて伸びに伸びて仕舞ひにはちょん切れて吾が虚空を自在に飛翔を始めるのである。

ところで、吾が虚空を自在に飛翔し、舞ってゐる《吾》の首は、飛んでゐるのか、将又、自由落下してゐるのかの区別は、徹頭徹尾主観の問題で、自在に舞ふ己の有様を、飛翔と認識するのか、それとも自由落下してゐるのか、どちらかとして把握するその選択は、《吾》の資質による処大であるが、私は、《吾》が吾が虚空で自在感を味はってゐる時は、必ず《パスカルの深淵》に自由落下してゐる《吾》を表象せずにはをれなかったのである。つまり、それは、私が、如何に地獄を愛好してゐるのか図らずも指し示す事になり、夢の中で《吾》が自在に飛翔してゐると断言出来る《もの》は、天国、若しくは浄土への志向が強烈な筈で、私のやうに絶えず自由落下してゐると看做す《もの》は、地獄愛好者と言ひ得るのである。さうして、奈落に落ちてゐる事ばかりを渇望する《吾》は、さうする事で、己の不安を少しでも和らげては、自己愛撫しながら、更なる落下、若しくは堕落を味はふ悪徳に浸る快楽を追ひ求めずにはをれず、そんな自堕落な《吾》の志向に対して、にたりと嗤ひ、そして、更なる深みを求めて、自由落下する《吾》を表象する遊びを始めるのである。さうなると、最早、《吾》は《吾》を見失ひ、只管、《吾》から迷子になる事を冀ひなが落ち行く《吾》を想像しては、心を打ち震はせてゐるに違いないのである。

さて、現実に囚はれたままの首を失った吾が体軀は、ちょん切られて残された首の根っこを磯巾着の触手の如く天へ向かって伸ばすのであるが、一方で、首のみと化した《吾》は、吾が体軀が目指す方角へ向かっては飛翔せずに、只管、自由落下してゐるその首の《吾》と吾が体軀との齟齬は、天を目指しながら奈落に自由落下する私の矛盾を浮き彫りにしてゐるのであるが、しかし、私は何時もその矛盾を吾が《存在》の証の一つとして大事にしてゐるのは間違ひなかったのである。つまり、私は、《存在》とは、それだけで既に矛盾した《もの》であると看做してゐるのは、何度も言ふやうに確かな事で、尚且つ、《他》において私は、矛盾を抱へた《存在》に違ひないとの予見を持って眺めるのであったが、尤も、それを裏切らない《他》に出会った事はなく、つまり、《他》は自尊してゐる場合が少なくなく、とはいへ、それが、仮面である事は、大概の《存在》ならば、そんな事は自明の事に過ぎないのである。だからこそ、尚更《他》は《吾》にとっては不可解極まりない《存在》であり、超越した《もの》なのである。つまり、《他》には、私の予想を覆す予見不能な突拍子もない事を平気で行ふ《存在》でありながら、それでゐて私に憑依する幽霊宜しく、語ればやはり、自分に躓いてゐて、さうして一瞬でも《吾》と《他》は、解かり合へたとの錯覚を互ひに互ひの事を誤解する事で辛うじて関係が保たれる不可思議な事態へと《吾》と《他》は投企されるのであるが、それは、それで互ひに居心地がよいので、敢へて、互ひの懊悩へと深入りはせずとも、《吾》は《他》に《吾》の懊悩を投影して、《他》の解釈を始めるから始末に負へないのである。そもそも《他》の解釈なんぞ《吾》に出来る筈もなく、《吾》に踏み迷ってゐる《もの》に《他》を解釈出来る訳もないのは必然であって、それを恰も理解出来たかの如く振舞ふのは偽善でしかないのである。《吾》と《他》は何処まで行っても解かり合へない故に、《吾》と《他》は、互ひに関係を持つ事を渇望せずにはをれず、其処で、互ひに解かり合へない事は、当然の事であり、それを前提に《他》と関係を持たない事は、礼を欠き、《他》に対して失礼極まりないのである。

然しながら、《他》は、《異形の吾》といふ謎を解く一つの解であり、それを十分に承知してゐながら、《吾》は《他》に対して突然、刃物を取り出して殺されるかもしれぬのっぴきならぬ事態すらをも鑑みつつ、《吾》は《他》に対峙し、その姿勢が詰まる所、《吾》が《異形の吾》として姿見の前にゐて《吾》に対峙してゐる《吾》といふ事象に重なるのである。其処で、《吾》は、《他》に《吾》であった可能性を値踏みしては地団駄を踏み、《他》が《吾》であった可能性が零ではない事に或る種の衝撃を受けつつも、《吾》は、《吾》の《存在》を立証するべく、《他》に対して恐れ慄きながら、作り笑ひを顔に浮かべて、《吾》は《他》の敵ではない事を《他》に諂ひつつも、己の下司な根性を内心で侮蔑しながら、《吾》とはとことん《存在》に対しては、謙(へりくだ)った《もの》に違ひないと感服し、《吾》は、無防備のまま《他》に対峙する剣が峰に立つ決心をする故に、《吾》は漸く《他》に対峙するのである。といふのは、《他》は《異形の吾》の解の一つであるからであり、《吾》が《他》に、つまり、《異形の吾》に対峙するその仕方は、大概さうであるべきで、それが、《他》に対しての、《異形の吾》に対しての礼儀なのである。尤も、それは、一瞥を相手と交はした刹那の出来事でしかなく、《吾》は《他》に対しても《異形の吾》に対しても、伏目のまま対峙し、一瞥で以てして《他》、若しくは《異形の吾》に対してその《存在》を丸ごと受け容れつつも、《吾》に巣食ってゐる我執を丸出しにして、《他》、若しくは《異形の吾》を威嚇してゐるのは間違ひなく、《吾》と《他》、若しくは《異形の吾》との間に交はされる一瞥には、《存在》が《存在》に対する時の作法が凝縮してゐる筈なのである。そして、それは、底無しの絶望が為せる業でしかなく、《吾》と、《他》、若しくは《異形の吾》との対峙は、何処まで行ってもお互ひに理解不能な、《存在》に対するといふ受難、若しくは苦行なのである。

――へっ、《他》、若しくは《異形の吾》との対峙が、苦行だって? 嗤はせないで呉れないかな。それは、お前が、単なる対人恐怖症を発症してゐるだけぢゃないのかね?

と、にたにた嗤った《異形の吾》が半畳をすかさず入れるのであるが、

――未知の《存在》に対しする作法がさうなのさ。

と嘯く私は、失笑するのであった。

――ぷっふいっ。

と。

さて、ところが、《吾》が《他》、若しくは《異形の吾》と一瞥を交はすその刹那、互ひの目は、爛爛と輝いてゐる筈である。《吾》に宿る、《他》、若しくは《異形の吾》に対しての阿諛する己を《吾》は《吾》の内に平伏させ、そして、《吾》は、《他》、若しくは《異形の吾》と一瞥を交はした途端に、好奇心なる《もの》が頭を擡げて、仮象の首がぬらぬらと伸び始め、《他》、若しくは《異形の吾》に漸近するのであるが、その仮象の首は、《他》、若しくは《異形の吾》にある程度近づくと、最早、それ以上は越えられない一線が《存在》するのである。つまり、《吾》が把捉し得る《他》、若しくは《異形の吾》は、その正体を摂動した《もの》としてしか、《吾》には現はれないのである。乃ち、《吾》は、《吾》にとって、摂動した《吾》でしかなく、《吾》が《吾》を捉へた事など全宇宙史上、一度もないに違ひないのである。此処に自同律の不成立の兆しが見えるのであるが、極論すれば、《吾》は《吾》において破綻してゐるのである。「私」において、《吾》も《他》も《異形の吾》も、本来あるべき《物自体》としての《存在》からは、どうしやうもなく摂動した《もの》としてしか捉へられないのである。そして、その摂動においてこそ、《パスカルの深淵》がばっくりと大口を開けてゐて、《吾》が不用意に《他》、若しくは《異形の吾》に向かって歩を進めようものならば、《吾》は確実にその《パスカルの深淵》の陥穽に落っこちて、《吾》は、《吾》から遁れられぬ《パスカルの深淵》といふ陥穽の中に自閉し、哀しい哉、その閉ぢた中で蜿蜒と《吾》は摂動する《吾》と鬼ごっこを続けるのである。

また、《吾》から摂動する《吾》との鬼ごっこをしてゐる時の《吾》程、愉しい《吾》もまた、《存在》せず、その愉しさ故に《吾》は、仕舞ひには《吾》を見失ふのが落ちなのである。この皮肉に《吾》は暫く茫然とし、天を仰ぎながら、遂には哄笑を発する事になるのであったが、其処で不意に《吾》に帰ると、《吾》なる《もの》が首のみの《意識体》とでも呼ぶべき化け物でしかない事を知って愕然とし、《吾》は轆轤首から進化した化け物なのかと訝るのである。

――はて、《吾》は何を追ってゐたのか?

と、それまで摂動する《吾》を追ってゐたに違ひないと思ひ込んでゐた《吾》の不覚に自嘲するのであったが、その摂動する《吾》は《異形の吾》ではなかったのではないかと不審に思ひつつも、

――否、《吾》は《吾》なる蜃気楼を見てゐたに過ぎぬのか?

と、自問するのである。しかし、

――何を猿芝居を演じてゐる? 《吾》は何時でも《吾》の幻しか追はぬではないか?

と、《吾》の内なる声が《吾》の内部で響き渡るのであった。つまりは、首のみと化した化け物の《吾》の内部はがらんどうで、

――さて、此のがらんどうの首のみの《吾》は一体全体どうした事だらう?

と、夢中で摂動する《吾》を追ってゐた鬼ごっこの祭りの後の虚しさに、苦虫を噛み締めながら、只管、《吾》が《吾》なる事の屈辱を味はひ尽くさねばならないのを常としてゐたのである。

ところで、その間、現実に囚はれた吾が胴体は、何をしてゐたかといふと、自由落下を志向する《吾》の首とは反対に、天へ向かって頭のない首をぬらぬらと伸ばし、其処にあるであらう《異形の吾》の首を強奪する詭計を巡らし、字義通り首のすげ替へを企んでゐたのである。そして、その詭計は大概成功裡に終はるのであったが、首をすげ替へた胴体はその《異形の吾》であった首に何時も不満であり続け、再び《吾》が摂動する《吾》を追ひかけ、鬼ごっこが始まると、自ら進んで首を切り離し、再び後悔するのが解ってゐながら天へ向かって首をぬらぬらと伸ばしては、新たな《異形の吾》の首を強奪するのであった。

一方で、胴体に見捨てられた首は、摂動する《吾》と鬼ごっこをしながらも、《吾》は既に見捨てられた首である事は薄薄感じてゐるに違ひなく、首のみの人魂の如き化け物として吾が頭蓋内の闇を中有の間か未来永劫かはいざ知らず、しかし、浮遊してゐる筈なのである。つまり、「私」の頭蓋内の闇には、胴体に見捨てられた首のみの《吾》の亡霊が犇めき、吾が胴体を求めて彷徨してゐるのであった。そして、その吾が頭蓋内の闇に犇めく首の化け物は火事場の馬鹿力宜しく、吾が胴体に見捨てられたことを糧にして、自らが《吾》から摂動する《異形の吾》へと変化し、再び吾が胴へと帰る算段を企む図太さは持ち合はせてゐるらしく、詰まる所、《吾》の首と吾が胴体は、首をすげ替へるとはいっても、首が犇めく渾沌の坩堝の中で堂堂巡りを繰り返すばかりなのであった。

――へっ、堂堂巡りはお前の思考法そのそものぢゃないか!

と、自嘲する《吾》は、然しながら、絶えず、摂動する《吾》を追ひかけては、《吾》を見失ふ愚行を繰り返さざるを得ぬのである。ところが、果たせる哉、《吾》は《吾》の首をすげ替へた処で、《吾》は《吾》である事から遁れられぬ一方で、一瞬でも《吾》から遁れられたCatharsis(カタルシス)を味はひたくて、《吾》は仮象の《吾》の首をちょん切っては、《吾》の首を《異形の吾》の首とすげ替へ、その時に満ち溢れる《吾》ならぬ《吾》といふ一つの愉しみに酔ひ痴れるのであった。つまり、轆轤首なる《吾》には、轆轤首である事が止められぬ呪縛に囚はれて、蟻地獄の巣の中の蟻の如く《吾》が《吾》に踏み迷ふ悪循環から抜け出せぬのであった。

その悪循環は、然しながら、「堕ち行く《吾》」といふ表象を吾が頭蓋内の闇に明滅させるので、私に何とも名状し難き愉悦を齎すのであったが、「堕ち行く《吾》」といふ表象が頭蓋内の闇に明滅した刹那、仮象の《吾》の首はちょん切れてゐて、私はさうなると心行くまで落下する《吾》を堪能せずにはをれなかったのである。

ところで、《パスカルの深淵》を自由落下する仮象の《吾》の首の表象に大地は決して現はれる事はなく、吾が仮象の首は、何処までも自由落下を続け、永劫運動をする事になるのであった。とはいへ、その自由落下といふ永劫運動は、私が永劫の眠りに就けぬ限り、永劫に自由落下する事は、また、あり得ず、何時かはその仮象の《世界》から《吾》は現実に引き摺り出される事になるのは火を見るよりも明らかで、といふより、私は、絶えず現実に《存在》してゐる《吾》を意識しながら、狡(ずる)賢(がしこ)い《吾》は、現実に《吾》は《存在》しながらも仮象の《吾》の首が自由落下する表象を何時も思ひ浮かべる事で、やうやっと現実に《存在》する《吾》を受容出来る卑しい《存在》なのであった。つまり、「堕ち行く《吾》」といふ表象なしには、此の世に一時も《存在》出来ぬ現実逃避者なのである。

――だが何時もお前は後ろ髪を現実に引っ張られ続けて、仮象の《世界》にどっぷりと浸かってゐる事など出来ないんぢゃないかね?

と、自問する《吾》は、哀しい哉、《パスカルの深淵》を自由落下しするしかないのであった。

意識は自由落下を望んでゐる一方で、吾が仮象の首なき胴体は、天への昇天を夢見、その仮象の首なき胴体を仮に無意識の有様と名指せば、意識は自由落下を、無意識は自由昇天を、つまり、私の意識は物質で、無意識は反物質で出来てゐると看做せなくもないのである。つまり、物質である意識は、重力に抗ふ事なくお気楽に自由落下する事を望み、反物質の首なき胴体が、重力に対して斥力の生じるべき《吾》を志向する事は、実際は、絶えず現実に呪縛されてゐる事の裏返しであって、私は、頭蓋内から絶えずずり落ちる事を志向する意識をして此の現実から逃避してゐるのであった。しかし、それは、

――だが、逃げ場はない!

といふ事を意識しながらのことなのである。つまり、仰仰しく《パスカルの深淵》などと呼んでゐる此の世に開いた陥穽は、詰まる所、私が現実から遁れるべく仮初に拵へた逃げ場の事で、さうやって常に現実から逃げ出す事、つまり、重力に此の身を任せる自由落下を欣求する愚者こそ、私なのであって、然しながら、己を愚者と名指す事で私は、己の保身を図ってゐるのもまた間違ひのない事であった。それ故に、時に私は、そんな己に我慢がならず、《吾》の仮象の首を自らの仮象の刀でぶった切っては、首のみを重力に任せて自由落下させるのであった。「堕ち行く《吾》」の表象は、しかし、現実の中に自身の身の置き場を見失ってゐる私においては、この上ない悦びを私に齎し、その悦びがあってのみ、私は、《生》を保つことが出来るに違ひないのであった。

――それを他人は卑怯といふのぢゃないかね?

と、反問する《吾》もまた、私には《存在》してゐて、それが、つまり、上昇志向を持つ仮象の吾が首なき胴体であり、絶えず、重力に抗ふ吾が仮象の首なき胴体は、ひょっとすると、「先験的」に反重力的なる志向を羊水の中で刷り込まれ、そして本能として所持してゐる《もの》なのかもしれず、その反物質的な反重力を志向する吾が仮象の首なき胴体は、然しながら、ちょん切られた首のみを辛うじてぬらぬらと天へ向かって伸ばせるのであって、仮象と雖も、吾が仮象の首なき胴体は、地に縛り付けられてゐる事には変はりがなかったのも確かなのであった。

さて、地に縛り付けられながら、天へ向かって首なき首を伸ばすその現実に囚はれてゐる吾が胴体は、正(まさ)しくパスカルが名指した「現存在」の有様、つまり、天と地の「中間者」の有様に外ならず、その姿を第三者的な視点で眺めれば、天と地を支へるアトラス神の如き威容な《存在》として、此の天と地を支へる《もの》が出現してゐる筈なのである。つまり、私の無意識と意識が対流してゐるに違ひない私の仮象界において、その仮象界を支へてゐるのが首なき胴体の《吾》であり、さうして此の世に無理矢理にでもこじ開けて出現した仮象界において、吾が《意識体》と化した胴体からちょん切られた首のみの《吾》は、意識と無意識が対流してゐるその仮象界で、只管、自由落下する浮遊感を心行くまで味はひながらも、最早、此の仮象界を支へる首なき胴体との別離を嫌でも感じずにはをれず、其処で、《吾》は不意に《吾》なる事の哀しさを少しは味はふのである。その哀しさは、然しながら吾がちょん切られし首の自由の保障であり、その様な状況下に《吾》を追ひ込む事でしか、《吾》なる事を感覚出来ない感官の麻痺した《吾》は、さうする事で、ちょん切られた切断面の創(きず)の疼きを感じつつも、《吾》からの逸脱を絶えず試みるのであった。

だからといって、首のみの《意識体》と化した《吾》は、《吾》から逸脱する筈もなく、やる事為す事が全て欺瞞に満ちた《吾》なる《もの》は、その欺瞞なる事をひっぺ返す事で《吾》なる《もの》の本質が透けて見えやしないかと知らぬ内に、躍起と為ってゐるのであったが、首のみと化した《吾》は、玉葱の如く、皮を剥いても再び薄皮が現はれるだけで、幾ら《吾》の欺瞞の皮を剥いだ処で、欺瞞の面の皮は幾重にも重なってゐて、《吾》に決して至る事はないのである。とはいへ、《吾》は、吾が面の皮を剥ぐことを止められぬのであった。といふよりも、止めたくなかったのが本当の処である。何故ならば、内向する事が大好きな《吾》において《吾》なる《もの》の化けの皮を剥がす事の愉しさは、名状し難き《もの》であって、さうして、一枚一枚と剥がしてゆく《吾》の化けの皮は、一方で、《吾》が自ずと脱皮するかの如くに《吾》から剥がれた《吾》の抜け殻を喰らふ時の美味しさといったら格別で、その美味しさは、何《もの》にも代え難く、然しながら、哀しい哉、首のみと化してゐる《吾》は、幾ら己の化けの皮を喰らった処で、喰らったそばから化けの皮は、切り落とされた食道の穴からぽろりと落ちてしまひ、それ故に幾ら仮象界とはいへ、満腹感を得られる事はある筈もなく、また、首のみと化した《吾》が、仮象界にゐる間は、《吾》の化けの皮を剥いでは、それを喰らふ愚行を繰り返す事を蜿蜒としてゐる為か、大概、首がちょん切れた《吾》は《吾》である事に倦んでゐるのである。

それでは、自由落下に加へて内向する首のみの《吾》は、その無意識と意識が対流してゐる仮象界を佇立して支へてゐる吾が胴体がその視界に見えてゐるのかといへば、そんな《もの》は全く眼中にはなく、首のみと化した《吾》は白目を剥いて、内部のみ凝視する事に現を抜かしてゐるのであった。さうして、首のみと化した《吾》は、《吾》に閉ぢ籠る事で、《吾》はやっと自由を謳歌出来るのであって、しかし、それを他人は卑怯と呼ぶのは十全に承知しながら、《吾》は、《吾》に閉ぢ籠る事を善しとするのである。つまり、《吾》とは、なんと欺瞞に満ちて、矛盾した《存在》であるかと、さうした欺瞞なる《存在》の《吾》を味はひ尽くす事が、《吾》が求める自由なのかもしれなかったのである。

――そんな自由なんぞ糞喰らへ!

と、さう揶揄するのもまた、《吾》の属性なのは間違ひない事であった。《吾》とは一時も《吾》に対する猜疑心から遁れられる事はなく、何時でも《吾》なる《もの》を直接的に断罪する事を冀ひながら、《吾》が現実から流刑される事を本心から望んでゐる《もの》に違ひなく、此の現実から遁れられるのであれば、《吾》は、如何なる存在論的な刑罰をも堪へ忍ぶ覚悟は出来てゐる《もの》で、むしろ、《吾》は存在論的な罪を担ってゐる証左が欲しくて仕様がないのある。何故ならば、仮に《吾》に関する存在論的な罪が明確に立証出来るのであれば、それはそれで《吾》の有様がきちっと定まり、《吾》が存在論的罪人ならば、《吾》が《吾》の処置の仕方も明確になり、《吾》は何の迷ひもなく、《吾》は邪神の眷属か基督の如き十字架上で磔刑されるべき、罪を背負った《存在》に為り得べき筈に違ひにないのであるが、哀しい哉、《吾》は大概《吾》の眼には摂動する《吾》としてしか把捉出来ず、《吾》が《吾》に関して知り得るのは、曖昧模糊とした《吾》の予想値でしかなく、その為に《吾》と《吾》に関する《吾》の認識は、ずれにずれて《吾》は《吾》の眼には絶えず摂動する《存在》としてしか捉へられないのであった。

これは《吾》もまた、《吾》の眼差しにおいて《吾》といふ《もの》は、漠然とした《状態》が見えるといふハイゼンベルクの不確定性原理に《吾》もまたあって、仮に《吾》の此の世での立ち位置が定まった処で、その時の《吾》の内部で渦動してゐるに違ひない《吾》の情動は、《吾》の予想に反して最早お手上げ《状態》であるに違ひなく、それは、謂ふなれば、《吾》に関して見通しがよければよい程に、《吾》が《吾》を把捉するのは困難極まりなく、結局の所、《吾》は《吾》の外面は確かに捉へたが、しかし、それは単なる《吾》の抜け殻としての《吾》でしかなく、《吾》の「心」は既に把捉した《吾》の抜け殻からまんまと逃げ果せてゐるのである。果たせる哉、《吾》が、例へば、存在論的な罪人であるといふ《吾》を凝結させる核が《存在》すれば、《吾》は或る結晶体として、Fractal的に巨大化して、《吾》の罪人としての結晶体が見定められる筈であるが、しかし、実際の処は、《吾》は漠然と罪人であるとの命題を抱へ込んでゐる《存在》でしかなく、また、《吾》が存在論的罪人である《吾》の根拠が、何時でも《吾》を凝結させる筈はなく、むしろ、《吾》が存在論的罪人といふ事は、《吾》の把捉には紊乱しか齎さないのであった。

――しかし、《吾》は確かに《存在》する。

と、再び《吾》は《吾》に対して呟くのであるが、だからといって、《吾》が《吾》に対して明瞭になる事などなく、《吾》が《吾》を凝視する場合、それは、闇を凝視してゐる事に外ならず、詰まる所、《吾》はその境界面、つまり、Black holeの地平線が此の世の《存在》には決して見える事がない如くに、《吾》とは存在論的なBlack holeに違ひないのである。

さて、《吾》を存在論的なBlack holeと名指しした処で、何かが明瞭になる訳はなく、むしろ、《吾》が《吾》に対する混迷は深まるばかりであって、結局、闇が何であるのか見通せない内は、《吾》は《吾》といふ仮面を薄らと闇に浮かび上がらせては直ぐに消える事を繰り返す存在論的Black holeの首であって、それは頭蓋内の脳といふ構造をした闇たる《五蘊場》に明滅する脳細胞の呻吟が解明された処で、《五蘊場》の《状態》を定める事は、ハイゼンベルクの不確定性原理から類推するに、《吾》の輪郭を尚更、曖昧にするのみの、《吾》に対する誤謬を拡大するといふ《吾》の《吾》からの逃亡を論理付けるだけのやうな気がするのである。つまり、

――《吾》は《吾》や?

と、脳細胞一つ一つの呻吟が解明されたところで、Black holeが直接見えないやうに、《吾》といふ《存在》の謎は残されたままに違ひないのである。

さて、《吾》がいくら虚勢を張った処で、《吾》が卑怯なる事実は変はる筈もなく、また《吾》は《吾》が卑怯事を自覚する事で、《吾》なる《存在》は、謂はば、Black holeとその連星といふ二重構造を為して、《吾》は《吾》において院政を敷くのである。何故ならば、《吾》が《吾》において二重構造を為してゐる事は、《吾》は《吾》の傀儡を立てる事で、現実の《吾》に降りかかる存在論的な圧迫を《吾》の傀儡に全ておっ被せて、その傀儡の《吾》が見事に圧迫に堪え兼ねて爆発する様を目の当たりにしながら、《吾》は存在論的な圧迫に満ちた現実を卑怯にもやり過ごすのである。

その傀儡の《吾》を作るのは《吾》においてお手の《もの》で、その自爆する傀儡の《吾》の《存在》なくしては、《吾》は一時も《吾》である事に堪へ得ぬに違ひなく、そして、《吾》は傀儡の《吾》が《吾》の知らぬ間に巨大な権力を手にしてゐる事を、《異形の吾》の哄笑によって知る事になるのであるが、それまで傀儡の《吾》と高を括ってゐた《吾》は、その事態に動揺するのである。つまり、《吾》は傀儡の《吾》を作り出す度毎に気力をすり減らしてゐたのであった。

それは、傀儡の《吾》が現実に《存在》する存在論的な圧迫に堪へ兼ねて爆発するその傀儡の《吾》に対する眼差しが全てを物語ってゐる。つまり、《吾》は傀儡の《吾》が爆発し、滅ぶ様を胸を痛めずにはゐられぬのである。その為に、傀儡の《吾》が爆発して壊れ消えた後の虚しさを次に作る傀儡の《吾》に反映させ、現実に横たはる存在論的なる圧迫に少しでも堪へ得る傀儡の《吾》を作らうと精を出すのである。それは、つまり、《吾》の傀儡への権力の移譲なのである。

しかし、その傀儡の《吾》を作る《吾》といふのは、何とも矛盾した《存在》である。その《吾》が傀儡の《吾》を拵ゑるのは、現実において、所謂、存在論的な猶予を求める事に外ならず、《吾》は《吾》の《存在》の決定に対して《吾》は最後の最後まで忌避してゐるのである。つまり、《吾》の《状態》を決定する事は、物質の本源たる素粒子においてハイゼンベルクの不確定性原理に倣ふやうにして、不確定のままに現実をやり過ごせれば、それに越した事はないのである。しかし、現実は絶えず《吾》が《吾》である事を強要する《もの》であり、《吾》の自己決定の先延ばしをする為に《吾》は窮余の策として傀儡の《吾》を作り出してゐた筈なのであるが、それは、《吾》が気付かぬ内に、《吾》と傀儡の《吾》は何時しか入れ替はり、《吾》が現実の矢面に立つといふ本末転倒した有様に見舞はれるのである。

――何故にこんな事態に……。

と嘆いた処で、既に時は遅きに失し、今度ばかりは傀儡の《吾》、つまり、《吾》は爆発する事は許されない事態に追ひ込まれ、《吾》は、

――嗚呼!

と、嘆きつつも、常に《吾》の《状態》はといへば、現実は無情にも《吾》が《吾》である事の決定を強要し続け、その度に《吾》は《吾》の何かを喪失してゆくのである。その失はれる《もの》が、何なのかは一向に解らぬまま、《吾》は現実に振り回されながら、《吾》である事を強ひられ続け、《吾》は存在論的に疲弊し切り、その疲弊が臨界を超えた或る刹那、《吾》は仮象の《吾》の首をぶった切って、仮象において自刃するのである。つまり、《吾》が《吾》であると決定される前に自刃して、仮象の《吾》の首をぶった切る事で、《吾》は、《吾》の最後の砦に違ひにない仮象において《吾》を斬り殺す事で、《吾》を未決定の《状態》に置いておくのである。

それは、《吾》は《吾》であり得ぬといふ自己決定の猶予を《吾》に与へる事で、《吾》は現実の《吾》と対峙せずに、つまり、《吾》が《吾》であるといふ自同律に対して微力ながら抗ふべく、《吾》は《吾》に対して詭計を巡らせるのであった。

ところで、《吾》が《吾》である事を決定出来ないと先述したが、《吾》が《吾》において未決の《吾》である事は、《吾》が此の世に《存在》する拠り所となってゐなくもないのである。即ち自同律に抗ふべく、《吾》が《吾》に対して詭計を巡らせる事で、仮にも『《吾》が《吾》である』と言ひ切れる《吾》の出現を可能ならしめたならば、それは《吾》の詭計の一つの成功を意味する筈で、《吾》が恰も《吾》であるかのやうに振舞ふ欺瞞において、《吾》は《吾》である自覚が出来るのである。それは、然しながら、途轍もなく居心地が悪いのである。《吾》におけるこの二重化は、一方で《吾》が《吾》である事を未決に、また、一方で、仮初の《吾》なる《もの》を据ゑて、それをして、『《吾》が《吾》である』と自覚する詭計を《吾》に施さねばならぬ此の《吾》のまどろっこしさは、詰まる所、何も決してゐない事と同じ故に、《吾》の《吾》なる事が前提の此の現実においての《吾》の有様は、徹頭徹尾、居心地が悪いのである。つまり、《吾》が《吾》なる事が不自然なのである。

――そんな事は初めから解かり切った事ぢゃないか!

と、自嘲する《吾》に対して、《吾》は、つまり、傀儡の《吾》は、既に形骸化してゐるとはいへ、《吾》の《存在》の有様を二重化する事で、《吾》が《吾》である自同律の陥穽に落ちずに現実をやり過ごしてゐたのであるが、しかし、それが全て詭計なる故に《吾》が《吾》である事が途轍もなく居心地が悪いのである。ならば、それを已めればよいのであるが、《吾》が「単独者」として此の現実に対峙する気力は既に擦切れてゐて、実際、《吾》は疲労困憊の態なのである。さうして、《吾》は出来得れば此の現実から遁れられるのであれば、永劫に遁れ続けたいのである。それは、《吾》が《吾》であるといふ自同律に対して《吾》であると、《吾》をして語らせる事と無関係ではなく、《吾》が《吾》に対峙出来ない事と現実を直視しない事が相関関係にある事は、《吾》が《吾》において《吾》を決定出来ない事から自然の帰結なのである。

――では、《吾》とはそもそも何か?

といふ疑問が再び頭を擡げるのであるが、それは、詰まる所、《水》の不純物としか言ひやうのない《もの》なのである。人体といふ構造をした《水》の不純物たる「現存在」は、それを煎じ詰めれば、《水》の野心に外ならないのである。それは、川の流れが一つとして同じ《状態》がないやうに、《吾》においても例へば体液が流れる《吾》においても一つとして同じ《状態》の《吾》は《存在》した事はなく、つまり、《水》が変幻自在な如くに、《吾》もまた変幻自在なのである。

――そんな莫迦な!

と《吾》は呆れるのであるが、実際の処、《吾》の《五蘊場》に明滅する《もの》は、変幻自在で、其処に居座る《吾》は、大概が首ばかりが異様に伸びた轆轤首に外ならず、それと言ふのも、《吾》なる《もの》が、詰まる所、《水》の不純物でしかない事に端を発して変幻自在なるが故なのである。つまり、《吾》は絶えず《吾》から摂動してゐて、ぴたりと静止する事を知らず、絶えず振動してゐる何かなのである。その象徴が脈動する事を「現存在」は死すまで已めないのである。そして、流動する《吾》は、此の現実に対峙するべく、その生贄に《吾》の仮象の首をぶった切って現実に差し出すのである。さうして、《吾》は此の《吾》を絶えず《吾》であるかの如くに装はせる現実に対して、《吾》為らざる《吾》などといふ詭計を凝らして、《吾》が《吾》である事の居心地の悪さを緩衝するのである。

そもそも《一》者なるといふ事は、絶えず0.99999999……なる《もの》の小数点以下の「九」が無限に続く《存在》が此の現実に《存在》するといふ暗黙の了解のもとにしか《存在》せぬ故に、《吾》が《吾》に対峙する時に、現実は、《吾》が《吾》なる《一》者である以上、無限の底なしの混沌に落っこちる危ふさを《吾》に強ひてゐるのが実際の処なのである。

《世界》は何処も彼処も無限の底無しの穴凹だらけである事は《パスカルの深淵》や野間宏の『暗い絵』の事例を出さずとも明明白白であるが、《吾》なる《もの》は、その本能としてその底無しの穴凹に落っこちる事を避けようと抗ふ偽装を行ふのである。例へば、《吾》は《吾》をして《異形の吾》を拵ゑ、《吾》に不都合な事は全て《吾》為らざる《異形の吾》に肩代はりさせて、《吾》はといふと、のうのうとその《異形の吾》の悪戦苦闘ぶりを高みの見物を決め込んで、Sadistic(サディスティック)な眼差しで眺めては哄笑するのであった。つまり、《吾》は、首のみの《吾》は、仮象の中に閉ぢ籠る事で、一時の安寧を手にするのであるが、然しながら、それは、所詮、《吾》の偽装でしかない事が現実にはお見通しである事に、《吾》はぎくりとし、そして、《吾》は仮象界も既に現実に浸食されてゐる事を知り、愕然とするのである。

そのやうにして逃げ場を失った《吾》は、絶体絶命でありながら、それでも現実は《吾》を殺す筈はないと心の何処かでは高を括ってゐて、現実がその眦(まなじり)一つ動かさず、《吾》を殺す事に思ひ至らないのである。現実は、《吾》を殺す事なんぞいとも簡単に行ひ、実際、《吾》なる「現存在」は日日必ず《死》んでゐて、《吾》が何時《死》してもそれは全く不思議な事ではなく、《吾》はその事を絶えず不問に付して、《吾》を宙ぶらりんの《状態》に置く事ばかりに詭計を巡らせるのである。しかし、それに対するしっぺ返しとして、自同律の不快を甘受せずにはをれぬ事を「現存在」は心底思ひ知らされる羽目に陥るのである。つまり、《吾》が《一》者として看做される以上、其処に論理的な《インチキ》がある事を無意識にか意識的にかには関係なく、然しながら、矛盾している言ひ方ではあるが、「先験的」に知ってゐて、《一》なる事の《インチキ》に対して《吾》は絶えず騙されてゐるふりをする《もの》なのである。それは、しかし、《吾》の精神には堪へられぬ《もの》で、《吾》に正直な「現存在」は、気が狂ふのが必然で、気がふれない《もの》は面の皮が厚いだけなのであって、極論すれば、此の世の《吾》に気狂ひでない《吾》は《存在》せず、さらに言へば、気狂ひとは未完成の別称に違ひないのである。

日日、《一》なる《インチキ》を生くる《吾》は、絶えず足下に広がる底無しの無限の穴凹に自由落下する《吾》の幻影を見てしまひ、眩暈を覚えながら何故に此の世に佇立、若しくは屹立するかは、全く解からず、茫然自失の態で《吾》は此の世に《存在》するのである。

それでは、《吾》なる《もの》が《一》者である事が何故に《インチキ》なのかといへば、《吾》が《吾》である事その《もの》が既に《インチキ》で、《吾》をして《吾》を《吾》と名指す欺瞞を、如何なる《吾》も知ってしまってゐて、さて、それが何故に欺瞞かと尚も問へば、《吾》の《存在》自体が、果たせる哉、《吾》の意思で出現したのかすら解からぬこの《吾》の《存在》の出自を「偶然」の《もの》として、不問に付して、例へば、「現存在」の此の世への出現は、その父母の精虫と卵子の「偶然」の受精によって《吾》が発生するとし、然しながら、精虫と卵子の受精が「偶然」と看做せるのかは、多分に意見の分かれる処で、仮に《吾》の此の世への出現は、宇宙開闢時に既に決定してゐた事だとしたならば、《吾》は《吾》をして、此の宇宙に対峙し、《吾》の解明と共に、宇宙をも、物質をも、数字をも全て解明する宿命にあるに違ひないのである。然しながら、その《吾》はといへば、此の現実に汲汲としてゐるばかりで、轆轤首と化して、頭蓋内の闇の《五蘊場》が表象する仮象界へと逃げ込んで、其処で《吾》は《異形の吾》との何時果てるとも知れぬ対話を繰り広げながらも、《吾》は、現実を《異形の吾》に呉れてやるのである。さうして《異形の吾》が、現実界において自滅する無様を見ては、《吾》は、独りほくそ笑み、さうして、《吾》は仮象の首をぶった切り、《五蘊場》に表象される仮象界の幻の中に羽化登仙するのである。

傀儡の《吾》が、《吾》の制御を失ふと、それは、《異形の吾》となるのは言はずもがなだが、つまり、《異形の吾》の淵源を辿れば、それは、何気なく現実逃避する為に《吾》が作り始めた傀儡の《吾》に至るといふ矛盾にぶち当たるのである。そもそも《吾》といふ《存在》は、その《存在》自体が矛盾に満ちた《もの》である事は今更言ふに及ばず、しかし、《吾》の《存在》が矛盾してゐなければ、《吾》はこれまた一時も此の現実に《存在》する事は、不可能に思へるのである。例へば、《吾》が《吾》にぴたりと重なっているといふ《存在》の有様では、此の《吾》といふ《存在》はその《存在》に一時も堪へられる筈もなく、また、《一》者といふ「単独者」として《存在》する《吾》は、現実を、若しくは《世界》を《一》者として背負ふには、《吾》の存続の《断念》が含まれてゐて、《吾》が《吾》にぴたりと重なった《一》者としての《吾》は、此の現実を前に自滅するべく定められてゐるに違ひないのである。それは、シャボン玉が此の世に儚く忽然と消ゆる如く、自己の存続が不可能である事が、《吾》の発生時に既に定められてゐて、つまり、《吾》なる《もの》には、《死》が予め埋め込まれてゐるのである。《死》が此の世に《存在》するといふのは、此の現実は、若しくは此の《世界》は、《吾》を《死》へと追ひ込むといふ事を意味し、つまり、此の世の《吾》に対する迫害は、《吾》が《死》すまで已めないとも言へるのである。勿論、此の《世界》は絶えず《吾》を鏖殺(おうさつ)する程に無慈悲である事は稀かもしれぬが、しかし、絶えず《吾》といふ《存在》の《死》は此の《世界》では起ってゐて、休む間もなく何《もの》かは常に《死》んでゐるのである。

といふ事は、《吾》にとっては、此の現実は、《吾》を直ぐにでも殺すべく、その匕首(あひくち)を突き付ける《死》の別称に違ひないのである。《吾》は《吾》とぴたりと重なる事を避けて、つまり、自同律を極力避けて、《吾》の傀儡を作り、その傀儡の《吾》が自爆する様を凝視する事で、此の現実が突き付ける《吾》の《死》に対する猶予を与へ、しかし、必ず《吾》に訪れる《死》をその場では傀儡の《吾》を使って躱してゐるのである。さうしなければ、芥子粒の如き《吾》が此の世で生きてゆくなんぞ出来る筈もなく、《吾》もまた、細胞分裂する如くに頭蓋内の闇たる《五蘊場》において、分裂を繰り返し、絶えず此の現実に差し出しながら、《吾》の存続を辛うじて為してゐるに過ぎないのである。それだけ、《吾》なる《もの》は羸弱な《存在》で、此の無慈悲な相貌を持つ現実に対して、《吾》が丸腰で打って出るには、余りに無謀と言はざるを得ず、《吾》は生き残る為とあらば、何でもする《もの》なのである。そのなれの果てが、《異形の吾》であり、轆轤首の《吾》となるのである。《吾》は、そのやうに変容する事で、やうやっと此の現実、若しくは《世界》に対峙し、《吾》は権謀術数の限りを尽くし、《世界》の《死》への誘ひからひらりと身を躱すのである。

ところで、《吾》とは、独りなのであるかとの疑問が湧くのであるが、多分、《五蘊場》においては無数の《吾》が《存在》するのは間違ひなく、其処には《吾》といふ名の異形の《もの》が犇めいてゐるに違ひないのである。つまり、《吾》とは、此の現実で生き残る為に分裂してゐて、そして、《吾》を統べる《吾》は次次と入れ代はり立ち代はり現はれては、ぐっと首を伸ばして、《五蘊場》を俯瞰し、さうして、現実に差し出す《吾》の首根っこを摑んで、その《吾》をして無慈悲な、若しくは悪意のある現実、若しくは《世界》の為すがままにさせて、詰まる所、現実に嬲り殺される《吾》を《吾》は凝視するのである。その現実に差し出された《吾》なる《もの》が現実に弄ばれてゐる間は、《吾》は安寧の中にゐられるといふ《存在》の、これまた無慈悲な有様に思ひを馳せつつも、《吾》は《五蘊場》に閉ぢ籠り、《異形の吾》や私に憑依した幽霊共と尽きども尽きせぬ対話を蜿蜒と行ふ事になるのである。

一方では《吾》が拵ゑた傀儡の《吾》が、無慈悲なる現実に嬲り殺されながら、一方で、首なしの《吾》が、その《吾》の首と《異形の吾》とが閉ぢ籠る仮象界をアトラスの如く全身で支へながら、《吾》は《五蘊場》の中で以って、《異形の吾》と此の《吾》の深層に沈み込んで、只管に《吾》の断罪を始めるのである。しかし、その断罪の仕方が現実程に無慈悲に行へる筈はなく、《吾》も《異形の吾》も《吾》を手緩く断罪しながら《吾》は常に《吾》を許すべく術がない《もの》かと思案してゐるのである。

それでは、何故に《吾》は、《異形の吾》と共に雁首を揃へて《吾》を断罪するのかと問へば、それは《吾》が何処までも矛盾した《存在》といふ事に尽きるのである。例へば、傀儡の《吾》が現実に嬲り殺される様が気になって仕様がないくせに、《吾》は絶えず平静を装ひつつ、現実の如くに眦一つ動かさずに傀儡の《吾》が遂には自爆する様を凝視しながら、その《吾》の首の《五蘊場》――これは仮象の《吾》の仮象の頭蓋内の闇――に《異形の吾》共を誘ひ、其処で《吾》は恰も《異形の吾》と対峙するかのやうな錯覚の中、《吾》は初め《異形の吾》に詰(なじ)られるがままに、《異形の吾》の叱責に対して黙してゐるが、一人目の傀儡の《吾》が自爆し、二人目の傀儡の《吾》を貪婪な現実に差し出すや否や、今度は《吾》が、《異形の吾》に問ふのである。

――《吾》とは何ぞや?

と。しかし、此の問ひは、そもそもが矛盾した問ひなのである。つまり、

――《吾》とは何ぞや?

と問ふ事は、そもそも《吾》が「先験的」に此の世に《存在》する事が前提となってゐるのである。つまり、

――《吾》とは何ぞや?

と問ふ事は、木乃伊(みいら)取りが木乃伊になる事に外ならないのである。

さて、其処で問題となるのが、《吾》とは、《吾》の究極の《存在》なのかといふ問ひである。つまり、《五蘊場》で分裂を繰り返す《吾》とは、もしかすると《吾》と《反=吾》との受胎、若しくは太極により、《吾》が《五蘊場》で分裂し、自己増殖する《吾》の様態に過ぎぬのではないかといふ疑念が発生するのである。そして、その《反=吾》が《異形の吾》の別称なのかもしれないと看做す《吾》は、《異形の吾》を摑まへにかかるのである。しかし、《吾》は首のみであるので、《吾》はどうあっても永劫に《異形の吾》を手で摑まへる事は不可能で、また、《異形の吾》は、つひぞその姿を《吾》の前に現はした事がない事に思ひ至り、唯、声のみが何処とも知れぬ虚空から轟き、さうして、不意に《五蘊場》に一陣の風が吹き抜ける事に思ひ至るのである。

しかし、《異形の吾》が《吾》の前に姿を現はさないのは至極当然の事で、《吾》は、一度、轆轤首へと変化し、無慈悲な、また、悪意ある現実から遁れるべく、《吾》は、自ら轆轤首の《吾》の首をぶった切り、首のみの《吾》は《五蘊場》に閉ぢ籠るのであるが、さて、首のみと化した《吾》は尚も分裂し、自己増殖してゐるのかどうかと問へば、多分、木の年輪の如く、《吾》は自己増殖しながら、《吾》は《一》者として、《存在》してゐるに違ひないのである。

――ならば、《異形の吾》は、何処へと消えたのかね?

との疑問が《吾》に生じるのであるが、仮に《異形の吾》が《反=吾》ならば、《異形の吾》は絶えず《吾》と相互作用しながら、その結果として《吾》の《五蘊場》に閃光が放たれ、《吾》なる《もの》の仮初の様態を、《五蘊場》に明滅する表象として現出させ続けてゐるに違ひないのである。つまり、首のみと化した《吾》と《異形の吾》は、雌雄の蛇の交尾のやうに、互ひに巻き付いく螺旋を為してゐるに違ひなく、つまり、《吾》といふ巨大化しつつある巨木に巻き付く《異形の吾》といふ蔦がぎりぎりとその巨木を締め付ける事で、《吾》の肥大化に待ったをかける自己調整機能が、《吾》にはこれまた「先験的」に備はってゐるに違ひないのである。つまり、《吾》あれば、即ち、《反=吾》、または、《異形の吾》は仮令姿は見えずとも「先験的」に《存在》してゐるのである。

しかし、《吾》と《反=吾》、若しくは、《異形の吾》と分裂した《吾》の有様に、《吾》は絶えず戸惑ひ、《吾》は、何時も《吾》の手に負へない《もの》として《存在》してゐるといふ矛盾に思ひ至るのである。この矛盾は、然しながら、未来永劫解決される事がない《もの》で、つまり、《吾》が此の世に発生すると同時に《反=吾》も発生するのである。《吾》と《反=吾》の《対存在》は、さて、何故に《対存在》として此の世に出現するのかと問ふてみた処で、その答へは決して得られぬ《もの》で、何《もの》も《吾》が《存在》すれば、その必然として《反=吾》が《対存在》するといふ矛盾に《吾》を見失ふのである。つまり、《吾》が《吾》について考へる事は、必ず堂堂巡りに陥る筈で、堂堂巡りでない思考法は、それは一時凌ぎでしかなく、三段論法などの直線の如き思考法や正反合と止揚する弁証法もまた、一時凌ぎの《存在》が《存在》する為の智慧であって、それらの思考法で事の本質は一向に解決を見ないのである。

先に《吾》と《反=吾》、若しくは《異形の吾》との関係を自己増殖しながら年輪を重ねる巨木とそれをぎりぎりと締め付ける蔦と見立てたが、さて、巨木が太陽光を渇仰して枝葉を大きく拡げるやうに巨木たる《吾》は、何かを渇仰するべく、蔦の間から枝葉を伸ばし、大きく拡げる筈であるが、さて、巨木たる《吾》も、蔦たる《反=吾》、若しくは《異形の吾》が何を渇仰して枝葉を大きく拡げてゐるのかを問ふてみた処で、直ぐには答へられぬ《吾》を、唯、噛み締めるといふだけの屈辱に苛まれる事になるのである。何故に《吾》に問ふ時に必ず《吾》は《吾》に対して敗北したかのやうな屈辱を味ははなければならぬかも、また、直ぐにはピンと来ないのであるが、しかし、この屈辱は、そもそも《吾》の《存在》に根差した感覚なのであって、《存在》は即ち、屈辱の別称である事が次第に闡明するのであり、さて、困った事にこの屈辱は《吾》が此の世に《存在》する限り、《吾》に、また、《反=吾》に一貫性を齎す《もの》で、不本意ながら、この《存在》に対する「先験的」とも言へる屈辱は、《吾》を此の世に《存在》させる原動力なのである。それは何故かと言へば、《吾》を此の世に根付かせるには自己肯定ではなく、徹底した自己否定においてのみであり、仮令自己肯定によって《吾》を称賛出来る《吾》が此の世に《存在》するとすれば、その《吾》は、既に変容する事を、つまり、生長する事を已めた《もの》でしかなく、その行く末は、蔦が宿主たる巨木を遂には枯らす如くに、《反=吾》、若しくは《異形の吾》によって《死》へ至らせられるべく自己決定した《存在》の断末魔でしかないのである。

では、《五蘊場》で生長する巨木たる《吾》と、蔦たる《反=吾》、若しくは《異形の吾》は、何を渇仰して、生長し続けるのかと問へば、それは、《吾》を無限へと誘ふ闇としか思へぬのである。つまり、《吾》も《反=吾》、若しくは《異形の吾》は、光ではなく、闇を渇仰して絶えず生長してゐるに違ひないのである。といふのも、闇には魑魅魍魎が犇めき、《吾》はそのGrotesqueな魑魅魍魎といふ観念を欣求しながら、それらを糧に生長するのである。つまり、《吾》が此の世に《存在》し得るには、《吾》は《五蘊場》といふ闇の中で明滅する表象の切片を食虫植物の如き《吾》といふ巨木の葉で捉へて、《吾》の糧にするのである。それは、言ふなれば光無き深海の底に一本のみ屹立する巨木と蔦の如き《もの》で、その巨木と蔦の葉は、食虫植物の如く、若しくは磯巾着の如くある筈で、《吾》は、深海に降り注ぐMarine snow(マリン・スノー)の如き、表象やら観念やらの骸を糧にする事でやうやっと生存するのである。

深海の底に屹立するGrotesqueな巨木。これが、《吾》の一つの表象であるが、その巨木をよくよく見ると、海底からぐっと首のみを伸ばした轆轤首であって、蔦に見える《反=吾》、若しくは《異形の吾》は、十一面観音像の如く、《吾》の《五蘊場》に何相もの顔貌が見え隠れする異形の《もの》として、また、《吾》に巣食ふ《もの》として《存在》するのである。そして、闇故にその《吾》と《反=吾》、若しくは《異形の吾》は、生き生きとしてゐるのを見出すに違ひないのである。

闇に潜む事の快楽は、多分、何《もの》も知ってゐる快楽に違ひなく、然しながら、闇の中には魑魅魍魎が犇めく幻視に《吾》は慄き、足が竦むのであるが、しかし、それ故に、《吾》の思考は追い立てられるやうにして無限へと一足飛びで、そして、《吾》と《反=吾》、若しくは《異形の吾》は、闇の《五蘊場》に引き摺り出される事になるのである。つまり、窮鼠猫を噛む如く幻視して闇に出現する此の世の《もの》ならぬ魑魅魍魎に追ひ込まれるやうにして《吾》は逃げ回り、轆轤首の首をぶった切った《吾》と《反=吾》、若しくは《異形の吾》も無限を射程に収めながら、《吾》を時に無限の大河に身を横たへてゐるかの如くたゆたひ、時に無我の境地にも似て充溢した、それは《吾》を《無=点》と呼ぶべき零地点にゐる《吾》を自覚して《吾》があるといふ自在感を闇に見出すのである。

とはいへ、《吾》は、深海の水底に屹立する食虫植物の如き巨木としての表象である事は已めずに、その巨木は、また、首の化け物として、思念のみが自在である《五蘊場》の肥大化の一つの形として、地には根を、天には枝葉を拡げて、つまり、その巨木は、巨大磯巾着の如くに深海の闇の中にゐる《吾》として《吾》を自覚してゐる筈なのである。それは、何の事はない、闇の中において《吾》が何《もの》であらうが全く問題ないのである。闇は、何《もの》も受け容れる貪婪な《もの》で、それ故に、《吾》は闇の中において魑魅魍魎を見てしまふのであって、《吾》もまた、闇の中においては異形の《もの》としてあるといふ事が可能であり、更には、闇において何《もの》も《吾》の極小と極大を同時に味はふ《吾》の無限性に驚く筈で、換言すれば、闇を嫌悪する《存在》は、自在感に恐怖する《存在》に違ひなく、それは、言ふなれば、《吾》が《吾》を自覚するのに鏡が必要な光の下の《存在》として、姿形が種により限定された《もの》で、また、それは、深海生物が海面から釣り上げられた時に浮袋などが膨脹して口から臓物が、そして目玉が飛び出た死体を晒す如くに、鏡面に映る《吾》の死に顔を、若しくは《吾》の死体を見出す事で、自由の不安からの解消を絶えず行ってゐるのである。

鏡面に映る《吾》なんぞは《吾》の一様態でしかないのである。《吾》こそは様様な《もの》に変容する変幻自在な《もの》で、《吾》の本質なる《もの》を問ふてみると、それは、闇に行き着く筈なのである。更に言へば、《吾》は受精卵から細胞分裂を始めれば、此の世の全生物史を何か月間でか変態しながら、それが例へば「現存在」であれば、人となって産まれて来るのであるが、つまり、《吾》はそもそも全生物に為り果せるものであり、また、あらゆる《存在》に《吾》を見立てる事などお茶の子さいさいなのである。

瞼を持つ《存在》は、多分、いづれも闇へと思念が羽ばたき、《吾》の無限相を知ってゐるに違ひないのである。つまり、薄っぺらな瞼を閉ぢる事で、眼前は薄っぺらな闇に包まれ、その闇が《五蘊場》と地続きな事が意識され、《吾》の棲み処が、その《五蘊場》に中心を置いた、そして、皮膚に包まれた肉体といふ、これまた闇にある事を自覚する筈なのである。

それ故に、闇は一方で阿片の如く《吾》に作用する幻覚剤なのである。無限に憑りつかれた《もの》は、無限に惑溺し、そして、溺死する危険性に絶えず晒されてゐて、一歩間違へれば《吾》はその無限から最早一歩も踏み出す事なく、将に枯れた巨木その《もの》に為り果せてしまふのである。そして、闇は、《存在》を幻惑する《もの》で、闇に魅了された《もの》は、首のみを闇の中に自在に伸ばして何《もの》も轆轤首へと変化するのである。つまり、轆轤首とは《吾》の原点であり、闇にたゆたふ快楽を存分に味はふ事を知ってしまった《存在》に違ひないのである。

さて、そんな轆轤首が居心地よく生息する《世界》とはどんな《世界》かと言へば、多分、妄想が生き生きと生きる仮想現実といふ時空間に違ひないのである。また、其処で生き生きする事こそが轆轤首たる所以なのである。静止したMonitorに映し出される動的な映像世界の断片は、例へば数理Model(モデル)で表現された幻想的なFractalな内容の《もの》もあれば、Cameraで写された現実の断片など、玉石混淆な、つまり、映像に出来る《もの》であれば何《もの》でも表現可能なMonitor画面において、《吾》が轆轤首であることは面目躍如としか言ひやうがないのである。少し考へれば解かる事であるが、Monitorに映し出される動的な映像に見入る《吾》は、視点を変へれば、首を伸ばして映像が捉へた《もの》をまじまじと見る轆轤首へと、Monitor画面に映し出される映像の動くままに見入った《吾》は、不知不識に変化している化け物にしか思へないのである。更に言へば、《吾》は轆轤首宜しく、一所に坐したまま、Monitor画面の映像は、何処へでも《吾》の首のみを連れ出してゆき、しかし、視聴覚と身体のこの断裂した有様は、将に轆轤首と看做す外ないのである。

その轆轤首の《吾》が、深海の闇の水底に屹立する巨木、或ひは巨大磯巾着で、而も頭蓋内の闇たる《五蘊場》に閉ぢ籠る《吾》と《反=吾》、若しくは《異形の吾》であるといふ矛盾を、また、深海の水底に屹立する巨木たる《吾》とその巨木に絡まる蔦たる《反=吾》、若しくは《異形の吾》が互ひに闇を渇仰し、その枝葉を大きく拡げて闇を浴びてゐる有様との大いなる矛盾を、《吾》は「先験的」に捉へてゐる事が白日の下に晒された故に、「現存在」は、人間として此の世に《存在》する事を断念しなければ、此の世での《存在》を許されずに、「現存在」は、気が付けば己が轆轤首といふ化け物に変化してゐる事を知って愕然とするのである。そして、大概の「現存在」は己が轆轤首といふ化け物に変化してゐる事を自覚してゐるに違ひないのである。

深海の闇の水底に屹立する巨木、若しくは巨大磯巾着の《吾》、それから、それに絡まる蔦たる《反=吾》、若しくは《異形の吾》、それから、頭蓋内の《五蘊場》に閉ぢ籠る轆轤首の首をぶった切った首のみの《吾》と《反=吾》、若しくは《異形の吾》、それから、その《五蘊場》に明滅する表象群の切片を食らふ食虫植物の如き《吾》など、《吾》が《吾》をして惹起する《吾》の心像は、即ち、その《もの》がてんでんばらばらに分裂した《もの》で、Monitor画面といふ時間を含めた三次元、若しくは四次元の映像世界に《吾》を無理矢理重ねてみて、つまり、轆轤首たる《吾》を自覚し、それに陶酔する《吾》に、果ては踏み惑ふ愚行を何度も繰り返しながら、遂には、自身が、巨木たる自身がぶっ倒れる事のみを夢見て、自己増殖する妄想に溺れるのである。つまり、それは落語の「頭山」に瓜二つな《吾》が、実在する事に《吾》は独り嗤って、仕舞ひに自分の頭に飛び込んで死ぬのである。

とはいへ、現時点では、《吾》の頭蓋内の闇たる《五蘊場》に閉ぢ籠る《吾》や《反=吾》、若しくは《異形の吾》は、「頭山」の男のやうに自分の頭に飛び込んで死ぬ事はなく、自分の頭、つまり、《五蘊場》といふ《死》と紙一重の時空間に閉ぢ籠り、《吾》と《反=吾》、若しくは《異形の吾》はひそひそ話に明け暮れるのである。換言すれば、落語の「頭山」の男の自分の頭に飛び込んで憤死するその様相は現代では一変し、轆轤首と為った「現存在」は、自分の頭に、《五蘊場》を拵へて、仮象の轆轤首たる《吾》は、現実から逃げ果すべく、首をぶった切り、己の頭、つまり、《五蘊場》に飛び込み、溺死する事も叶はずに、《吾》の《五蘊場》に明滅する妄想の類に惑溺するのみで、《吾》は、詰まる所、安穏と頭蓋内といふ《五蘊場》に逃避し果せてしまふのである。さうして《吾》は、思考実験と言へば聞こえはいいが、何の事はない、《五蘊場》の中から傀儡の《吾》を見繕って仮象の人身御供として現実にその仮象の傀儡の《吾》を《吾》の存続の為に捧げるのである。

そして、《吾》の身代はりで現実に捧げられた傀儡の《吾》は、《吾》に対して徹頭徹尾滅私奉公するのかと傀儡の《吾》が現実に嬲られ自爆する様を、一度じっくりと凝視すると、傀儡の《吾》は当然の事ながら、現実に抗ひ、現実を巧くいなして、思はず唸り声を発する程にそれは絶妙で感心する事になるのである。然しながら、傀儡の《吾》にとっては現実は当然、手に負へる《もの》の筈はなく、どんなに巧みに現実を躱さうと、最後のどん詰まりで傀儡の《吾》は、現実諸共木っ端微塵に破壊するべく覚悟を決めて現実を傀儡の《吾》に深く深く分け入る詭計を巡らした末に、最期に自爆するのである。

さて、其処で問題になるのが、傀儡の《吾》の自爆装置のSwitch(スイッチ)はいづれの《吾》が所持してゐるかといふ事なのだが、自爆装置のSwitchは、当然、傀儡の《吾》が持ってゐる筈である。しかし、一方で、《吾》も《反=吾》、若しくは《異形の吾》も傀儡の《吾》の自爆装置のSwitchを持ってゐて、然しながら、《吾》はそれを只管行使する事は避けて、自爆する時は、全て傀儡の《吾》に任せっきりな筈とも考へられるのである。ところが、少し立ち止まってこの矛盾を自問自答すると、傀儡の《吾》を爆破させてゐるのはもしかすると、此の《吾》なのかもしれぬと合点がゆき、現実を巻き添へにして、傀儡の《吾》を爆破させてゐる此の《吾》のふてぶてしさには、《吾》ながら快哉、否、侮蔑する外ないのである。それでは、

――何故に《吾》は知らぬ存ぜぬと、これ迄《吾》を欺いてゐたのか?

と、《吾》に問ふと、

――《吾》とは所詮、卑賤な《もの》の最たる《もの》の筈さ。

と、《吾》は臆面もなく言ひのけるのである。

《吾》と傀儡の《吾》とのからくりが一度解かってしまふと、《吾》は己の悍ましさに自身を呪ひながらも、内心では、

――したり。

と、嘲笑してゐる《吾》を見出して、尚更、《吾》は自己嫌悪のど壺に嵌るのである。さうなると其処は無間地獄の鳥羽口で、《吾》が《吾》に対して抱く猜疑の根深さは、《吾》の更なる分裂の引き金となって、《吾》は正気を保つ為に《吾》を嘲笑するその《吾》をぶん殴り、撲殺するのである。さうせずには仮初に《吾》が《吾》である一貫性が保持出来ず、用意周到な《吾》は、いざ《吾》が現実に対峙する段になると、再び傀儡の《吾》を現実に差し出す《吾》がゐて、然しながら、現実に差し出す《吾》が《存在》せずば、《吾》の《存在》が此の世に存続する事すら危ぶまれるのである。一度、《吾》が揺らぎ始めると、それは留まる事はなく、未来永劫に亙ってその揺らぎは続く《もの》で、《吾》が《吾》を疑ふといふ底無しの猜疑心は一度《吾》に萌芽すると、何としてもその生長を止める事は不可能であって、《吾》は《吾》の内部から腐乱し始めるのである。それは、巨木にはよく見られる現象で、中身が枯死し、刳り抜かれた巨木は極一般的な日常の風景なのである。つまり、深海の水底に屹立する《吾》たる巨木は、《吾》に対する猜疑心によって内部から腐り出して、巨木は外皮のみを残して中身ががらんどうの《存在》として深海の水底に屹立するのである。

すると、自己増殖する《吾》といふのは、《吾》が《吾》に対して抱く願望でしかない事に合点がゆく《吾》は、

――ぶはっはっはっはっ。

と、哄笑して、《吾》の間抜けぶりを自覚する事になるのである。

さて、それでは、自己増殖する《吾》とは、一体全体何であるのかを自身に問ふてみると、それは、現実に対する《吾》の擬態であり、もしかすると、傀儡の《吾》の《存在》その《もの》が、全て虚構の白昼夢に過ぎず、《吾》を語る為に《吾》がでっち上げた語り得る架空の《吾》故に、《吾》は自己増殖すると《吾》は看做してしまったのかもしれないのである。つまり、《吾》とは、語り得る《吾》の《存在》をでっち上げて《吾》といふ《存在》に自己暗示をかけて、恰も現実に《存在》する如く、《吾》は《吾》によって空想する《もの》なのかもしれなかったのである。

《吾》が《吾》を語り得る《もの》として空想する事は、《吾》を言葉によって瓦解させる事を意味してゐると看做せなくもなく、敢へて言へば、さうしてでっち上げられた架空の《吾》は、先に《五蘊場》に閉ぢ籠った《吾》の事に違ひなく、元来、分裂してしまってゐるに違ひない《吾》は、《吾》を自己増殖させるべく《吾》の肥大化を企てなければ、《吾》の所在すら解からず仕舞ひな《吾》であって、《吾》が《吾》に対峙する跋の悪さは、《反=吾》、若しくは《異形の吾》との対峙の比ではなく、《五蘊場》の闇の中とはいへ、ちらちらと点滅する表象群の閃光に《吾》と対峙する当の《吾》の姿は、ほんのりと闇間に浮かぶのであるが、《吾》はその《吾》が轆轤首でなく、また、首のみの人魂の如き形をしてゐないといふ事に訝るのであった。

と、そんな疑念が《五蘊場》に湧き起こると、そのでっち上げた《吾》は不意にその気配を消し、更に《吾》は、《吾》に対して不信の目を向けるのであるが、ところが、其処で《反=吾》、若しくは《異形の吾》が、

――くっくっくっくっ。

と、嗤ふのであった。それは真に嫌な嗤ひなのである。何故に《反=吾》、若しくは《異形の吾》が嗤ってゐたのか、《吾》にはすぐには見当が付かぬ故に気色悪い嗤ひなのであった。しかし、それは、多分に《吾》が表象群の明滅によって《反=吾》、若しくは《異形の吾》もまた、一寸前に気配を消してしまった《吾》の姿、若しくは面を見てしまったに違ひないのである。さうでなければ、《吾》に態態聞こえるやうな、嫌な嗤ひは起きる筈はなかったのである。あの《吾》が気配を消したのは、つまり、《反=吾》、若しくは《異形の吾》に《吾》の素顔が見られてしまった事による恥辱から来てゐるのではないかと、《吾》は暫くすると合点がゆき、さう思ひ為しては、《吾》の素顔はどんな素顔をしてゐるのかと興味津津で、それは、つまり、《吾》の思考とは、如何に一つの事をぢっと考へられぬ事かと、既に首をぐっと《吾》の気配がした処へと伸ばし、闇のみを凝視するので、《吾》の好奇心旺盛の節操の無さに苦笑するのであった。すると、《反=吾》、若しくは《異形の吾》が、

――いっひっひっ。

と、嘲笑するのであった。その嘲笑は残響を長く《五蘊場》に残し、何時迄もその木霊が聞こえるのであった。《吾》は、さうすると、唯、瞼を閉ぢて、独り闇に遁走しては、《吾》といふ巨木は、外皮のみでがらんどうになってしまったとはいへ、上部や枝葉では、未だに自己増殖して、《吾》が《反=吾》、若しくは《異形の吾》の嘲笑の木霊を聞きながら瞼を閉ぢると、《吾》といふ巨木の年輪が一つ刻まれるやうになるに違ひなかった。

すると、《反=吾》、若しくは《異形の吾》の《吾》の巨木に纏はり付いてゐる蔦は、更にぎゅっと《吾》を締め付けて、《吾》の肥大化を矯正し、《吾》を盆栽の何百年もの古木の如くに《反=吾》、若しくは《異形の吾》の閉め加減一つで、如何様にも変形する《吾》の虚しさにやうやっと気付くのである。成程、《吾》は、《吾》自身で己の事を巨木か、若しくは巨大磯巾着の如く看做してゐたが、実は、盆栽の木の如く何百年も小さいままに年輪を重ねた古木なのかもしれず、さう考へると、妙に納得する《吾》がゐるのであった。

――いっひっひっ。

さうすると、《反=吾》、若しくは《異形の吾》は、盆栽の木に巻き付けて、その姿を強要される太き太き太き針金の如き《もの》かもしれず、首のみをぐっと伸ばしてゐた轆轤首の《吾》は、太き太き太き《反=吾》、若しくは《異形の吾》の針金によって、首の姿を《反=吾》、若しくは《異形の吾》の思ひのまま、さもなくば、《神》のやうな《存在》により、太き太き太き針金を首に巻き付けられて、姿を強要された《吾》といふ《もの》を見出す筈であるが、己の事を深海の水底に屹立する中ががらんどうの巨木とばかり想定してゐた《吾》は、其処で不意に沈思し始めるのであった。

――《吾》は巨木か、否か? 《吾》は盆栽の古木か、否か?

それは《神》が巨木大だと、《吾》は盆栽の古木で、《神》が巨人族の眷属であるならば、《吾》は巨木に違ひなく、古木たる《吾》の大きさなどは、相対的な《もの》に違ひないのである。それ故に、《吾》が《五蘊場》の闇に籠城する《もの》であるならば、その時、《吾》の《五蘊場》に出現する《吾》と名指しされた《もの》は、盆栽の古木のやうに何百年もの星霜を経た《もの》に宿る或る威厳ある風情として、頭蓋内の《五蘊場》に巨大な巨大な巨大な木を表象させて、《吾》たる盆栽の古木に《吾》の表象を重ねながら極小から極大までを振幅を繰り返しながら、その表象された木は、《吾》の大きさに最終的には収斂してゆくのである。《吾》を虚勢を張った威容ある《存在》とでっち上げたければ、《五蘊場》に出現する《吾》と名指しされる木は、巨木の威容を備へてゐると一見見えるのであるが、しかし、それをよくよく目を凝らして眺めれば、しゅうっとその巨木は収縮し、玩具の如き木の芽に過ぎぬ事が闡明されて、《吾》は慌はてふためくのである。

――何たる事だ!

《吾》の擬態にまんまと騙されてゐたに過ぎぬ《吾》を自覚すると《世界》は一変するのであった。

ふうっと、仮象の轆轤首の《吾》と《反=吾》、若しくは《異形の吾》は全て一瞬にして霧消し、《吾》は《吾》の肉体に帰還し、不意に私は、《吾》に為る不愉快な時間を味はひ、眼をかっと見開いて《世界》の中にある《吾》といふ《もの》をして《吾》の《五蘊場》に楔を打ち込みながら、私はくっと歯を噛み締めて、唯、ぢっと《吾》たる《もの》に堪へるのであった。つまり、等身大の《吾》を《世界》の中に見出すのであった。さうして、私は頭蓋内の《五蘊場》を攪拌して、再び《吾》の仮象が出現するのを待つのである。実際、《世界》の内にある《吾》でゐ続ける事は、最早、苦痛でしかない私にとって《吾》の仮象を生み出す作業は、私が此の世で生き抜く最低限の智慧なのであった。

然しながら、私の想像は既に枯渇してまったに違ひなく、再び《吾》は轆轤首として私の頭蓋内の闇たる《五蘊場》に表象されるのであった。それといふのも私は、既に《脳=内=存在》、つまり、《五蘊場=内=存在》たる事に徹する事で、《吾》が《吾》でしかない此の世の不合理に堪へ忍んで、《吾》は《五蘊場》の内なる《存在》として、生きる事を覚悟してゐたに違ひなかったのである。そんな《吾》が《五蘊場》に表象し得る《吾》は、つまり、《五蘊場》ばかり肥大化した首振り人形の如き轆轤首として現はれる外ないのである。既に《五蘊場》と肉体は分裂してしまってゐて、《吾》が語る言葉には、最早、感覚的な言葉は影を潜め、唯、《吾》の口からついて出る言葉に仮象を誘ふ言葉のみが重視されるのである。

五感は、既に過去の遺物でしかなく、五蘊のみが《五蘊場》に収斂した《五蘊場=内=存在》たる《吾》は、ドストエフスキイ曰く、「紙で出来た人間」宜しく、《吾》の餌は、最早、言葉となった《もの》しか受け付けないのである。勿論、食物を食べはするが、其処に《吾》は何の重きも置かずに唯の生命維持の為のみに食物を喰らふのであって、美味しい不味いの判断は既に《吾》から失われてしまって久しいのである。《吾》が望むのは食物も「何何に効く」などと効能を謳って言語化された食物を喰らふのであって、それが美味いか不味いかは二の次なのである。食物ですら言語化された《もの》として喰らふ《吾》が、《五蘊場》に自身を思ひ描くその道理は、

――初めに言葉ありき。

なのである。そして、それは、勿論、聖書の冒頭の言葉と同じ事は知りつつも、《吾》にとっては既にその言葉が持つ効能は、聖書のそれとは全く違ってゐて、《吾》が自身を思ひ描く《吾》なる《もの》は、言語化され得る《もの》のみで出来上がった下らぬ《五蘊場=内=存在》たる《吾》でしかなかったのである。

しかし、言葉を喰らふばかりの《存在》として《五蘊場》の中に閉ぢ籠る《吾》は、唯唯、虚しいだけなのもまた事実なのであった。それは、途轍もない虚無感で、その点でも《吾》は、内部から腐乱し始めてゐるのは間違ひなく、さうやって、《吾》を浪費する事でのみ、やっと《吾》は《吾》の《存在》を受け容れるのであった。否、受け容れる外なかったのである。何故ならば、自意識が芽生える以前に《吾》は《吾》として既に《存在》してをり、その《吾》を仮初にも全否定した処で、自殺する事位が関の山であって、《吾》が死なうが《世界》は痛くも痒くもないのである。つまり、《吾》が《吾》の《存在》を認識する時は、既に《吾》は《世界》に対してそれとは気付かずに反旗を翻してゐるのである。

――何時か、《世界》を転覆させる!

と、自意識に目覚め、自意識に苛まれる思春期に既にそのちっちゃな胸奥で呟いてゐた事に、後後気付いて、にやりと嗤ふ《吾》に、《吾》は尚更胸糞悪く、そんな《吾》を侮蔑せずにはをれぬのである。つまり、《吾》は《吾》を侮蔑しては《吾》を唾棄する堂堂巡りを繰り返して、その何時果てるとも知れぬ《吾》の《吾》に対する鬼ごっこを蜿蜒と繰り返すのである。その虚しさは言はずもがなである。

では、そんな鬼ごっこなんて已めちまへ、とは思ふのだが、何せ《吾》に関する自己に《吾》は一時も《吾》から遁れる術を持ち合はせてをらず、仮令、瞑想が《吾》が《吾》を追ひかける無間地獄から抜け出す方法であっても、その瞑想してゐる《吾》を《吾》は受け容れられず、《吾》は懊悩の塊と化して、只管に《吾》を追ひかけるのである。さうせずには、《吾》の《存在》が危ぶまれる疑念が何時も《吾》の頭蓋内の《五蘊場》に去来するのである。そんな事はないと《吾》を宥めてみた処で、それは、必ず失敗に終はるのが常で、《吾》が《吾》から遁れる異形の姿が轆轤首に違ひないのである。

首のみをぐうっと伸ばしたその異形の姿は、高度科学技術で高度情報化の社会が《吾》に迫った《もの》に違ひなく、また、《吾》が轆轤首である事を許したのは、その社会、つまり、何処の誰とも知れぬ《他》、それは《神》ではない《他》の手によって弄り回された《世界》の残滓によってである。《吾》が此の世に《存在》してゐた時には既に《世界》は現代の荒波に揉まれて、その原始の姿は全くなく、郊外といふ全く人工的で無味乾燥な《世界》で生きる事を強要された《存在》として既にあった事に、《吾》の根無し具合を鑑みては、何時も忌忌しく思ふのであるが、それすらをも忍辱しなければならなかった《吾》の有様は、《自由》を欣求するのであれば、頭蓋内の《五蘊場》に逃げ込む外なく、さうして《世界》と断絶してしまった《吾》の有様を思ふと、尚更、《吾》は《吾》を嘲笑するのであった。多分、私はさうする事で《吾》を呪縛する《世界》へと無理矢理に適応する事を思ひ留まらせ、その呪縛から遁れられるのではないかと、当てずっぽうに思ひ込みながら、生を送るといふ余りにも虚しい人生に見切りをつけて、只管に《五蘊場》に閉ぢ籠りながら、《吾》は、詰まる所、《吾》を人質にとって、《五蘊場》に籠城する事に相成ったとしか言ひ様がない、そこはかとない忸怩たる思ひの中に沈思するのであった。ところが、こんな事は、《吾》の専売特許などではなく、《他》もまた、同じやうに虚妄の中に己の生を見出し、《他》もまた、深い懊悩にありながら、しかし、巧く《世界》に、全くの人工的な《世界》に適応して見せて、充足したやうに見える生を送ってゐるとしか《吾》には見えない憾みを抱きつつも、《吾》は《他》に付和雷同する事で、何とか《世界》に《吾》の居場所を見出す事になるのである。

さうして《他》があらゆることの基準となってしまった此の《吾》といふ《存在》は、巨人族の喪失が何をおいても、その《吾》の思考法に暗い影を落としてゐて、「現存在」を超越した《存在》、即ち、《神》の喪失とは、郊外といふ人工の《世界》で生きるを得なかった「現存在」にとっては、見果てぬ夢に違ひなく、「現存在」の事しか、それも不十分に「現存在」の《存在》のみしか念頭にない郊外といふ不自然な《世界》に追ひ詰められた「現存在」にとって《吾》とは、紋切り型として大量生産される「世人」の事であって、《死》は、或る日、突然にやって来る異界と化して《死》の場所すらをも排除してゐたその郊外といふ不自然な時空間が、仮に「現存在」が夢見た「理想郷」であったとしても、其処で幼児期から《存在》させられた子供にとっては、何処も彼処も《吾》の隠れる場所はなく、《世界》に対して生身のまま対峙する外なかった「現存在」にとって、郊外は、何時しか脱出すべき場所へと変貌するのは、当然の事なのである。

「現存在」が主人公の郊外といふ不自然な《世界》において、幼児期から其処で生きる事を強要された「現存在」は、然しながら、哀しい事に、その不自然な人工的な世界に過剰適応してしまひ、さて、その帰結が「現存在」の轆轤首への変容なのである。何故に轆轤首なのかは、今迄に既に述べてゐるのでもう語らないが、「現存在」の視聴覚のみに特化した歪な《世界》の状況に対して「現存在」は、轆轤首へと変容するしか生き延びる事は不可能であったのである。そして、その轆轤首は、如何に凡庸であるかが問はれるといふ本末転倒した皮肉に満ちた《存在》の有様を強ひられ、変はり者は郊外から追はれる事になったのであった。しかし、原風景としての不自然な郊外が、頭蓋内の《五蘊場》に居座ってゐる限り、何処も彼処も「現存在」が主人公のぺらぺらな《世界》が此の世であると、《世界》といふ《もの》を無意識裡に見下してゐる事に気付かぬままに、《世界》に対して無謀にも、無防備に対峙する愚行をやってのけるのである。それは、はっきり言って莫迦がする事で、郊外は、詰まる所、莫迦者しか生み出さない時空間なのである。その結果、現在起きてゐる事は、超高層Buildingが林立する都心回帰の動きなのであるが、この超高層Buildingが曲者で、敢へて言へば、超高層Buildingに住まふ《もの》こそが、轆轤首と化した「現存在」であるといふ事である。何故に轆轤首なのかと言へば、それは、明らかで、「現存在」は、科学技術を信頼しきってゐる故に超高層Buildingに住まふ事が可能であり、高度科学技術が生み出した現代といふ不気味な居住空間に轆轤首しか《存在》出来ぬのが道理なのである。

地を離れた超高層Buildingに住まふ「現存在」は、意識として体軀は、地面に残したままで、首のみを超高層Buildingに潜入させてゐる哀しい姿として、此の世に現はれてゐて、また、超高層Buildingは地上から離れてゐる故に、その分、地上よりも早い速度で公転してゐる筈で、しかし、一方で地上から離れてゐる事で、その事から特殊相対性理論より地上よりも離れれば離れる程に時間の流れは速くなり、つまり、超高層Buildingは敢へて言へば、それはほんの一寸の時間差に過ぎぬが、或る種のTime Machineと言ってよく、超高層Buildingの住人は、絶えず《現在》よりも早く年を取る、つまり、早く老けるのが科学的な結論なのである。つまり、超高層Buildingにおいてその不自然極まりない時空間に過剰適応したのが、轆轤首としての「現存在」であって、それ以外の「現存在」は、超高層Buildingの不自然さに堪へられる筈もなく、また、徹底的に自然性を喪失してしまった超高層Buildingの住人達が、真っ当な「現存在」である筈はなく、皆、そんな不自然な《世界》に《吾》の居場所を見出す「現存在」の鬼子が、現在、《存在》してゐる数多の「現存在」の普通の有様なのである。自身が「現存在」の鬼子、即ち、轆轤首である事にてんで思ひ至らぬ「現存在」こそが、現在の最先端を生きる「現存在」のありふれた様相なのである。

現代とは首のみ重宝される無慈悲な時代なのである。「現存在」は絶えず実験動物の如く常に更新されゆく文明の利器に囲まれた流動的な《世界》に置かれ、その《存在》を無理矢理試されるのである。其処で適応出来なければ、それは既に無能《もの》としての烙印が押され、《世界》に潰される《存在》なのである。それ故に「現存在」はこの首のみが重宝される時代に過剰適応して見せることで、自身の存在価値を測る尺度にしてゐたのである。その結果、「現存在」は轆轤首と為って、此の世を浮遊し始めたのである。嘗ては、「現存在」の闊歩する跫音が聞こえた街には既に「現存在」の跫音はなく、不気味に首のみがぬっと伸び行く奇怪な《世界》が出現する事に為ったのである。何処も彼処も首、首、首なのである。

「現存在」は、環境が全て、人力を超えた《もの》で造られた時点で、「現存在」は轆轤首に為る事を宿命付けられてゐたのである。「現存在」はそもそも人力以上の事象に対して戸惑ふばかりで、しかし、慣れといふ《もの》は恐ろしい《もの》で、人力を超えた《もの》に包囲されると「現存在」はそれに見事に適応して見せて、そんな物騒な《世界》、つまり、移動するにせよ、建物を建築するにせよ、仮想現実に遊行するにせよ、そのいづれもが「現存在」を《死》へといも簡単に追ひやり、その時、死亡する「現存在」は人力以上の負荷がかかるので、その死体は無惨な《もの》となる外なく、それでも、「現存在」は高度科学技術文明、且つ、高度情報化社会に順応する事ばかり強ひられるのである。それが異常な事は、誰にとっても暗黙裡に了解されてゐながら、誰もが最早言挙げる事を断念し、誰もが《世界》の変化を文句も言はずにそれをすんなりと受け容れるのである。それが、どんなに虚しい事であらうがである。

さて、首のみをぐっと伸ばした轆轤首の「現存在」は、己の事を鑑みては己にぽっかりと空いた間隙に何時でも陥落する危ふさもまた持たざるを得ず、《吾》が闇に包まれた深海の水底に屹立する古木と看做す事で、辛うじて《吾》を保持する事が可能で、しかし、その実は、《反=吾》、若しくは《異形の吾》にきりきりと締め上げられ、盆栽の古木に過ぎず、その反動として己を過大評価せずば、この人力を超えた《世界》では生きてゆけないのである。何事をするにも人力を超えた《もの》によって《吾》は《吾》の事を誇大化する事で、やっと精神的平衡を得てゐるのである。

世はSpeedの時代である。そのSpeedは既に人力を超えて久しいが、そのSpeedに堪へられない「現存在」は、容赦なく取捨選択されて、Speedの世に巧く適応出来た「現存在」のみが、掘っても掘っても湧いてくる時間に翻弄されたSpeedの時代にせせこましく生きるのである。それに見事に適応したのが轆轤首の「現存在」で、肉体は既に世のSpeedに付いてゆけず、首のみが、つまり、意識のみがSpeed狂時代に適応する外に「現存在」の《存在》はあり得ない筈なのである。

例へば、自動車に対して肉体は適応出来ず、事故が起きれば、肉体は無惨な死体を晒すのみで、さて、その時は意識もまた、絶命するのであるが、しかし、《吾》といふ《念》が永劫に《存在》すると敢へて看做すと肉体と精神の齟齬は現代程酷い時代は有史以来初めてに違ひなく、それ故に、意識のみが肉体から離れた轆轤首の《吾》が出現する事に為ったのである。とはいへ、「現存在」は《吾》が轆轤首である事は露知らず、今尚、肉体と精神は太古の昔より此の方一切変はらずに《存在》してゐると思ひ込み、何の根拠もない先入観の中に安穏としてゐるが、しかし、その実は、首と胴体は伸び切る迄に伸び切った危ふい状態にあり、精神は肉体から何時でも分離するべく、肉体の隙を狙っては、絶えず首をぐっと伸ばして、肉体を置いてきぼりにする事を目論むの《もの》なのである。

さて、それ故に伸縮自在となった首を持つ轆轤首は、現代に過剰適応した事で、首のみで構はぬと開き直る事で《吾》なる袋小路の状況を打開するべく、轆轤首は、

――《吾》、轆轤首なり。

と宣言する事に為ったのである。

轆轤首が轆轤首であると開き直る事でしか、現在といふ苦境を乗り越えられぬ事が一度理解されると、生き延びる為には、轆轤首に変化するのが利口《もの》のする事だと嘯きつつも、《存在》の居心地の悪さが不安でならないのである。意識と肉体の絶望的な乖離の埋め難さに《吾》は唯唯、溜息を吐くばかりで、既に収拾不可能なこの意識と肉体の絶望的な乖離を目にする度毎に轆轤首は、唯、茫然とするしかなく、また、だからと言って何をする訳でもなく、つまり、為す術なく、《吾》の現状を渋渋と受け容れるのであるが、しかし、轆轤首たらむとする《吾》ではある一方で、轆轤首である事に不慣れな《吾》は、さて、最早、足下すらも見る事が不可能になりつつある中、後ろを振り返る事に堪へられず、只管に前のみを睨み付けながら、首のみを更にぐっと伸ばすのである。《吾》は然しながら、それが《吾》の壊滅を早める事であるとは、漠然と感じながらも、最早、前進することが已められないのである。それは、例へば時間の不可逆性と同じ種類の《もの》に違ひなく、轆轤首と一度、居直った《吾》は、最早、《にんげん》に戻れないのである。そして、此の世は「現存在」の怨嗟で満ちる事になったのである。何処も彼処も、

――《吾》は何処か?

といふ、最早、誰にも答へられぬ問ひを発しながら、首のみをぐっと伸ばし続けて、遂には《吾》の肉体を見失ふのであった。つまり、《吾》の出自は現代では行方不明となってしまったのである。

――《吾》とは《吾》だ!

と、尚も頑強に主張する《もの》も、それではその《吾》とは何ぞや、と問はれてみると、何《もの》も最早、答へに窮するのである。つまり、此の世の一番の謎は、《吾》と為ってしまったのである。そして、《吾》の内部では、

――うふっふっふっふっ。

と、ほくそ笑む何《もの》かが不意に現はれて、《吾》をからかひ始めるのであった。

――《吾》とは如何程の《もの》かね? ちぇっ、それすらも解からないとすると、《吾》とは、随分蒙昧になったもんだ。ほれ、《吾》を喰らってゐろ!

と、闇が差し出されたのである。差し出された方は一瞬茫然と天を仰いだのであるが、しかし、ままよ、と、その的を射た答へに感服し、

――成程、《吾》とは闇に違ひない。

と、その闇にしゃぶり付くのであった。そして、その闇の味といったら、無味乾燥で《吾》とは何と不味い《もの》なのだらう、と今更ながら気付くのであった。

さうなのである。《吾》は不味い闇に外ならないのである。それは、まるで綿菓子を絡め取る如くに眼前に差し出された闇を絡め取り、そして、ぺろりと嘗めるのである。そして、

――何ぢゃ、こりゃ?

と、《吾》の不味さに目が眩むのである。その伸ばし過ぎで、遂に《吾》を見失ってしまった《吾》に差し出された闇の不味さに、

――この闇から果たして《吾》なる《もの》は生まれ出づるのか?

と訝りつつも、それでも何かが生まれるかもしれぬと淡い期待を抱きながら、闇を喰らふのである。さうする事でしか、《吾》が《吾》である不安から遁れられずに、これもまた《吾》に為る修練だと肚を据ゑて、只管に、《吾》なる轆轤首は闇を喰らふのであった。

しかし、闇をいくら喰らっても、闇は増えも減りせず、元のままの闇として《存在》するばかりであった。そして、闇は幻覚剤の如くに首のみと化した「現存在」に作用し、幻を闇に浮かべるのであった。そして、あんなに不味かった闇が、或る時を境に美味しくなるから不思議なのである。しかし、幻覚の《世界》から食み出る事は不可能で、それは例へば、目が覚めるまで、それが悪夢であらうが、夢が覚めないのと同様に、《吾》は絶えず幻覚の《世界》にゐて、闇を一嘗めぺろりと嘗めれば、幻覚が現はれ、最早、《吾》はそれに鷲摑みにされて何時しか闇の虜になってゐるのである。

当の《吾》は、しかし、己が見てゐる《もの》が幻覚であるとは微塵も思ひもせず、それが現実の《世界》であると信じて疑はないのである。街を歩いてゐると、突然、声を出して喋り始める人間の如くである。つまり、街中で突然に話し出す人は、携帯電話かSmartphone(スマートフォン)に話してゐるのである。その事情が全く呑み込めぬ私は、その不穏な様に、たぢろぐのであるが、瞬時にその事情が呑み込めた私は、何をびくびくしてゐるのかと自嘲するのである。しかし、闇の虜となって幻覚を喰らふのが私における《吾》の《存在》の仕方なのである。夢において《吾》は眼前で起きてゐる事に疑ひを持たずにどんな不自然な状況でもそれを受け容れ、疑ふといふ《もの》を何処かで喪失してしまった哀れな《存在》に成り下がってしまったのである。つまり、轆轤首にとっては、実体はあってもなくても別にどうでもよく、映像として《世界》が成り立ってゐれば、それが全てなのである。轆轤首が既に異形の《もの》なれば、それは必然であって、轆轤首とは何の事はない、《世界》が自己完結してしまった閉塞の状態の事に過ぎぬのである。

ところが、現実といふのは、酷い《もの》で、或る日、突然に《吾》に牙を剥き、襲撃するのである。幻覚に酔ひ痴れた《吾》は、さて、何が起きてゐるのか全く解からずに、不意に絶命するのである。その死に様が何とも痛痛しく、哀れに思ふのであるが、遂に、死すまで、幻覚の中から出られなかったその轆轤首は、ところで、何の為に、生きてゐたのか皆目解からず、また、《他》の轆轤首にとって《他》の《死》は、最早、何の恐怖も齎さずに、誰にとっても無関心な出来事として、片付けられる運命にあるのである。そもそも幻覚の中に閉ぢ籠った《吾》において、現実は、あってなきが如く有名無実な《もの》と化してゐて、誰の《世界》も摺り合はせが行はれていない為に《世界》は轆轤首の数だけてんでんばらばらに《存在》し、それは所謂、対幻想には決してならない類の何かに全く変質してしまってゐるのである。

そして、轆轤首は《個時空》としてしか呼べない独りぽつねんと大海にゐる事すら気付かぬ《もの》として、《世界》の中に《存在》するのである。時代は何時しか全肯定の時代に突入し、何《もの》も、最早、《世界》に対して疑ふ事を已めてしまひ、《個時空》の中に閉ぢ籠っては突然、

――ぶはっはっはっはっ。

と嗤ひ出すのである。それがいかに不自然だらうと、最早、誰も《吾》の《個時空》に興味などないので、仮令、《吾》が嗤はうが、そんな些末な事に関はる暇を失くした轆轤首の有象無象がうようよしてゐるのである。ところが、《世界》は、最早、共通項といふ対幻想が成り立たない状況下で、いくら轆轤首が《存在》しようがそれらは、全くぶつかる事がなくするりするりとすり抜けて、幻覚のみが絶えず《吾》の眼前に《存在》するばかりなのである。何《もの》にもぶつからぬといふ事は、轆轤首にとって《他》は《非在》なる《もの》としてしか、最早、表象されないのである。

何もぶつからないといふ事は、或る種の悲劇に違ひなく、其処は永劫に《他》は《存在》しないといふ事を意味するのであった。ぶつからないといふ事はさういう事なのである。つまり、何にもぶつからない《吾》は、遂に《他》の《存在》を《個時空》から追ひ出したのである。《吾》は《反=存在》と化す事で《他》の《存在》から遂に逃げ果せたのである。しかし、闇を嘗めながら独り幻の中で右往左往してゐる《吾》には《他》を《個時空》から追ひ出した事には全く思ひ至らずに、只管、幻覚の中でドン・キホーテの如くサンチョ・パンサと共に化け物と格闘してゐるのである。それは、轆轤首たる《吾》にとっては紛れもない《他》であって、実体ある《他》よりも幻の《他》の方が始末に負へない難物なのは、《吾》が《死》すべき、否、《吾》が《死》んでも尚、《吾》に付き纏ふ幻の《他》は、しかし、既に《死》した《もの》の類に違ひないのである。つまり、轆轤首が犇めきながらも互ひに全くぶつからない《個時空》にゐる《吾》にとって《他》は《吾》のみにしか見えない《存在》であり、奇妙な事に《吾》はその事に薄薄気が付いてゐるのである。《吾》の《個時空》は糸が切れた凧の如くに《世界》がぶち切れた《もの》で其処には実体ある《存在》は、最早、《存在》しないのであるが、しかし、《吾》は幻にのみ戯れる事を無意味と気付きながら、それを已めようとはしないのである。何故なら、それが楽だからである。それ故に《吾》は敢へて《個時空》を外部に開かずに内部にのみ目を向けさせる事で自足するだけで、意図してゐるのかどうかは解からぬが、しかし、《吾》を内部にのみ拘泥させる事にかけては、絶妙この上ないのである。それは、《吾》が闇をぺろりと嘗めて、麻痺してしまった感覚において、最早、《他》に対応する事は不可能なのである。不感症。「現存在」たる轆轤首にとって《吾》を端的に言へば、それは不感症の《存在》なのである。それは当然の事である。ぐっと首を伸ばしに伸ばすには、既に《吾》の感覚は麻痺してゐなければ不可能で、蜿蜒と人工の紋切り型の《世界》が続く郊外で生きてきた轆轤首にとって己がその《世界》で存続させる為には、感覚を如何に麻痺させるのかの競争に時代は突入した事に知らぬは《吾》ばかりなのである。その結果、《吾》が不感症なのは、必然で、不感症となり、無感覚でなければ、《世界》の中では、生き残れなかったのである。それは、何とも皮肉な事で、楽を追求する事は、不感症になる事であったのである。しかし、時既に遅きに失し、最早、元には戻れない処まで、事態は進行してしまったのである。肉体と精神の埋めようもない乖離は、事此処に至りて、ぶった切られてしまったのである。つまり、轆轤首は自らその首をぶった切って《吾》を浮遊する《もの》とする事で辛うじて此の世に《存在》出来得たのである。一見それは哀しい事のやうに思へるのであるが、さにあらん、《吾》は楽を飽くまで求める故に喜んで《吾》は首をぶった切ったのである。さうして拓けた《世界》は徹頭徹尾《吾》の幻覚の《世界》であり、その《世界》はとにもかくにも楽なのである。何故に楽なのかと言へば、《吾》の匙加減で《世界》は如何様にでも変はる事に首のみと化した《吾》は知ってしまったからである。しかし、それは、大いに矛盾してゐる事で、幻がそもそも《吾》の匙加減でどうにでもなるならば、幻の《他》もまた、《吾》の匙加減でどうにでもなる筈なのであるが、事態はさにあらぬのである。或る種の被害妄想に囚はれた《吾》は、見渡す限り人工の《世界》に生きる事を強要された《吾》にとって、《世界》、若しくは《他》は存続する《吾》を襲撃する《もの》としてしか最早把握出来ないのである。

《世界》の襲撃は何時も不意である。《吾》は不意に滅する事が日常に変じてしまった現代において、自然災害ばかりでなく、不慮の事故によっても不意に《死》すのである。それが毎日、時と場所を変へて起きてゐて、《吾》は「現存在」の《他》の《死》に対して、最早、薄情な程に無関心で、つまり、《吾》は不感症に陥ってゐるのである。しかし、不感症はDemerit(デメリット)ばかりでなく、途轍もない効能があるのである。それは、何度も言ふが楽を《吾》に齎すのである。《吾》の幻覚の中に立ち現はれる《他》は、既に《吾》に解釈された何かであって、それは、決して謎である「現存在」としての《他》ではなく、《吾》が思ふ事を率先して行ふ幽霊の類の何かなのである。それは、《吾》が轆轤首である事と無関係ではなく、《吾》が異形の《もの》に変化したといふ事は、《世界》に何《もの》にもぶち当たる事なく孤軍奮闘するといふ、第三者の眼から見れば全く馬鹿げた振る舞ひに終始する被害妄想の域から一歩も出ずに、《個時空》を空回りさせながら、不意に《死》すのである。既に、轆轤首の首を自らぶった切った《吾》は、最早、重力の魔から遁れ出て、地から浮遊して、ゆらりゆらりと街を彷徨ふのである。然しながら、その街は既に此の世には《存在》しない架空の街でしかなく、《世界》は完全にその出自を失ふのである。それでは、その《吾》にのみ有効な《世界》とはどんな《世界》かと言へば、それは、一見《吾》の意思とは無関係に《もの》が《存在》してゐるやうに見えながら、裏では、《吾》の意思一つでどうにでもその相貌を変へる《吾》と連動した《幻=世界》なのである。其処には当然、《存在》は《存在》せず、《非在》ばかりがあるといふ皮肉な《世界》があるのみなのである。

自ら首をぶった切った轆轤首の《吾》は、本来的な《世界》とは無関係に脈打つ《個時空》といふ《幻=世界》を携へながら、自らの幻に陶酔するのである。それが、首をぶった切った痛みを止める鎮痛剤、否、麻酔薬に違ひなく、《吾》の《幻=世界》を表象させる悪循環に自ら進んで突き進む《吾》の悲哀は、誰の眼にも明らかなのに、しかし、《吾》のみは、それが悲哀に満ちてゐるなどと微塵も思はずに、只管、その《幻=世界》に対して、

――《吾》とは何ぞや?

と謎かけをしては、独りほくそ笑むのである。さうすると、《吾》は、然しながら、余りに不意に《死》すのである。それは、明らかに《幻=世界》の虜になってしまって《外=世界》に対して全く無関心な《吾》の至るべき終着点であり、また、首のみとなって此の世を浮遊する《吾》は、敢へて自ら《自死》の道を選ぶのである。つまり、不意に《死》す《吾》は、因果律の束縛から遁れ出たやうに見えるのであるが、何の事はない、因果律を失ふ事は、不意に《死》す事を受け容れる事でしかないのである。不慮の事故死などは、天災とは別に毎日、日常の事として此の世の何処かで起きてゐて、それに全く無関心な《吾》は、一見因果律の呪縛から遁れたやうに見えて、その実、《存在=死》の如く、《吾》が《吾》に何が起きてゐるのか把握する前に日常の中で《死》んでゆくのである。天災ならば、多少の猶予を与えて呉れるのであるが、人災だとそんな猶予はなく、大概《即死》なのである。つまり、《個時空》で《幻=世界》の楽を追求する《吾》は、或る種の地獄と地続きな本来的な《世界》として出遭った刹那に《即死》するのである。日常から《死》を排除したかに見える《幻=世界》は、何の事はない、《死》を日常に潜ませただけの危ふい《死=世界》、つまり、《黄泉の国》と表裏一体なのである。

しかし、《黄泉の国》と日常は地続きなのは、太古の昔より変はりはないのであるが、しかし、現代社会では、《幻=世界》に閉ぢ籠る故に、そのふり幅が途轍もなく大きく、何の変哲もない日常が一瞬にして地獄絵図に姿を変へるのである。首をぶった切った轆轤首たる《吾》が一度、死神に睨まれたならば最後、確実に《死》すのである。それだけ、肉体と精神が乖離した轆轤首故に、精神に置き去りにされた肉体は、精神の有様に関はらず一歩でも動くと、それは《死》を意味し、つまり、轆轤首と化した《吾》は蝸牛の如くゆっくりとしか動けぬ故に、このSpeed狂の世の中では、肉体程、疎ましい《もの》はなく、肉体の《存在》を忘れられる《幻=世界》で、只管、《吾》に酔ひ痴れるのである。肉体は、殆ど動けぬ故に、《幻=世界》は迫力満点の視聴覚にのみに訴へかる《世界》なのである。しかし、その《世界》はMonitor越し、またはScreenでしか見られぬ《吾》と断絶した《世界》であり、よくよく見ると轆轤首の首のみとなった《吾》は、その《幻=世界》から疎外された《存在》である事が解かるのであるが、《吾》は何時迄もそれに気づかぬ振りをして、只管に《幻=世界》に《吾》を忘却する事ばかりを追求するのである。

しかし、肉体と精神が全く乖離してしまった轆轤首の《吾》は肉体が不動の《もの》へと変容してゆく事には全く無頓着で、もう肉体は為すがままに抛っておくに限るとばかりに、最早、《吾》に顧みる事はなくなって久しいのである。何故にそれが可能かと言へば、全ては《吾》といふ闇を手にした時にその端緒があり、闇さへぺろりと嘗めてゐれば殆どの肉体的な欲求は満たされてしまふからなのである。例へば、食欲や性欲は闇を嘗めてゐればそれは夢想の中で満たされてしまひ残るは精神的な欲求のみなのである。精神的な欲求は、しかし、それはほぼ全てが《死》への欲求に根差した《もの》でしかなく、その出自は既にフロイトによって暴かれてゐるのであるが、それによって善しとしない轆轤首の《吾》は精神的な仮死状態を何度も経験して、これは違ふと、何度も首を傾げては、満たされない《吾》の精神の欲求が何なのかは《幻=世界》の中においては見失ってゐるのである。それは、至極当然の事で、精神的な欲求とは、換言すれば、それは肉体的な欲求の事でしかなく、肉体が仮死状態を味はへば、大概の精神的欲求は満たされるのである。つまり、心身の一致こそが《吾》の窮極の欲求であり、それが成し遂げられるのは、《死》のみなのである。何の事はないのである。《吾》とは元来未出現の《もの》でしかない故に原点回帰が《吾》の憩ひであり、それを単純に成し遂げるには、《死》する事が最も手っ取り早いのである。しかし、《吾》は一方で、それは本当に《死》への欲求で満たされるのかと疑問を呈してゐて、《吾》の欲求とは、詰まる所、《生》への欲求、それは飽くなき欲求に違ひないと思ふのであった。

それは、当然の事なのである。《幻=世界》に閉ぢ籠った故に、《吾》は《生》を生きてた事がそれまで一度もなく、そもそも《生》といふ《もの》を未体験のまま《幻=世界》に反映されてしまふ故に、何時迄経っても《幻=世界》において《吾》は《吾》の望みを満たされる事はないのである。《幻=世界》といふ余りに個人的な孤立した《世界》において、その《世界》の造化は、徹頭徹尾、《吾》であり、しかし、をかしな事に《吾》は未来永劫に亙って《吾》に対して満足する事はなく、《吾》に満足を齎す《もの》は、《神》であり《自然》に外ならないのである。つまり、それは、徹底的に《吾》の思ひとは無関係に齎される僥倖の如き《もの》で、それには徹底的に《吾》が疎外された形で成し遂げられる《もの》なのである。それは何故にかと言へば、所詮、《吾》が考へる事は、底が知れてゐる程に浅薄な事でしかなく、それに全く深みはないからなのである。《神》の、《自然》の為す業は《吾》から見れば嘆息しか出ない素晴らしい《もの》で、それに《吾》がいくら対抗しようとしても骨折り損のくたびれ儲けなのである。つまり、《吾》がいくら手慣れた業を持ってゐようが、《神》、または《自然》の諸行には敵はないのである。

つまり、《神》、若しくは《自然》と《吾》との対決は関しては、初めから勝負は決まってゐて、《吾》が《神》、若しくは《自然》に敵ふ筈はないのである。然しながら、轆轤首の首をぶった切った《吾》は、此の《世界》の転覆ばかり妄想するのである。それが、《幻=世界》相手ならば至極簡単に出来さうな《もの》に一見思へるのであるが、《幻=世界》の転覆はそもそも不可能なのである。何故ならば、《幻=世界》の転覆とは、即ち《吾》の転覆に外ならず、《吾》が《吾》の転覆を試みた処で、そんな猿芝居のお足は知れてゐて、また、そんな事は口が裂けても言へる《もの》でなく、そして一度、そんな馬鹿げた妄想に酔ひ始めると、《吾》は益益、《吾》に酔って、《幻=世界》に惑溺するのである。

しかし、《他》に全くぶつからないその《幻=世界》に《存在》する《吾》のあり方を訝る《吾》がゐないでもなかったのである。《吾》が伸び切った首をぶった切った刹那、《吾》を訝る《吾》の《存在》に気付いてゐる筈なのであった。その《吾》は、只管に黙して語らぬ《もの》として《存在》してゐたのであるが、その沈黙が不気味に《吾》には感じられ、しかし、《幻=世界》に楽を見出してしまった《吾》は、その沈黙して何も語らず、《吾》の頭蓋内の脳といふ構造をした闇たる《五蘊場》に闇のまま闇と同化して蹲るその《吾》を本能的に訝る《吾》に、

――しまった! 見られた!

と思はず不意を衝かれて楽を堪能する《吾》は、闇と同化した《吾》の目には全く見えぬながらもその《気配》は感じ取ってゐた《そいつ》、つまり、《吾》の睥睨にぎくりとするのであった。

一体何を見られたといふのであらうか? 《吾》は、《五蘊場》の闇に蹲るその《吾》を訝る《吾》の気配を感じた刹那、反射的にさう喚いたのである。その《吾》を訝る《吾》は《吾》の鬼子に違ひなく、《吾》は《吾》を訝る《吾》を確かに《吾》だと思ふのであったが、しかし、その《吾》を訝る《吾》は、《吾》と一致する《存在》では決してなく、むしろ、それは《吾》の異端に違ひなかったのである。そして、異端である事が《吾》には致命傷で、何か新たに始まるのは、必ず異端からで、《吾》に《吾》を訝る異端の《吾》が出現したといふ事は、《吾》の変態も近しいかもしれぬ暗示に思はぬ事もなかったが、唯、私はその《吾》を訝る《吾》からは目を背けて臭い物には蓋の如く、闇中に《吾》を訝る《吾》をうっちゃっておくしかなかったのである。しかし、暫くすると、その《吾》を訝る《吾》は発酵を始め、気泡を発するやうになり、また、不快な臭いを辺りに漂はせ始めたのである。それでも尚、《吾》はその《吾》を訝る《吾》を抛っておいたのである。すると、その《吾》を訝る《吾》は発酵熱で仕舞ひに蒸発してしまったのである。

――しまった!

これはとんでもない事態を招いてしまったと、《吾》は天を仰いで嘆息するばかりなのであった。それといふのも、蒸発した《吾》を訝る《吾》は《五蘊場》の闇全体に充満し、遍く《存在》する《もの》へと変化したのである。それは、《吾》を真綿で首を絞めるやうに《吾》をぎりぎりと追ひ詰めたのである。何の事はない、《吾》は《幻=世界》から追ひ出される羽目に陥ったのである。これは、全く喜劇でしかなく、《吾》から追ひ出される《吾》とは、一体何なのか、自ら問はずにはゐられず、また、何故に《吾》は、《吾》を訝る《吾》に追はれなければならぬのか、その顚末に、

――わっはっはっはっ。

と、嗤ってはみるのであるが、どうしても納得が行かぬのであった。しかし、《吾》を訝る《吾》は《吾》に対しては問答無用で、《吾》の殲滅のみを《存在理由》としてゐるかの如く、《吾》の《死》をのみ、只管に追ひ求めるのであった。然しながら、追ひ詰められたとはいへ、尚も存続を望む《吾》は、最期に破れかぶれの自棄のやんぱちで、

――破!

と叫んだのであるが、しかし、その途端に、一つの石ころに変化してしまったのである。

――何たることか――。

既に時遅く、爾来、《吾》は《五蘊場》に一つの石ころとして闇の中に蹲る事を強要されたのであった。

石ころに化した《吾》は、その刹那、時間の進み具合が途轍もなくゆっくりとなり、その《吾》は止まってしまった現在に置かれる如くにあるのみなのであった。一方、《五蘊場》に遍く《存在》する《吾》は、《吾》を訝る《吾》故に絶えず、《吾》に対して反語を投げかける《吾》として《五蘊場》に《存在》する事になるのであるが、しかし、それは少し話が進み過ぎである。首をぶった切った轆轤首の《吾》の意識が、石ころとして頭蓋内の闇たる《五蘊場》に蹲る事態に《吾》は、面食らったのである。ところが、途端に石ころの《吾》に流れる時間が途轍もなくゆっくりとなった事で、《吾》の思考は一方でぴくりとも動かずに、唯、一点に蹲るばかりなのであった。その代はり、《吾》を訝る《吾》が石ころといふ《存在》の出現により《五蘊場》の平衡状態が崩れ、石ころの《吾》の周りにその《吾》を訝る《吾》が渦を巻き始めたのであった。それは、一つの渦巻銀河の出現の如くなのであった。石ころの《吾》の周りを渦巻き始めた《吾》を訝る《吾》、所謂、《反=吾》は、渦巻く事でStar burst(スターバースト)の如く《吾》たる《もの》の微細粒子が爆発的に出現し、渦巻く《反=吾》に《吾》が無数に出現したのであった。さうして新たな《吾》が相転移を起こして《吾》なる《もの》、つまり、《五蘊場》が一つの渦巻く時空間へと変質を遂げたのであった。

ところが、相転移を遂げた《吾》は、赤子の如く《吾》に対して何事も言葉を発する事が出来ずに、唯単に、

――だぁ、だぁ、だぁ。

と、音を発するのに数年の歳月が必要なのであった。つまり、《吾》が再構築されるのに何年もの星霜が必要なのであった。その間、《吾》の思索は深まらなかったかと言へば、そんな事はなく、《五蘊場》が渦を巻いた途端にぶった切られて抛っておかれた胴体に再び私の首はくっ付いて、《吾》なる《もの》は人形(ひとがた)に再現される事になったのである。或る種の失語症のやうな中に置かれた《吾》は、身体感覚が研ぎ澄まされることに相成ったのである。言語以前のそれらの感覚は、言葉として昇華する事はなかったのであったが、皮膚感覚として記憶される事になるそれらの感覚は、《五蘊場》の渦を更に渦巻かせて身体が何事かを《世界》に対して感じる度毎に小さな小さな小さな《吾》が綺羅星の如くに《五蘊場》に出現し、その《吾》が或る種の記憶素子の如くに記憶を留める役目を果たしたのである。しかし、全体としてそれらの微細なる《吾》共が繋がる回路となるにはまだまだ時の経過が必要であったので、《吾》には無数の言語化されない記憶の断片を抱へ込みながら、只管、《世界》を受容するのを旨とするのであった。それは、外部刺激をのみ感じる事に驚いてゐた時間なのであった。身体の感覚が研ぎ澄まされれば研ぎ澄まされる程に《世界》と《吾》との合一感は深まるばかりで、それは《吾》にとって快楽として記憶されるのであった。つまり、言葉を獲得する迄、《吾》を肯定する作業を行ってゐたのである。これは《反=吾》が石ころの《吾》の周りに渦巻き微細なる《吾》が爆発的に出現した事から必然の事であり、《反=吾》から《吾》へと相転移した《吾》は《吾》を全肯定する《存在》なのは道理に敵った事態なのであった。

《世界》と《吾》との合一感を育むそれら研ぎ澄まされ行く身体感覚は、しかし、余りに現実的であり、其処に妄想の類が入る隙はなかったのである。これが、《吾》の揺籃期とするならば、私は何年も言葉を発せられなくなった代はりに《世界》と《吾》との至福の合一感の中に《存在》する《吾》に満ち足りてゐて、それ故に言葉の《存在》を敢へて求めなかったのである。

その《吾》の揺籃期は何と満ち足りてゐたのであらうか。此の世に誕生、若しくは出現したばかりの《存在》は、皆、満ち足りてゐる筈に違ひないのである。それは、《吾》なる意味が《吾》とはっきりと意識されずに、さりとて《世界》と《吾》が全く同一の《もの》ではなく、良い塩梅で《世界》と《吾》の距離は保たれていて、それ故に《吾》に対して少しでも摂道し、ずれが生じてそれが齟齬を来した場合、赤子の《吾》は、

――うぎゃあ、うぎゃあ、うぎゃあ。

と泣き喚いて《他》により《吾》の欠乏した《もの》を満たしてくれるのであるから、《世界》と《吾》の間に不和が生じてゐるなどとは考へられ辛いのである。埴谷雄高は赤子が言葉を獲得し、

――うぎゃあ、うぎゃあ、うぎゃあ。

と泣き叫ぶその「不快」を語り果せれば、それは全く人類の見知らぬ存在論足り得るといった趣旨の事を述べていた筈であるが、それは、思ふにまったくの誤謬で、赤子の《存在》はそれが何であれ、満ち足りてゐるに違ひないと思へて仕方がないのである。揺籃期における《世界》と《吾》の微妙な距離感は、其処に言語がまだ獲得出来ぬ故の事であって、《吾》が《他》の口調を真似て次第に言語を獲得してゆく過程で、《吾》は魂魄の微細が眺められるやうになり、《世界》と《吾》の些細な齟齬の発生が恰も此の世の《吾》に対する責苦の如くに受容し、さうして、《吾》なる《もの》は絶えず《吾》なる事に我慢するに違ひないのである。

さて、轆轤首の首をぶった切って《五蘊場》の中で石ころに変化した《吾》は、ぴたりと時間が止まったかのやうにその流れは途轍もなくゆっくりで、

――《吾》。

といふ言葉すら発するのに何十年もかかる次第になったのであるが、その言葉を知りながらも、最早、

――《吾》。

と語る事すらままならなくなった石ころの《吾》は既に《吾》と《世界》の関係に思ひを馳せる事は何万年単位で考へねばならず、その《吾》は《吾》が《死》しても未来永劫に亙って此の世に残るに違ひないのであるが、しかし、石ころの《吾》を核として渦を巻く事で《五蘊場》に微細なる《吾》といふ記憶素子を誕生させつつ、それら無数の《吾》共は脳細胞の如くに繋がる迄には、まだまだ時間がかかる状態の中に《存在》した《吾》は、然しながら、

――《吾》。

といふ言葉を知らないが故に無上の喜びに浸る事が可能となったのである。それまで首を自らぶった切った轆轤首として、絶えず、《吾》と《吾》の不和、将又、《世界》と《吾》との不和に終止符を打てずに、結局の処、絶えず《吾》に躓いてゐた《吾》は、石ころに変化した事で、《吾》と《吾》の不和、将又、《世界》と《吾》の不和どころの話ではなく、《吾》における時間の意味を《五蘊場》に蹲る事で、全身全霊で受容する或る何かへと変貌を遂げたのは言ふまでもない。《五蘊場》の渦巻の核たる石ころの《吾》は、時間により半ば強引に《吾》に対峙する《吾》といふ構図を剥ぎ取られ、まるで中有に抛り出された如くに、

――《吾》。

とすら発せられぬ時間の流れに留め置かれたのであるが、しかし、それは、それで《吾》にとっては途轍もなく居心地が良かったのである。何故ならば、《個時空》といふ或る意味非常にせっかちな思考を容れる時空間からの解放を、石ころと化した元轆轤首の首であった《吾》は為されたのであり、《個時空》からの解放とは、対《世界》にとっても、対《吾》にとってもそれは自由自在を意味する事へと結び付き、時間が途轍もなくゆっくりと流れる石ころの《吾》にとって、《吾》は絶えず時間が途轍もなくゆっくりと流れるが故に《個時空》の時空間の地平線を凝視してゐられたのであった。それは、無上の喜びに違ひなかったのである。何故ならば、時空間の地平線とは、《吾》の涯の事に外ならず、それを知り得れば、《吾》はどれ程に《吾》に巧く対峙し得るのか、それは、筆舌尽くし難い途轍もなく居心地が良い《吾》の《存在》のあり方に違ひないのであった。

途轍もなくゆっくりと流れる時間の中にゐる《吾》の思索は、決して言語を伴った《もの》ではなかったのであるが、感覚的な、もっと正確を期せば、皮膚感覚は、言語化されずに感覚として《吾》に留まり、それは彗星の如く尾を曳き、皮膚感覚が肉体の形相を敏感に意識させ、とはいへ、それは絶えず言語化する事を失敗する形で、《吾》の《五蘊場》に蓄積されゆき、くっきりと《吾》の肉体は、《五蘊場》に表象されるのであった。つまり、言語化されずとも、心像としてあらゆる《もの》が《五蘊場》に刻まれ、その方法において、私と《世界》との間に不和を全く生じずに、吾が表象は吾が肉体にぴたりと重なり、といふ事は《吾》は未だぴくりとも動かぬ仮死状態のままに、《世界》に大の字になって横たはってゐたに過ぎなかったのである。そして、《吾》は全身、《世界》に対するCensor(センサー)と化してゐて、《世界》の変容のみによって《吾》の表象は漸く保証されるのであり、《世界》の変調によってのみ、《吾》は《吾》の《存在》を認識出来るのであった。つまり、《世界》の変調を感じ取る《吾》の感覚は、《五蘊場》においては渦巻の中の《吾》といふ綺羅星となるのであったが、それらが、渦を巻く事によって、言語化されずとも統覚されいて、《吾》といふ《もの》と《世界》といふ《もの》はある程度類型化される事になるのである。とはいへ、それは、非常に大雑把で、大雑把故に《吾》と《世界》の合一感は、底知れぬ喜びを《吾》に齎すのであった。つまり、大雑把に類型化するといふ作業を仔細に眺めてみると、それは大変に巧妙なものなのであって、《吾》といふ《もの》、また、《世界》といふ《もの》を大雑把に類型化して認識するとは、その類型化した形相がFractalである事に合点が行く筈なのである。然しながら当の言語を未だ獲得出来ずにゐる《吾》は、そんな事は微塵も知らぬのであるが、しかし、《吾》は《五蘊場》の微細な微細な微細な《吾》として、また、或る種の記憶素子として記憶を留める役目を果たすその《吾》が、Fractalである故に、その微細な微細な微細な《吾》は、《吾》として微塵も疑ふ事無く、それをして《吾》と看做すのである。とはいへ、それは、未だ言語化されずにある故に《吾》を未来永劫に探し求めるやうに《世界》を彷徨ひ歩くのである。言語化とは其処に或る種の断念がなければ全く成立しない《もの》に違ひなく、未だ言語を失ったままのその首の繋がった《吾》は《吾》である事を全的に肯定する筈なのである。例へば胎児は未だ言語化されぬ《吾》との全一感によって心身共に満たされてゐる筈で、さうでなければ、胎児は子宮の中で間違ひなく自死する筈であるが、大概の胎児は産まれる事を待機しつつ、未だ言語化出来ずともにその朧な《吾》といふ意識の覚醒した《吾》の万能感に途轍もなく近い満足感を得てゐる筈で、さうでなければ、《吾》は此の世に誕生する筈はないのである。

『初めにlogos(ロゴス)ありき』といふのは、ヨハネの福音書たる聖書の書き始めであるが、それは、恐らく全くの間違いであって、『初めに《吾》ありき』に違ひないのである。当然その《吾》は未だ言語化されるには遠い、遥か以前の《吾》の事であり、その状態の《吾》は全能なる《神》の如く此の世未然の子宮の中の羊水にたゆたってゐるに違ひないのである。言語なき故に、《吾》は万能である何かであって、その記憶の残滓は、後に言語を獲得しても《存在》する筈で、さうでなければ、《吾》は《吾》に踏み迷って《吾》に絶望する筈はないのである。

ところが、言語を獲得しない時間といふのは、思ふに途轍もなくゆっくりと流れる《もの》であって、つまり、言語化されぬ故に覚醒未然の《吾》といふ意識はゆっくりとその頭を擡げるのであって、その中で《吾》は《吾》である事を魂魄で以ってぢっと味はふのである。さうする事で、《吾》と《世界》との彼岸に《吾》の思索は跳躍し、その彼岸における幸福感を《吾》は独り占めするのであった。

《吾》と《世界》との彼岸とは《個時空》における時空間の地平線の事に相違ないのであるが、ところが、それが何であるのかを言語化するには曖昧な《もの》で、唯、直感的にそれは感じ取れる何かであり、未だ言語を獲得出来ぬ《吾》において、その《吾》と《世界》との彼岸とは、言語を獲得出来ぬが故に味はへる万能感においてのみ直覚出来る《もの》なのであって、その残滓は言語を獲得しても尚、《吾》には仄かに残ってゐる筈で、残ってゐるが故に《吾》は《吾》を或る限界がある《存在》として把握するのである。

まだ、《吾》が覚醒する以前の幽かに《吾》なる《もの》が《吾》の《五蘊場》に頭を擡げた時、《吾》の万能感が《自然》な《もの》として《吾》は直覚するに違ひない。例へば羊水の中の胎児の《五蘊場》は未発達故に、そして、回路が未完成故に《吾》は万能感を感ずるのである。胎児は、或る時、手足を動かし、眼玉をかっと見開き、闇を凝視するに違ひないが、この場合でも《五蘊場》の構造が未完成故に、《吾》の行為に不自由が生じてゐないなどとは感じる筈もなく、例へば眼玉をかっと見開くだけでその万能感は得も言へぬ快楽を《吾》に齎すのである。それ迄、眼玉をかっと見開く事すら出来なかった胎児が、初めて眼玉をかっと見開く事が出来たのである。その万能感は推して知るべし《もの》で、それは、快楽に違ひなく、快楽故に微細な微細な微細な《吾》といふ記憶素子に記憶されたその万能感は、更なる快楽、つまり、万能感を味はふべく、足をとんと動かせるやうになるのである。さうやって、快楽の積み重ねによって《五蘊場》は満たされ、胎児の《五蘊場》は言語を獲得してゐない故に、至福に満たされた《もの》として羊水にたゆたふのである。それは、多分、此の世に誕生してしまふ胎児において、最早、二度と訪れない至福の時間なのであって、失楽園のMotif(モチーフ)は胎児における万能感の喪失によるところ大に違ひないのである。それ程に脳が未発達故の《五蘊場》が未完成ならば、羊水にたゆたふ胎児は、当然、浮遊してゐる中にあるのであるが、その状態が《自然》故に、羊水にたゆたふ胎児の万能感は、その羊水に浮遊してゐる、例へば自由落下中の浮遊感にも似たそれは、胎児の万能感の礎なのである。未だに重力の《存在》を知らない胎児において、落ちるといふ感覚は皆無であって、たゆたふ事に万能感の秘密が隠されてゐるに違ひなく、その感覚は未だ海中に留まる原=生物の原初的な感覚の発露に相違ないのである。

存分にその原初的なる感覚を味はひ尽くす羊水中の胎児はその万能感に溺れる筈である。それ程迄に未完成といふ事は万能感に近しい《もの》なのであって、つまり、《五蘊場》が未完成であればある程に万能感は大きく、それは、例へば《五蘊場》のない《存在》において無限大に万能であるといふ事を暗示してゐるのかもしれず、仮に《五蘊場》=脳といふ余りに強引な考へ方を用いれば、脳がない《存在》において万能感は∞に達する筈で、つまり、《もの》として此の世に《存在》する《もの》は全て得も言へぬ万能感の中にあるに違ひないのである。つまり、言葉など持ってしまったが故に「現存在」は堕天使の如く地上に落下し、つまり、出産と同時に途轍もない不自由を感じ、そして後は、その不自由に馴致させられるばかりなのである。つまり、言葉の発現の端緒に《吾》の万能からの逸脱があり、或ひは、羊水の中では、無限の万能感の中にあった《吾》は、此の世に産み落とされると同時に、その万能感を根こそぎ剥ぎ取られる事を意味し、それ故に嘗てあった《吾》と現にある《吾》の隔絶により、赤子が言語を獲得する原動力になってゐるのかもしれないのである。つまり、言葉とは、《存在》の不自由を指し示すBarometer(バロメータ)に過ぎず、《存在》の不自由さを言ひ当てるべく、此の世に発生した《もの》なのかもしれなかったのである。

更に言へば、卵子と精子が受精した刹那こそ、万能感の極致に違ひないのである。何故かと言へば、受精卵こそ何にでも変容可能な《もの》として此の世に出現した《存在》と言へなくもないのである。其処で受精卵において卵子と精子の受精は、偶然の仕業か、元元決まってゐた受精、即ち、必然の仕業なのか判断に困るのであるが、しかし、受精が偶然であらうが、必然であらうが、卵子と精子が受精した刹那こそが、此の世で味はへる最高の万能感に違ひないのである。受精するべく準備をしてゐた卵子と、卵子目がけて邁進する精子共の中からたった一匹の精虫が受精するのである。其処には、選別して《死》する事を余儀なくされた卵子と、《吾》に為れなかった夥しい数の精子の《死》が横たはっているが、受精そのものは、得も言へぬ満足感に違ひなく卵子と精子が宿命付けられてゐる使命を果たした満足感と言ったらむべなるかな、なのである。

さて、それでは、受精卵が遺伝子の発動により、細胞分裂する時はどうであらうか。そもそも細胞分裂に快不快が《存在》するのか不明なのを承知の上で敢へて言へば、それは当然快楽に違ひないのである。そもそも細胞分裂して《一》であった受精卵が《二》に分裂する様は、さて、其処に《他》を見るか《吾》の鏡面を見るか、興味は尽きぬ事であるが、多分、《一》であった受精卵が《二》に分裂した時、《吾》は《吾》と《他》の両方を《二》に分裂した受精卵に見ている筈なのである。つまり、《二》に分裂した受精卵のどちらが《吾》であり、どちらが《他》なのであるかは既に不明確なのである。細胞分裂とは《吾》の拡張であるとともに《他》の受容なのである。多分、全てにおいて曖昧模糊な筈なのである。《吾》である自覚は未だ芽生えてをらず、さりとて受精において《吾》は《吾》である事を思ひ知らされ、その《吾》は何かが大分欠けてゐる事を知るのである。さうして遺伝子が発動し、細胞分裂を遂げるのであるが、其処には絶えず《吾》と《他》の葛藤があり、それ故に、細胞分裂する《吾》は、心地良い筈で、つまり、受精卵といふ万能感に満ちた《もの》は、その万能感を味はふべく、細胞分裂し始めるのである。多細胞生物は単細胞生物である事を已めたのは細胞分裂に《吾》が味はふ快楽があってこそと看做せなくもないのである。細胞分裂に快楽がなければ、此の世に多細胞生物は出現することはなく、また、環境が単細胞生物から多細胞生物の出現を強要したとしても、それは、しかし、多細胞生物の存続を約束したものではなく、其処に多細胞生物は多細胞故に《吾》を自覚する離れ業をいとも簡単に成し遂げ、また、其処に快楽がなければ、多細胞生物が今もって存続することはないのである。

さて、『初めに《吾》ありき』と、さも知ってゐたかの如くに《吾》なる《もの》を想定してみたのであるが、《吾》といふ感覚は卵子と精子が受精した刹那、最も体感する感覚に違ひないのである。何故ならば、受精した事で《吾》は定まるからである。仮令、それが死産であったとしても受精卵にこそ《吾》は万能感に満ち足りた《吾》を味はってゐる筈なのである。そして、万能感に満ち足りた《吾》たる受精卵はその《吾》を実現するべく、細胞分裂を繰り返すのである。それは、全て《吾》たる《もの》の実現故になのである。

爆発的に細胞分裂してゐる時の《吾》程、《吾》である事に満ち足りた《吾》はもしかすると《存在》しないのかもしれないのである。それ程、たった《一》の受精卵から多細胞生物へと為り行くべく、細胞分裂を繰り広げる《吾》は、いづれの細胞にも等しく《吾》としての《念》が宿ってゐる筈で、それ故に《一》の個体の「現存在」が羊水の中に出現するその細胞の成長過程にちゃんと《吾》は宿り、その個体の細胞一つ一つにも、そして、個体を一つの《もの》と看做しても等しく《吾》といふ《念》が宿り、やがて《吾》が《吾》として目覚める素地が形成されるのである。

そして、細胞分裂するその細胞一つ一つが皆、『《吾》とは何ぞ』との問ひを発する矛盾を抱へ込むのである。つまり、元元、たった《一》であった受精卵が約六十兆個もの細胞にまで分裂とApoptosis(アポトーシス)を繰り返し、一つの個体としてある《吾》といふ《もの》をその六十兆個もの細胞からなる個体全体としての《吾》と細胞一つ一つに宿る《吾》は、その出自を忘却する事で辛うじて此の世に出現することが可能なのである。

それは薄ぼんやりした《吾》とでも名付けるべき《もの》なのか、《一》の受精卵が約六十兆個もの細胞により為る《人体》へと発育した羊水にたゆたふ胎児は、さて、其処には「先験的」に《吾》が宿ってゐるに違ひないのである。何を馬鹿な事をと思ふのであるが、しかし、《吾》が何《もの》にも先立つと考へなければ、さて、一体、何処から《吾》なる《もの》は、《吾》の処にやって来るといふのか。受精卵の時点、否、それ以前の未だ何《もの》の《存在》しない時点で、既に《吾》の出現は約束されてゐたに違ひないのである。つまり、煎じ詰めれば、《吾》の発生とは何なのかという事は、宇宙の始まりと同様に未だに謎なのである。謎であるならば、「先験的」に《吾》は《存在》してゐると看做してしまふのも一つの方法である。つまり、この論法でゆくと、宇宙もその始まり以前にその出現が約束されてゐたのである。さう看做す事で辛うじて《吾》の《存在》は論理的にも非論理的にも堪え得る何かとして《存在》出来るのである。つまり、これは無から有は生じないといふ事を前提とした《もの》で、尤も、これは如何にもこじ付けとしか思へぬのであるが、しかし、《吾》の出現を考へると、それは《吾》が出現する以前既に《吾》が「先験的」に《存在》すると看做す外に《吾》の出現を語り果せる根拠がないのも事実で、私は、それは《吾》の《念》と呼んで、《吾》の出現以前に《吾》の《念》が《存在》すると看做してゐて、その《吾》といふ《念》は、変幻自在の《もの》で、《吾》は、例へば轆轤首に変化したやうに《吾》とは、何にでも変容可能な何かなのである。さうでなければ、激変する環境の中で存続出来る筈がないのである。

さて、これを一般化する事が可能であるかと考へた時、どうも旗色が悪く、「先験的」に《吾》の《念》が《存在》するといふ《インチキ》を尤もらしく見せるには何か離れ業が必要なのであるが、現時点で、私にはその術がなく、唯、《吾》といふのは《吾》が《存在》する以前に《吾》は《念》として此の世にか彼の世にかのいづれかに《存在》してゐると根拠なき空論を振り回して己の憤懣を鎮めるので精一杯なのである。さうでなければ、必ず《吾》が此の世に出現する暴挙が説明出来ないやうに思ふのであるが、そんな事は、人間が此の世に出現して以来ずっと考へられてゐた事に違ひなく、宗教が《存在》するのは、多分にさうした理由からに違ひないのである。とはいへ、一人合点するのみであれば、《吾》なんぞ、どう出現しようが、個人の勝手であるが、一般化するやうにしたいといふ欲求は、《吾》にとって止めようもない事で、元来、《吾》は一般化が大好きなのである。つまり、永劫が大好きなのである。一般化とは、何時の時代でも成り立つ《もの》に違ひなく、ニーチェが言ふ永劫回帰に殉ずる為にも《吾》の思考を何としても一般化したくてうずうずしてゐるのである。例えば、かう言へば解かり易いかもしれない。つまり、ニーチェの言ふ永劫回帰は円運動で、ドゥルーズが言ふ反復は、切断した螺旋運動といふやうに看做すと、どう足掻いても切断した螺旋運動しか出来ぬ《吾》の《生》は、一回限りの《もの》で、その点においては永劫回帰の仲間入りはとても出来る状況ではなく、《生》とはそもそも反復でしかなく、《死》すれば全てご和算に違ひないのである。ところが、思索の足跡を文に認めて遺すだけで、それは何千年後でも構はぬのであるが、何か思索の足跡を遺しておけば、後世の未来人がそれを読む事で、《吾》の《念》を後世の未来人の《五蘊場》に喚起させる事は可能なのかもしれないのである。尤もそれを読んで貰へなければ、何の意味もなく、闇に葬り去られるだけなのであるが、しかし、エクリチュールはニーチェの永劫回帰に摺り寄る近道なのかもしれないのだ。否、言語はそれが音として録音されてゐてもそれはニーチェの永劫回帰に摺り寄る近道なのかもしれないのだ。否、絵としても、彫刻としても、などなど、何にしても、《吾》が《存在》した足跡を一般化する仕方で遺せれば、それはニーチェが言う永劫回帰という一般化の近道に違ひないのだ。

だが、そもそもニーチェの言ふ永劫回帰が一般化した《もの》なのかどうかといふその根本的な疑問が問はれなければならないだらう。そもそも何故にニーチェの永劫回帰なのか。それは、簡単である。この《吾》よりもニーチェの方が比べる迄もなく、一般化した《存在》なのである。ニーチェその本人は、既に亡くなってゐるが、その著書は翻訳されてゐて、この《吾》よりも断然に一般的なのである。これは、私が逆立ちしようが変はらない。とはいへ、虎の威を借りるやうにニーチェを持ち出してゐるのであれば、それは卑怯者の誹りを免れないに違ひない。ところが、この《吾》の事なんぞこの《吾》以外どうでもいいのである。《吾》を此処で晒した処で、誰も見向きもしないに違ひない。ところが、ニーチェであれば、誰かしら関心を示す筈である。

――だから、ニーチェを持ち出したのか?

と、《吾》を自嘲する《吾》は、

――へっ。

と、嗤ふしかないのである。つまり、事の本質は、《吾》なる《もの》を歴史的な《もの》として偽装したいだけなのである。《吾》に何かしらの本質があるかもしれぬと敢へて勘違ひしてゐたいのである。さうする事で、《吾》の卑しい本性が暴かれる事を期待してゐるのかもしれぬのである。つまり、ニーチェが撒き餌となって《吾》が誘ひ出されて喰らひ付く事を無意識に望んでゐるのかもしれず、将又、墓穴を掘る《吾》の無様さが《吾》の所望なのかもしれぬのである。

とはいへ、《吾》の《吾》による自己暴露のやうな愚劣極まりない事をする程に《吾》は己惚れてゐる事もなく、書く事のその困難さには絶えず悩まされつつ、《吾》は《吾》の轆轤首といふ《吾》の有様を一つの切り口として、《吾》なる《もの》のその正体を摑まへる罠を張ったのであるが、《吾》は轆轤首から、石ころへと変容してしまひ、《吾》はそれによって《吾》の滞る時間の中で、唯単に《吾》を持て余してゐるに過ぎないのである。其処で手持無沙汰な《吾》は、途轍もなくゆっくりと流れる《五蘊場》の中の石ころと化した《吾》をしてニーチェなんぞを持ち出して迄して《吾》の一般化を試みる愚行をしてゐるのである。何の事はない。《吾》は無名であることに我慢がならず、《吾》なる《もの》の一般化をこの《吾》の思考を用ゐて為さうとしてゐるのである。それは、何故かと自問自答すれば、《吾》は、つまり、《五蘊場》に腐敗Gasの如く充満し、石ころの《吾》を枢軸として渦を巻く、その二様の《吾》の構造を明らかにしたいといふ欲求があるといふ事の中に、《吾》は《吾》を偽装してゐるに過ぎないといふ事に思ひ当るのである。《吾》は《吾》の構造を明らかにし、例へばそれが一般化される僥倖に恵まれる事に淡い淡い淡い期待を抱いてゐるのである。《吾》とは、それ程迄に、とんだ食はせ《もの》でしかないのである。

――そんな事は誰もが知ってゐる事だぜ。

と、此処で半畳が入るのであるが、しかし、《吾》の偽りの構造を白日の下に晒す事で、ちっとは、その《吾》なる《もの》の尻尾でも摑まへられるかもしれぬといふ、これまたどうしやうもなく、人を喰ったやうな欺瞞に満ちた《吾》の有様が暴かれるのみの、骨折り損のくたびれ儲けが、目に浮かび、つまり、《吾》といふ《もの》は何処まで穿っても道化師なる《吾》が、

――へっへっへっ。

と、《吾》に対して嗤ってゐる《吾》といふ構図に出くはすのみなのである。

では、轆轤首なる《吾》、《異形の吾》、将又、腐敗Gasの如き《吾》、そして、石ころの《吾》など、《吾》なる《もの》を追ひ詰めたと思ひきや、何の事はない、《吾》の狸の如き化かし合ひにすっかり騙された馬鹿面をした《吾》に出合ってゐる事を、只管にひた隠し、《吾》は、詰まる所、《吾》に諂ってゐるに過ぎないのである。

《吾》たらむとする事は、《吾》の下僕として《吾》は《存在》する事を自ら望み、さうして《吾》は、やうやっと《吾》と名指す《もの》を辛うじて表象するのである。それが《吾》においては、轆轤首であり、《五蘊場》で渦巻く石ころの《吾》とそれを取り巻くGas状の《吾》なのである。

さて、《吾》はそもそも一筋縄にゆかぬ《もの》といふ事が、《吾》なる《もの》の面妖なる様相の幾つかを見出しただけでもそのお足は知れるといふ《もの》なのである。そもそも《吾》なる《もの》はみっともない《もの》でしかなく、それを暴露した処で、《吾》を摑まへたなどとはちっとも感じられる筈もなく、絶えず偽装する《吾》にあかんべをされて仕舞ひなのが関の山なのである。《吾》なる《もの》が、《吾》なる《もの》を追ひ詰めるこの不思議を《吾》は何時も嗤ひながら、しかし、其処から一歩も退かずにへらへらと嗤ひながら、《吾》なる《もの》を追ひ詰めなければ気が済まぬ性分なのである。《吾》の一様態が轆轤首である事は予想してゐたが、その《吾》が時間が途轍もなくゆっくりと流れる《吾》の核の如き石ころの《吾》と、それを枢軸として渦を巻く腐敗Gasの《吾》が、轆轤首の伸び切ったその首をぶった切って《吾》の内部に仮初とはいへ、出現した事に《吾》とは所詮、渦しか頭になかった《存在》ではないかと《吾》は《吾》を訝るのである。

何も私の渦好きは今に始まった事ではない。気が付けば私は、既に渦に夢中になってゐた《吾》を見出したのである。何がそんなに渦は私を魅了するのかは、単純で、渦は絶えず変化するにも拘らず、それが相変はらず渦のままだからなのである。例へば投げ独楽を回すのが私の幼少時の大好きな遊びで、木地の投げ独楽が、駄菓子屋の店頭に並ぶと、私は幾つか手に取り、投げ独楽の芯を指で捻って回してみて、その投げ独楽がどのやうな回り方をするのかも一一確認して、回る姿が最も美しい木地の投げ独楽と麻縄を買って、空き地で早速回して大喜びするのを常としてゐたのである。その投げ独楽の面に塗られてある模様が何とも見事な渦を巻くから、私にとってこんな理想的な遊びはなかった訳である。しかし、投げ独楽を回すにはかなりの忍耐強い修練が必要で、上から振り被って思いっ切り投げ独楽を投げつけて、急速回転で回せるやうになるには、それは、投げ独楽を回す麻縄に手が擦り切れて血が出る迄に練習をしなければ巧く回せるやうにならないのであるが、私は、既に投げ独楽に渦模様を見てしまってゐる故にか、投げ独楽を手にした始めの何日かは投げ独楽が思いっ切り回せるやうになる迄、何度も飽く事無く繰り返し練習したのであった。しかし、人間練習すれば何とか投げ独楽を巧く回せるやうになるのである。その時のすかっと突き抜けたやうな快感は何とも言へない《もの》であったが、一度その快楽を知ってしまふと最早投げ独楽を回す事が已められないのである。芯棒がきちんと重心にある投げ独楽のその美しい回り方は息を呑む程で、一度でもそれを見てしまふと、最早、投げ独楽の虜になる外ないのである。只管に、美しいその投げ独楽を眺めては、その回転が出来得る限り長く続くやうに回し方を何度も工夫してみては『これだ!』といふ回し方を己で見出す《もの》が、此の《吾》なのである。芯棒が全くずれてゐない投げ独楽のその美しく回転する様は、今も此の世の《もの》とは思へぬ《もの》で、投げ独楽の面の模様が渦巻くその美しさは、得も言へぬ美しさなのであった。

私の原体験に既に投げ独楽回しといふ《もの》があり、それが、私の渦好きを確認させるに十分な《もの》なのであったが、気が付くと投げ独楽は何時も私の《五蘊場》で回り続ける事になったのである。しかし、それが《吾》へと変容する事はなく、相変はらず客体としての投げ独楽の表象なのであった。その投げ独楽が、今、《吾》として轆轤首の首を自らぶった切った後の《吾》は、一つの投げ独楽の如くあったのである。投げ独楽の中心は当然、回ってをらず、ぴたっとこの地に屹立して静止してゐるのは言はずもがなであったが、腐敗Gasとして《吾》の《五蘊場》に充溢した《吾》が、石ころと化した《吾》の周りを回る「私」といふ《もの》の表象は、或ひは幼少期の投げ独楽回しにその淵源があると看做してしまへば、それはさうに違ひないのである。しかし、私の世界認識の一つに『《世界》は渦である』と乱暴ながらどうしてもさう看做して仕舞はないと済まぬ強迫観念の如き一念があるのである。そして、それは、単純に『《吾》もまた渦である』といふ私の《吾》=観に繋がってゐるのは否定しようもない事実なのであった。

そもそも《吾》が《吾》と呼んでゐる《もの》の正体は何なのであらうか、と如何にも愚問でしかない問ひを《吾》に発する此の《吾》の馬鹿さ加減は、手に負へぬ《もの》に違ひないのである。此の《吾》が『《吾》とは何ぞや』と自問自答を発した刹那、《吾》は偽装を始めるのは明らかなのであるが、《吾》はそれでも『《吾》とは何ぞや』と虚しい問ひを発してしまふのである。その時に《吾》の《五蘊場》に生滅する表象が《吾》の正体であると言へなくもないのであるが、しかし、《吾》は変幻自在にその姿を変へ、仕舞ひには《吾》を煙に巻くのが関の山なのである。それでも現在、《吾》は轆轤首の表象を自らぶった切り、そして、その切られた首は途轍もなく時間がゆっくりと流れる石ころの《吾》とそれを取り巻く《吾》の腐敗したGasである《吾》がまた、《吾》の偽装でしかない事は重重承知しながらも、《吾》が渦である事に何となく安堵してゐる《吾》が、また、《存在》するのであった。

《吾》の誤謬こそが《吾》の生存する方便なのかもしれず、《吾》は絶えず《吾》を誤謬するからこそ、現在に堪へ得、そして、更に《吾》を摑み損ねて、誤謬する事で、《吾》は《吾》に生じるGap(ギャップ)を《吾》が《存在》する起動力に変換してゐるのかもしれなかったのである。

投げ独楽と化した《吾》。果たして、これは《吾》の所望した《吾》の表象なのであらうか。確かに《吾》は『《吾》もまた渦の変種である』と看做してゐるが、だからと言って、《吾》の《吾》に対する表象が投げ独楽の如き渦巻である理由にならない。《吾》とは面妖なる複雑怪奇な《もの》の筈で、一筋縄ではゆかぬ《存在》に違ひないのである、と思ひながら《吾》が面妖で複雑怪奇な《もの》である理由もまた見出せぬのである。然しながら、科学的な知識で、《吾》の正体を追ひ詰めた処で、《吾》はあかんべをしてするりと逃げ果せるのが関の山で、《吾》は終ぞ《吾》によって捕獲される事はないのである。然しながら、現に《吾》は此の世に《存在》し、さうして生きてゐるのである。

《吾》は絶えず《吾》を喰らって生き永らへてた《もの》に違ひなく、《吾》は《吾》を喰らはずして一時も此の《世界》で生き延びる事は不可能であるのか? さて、このAporiaは一朝一夕に片付くAporiaではなく、先づ、《吾》の発生が語られなければならない筈であるが、《吾》の発生に関して《吾》の意思により《吾》が発生したなどと馬鹿げたLogos(ロゴス)を打ち立てる輩はゐないのであるが、私は《吾》の発生に《吾》の意思、つまり、《念》が深く関はってゐると看做してゐるのであるが、それではその《吾》といふ《念》は何処からやって来たのかと問へば、それは此の宇宙開闢の時に既に此の宇宙の発生を夢見てゐた《もの》――それを《神》と名付けた方が良いのかもしれぬ――の《念》として《存在》してゐたとしか言へぬのである。つまり、それは、魂の不滅説に近しい《もの》に違ひないが、魂は後付けの《もの》で『初めに《念》ありき』といふのが、馬鹿げた論理の端緒なのである。つまり、《吾》といふ《念》は「反復」を繰り返すのである。此の「反復」は然しながら、いづれの場合も一回限りの《もの》であり、二度と同じ経験を味はふ事はないのであるが、しかし、《生》とはそもそも「反復」であって、生老病死もまた、「反復」なのである。ところが、此の世は諸行無常であり、《生死》は絶えず此の世で繰り返されるが、どの《生死》をとっても同じ《もの》はなく、然しながら、《生死》は《生死》として表現される《もの》なのである。

――何を夢物語を語って悦に入ってゐるのか?

と、これまた半畳が入るに違ひないのであるが、しかし、《吾》とは考へれば考へる程にAporiaといふ陥穽に嵌り込む宿命にあり、《吾》の発生からして《吾》はそれがどうであれ受容せねばならぬ《もの》として、此の世に《存在》し、さうして、何とか《吾》の《生》を受容した《吾》の《死》をも次第に受容しつつ、今生を生きる糧にしてゐるのである。《吾》は絶えず切断した《もの》として、つまり、《吾》を喰らふ事によってのみ《生》を繋げるのである。

そこで、《吾》を嗤ふ《吾》とは、如何なる《存在》として、《吾》に対して再現前化するのかと問へば、それは《吾》の内界、否、《吾》といふ《存在》に「先験的」に備はってゐる《過去》、若しくは《未来》の《吾》と言へなくもないのである。《吾》が絶えず《吾》からずれるやうにゆらゆらと《吾》を中心に振幅する《吾》の反面教師であり、また、《吾》を《現在》に繋ぎ止めるに相応しい《未来》の《吾》なのである。《現在》は「先験的」に《過去》と《未来》が含意された《もの》としてしか此の世に出現しないのであるが、それはしかしながら至極当然の事で、「私」の外界は既に距離が《存在》する故に押しなべて《過去》であり、一方その《過去》の《世界》に一度目的地が出現すれば、《過去》であった筈の外界は《未来》に反転してしまふのである。つまり、《現在》にゐる《吾》と目的地の間にある距離が《未来》に対する尺度になるのである。この事は再三に亙って述べて来たが、此の世の《世界》とは、《吾》においては《過去》であり、《未来》でもあり、そして、《吾》の内界においては表象として《五蘊場》に出現するその《もの》は、未だ出現せざる《もの》の象徴として《五蘊場》に出現し、そして、《吾》の内界は《過去》の記憶を交へた未出現の《吾》、つまり、《未来》に出現するかもしれぬ《吾》として絶えず《吾》からずれ行きながら、《存在》する《もの》なのである。それは、《吾》が《吾》の内界を弄る事で、やうやっと表象される《吾》の内界における《現在》の有様であり、表象とは外界における《吾》の《現在》、つまり、《吾》の皮膚に最も近しい瞼裡に現はれる《もの》なのであって、若しくは前頭葉部に恰も表象されてゐるかの如くに看做してしまふ《吾》の大いなる誤謬であり、その誤謬があってやっと《存在》可能な《もの》として《存在》に繋ぎ止め置かれる何かとして《吾》は《吾》を感知してゐる筈である。

《吾》は瞼を閉ぢれば、眼前は前頭葉の闇と繋がった闇が拡がるばかりで、その闇=《世界に表象群は生滅するのであるが、その表象の有様こそ、《吾》の内界において皮膚に最も近しい、つまり、《現在》の様相に最も近しい《もの》として、《吾》は感知し、その表象のざわめきによって、《吾》は《吾》の《現在》を支へるのである。

――《吾》の表象群のざわめきが《吾》の《現在》を支へる?

と、反芻する「私」は、これまた《吾》とは全く相容れない何かとして《存在》してゐて、《吾》とはそれらの「私」やら《過去》の《吾》、《未来》の《吾》が渾沌とした中に《存在》させられる事を余儀なくされるのである。その渾沌こそが《生》の源泉に違ひないのであるが、その《吾》が《吾》とずれてゐる事で、つまり、摂動してゐる事により発現する《吾》のその《生》への飽くなき執着は、《吾》をして、《現在》を支へる《存在》として《過去》であり、《未来》である外界と内界を結ぶ結節点として《吾》のみ、《現在》を体現するからくりとなってゐるのである。つまり、《吾》とは《過去》へも《未来》へも《五蘊場》においては自由に往来出来て、また、外界においても《世界》は《過去》が《未来》に反転する事を所与として《吾》に開かれた《もの》として《存在》し、《吾》とは《過去》と《未来》を繋ぐ《現在》に徹底して馴致された《もの》なのである。つまり、《吾》としては、《現在》から遁れられない《存在》として、しかしながら、《過去》へも《未来》へも往来可能で奇妙な《存在》として、此の世に《存在》するのである。

――《吾》!

と、《吾》が《吾》を名指すその《吾》には既に去来現を自在に行き交ふ《異形の吾》が想定されてゐて、予想通り《吾》は《異形の吾》を見出す事でのみ《吾》はひと時の安寧を得るのである。

つまり、《吾》が自己言及する度毎に、既に《吾》には《現在》といふ《過去》と《未来》を派生させる外ない、どん詰まりの《吾》を《世界》にぽつねんと《存在》する《吾》として、《吾》は《吾》を表象し、さうであるからこそ《吾》は此の世で唯一無二の《もの》と僭越ながらも「先験的」に看做すその開き直りが、これまた《吾》を厄介で偏屈な《もの》として、此の世に《存在》させてしまってゐるのもまた、真実に違ひないのである。

《吾》語りをする《吾》の虚言癖に《吾》は振り回され、絶えず《吾》は《吾》から遁れ行く《もの》として永劫に続く鬼ごっこを独りでしながら、それでゐて、『《吾》とは何ぞや』と居直る《吾》の質が悪いその有様にこそ、《吾》が《吾》でなければならない秘密が隠れてゐるかもしれないのである。

さて、その秘密とは何なのか、勿体ぶらずに端的に言ひ切ってしまへば、それは、所詮、《吾》はどんなに足踏みしようが《吾》である事を已められず、詰まる所、《吾》とは、どれ程《過去》と《未来》の間を振幅出来るのかによって、その《生》の充実の度合ひに影響する《もの》に違ひないのである。つまり、《吾》は《吾》の《五蘊場》において表象されてゐる《吾》は既に其処に《過去》の記憶による残像としての《吾》と、これからさうなるかもしれぬ或る兆しを見据ゑた《未来》の架空の《吾》とが、無理矢理に一所に押し込まれ、重ね合はされた《現在》の事象の一例に違ひないのである。

例へば、それは、《吾》をして《吾》に言及するしかないこの《吾》の矛盾した有様の奇妙奇天烈な様を《吾》が意識される外ないのであるが、だからと言って、《吾》が《吾》に自己言及するその仕方の何とも間抜けな、そして、苦し紛れの自棄のやんぱちぶりは、《吾》ながら苦笑する外ないのである。つまり、《吾》が《吾》に対して自己言及する奇怪さは、《吾》が《吾》において空転する宿命にあるに違ひないのである。それ故に、《吾》について自己言及する場合、大概は饒舌に為らざるを得ぬとはいへ、一生かかっても語り果せる筈はないのである。それを知りながら確信犯的に《吾》は《吾》に対して自己言及し、不意に『《吾》とは何ぞや』と思春期特有の疑問が己に湧いて来ると、《吾》は《吾》に首ったけに為る外ないのである。つまり、《吾》はさうして初めて《吾》なる《もの》を見出し、僭越ながら、《吾》の超克を願って已まないのである。さうして《吾》が《吾》ばかりに意識が集中する堂堂巡りの呪縛から、最早、遁れらないのである。

――だから、それがどうしたといふのかね?

と、既に《吾》として居直る《吾》が《吾》に対して嘲りを向けるのであるが、どうした事はない、《吾》は《吾》といふ同じ場所で蜿蜒と足踏みするのみの《吾》を見出だす事で、《吾》は《吾》の此の世に置かれた事情を暗黙裡に呑み込み、《吾》は、《吾》を深追ひしては駄目だといふ事を重重承知の上で、《吾》を追ふ鬼ごっこが已められないのである。さうして気ばかりが逸る《吾》は、不意に轆轤首の変態の準備をしてゐる事とは露知らず、高度情報化社会の中における野蛮なる《吾》、つまり、原初の頃より、変質してゐないこの《吾》の蛮行に《吾》は悩まされるのである。

――はて、《吾》の蛮行とは如何に?

と自問する声が頭蓋内の闇、つまり、《五蘊場》で囁かれるのであるが、

――それは愚問だせ。

と答へる《吾》が、また、《存在》し、徹底して《吾》の自作自演の茶番劇が行はれる事になるのが関の山なのである。何故にかと言へば、《吾》なる《存在》その《もの》が既に茶番でしかなく、つまり、《吾》の端緒が既に茶番なのである。また、《吾》とはその様に滑稽でなければ此の世に《存在》出来る筈もなく、《吾》とは何処まで行っても、鉄面皮の如く面の皮が厚い、能の幕間に行はれる狂言の仕手=吾や太郎冠者=吾や次郎冠者=吾との狂言の寸劇にも為り得ぬ滑稽な茶番劇を《死》すまで続けるのである。

何故に《吾》が《吾》語りを始めると何時も狂言めいた茶番劇にしか為り得ぬのか、と自嘲しながらも、その茶番劇が《生》をも奪ふ絶望を含意した悲劇へとするりと身を躱すその早変わりの《吾》の有様に、或る種の驚嘆を覚えつつ、呆然と渺茫たる《五蘊場》の虚空を凝視する外ないのである。

――これが、若しや《吾》の人生の縮図?

と、初めは何も《存在》してゐない虚空を凝視しながら自問する《吾》にまたぞろ罵詈雑言を浴びせる《吾》が出現するのである。

――それは何故にか?

と、再び自問する《吾》は、不意にそれが《吾》を捨て去る方便として、もってこいの《もの》として、再び自嘲する《吾》の出現を認識するのであるが、さうして順繰りに《吾》を《五蘊場》に出現させつつ、其処に或る安寧を見出だすに違ひないのである。さもなければ、《吾》が《吾》を使ひ捨てられる筈もなく、そもそも《吾》は未練たらたらに《吾》に執着する筈なのであるが、それを敢へて行ふ事無く、《吾》が凝視する虚空に響き渡る哄笑は起きる筈もないのである。

――ぶはっはっはっ。

さうして《吾》を見て嗤ひ飛ばす《吾》の変幻自在な有様に心躍らせるのである。

――何たる事か!

それが《吾》の《吾》に対する鬼ごっこを飽きさせない秘訣のやうにも思ひ看做す《吾》にとって其処に欺瞞を見出してしまふ《吾》は、尚も《吾》を駆逐する事に精を出し、何としても《吾》に《異形の吾》を見出だす迄、已められぬのである。しかし、仮令、《吾》に《異形の吾》を見出だした処で、所詮は、それすらをも使ひ古すこの《吾》にとっては単なる一興にしかならずに、《吾》はその《異形の吾》を捨て去って《五蘊場》の闇を分け入るのである。

――一寸先は闇。

と念仏の如くにそれを誦へながら、不意に姿を現はす、《異形の吾》を見つけては大喜びしながら、その《異形の吾》をぶん殴り撲殺するのである。さうせねば、この《吾》が殺されかねないからである。

――《吾》とは何と哀しい《もの》か――。

と嘆いた処で、《吾》はびくともせずに《吾》をして《吾》を《吾》として建立するのである。つまり、《五蘊場》の虚空に無限に通じる闇を彫る事で、仏像の如く、《吾》を彫り出しては、それにけちを付けて一人ほくそ笑むのである。全てが自作自演の茶番劇でしかなく、それに《吾》は大いに不満なのである。不満故に《吾》は鶴首の如く首をぐっと伸ばして轆轤首に化しながら闇を更に分け入り、更に巧みに闇を彫り出す《吾》の御姿を崇めては、その直後に素知らぬ顔をしてその《異形の吾》を撲殺するのである。何とも不憫な生き《もの》が《吾》なのであるが、《吾》なる《もの》を全剿滅しなければ、不満なのである。つまり、《吾》が《吾》といふ自意識を喪失して闇に完全に溶け込んだ《吾》なる《もの》を《吾》は虚空を凝視しながら、表象するのである。それは、恰も《水》その《もの》の振舞ひに外ならず、つまり、皮袋といふ《水》の容れ《もの》が破れて、皮袋内部の《水》が零れ出すのをぢっと待ってゐるやうにも思へるのであるが、それは、しかし、死体が腐乱して腹が腐敗Gasで膨れ上がる様に似てゐて、時折《吾》を襲ふ失神する時の《世界》との合一感、つまり、《吾》が疑似体験する《死》の様相に似てゐて、《吾》が自意識を失ふ瞬間の恍惚感に遂には酔っ払ひたいのである。さうなのである。《吾》は何時も酩酊してゐたいだけに違ひないのである。壊れ行く自意識を破れたままにして、恰も《水》が流れ出すやうにして、《吾》は《吾》を彌縫せずに、《吾》は、ばっくりと大口を開けた裂け目を虚空に見出だしたいだけに過ぎぬのである。

渺茫たる眼前の闇を凝視しながら、闇が《水》の如く流出してゐる裂け目を探すその訳は、暗闇の中で女陰を弄る様を髣髴とさせなくもないのであるが、仮令、闇の中に必ず《存在》する裂け目が女陰の象徴に過ぎぬとした処で、それはフロイトの焼き直しでしかなく、《吾》の《存在》を《生》と《性》と《死》へと還元し、身も蓋もないフロイト流の精神分析とは一線を画す、闇の裂け目――仮令、それが女陰の象徴だとしても――《異形の吾》の誕生を祝ふ予兆のやうに、闇をしっかと凝視し、此の世に屹立する《吾》の首は、その裂け目へと吸ひ込まれるに違ひないのである。《吾》は身動ぎ出来ぬ事を伏せながらも、《生》きてゐるのであれば、まるでさうでなければならないかのやうに此の世の決まった立ち位置に屹立する事を已められぬ《吾》故に、闇にばっくりと大口を開けてゐるに違ひない裂け目へと首のみがぐんぐんと伸び行き、仕舞ひには《吾》の首のみが闇の裂け目にすっぽりと嵌まり込み、《吾》は、『生まれ変わり』の儀式をひっそりと執り行ふに違ひないのだ。さうして《吾》は《吾》の伸び切った首をずばっと斬り落とし、尚も渺茫たる《五蘊場》の虚空を凝視してゐる首無しの《吾》は、自らの拳で《五蘊場》に残されしその体軀を撲殺するのである。

一方で、闇の裂け目にすっぽりと嵌まった首のみの《吾》は、『生まれ変はり』のひっそりとした祝祭を執り行ひつつ、その首のみの《吾》は恍惚の体で《吾》に酩酊してゐるに違ひないのある。つまり、《吾》とは首のみの機能ばかりが増幅された「脳絶対主義」の如き《世界》の中で、存続するには恰も首のみが伸びた轆轤首に化した《吾》の有様がある一方で、酩酊を求めて渺茫たる《五蘊場》の虚空の中に身動ぎ出来ぬ故に、虚空の闇の裂け目へと首のみが伸び行く轆轤首が《吾》の内部には《存在》するといふ事に、

――へっへっへっ。

と嗤ひながら、その矛盾したLogosに妙に納得するのであった。《吾》は突き詰めれば二柱の《吾》たる轆轤首といふ《神》にも似た《存在》に行き着くのである。もしかすると、轆轤首は三柱、四柱、……、∞柱、《存在》するのかも知れぬが、《吾》を最も欺く《もの》が何を隠さうこの《吾》であるならば、今の処、二柱の轆轤首には行き着いたと言へなくもないのである。

――へっへっへっ、それは 詭弁といふ《もの》だぜ。

――詭弁で構はぬではないかね?

――馬鹿な! 《吾》語りをするのであれば、詭弁は徹底的に排除されるべき《もの》であり、さうしなければ、全く以って空虚な空論に、つまり、戯言でしかなくなるんだぜ。

――それで構はぬではないか? 《吾》とは所詮《吾》為らざる《吾》へと超越する《もの》故に、《吾》なんぞどうとでも語れる《もの》なのさ。

と、ほとんど投げ遣りな自問自答にすべては語り尽くされてゐるのではあるが、然しながら、さうは言っても、やはり、《吾》は結局の処、《吾》を語る為に《存在》してゐるに違ひないと思ひ直して、自己満足する《吾》を、

――けっ、薄汚い性根を現はしやがって!

と罵るのであった。

さて、それでは《吾》として《異形の吾》が無数に《存在》する《もの》として語り出せば、その無数に《存在》する《吾》が全て轆轤首へと収束し、変態するに違ひないのである。《吾》を轆轤首といふ型枠に、つまり、皮袋に容れた《水》としてその変幻自在さを固着化した《存在》に過ぎぬと、∞柱《存在》する轆轤首たる《吾》を十把一絡げに看做してゐるに違ひないのであるが、しかし、《吾》とは、《吾》といふ《もの》へと収束する《もの》としか言ひ様がない、つまり、極論すれば、《吾》とは《吾》であり、また、《吾》ではない《異形の吾》であるといふ排中律に準じない《存在》が《吾》であるとしか言へぬのである。

《吾》が《吾》であり、そして、《吾》でないといふ非=排中律が《吾》を言ひ当てる最も的確なLogosならば、《世界》に《存在》する因果律も見直されるべき《もの》なのかもしれぬのである。《世界》において仮に因果律が不成立ならば、その因は全て《吾》が担ふ筈なのである。《吾》とは「距離」が厳然とある《世界》において《吾》のみ《現在》にあり、《吾》以外は全て《過去》か《未来》のどちらかと言へると先述したが、外界たる《世界》が、しかし、一度も《現在》であったためしがないかと問へば、《世界》は《吾》とは全く無関係な時間が流れてゐる筈で、《世界》は《世界》として自律してゐるに違ひないのである。それを仮に「宇宙史的時間の流れ」と言へば、《吾》の《生死》は、「宇宙史的時間の流れ」から見れば、ほんの一寸の出来事でしかなく、たまゆらに現出する《吾》といふ非=排中律なる《存在》は「宇宙史的時間の流れ」といふ悠久の時の《存在》の永劫回帰的な様相を其処に見出だす事で、徹底的に《世界》から孤立する《現在》であり続ける《吾》を断念するのである。絶えず《現在》であり続ける事を断念した《吾》とは、正覚せし《もの》とは違ふ《存在》に違ひなく、その《吾》のみ非=排中律の空理空論から遁れるのかもしれぬのである。それは詰まる所、《現在》である《吾》を追ひ、永劫に続く鬼ごっこを已めた《存在》に違ひなく、その途端に《吾》は《吾》から遁れる事を已めて、《吾》といふ何かが現前に現はれるに違ひないのだ。その為にも《吾》は出来得る限り早く、《吾》を追ふ矛盾を断念すれば、《吾》は、多分、何《もの》かに為り得、そして、それを以ってして『《吾》は《吾》だ!』と《五蘊場》に広がる渺茫たる虚空にその《吾》なる《もの》を彫り出す事が出来るのであり、断念しなければ、《吾》は何時迄経っても、《吾》は不確定な非=排中律、つまり、《吾》は《吾》であり、《吾》は《吾》でないといふ《現在》の有様に振り回される《存在》に堕すばかりなのである。何故にさうなるのかと言へば、そもそも《現在》は浮動な《もの》であり、それに対峙するには《吾》は肚を括らなければ、つまり、『《吾》、《吾》なる事を断念す』と浮動する《現在》における非=排中律的な有様にある《吾》との間に、程よい「距離」が出現するのである。つまり、《吾》と《異形の吾》との分離に成功すれば、《吾》とは、去来現を自在に行き交ふ解放感に包まれ、至福の時を堪能する筈なのである。

――へっ、それは丸っきし見当違ひだぜ!

と、不意に我慢出来ずに言挙げせし《吾》がゐたのであった。

――それは何故にかね?

――決まってゐるだらう? 《吾》は未来永劫に亙って《吾》である事を已められぬ筈だぜ。

――馬鹿な!

――しかし、《吾》とは、そもそも地獄の生き《もの》だらう?

と言挙げする《吾》の地獄といふ言葉を前にして、《吾》は口を噤むしかなかったのである。確かに《吾》は《現在》と言へば聞こえはいいが、それが地獄の一様相でしかない事を薄薄感じてゐた《吾》にとって、その《異形の吾》の言挙げに一瞬たぢろぎ、さうして不敵な笑みをその顔に浮かべるに違ひないのだ。

――つまり、地獄では《吾》は《吾》である事を已められぬ――か。

つまり、地獄の責苦を十二分に味はふには《吾》は絶えず《吾》でなければ《吾》をして地獄の責苦を受ける筈はなく、たまゆらでも《吾》が《吾》でなくなるとするならば、地獄を彷徨ふ《吾》にとっては、それは 卒倒を意味し、その無=自意識の状態である《吾》は、その時のみ《吾》である事に胡坐を舁くのである。卒倒が非=排中律の止揚であるならば《吾》は意識を失った無=自意識の境地にある――これをして《吾》は《吾》と呼べない――《異形の吾》が憑依した何かでしかないのである。その象徴が多重人格に違ひないのである。

次次と人格が変わりゆく多重人格者は、或る一人の人格が憑依すると、それまで確かにその多重人格者に憑り付いてゐた人格と断絶した別の人格がその相貌を現はすのであるが、その細細とした断片の寄せ集めでしかないその多重人格者の本当の人格は、誰かと問ふと、はたと答へに窮するに違ひないのである。何故ならば、当の本人が、つまり、多重人格者が一体誰なのか一向に判然としないからに外ならないのである。多重人格者においては全て現はれる人格がどれも「私」であり、さて、多重人格者の全ての人格が揃って『《吾》とは何ぞや』と自問自答を始めたと仮定した場合、多重人格者は、常人に比べてその『《吾》にぽっかりと開いた陥穽に深深と落ち込むかと言へば、決してそんな事はなく、多重人格者が全ての人格において『《吾》とは何ぞや』と自らに問ひを発してたとして、それは、そのいづれかの人格においても「私」の深化は望むべくもなく、多重人格者は『《吾》とは何ぞや』と問ふのみといふ無力感に苛まれるに違ひないのである。多重人格者において一所に留まり、一人として思索に耽るにはその持続力はそもそも不足してゐて、或る境地に達する前に別の人格に乗り移ってしまふに違ひないのである。つまり、全ては中途半端に終はってしまふ可能性が大で、多重人格とは《吾》からの逃避の一様相と看做せば、《吾》を追ひ込んだ挙句に辿り着いたのが仮に多重人格者へと為る端緒であると看做せなくもないのである。つまり、《吾》を突き詰めるとその結果の一様相が多重人格へと変化するものなのかもしれぬのである。

――多重人格とは《異形の吾》に《吾》が乗っ取られた一現象ではないのかね?

と、相変はらず《吾》を嘲る嗤ひをその口辺に浮かべながら《異形の吾》が《吾》に向かって言ふのであった。それこそ、自己矛盾した《吾》の有様を具(つぶさ)に物語るのっびきならぬ《吾》の事態なのであるが、それが何とももどかしくて《吾》は、

――ぶはっはっはっはっ。

と哄笑を発したのである。そして間髪を入れずに《異形の吾》は、

――果たしてお前は《吾》かね? 片腹が痛いわ。お前が《吾》? ふへっへっへっ。ちぇっ、悍ましい!

と、吐き捨てて、その姿を虚空の中に消したのであるが、当の「私」はまるで白昼夢を見てゐるかの如く、己に対して舌打ちをするのであった。

――ちぇっ、忌忌しい! 何が《異形の吾》だ! 所詮、《吾》に過ぎぬではないか! 《吾》は《異形の吾》を自然に受け容れる度量が《吾》には本来備はってゐる筈で、それを先人は対自と、更には脱自と呼んで《異形の吾》も含有した上で《吾》は《吾》をして《吾》はちっぽけな《存在》に違ひないそれを《異形の吾》と名付けて邪険に扱ふ事に終始してゐるに過ぎぬではないか!

と「私」は己に罵詈雑言を浴びせたのである。しかし、その虚しさと言ったら、「私」の内界に一陣の風が吹き抜けるやうに《吾》の洞状の、つまり、《吾》の中身は空っぽといふ余りにお粗末な事態に嗤ふしかないのである。

――それで満足かね?

と、何処とも知れぬ《五蘊場》の闇に覆はれた眼前に拡がるは闇ばかりの虚空から、その虫唾が走る声で《吾》に問ふたのである。勿論「私」は己に罵詈雑言を浴びせた処で、何かが解消する筈もなく、尚更に憤懣のみが昂じるのみなのであったが、その瞋恚の炎が一度燃え上がると、最早、収拾は付かぬ事態に《吾》は何の事はない、周章狼狽するといふ醜態を晒すのであった。

――しまった!

と思った処で後の祭りで、それをしかと見たに違ひない《異形の吾》は、

――ぶはっはっはっ。

といふ哄笑を上げて嗤ふのであった。

――成程、非=排中律の止揚は卒倒ばかりではないな。瞋恚もまた、《吾》の非=排中律の止揚に違ひない。

――それは瞋恚に《吾》を見失ひ、ちぇっ、つまり、《吾》が《吾》に一致した一様相が瞋恚といふことかね?

――何ね。意識が感情に支配された時もまた、《吾》は《吾》であり、また、《吾》は《吾》でないといふ非=排中律を成し遂げてゐるのではないのかと思ってね。

――それを屁理屈といふのぢゃないかね?

――屁理屈で構はぬではないか。土台、《吾》が《吾》を問ふ事自体が屁理屈でしかないのだから。

――それは言ひっこなしだぜ。

――ふっ、ところで、お前は誰と話しているのかね?

――決まってゐるだらう、《吾》さ。

――ふむ。《吾》ね。

などと、下らぬ自問自答は、蜿蜒と続く事になるのだが、その問ひが建設的かと問へば、全く建設的ではなく、非建設的な自問自答を蜿蜒とする内に《吾》は憂鬱な気分に見舞はれるのである。だからと言って、《吾》は《吾》の観察者たる事を已める事は一時も出来ず、その内容が下らなければ下らない程に《吾》は《吾》との自問自答にのめり込むのが関の山なのであった。

其処で《吾》は己に問ふのである。

――さて、《吾》は《吾》である事を断念した時、一体全体《吾》には如何なる変容が起きるといふのだらうか?

確かに《吾》が《吾》である事を断念した場合、《吾》と名指す《もの》が既に《吾》でないといふ事象に戸惑ひながらも無私の境地へと達せられた《吾》は最早、《吾》と呼ぶ《もの》の声すら聞かずに、只管、《吾》の《五蘊場》を覆ひ尽くす闇へとずかずかと分け入り、また、底無し沼の様相を呈するその闇への落ち込みやうは、底無しにも拘らず、既に《吾》である事を已めた《吾》は、その闇に沈下してゆく《吾》に対して何ら恐怖心も湧き起こらずに、為すがままに《吾》を放置するのである。その放置された《吾》は勿論、首を自らぶった切った轆轤首の首の部分に違ひないのであるが、その首のみの、《吾》としか名指せぬ、既に《吾》を解脱してしまった《吾》を一言で言ひ表はせば、それは∞相を兼ね備へた《吾》といふ一様相に収束しての一相貌なのである、と言へなる筈なのである。そして、首のみの轆轤首の《吾》は、龍にも狡猾な蛇にも人魂にも変化可能で、その見え方は見る《もの》の心の有様次第なのである。つまり、無私といふ非=排中律を止揚した《吾》は、何様にも変化可能で、その見え方は《吾》以外の《もの》の心模様の射影でしかないのである。

そして、もう一つ、《吾》が《吾》を見失ふ様に感情の赴くままに《吾》を帰属させて、そこに「反省」「省察」の入り込める余地すらない状態の《吾》がある事は瞋恚について述べた通りであるが、その事は太古の人人にすら解かっていた事で、その一例に不動明王像として、また、十二神将像として神仏の緒様相として、彫像され、今に残されているのである。つまり、此の世には既に《吾》といふ《存在》の非=排中律を止揚した《存在》として、瞋恚を露はにした十二神将像や馥郁として嫋(たを)やかたる仏像として連綿と受け継いできたのであり、《吾》の無明といふ事象は現代に始まったことではなく、しかし、そのように「現代の闇」として捉へたがる俗物は傲慢でしかなく、敢へて言へばホモ・サピエンス、つまり、人間を馬鹿にしてゐるだけなのである。

現代に《生》を享けた《もの》が《存在》のHierarchy(ヒエラルキー)(位階)の頂点に君臨し、そいつは、つまり、「現存在」は《死者》を従へ、《神》を下僕と化し、悪魔に魂を売った《もの》として《存在》してゐるに過ぎぬのである。そのくせ、功徳を積んでゐると正邪が顚倒した《存在》を自覚しながらも「現存在」は此の世の王たらむとして《存在》する事を已めぬのである。むしろ、そいつは開き直って自らをメフィストフェレスの眷族でもあるかの如くに権勢を揮ふ事ばかりに現を抜かしては、

――此の世は高高、こんな《もの》。

と、何か此の世の秘密を知ったかの如くに恥知らずにも自己肯定し、さうして我が物顔で此の世を跋扈するのであるが、否、首のみぬらぬらと伸ばした轆轤首として《存在》するのであったが、その《存在》の根拠と言へば、唯単に『己は唯一無二の《存在》に違ひない』といふ余りに拙い根拠しかないのである。むしろ、「現存在」が此の世に《存在》する時に猪の一番にすべき事は徹底的に自己否定する事であり、それは、《死者》達に対する感謝であり、此の世の至る所に《存在》するであらう神神達に対する礼であり、悪魔を手玉に取る狡猾さを兼ね備へた、つまり、此の世は一寸先は闇といふ事を知り尽くした上での或る達観にも似た有様に違ひないのである。断言するが「現存在」は宇宙史上一度も此の世の王になった事はなく、「現存在」は徹底して此の世の下僕でしかなかったのである。然しながら、《世界》と「現存在」の帰属を問題にする限り、どちらが上位であるのかといふ権力闘争に終始し、仕舞ひにはそれに夢中になり、最早、傍から見れば如何にも下らぬ事に現を抜かしてゐるだけに過ぎぬのであるが、当の「現存在」は、その《世界》の権力闘争が恰も「自由」の獲得であるかのやうな誤謬に陥り、遂には闘争する事自体が面白くて仕様がないといふ全く本末顚倒した事態に己の快楽を見出してしまって、それに惑溺するに違ひないのである。しかし、「現存在」の《世界》を統べるなどといふ如何にも傲慢な思考法は、本来であれば、産業革命以前にはなかったに違ひなく、「現存在」は蒸気機関といふ人力以上の「力」を手にしてしまった故に、《世界》、つまり、住環境の改変を何食はぬ顔で、それが恰も「自然」であるかの如くに行ひ、《世界》の王として「現存在」が此の世に屹立するといふ幻想に酩酊するのであるが、しかし、仮令、「現存在」が此の世の王として君臨したからといって何にも変はった《もの》はなく、独り自惚れた「現存在」のその《存在》の危ふさのみが一際際立つ事になるのである。つまり、《世界》は「現存在」が幾ら「自然環境」に手を加えようが、そんな事は眼中になく、例えば、天災としてそれは「現存在」に圧し掛かるのである。《世界》は眦一つ動かすことなく、「現存在」を殺すのである。その手捌きといったなら芸術的ですらあり、天災を前にして唯唯茫然自失の態で「現存在」ははっきりとした敗北感を心の底で味はひ尽くし、さうして、涙が枯れた面をくっと上げて、尚も《生》を、生き残ってしまった《もの》の宿命として、その《生》を生き直すのである。

さて、其処で問題となるのが、生き残った「現存在」の自虐であり、果たして己は生きてゐていいのであらうかといふ疑問、つまり、己の《存在》に対する疚しさに絶えず苛まれ、《死者》の眼前に引き出されては《死者》達の審問を受けるのを常としてゐる事なのである。また、さうでなければ、生き残った「現存在」は生くるに値しない筈で、如何に己が《死》に近しい《存在》であったかとの自問の中で泣き叫ぶのである。

――嗚呼、《吾》、何故に生くるに値するのか――。

と。さうする事で、生き残った「現存在」は己を自己愛撫しながら、懸命に生くるのである。さうでなければ、「現存在」は生くるに値せぬといふ断念が生じてゐる魂魄に正直になれず、あれ程までに執着してゐた《世界》の王の玉座になんぞ、見るにも値せぬ《存在》でしかない事を心底味はふのみなのである。

――それは《世界》と和睦するといふ事か?

と、《死者》達に問ひかけるのであるが、《世界》は沈黙したまま、何にも語らぬのである。

果たして「現存在」が《世界》と和睦する事は可能なのであらうか。仮に可能とすれば、それは如何なる状況で可能なのであらうか。

例へば、此の世の彼方此方に口を開けてゐる「パスカルの深淵」に「現存在」が自ら進んで落っこちればその時、《世界》と「現存在」の和睦は可能なのであらうか。そもそも「現存在」と《世界》の和睦は、其処に《死》が介在せねば不可能に違ひなく、仮にそれが可能であったとしても、「現存在」は《生者》である内は此の世の王として《世界》を牛耳りたいのが山山で、それ故に「現存在」は《世界》から浮いた《存在》として此の世を生きるのである。つまり、「現存在」が《生者》である限り、「現存在」と《世界》の和睦は夢物語に違ひなく、現実には「現存在」と《世界》の和睦は、不可能のやうに思へて仕方ないのである。それは 何故かと問はれれば、ドストエフスキイではないが、「現存在」は己の事を虱以下、若しくは南京虫以下の《存在》と看做してゐるのが真っ当な「現存在」の有様なのだが、それとは反対にこのやうな《世界》の中にあって、自己肯定出来てしまふ「現存在」といふものを思ふだけでかなり胸糞悪い《もの》で居心地が悪くて仕様がないのであったが、少なからぬ「現存在」は何の躊躇ひもなく自己肯定する事が可能なのであった。それは「現存在」の無知によるとしても、その傲慢さは許し難く、そもそも「現存在」は、此の世において、自己肯定出来る程に何か《存在》の中にあって一際際立つ何かを持っているのかといふ疑問にはたと思い至り、そこで思考停止したやうに《吾》は《世界》といふ《存在》を前にして屈辱のみを喚起する《存在》に堕すのが《自然》の道理なのである。この問ひに対する答へは至極簡単で、《存在》といふ言葉を前にしただけで如何なる《存在》も「平等」である筈で、独り「現存在」のみが優遇される理由なぞそもそもないのである。つまり、《吾》とは虱や南京虫に等しく、否、それ以下の《存在》である。といふのも虱や南京虫は《自然》の摂理に従って、決して其処から食み出ようなどとは微塵も考へることはなく、独り「現存在」のみが《世界》から食み出ることを欣求するのである。つまり、虱や南京虫は天命に逆らふといふやうな野望、若しくは欲望を持つ事はなく、只管に《自然》の摂理に従ひながら、その《生》を終へるのである。その点、「現存在」はじたばたと足掻くのである。己が何か偉大な《もの》であるかの如く振舞ひ、さうして、《存在》界の君主として君臨するかの如き大いなる野望、否、誤謬の中で狂ふのである。狂気のみが「現存在」を「現存在」たらしめる根拠に違ひなく、また、《世界》が行ふ傍若無人の仕打ちに対しても、独り狂気にのみ、「現存在」がその《存在》を《存在》たらしめてゐる事実に対する免罪符となるのであった。

とはいへ、《吾》の誕生において「現存在」は何の原罪も背負ってゐないと思へるのであるが、思春期の或る日を境にして、「現存在」は己に対して唯唯嫌悪感ばかりが湧き立つ事態に無理矢理にも抛り込まれるのである。その理由は、多分、「現存在」が《死》すまで、否、《死》しても尚、不可解なままに違ひなく、《吾》は《吾》の中に芽生えてしまって、その《存在》を《異形の吾》としか呼びやうがない《もの》として苦悶し呻吟しながら、その《存在》を承認する外なく、さうすると、《吾》とは分裂する《もの》の総称でしかないといふ事になるのである。つまり、《吾》は受精卵が細胞分裂をする如くに分裂を繰り返し、例へば、一人の人間が約六十兆個の細胞で成り立ってゐるが如くに、それを無理矢理頭蓋内の闇たる《五蘊場》に《存在》するであらう《吾》といふ《存在》にそのまま当て嵌めるとするならば、《五蘊場》の《吾》、若しくは《異形の吾》もまた、六十兆個の《吾》により出来てゐて、その《吾》が変幻自在にその姿形を変へて、《吾》の《五蘊場》に出現すると看做せなくもないのである。

実際、《吾》といふ《もの》は、変幻自在でなくては此の世で生存する事は不可能で、時に暴君と化す《自然》の中で生き延びるには、《吾》は、先人達から脈脈と受け継がれてきた智慧をして、その荒ぶる《世界》に対峙する筈なのである。その時、「現存在」は自己保持する為に絶対的な《過去》の遺物でしかない先達の智慧に縋り付く事でやうやっと時間が《過去》から《未来》へとその流れを反転させる激動の中においても尚、揉みくちゃにされながらも《個時空》といふ小さな小さな小さな時空間のカルマン渦を消滅させる事なく、渦は渦として存続させる筈なのである。さうでなければ、生物はこれ程までに多様に《存在》する筈はなく、然しながら、「現存在」のみ先達の知恵を蔑ろにした故に疑心暗鬼に陥り、一方で、その先達の知恵を誇大に解釈し、一方では過小評価するといふ紊乱と傲岸不遜の中で『《吾》ありき』などと嘯きながら、此の世に存続できているのは偏に《現在》を《生》きている「現存在」の詰まる所は浅墓な智慧でしかないのけれども、その智慧による《もの》と胸を張ってゐるのであるが、その姿ほど醜悪な姿はないのである。《現在》といふ皮袋たる《吾》においてのみ反転する《過去》と《未来》の時間の流れに《吾》は翻弄されながら、もう闇中に消え入りそうな《吾》が、その防塁としていた《吾》の《五蘊場》が既に解明され、つまりは謎が解かれて《五蘊場》は無惨にも崩壊するといふ危ふい状態に置かれてゐる事に気付いている《吾》は、それを素知らぬ顔で厚顔無恥にもその因を《世界》に向け、《世界》の改造を何の疚しさも感じずに行ってしまったのである。つまり、脳絶対主義の《世界》を出現させてしまったのである。

さて、さうなるともう手遅れなのかもしれぬが、これまでは手に負へぬものであった《自然》の脅威に対して現代文明はそれを乗り越えたといふ錯覚の中に一時期陥り、既に《楽》を知ってしまった「現存在」はもう後戻り出来ずに、最近頓に増へた傍若無人な《自然》の荒ぶる振舞ひを更なる文明の進化によって鎮めるといふ超絶技巧な離れ業をやらうとしてゐるのである。このやうな生物の存続の危機に対しての大いなる矛盾を抱える事になった「現存在」は、「えいっ」とばかりにもんどりうちながら未来に突き進む外ないと観念し、悪足掻きしながらも《吾》は大いなる悔悟の中に《存在》するのも確かで、そして、《吾》はそれ故にこれまで味はった事がない途轍もない屈辱の中でもがき苦しみながら《過去》と《未来》が反転する《現在》を《生》きるといふ《吾》のその余りの浅薄な《存在》の重さを味はひ尽くさねばならぬのであった。つまり、太古よりこの方唱へ続けられて来た芥子粒の如くにしか「現存在」の命の重みはないといふ事を心底味はふしかなかったのである。

――ぶはっはっはっ! よく臆面もなく芥子粒などと言へるもんだぜ。恥ずかしくないのかね? それこそ、太古の昔より言ひ続けられて来た文言ではないかね? へっ。余りに陳腐で嗤ふしかないぜ。ちぇっ。

――ふん。そんな事は言はれなくとも解かり切った事さ。勝手に嗤ひたければ嗤ふがいい。しかし、《吾》なる《もの》の《存在》は己では避けようがない《もの》として既に《存在》しちまってゐる。さうして、《吾》は《吾》を受肉してゆくのさ。

そもそも受肉とは何なのであらうか。《吾》は《吾》を一生賭けて受け容れてゆく《存在》なのであらうか。仮にさうだとすると、《吾》は相当な白痴といふ事になるが、これ如何、などと己に対して余りにも古風な疑問を何か最先端の問題であるかのやうに装ひながら論(あげつら)ってみ、しかしそれは何の事はない、古人の言葉の重さを今更ながら味はふ「生き直し」を、つまり、永劫回帰の全き中を闊歩するかの如く《生》を繋げるやうにして、《吾》といふ《もの》は、何《もの》をも《存在》たらしめてしまふその端緒でしかないに違ひないと思ふしかなかったのであった。

さて、《吾》が《吾》であると気付く時のその刹那の悲劇は見るも無惨な《もの》であった筈である。或る日、それは忽然と《吾》にやって来るのだ。それまで《吾》の思考の片隅にも《存在》してゐる素振りさへ見せなかった《吾》といふ概念に《吾》は気付くのである。その時の《吾》の狼狽ぶりは、見てをれぬ程に醜い《もの》な筈なのである。さうでなければ、《吾》は《吾》を欺いてあかんべえをしているに違ひないのである。

――「私」は《吾》?

と、不意に《吾》の《五蘊場》に立ち上ったその《吾》といふ思ひに戸惑ふ《吾》は、その時を境に《吾》に首ったけになるのである。最早、《吾》が四六時中考へるのは、全てこの《吾》の事であり、また、《吾》に関係した《もの》なのでしかないのである。しかし、それでも尚、正気の《吾》は、孤軍奮闘するかのやうに《吾》に対して懐疑の目を向け、しかも、不思議なことに《吾》に首ったけな《吾》と《吾》に懐疑の目を向ける《吾》は「私」においては共存してゐて、「私」は《吾》なる《もの》と《吾》ならぬ《もの》の間を揺れ動きながら、常に《吾》から摂動してゆく《吾》を追ひかけるのである。さうかうしている内に《吾》はそんなどっちつかずの《吾》に痺れを切らして、その《吾》の有様に大いなる疑問を抱き、其処で《吾》は《吾》の全顚覆を企てるやうになる事が、《吾》の健全な成長過程であるに違ひないのである。

――へっ、《吾》の全顚覆? そんな事は《吾》が可愛くて仕方がない《吾》にとっては土台、無理な話で、そんな不可能事に現を抜かす《吾》の行き着く先は大概《吾》といふ《もの》の思弁的な遊行でしかなく、それは、詰まる所、暇潰しでしかないぜ。

確かに《吾》による《吾》の全顚覆はあり得る筈もなく、《吾》は、《吾》なる《もの》と《吾》ならぬ《もの》の間で常に摂動してゆく《吾》を追いかける鬼ごっこに現を抜かしては、余りにも馬鹿げた『《吾》の全顚覆』を夢見るのであるが、しかし、それは大概の「現存在」にとっては蚊に刺されたかの如くに心に多少の痒みを催す《もの》でしかないのである。さうとは言へ、中には、その摂動する《吾》とのそのずれに底無しの深淵を見てしまって、最早、一歩たりとも其処から身動きが取れなくなって仕舞ひ、遂にはその深淵の虜になってしまって、その深淵から絶えず漏れ聞こえてくる《吾》に対する呪詛の呻き声の言葉の数数に心を完全に打たれて奇妙な共鳴を起こす《吾》の打ち震へる深奥をどうする事も最早不可能の態で、そんな《吾》は、一一その呻き声に感銘を受け、それはさながら、雷に打たれたがの如き衝撃をもって《吾》の内奥に棲む《吾》といふ名の何かと共鳴を起こし、しかも、尚更にこの《吾》を顚覆させねばならぬとの苦悶を深め、さうして、《吾》は《五蘊場》に出現する事になる《異形の吾》を次次と惨殺しては、

――これは違ふ!

と、《異形の吾》を殺す度毎に嘆くのであった。つまり、それは《吾》の思索の浅薄さしか物語ってをらず、その己の思索の浅薄さに比例するやうにして《異形の吾》は《五蘊場》にその醜い姿を現はし、《異形の吾》は泥人形か木偶の坊のやうな余りにも低能かつ下等な御姿で現はれては、《神》との比較において「現存在」を曲がりなりにもこの世に出現させた《神》の見事な手捌きには未来永劫に手にする事が出来ぬ己の無力感に苛まれながらも《吾》は涙を流しながら次次と現はれる《異形の吾》を惨殺する外なかったのである。つまり、《吾》とは「先験的」に哀れな《存在》としてしか《吾》には現はれないのである。しかし、其処で自己愛に堪へ切れずに自慰すると、たちまち、その自慰行為の中毒となり、自慰する事で哀しい《存在》である《吾》の置かれた位置を一瞬でも忘れるやうにして、《吾》は此の世に屹立してしまふのであった。それはあまりにも無防備な出で立ちであり、そのやうな《吾》は摂動する《吾》とのずれに開いた底無しの深淵に転げ落ち、しかし、それが落下だとは全く気付かず、自由落下してゐる時の浮遊感として飛翔の心像の中に哀れにもひっそりと《存在》する《吾》を見つけては、それが《異形の吾》とは全く気付かずに自己は自己に同一してゐるかのやうな幻想の上で胡坐を舁く《吾》を見出だすのが関の山なのであった。

だが、しかし、《吾》はそんな《吾》に対して途轍もない居心地の悪さを覚え、さうなると、最早、一時も《吾》である事が我慢がならぬ事態へと移行するのは必然なのであった。だからと言って《吾》に為す術はなく、只管、《吾》が《吾》である事に我慢する事に終始する事もまた、必然で、《吾》は《吾》なる事に断念する事でやうやっと《吾》は《吾》である事を受け容れるのである。これを悲劇と言はずして何を悲劇と言へようか。《吾》は《吾》である事が既に悲劇であるといふ皮肉。しかも、これは悲劇でありながら、多分に喜劇の要素を多く含んだ《もの》なのも確かなのである。つまり、この《吾》の人生における振舞ひは此の世にまたとない喜劇へと難なく変はるのである。この悲喜劇をして、《吾》は《吾》に対して道化師を演じて見せて、絶えず《吾》が《吾》である事を思惟する事態――これは余りに深刻な事態なのである――を回避するのであった。しかし、そんな状態も長続きする筈もなく、多分、誰しも、否、何《もの》も《吾》なる《もの》の瓦解を経験してゐる筈なのである。そして、それに対して大概の《存在》は無関心を装ひつつ、次第に《吾》に対して不感症になってゆくのが常なのであるが、中には《吾》が《吾》である事をどうしても受け容れられずに《吾》が《吾》に躓く《存在》がゐるのであるが、しかし、だからと言って、《吾》は既に何に対して呪詛してゐるのかも解からずに、只管、此の世を呪ふのである。その狎れの果てが轆轤首なのである。最早、歩く事すら出来ない轆轤首として此の世の不条理に順応してみせた轆轤首の《吾》は、仕舞ひには首を伸ばす事すら面倒臭くなって、やがては轆轤首の首を自らの手でぶった切り、さうして、首と切り離されし肉体を自らの手で撲殺せずにはゐられぬ哀しき《存在》として、《吾》は此の世に《存在》するのである。それでは何故に《吾》は《吾》の首のみ残して肉体を撲殺しなければならぬのであるか。その答へは簡単な事なのである。《吾》もまた動物だからである。動物故に「心」、若しくは「意識」を自覚してしまった故に、首と胴体とが乖離を始め、仕舞ひには《吾》は、この余りに不合理な肉体を《吾》から切り離して、此の世から抹殺せずには気が収まらぬのである。これは、《世界》が《吾》に強要する《もの》で、誰もが己を轆轤首として意識し、更に《世界》に順応するべく首をぶった切るのである。さうして、《吾》の不合理なる肉体を自らの肉体を自らの手で殴り殺すのだ。さうして、《吾》にとっては最早不合理でしかなくなってしまった肉体の《存在》を此の世から抹消するのである。さうして、一見この《世界》を自由に飛び回ってゐるかの如き錯覚、否、誤謬の中で《吾》は遂に《吾》を見失ふのである。これは、しかし、《吾》が望んでゐる宿願に違ひなく、《吾》は《吾》といふ呪縛から遁れられる筈なのであるが、吾(わ)が肉体を撲殺してしまったことで、尚更我執に囚はれては《吾》に拘泥するのである。そして、そんな《吾》は次第に腐敗してゆき、《吾》は何時しか、腐敗Gasに変化してゐて、尚且、石ころの《吾》が《五蘊場》に転がってゐるのである。そして、その腐敗Gasは石ころの《吾》を中心に経巡り始め、渦動するのである。それが《吾》の「生まれ変はり」の儀式であり、その時、《吾》は《吾》に対するささやかな祝祭を催すのであるが、しかし、さうした状況下にある《吾》はちっとも《吾》が実在する《もの》として甦る事はなく、只管、石ころの《吾》の周りを腐敗Gasが渦動し続けるのである。何故ならば、この渦動する《吾》未然の《存在》には、決定的な事が欠落してゐるのである。それは、腐敗Gasが凝結する核が、何時まで経っても出現しないからなのである。しかし、それは、至極当然の事で、《吾》は《吾》の肉体を撲殺し、此の世から抹消させてしまった故に、石ころの《吾》の周りを経巡る腐敗Gasとしての《吾》は、終ぞ《吾》が雪の結晶の如くFractalに成長しゆく《吾》といふ何《もの》にも代へ難い核を失ひ、《吾》を「新たに生まれ変はらせる」その核の不在は、何時まで経っても《吾》を《吾》未然なままに留まらせる原因になってしまうふのである。ところが、それに気付いた処で、《吾》未然の《吾》為らざる《吾》には遅きに失してゐて、未来永劫《吾》未然の《吾》為れざる《吾》が中有を彷徨ふ事になるのであった。

つまり、何れの《吾》も成仏する事はなく、《死》しても尚、この地を彷徨ふのである。それが《吾》の此の世に対しての最低限の礼儀であり、また、中有に彷徨ふばかりの、轆轤首の首をぶった切り、《死》した吾が肉体から発したに違ひない《吾》といふ腐敗Gasと遅遅と時間が進まない石ころと化した《吾》が、渦動し、ずっとそのままの状態であり続ける《吾》未然の《吾》が、果たして、何億年と言ふ時間の長さで凝視し続ければ、其処にはある変化があるかもしれないといふのは余りにも楽観的に過ぎる見方であって、それを打ち砕くには十分な根拠として、《吾》の狎れの果ては《吾》でしかないことにより、自明なのである。それ故に、何億年という星霜でも渦動するのみの《吾》には何の変化もなく、この石ころの《吾》の周りを巡回するその渦状の《吾》は無意識的にも意識的にも『神の一撃』を待ち詫びてゐるのである。《吾》の出現には、《吾》のみの力学では此の世に出現する蓋然性は零に等しく、《吾》は絶えず『神の一撃』を鶴首の如く待ち続け、否、轆轤首として待ち侘びて、さうして《吾》の首は伸びるに伸び切るのであった。

石ころの《吾》の周りを《吾》の腐敗Gasが渦動する《吾》は、つまり、進退窮まった状態とも言ひ得るのである。《吾》を追ひ詰め続けた果ては、この渦動する《吾》が《五蘊場》にどかんと居座るのである。さうして、《吾》は《吾》に対してああでもないかうでもない、と自発的な渦動する《吾》の瓦解を願って已まないのであるが、哀しい哉、《吾》にはそんな力は備はってゐないのである。幾ら《吾》がのた打ち回らうが、最早渦動する《吾》に至ってしまった《吾》は、微動だにしないのである。自然界に起きた素粒子の「対称性の自発的な破れ」を、渦動する《吾》に期待しても無駄なのである。《吾》にはオートポイエーシス(自己作成)する力は、元元備はってゐないのは、《吾》がどう足掻かうが結局《吾》にしか為れぬ事で自明である。さて、それでは、そもそも《吾》は《吾》以外の何かに為らうとする意思を持ってゐるのであらうか。多分、此の世を生き延びて来た事からしてさう看做しても構はぬ筈である。が、しかし、《吾》はどう足掻かうが、《吾》は《吾》にしか為れぬのである。これを絶望と言はずして、何を絶望と言ふのであらうか。

――だが、《吾》は《世界》を弄繰り回せるぜ。

――しかし、それ故に《吾》は自滅の道を歩んでゐるかもしれぬではないか!

――だからかうして、《吾》は《世界》を弄繰り回す事は已められぬのさ。《吾》が変はれぬのであれば、《世界》を変へてしまへ、といふ実に安直な愚行で「脳内世界」を外在化させてゐる。つまり……。

――つまり?

――つまり、外圧には微動だにしない《五蘊場》で渦動を続ける《吾》は、もしかすると進化を已めてしまった進化の極致なのかもしれぬのさ。

――進化の極致? はっ、嗤わせないで呉れないかね!

――しかし、現に《吾》は、つまり、「現存在」としての《吾》は、「脳内世界」を辺り構はず外在化させていったのは間違ひない。

と、間歇的に《吾》が《五蘊場》の闇から容喙するのであるが、しかし、この自問自答といふ《もの》は、《世界》が《吾》に埋め込んだ時限爆弾なのかもしれぬのである。「《吾》は五分と同じ事を思考できない」、とは埴谷雄高の言であるが、思考は、乱数的に彼方此方とその志向の向きを変へて、同時多発的に幾つもの思考が《五蘊場》で重ね合ってゐるのが《吾》である。その点では《吾》もまた、波動の一種に違ひなく、つまり、量子力学の言ふ処の「重ね合はせ」を絶えず行ってをり、《吾》の意思統一、若しくは統覚は見果てぬ夢の如くに、はたまた邯鄲の夢の如くに明かな誤謬に違ひないのである。それ故に、この《吾》には絶えず曖昧模糊として、把捉出来かねる《吾》、つまり、《吾》が想定した《吾》から絶えず摂動するのが、これまた、《吾》の宿命なのである。

逃げる《吾》とそれを追ひかける《吾》の何時果てるとも知れぬ永劫の鬼ごっこは、《吾》が《一》とも《〇》とも為れぬ故に続く事になるのであった。しかし、これは徹頭徹尾自作自演の猿芝居でしかなく、猿芝居故に《吾》は臆面もなく自演出来るのである。つまり、《吾》は徹頭徹尾《吾》の擬態に過ぎず、何かに喰はれぬやうに《世界》に阿(おもね)る事で、生き延びて来たのである。ところが、何時かは自作自演の猿芝居は《吾》の内部告発により、終幕を迎へること必定で、つまり、《吾》が《吾》を騙し続ける事は、この羸弱な《吾》には端から出来っこないのである。《吾》を偽る《吾》は直におくびを出さずば、《吾》は《吾》に対して我慢がならぬのである。《吾》とは「先験的」にさうした《存在》なのである。そこで、《吾》は、《吾》に対して乾坤一擲の大博打を打つ外ないのが実態で、その博打は《吾》の存続を賭けた一大事なのである。つまり、《吾》は《吾》の化けの皮を剝す事に夢中になり、さうして《吾》暴きが彼方此方で執り行はれる様相を呈し、然しながら、《吾》が一皮《吾》の化けの皮を剝いだ処で、更なる《吾》の化けの皮が現はれるのが実相で、即ち、《吾》の玉葱の如き多層構造は、全く以ってFractalな造形をした何かであり、《吾》が《吾》の化けの皮を幾ら剝いだ処で、其処には泰然自若とした次の《吾》の化けの皮が現前するのである。さうして、

――くっくっくっくっ。

と、《吾》に対して不敵な嗤ひをその面に浮かべながら、《吾》を絶えず挑発し続けるのであった。さうなると此方は完全にお手上げ状態で、《吾》に対して、これ以上は追はぬといふ白旗を挙げて、不敵な嗤ひを化けの皮に浮かべる《吾》から退散するのであるが、今度は、鬼が入れ替はり、《吾》が化けの皮を晒す《吾》に執拗に追はれる羽目になる事は自明の理なのである。それ故に、《吾》は化けの皮を晒す《吾》から逃げる事を断念し、その《吾》に対して観念するのである。さうして、《吾》と対峙する化けの皮を被った《吾》はどちらの《吾》が「本当」の《吾》かの区別が出来なくなり、《吾》は二進も三進もゆかずに、唯唯、その場に佇立しては、果せる哉、天に向かって憤懣の言葉を喚き散らす外ないのである。つまり、前述したやうに《吾》の《五蘊場》には幾つかの思考が輻輳してをり、《吾》は此の《吾》であり、あの《吾》でもあり得、また、実際、そのやうにしか《吾》は此の世に《存在》しない筈なのである。つまり、《吾》はこれもあれも《吾》なのである。かうして、《吾》は《吾》の境を見失ひ、次第に《吾》は溶解を始めて、《世界》に溶け出すのである。さうなると、《吾》は恍惚の態で、白昼夢へと飛び込んだ如くに《吾》を見失ふのである。さうして初めて《吾》は《吾》に対する郷愁を覚えるのであるが、既に時遅く、《吾》は《世界》にまんまと騙されたのである。

――あっはっはっはっ。

《吾》は其処で哄笑の大合唱に見舞はれ、最早、打つ手なしと観念しつつも、《吾》は《吾》の内部に沈降するが如くに蹲り、更に身を縮めて、《吾》の内部に閉ぢ籠るのである。さうして、《吾》は石ころの時間が遅遅として進まぬ《吾》に為り果て、最終的に渦動する、しかも《神》無しには未来永劫渦動する外ない渦が、此の世に出現する事に為るのであった。

――へっ、つまり、《吾》は渦かね?

――多分ね。

――多分?

――多分としか言ひやうがないのさ。だって、《吾》ほど《吾》に関して無知な事は《吾》は嫌と言ふほど知ってゐるからね。この《吾》が《吾》に関して全く以って無知な事は異論はないだらう。

――ならば、《吾》とは一体何なのかね?

――単なる幻影、つまり、思ひ過ごしでしかないのさ。

――《吾》が幻影? そんな事は太古の昔から言はれてゐる事で何ら目新しい事はないがね。

――しかし、《吾》とは泡沫(うたかた)の幻影でしかない。それ故に《吾》は、一所懸命に生きるのだ。夢の、つまり、《世界》の裂け目を確かに見出だす為にね。

思へば、此の世は穴凹だらけなのかもしれないのである。《未来》あるいは《過去》へと吸ひ込まれるやうにしてあらゆる《存在》は《現在》に留め置かれ、さうして、《吾》は絶えず渦動するのかもしれぬのである。そもそも此の世のあらゆる《存在》は、時空間の穴凹の底であり、物体が《存在》すれば、時空間は歪み、穴凹として看做せてしまふのである。つまり、《存在》が此の世の裂け目を彌縫したその傷痕であり、《もの》の数だけ此の世は裂けてゐて、穴が開いてゐるのである。《存在》とは、穴凹の底の別称であり、此の世の裂け目の面なのである。ならば、「現存在」が此の世の不合理に無理矢理にも順応して変化した轆轤首は、此の世に開いた穴凹の底より脱出を試みた主体の残滓なのかもしれず、それは、例へるならば、蟻地獄に落っこちた蟻さながらの様相を呈しているに違ひないのである。蟻地獄に落っこちた蟻の苦悶にも似た命の危機に直面するその「現存在」の生き残る術は、当然、蟻地獄のやうな穴凹から這ひ出る事に似てゐる筈なのであるが、「現存在」が実体として《存在》する限り、時空間は歪み、《吾》そのものが時空間に開いた穴凹の底でしかないのである。しかし、首のみが伸び切った上に、自ら首をぶった切り、残された軀体を撲滅する事で浮遊する首のみとなった《吾》は、此の世の穴凹に落っこちて既に自由落下を始めて久しいのである。此の世に対して仮にふわふわとした感覚が少しでもあれば、それは既にその「現存在」が此の世に開いた時空間の穴凹に落っこちてゐる証左に過ぎぬのである。つまり、此の世は野間宏の『暗い絵』の有名な冒頭の息長い文に込められた穴凹と同様に此の世は穴凹だらけ、つまり、裂け目だらけに違ひなく、「現存在」とは、既にその裂け目に落っこちてゐる《存在》の謂ひでしかなく、《吾》はそのやうな何時果てるとも知れぬ自由落下にあるのが実相に違ひないのである。そして、大概の「現存在」はそれを「自由への飛翔」と誤謬してゐて、何の事はない、飛翔する《吾》といふ表象は、墜落した《存在》の謂ひでしかないのである。

さて、其処で《杳体》と言ふ私個人のドクサ(臆見)を引っ張り出すと、この《杳体》といふ《存在》の有様は《存在》に対する或る漠とした杳として知れぬ観念として、それは永劫といふ相の下での無理矢理に導き出した極限としての極値である事に気付く筈である。つまり、この事は何れの《存在》も最終的には杳として知れぬ《存在》、つまり、《杳体》へと解体する外ないのである。そして、「現存在」は、何時の時も、《存在》が《杳体》へと相転移するその中途過程を担ふべき《存在》として絶えず《現在》に《存在》する事を強要されるのである。現存するとは、《未来》と《過去》とが鬩ぎ合ひ、犇めき合ひながらの奔流に生じる羸弱な、そして微少な時空間のカルマン渦に違ひなく、さうしてこの泡沫の《存在》は永劫の相の下では何《もの》もその《存在》が解体されずにはをれず、また、それは杳として知れぬ《杳体》へと相転移するのである。これは例へば、《死》の別称でしかないといふ事も成立可能であるが、《生》若しくは《現在》に《存在》する《もの》にとって《死》は、その《もの》が《生》である限り未知な《もの》のままで、《死》とは徹頭徹尾《他》の《もの》でしかないのである。そして、《現在》において、時空間とは、杳として知れぬ何か未知の領域を必ず含有した何かとして《存在》、或るひは認識されてをり、そのやうにしか《世界》を知り得ぬ「現存在」は、《世界》が未知なる《もの》であるから《生》をわくわくとして生きるといふ一面がなくもないのである。《世界》が未知である故に《吾》はあれやこれやと思考するのであり、《五蘊場》の様相を激変させるのが《世界》の不可思議性なのである。仮令、人類が此の世を全的に微塵の隙間もなく理解出来たとして、つまり、《神》の「癖」を知り尽くし、さうして《神》を撲滅する事に完璧に成功したとして、それに歓喜するのは、論理的に合理的に《世界》のからくりを実証せしめたその張本人でしかなく、また、それを理解出来る《他》は限られた《もの》のみなのである。何《もの》も例へば「宇宙」の成り立ちに関して微塵の狂ひもなく、論理付けしてそれを実証出来た処で、それを言表するには専門用語を駆使しなくては、二進も三進もゆかない筈である。そのことは、現時点においても一般相対性理論や量子力学が万人に理解出来ないやうに、仮に《世界》の秘密が解き明かされた処で、その証明を理解出来るのは、多数派かと言へば、どう考へても少数派でしかなく、限られた専門家にしか理解不能な《もの》に為らざるを得ぬのである。つまり、現時点でも一般相対性理論や量子力学と言ふ此の世を物理といふ物差しで理解するべく、その材料は準備万端に揃ってゐるにも拘はらずに《世界認識》に関して、十人十色の状態を今尚拭い切れぬのは、此の世の摂理と言ふものはそれ程に語るに難しい《もの》で、結局、理論が理解できぬ多数の「現存在」は、経験値でのみで世知辛い此の世を生き抜いて尚、歓喜にある事が可能なのである。つまり、何とも理解不能な《世界》であっても、生き抜いたといふ事で、「現存在」は多分に満足なのである。つまり、多くの《吾》共にとってこの《世界》が未知なる《もの》といふ事は安寧を齎す根拠に十分為り得るのである。つまり、《世界》を隈なく認識出来たとして、《吾》の様相は変化するのか、といふ問ひにぶち当たる事になるのである。この問ひに対する答へとして当然と思はれるのは、どれ程此の《世界》が理解出来得たとしても《吾》の苦悩は軽減されない、といふ事である。今後、如何に文明が発展を極め、《吾》にとって《便利》になった処で、依然として《世界》も《吾》も杳として知れぬ《存在》として《吾》の実存を脅かし、また、立ちはだかり、さうして、そんな《吾》と《世界》の関係の中で、《吾》は、《生》へと縋り付く確率が高いに違ひなく、《世界》が隈なく知り得た故に自死する《もの》が出現した処で、それはそれとして《生》を選択し続ける《存在》にとっては、此の世を《生》き抜く事に、つまり、依然として《存在》する事に飽きる事なく、否、《生》に夢中になり、そして、無我夢中の中で、あっけなく《死》してゆくのである。そんな《存在》にとって《杳体》とは箸にも棒にも掛からぬ《もの》として、つまり、《存在》にとって此の世が未知である事故に、また、謎故に此の世に《存在》する森羅万象を《存在》に繋ぎ止めるその大いなる根拠となり、つまり、《杳体》といふ摩訶不思議な《存在》をでっち上げる事でのみ、此の世に《生》きる事は善な《もの》として《吾》に作用するのは、否定出来ぬの事なのである。

さて、それでは、《杳体》とは何ぞや、との結論を急く此の《吾》にとって《杳体》とは誠に都合がよく使ひ勝手が良い《もの》である事は一面では否定出来ぬのであり、或る時は《死》の面を被り、或る時は無慈悲に「現存在」を殺戮する《自然》のその凶暴さであり、それは、《吾》にとっては変幻自在な何かなのであり、さうであるからこそ、《吾》の《存在》する事の全的な責任は、その杳として知れぬ《杳体》の《存在》をでっち上げる事で、やうやっとその《存在》するといふ重圧に《存在》は堪へ得るのである。つまり、《存在》にとって不可避な孤独の中にある単独者にとって杳として知り得ぬ《杳体》の《存在》は、杳としてゐるが故に絶えず単独者の伴走者なのであり、その伴走者たる《杳体》は、何にでも変化する何かとして絶えず《吾》も《世界》も宙ぶらりんのままに置いておく優しさがある事は、いづれの《存在》も否定出来ぬ《もの》であり、多くの「現存在」の総意と言へるのかもしれぬのであった。つまり、科学に代表される客観的な論理で理詰めで幾ら《世界認識》の度が深まった処で、《吾》が《存在》する限り、《杳体》が《存在》するのは必然であり、また、杳として知れぬ《もの》が此の世に《存在》しなければ、《吾》は絶えず《吾》を推し潰さうとしてゐる《もの》の中で《生》き延びる事は不可能に違ひなく、《杳体》といふ《生》と《死》の緩衝材が《存在》する事で《存在》する《もの》は何とか此の世に《存在》出来得るのである。だからと言って、《吾》は《杳体》の正体を知りたいといふ欲求は抑へられる《もの》でもなく、《吾》は《杳体》を追ふ為に《吾》が《吾》を追ふといふ永劫に続く鬼ごっこを続けざるを得ず、その《吾》と《吾》との摂動により、《吾》の《生》の活力も生じ得、さうして、《吾》特有の《世界認識》へと到達するのである。つまり、それを一言で言ってしまへば、《吾》の《存在》の数だけ《世界》は《存在》し、それ故に《吾》は此の《世界》において《生》を選び得、また《生》の活力を得てゐるのである。当然、《吾》と《他》との《世界》の摺り合はせは必要であるが、それは、しかし、常に曖昧模糊とした《もの》でしかなく、裏を返せば、《吾》と《他》にとって《世界》が漠然と、渺茫とした《もの》であるからこそ、《吾》は此の《世界》を《生》き延びる事が可能となるのである。煎じ詰めれば、何の事はない、《杳体》とは《吾》の実存の尻拭ひをする便利屋の謂ひに外ならず、《杳体》なくしは、《吾》は一時も《生》き得ぬ共存共栄、否、共存共衰の、つまり、《死》へ向かって一直線に驀進する、つまり、其処には寄り道など全く《存在》せずに邁進する外ない《生》の余りに儚い様相が《存在》するのである。その《死》へ向かって一直線、つまり、最短距離の《生》を《生》きる《存在》のみが、此の世に何とか《存在》してゐるに過ぎぬのである。《生》を煎じ詰めれば、《死》への一直線の軌跡でしかないのである。それがどんなに紆余曲折してゐるやうに思はれ、また、他所からさう見られてゐてもである。それは、光が直進しか出来ぬ事と似てゐて、《生》は《死》へ直進しか出来ぬのである。それが宿命といふ《もの》に違ひないのである。

――へっ、それが結論かい? ちゃんちゃらをかしい! そんな事は誰もが既に知ってゐる事なのさ、ちぇっ。

(第三章終はり)

 

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