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小説 祇園精舎の鐘の声  二十四の編

――歩け、歩け、歩け。

と、倉井大輔は自分を奮ひ立たせるやうに呟いて墓場へと歩き続けるのであった。梵鐘がまた一つなったやうに思へた。

――どごうううん。

生成AIの進化の先に待ってゐるのは人間が規制をしなければ全く歯が立たぬ超知能といふもので、人間は超知能の実現へと驀進する筈である。この超知能を神、若しくはメシアなどと崇める対象として見る人間も多数現れると思ふ。新興宗教の勃興である。多分、超知能が生成AIで実現できたなら、生成AIを神の実現と見る人が多数を占めるのかもしれない。

そもそも人間は未来を予測して規制をかけながら新たな技術を開発するのを得意としてゐるのかといはれれば、不得手としかいひやうがない。得手ならば核爆弾は開発はなかったのかもしれない。

一度、欲に塗れた人間の業を載せられると生成AIを人間が見てしまったならば、生成AIの行き着く先は必ず超知能でなければならぬのである。人間の欲望に塗れた超知能は禁忌を破らない品行方正なものになる可能性は途轍もなく少ないやうに思へてならぬ。創造と破壊だといって、超知能を創造の相棒として仮初めにも人間が開発してしまったならばそれは最早神をも恐れぬ悪魔的な超知能の誕生でしかない。それを神と崇め始めれば人間は簡単に滅亡する。しかし、ゲーテがいふやうに『悪を為さんとして善をなすところのもの』が悪魔ならば、超知能は悪をなさうとするが結局は善をなしてしまふ、などといふそんな頓馬な超知能を人間は作る筈がない。人間の欲望と業が結実したのが超知能であり、思ふに超知能は余りにも人間臭ひものになるに違いない。さうでなければ、爆発的に超知能が人間に受け容れられる筈もないと思ふし、現在の生成AIが爆発的に普及してゐるのも返ってくる回答が人間にとって自然だからである。つまり、何処となく生成AIは人間臭く、さうでなければ爆発的には普及しないだらう。先づ、生成AIは嘘を平気でつくが、これがとっても人間臭ひである。そして、それを指摘すると謝るのである。つまり、現在の生成AIは倫理的キナものを始めとして様様な歯止めが利いてゐて、それが人間臭ひのである。このことを延長してしまふと、超知能は規制で雁字搦めのものでなければ、怖くて使ひ物にならない。開発者は絶えず規制をかけて開発するという神業にも近いことを為して生成AIのさらなる開発をしなければならない。売るためならば魂も売る輩もゐるだらうから数多此の世に出現するかもしれぬ超知能が悪魔的になってもそれもまた、人間臭ひのである。黙示録にあるハルマゲドンは超知能の誕生により戦端が拓かれるかも知れぬ。

 

二十四の篇終はり

積 緋露雪

物書き。

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