死んだものは全て自ら死んだことを認識してゐるのだらうか。

中には自ら死んだことを認識出来ずに

中有を彷徨ってゐる死者も少なからずゐると考へた方が

自然と思はざるを得ぬ。

しかし、それは少数派で

多数は自ら死んだことを認識してゐる筈だ。

死者が認識してゐるとは可笑しなことをいふと思ふものが

殆どだと思ふが

死んだものの多くは厳然と己の死を認識してゐる。

だから、甦りがないのだ。

甦りがないといふことは

殆どの死者は自ら死んだことを認識してゐると看做せると思ふ。

とはいへ、死んだものの魂魄は果たして地球に留まってゐるのであらうか。

死が、重力からの解放だと看做せれば

殆どの死者は死する時に

星が死する時と同じやうに

激烈な爆風を発すると私は看做してゐて、

その爆風が一足飛びにこの宇宙の涯を飛び越えて

別の宇宙へと出立するものも少なくないと思ひたい。

此の宇宙しか此の世には存在しないとするUniverseに対して

此の宇宙は数多存在する宇宙の一つに過ぎぬといふ

Multiverseといふ考へ方も存在し、

そのいづれが正しいかは直ぐには答へが出せぬが、

死者はそんなことなど気にせずに

宇宙を超えて自在に飛び回ってゐるのだらう。

と、死後がそんなお気楽なところならば、

生者が次次と死するはずであるが、

生者を生者たらしめてゐるのは、

では、何であらうか。

この問ひが出た瞬間

私の思考は停止して

うんともすんともいはなくなる。

取り敢へずいへるのは

死んだものの死を無駄にしてはいけぬから

死者の思ひを慮って

その意思を繋ぐといふことしかいへぬが、

生者よりも圧倒的な数の死者の前に、

手を合はせる外ないのだ。

 

つまり、死者に手を合はせるために

生者は生きてゐるともいへる。

その死者は自ら発した死の爆風に乗って

宇宙を超えて自在の境にある。

輪廻転生といふ考へもあるが

それこそ、中有で迷った死者でしかなく、

重力からの解放も出来ぬ死者の成れの果てとしての

生き仏として崇めるか。

 

死は厳粛なものである。

それ故、死者はどんなものにせよ、愛おしい。

死者よ、吾は手を合はせるしかない死者が愛おしい。

でも今は吾精一杯生きるのみ。

積 緋露雪

物書き。

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積 緋露雪
Tags: 死者へ

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