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中有を彷徨ふ

果たして中有でも此の世と同じ時間が流れてゐるのだらうか。

真夜中まで起きてゐると不意にそんなことが頭を過るが、

例へば中有で道に迷ったならば、彼の世へ旅立った衆生は

此の世を彷徨ふのかもしれない。

それといふのも迷子の御霊といふものは、

衆生の誰もが死は初めて経験することで、誰も死の達人はゐないのだ。

だから、中有で迷へば誰しもが此の世を彷徨ふ亡霊として

いつまでも踏み留まってゐるかもしれないし、

或ひは何かに転生するのを頑なに拒んだものは

自ら敢へて中有を逃げ出し、

成仏せぬままに此の世を彷徨ふのが道理だらうと思ふ。

だからとていって幽霊が此の世にゐるとは言ひ切れる筈もなく、

唯、言へるのは、此の世とは思ってゐるほどに秩序だってをらず

物理法則が成り立つ程度に渾沌としてゐる、

或ひは物理法則を少しでも外れれば、其処は最早渾沌の世なのかもしれないのだ。

 

ならば、中有を彷徨ひし御霊は強力な力をして何かに転生させられるのであれば、

たぶん、迷へるものへと転生させられるに違ひない。

此の世で一番迷へるものと言へば

それは自死を胸に秘めたる人間だ。

多分、中有で迷ふと言ふことは転生しても

すぐにまた、自死して中有に戻る定めなのかもしれない。

 

さうして迷へる衆生は病死や天寿を全うしたものよりも

転生の回数が多く、また、此の世にゐられる時間も少なく、

いつまで経っても自死する人間に転生するのかもしれない。

さうだから自死は禁じられてゐるのかも知れず、

その転生の回数の多さに比べていつまで経っても自死から逃れられぬ定めならば、

いっそ中有に行くことそのものを已めて

唯、此の世を彷徨ふ霊として、或ひは悪霊として

留まることを選ぶに違ひない。

その霊が衆生に憑依すれば、

それは恐怖でしかないのであるが、

しかし、吾らはそんな渾沌の中で生きてゐるのであらうから

甘受しなければならないのかもしれない。

 

南無阿弥陀仏。

此の世を彷徨ふ霊たちよ、自死した己を呪ふべし。

他に憑依すること勿れ。

 

――ぷふい。ちゃんちゃら可笑しいぜ。南無阿弥陀仏だと。そんな呪文は彷徨へる御霊には何の御利益もありゃしない。吾らができるのは只管祈ることだ。それしかできぬ無能な存在が人間だと早く気付けよ。ちぇっ。

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