ぼんやりとした恐怖

 

そこはかとなく、心の奥底から湧いてくる幽かな感情は恐怖だったのかも知れぬ。

おれが此の世に存在することの意味を問ふ馬鹿はもうせぬが、

存在するだけで恐怖を感ずるのはとても自然なことなのかも知れぬと思ひつつ、

おれは意気地がなく、おれがここにあると断言できぬのだ。

 

その曖昧なおれの有様に業を煮やしたおれは、

おれを口汚く罵るのであるが、

そのMasochistic(マゾヒスティック)な好みは天賦のものなのか、

何ら苦痛に感ずることなく、

むしろ其処に快楽を感じてゐるおれがゐるのだ。

 

おれが此の世に存在することはそれだけでおれに恐怖を呼び起こす因として、

おれが仮に受け容れたとしてもこの幽かな恐怖はいつまで経っても消えぬだらう。

 

――それでいいのだ。

 

と、肯定するおれもゐなくはないのであるが、

だからといってこの幽かな恐怖から遁れることはなく、

いつも絶えずおれを追ってくるのが、この恐怖と言ふ感情なのだ。

 

おれがゐるといふこの認識はたぶん間違ってゐるのかも知れぬが、

それでもおれがあると言ふこの感覚は消せぬのだ。

消ゆるといふことに憧(あくが)れてからどれほどの星霜が消え去ったのだらうか。

しかし、夕日が沈むやうに消えたとして朝日が昇るやうにはおれは生き返りはしない。

その一方通行の死にいつでも憧れ、

魂魄が口から飛び出すやうに此の世に彷徨ひ始めるその刹那、

Thanatos(タナトス)を現象としては味はへるが、

此の世を彷徨ふこの意識はたぶん無いに違ひない。

あるのは、おれがあると言ふ感覚だけで、

おれの魂魄は満足できず、

それ故に彷徨ふのか。

 

それでも、そんな夢物語を思ひ描いた処で

いつでも死ねると言ふことのみを希望にして、

おれはかうして生き延びてゐるのだ。

 

――ちぇっ、下らねえ人生だな。

 

焦燥

 

何をそんなに急ぐ必要があるのか。

此の焦燥感は何ものも留めることはできぬのか。

それとも、このおれと言ふ存在に我慢がならぬのはまだ善としても、

おれが焦燥感に囚はれて、

無鉄砲なことを何時しでかすかと杞憂に囚はれているのか。

 

巨大な黒蟻の大群がおれを喰らふために襲ってこないかと

おれは恐れてゐるのか。

 

馬鹿らしいとは重重承知してゐるとしても、

おれは白昼夢を見ることが大好きなやうで、

巨大な蟻の大群がおれを狙ってゐることでしか生の感触を味はへぬこの不感症なおれは、

既にその巨大な黒蟻の大群に喰はれてゐるのかもしれぬ。

 

この幻視を以てしておれの存在の感触をおれは味はふ歓びに浸りながら、

喰はれ行き、そして虚空に消ゆるおれの行く末におれは歓喜の声を上げると言ふのか。

 

そして、其処にのみおれの求めるものがあると言ふのか。

 

喫緊に希求してゐるものは、

おれをして現はれる幻視でしかないのか。

 

それでは一時も生き永らへることはできぬといふことを知りつつも、

ブレイクのやうな幻視の世界を希求せずにはをれぬおれは、

ないもの強請(ねだ)りの駄駄っ子に過ぎず、

だから、世界はおれを中心に回ってゐるといふ傲慢な考へに何の疑念も抱けぬのだ。

 

幻視の世界は、つまり、おれなくしてはあり得ぬことが唯一の慰みで

さうして慰撫するおれの羸弱(るいじゃく)な有様は、

だからなお一層、巨大な黒蟻を欣求するのだ。

 

死んだ雀が大群の蟻に喰はれるやうに

おれも喰はれるといふ陳腐な幻想は、

しかしながら、おれに安寧を齎す。

 

何故にそんなに焦ってゐるのか。

おれが此の世に存在することに焦ってしまってゐると言ふのか。

それは、しかし、逃げ口上に過ぎぬのだ。

どんなに焦燥感に駆られたからと言って、

ちえっ、おれが巨大な黒蟻の大群に喰はれると言ふ幻視に埋もれることで、

おれが生き生きすると言ふ不条理に、

詰まるところ、おれは酔っ払ってゐるに過ぎぬのか。

 

それでいいのか。

 

と、自問するおれは、やはり、おれの存在を消すことばかりに執着するのだ。

 

乖離性自己同一障害といふ病

 

おれと言ふことに途轍もない屈辱を感ずるおれは、

もう手遅れに違ひない。

それを仮に乖離性自己同一障害と名付ければ、

この病はキルケゴール曰く処の「死に至る病」の変種に過ぎぬのかも知れぬ。

乖離性自己同一障害は果てることを知らぬ絶望におれを追ひ込み、

さうして死へと一歩一歩近付けてゆく。

もう、乖離性自己同一障害に陥ると、

その蟻地獄からは何ものも遁れられぬのだ。

 

だからといっておれはおれを已められず、

違和ばかりが募るおれをして生き長らへるおれは、

何時如何なる時もおれに対して猜疑心の塊と化すのだ。

 

近未来において、脳を丸ごと入れ替へ可能な時代が来たとして、

此の乖離性自己同一障害は治る見込みはないのだ。

これは屈辱しか齎らさぬが、

仮令、脳を入れ替へたところで、

その時はおれは「他人」になり、

最早乖離性自己同一障害の範疇から遁れるのだ。

 

意識が連続性を失ふ非連続的なものならば、

おれは少しは慰みを感じられるかも知れぬが、

意識は此の乖離性自己同一障害のおれにとっても

記憶が付随する形で自己同一を絶えず迫るのだ。

これが一番辛いのかも知れぬ。

記憶によって意識が連続的であると言ふその現象に、

おれは何時も戸惑ふのであるが、

おれを容れる容器たるおれの軀体は

果たして意識が全能性を欣求するその欲求を満たせるのかと言ふと、

乖離性自己同一障害のおれにとっては、

それは望むべくもなく、

意識は忌避すべきものなのだ。

 

とはいへ、意識を忌避できたとして、

おれがおれであることを認識する悪癖は、

決して治ることはなく、

そのことで自意識は芽生えてしまふのだ。

 

この堂堂巡りに終止符はなく、

死後も尚、おれはおれであり続ける筈なのだ。

それは頭蓋内の漆黒の闇が此の世に存在する限り、

その闇の中での発光現象の記憶が闇に刻み込まれてゐて、

闇が此の世に存在する限り、

おれはおれとして続くのだ。

これは何とさもしいことか。

 

 

 

 

 

 

 

連続は維持すべきものなのか

 

おれがおれであることを”連続”したものとして認識するおれは、

決定的に何かが欠落してゐると思へ。

 

それが此の世に対するおれの最高のもてなしなのだ。

おれが連続してゐるなんぞまやかしに過ぎず、

記憶といふ過去世の存在が辛うじて保たれてゐることで、

おれがおれであると無理矢理おれの悟性がおれをでっち上げてゐるこの現状は、

誤謬と思った方がいい。

 

そもそもおれと言ふ存在は既に解体されて、

その”死体”を晒してゐるぢゃないか。

 

主体の死屍累累の山は、

おれの過去世に堆く積まれて、

あったかも知れぬ主体の骸にその悍ましき怨念が宿ってゐる。

 

さて、時間は時間において衰滅するものなのか。

ならば、時間は非連続ではないのか。

 

かう問ふたところで時間の無駄なのかも知れぬが、

しかし、この問ひは非常に重要で、

時間が非連続なものであるならば、

認識論はその根底から崩れ去り、

そもそもおれが連続である根拠を喪ふ。

 

時間が時間において衰滅するならば、

それもまた乙なもので、

此の世が永続的でないことの証左が示され、

苦は少しは和らぐ筈だ。

 

諸行無常であることで、

救はれる主体と言ふ存在形式は、

全てが必ず衰滅するべきものであるといふことで

その存在の有様はやうやっと赦されるのだ。

 

その時、時間の連続性が担保されなければ、

存在の有様は一変する筈だ。

さうであって初めて

おれは生き生きと此の世で闊歩できるのだ。

 

びよーんと引き延ばされた時間に

思考が何回回転できるかで、

仮に主体の生存の秘訣が隠されてゐるとして、

回転が時間の本質にも関係してゐると無理矢理看做せば、

時間はその場合必ず非連続であり、

それが自然な見方だと思ふのだが、

実際、時間がびよーんと引き延ばされたかのやうに感じることはあって、

その時、過去の記憶が走馬燈の如く甦るSlow motion(スローモーション)の時の流れが現前するのだ。

 

時間は伸縮自在であることは経験から誰もが知るところであるが、

しかし、それが連続の根拠とはならぬのだ。

 

むしろ、時間もまた、非連続であることの方が”自然”で、

例へば生物が絶滅することが自明の理ならば、

時間もまた、絶滅し、

さうして遠い記憶は失はれてゆくのだ。

 

さて、時間が時間において衰滅するならば、

時間もまた非連続である可能性が高いと思はぬかね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誤謬する差異

 

数学が抽象的故に信頼を持ち得ると言ふ誤謬を

もう哲学者を名乗る以上は哲学者は気が付かなければならぬ。

 

何でも数学に還元する悪癖は、

哲学者によく見られる誤謬の一つなのだが、

抽象的でありながらとっても信頼できる典拠の一つとして

数学に全的に寄りかかる哲学的言説は殆どが誤謬であることにもっと敏感であるべきなのだ。

数学も煎じ詰めれば、世界解釈の一つの方法でしかなく、

数学的世界解釈が、思考の指針になり得るなどと言ふ傲慢は

世界に敷設された陥穽の一つでしかないのだ。

 

論理的なる言説を保証するのに数学が適してゐるといふこともまた、

哲学者の心に魔が差したとしか言ひやうがなく、

それ程に数学は魅力的なのだが、

しかし、数学は唯、世界をなぞってゐるだけに過ぎず、

新=世界を予感させることは皆無なのだ。

 

現=世界の解釈に世界をなぞるしかない数学に依拠する暴挙は、

堂堂巡りを論理形式の基礎としなければ、

その哲学的言説は誤謬の外なく、

また、数学に依拠をする哲学的言説は

堂堂巡りでなければ、それは虚偽的なる虚構としか言ひやうがないのだ。

 

哲学はお伽噺ではないだらう。

 

ならば、例へば、ドゥルーズの『反復と差異』は、

その微分を用ゐた数学的解釈が味噌なのだが、

しかし、それはとんでもない誤謬の根源で、

数学的な反復と差異で論理的な反復と差異を語るのは語るに落ちるといふものでしかなく、

数学的なる反復と差異はそれは永劫をも射程に入れたものなのであるが、

それは表記可能な”現象”若しくは”状態”であり、

しかしながら諸行無常といふ此の世の本質は全く無視されてゐるのだ。

 

つまり、哲学に数学的な言説を用ゐるのは、

此の世の原理を捻じ曲げて、若しくは無視することを意味し、

それが抽象的ならば尚のこと、

此の世の原理を無視する誤謬の哲学なのだ。

 

そんな単純な話でない、と言ふ半畳が此処で入ると思はれるが、

ドゥルーズは敢へて数学を誤謬して用ゐてゐて、

その”ずらし”に煙を撒かれる人は、

幸せな人に違ひないのだ。

 

数学は魅力的だが、その魅力に溺れる哲学者は、

Rail(レール)に敷かれた筋道を歩いてゐるのみで、

其処に独創はない。

 

哲学は、数学よりも先んじてゐる筈で、

数学が哲学よりも先んじてゐる世界認識は、

どの道、終着点が見えてゐて、

残るは解釈のみでしかない。

 

それにしても、数学は今や神話へと昇華してしまったのだらうか。

神をも恐れぬ数学がお通りだ、と

其処に智が蝟集してゐるといふのか。

 

造化を紐解くには象徴記号と数字の結晶ではなく、徹頭徹尾言葉である筈で、

それ故に”初めにLogos(ロゴス)ありき”な筈に違ひないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時間の矢なんぞ嘘っぱちである

 

時間を特別扱ひして、

それが虚時間だとしてもその有り様は一次元に収めてしまってゐるので、

其処から時間は”時間の矢”として表象されるのであるが、

時間は経過した差異により数値化される。

しかし、それが正しいと言ふ根拠は何処にもないのである。

 

時間は先験的な事象故にその表象は数直線的かつベクトル的であるのであるが、

時間もまた振動子として捉へることが自然なのである。

 

Analogue(アナログ)時計を例に出せば、

短針長針が時計回りで回ることで時間の経過が計れるが、

回転は振動以外の何ものでもないことは三角関数を知っている人であれば解る筈である。

デジタル時計は例えば古いところでは水晶の振動数により時間の経過を表してゐたのである。

つまり、時間の矢なんぞ嘘っぱちで、

時間もまた一つの振動子の連なりでできてゐると考へた方がとっても自然なのである。

 

なのに、何故か、時間は今に至るまでその表記は全く変はらず、

Δtといふ“差異”により数値化されるので、

其処には微分積分の這ひ入る余地が残されてゐたのであるが、

ニュートンも時間を先験的な事象とせずに

よくよく考へて時間もまた振動子と、つまり、ライプニッツの見方を少しでも取り入れれば、

物理学は時間に対して手出しができないやうな柔な学問になってゐる筈はないのだ。

 

また、現行の世界認識は時間を振動子として捉へれば、

全く変はる筈である。

時間を振動子として看做したならば、

世界認識は現行の世界として現はれる筈はなく、

別=世界、例へば渦巻きが此の世の一単位として立ち現はれ、

さうすると、自然は渦巻き相似体として存在するのである。

つまり、此の世は渦巻きが自然な在り方で、

何ものも諸行無常の宿命を背負って此の世にある渦巻きとするならば、

渦巻きは何時かは回転を止めて衰滅するのである。

つまり、時間もまた、衰滅する。

さうして、世界は屹立するのだ。

そして、世界もまた、ちぇっ、衰滅するのだ。

 

 

漸減

 

粘性や摩擦により状態が漸減することで

此の世はまともに機能することが此の世の摂理である。

漸減せずに慣性の法則が純粋に成立する世界は滅茶苦茶な世界であって、

何事も漸減しなければ、それは即破滅なのだ。

それを善としないのであるならば、

ゆっくりと命が死へ向かって漸減するのを俟つ迄もなく、

今直ぐに死んでしまへ。

それがお前の美学ならばそれもまた善し。

 

だが、大抵の存在は此のゆっくりと漸減し変容する存在に

時には我慢して折り合ひを付けてゐるものなのだ。

さうしなければ、存在が存続しないことを身を以て知ってゐるので、

齢を重ねるごとに命が磨り減り漸減してゆく事といふ現実を吾は受容するものなのだ。

 

さうして時時刻刻と存在の余命を削りながら、

存続することを選ぶ存在は偏に慣性の法則が純粋な意味で成立しない此の世の摂理を、

つまり、諸行無常に身を任せ、即ち他力本願のものとして、

不本意ながらも存在する事に恥じ入りつつも、

明日よも知れぬ吾が命が今日も存続した事に対して

一日の終はりには必ず胸を撫で下ろして、

私の力では何ともし難い他力を拝するものなのだ。

 

ふむ。何処ぞで鐘が鳴ってゐる。

 

ゆらりと揺れる此の身の行く末に対する祝福の鐘の音なのか。

ゆやーんとなるその鐘の音は、

それにしては寂し過ぎる。

へっ、もともと此の身の存在は寂しいものである事は百も承知とはいへ、

鐘の音こそが漸減するものの象徴ではないのか。

ゆっくりとしじまへと変容する鐘の音は、

消えゆく美学を表はしてゐる。

 

存在もまた、鐘の音の如く

最期には存在の残滓すら残さずに

無へと貫徹するものなのか。

 

ゆやーん。

 

漸減する鐘の音に吾が存在を重ねたところで、

それは結局は虚しいものであり、

ちぇっ、そんな事は結局忌忌しい感情を吾が身に残して

存在に対する憤懣となって吾が存在を自虐するだけなのだ。

Masochism(マゾヒスティック)な輩はそれはそれで悦楽を得られるかも知れぬが、

大抵の存在は、それに我慢がならぬのだ。

 

ゆやーん。

 

ええい、五月蠅い。

ちぇっ、鐘の音に対して八つ当たりをしたところで、

それもまた虚しいだけか。

 

いくつもの周波数が綯ひ交ぜになり、
心地よい音となって

ゆやーんと響く鐘の音は、

遠く遠くへと響いて行くのだ。

 

ごーん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

別れ話においての優柔不断

 

――はっきりと決めてください。

 

さう言って彼女は不意に別れ話を切り出した。

その刹那、おれは何にも決められぬ己の優柔不断に腹を立てながらも、

既に、彼女との別れを望んでゐた己の狡さを押し隠しては、

只管に黙して何にも語らなかったのだ。

 

――狡いのね。

 

ぎろりとこちらを見ながら彼女はさう言った。

何もかもお見通しか。

今更ながら知らぬ存ぜぬを貫き通すことは不可能といふ事か。

ならばと俺はぽつりと呟いた。

 

――あなたの好きなやうにしてください。

――本当に狡いのね。私が決められるわけがないぢゃない。さうやって何時もあなたは逃げてきたわね。

 

つまり、彼女はまだ、俺を好いてくれてゐたのであったが、

今のままの状態では最早二人の関係を続けてゆくことは不可能だ、と迫ってゐるのだ。

 

そんなことなど気が付かぬ振りをしながら、おれは彼女につれないまま、

再び黙して何にも語らうとしなかった。

 

この痴話話において、おれは、存在に触れることができたのであらうか。

彼女とおれの関係から何か目新しいものがあったのであらうか。

 

ふっ、これがおれのつまらぬところなのだ。

何事も大袈裟に存在に関係するものとして考へなければ、

事態が全く呑み込めぬおれは、

全く下らない人間で、

彼女が愛想を尽かすのも致し方ないことなのだ。

 

その上優柔不断と来てゐる。

これぢゃ、どんな人間だっておれに愛想を尽かすのは当然なのだ。

 

ところで、おれの思ひは決まってゐながら、おれは別れが切り出せぬ。

 

――私は安心してお付き合いできる人を探します。

 

へっ、おれは危険な人間なのか。

成程、確かにおれはおれに対してはとっても危険極まりない存在には違ひないとは思ふが、

事、他人に対しては人畜無害で、何にもありはせぬのだ。

しかし、差うおもってゐるのはおれだけなのかも知れぬ。

 

では何故、彼女は別れをここに来て切り出したのかと言へば、

それは、私の倫理的なる美意識に対して嫌悪しか催さなくなってしまったからだ。

その倫理的なる美意識とはなんぞやと問はれれば、

それは情動に溺れたいのにそれを圧殺し、

さうして情動の衝動に対して恥じ入るばかりの愚行を行ふ見栄を張るからなのだ。

衝動のままに性交がしたかった彼女にとって、おれの屈折した性的欲求は、

彼女の我慢がならぬ有り様であり、詰まるところ、彼女の欲求不満は憤懣へと昇華して、

おれをぶん殴らなければ、自分を正常に保てぬ自分が嫌ひで仕方がなかったのだ。

 

――もう、私の嫌な面を見たくないの。

 

さう続けた彼女は、私の頬を一発びんたして私の元から去ったのである。

 

其処で彼女を追へば、まだ、彼女との関係は続いたに違ひないが、

おれは終ぞ彼女を追ふことなく、

優柔不断のまま、黙して一歩たりともその場から動かなかったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

腰痛

 

ぎっくり腰か、

此処のところ腰痛に難儀してゐる。

それとも内臓に病気でもあるのか、

この腰痛はどうやら長く尾を引きさうだ。

 

しかし、動くことにさへ難儀してゐるこの状態を楽しんでゐるおれがゐるのだ。

不自由な自由を、不自由故に自由な状態を意識せざるを得ぬこの状態が何とも愛おしいのだ。

存在は不自由に置かれずば、自由の何たるかをちっとも考へぬ怠け者で、

たぶん、何万年も動けぬ事を強ひられる巌こそ、

むしろ自由の何たるかを知ってゐる筈なのだ。

さう考へると、おれといふのは何と恵まれてゐる存在なのだらうか。

 

例へば、眼前に一つの石ころがあるとする。

さて、仮におれの命が無限といふ寿命を与へられてゐるとすれば、

眼前の石ころはやがて風塵へと変容することは何となく予想が付くが、

さて、存在の変容はそれでは済まず、

風塵はやがて此の地球の消滅時、つまり、太陽が爆発するときに

強烈な高温に晒され、再び巨岩の一部に組み込まれるか、

または、元素が強烈なEnergyで変容を強ひられた別の重い元素に変はるかに違ひないのだ。

 

さうして輪廻しながら、存在はその本質すら変へながら、

これ以上自らでは支へられぬ不安定な物質に変容するまで、

重い元素へと変容をしつつ、そして、再びへ崩壊してゆくものなのだ。

 

つまり、無限の長さを一つの定規とすれば、

あらゆるものは何らかへと変容させられ、

其処に自由は決してあり得ぬものなのだ。

 

ならば自由は何処にあるのかと言へば、

それは内部にしかないのだ。

 

内的自由といふ言葉はもう擦り切れるくらゐ遣ひ古された言葉の一つだが、

皮袋で囲まれたこの内部といふ影、つまり、闇に沈んだ内的な場でのみ、

時空を飛び越えながら自在に思考を巡らせることが可能で、

これは森羅万象いづれも変はらずに持ち得てゐる《自由》の一つの形なのだ。

 

へっ、内的自由で妄想を飛躍させたところで、

現実は何ら変はらぬぜ、

と半畳を入れるおれは、

だから、と嘯くのだ。

しかし、とおれは呟き、

 

――しかし、内的自由での変容がなければ、つまり、内的自由での超越論的変容なくしては現実も変へられぬぢゃないか。

 

――超越論的変容?

――つまり、ご破算と言ふことさ。

 

腰痛にヒイヒイと言ひながらつらつらとこんな馬鹿らしい自己問答に勤しむおれは、

なんと自由なことか。

 

 

渇仰

 

飢ゑてゐる時ほどに寒寒と身体が冷えつつも、

眼光だけは鋭く、

何ものも逃してはならぬといふ覚悟の下、

おれはまだ、それを渇仰してゐるのか。

 

それとは所謂、素顔のおれなのであったが、

そんなものは既に鏡越しに見ている筈なのであった。

しかし、乖離性自己同一障害といふ病にあるおれは、

その鏡に映るおれらしき面に唾を吐き、

けっ、と軽蔑の目を鏡に映る面に向けて

おれは素顔のおれを渇仰せずにはをれぬのだ。

 

何をしておれはおれと言ひ切れる状況へとおれを誘ひ出すことが出来、

おれをその時に捕獲することが可能なのだらうか。

 

いつまで経っても此の飢ゑに対して堪へ忍ばなければならぬこの身の哀れを

おれはおれを渇仰することでいつもそれを先延ばしにしてゐて、

鏡に映る醜悪なるそいつを直ぐにでもおれと認めれば良いのに違ひないのであるが、

いつまで経ってもナルキッソスにはなれぬおれは、

鏡に映るそいつをしておれだといふ事には本質的な抵抗感があり、

おれはおれを着ることに対して嫌悪を覚えてゐるのである。

 

ならばと、おれは鏡を抛り出しては、

おれといふものの素面の妄想に勤しむのであったが、

それは闇の中で進化を遂げた醜悪なる深海生物の妄想に等しく、

妄想の産物といふものが如何に醜悪であるかに関しては、

今更言ふに及ばず、

おれもまた、深海生物の如く異形の者として

此の世に屹立してゐるかもしれぬのである。

 

さっきからおれ、おれ、おれ、と言ってゐるそのおれは、

では一体全体何であるのかと問ふてしまふと、

それは野暮といふもので、

見事におれを逃がしてしまふおれは、

逃げゆくおれを追って頭蓋内の中では全速力で走ってゐるのであるが、

出口がない其処では、

きっとおれを捕まへられると

高を括ってゐるのであるが、

どうして、おれは金輪際、おれといふものを捕まへたことはないのである。

 

何故にかと言へば、

頭蓋内の闇、つまり、おれ流に言へば五蘊場は闇であり、

闇は無限を引き寄せる端緒になってしまふのである。

つまり、おれの素面は無限と言ふ広大無辺の中で自在に逃げ回り、

これまた金輪際、おれと出くはす馬鹿はせずに、

くっくっくっと気色悪い嗤ひ方をしながら、

おれの馬鹿さ加減を高みの見物を決め込んで見つめてゐるに違ひないのである。

 

そんなことには全く構はぬおれはといふと、

闇を木を彫るが如く彫りながら、何かの面を闇から彫り出すのであるが、

そいつがおれが待ち望んでゐたおれの素面とは限らず、

おれは陶芸家が失敗作を叩き壊すやうに

その闇を彫って出来た素面を叩き壊すのである。

 

さうして少しは鬱憤を晴らすのであるが、

肝心のおれの素面は一向に見つからず、

おれはのっぺらぼうとして此の世を彷徨ふ化け物の仲間入りをしてゐることに今更ながら気が付くのである。

 

早く人間になりたい、といふAnimation(アニメーション)があったが、

正しく現在のおれが現存してゐるのであれば、その言葉のままに存在してゐて、

おれは現在もまだ、人間になり切れぬまま、此の世を彷徨ふのか。

 

 

至福

 

何に高揚してゐたといふのか。

人生のどん底にありながら、

思考は固着し、

感情の起伏は消え、

何に対しても感情は平坦なままのそんな状況下で、

おれは絶えず高揚してゐたのだ。

 

どん底といふものは一度味はってしまふと、

もう落ちやうがなく、

とはいへ、それは底無しの絶望と背中合はせだったのだが、

おれはしかし、高揚してゐたのは確かなのだ。

 

ぼんやりと一日が過ぎてゆくだけの日常において、

おれに残ったのは、埴谷雄高と武田泰淳とドストエフスキイの作品の残滓であったのだが、

しかし、おれはそれで既に至福だったのだ。

既に論理的なる思考など出来なくなって錯乱状態にあったおれは、

あれほど大好きだった哲学書は最早読めず、

文章も一文すら書けなくなったその時にこそ、

至福であったのは間違ひないのである。

 

何が絶望のどん底にあったおれをして高揚させ、至福の中に置いたのか。

生きる屍と化したおれではあったが、

それでも生のみは離さずに、

何とか生き延びられたおれは、

そんな状況下において馬鹿らしい希望でも見出してゐたといふのか。

 

いや、あの頃のおれに希望は全くなかったのだ。

それ故におれは至福であったと言へるのだ。

絶望のみの中にあると、人間は呆けてしまひ、

恍惚としてゐるものなのだ。

だからと言ってあの頃に戻りたくもないが、

しかし、あの頃の至福に比べると現在は、至福とはほど遠く、

白濁した絶望がこの小さな胸奥に棲み着いてゐる。

 

そして、その白濁した絶望はといへば

性器をピストン運動させて夢精する如くに吐き出せれぱ、

きっと虚しいおれが登場するのみなのだ。

 

しかし、それで良いではないか。

それが至福といふものなのだ。

 

 

十六夜の夜に追ひ込まれて

 

吸ひ込まれるやうに

女の裸体にむしゃぶりつきながらも、

心ここにあらずのおれがゐた。

 

それでも女の裸体から発せられる媚薬の匂ひに誘はれて、

男性器はおれの虚ろな心模様とは別に勃起しながら、

しっかりと女を悦ばせることには長けてゐるのだ。

 

さうして何とも名状し難い虚しい性交を繰り返しながら、

十六夜の夜は更けてゆく。

 

女の裸体を見てしまふとどうしても抱かずにはゐられぬだらしがないおれは、

さうやって時間を潰し、

既に夢魔にどん詰まりまで追ひ込まれてゐる強迫観念にも似たその感覚に対して

おれは夢魔に挑戦状を投げつけたのだ。

 

――う~ん。

 

と喘ぐ女に対しておれは、尚も腰をふりふり女の子宮を男性器で突き上げるのであったが、

女が性交に没入すればするほどにおれは反吐を吐きさうになるこの矛盾に、

苦笑ひを浮かべて、更に膣の奥まで男性器で突き上げるのだ。

 

怯へてゐるのか。

あの夢魔に対しておれは怯へてゐるといふのか。

へっ、と自嘲の嗤ひを浮かべては、

その悪夢を振り払うやうに悶える女の恍惚の顔を見ながら

 

――来て~え。

 

といふ女の言葉を無視するやうに

おれは更に強烈に腰を振りながら、

女が失神するまで待ってゐるのだ。

恍惚に失神する女ほど幸せなものはないに違ひないが、

しかし、女といふものは、子を産んだときほど美しいときはないのだ。

さうと知りながら、焦らしに焦らしておれは女が失神する様を見届けたかったのだ。

 

成程、さうすることで、夢魔のことが忘れられると錯覚したくて、

おれは愛する女を抱いたに違ひなかった。

 

心ここにあらず故におれの射精は遅漏を極め、

何度も女は失神しては、

性器と腹部をびくびくと痙攣させながら、

それでもおれの腰使ひには反応するのだ。

 

夢魔よ、お前は今も尚、百年前には通じた神通力が今も通じるなんて思ってやしないだらう。

それを確かめたくておれはお前に挑戦状を投げつけたのだ。

 

今度は何時おれのところにやって来るのか。

その時こそがこのどん詰まりまで追ひ詰められたおれの呪縛を解放する契機となるのだらうか。

 

さて、おれは一体何に追ひ詰められてゐたのだらうか。

と、そんなとぼけたことを思って女の性器を突いてゐたのだ。

 

おれは既におれの世界の涯へと追ひ詰められてゐて、

おれの世界認識の誤謬に脳天を叩かれた如くに

あのにたり嗤ひを浮かべた夢魔にその誤謬を指摘され、

何にも反論出来やしなかったのだ。

それが仮令夢の中の出来事とはいへ、

おれの世界認識は間違ってゐたのか。

 

――あっあっあっあ~あっ。

 

愛する女は声にならない喘ぎ声を絞り出すよやうに

おれの射精を待ってゐた。

かうして性交をしてゐる男女こそが世界の端緒であり、

かうして 世界は生れるに違ひないのだ。

 

「ほらほら」

 

と、まだまだ射精するにまでには興奮出来ないおれは、

一度、女性器から男性器を抜いて、

女性器を嘗め回すのであった。

 

――いや~ん。

 

と性器をびくつかせながら、

女は泣き喚き、

 

――来て。

 

と懇願しては、

性器を更に濡らせて、

おれの性器の挿入を待ちわびるのだ。

 

これでは女が可哀相と思ったおれは、

再び男性器を女性器に挿入して、

今度は射精するつもりで腰を更に強烈に振りながら、

無我夢中で女の口におれの口を重ね合はせながら、

息絶え絶えの女の喘ぎ声に刺激され、

やうやっとおれは射精出来たのだ。

 

――あっあ~。

 

その時である。

あの夢魔が現はれたのは。

 

さうして、おれは煙草を銜へては夢魔をぶん殴ったのだ。

しかし、夢魔は尚も似たり顔でゐたが、

夢魔の内心は混乱を極めてゐた筈なのだ。

その証左に夢魔は無言でおれを怯えたやうにして見てゐたのであった。

 

――仮令、おれの世界認識が誤謬であらうと、おれはそんな世界の存在を肯定するぜ。

 

 

 

魔の手

 

奇妙な皺を刻んだ其の手は、

老人の手のやうであったが、

いきなりおれの胸ぐらを掴んではあらぬ方へと抛り投げた。

 

おれは、あっ、といふ声すら出せぬままに、

その魔の手が投げつけた場へと投げ捨てられ、

暫くは狼狽してゐた。

 

やうやく人心地がつくとゆっくりと辺りを見渡し、

此処は何処なのかと探りを入れるのであるが、

ちっとも見当が付かぬところなのであった。

だからといって、何か異形の者がゐるかと言ふとそんなことはなく、

唯、広大無辺な時空間ががらんと存在するのみで、

おれは独り広大無辺なるものに対して対峙する使命を課されたのであった。

 

それは途轍もなく寂しいもので、

誰もゐない時空間と言ふものは、

ぼんやりとしてゐるとそのまま時間のみがあっといふ間に過ぎゆくところで、

魔の手はおれを何のためにこんなところに抛り出したのか、

と思ひを馳せてはみるのであるが、

それを問ふたところで、何か意味あることになるのかと言ふと、

否、としか言いやうがないのであった。

 

そもそもおれが魔の手と呼んだその皺が深く刻まれた手は一体何者の手であったのだらうか。

 

――翁だよ。

 

といふ声が何処ともなく聞こえてきたのであるが、

その翁とは一体全体何ものなのか、

無知なるおれには解らぬのであった。

それでも、もしかすると能のシテの翁なのかとも思はないこともなかったのであったが、

それでは何故、能のシテの翁がおれをこの広大無辺にだだっ広いだけのがらんどうの時空間へと抛り投げたのか、

全く意味不明で、脈絡のない出来事なのであった。

とはいへ、現実はそもそも脈絡がないものが輻輳してゐて、

それを脳と言ふ構造をした頭蓋内の闇たる五蘊場が後付けで意味づけして記憶のより糸にして紡いでゆくのであったが、

それでは記憶が何時も正解かと言ふとそれもまた間違ひで、

記憶といふものは何時も間違ひを犯すものというのが相場なのである。

 

それでは魔の手は何者の手だったのか。

 

此処でおれは神と言ふ言葉を思ひ浮かべるのであるが、

殆ど神なんぞ信じてもゐないおれが、神などと言ふ言葉を思ひ浮かべる愚行に、

おれは自嘲混じりの哄笑を挙げるのであった。

――馬鹿が。

 

何処ぞのものがさうおれに怒鳴りつけると、

おれはびっくりとして首をひょこっと引っ込めて、

亀の如くに振る舞ふのであったが、

其の様が吾ながらあまりにもをかしかったので

おれは

 

――わっはっはっ。

 

と哄笑するのであった。

 

ならば魔の手は何者の手なのか。

 

それとも蜃気楼だったのか。

 

そんなことはもうどうでもよく、

おれはすっかりとこの広大無辺なるがらんどうの時空間に馴染んでしまってゐて、

独りであることがもう楽しくてしやうがない状態に高揚してゐたのであった。

 

何故高揚してゐたのたであらうか。

 

それは世界がおれにおれであることを強要しないその広大無辺なる時空間の在り方が、

おれを心地よくさせて、酔っ払った如くにおれを高揚させるのであった。

 

――嗚呼、世界は真はこのやうにあったのではないか。それを現存在の都合がいいやうに世界を改造して返って居心地が悪い世界へと変質させてゐるからではないのか。

 

――ちぇっ、下らねえ。

 

と魔の手の持ち主が欠伸をしながら言ひ放ったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

欠伸をせしものは

 

ぼんやりとしてゐると

何ものかが

 

――ふぁっ。

 

と欠伸をしてゐるのにも気付かずに、

微風が頬を掠める仄かな感触にはっとする。

その感触は、といふと、実に気色が悪いもので

闇の中でそれとは知らずに頬に蒟蒻が触れる気味悪さにも似て

絶えずおれの触覚を刺激しては、

ぶるっと覚醒させるのだ。

 

気味が悪いといふことが生のダイナモとして機能してゐる健全さを

一時も忘れてはならぬのだ。

 

――そもそも吾と言ふ存在が気味の悪い存在ではないのかね。

 

さう問ふ欠伸をせしものは、

おれの存在をぞんざいに扱ひながら、

また、厄介者が来たとでも思ってゐるに違ひないが、

そのおれはといふと、ぶよぶよとした世界の触感が

堪へられぬのだ。

こんな気色が悪い世界の感触に堪へられる存在が果たしてあるのであらうか。

世界は鋭角で魂へ切り込むぴりぴりとしたものでなくてどうする。

 

ぶよぶよとした世界の感触に悩まされながら、

おれは其の絶えず揺れてゐるぶよぶよの世界の中で、

独り確実な存在としてあり得るのか。

 

何か、世界の胃袋の中にゐるやうなこの気色悪い感触は、

おれが世界の中で存在する限り、

遁れられぬものなのか。

 

いつかは世界に消化され、

世界の血肉へと変化するおれと言ふ存在は、

正直なところ、このぷよぷよしたものが本当の世界の感触なのかどうか解らぬのだ。

 

 

赤裸裸に

 

何ものも素面であると言ふ此の世界は、

何ものも赤裸裸にその存在を表出してゐるのといふのか。

それともお互ひに対して畏怖を以て赤裸裸なることを強要されてゐるのといふのか。

 

何ものも諸行無常の中にぶち込まれ、

赤裸裸であることでやうやっと正気を保ってゐる存在どもは、

赤裸裸なることに残虐性を見、

さうして此の世の道理に従属させられ、

赤裸裸なることを何ものも強要されてゐると憎悪をもって世界を認識してゐる。

 

をかしなことに存在は既に世界に蹂躙されてゐて、

尚更に存在は此の世界に対する憎悪を益して、

それはそのままに憤怒に変はり、

何時世界に対して復習するかと、

其の算段のみを生き甲斐として存続する存在を、

世界は増殖してしまってゐるに違ひないのだ。

 

世界は終ぞ内部崩壊を始め、

其処に存在する者どもは、

 

――わっはっはっ。

 

と、哄笑の大合唱を轟かせながら散華する。

さうして吾をも崩壊する地獄絵図に身を投ずる覚悟のみは既にできてゐるといふものだ。

どの道世界が崩壊すれば、存在どもは一時も存続できる筈もなく、

世界諸とも吾も入滅する故に道理は道理であるのであり、

それ故に、何ものも赤裸裸にあるのは、

此の世界に入滅する覚悟の程を見せるために、

素面でその存在を赤裸裸に曝すのだ。

 

さうまでせずば、存在する値打ちがないと看做すのが此の世の道理なのだ。

 

哀しい哉、存在は残虐な世界なくしては一時も存続できぬものなのだ。

残虐な道理。

これこそ、もしかしたならば、存在どもが手に入れたいもので、

それ故に存在どもは世界に嫉妬してゐるのだ。

 

赤裸裸にあれとは、誰が言い出したかは解らぬが、

存在どもが勝手に世界に対して恐怖を感じ、

それを鎮めるためにのみ存在どもは赤裸裸にあるに過ぎぬ。

 

 

言霊の残る国において

 

国旗に文字を書くのは多分この極東の島国の人間のみだと思ふ。

他国では国旗に文字を書くなんて禁忌なことで全く考へられないことなのだらう。

つまり、日の丸には魂が宿り、また言葉にも魂が宿る、

つまり、言霊信仰が根強く残るこの極東の島国で、

国旗に文字を記すのは、己の思ひを日の丸に宿すといふ行為に外ならず、

文字がびっしりと書き込まれた日の丸を見ると、

その持ち主に対する人人の思ひの重さが一目瞭然なのだ。

 

多分に言霊はこの極東の島国では存在し、

それは先験的なものの眷属に属するものなのか。

言葉が消費する言葉としては簡潔できぬこの極東の島国において、

思ひの外、言の葉は重く、

多分にこの極東の島国の文字には石に文字を刻印するに等しい労力と重さが、

今以て文字に託されてゐるに違ひないのだ。

 

この極東の島国において発話(パロール)する言葉よりも遥に書き言葉(エクリチュール)に重きが置かれてゐて、

一度書き記された文字には人の念が宿り、

その念を受け止められるのが例えば日の丸と言ふ国を象徴するものに相等しいものとして認知され、

また、Personal computer(パソコン)に打ち込まれた言葉でさへ、

それが印字とされる段になると

それは或る厳粛な儀式に等しく、

紙に記されし言の葉は、

既に魂が宿るものへと変化してゐて、

其処に人の思ひが宿ると無意識に感じ取ってゐるのが

この極東の島国に住む人人なのだ。

 

ならば、かう書かう。

 

吾、此の世に存在せし故に非在の陥穽に騙されし。

故に、吾、存在と非在の間(あはひ)に揺れるものとして認識されしなり。

それが正しいとか誤謬とかの問題を超越して。

 

アイロニーな存在でありたい

 

誤謬であることを承知しながらも

それを呑み込みながら、

おれの存在を存続させるアイロニーに自嘲しつつ、

それでいい、と自分に言い聞かせながら

おれは心底アイロニーな存在でありたい。

 

しかし、アイロニーは苦悶することを齎すが、

捻ぢ切れる己の有り様に嗤ひながら、

おれは此の世に屹立するのだ。

 

何を嗤ってゐられるのか。

それはおれが全身誤謬で成り立ってゐるアイロニーに

納得してゐるからに違ひない。

 

それでは何故納得できるのかと自問すれば、

此の自問する吾と言ふ存在が既にアイロニーな存在としか言ひ様がないのだ。

 

しかし、アイロニーと一口に言っても、

その苦悶の程は計り知れず、

おれは絶望の底に落とされても

おれが誤謬で出来てゐることは換へやうもなく、

もう居直るしかないのだ。

 

多分、誤謬に真理は隠されてゐるかもしれぬのであるが、

真理を求める虚しさにおれは既に疲れてゐる。

それは、真理が青い鳥のやうに思へ、

真理は何気ない日常に両手から零れ落ちる程に転がってゐて、

それに気付かぬのは馬鹿であるのであるが、

正しく俺はその馬鹿の一人で、

日常に苦悶しか見えぬおれは、

盲人にも劣る存在でしかないのだ。

 

ならば、と開き直るおれは、

アイロニーなることをそれでも辛うじて肯定してゐて、

其の捻ぢ切れる思ひはどうしようもなく、

唇を噛んで堪へ忍ぶ外ない。

 

アイロニーは誤謬ではなく、

存在が存在するための必要最低条件の天賦のもので、

それは先験的なものに違ひなく、

おれがアイロニーから抜け出せることは先づない。

しかし、それでいいのだ。

 

 

意識の居所

 

緩やかに眠気が襲ふ中、

さて、意識は何処にあるのであらうかと自問す。

果たせる哉、意識は頭蓋内の脳と言ふ構造をした五蘊場にあると言ふのは

単なる先入観でしかなく、

気があるところに意識は遍在してゐるに違ひない。

それといふのも第一に触覚が意識の大分を占めてゐるからだ。

触覚が薄れる眠気の中において意識はやがて朦朧として、

触覚が不覚になるとともに眠りに就く。

眠りに就いたならば、

触覚は全く働かず、火傷をしてゐても何にも感じないのだ。

その間、意識はといふと、夢遊に遊んでゐる。

例へば火事で焼死するといふ事例が後を絶たないのは、

眠ってゐるときには意識は既に夢の中で、

それはもう意識とは言へず

意識は雲散霧散してゐて、

それを敢へて名指せば、

意識を攪拌しての意識の溶解、

つまり、気の分散に感覚は不覚状態に陥り

意識は感覚を捉へることに悉く失敗するのだ。

 

この意識と感覚の脱臼関係は、

例へば焼死といふ悲劇を招くが、

一方で、この意識と感覚の脱臼は、

夢中と言ふ得も言へぬ悦楽に自我を抛り込むのだ。

 

此処で我慢できずに無意識と言ふ言葉を使ひたい欲求を感じるのだが、

無意識は、断言するが、ないのだ。

無意識といふ言葉は意識を語るための逃げ口上に過ぎぬ。

意識は溶解と凝固を繰り返し、

気を集めては霧散しながら、

感覚に繋がり、脱臼するのだ。

 

そして、感覚は不覚と覚醒を繰り返し、

やがて睡眠状態に陥る。

 

其は統覚をぶち壊し、

自我を自縛する意識、もしくは気の蝟集、否、輻輳を溶き、

存在を溶解させし。

其を吾は意識の脱臼と呼びし。

 

 

 

 

 

 

 

 

渺渺と

 

時に意識を失ふことがあるが、

その時の渺渺たる感覚は何処に源泉があると言ふのだらうか。

既に無意識なる言葉を信じてゐないおれは、

その時の意識状態を意識溶解と呼んでゐる。

 

何処までも膨張する意識と言ふのか、

其は何と呼べば良いのか。

敢へて言へば、其は無限に溶暗した意識。

 

――さあ、飛翔の瞬間だ。意識は肉体から溢れ出し、無限へと、渺渺と確かに存在する。其は無意識を食ひ破り、肉体の束縛を食ひ千切り、無限へと拡大膨張し、渺渺たる本源の吾を解放する。さあ、踊らう。夜が明け、意識が戻るまで。

 

行方知らず

 

おれの心は何処へ行ってしまったのだらうか。

何時の間にか行方知らずになってゐたおれの心は、

ふらりふらりと此の世を彷徨ってゐるといふのか。

 

心が抜けたこのおれは、

何の感情も湧くことなく、

無表情に此の世をぼんやりと眺めてゐる。

哀しい哉、心此処に無しと言ふ事態は緊急事態なのだ。

ところが、おれはといふと行方知れずの心に何の執着もなく

この抜け殻状態の肉体を満喫してゐるのだ。

感情が無いといふこの状態は案外と平安で、

おれはいつもよりも落ち着いている。

 

案外、心は不必要なものなのかも知れず、

へっ、

――心あっての人間だらう。

との半畳が聞こえてくるが、

しかし、人工知能の有用性を鑑みれば、

心の無い人間と言ふのもまた、此の世にとってはとっても有用に違ひない。

 

それでは行方知らずのおれの心は、

何処へ行ってしまったのだらうかと

おれはやうやく重い腰を上げてウロウロと探し始めたのであるが、

そんな簡単に見付かる筈がないのは言ふ迄もない。

 

傍から見れば、これは 全くの喜劇なのだらうが、

当の本人にとっては至って真剣で、

行方知らずの心が戻らぬ事態は、

余程おれが心に嫌はれてしまったのだらう。

 

一体おれは何をしたのだらうか。

唯、おれは自己弾劾をしただけなのに、

それに反旗を翻しておれの心は何処かへと姿を消してしまったのだ。

 

ゲリラ戦でもおれに対して挑むのだらう。

それに対しておれは無防備で、また、戦う気力が最早ないのだ。

 

この闘いは既に勝敗が決してゐるのであるが、

行方知らずのおれの心は、

おれが殲滅されるまでゲリラ戦を挑んでくるのだらう。

 

そんなおれは既に白旗を揚げたてはゐるのであるが、

そんな偽装に騙される筈もないおれの心は、

おれが徹底的に痛めつけられ嬲られて初めておれの元に返ってくるに違ひない。

それまではおれはこの心無しと言ふ平安をゆっくりと楽しもう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

薄明の中で

 

夜と朝の間(あはひ)の薄明の中、

死んでしまったレナード・コーエンの歌を聴きながら、

世迷ひ言のやうに腹の底から奇声を上げ、

それでお前は満足かね、といふ問ひに薄笑ひを浮かべつつ、

おれは、この軟体動物にも為れぬおれを断罪するのだ。

 

何をしておれはおれを断罪するのかと言へば、

それは、おれが既に存在してゐる罪悪感からに過ぎぬのであるが、

しかし、この罪悪感は底無しで、

おれをその穴凹に突き落とすのだ。

 

低音が心地よく響くレナード・コーエンの歌声が導くやうに

おれは底へ底へと引き摺られながら、

おれが大好きな蟻地獄の巣に陥ったかのやうに

この穴凹の主に喰はれるおれを想像しては、

底知れぬ歓びに打ち震へる。

おれは、おれの存在の抹消を或ひは冀(こひねが)ってゐるのかも知れぬが、

だからと言って死に急いでゐる訳でもなく、

何時かは必ず訪れるその死を楽しみに待ちながら、

おれは、矛盾してゐるとは言へ、

生を楽しんでゐるのだ。

 

へっ、この穴凹を嘗てはNihilismと言ったが、

おれは今以てこのNihilismの穴凹から這ひ出る術を知らぬのだ。

頭のいい奴は既にNihilismを超克し、

新=人として此の世に屹立してゐるのであらうが、

おれは白痴故にこの穴凹から出られずに、

羽根をもぎ取られた蜻蛉の如く

此処から飛び立つことは出来ぬのだ。

 

ゆらりと薄絹の蔽ひが揺れた。

美は薄雲とともに蒼穹に消え、

醜悪のみが此の世に残されたのか。

 

きいっ、といふ鳥の鳴き声。

薄明の中、空には真白き小鷺の群れが飛んでゐる。

 

揺らめく薄絹の向かうに

死者の顔が浮かんでゐる。

 

女は真っ裸でおれが抱きつくのを待ってゐるが、

穴凹の中、

色恋に溺れる度胸はない。

 

直に日の出を迎へるこの薄明の中、

おれは白痴なおれを嗤ふに違ひなく、

おれの吐く息で薄絹は揺らめき、

おれが世界から断絶してゐる事を思ひ知らせるのだ。

 

ならばと酒に溺れて羽化登仙し、

一時このNihilismの穴凹から抜け出した夢を見る。

 

軽さは存在するには絶対必要条件。

重力に捕まっちまったおれは

天を蔽ふ薄絹を掴まうと

手を伸ばすが、

その無様なことと言ったら

醜悪以外の何ものでも無い筈だ。

 

薄絹が流れはためく。

 

そして、天道様は微睡みを齎すべく今日も昇る

 

 

 

 

 

 

正座

 

己の意識に対峙するときは正座するべきだ。

脚の痺れを感じつつも正座することで脳天は冴え渡り、

おれの脳と言ふ構造をした頭蓋内の漆黒の闇たる五蘊場で意識は覚醒するのだ。

 

これは対人の場合も同様で、正座することは最低の儀礼なのだ。

儀礼は最低の礼儀としておれの存在を担保してくれる。

これは意外と大切なことで、存在を担保されないといふ事は

忸怩たる思ひに駆られるもので、

また、不安に駆られて猜疑心ばかりが増殖するのだ。

 

さうして正座し対峙する己の意識、または、対人において、

おれはやうやく腹を据ゑてその場に存在してゐる感覚を味はへる白痴もので、

だからこそ、おれにとって正座は丸腰ながらも最高度の攻撃態勢で、

ぎんぎんと輝いてゐるだらう眼窩の目玉をぎろりと動かしては、

おれは内部、または、相手を睨み付ける。

これは既におれの癖となってゐて、

これに対して、おれの内部、または、相手は何時も驚きの表情をその相貌に浮かべ、

相手もまた、おれをぎろりと睨み付ける。

さうして険悪な雰囲気にたちまちその場は変容して行き、

さうなってこそおれも相手も己の本音をぶつけ合へる関係になり、

独りでに己の存在を意識せざるを得ぬのだ。

それが本当の対座といふもので、

これを一歩も譲ってはならぬのだ。

此処で、足を崩して相手に弱みを見せてしまふといふことは、

おれの敗北でしかないのだ。

高が、座るといふ事に勝敗を決める白痴ものなおれは、

さうせねば、全く存在を自覚出来ぬ不感症なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

たゆたふ

 

揺れる世界の正弦波にたゆたふおれは、

一体何なのだらうか、

と言ふ、とっても古びた自問をおれに投げかけずにはをれぬ馬鹿らしさに

些(いささ)かうんざりはしてはゐるのであるが、

それでも投げ掛けずにはをれぬおれの羸弱(るいじゃく)さに苦笑しつつも、

それに真面目に答へようとしてゐるおれがゐるのもまた、確かなのだ。

 

月光が南天からその幽き蒼白き光を投げ掛ける時、

世界の揺れ具合は丁度最大を迎へ、

その大揺れにたゆたひつつも、

おれは、おれの位置を恬然と意識するのだ。

 

世界に流されてゐるに違ひないおれは、

世界にたゆたふと言ふこれ程の至福の時を知らぬが、

その心地よさと言ったならば、

世界とおれが丁度よく共振してゐるその至福感に優ものはないのだ。

それは「世界におれが溶ける」といふ比喩が正しく相応しいもので、

サマーセット・モームの何とももどかしいおれといふものの存在の定義づけとは別物で、

それは全宇宙的な出来事に等しいものに違ひないのだ。

 

さう、全宇宙的な出来事が将にこの身に起きてゐるのだ。

おれは世界にたゆたひながら世界と共振し、

さう、世界との合一感に身を委ね、

無限と言ふ此の世で最も不可思議なものに触れたやうな錯覚に陥り、

恍惚の状態で、彼の世へと片足を踏み入れてゐるのだ。

其のやうなTrance状態のおれは、

音楽に酔ひ痴れてゐるのとは訳が違ひ、

まず、意識が痺れ始めて、

己といふものに我慢がならず、其処から憧(あくが)れ出る魂魄のやうに

球体と化したおれの意識は、おれから幽体離脱し、

おれを眺めながらも恍惚の態で彼の世に脚を踏み入れながら、

意識を失ひつつあるおれは、

それで善、とそのまま恍惚状態に全的に没入し、

正弦波で大揺れの世界と全くの差異がない同一感に歓喜を覚え、

世界の波の一部と化したおれのその溶解した様に形振り構はずに

かっかっ、と大笑ひを上げるのだ。

 

それはそれは得も言へぬ恍惚感であり、

其のTrance状態は、

宗教的でもあり、また、存在論的でもあるのだ。

当たりは荘厳(しゃうごん)に蒼白く更に輝きを増してゐる事にすら気付かずに

只管恍惚感に没入するおれは、

最早おれと言ふ位置を失ひ

世界の意識と化した如くに譫言を喚き散らし、

最早おれの手綱では制御不可能な状態におれは陥り、

正しく死へと一歩、二歩と脚を踏み入れてゐる違ひゐなかった。

 

其はそもそも夢なのか。

邯鄲の夢に等しきものなのか。

 

たゆたふ世界はしかし、永劫に続くことなく、

共振の正弦波は、再び渾沌の状態ヘと推移し、

無数の波へと分解するのだ。

そして、おれは、夢から醒めたやうにぐったりと汗びっしょりになりながら、

世界との隔絶を思ひ知らされるのだ。

嗚呼、何たる不幸。

 

やがて全てを理解したおれは、

苦笑ひをその無表情な顔に浮かべつつ、

おれのちっぽけさに、サマーセット・モームとは別物のものとして

意識せざるを得ぬのだ。

 

 

 

 

 

重い足取りでも

 

ぐしゃりと空に押し潰されるやうにぶっ倒れ、

意識はしつこい睡魔に呑み込まれ、

それでも立たうと気力を振り絞り、

重い足取りで一歩一歩と前へと進もうとするが、

最後は案山子の如くに大地に脚を差し込んでも立ち上がるその姿勢のみ、

おれはおれに対して許せる傲慢な存在なのだ。

 

追ひ込まれれば追ひ込まれるほどに

執拗にそれに抗ふ馬鹿なことをするおれは、

もう逃げ道がないところでも、

まだだ、と無駄な足掻きに一縷の望みを託しつつも、

それが儚い事とは知ってゐるおれは、

当然ぶっ倒れて卒倒する事になるのだが、

それでも藁をも掴む思ひのみで、

前のめりにぶっ倒れるのを本望としてゐる。

 

それが何の足しになるのかなどとは全く以て知らぬ存ぜぬが

さうせずには、おれがおれであることが恥辱であり、屈辱なのだ。

 

――だが、さうせずともお前は既に恥辱に堪へられぬではないか、けっ。

 

屈辱であればこそ

 

吾が心の奥底に巣くってゐる屈辱と言ふ感情は、

然し乍ら、おれをおれたらしめてゐる情動へと変化し果ててゐて、

屈辱を砂糖黍を囓るやうにしてそれに対して甘い蜜の味を知ってしまったおれは、

最早、己に対する屈辱なくして生きる術を知らぬ生き物へと変態してしまってゐるのでした。

 

これはどうも皮肉なことにとても居心地がいいもので、

屈辱は既に屈辱といふ汚名を返上してゐるのです。

だからといって、常におれが存在する時に疼く心の痛みはちっとも減らぬのですが、

それも愛嬌と自虐的に納得してゐるおれは、

甘い汁を搾り出すためにおれはおれをぶん殴るのです。

 

この屈辱感からのみおれの内部から止めどもなく湧いて来る蜜の味は、

蟻があぶら虫から譲り受ける甘い汁にも似て、

おれの生きる糧になって、もうかなりの時間が経ってしまったのでありました。

 

時に「白痴」と罵られる快感に酔ひ痴れる屈辱の時間こそ、

おれが望む最高の享楽の時間に変はり果ててゐて、

その馬鹿さ加減は言ふに尽くせず、

とはいへ、白痴のみが生きることを許されるのが

此の世の道理と半ば諦めにも似た感慨に逃げ道を見つけましたおれは、

屈辱なくしては一時も生き延びられぬ生き物へと

とっくの昔に変化(へんげ)してしまってゐるのです。

 

かうして開き直ったおれは、最早怖い物なしの状態なのかも知れぬのですが、

しかし、屈辱を屈辱として感じる時間を持たずば、

窒息するかもしれぬおれは、

ラヴェルの「ボレロ」を聴き乍ら、

渦巻く情動の高鳴りに大いなる屈辱を呼び起こされるのでした。

 

何を偉さうにとはいへ、ラヴェルの才能に嫉妬するおれは、

情動が渦巻く言説を少しでも書き綴る事が出来たのかと自問するのですが、

おれは今以てラヴェルに匹敵する情動が渦巻く渾沌の世界を

表現出来た例しがないのは確かで、

また、能楽のやうな幽玄なる世界の表現も遠い夢のまた夢に過ぎぬのです。

しかし、夢語りを極度に嫌ふおれは、

現代では既に夢に思想を託す神通力はないと看做してゐますので、

夢を材料に物語られる話こそ反吐が出る代物でしかないのでした。

 

つまり、夢では簡単に短絡が起きてゐて、

世界が整理整頓されたとても秩序だった世界に成り変はっているから嫌ふのです。

夢では何事も肯定されると言ふのは、つまり、夢が既に世界の一解釈の結晶で、

それを物語られてもこちらとしては面食らふだけで、

その完結してしまっている夢世界におれが入り込める隙などないのです。

 

真黒き悪夢がありまして、

それを叩き壊すおれがゐるのでした。

さうせずには此の世を語る言葉など見つかる筈もなく

世界に対して失礼極まりないのでした。

 

真黒き悪夢がありまして、

それを叩き壊すおれがゐるのでした。

 

さうして叩き壊した悪夢には、

無秩序が蔓延って

渾沌が生れるのでした。

 

それ見たことかと誰(た)がいふのを耳にし乍ら、

おれは夢を破壊することにある種の快楽を見出すのでした。

 

然し乍ら夢破壊は自然に反することで、

記憶は夢世界のやうに全的に肯定され得る堅牢な秩序の中にありまして、

それ以外に正気が保てる術はないのでありました。

それは夢が現実世界より簡略された秩序世界であって、

現存在の五蘊場は簡略化、然もなくば抽象化された世界認識しか入れる度量がなく、

渾沌は忌み嫌うべきものに成り下がってゐるのでありました。

 

真黒き悪夢がありまして、

それを叩き壊すおれがゐるのでした。

 

さうして叩き壊した悪夢には、

無秩序が蔓延って

渾沌が生れるのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

思念の行方

 

溝川(どぶがは)の底のヘドロから鬱勃と湧き上がるメタンガスの気泡が水面でぽっぽっと破裂する音のやうに

思念は私といふ名のヘドロから鬱勃と湧くメタンガスの気泡であって、

思念は五蘊場で幽かな音を発しながら、

然もなくば幽かな光を発しながら私を呑み込むものなのです。

 

もしも思念が私を呑み込んでゐないと言へる現存在がゐるとするならば、

それはその現存在が己を知らぬばかりか、己が白痴といふ事を認めてゐる証左でしかないのです。

それといふのも、思念は無辺際に膨脹するもので、

それを成し遂げてゐない現存在は、まだまだ未熟で私を知らぬ赤子にも劣る馬鹿なほどの存在なのです。

それを他人(ひと)は「無垢」と呼ぶのかも知れませんが、

此の世界は無垢であることを存在に許さないのが道理で、

無垢なことはそれたけで悪なのです。

 

それならば赤子はそもそも無垢ではないかと言ふ半畳が聞こえてきますが、

そんなことはないのであります。

赤子とて此の世界に存在する以上、無垢である筈はなく、

生き延びる戦略として赤子は大人よりも相対的に無垢なだけであって、

赤子の無垢な事は、それはそれは余りにも知略戦略を凝らしたもので

羊水の中に漂ふ悦楽を知ってゐる赤子が無垢な筈がないのであります。

その証左に赤子は泣いて生れてくるではありませんか。

それは羊水での居心地の良さを知り尽くしてゐる赤子だからの事なのであります。

此の世界に生まれ出た赤子は羊水の中よりも此の世界が良いところならば何も泣く必要はないではありませんか。

また、泣くのは肺呼吸を始めたからと言ふのは理屈に合ひません。

肺魚が肺呼吸をするときに泣かないのと同じやうに赤子が此の世に生まれ落ちたその時に肺呼吸をするからといって泣く必要は全くないのであります。

或ひは此の世に生まれ落ちてしまったことに吃驚してしまったとも言へるのですが、

さうなのです。

此の世は吃驚するような魑魅魍魎が跋扈する邪に満ちた世界なのであります。

その魑魅魍魎が跋扈する此の世だからこそ現存在は思念を宇宙の涯まで、

否、宇宙の涯を超えてまで膨脹せずば一時も生き延びられないのであります。

世界に対峙するといふ事はさういふ事なのであって、

邪に満ちた世界に佇立する現存在は、

昼夜を問はず太虚を見上げては、若しくは虚空を見上げては

思念を宇宙の涯へと飛翔させ、

この脳と言ふ構造をした頭蓋内の闇の五蘊場に宇宙を丸ごと呑み込めなければ

世界に押し潰されるのみなのであります。

哀しい哉、現存在は此の世に比べれば塵芥に等しき存在でありますので、

思念で以てこの世界、否、宇宙を丸ごと呑み込まなければならないのであります。

 

幾世代の現存在がありまして、

此の世は何時も現存在を丸呑みしようと手ぐすね引いて待ってゐるのでありました。

然し乍ら、現存在は、それに対抗するべく、思念で以て此の世を丸呑みするのでありました。

その第一歩が私を思念が丸呑みする事なのでありました。

 

水鏡

 

微風が戦(そよ)ぎ漣が立つ水面(みなも)に映る真夜中の太虚に心奪はれ、

ぢっとそれを凝視しながら、

――これが此の世の涯に違ひない。

と、思はずに入られぬその美しさが映へる水鏡は

此の世の涯の仮象を確実に、

そして、精確に見せてゐる筈だ。

 

さうして何をも映す水鏡に此の世の涯を仮象するおれは、

水鏡に要らぬ期待を持ってしまってゐるのかもしれぬが、

此の世の涯が鏡だとするおれは、

何をも映す水鏡こそ此の世の涯の景色を具体的に見せる存在だと思ひ込みたくて、

偏執狂的に水鏡を偏愛してゐるに違ひないのだ。

 

一陣の風が吹き、

水鏡にまた漣が立つと、

それを重力波の如くに見立てる癖があるおれは、

波立つ水鏡こそがやはり此の世の涯の写しに違ひないと思へて仕方ないのだ。

太虚に昇る十六夜の月が水鏡に映るその景色は、

現存在が見る此の世の涯の具象に過ぎず、

此の世の涯はおれの隣にあるかも知れぬのだ。

おれがゐる場所が宇宙の中心だと言ふ考へは、

誰しも持ちたがる現存在の悪癖だが、

現存在がゐる場所が宇宙の涯であっても何ら不思議ではないのだ。

天動説から地動説へのコペルニクス的転回は、現存在の意識にはまだ、起きてはをらず、

意識的に天動説と思って初めて現存在は、己が宇宙の中心だと言ふ思ひを捨てられるのだ。

 

ともするとおれは宇宙の辺境にゐるかもしれず、

それはそれでとっても面白い事に違ひなく、

それでこそ水鏡が此の世の涯といふ証左にもなり得るのだ。

 

見とれるほどの美しき太虚は、水鏡に忠実に映され

おれは尚も水鏡を凝視するのであるが、

それが仮象であっても

おれは一向に構はぬと思ってゐる。

 

やがてくる死を前にして

この水鏡の美しき太虚の姿を抱くだけで

おれは本望を遂げるのだ。

其の仮象を抱けただけでも幸せといふもの。

 

再び、一陣の風が吹いて水鏡には漣が立つ。

此の世を波が輻輳する場であるとするならば、

水鏡こそがそれに相応しく、

幾つもの波が重ね合はせられて、

不思議な文様が其処に浮かび、

Topologyの相転移が正しく起きてゐるのが水鏡の水面なのだ。

それを美と言はずして何を美と言ふのか。

秩序と渾沌の境を見せる水鏡の水面では、

それでも太虚が厳然と映ってゐるのだ。

揺らぐ此の世は正しく水面の世界に等しきもので、

水鏡に魅せられぬ存在があるものなのだらうか。

 

 

潰滅するものたち

 

自らを自ら生み出せぬままに潰滅するものたちは、

己にのめり込むやうにして自らが自らの内部へと向ひ、

さうして最期は、無限小の中へと潰滅するのか。

 

潰滅するものたちは、

多分、外部と言ふ概念を知らぬままに、

内部へと進軍するのであるが、

それはまた、内部と言ふ概念も持たぬに違ひない。

ただ、闇雲に突き進んで、

ドストエフスキイが『悪霊』のモチーフとした豚が悪霊に取り憑かれて湖へと突き進み飛び込む聖書の一節ではないけれど、

何かに魂を捕まれたかの如くに内部へと突き進むことに取り憑かれて、

己をマトリョーシカの人形のやうに、

内部へと内部へと小さくなりながら推し進める推進力のみを授けられ、

それが赴くままに、内部へと掘り進めて行くに違ひないのだ。

 

さうして、内部が腐った古木のやうにして、

ある時それはポキリと折れて斃れるのだ。

 

それと言ふのも、内部に滞留するばかりの潰滅するものたちは

やがて腐敗を始めてもそれに気付かずに

唯、取り憑かれたかの如くに内部へと押し合ひ圧(へ)し合ひしながら、

仕舞ひには蒸発するやうに此の世から消えてなくなるのを常としてゐる。

さうして始めて潰滅するものたちは吾を探し求め始めるのだ。

その様が膣と男根とのピストン運動で放精され子宮にある一つの卵子目掛けて吾先にと争ふ精虫どもにそっくりなのさ。

 

吾、此の世にありて、さうして見出せしものなのか。

 

さうして、たった一つの精虫が受精に成功するやうに、

潰滅するものたちの死屍累累とした死体の山は、堆く積まれ、

その中の一つの潰滅するもののみ、外部へと生み出される筈なのだ。

さうして、潰滅したものは甦り、形相を授けられるのだ。

 

――ならば、質料も勿論ひっ付いてゐるのだな。

――勿論。だが、質料は最低10年と言ふ歳月がかかるやうに出来てゐる。

――何故に?

――世界認識をするためさ。

――世界認識?

――さう、世界認識するために世界を味はふには時間が必要なのさ。

――それで、世界は解った奴がゐるのかい?

――いいや。

――飛んだお笑ひ種だな。

――だが、世界が終焉する時を何ものかが凝視する筈だ。それに期待をかけてものは子を産み、世代を繋げて行くのさ。

 

 

ゆっくりと

 

むくりと頭を擡げたと思ったならば、

そのものはゆっくりと此方に向かってきたのです。

それはなんと言えばいいのでせうか、

私を引っ掴まへて食べたがってゐるやうに思へたのです。

これはいかんと、私は逃げやうとしたのかもしれないのですが、

時は既に遅きに失してゐて、

私は既にそのものに掴まってしまってゐたのです。

なんと頓馬なのでせうか。

そのものは態態(わざわざ)ゆっくりと私に近付いてきたのですが、

私は逃げるどころか気が付けばそのものの方へと駆け出してゐたのです。

私は「喰はれる」といふことを身を以て知りたかったのかも知れません。

何時も喰ってばかりゐた私は、

その事に負ひ目を感じてゐたのでせう、

喰はれるものの哀しみや悦楽をこの身を以て味はひたかっただけに過ぎないのかも知れません。

確かに喰はれることにも哀しみばかりではなく、

大いに愉悦の状態にまで高まる止めどない感情が急激に湧いてきて、

恍惚の態で私はそのものに喰はれたのです。

それはそれは天にも昇る愉悦の状態だったのです。

一瞬にして私は、知ってしまったのです。

喰われること、つまり死するといふ事は抑へられぬ愉悦の状態に包まれながら、

死んで行くといふ事を。

一噛みで首を噛み切られた私は、

一瞬の恐怖を感じたのかも知れませんが、

後は光芒の国へと逃亡を始めたのでせうか。

抑へきれぬ恍惚の感情が私を呑み込み、

私はそのものに喰はれる間、

薄れ行く意識を抱いてその恍惚の思ひの中で死んでいったのです。

それは私には嬉しかったのです。

 

その私はと言ふと、

私はニンゲンと呼ばれるものの眷属なのです。

これまで数数の悪事を働いてきた眷属の一人で、

何をも喰らってしまふ雑食性の生き物だったのです。

そんな私が喰はれることは体よく言へば自己犠牲と思はれるかもしれませんが、

全くそんなにことはなく、

単なる自分の興味本位の行為だったのでせう。

毎日喰ふことに負ひ目を感じてゐた私は、

何かに喰はれるやうにと毎日望まぬ日はなかったのです。

それが到頭やってきたのです。

こんなに嬉しいことはないではありませんか。

私はそのものがむくりと頭を擡げたのを見た刹那、

途轍もなく嬉しかったのかも知れません。

漸く私が待ち望んでゐた存在が私の目の前に現はれたのです。

私は一瞬怯んで逃げようとしたのかも知れませんが、

それは思ひ留まり、

私は喜び勇んでそのものの方へと駆け出したのかも知れません。

その時の行動を残念ながらはっきりと覚えていないのです。

唯、私は恍惚の中、ゆっくりと薄れゆく意識の中で、

死ぬことができたのです。

これ程幸せなことはないでせう。

さう、私は此の世で最も幸福な存在だったのかも知れません。

喰はれることがこんなに嬉しいこととは思ひもしませんでしたが、

私はしかし、その事を薄薄気が付いてゐて、

そのものが出現するのを今か今かと待ってゐたのでせう。

私は本懐を遂げたのです。

 

 

独断的なる五蘊場試論 その一

 

命題

表象は存在の現実との軋轢が五蘊場に現はれたものである。

 

証明

ゆらりと揺らぐ表象世界に巨大な波が存在するのは自明であると看做す。

その波の発動は、然し乍ら、外部世界、つまり、現実世界との軋轢により齎されるものである。

それは、而して五蘊場が自己組織化してゐる場として看做してゐるがためである。

そもそも五蘊とは色・受・相・行・識といふ仏教用語であるが、

吾、物質的存在たる色をも含めての脳と言ふ構造をした頭蓋内の漆黒の闇を五蘊場と名付けし。

それは脳がそもそも物質的なる存在故のことである。

五蘊場なる考へ方は物理学的な場の理論からの要請であるが、

当然此処には統計神経力学、神経場理論、そして自己組織理論をも射程に入れた独断論的な言葉の強要が存在する。

それでも尚、五蘊場と言ふ言葉が有効であるとする根拠は、

統計神経力学、神経場理論、そして自己組織理論から食み出るものが厳然と存在するからである。

例えばそれは、心と言ふ呼び名で呼ばれてゐるものであるが、

それは魂と言ひ換へてもまた間違ひないのである。

そして、五蘊場は、心の数理論化をも射程に入れてゐて、

仮令、心が数理論化されようが心を現存在は制御出来ないからである。

また、人工知能が心を持たうが、その心は現存在の心の後追ひでしかなく、

絶えず最先端を行くのは現存在の心、つまり、心の発現場である五蘊場なのである。

 

さうして存在はいづれも内部を持ってゐる。

故に内部と外部の軋轢は避けようもなく、

その軋轢が内部においては刺激となり、

それが電気信号へと変換され、

刺激として五蘊場に齎される。

その信号が五蘊場の何かを刺激して内部のみで完結する内部世界が創られて、

それが外部世界、つまり、現実世界と衝突し始める。

さうして初めて現存在は外部のなんたるかを認識し始めるその端緒となるのである。

その時内部世界、つまり、表象は大いに揺さぶられ、

表象において世界認識の矯正を強要される。

 

故に表象は現存在の現実との軋轢の五蘊場での現はれである。

そして、現存在を抽象化、つまり、普遍化を無理矢理行ひそれを存在に言ひ換えると命題の証明となる。

故に表象は存在の現実との軋轢が五蘊場に現はれたものである。

 

 

位置

 

珈琲を淹れながらもおれは絶えず空の重さを感じながら、

双肩にのし掛かるそのずしりと重い圧力に押し潰される恐怖にたじろぐおれを宥めるやうにして

おれはおれの位置に屹立する。

 

ところが、己の位置から食み出す瞬間といふものはあるもので、

淹れ立ての珈琲を畳に座って啜りながらも空の圧力で

おれはおれから圧し出され、

元に戻らうとするのであるが、如何せん、それが空の仕業であることから、

おれはおれの位置を見失ひ、

さうしてひっくり返るのだ。

そのとばっちりで机上に零れてしまった珈琲がぽたぽたと机の端から畳に落ち行くその雫を凝視しながら

然し乍ら畳の上に倒れたおれは意識闡明して、

つまり、気絶することで意識を失ふことはなかったのであるが、

しかし、金縛りにでもかかったのか、

ぴくりとも動くことは出来なかったのである。

皮肉なことにそれがおれの正しき位置なのかもしれず、

つまりは空が許したおれの位置なのだ。

 

だが、おれはおれの自立的なる位置に戻らなければ

空に一生服従することでしかおれの位置を確保することは無理で、

おれの自由なんぞは夢のまた夢でしかない。

 

おれの位置に、つまり、おれが珈琲を啜りながら座ってゐた畳の上に

再び座ることでしかおれの位置は確保出来ぬのだが、

其処が果たしておれの本当の位置かどうかはどうでもいいことなのだ。

唯、おれは空の圧力に屈する不甲斐なさに抗ふべく、

おれは全く動けぬも藻掻き足掻くのだ。

 

何故におれはその時全く動けなかったのだらう。

 

おれの位置から食み出たおれは、

多分におれが望んでゐたことなのかも知れず、

それを空の所為にしているだけなのかも知れなかったが、

だが、空の圧力は本物だったのだ。

 

さて、畳にひっくり返ったおれは、

だだただ考へることのみをしてゐた。

最後は内的自由のみがおれに許された砦なのだ。

其処におれの位置を見出したかったのか、

おれは只管に考ることに徹してゐたが、

内的自由なんぞは気休めにしかならず、

やはりおれはまた畳の上に

座らなければならぬのだ。

 

この呪縛から放たれる端緒は何処にあるのか。

 

気が付けぱおれはひっくり返ったままに眠ってゐた。

それが皮肉なことにおれの最大の抵抗の姿勢だったのだ。

動けぬならば、寝ちまえとばかりに大鼾(いびき)を掻きながらおれは眠ってゐた筈だ。

ざまあ、とばかりに空に対して大鼾を放ちながら、

空にとっては耳障りな轟音を放ったのだ。

 

その時、天籟が聞こえておれは目が覚めた。

さうしてやがて嵐が来るに違ひなかったが、

やはりおれはまだひっくり返ったままなのだ。

 

おれの位置から食み出たおれは、

最期までおれの位置には戻れぬかも知れぬが、

それもままよとばかりにおれは今あるおれの状況を肯定したのである。

すると何の事はない、おれはすんなり動けて、

また、畳の上に座ることが出来たのだ。

一体何だったのだらうか。

おれはまた此の世におれの位置を見出し、

自由に動ける開放感を味はひ尽くす。

此の世で自由に動けることは付与のものではなく、

おれがおれの位置にゐることのみで可能な、

つまり、空の圧力に屈しないだけの強靱な肉体を持つもののみに許された

後天的なる潜在力なのだ。

 

おれにはおれの位置がある。

而して、それは双肩で空の重さを担ひながら、

おれがぐしゃりと潰れぬ限りにおいてのおれの位置なのだ。

 

それになんの偶然が存在すると言ふのか。

おれが此の世に存在するといふことは偶然ではなく、

必然として此の世が選んだ位置がおれの居場所なのだ。

其処から食み出る時もままあるが、

哀しい哉、それも余興と愉しむ外ないのだ。

 

がらんどうの胸奥は

 

生きることで精一杯な日常においても

それはおれの空虚ながらんどうの胸奥に棲み着き、

海胆(うに)の如くに棘だらけのそれは

いっつもおれの胸奥を突っついてはおれを鼓舞するのだ。

おれの胸奥ががらんどうなためにそれは何時もカランコロンと転がってゐて、

おれの胸を締め付ける。

さうしておれは己を奮ひ立たせてはチクチクとする胸奥のざわつきに舌打ちしながら、

「へっへっへっ」と嗤ってそのざわつきを遣り過ごすのだ。

その時の後ろめたさと言ったなら、

噴飯物で、おれは瞋恚で顔を真っ赤にするしかないのだ。

 

さうする内にがらんどうの胸奥はがらんどうの頭蓋内といふ表象、

つまり、晒し首の頭蓋内の表象と結びつき、

何となく中有を思っては、

成仏出来ずにこの地上を彷徨ってゐる亡霊共に呼応するやうに

己に対する呪怨に対して目が眩むおれは

己をぶん殴る勢ひで胸奥に棲み着いてゐるそれに対して

――もっとおれを突っつけ。

と、嘯くのだ。

 

それがおれの胸奥に棲み着いた海胆の如き棘だらけのそれに対する

唯一の抵抗の姿勢なのだ。

 

 

曙光

 

光の国への誘惑は

死を意味するのか。

地平線からの曙光は

冷たい輝きをしてゐた。

 

年が明けるといふことに対して反射的に

一休宗純が正月に

――ご用心、ご用心。

といって街を練り歩いた髑髏を思ひ浮かべるおれは

死への直行がめでたきこととして刷り込まれてゐるのだ。

さうでないと平衡がとれない思考の持ち主として

既に偏執した存在様態をしたおれは、

それだけで危ふい。

 

曙光に死の匂ひしか嗅ぎ取れぬおれは、

やはり、間違ってゐるに違ひない。

が、しかし、それでいいとも思ってゐるのだ。

きらりと眩い曙光を浴びながら、

死を思ふおれは、

その寒寒とした曙光に憧(あくが)れる。

 

ざくりと霜柱を踏みしめながら、

それを次第に溶かして行く筈の曙光は、

しかし、おれの心は凍てつかせるのだ。

 

この寒寒とした光の中で、

おれは死へと止まらない歩を進めるのみ。

 

美しい女性の顔が去来しては

ひっひっひっ、とおれを嘲笑ふ。

 

ならばとおれはその美しい女性と熱い口吻をする。

 

そこにはさて、愛は転がってゐただらうか。

 

 

破綻してゐる夢神話

 

もういいぢゃないか。

夢に何かを背負はせるとはこの時代、酷といふ外ないではないか。

例へば夢の中で何か現実世界で解決できなかったものが

夢の中ではすらすらと解決できた数理論的問題があったとしても、

それは夢に纏はる神話などではなく、

既に解決の糸口を意識の周縁では見通せてゐたのが

たまたま夢の中で具現化しただけで、

恰も夢がそれを解決したなんて思ふ時代は疾に去ってゐるのだ。

 

誰もが夢に対して期待してしまっちまったから、

夢は不本意ながらも膨脹せずにはをれず、

到頭破裂しちまった。

その夢の残滓に夢を託しても最早夢はお手上げなのさ。

それが何時まで経っても解らぬ現存在は

尚も夢に鞭打って夢を酷使してゐる事に全く気付かず、

夢の神通力を未だに信ずるといふフロイトの悪しき因習が生き残っちまった。

フロイトは罪作りで、

夢解析などと言ふ子供騙しを

つまり、恰も夢が現存在の意識と無意識に深く関与してゐるなどと言ふ事を

訳知り顔で言ってのけたために、

誰もがそれを真に受けて夢には神通力があるなどと言ふ夢神話を

荘厳に作り上げてしまったが、

そもそも無意識なんぞはありもしない嘘っぱちで、

あるのは意識のみなのだ。

無意識と呼んでゐるものは、

思索の逃げ道でしかない。

 

思索に沈潜したならば、

鬱勃と内奥で湧いてくる言の葉を拾ひ集める地道な作業をする事でのみ、

苦悩を苦悩のままに遣り過ごす術を身に付けられるのであって、

言葉に為らずに無言のままに内奥に潜伏したままの言の葉をも

沸き立つのを待ち続ける忍耐が必要なのであって、

無言を無意識と取り違へる誤謬は

「フロイトの陥穽」に落っこちるのみで馬鹿を見るだけなのだ。

 

静寂(しじま)は決して無意識なんぞではなく、

それは存在する既知のもの、

つまり、時空間と同様の先験的なものなのであり、

フロイトが重要視した無意識は既に論理的に瓦解してゐるのだ。

おれは心理学も精神分析学もこれっぽっちも信じない。

何故って、それが嘘っぱちだからさ。

 

 

闇の中の影踏み

 

夕暮れの中で自分から食み出してしまふおれは

夕日で矢鱈に長く伸びる影のやうに

どうしようもなく食み出た自分を追って

影踏みをする如くに歩を長く踏み出すのですが、

自分から食み出た自分はおれが一歩踏み出すごとに一歩逃げ行き、

何時まで経っても捕まらないのです。

 

自分との鬼ごっこほど屈辱的なものはないと知ってゐるおれは、

何時までも自分との鬼ごっこをしてゐる訳にも行かず、

――もうこれまで。

と自分に何時も感(かま)ける自分に忸怩たる思ひと恥辱を感じながら、

おめおめと自分から逃げ出すのです。

――いっひっひっひっ。

と嘲笑ふ遠目にゐる自分をそのままにしておき、

おれは夕暮れの中で、

酒をかっ喰らひ自分の恥辱と敗北感を酔ふ事で有耶無耶にし、

沈む夕日に瞋恚しては吾ながらまたもや自分を見失ふ事で事足りるのを善とするのです。

 

すっかり泥酔したおれは宵闇の中で、

一つの勾玉模様の光の球を見つけては

――ほれ、おれの魂が飛んでゐる。

ときゃっきゃっとはしゃいでは、

既におれからは食み出た自分がおれから憧(あくが)れ出てしまった事実に皮肉にも

――あっはっはっはっ。

と哄笑してみせては、

――それで善し。

と嘯いてみるのですが、

流石にそれでは胸が締め付けられるのか、

頬には涙が流れ落ちてゐるのです。

凍てつく冬の夜は底冷えして

おれは今南天を昇り行くシリウスの光輝に

――馬鹿野郎。

と罵っては、

憧れ出たおれの魂を喰らったかの如き錯覚に痛快至極と涙を流すのです。

それでも南天ではシリウスが高貴な光で輝くのです。

それには堪らずおれは

宵闇の中の月影もない中、

独りありもしない影踏みをまた始めるのです。

さうする事でおれから食み出た自分をまた、おれに呼び戻せるではないかとの一心で

無闇矢鱈にありもしないおれの影を踏み散らすのです。

西天では宵の明星が輝いてゐて、

くすくすとおれを嗤ってゐるやうなのです。

 

下弦の月が昇るまで、

おれは独りで闇の中、

ありもしない影踏みを続けるのでした。

 

忘却

 

確かにあったものが

無いことの薄ら寒さにぞっとしながらも

それを受け容れなければならぬ齢になったのかと

感慨に耽る余裕はこれっぽっちもなく、

忘却は、しかし、なし崩し的にやってきて、

根こそぎ、おれの記憶を奪ひ去って行くのだ。

 

それとも数多に散らばる記憶の断片に紛れ込んで、

それを探す術を見失ったために過ぎぬのか、

とはいへ、それもまた、おれのニューロンの道筋の一つが断絶しちまったことの証なのであるが、

何処かに紛れ込んだ記憶は、

もうおれの現前に現われないのか。

 

不意に忘却した記憶が現はれることもなくはないのであるが、

しかし、それはとっても僅少の出来事でしかなく、

一度忘却しちまったものは、

いくら頭蓋内を攪拌したところで

見つからないものは見つからないのだ。

 

識別力が減退したのだらう。

確かに今も記憶にある筈のものが

おれには見えぬのだ。

さうして記憶世界の中で道具存在としてあり得る筈のものが

記憶世界に溶解しちまったこの事実に愕然としながらも

おれはこの事実を黙して受け容れる外ないのか。

最後までじたばたしながら、。

忘却に対して最後の最後まで抵抗してみるが、

それは見るも無惨な有様で終はるのが常としてゐる。

 

忘却は、しかし、必要不可欠な能力でもあり、

忘却なくして、この複雑な世界に対しての情報の洪水に溺死するは間違ひないのだ。

 

何をして忘却と言ふのかは人それぞれだと思ふが、

忘却してゐることを自覚してゐるのはまだましなのかも知れぬ。

仮に忘却してゐることすら自覚できぬことになった場合、

それはそれで己にとっては幸せで、

唯、周りの人には迷惑に違ひない。

 

忘却と言ふ河がゆっくりと流れてゐて

その大河におれはぷかぷかと浮かんでゐるに過ぎぬのかも知れぬ。

 

忘却しようとも、

最後までおれと言ふことに対する違和を以てしておれの存在証明とせねば為らないのかも知れぬ。

さうしてなし崩しの忘却の中で、

おれは溺死することで本望を遂げるのか。

 

 

脱力してしまった

 

操り人形の糸が切れたやうに

ぶら~んと四肢が揺れるのみのその醜態にすら最早何ら反応する気力もなく、

只管に自己に潜り込むのみの脱力感は、

自己を叱咤する気力もなく、

唯、ぼんやりと虚空を眺め、

ずきずきと痛む頭痛に集中力を奪はれては、

唯、哀しさのみが湧いてくるものだ。

 

率直に言はう。

おれは敗北したのです。

それは世界でもあり、己でもあり、他者でもあり、神でもあり、

唯、おれは敗北し、哀しいのです。

この部屋は只管に寒く、

暖房器具はなく、その代はり厚着をし、手袋をしても手は悴(かじか)んで

げんなりするばかりなのですが、

元気づけにもう三十年前にもなる小林麻美のCDよりも断然音が良いLP盤のアルバム「grey」をかけては

その中で歌われている女の遊び心にくすりとするのかと思いきや

振られた女の顔が次次と浮かび、

また、当時のおれの思ひ出に耽り、

更にげんなりするのです。

 

憂鬱はおれの宿痾の一つなのであったが、

このときばかりはその宿痾に囚はれて身動きがとれなくなってしまってゐたのであった。

脱力感に囚はれたならば、

只管にそれが去るのを待つしか最早手立てがないことは嫌と言ふほどに知ってゐるのであたが、

何時も抵抗を試みては玉砕するのを繰り返してゐたのである。

さうして、おれは更に脱力感に苛まれ、

頭痛は更に激しさを増し、

ぼんやり見上げる虚空には過去の思ひ出が走馬燈の如く駆け巡り、

部屋の中では小林麻美の結婚直前の艶やかなる歌声が響き、

そして、独り自己に沈潜しちまった哀しいおれがゐるのであった。

 

ほろほろと頬を流れ落つる涙に私は尚更に哀しくなり、

寒寒とした部屋の中でおろおろと泣くばかりなのでありました。

 

 

深淵を見下ろす

 

 

ゆっくりと渦巻くその中心には

底が見えぬ深淵が形成されてゐて

何故か私はそれを見下ろせるのです。

まるでそれはヰリアム・ブレイクの詩篇のやうな幻視の世界に呑み込まれたやうな世界だったのです。

ブレイクがabyssと呼んだであらう其処には苦悶するネブカドネザル王のやうな存在で犇めき合ひ、

存在の呻き声ばかりが腹の底に響き渡るのです。

 

その深淵は、しかし、私のみを呑み込まず、

それ以外のものならば何でも呑み込むやうなのでした。

私はそのabyssを覗き込みながら、

何故に苦悶する存在ばかりが其処に犇めき合ってゐなければならぬのか不思議なのでありました。

何故なら苦悶は私も同様にしてゐて、私こそはabyssに存在するべきものだった筈なのです。

それが私はそのabyssから疎外され、

独りabyssを見下ろしてゐなければならぬ存在であることに大層不満だったのです。

これは、しかし、私が傲慢だったのでせう。

私の苦悶は、abyssに犇めき合ふ存在に比べれば全く取るに足りぬもので、

どうでも良かったのかも知れません。

しかしながら、私の苦悶は、私の存在に大きく関はるものに違ひなく、

決してabyssに犇めく存在に引けを取らぬものと思はれたのですが、

まだまだ私は未熟もので、abyssに下れぬ存在なのかも知れないのです。

それはある意味で哀しいもので、

天地逆転した考へ方なのですが、

私こそabyssの住人でなければならぬといふ焦燥に駆られるのでありました。

 

つまり、私の思索はまだまだabyssに犇めくものたちに比べれば浅薄でしかなく、

私の存在の位置がまだ、その渦巻く深淵には足一歩たりとも入れぬものでしかなく、

つまりは、私なんぞは虱にすらも匹敵すら出来ぬ存在と言うことなのです。

これには臍(ほぞ)を噛む思ひなのですが、

しかし、そのabyssは決して私を受け容れないのです。

このまま未来永劫当事者になれぬ私と言ふ存在は、

世界外でしか存在出来ぬ哀しい存在でしかないのです。

直截に言へば私なんぞが存在する事自体が烏滸(をこ)がましいことだったのです。

哀しいです。

とても哀しいです。

 

ハラハラと頬を流れる涙は、

その深淵へと零れ落ち、

abyssは大雨となり大水が出て、其処で犇めき合ってゐた苦悶する存在は悉く水没するのです。

それで溺死するもので死屍累累となり、abyssは阿鼻叫喚の世界へと一変してしまったのです。

何て事でせう。

私の涙が死に死を呼ぶとは。

呻き声は更に大きくなり、

何だか其処は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の世界へと変貌したのか、

私に助けを求めてゐるのです。

これではいけないと私は左腕をそのabyssに投じたのですが、

Abyssに生き残ったものたちは私の手へと我先にと先を争ふのですが、

哀しい哉、私は非力で羸弱なため、たった独りの存在しか引き上げられないのです。

其処で引き上げようとしたのですが、吾も吾もと独り引き上げようとしたものの身体にしがみ付くものが続出したのです。

それでは私は引き上げられません。

しかし、よくよくabyssをみてみると唯、独り水没しながらも思索に耽り、

私の手などに目もくれぬ存在がゐたのです。

私は右腕をさっとそのものへと伸ばして引っ捕まへては、瞬時に引き上げ、

さうして、私は私の左腕を斧で切り落としたのです。

痛みで私は更に泣きくれて、

また、切り口から噴き出す血もそれに混じって

Abyssは血の雨の大水で地獄の様相を呈したのです。

 

私はたった独りの思索に耽るもの以外を選別してしまったのです。

何て傲慢な事でせう。

私は血が噴き出す左腕の血を止めるために切り口のところを紐できゅっと縛り付け、

然し乍ら、痛みで涙は止まらなかったのです。

さうしてabyssは更なる大雨が降り、abyssのものたちは全て水没して死んでしまったのです。

すると深淵の渦は急速に回転速度を上げて、しゅっと何処へか消えてしまったのです。

かうして私は無数の死を背負った存在となり、

一方で私が引き上げた思索者は、終ぞ私には目もくれず、只管自身に耽り続けるのでした。

 

何となく

 

低気圧が来ると途端に体調を崩す身にすれば、

雪景色は哀しいのでした。

何となく哀しいのです。

しんしんと降り積もる雪が辛いのです。

止めどなく溢るるのは憂鬱な気分で何となく哀しいのです。

 

生きるのは苦しくて

私は雪景色を恨むのです。

ここが人間の浅薄なところで、

恨んだところで、何にも解決しませんが、

気分は少し楽になるのです。

 

これが実存といふものなのかと、

知ったかぶりをするのでしたが、

死に絶えず追ひ駆けられてゐる私は、

この実存と言ふ言葉に何となく慰みを覚えるのでした。

 

それでも低気圧に蔽はれた地上に生きる私は、

苦しくて苦しくて、

頭痛に襲はれ、目眩に襲はれ、そして、卒倒するのを常としたゐたのです。

それはなんの前触れもなく突然やって来て

私は不意に卒倒するのです。

目の前は、真っ白になり、ちかちかと星が瞬き始めたかと思ふと、

バタリと卒倒するのです。

 

この卒倒すると言ふ状態は実存の空隙なのか。

私は、卒倒する時に喜びすら感じるのです。

何故かと申しますと、

それは苦しさから救ってくれるからです。

それが一時のことであらうとも、

卒倒してゐる私は苦悶から解放されるのです。

 

卒倒してゐる間、私は夢を見てゐるのかもしれません。

しかし、それは過去が走馬燈の如くに脳裡に過ぎり

死に歩一歩近付いた証左なのかも知れません。

卒倒もやはり実存から遁れることは出来ないのです。

これもまた、哀しいことなのです。

それを乗り越えるべく、観念を喰らはうとするのですが、

私の無能では実存を乗り越へるべき観念は今のところ構築できないのであります。

そもそも観念が人を生かせる代物なのかも解らず、

とはいへ、観念が生に先立つものである事は本能的に解ってゐるのです。

世間では思弁的実在論なるものが持て囃されてゐるやうなのですが、

私には、それが不満でしやうがないのです。

メイヤスーでは満足出来ないのです。

私にはカントの物自体といふ感覚が一番しっくりと来るのです。

何故なら、此の世は諸行無常であると言ふ事に物自体と言ふ観念がとてもぴったりと来るのです。

もの全て、つまり、森羅万象、現存在の思ふ通りに操れないと言ふ考へ方が一番しっくりとくるのです。

 

雪景色は哀しいものです。

卒倒から目覚めた私は、真白き風景を見ては

虚空を恨めしく眺め、

神を呪ふのです。

 

 

畸形

 

さうです。

私は畸形の人間として生れてきました。

だからといって私自身に対して憤懣はないのですが、

事、他者にとっては私の存在は見るも無惨な有り様のやうなのです。

畸形がそんなにをかしいのか、

内心ではくすくすと衆目が嗤ってゐる声が彼方此方から聞こえてくるのです。

然もなくば、

――あら、何と可哀相な。

といふ要らぬ偽善的な同情の声が時折聞こえても来るのです。

畸形がそんなにをかしいのか私には解りません。

しかし、常人と違ふことはいくら鈍感な私でも解りますが、

だからといって畸形を嗤ひものにする権利は誰も持ってゐない筈です。

 

私は独り奇妙なことに「捻れ」てゐたのかも知れません。

心が捻れてゐたのです。

しかし、捻れてゐたのは私の方だったのでせうか。

もしかしたならば、此の世が捻れてゐたのかも知れないのです。

でなければ、畸形の私を見て他者がくすくすと嗤ふ筈はないぢゃありませんか。

私は鏡だったのかも知れません。

他者に自分の内奥を突き付ける鏡です。

つまりは他者、或ひは衆目が捻れてゐたのです。

その捻くれてしまった衆目は、

畸形の私を見ると内奥が疼くに違ひないのです。

でなければ、私を見て内心でくすくすと嗤ふ事など出来る筈がありません。

私の存在は他者にとっては不快な思ひを呼び起こす存在だったのかも知れません。

しかし、それは私にはどうすることも出来ないのです。

畸形に生れてしまった私にはそれを変へることは出来ないのです。

先験的に畸形に生まれ落ちた私には、

後天的にそれをどうすることも出来やしないのです。

さて、私は、しかし、世間に対してはもうどうでも良いのです。

もう私が衆目にどう見られていやうが構ひやしないのです。

さう思はなければ、私は世間を恨んでしまふ事になりやしないか不安なのです。

畸形な私でも生きたいのです。

出来れば心地よく生きたいのです。

これは無謀な望みなのでせうか。

私の存在が他者を不快にさせるとしても、

私はそれでも世間の中で生きて行きたいのです。

施設に隔離される事は望んでゐません。

しかし、私の存在が不快な人たちは、

私を隔離することを望んでゐます。

どうして畸形の私の自由を奪う権利が誰にあると言ふのでせうか。

私は出来得れば、畸形と言ふ存在とはいへ、自由に生きたいのです。

これは高望みでせうか。

哀しい哉、私は癩病で施設へと赴く北条民雄の心境なのです。

其処には多分、不思議なCommunityがあり、

隔離された中での自由といふ絶えず監視された中での「自由」はあるでせうが、

私の存在は世間から湮滅されるのです。

それが癪なのです。

 

 

独断的なる五蘊場試論その二

 

命題:此の世は秩序の縁に、つまり、渾沌の縁にある。

 

証明:例へば思考する時に、その思考は渾沌錯綜するが、しかし、或る二択へと収束する。そして、その二択はどちらも秩序ある埒内のものである。その後、其処で現存在は二択の内一つを選択し、それを足場に思考を更に推し進める宿命にある。つまり、泳ぐと死んでしまう鮪の如く考へること已められぬ現存在は思考を続け、再び、思考は渾沌へと埋没するが、再び思考の行き着く先は二択へと収束する。云云云云。

 

また、脳細胞をみると軸索の伸びる方向は五蘊場内での秩序と渾沌の境を選んで伸びるに違ひない。さうでなければ、現存在は自由を獲得することは不可能、且つ、理性的であることもまた不可能である。

 

それは、内的自由を取り上げてみると、内的自由の様相は渾沌そのものを保証せずば、それは内的自由とは言へず、といふよりも、内的自由は渾沌そのものでなければ、それは内的自由とは言へず、渾沌とした「自由」、つまり、悟性が崩壊した思考なり表象なりが脳裡、または、瞼裡に再現前せずば、創造、または発想は保証され得ぬ。

 

故に脳細胞の軸索は五蘊場で秩序と渾沌の境を伸びるに違ひない。内的自由が渾沌に脚を踏み入れぬとするならば、つまり、思考は全て悟性に準ずるとするといふことで、それは思はぬ、つまり、とんでもない発想が生れる芽を完全に摘んでゐる。

 

または、思弁的存在論を思考することも不可能で、内的自由の保障は渾沌なくしてはあり得ぬのである。

 

故に五蘊場が此の世の縮図の典型の一つとすれば、此の世は秩序の縁に、つまり、渾沌の縁にある。

 

更に五蘊場が此の世の縮図の典型の一つとする証左は、これは逃げ口上かも知れぬが、現存在の存在様式に先験的に組み込まれてゐて、世界認識し得る可能性を秘めてゐる故にのことである。況して世界認識出来ぬ五蘊場ならば、それは現存在の即死を意味し、外部世界に適応できぬ事で現存在は終焉する。

 

現存在に自由があるとするならば、それは自律的に現存在は存在すると言ふ事であり、それは此の世の秩序に大抵は則ってゐるが、一時、魔が射すやうに現存在は錯乱を起こし、さうであっても此の世は現存在を受け容れ、生かす。つまり、これは世界もまた、秩序と渾沌の境に存在する構造をしてゐる証左に違ひなく、此の世は秩序の縁にあり、つまり、渾沌の縁にある。云云云云。

 

しかし、この命題はまだ、語りたらぬ。

 

端的に言へば、此の世が太極ならば、つまり、渦が此の世に存在する限り、此の世は秩序の縁に、つまり、渾沌の縁にある。云云云云。

 

 

没落の果てに

 

嘗ては没落しても這ひ上がる道は狭いながらも残されてゐて、

戦後のこの極東の島国はそれ故に這ひ上がれたのですが、

現在は、最早その道は閉ざされてしまひました。

 

一度没落したならば、それはどん底へとまっしぐらで、

上を見上げても最早光明は全く見えず、無限につながる漆黒の闇の中を彷徨ふばかりなのです。

一%の大富豪と九十九%の貧民窟の住人へと分裂してしまった此の世です。

最早九十九%の貧民窟の住人に這ひ上がる術は残されてゐないのです。

それでも貧民窟に生きる現存在に存在する価値がないと言ふのは早計で、

貧民窟の住人は一%の大富豪の搾取のために存在する事が許されてゐるのです。

先づ、それを認めなければ、貧民窟の住人は何が吾を貧民窟へと追ひやったのか不明なのです。

此の世は一%の大富豪と九十九%の貧民窟の住人の登場で、秩序は直ぐにでも敗れ、渾沌へとまっしぐらなのです。

ガラガラポンが起きるときが近付いてゐます。

再び、革命の世が訪れることでせう。

なけなしの金を搾取される九十九%の貧民窟の住人たちは、既に瞋恚に吾を失ひ、

何時一%の大富豪にその矛先を向けるのかは時間の問題です。

ドストエフスキイの『悪霊』の五人組のシガリョフの悪夢の社会構造が現在、実現してしまゐました。

 

共産主義も資本主義も失敗に終はったのです。

そして、現はれたのが大富豪と貧民窟の住人たちとの断裂です。

成り上がりといふ夢は終はったのです。

その断裂の裂け目の底はとんでもなく深く、また、現存在が跨ぎ果せるには幅を余りに大きくなってしまいました。

 

しかし、一%の大富豪もその顚落は凄まじく早く、何時顚落するのか不安で仕方がありません。

そんな世の中、不安が蔽はずして何が蔽ふと言ふのでせう。

 

この不安の世、原理主義が蔓延るのは当然で、狂信者が増殖するのは自然の理なのです。

さうして、最後は、憤懣に駆られた貧民窟の住人による革命が起きるのも必然です。

それで富が分配されることは、しかし、ないでせう。

それは渾沌の世の始まりに過ぎないのです。

それに堪へ得た現存在のみ生き残るのです。

選別の始まりです。

しぶとく生き残った狡賢い現存在のみ生き残り、その子孫が繁栄するのです。

 

欠伸する影法師

 

無線のAntenna(アンテナ)が強烈な空っ風でくう~んと撓み、

その撓みにおれは凭れる資格はあるのかと問ふてみるが、

冬の羸弱な陽射しに欠伸する影法師は、

陽だまりでうつらうつらとうたた寝したくてしやうがなく、

Antennaの撓みの影に凭れたくて仕方がないのだ。

 

Antenna上空の垂直に視点を移すと冬の澄明な蒼穹は柔らかに撓み、

強烈な空っ風をまともに受け止め、

上空ではとぐろを巻いてゐるであらう疾風の悶絶の様子が

幽かな天籟によって聞こえてくる。

 

そんな緊迫など知ってか知らずか、

相変はらず影法師は大きな欠伸をして

心地よい微睡みの中へと埋没したく、

Antennaの揺れる影にも眠気を覚えるのか、

影法師は今にも崩れ落ちさう。

 

やはり、疾風怒濤の天空のことなど眼中にないのか、

余りに気が弛緩した影法師は、

然し乍ら、おれの現し身なのかと問ふてはみるが

羸弱な冬の陽射しは柔らかく皮膚に当たり、

仄かに上気したおれもまた、然し乍ら、眠くてしやうがないのか

寒風が頬を切り裂く如くに吹き荒ぶ中、

陽だまりに蹲り、大欠伸する影法師に嗤はれるのであった。

 

嘗てAtlas(アトラス)の如くに蒼穹を肩で背負ふ覚悟があったおれではあるが、

こんなにも柔らかな陽射しの下ではそれもなし崩しに砕け散り、

柔和な陽射しに感化されてぼんやりと影法師とにらめっこをする。

さうして何時も嗤ひ出すのはおれの方で、

それにも飽きた影法師はうとうととし始めて、

何時の間にやら午睡の中へとのめり込む。

 

こののっぺりとした感触は、真っ青な蒼穹の感触にも似て、

その間職を振り払ふやうにおれは不意に立ち上がる。

 

ところが、影法師は相変はらず午睡の中で、

夢の世界で影と戯れてゐるのか、

にたりと時折嗤ふのだ。

 

そのままおれは蒼穹を見上げて

幽かな天籟に耳を欹てては、

天空から堕天したものの眷属といふことに思ひ致しては、

最早揚力を失ったおれに対してぺっと唾を吐くのだ。

 

影法師は、その時無限の闇の夢に埋没してゐたに違ひない。

 

 

趨暗性

 

何故にかうも惹かれるのでせう。

瞼を閉ぢただけでもう闇の世界の入り口に立てるのです。

闇好き、つまり、趨暗性なる私にはこれ程耽溺出来る「遊び道具」は外にはないのです。

或る時期は無限への憧憬から瞼を閉ぢては闇に耽溺し、

その中で、私は内的自由を存分に味はってゐたのです。

それもこれも闇が何をも受け容れる度量の持ち主で、

例へば頭蓋内の漆黒の闇たる脳と言ふ構造をした五蘊場には

宇宙全体が薄ぼんやりとながらも受け容れることが可能なのです。

闇の中では何ものも伸縮自在で、宇宙全体はぎゅっと収縮して五蘊場に収まり、

然もなくば、素粒子の微少な微少な世界を拡大に拡大を重ねて見える如くにさせるのもお手の物なのです。

これ程に吾が心を満足させるものはなく、また、五蘊場の闇には森羅万象は勿論のこと、

此の世に存在しないものすらをも五蘊場の闇には存在可能なのです。

 

瞼を閉ぢるだけでこんなにも魂を揺さぶって已まぬ闇と言ふ世界が現前に出現し、

その闇に表象が再現前化して、世界を揺さぶってみることも難なく出来得るこの瞼の存在は、

生物の進化に深く関わってゐる筈で、

瞼の存在は、思索の深化を保証する組織なのです。

 

うお~んと音にならぬ唸り声を出しながら、五蘊場か瞼裡に明滅するかの者の表象。

あっ、かの者は飛翔し、闇の奥へ奥へと飛び行くのです。

 

 

死へ傾く

 

生と死の均衡が破れたとき、

生者はもう死へとまっしぐらへと突き進む。

これはどうすることも出来ぬことで

絶えず、生と死の均衡の元に生が成り立つ以上、

その均衡が破れれば、死への顚落は必然なのだ。

 

それでも残された生の時間を充実したものにするのに、

周りのものは変はらぬ日常を過ごすに限る。

それが残されるものの精一杯の餞(はなむけ)なのだ。

涙を流す暇などない。

死に睨まれてしまった愛するものとの別れには

変はらぬ日常を送ることが最高の餞別なのだ。

さう思ふしかないではないか。

愛するものの死への行進に

深く哀しむのは当然なのだが、

それは単に上っ面の哀しみでしかない。

死に行くものに対して

普段と変はらぬ日常こそが正統な哀しみの表し方なのだ。

死への顚落を始めたものは

直ぐに変はらぬ日常は送れなくなり、

死の床に就く。

それでも変はらぬ日常をお互ひに過ごすことで、

死に行くものは安心するのだ。

這いずってでも死の床から出て、

変はらぬ日常を送りたく、

死に行くものはさう望む。

それが自然とといふものだらう。

 

生と死が睨み合ふ此の世の摂理において

死の睨みが勝ったとき

死に行くものは最期の輝きを放つが、

それが残されるものに対する最期の奉公なのだ。

さう思はずば、堪へられぬではないか。

 

時間はゆっくりと流れるが、

確実に死に行くものの生を削り取る。

時間こそ残酷なものなのだが、

醜態を見せようとも

死に行くものはその時間から零れ落ち、

残されたものの記憶の中で生きるなんて陳腐な言い方はせず、

死に行くものは念を此の世に残し、

残されたものの五蘊場にはそれに対する共振板があり、

死に行くものの念は堪へずそれを振るはせる。

それでいいのだ。

 

空には変はらず白い雲が流れ、

時間は残酷にもその流れを止めることなく

ゆっくりと進む。

それでいいのだ。

 

 

焦燥する魂

 

空きっ腹にのむ煙草に全身が弛緩して行く中、

魂だけは吾を渇仰して、また、世界を渇仰して已まないのです。

髪を振り乱し、形振り構はず魂は貪婪に存在を欣求して已まないのです。

そもそも私の存在は魂との大きくずれてゐて悩ましいのです。

これは誰にもあることとは思ひますが、

悲嘆に暮れること屡(しば)屡(しば)の私には私の現実の存在、つまり、魂のRealism(リアリズム)における私を渇仰して已まないのです。

今日も蒼穹は真っ青に晴れ渡り、

哀しみを一層深いものにするのです。

しかし、太陽は私の魂を一向に照らすことはないのです。

何時も闇の中で内的自由に藻掻いてゐる私の魂は、

所詮は内的自由に我慢がならず、

とはいへ、内的自由によりのみにしか存在の謎の何かが潜んでゐるとしか言へない以上、

闇での表象との戯れに終始する内的自由に渇仰する魂の望みを賭けるしかないのです。

では、魂は一体何を望んでいるのでせう。

それは永劫かも知れません。

それは森羅万象の法かも知れません。

それは世界の精密な認識かも知れません。

それとも魂が心底満足できる世界なのかも知れません。

仮令、それが何であらうとも魂の渇仰は収まることはないのです。

 

今日も蒼穹は落ちてくることもなく、

ゆったりとしたArch(アーチ)の梁で支へられ、

その梁は私の肩が支えてゐるのです。

 

さう思はなければ蒼穹に失礼だと思ふ私は

杞憂といふものを信ずるものなのです。

何故って、私が屹立しなければ、

蒼穹は蒼穹ではあり得ないでせう。

 

風を集めても魂は飛翔できないのです。

想像することではこの魂の渇仰はもう満足できないのです。

何かを創造する事でしかもう私の魂は満足できないのです。

考へが甘い事は解ってゐますが、

闇の中の内的自由で、表象と戯れる時間はもう終わったのです。

 

寒風吹き荒ぶ真冬の真っ青な蒼穹を見上げ、

あの蒼穹を握り潰すことが私の魂を満足させる術なのかも知れません。

渇仰する魂は、しかし、上を見上げずに足下を見下ろすのです。

 

 

或る冬の日に

 

手が悴(かじか)む中、

私は目的もなく、

或る冬の日の夜更けに徘徊するのです。

 

哀しい女が流した涙は、

凍てつく寒風を起こします。

落ち葉もすっかり落ち尽くした裸の木が、

それを欲してゐるからなのです。

 

幾時代が過ぎまして、

木のみが生き残りました。

哀しい女は、

幾人も死んでしまひましたが、

何時の時代も哀しい涙を流すのです。

それを受け止められる男は何時の時代も存在せずに、

哀しい女の涙は寒風吹き荒ぶ中に屹立する木々のみが受け止めるのです。

 

さうして木々は天へ向かって伸び続け、

死んだ女たちの思ひを受け止めようとするのです。

 

幾時代が過ぎまして、

木のみが生き残りました。

さうして男たちは無知蒙昧に女を哀しませるのです。

 

霜柱が立つ中をざくりざくりそれを踏みしめながら歩いてゐると、

木々が語りかけるのです。

――あなたは女の哀しみが受け止められますか。

私はこれまで、女の哀しみを出来得る限り受け止めましたが、

木々の包容力に比べれば、

私の包容力など取るに足らぬものでしかありません。

それ程に女の哀しみは深いのです。

それに比べて男の哀しみなんてお里が知れて浅薄なのです。

それでも男は毎日懊悩してゐます。

それを受け止めるのは女なのでせうか。

男は己の懊悩を己で受け止めようとするものなのです。

さすれば、男の懊悩は底無しなのです。

それがどうしても解らぬ女は、

それだけ哀しみが深いのです。

男の懊悩の逼迫した様を

女は、

――何て子供じみた!

と、半ばあきれ顔で、男を軽蔑するものなのですが、

それだけ男の懊悩は底無しで、女の哀しみは深くなってしまうのです。

 

男と女が解り合へる時は永劫に訪れることはないと思はれますが、

しかし、男と女はそれでも抱擁するものなのです。

その時の悦楽に男の懊悩も女の哀しみも敵はないのです。

しかし、さうすることで尚更男の懊悩は深くなり、

女の哀しみも深くなるのです。

 

幾時代が過ぎまして、

男と女が生滅して行きました。

さうして、男の懊悩は深く深くなり、

女の哀しみも深く深くなりました。

それを受け止めるのは残された木のみなのです。

哀しい女が流した涙は、

そして、懊悩する男が呻いた呻き声は、

凍てつく寒風を引き起こすのです。

さうして万人が凍える冬があるのです。

 

 

幽玄なる重み

 

20世紀初頭に自身の患者の死の直前の体重と死後の体重を量った

ボストンの医師、ダンカン・マクドゥーガルといふ先達がゐることに思ひを馳せ、

確かに其処には体重の差異が認められたやうだが、

それが即ち、「心」若しくは「意識」の重さかと言へば、

それは否と言ふ輩が多いに違ひない筈だ。

しかし、本当にさうなのか問ふて見れば、

誰もが口を濁すに違ひない。

 

生のEnergy(エナジー)はそもそも意識に還元できるものかも知れないが、

意識を全て脳に還元してしまふ風潮には馴染めぬ己がゐるのも確かなのだ。

 

死は幽玄なるものである。

俺は、死しても尚意識は、または魂はあると信ずるので、

生と死の体重の差異にはさほど興味を抱かぬが、

然し乍ら、生死を分ける差異は厳然と存在する。

だから尚更に死には幽玄なる重さがあるのだ。

 

瞼を閉ぢると死したものたちが表象となって再現前するが、

その表象に重さがあるに違ひないと思ふおれは、

死して尚おれに念を送るその死者たちに対して畏怖を抱きつつも、

おれは、それに対して快哉を上げるのだ。

此の世は死者で犇めき合ってゐなければ、

ちっとも面白くなく、

死から零れ落ちてしまったものが生者なのだ。

故に生者はやがては元の木阿弥たる死へと還って行くのであるが、

物質の重さは死の重さに等しいに違ひない。

つまり、重力波は死の脈動に違ひなく

ヰリアム・ブレイクの銅版画にあるやうに

聖霊たちが渦巻く時空の様相が此の世の実相なのだ。

 

死から零れ落ちてしまった生者は、

それ故に懊悩し、生を踏み迷ふのを常としてゐるのだ。

それは死の淵を、つまり、生の淵を歩いてゐるからに外ならず、

生者を秩序と看做すならば、死者は渾沌の謂である。

そのとき時空は壊れやすい秩序、つまり、渾沌の淵にあり、

未来永劫、現在の時空が永続する筈もない。

此の世に物理的なる変化が起きたときに

ドストエフスキイが言ふやうに人神が出現するのかどうかは別としても、

死の幽玄さには変はりがない。

 

重さは死の現はれの典型なのだ。

つまり、重さがあると言ふことは死を背負ってゐると言ふことなのだ。

骸の重さが死の重さであり、

それ故に生の重さは高が知れてゐるのだ。

 

 

惚れる

 

その存在を全的に受け容れたいと言ふ欲求に駆られ、

何もかもをかなぐり捨ててでも抱きしめたいのです。

あなたは既に私にとっての欲望の捌け口であり、

私の理想なのです。

これを恋と言ふのでせう。

切ない思ひを噛み締めながら、

あなたからの便りを心待ちにしてゐる私がゐます。

 

さうして凍てつく冬の未明は小さく小さく蹲りながら

赫赫たる真夏の陽光を夢見ながらひりひりと夜明けを待つのです。

 

知らぬが故に何もかも知りたいと言ふ飽くなき欲望は、

何時まで経っても満足することはないでせう。

さうだから尚も私はあなたを求めずにはゐられないのです。

痺れるやうな熱き接吻をして、あなたをぎゅっと抱きしめて愛欲に溺れたいのです。

あなたはそれを受け容れてくれないかも知れませんが、

そんなことはお構ひなしに、

私はあなたを抱擁したいのです。

こんな私は間違ってゐるでせうか。

 

さうして凍てつく冬の未明は小さく小さく蹲りながら

赫赫たる真夏の陽光を夢見ながらひりひりと夜明けを待つのです。

 

――愛してゐます。

と、私は直截に言ふことに羞じらひを覚えつつも、

やはりあなたを愛してゐるのです。

惚れた方が負けとはよく言はれることですが、

私はあなたには敗北してでも卑屈に忍びより、

Stalker(ストーカー)の心持ちをちらりと横目で見ながらですが、

あなたにこの思ひを伝へなくては浮かばれないのです。

 

こんなつまらぬ表現しか出来ぬのが恋といふものでせう。

惚れてしまったならば、もう当たって砕けろなのです。

こんな私をあなたは受け容れてくれますか。

 

上弦のか細い月が漸く昇る未明の徘徊は、

私ののぼせた頭を冷やすのにはまだまだ温か過ぎるのです。

手は悴(かじか)みながらも私の心に鬱勃として湧いてくる熱きものは

鎮まるどころか尚更に燃え上がるのです。

――あなたが欲しい。

と、直截にしか言へない私の語彙の足りなさをもどかしく感じるのが恋といふものでせう。

 

さうして凍てつく冬の未明は小さく小さく蹲りながら

赫赫たる真夏の陽光を夢見ながらひりひりと夜明けを待つのです。

 

そして、私は火照った頬を冷やす前に来光を浴びてしまってゐるのです。

 

そんな私の心を一枚剥がしてみると

其処にはアダムとイヴを誘惑したエデンの園の蛇がとぐろを巻いて、

鱗をきらりと光らせながら隙あらばとあなたを狙ってゐるのです。

 

さうして蛇の交尾のやうな激しい愛撫をあなたとしたい私がゐるのです。

 

 

すれ違ひ

 

おれはしっかりとお前を見つめ、

最低の礼儀は尽くしたつもりだが、

それが癪に障ったお前はおれに対して牙を剥いたのだ。

それがお前のおれに対する切実なる思ひの表現であり、

おれの存在はお前を瞋恚に駆らせる導火線でしかなかったのだらう。

怒りを爆発させたお前は、おれに牙を剥き、

吾がTerritory(テリトリー)を穢された狼のやうに低く腹に響く唸り声を上げて

何時おれに致命傷を与へるかその間合ひを測ってゐる。

おれがいくら鈍感とはいへ、お前のその瞋恚に圧倒され、

おれはお前に惨殺されるその光景が脳裡に過ぎり

おれはじりじりと後退りするばかりであった。

 

それは端から勝敗が決してゐた対峙であった。

最早怒りに吾を見失ったお前にとって、おれの恭順など目に入る筈もなく、

お前は只管におれの存在を呪ったのである。

 

哀しい哉、おれはお前のその瞋恚を軽くみてゐたのかもしれぬ。

その迫力たるや凄まじく、蒼穹を食ひ千切るほどに、

つまり、水爆が爆発したかのやうな衝撃をおれに与へたお前は

おれの口に手を突っ込んで

胃袋を掴み出すかのやうな勢いでおれに襲ひかかる間合いを測ってゐた。

 

しかし、他者との対峙は大概そんなもので、

おれと他者とはどうしても解り合へない底無しの溝があり、

それを跨ぎ果さうとする馬鹿な試みは初めからすることはないのだ。

Territoryの侵害は、おれとお前の双方にとって不快であり、

誤謬の原因にしかならない。

 

しかし、その誤謬は誤謬として正確に認識すれば、

他者に対する理解が進むかと言ふとそんなことはなく、

未来永劫他者と解り合へることはない。

だからこそ、おれは他者を追ひ求めるのだ。

おれは理解不全なものにこそおれの秘匿が隠されてゐると看做す。

これは論理矛盾を起こしてゐるが、この論理矛盾にこそ信ずるものがあるのだ。

 

おれは他者に対して畏怖することを微塵も表情に出さずに

ぎらりと彫りの深い眼窩の座る目玉で他者を一瞥だけして、目を伏せる。

これがおれの他者に対する対峙の作法で、

これが瞋恚に駆られる他者に向かひ合ふぎりぎりの態度なのだ。

 

偽装

 

そのままでいいと言はれようが、

おれは終始偽装する。

それが世界に対する正統な振る舞ひ方で、

騙し騙される此の世の渾沌の中での唯一残さた主体の取り得る姿勢なのだ。

 

此の世は欺瞞に満ちてゐるなどと嘯いたところで

それは現実逃避の逃げ口上に過ぎず、

此の世が欺瞞に満ちてゐるからこそ尚もおれは偽装するのだ。

 

つまり、おれは世界と狸の化かし合ひをしてゐるのであって、

老獪な世界に対して高高百年くらいしか存在できぬ生き物たるおれは

偽装することでやうやっと生き延びることが可能なのだ。

ときに、若くして病死してしまふ人生もあるが、

それもまた、偽装の末のことであって、

おれの脳裡ではロバート・ジョンソンのブルースが鳴ってゐる。

その哀切なる歌声に人生の儚さを思ふのであるが、

ロバート・ジョンソンは二十九歳で射殺されてしまっちまって、

珠玉のブルース・ナンバーを数十曲吹き込んだことを除けば、

その人生は余りに儚く、ロバート・ジョンソンもまた、

偽装した人生を歩んでゐたと言へるだらう。

何故といって、素顔を晒してしまったが途端に

ロバート・ジョンソンは恨みを買い射殺されてしまったのだ。

 

主体の本性が垣間見えたときに、他人は己の嫌な部分が見えてしまふのか、

その醜悪さに思はず目を避けるのだ。

それ程に本性は誰にとっても目を背けたくなるものであり、

其処に救ひは全くないのだ。

 

更に言へば素性が明らかになることなど今生ではないに違ひない。

仮に主体の素性が明らかになったところで、

それもまた、偽装した主体の仮面であり、

さうでなければ、他人はやはり目を背けるのだ。

此の世で最も醜いものが主体の素性、若しくは本性ならば、

それは偽装するのが儀礼といふものなのだ。

 

さて、おれは此の世界の森羅万象の素性を闡明することに明け暮れた時期もあったが、

それが既に欺瞞でしかないことに気付いた途端、

おれは世界の森羅万象の偽装の仕方に興味は移り、

その巧妙至極な偽装の仕方に感嘆する外なかったのだ。

 

邯鄲の夢に過ぎぬとも言はれる此の人生において

上手く偽装できなければ、

世界と断絶し、

主体は繭を作って

その中に閉ぢ籠もることに相成り、

老獪至極なる世界に対してたったの一撃すら喰はせることすら出来ぬのだ。

 

それを無念と言ふのではないか。

さあ、偽装の仕方に巧妙になる訓練に励め。

己の本性ほど醜悪至極なものはないのだ。

 

 

絶望の行進

 

我が物顔で行進するそれは、

こっちの都合なんて全くお構ひなし。

今更参勤交代の時代でもなからうが

それが行進すれば、此方は平伏するばかり。

ちらりでもそれを見てしまったならば、

もう意識はそればかりにこだわり、

盲目になるばかり。

それだけそれは権威の象徴なのであった。

 

それの名は絶望。

それは何時も不意に来襲してきておれを蹂躙し尽くすのだ。

それは別に構はないのであるが、

ただ、哀しみをおれに残すのは堪へられぬのである。

 

――ほらほら、どけどけ。

と、おれの中ではそれはお通りするが、

このおれの中の可愛いHierarchy(ヒエラルキー)の頂点に君臨するそれは、

世界からすればおれのそれは塵芥の類ひに過ぎぬが、

しかし、おれにとってはそれは宇宙に匹敵する程の重さを持ってゐて、

何時でも思考の中心に坐すのだ。

 

しかし、おれはそれを崇めてゐるのかと言へば、

そんなことは全くなく、

それが粘着質なために、おれの心を掻き乱すに過ぎぬ。

しかし、一方で、おれは絶望することに溺れるのに快楽を見出してゐるのかも知れぬと思はないこともなかったが、

それはそれでいいと、突き放してゐるのだ。

絶望のそれに対して更なるそれを招き寄せる思考をする癖があるおれは、

雪だるま式にそれを巨大化させ、増殖させるのであるが、

それで、何かいいことがあったかと言へば、

おれが崩壊しただけたで、

何らいいことはなかったとも言へるが、

しかし、絶望の日日といふものは、

愛すべき日日でもある。

 

さあ、飛び出さう、

世界はおれの絶望なんてお構ひなしに存在するものだ。

 

 

世界に脱臼する

 

操り人形の糸が切れたかのやうに

私の四肢はだらりと脱臼したやうなのです。

それは世界に対しての私の対し方に問題があったとしかいいやうがないもので、

此の世界を認識しようなどといふ暴挙を何故私が思ひ付いたのか

後悔先に立たずなのです。

そもそも世界認識などと言ふ譫妄に陥ったその動機が不純だったのかも知れません。

 

世界の謎に挑んだ挙げ句、

私の四肢はそれに堪へきれずに脱臼してしまったのです。

世界認識などと言ふ大それたことがそもそも私の手に負へぬことで、

そのずしりとした重みに私の四肢は堪へきれなかったのです。

 

ぶら~ん、と揺れるだけの腕と、がくり、と崩れ落ちた脚のその状態を見て、

やうやっと私は事の重大さに気が付いたのです。

土台私に世界を担ふことなど不可能で、

その巨大で重厚、且つ、多層な世界を独りで担ふ実存の襤褸切れのやうな結末は

無理があったのです。

だからといって脱構築は、実存からの遁走でしかなく、

一度神を殺したものの眷属たる人類は、

神なき世界を仮令四肢が脱臼しようが世界を担ふ覚悟がなければならなかったのです。

それをどこでどう勘違ひしたのか、

人類は世界を改変し始め、

人類は一見合理的に見える、

とっても理不尽な見識で世界を改変してしまったのです。

人間は結局世界の認識に失敗してゐるが故に

人類の合理は理不尽でしかなく、

それはどこまで突き詰めても自然には敵はなかったのです。

 

嗚呼、可哀相な人類。

真綿で自分の首を絞めてゐただけのその世界改変と言ふ不合理な行為は

弥縫に弥縫を重ねて人類が積み上げてきた智慧の綻びを縫ひ合わせてゐたのですが、

何とも中途半端な世界認識が足を引っ張り、

弥縫の仕方を間違へると言ふ致命的な失敗を為してしまったのです。

弥縫すればする程に歪な世界が現出する悪循環は、

もう止めやうがないのです。

後は、自然の治癒力に縋るしかない人類は、

今や誰もがお手上げ状態なのです。

それでも科学が人類の世界認識に存在するAntinomy(アンチノミー)を止揚するなどといふ余りにも楽観的な希望的観測を抱く現存在は何時の世にも存在し、

智の結晶には違ひない科学に縋る現存在の哀れなる姿は、

やはり四肢が脱臼したままで、

此の世界をもう担ふことが不可能なのです。

哀しい哉、人類は最早自然に対して手も足も出ない羸弱な存在でしかないことを自覚するべきときなのです。

科学がAntinomyを止揚するなどと言ふ馬鹿げた夢はもう捨て去るべきときなのです。

 

朦朧

 

黄泉の国の使者ではあるまいし、

高が睡魔に襲はれたくらゐで、

何も恐れる必要はないのであるが、

しかし、朦朧とする意識の中に観念の化け物でも掲げてみようかと

これで此の世からおさらばするかのやうに

《念》を呼び起こすその様は、

何とも見窄らしくもあり歯痒いのである。

 

埴谷雄高が文学的な実験で行った夢魔の手に落ちる寸前に何か観念を掲げて

夢と地続きにその観念が夢の中でも保たれると言ふ前時代的な話は、

この現代では既に何の効力を失ってゐて

夢に何かを象徴させるには夢が不憫な程にその神通力を失ってしまひ

現代で先づ最初に没落したのは夢に違ひないのであるが、

それでも「無意識」を信ずる輩は今も夢に何かしらの象徴を見ようと躍起になってゐるけれども、

夢にとってそれはいい迷惑である。

 

然し乍ら、睡魔の手に落ち取ると言ふ事は尚も黄泉の国との親和性が保たれてゐて、

眠りは死と地続きなものとして今もその効力は失ってゐないのであるが、

さて、この朦朧とする意識の中で観念を掲げたところで、

それは夢では断絶してしまひ、

埴谷雄高のやうには「夢」の話としては語るに落ちるのであるが、

それでも観念を掲げるのは朦朧とする意識に何とか抗ひたい思ひ故のことである。

 

朦朧とする意識に観念といふ核を投げ込めば、

雪の結晶の如くにその核に観念がFractal(フラクタル)様に取付き

観念が自己増殖するのではあるまひかとの希望的観測でのことでしかないのであるが、

しかし、観念の結晶を見てみたいおれは

敢へて朦朧とする意識の中に観念を投げ込むことにしたのである。

 

然し乍ら、それは結局失敗に終はるのは火を見るよりも明らかで、

見事に朦朧とする意識の中で掲げた観念と無関係な夢を見たおれは

多分、夢を見ながら苦笑してゐた筈なのである。

 

――それ見たことか。

 

睡魔に襲はれ朦朧とする意識の中に観念をいくら投げ込んだところで、

それは核とはならずに雲散霧消して、

夢では過去から未来までの時間の振り幅の中を自在に行き来する現在の《現実》の異形が

奇妙に拗くれて現はれるのみなのである。

そして、おれは夢見の最中では夢を全肯定するしか能のない馬鹿者に成り下がるのみで、

ただ、ランボーの言ふところの見者にでもなったかのやうに唯々、夢の成り行きを凝視し、

また、夢の理不尽な仕打ちに何の因果か巻き込まれて七転八倒するのであるが、

だからといって夢におれの存在の証左の象徴を託すのは余りにも安易であるに過ぎない。

 

朦朧とする意識はやがて微睡みの中に没入するが、

そこではおれはおれを絶えず追ひ回し、

それ故に夢の理不尽な仕打ちに自ら進んで巻き込まれ行く馬鹿をやるのである。

 

夢とは前言の通り、過去から未来までの時間の振幅の揺れ幅の中を自在に行き交ふ奇妙な現実の異形であり、

夢をしておれは未来の模擬実験をしてゐるとも言へるのであるが、

或ひは夢は森羅万象の夢の母集合が厳然と存在し、

おれはその夢の母集合に参加してゐるだけなのかも知れぬのである。

つまり、おれの見る夢は誰かもまた、同じ夢の世界を見てゐて、

おれは其処に参加してゐるだけなのかも知れぬのである。

 

ふん、そもそも夢魔が怪しいのである。

多分、夢魔は黄泉の国に連れ行くものの眷属に違ひない筈であるが、

夢の母集合とは、つまり、死の総称なのかも知れぬのであり、

夢見とは死の引力に最も引かれるときなのかも知れず、

つまり、夢は未来へも自在に行き交ふと言ったが、

それはおれの来たるべき死の受容を行ってゐる儀礼に違ひないとも思へるのである。

 

――そら、ほれほれ、これがおれの死だよ。

 

 

封印

 

丸太ん棒や切り出した石材を見ただけで、

その中に例へば仏像や女体が見えるといふ仏師や彫刻家は

その姿形を素材から彫り出す事で既にその作品は完成してゐるのかも知れぬが、

それは裏を返せば姿形を木材に石材に封印する事でもある。

それと同じ事が頭蓋内の闇の脳と言ふ構造をした五蘊場に刻み込み封印する記憶と言ふものがあるが、

さて、五蘊場は既に其処に記憶を刻み彫り付ける事を予期して

既視感のものとして記憶は予め五蘊場に埋め込まれてゐるのだらうか。

つまり、現実に存在すると言ふ事は五蘊場に埋め込まれてゐたものを掘り起こすだけの作業に過ぎず、

先験的に世界は五蘊場に埋め込まれてゐて、

吾はそれを現実にぶち当たって一つ一つ彫り出す作業を記憶に関して行ってゐるだけなのかも知れぬと言ふこの感覚は、

此の世に石碑や彫刻が存在する事からして記憶もまたそのやうにあると思ってもいいのかも知れぬが、

後天的に脳に損傷を受けた場合、

最早五蘊場に埋め込まれてゐる記憶は掘り当てられずに、

埋まったままに眠りに就き、

それを掘り当てることは最早ないとも言へる。

 

当意即妙に現実に対応出来る現存在などの個体は、

思考実験やSimulation(シミュレーション)によって未来の準備をしてゐて

それが五蘊場には地層の如くに堆積してゐて

其処には化石の如くに掘り当てられる事を待ってゐる記憶が五万とある筈で、

否、化石ではなく、その五蘊場に堆積した地層の石礫一つ一つが記憶であり、

彫り当てられるのを今か今かと待ってゐるのだ。

しかし、脳に損傷を負ってしまった現存在は、

五蘊場の底が抜けて、砂時計の砂が落ちるやうにさらさらと未来の記憶が抜け落ちるのだ。

 

然し乍ら、五蘊場に未来の記憶も先験的に封印されてゐるとしたならば、

それはギリシャ悲劇の登場人物のやうなもので、

運命に翻弄される事が宿命付けられた人間の哀しみが溢れるばかりの存在に違ひなく、

五蘊場、丸太ん棒、石材などから彫り出される例えば女体は、

それは大いなる哀しみに包まれた存在に違ひない。

夏目漱石の『夢十夜』に出てくる運慶か快慶の物語は、

多分に間違ってゐるのだ。

素材を見て其処に仏像が埋まってゐてそれを彫り出すと言ふ行為は

運命論者の戯れ言に過ぎず、

例えば丸太ん棒に埋め込まれてゐると思った仏像は

時時刻刻と削り彫り出される毎にその姿形は変容させてゐて、

運慶、快慶の五蘊場の中で、大揺れに振動してゐて姿形は定まらぬままに

試行錯誤しながら仏像は彫られてゐた筈なのだ。

さうでなければ、この一寸先は闇の現実の様相に対して

一時も存在出来ぬのがこの如何ともし難きこの吾といふ存在なのだ。

 

嗚呼、封印された記憶の堆積よ、

其を開けるものは何ものぞ。

よもや吾などいふ冗談は已めてくれ。

其は世界だと、此の血塗られた血腥い世界だと言ってくれ。

 

春眠暁を覚えず

 

矢鱈に眠い一日が過ぎていったのです。

どうしても起きてゐることが困難で、

とはいへ、私は何にも疲れてはをらず、

只管に眠い一日だったのです。

無理矢理に起きたところで座ったままに寝てゐる次第で、

どうあっても何かが私を起きさせない力が働いてゐたやうなのです。

そして私は或る女性との他愛もない巫山戯けた夢を見、

さうして私は欲情を夢の中で発露したのです。

その女性は美しく喘いで私を有無も言わずに受け容れてくれたのです。

それが何かの象徴とは捉へる愚行はせずに、

私は女に飢ゑてゐるに過ぎぬとは思ひながらも、

その夢は唯唯楽しかったのです。

 

 

棄てられる

 

一瞥しただけであなたに私が棄てられるのは解りました。

あなたは遠回しに事の確信を何とか語らうとしてゐる苦労は認めますが、

そんな努力は虚しく響き、棄てられるのは私なのです。

歯牙にもかけぬ魅力がない私と言ふ存在に腹を立てたところで

最早手遅れで、これまでの私の歩みがその時に全否定されるその瞬間を唯、待つ心情は、

あなたには解るまい。

と言ひつつも、私を棄てるあなたは心に疚しさを感じてゐるやうで、

口から出る言葉は何ともまどろっこしいのです。

そもそも私にあなたにとって大切なものが欠落してゐて、

それをずばりと仰ればいいのです。

それで事は直ぐに済み、

後腐れもなく私は身を引きます。

しかし、遠回しに私を全否定して行くその言葉の端端には悪意すら感じられ、

あなたが口を濁すほどに私の屈辱は底知れず深くなり、

私の立つ瀬がないのです。

それはまるで外堀を埋められ、そして内堀を埋められしてゆく大坂城のやうな次第で、

いよいよ逃げ場がなくなる私は、最早ぐうの音も出ないのです。

あなたは内心では私を憐れんでゐるやうですが、

憐れんでゐるのは私の方で、

あなたは、実に可哀相な人だと物言はずに伐採される大木の如くに見えるのです。

最後は、さやうならとの一言で今生の別れを告げ、

お互ひに最早会ふことはなく、

過去にお互ひ埋没し、記憶の中でのみの存在に成り下がり、

そして、私は面を上げて次の出会ひを求めて街を彷徨ふのです。

 

異物を吐き出すやうに

 

そいつは異物を吐き出すかのやうに

おれをあしらった。

その手捌きは慣れたもので、

おれは路傍の石と同等に

恰もなき如くに、

否、あるにもかかはらず見出さうとしなければ、

決して見出されることがない運命の存在として

見事におれを扱ったのだ。

それは普遍的なる平等をしたまでに過ぎぬのであるが、

その扱ひに対して癪に障ったおれは、

平等主義者に成り得ぬおれの心の狭隘さに嘲弄の目を内部に向けつつも、

恰も異物としておれを扱ったそいつの遣り口の平等に纏ひ付く欺瞞に対して

憤懣やるかたなしといった思ひのままに、

「ぺっ」と唾棄してそいつと袂を分かったのだ。

 

それがお互ひの為であり、

不快な干渉を起こすことなく、

お互ひがこの世知辛い世の中を生き延びるには必須のことであり、

もうお互ひが葛藤する事なく存在するにはそれ相当の事なのであったのだ。

これからは、おれはそいつに邪魔されることなく存在出来る歓びにしみじみと耽りながら、

冷たい雨が降る中を傘も差さずにびしょ濡れになりながら、

とぼとぼと歩くことの楽しさの中に夢中なのであった。

 

 

異形

 

頭蓋内の闇の中に棲まふ異形のものたちに

何時喰はれるか解らぬままに、

冷や冷やしながら、

また、背中に嫌な汗を流しつつ、

おれはそれでも此の世に佇立しなければならぬ。

 

それは時空間を切り裂くやうにして

立たねばならぬ。

さうぢゃなきゃ、

おれは頭蓋内の異形のものたちに

たちどころに喰はれるのだ。

その恐怖たるや頭蓋内のChaosを知るものは誰もが経験してゐる筈で、

頭蓋内の闇の世界は現実とは位相を異にする世界であることは間違ひないとして、

だからといって、現実に先立つ頭蓋内の闇が特異なものとは決して思はぬが、

とは言へ、頭蓋内の闇は瞑目した瞼裡の闇と繋がり、

そこに異形のものの表象を再現前させながら、

「おれとは?」と何時も謎かけをしてくる異形のものたちは

へっ、全てこのおれが造ったものなのだ。

 

それが当たり前のことだと知りながらも、

異形のものたちは、それでもおれを喰らふべく頭蓋内の闇の中で、

或ひは瞑目した瞼裡の闇の中で待ち構へてゐる。

さう思はずには最早一歩も歩けなくなってしまったおれは、

強迫観念にでも犯されてゐるに違ひないが、

そんなことはおれの存在にとっても、

異形のものたちにとっても痛くも痒くもなく、

唯、此の世に佇立する緊張感に翻弄されながらも、

おれは立つのだ。

 

この二本脚で立つことでしか、

異形のものたちと対峙する術はもう残されてをらぬ。

おれにとって、おれの存在自体が弱肉強食の態を為してゐて、

おれが存在する事が既に喰ふか喰はれるかの瀬戸際でしかなく、

その有様は、世界の縮図でなくてはならぬのか。

 

さあ、喰ひたきゃ喰へばいい。

おれの意識と肉体を失ってすらおれは魂魄となり、或ひは念となってでもここに立つ。

それが定めといふものだらう。

 

 

ふらつきながらも

 

道なき道をふらつきながらも一歩一歩と進むその姿勢に酔ってゐるのか、

陶然とするおれは、悲劇のHero(ヒーロー)にでも為ったとでも思ってゐるやうで、

全く唾棄すべき醜悪な悪臭をプンプンと放ちながら、

此の世に実存してゐるその実存の仕方が全くお粗末なのだ。

それは自覚しながらもおれは、しかし、その醜態が居心地がいいのだ。

 

そんなぬるま湯に溺れながらも

泰然自若としてゐられぬならば、

生存する価値すらないのか。

 

緩やかに蒼穹を流れる白雲に押し潰されたやうに

ぐしゃりと潰れたおれの意識は、

そんなふらつく足取りのおれを見事に見捨てるのだ。

 

さて、意識が潰れた畸形のおれは、

勿論、軀体も同様に歪んでゐて、

その挙げ句、潰れた意識を忘却するべく、

おれは、道なき道をふらつきながらも一歩一歩進んでゐる。

 

さうやって己に酔ふ事でおれは潰れたおれからまんまと逃げ果せてゐるのだ。

それでも蒼穹には相変わらず白雲が流れ、

地平線は蒼穹の奥へと消えてゆき、

おれは自分の位置をすっかりと見失ったゐた。

積 緋露雪

物書き。

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積 緋露雪
Tags: 畸形

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