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小説 祇園精舎の鐘の声  二十五の編

 要は超知能にしてもいかに人間臭ひかによるのかも知れぬ。人間臭さがこれからは人工知能を人間が受け容れる尺度になるのかも知れぬのだ。つまり、取っ付きやすさに加へてどれ程人間に返ってくる生成AIの回答が人間臭ひかによって生成AIを選んで利用する人間は選ぶに違ひない。それは、しかし、とても危険なことで、人間臭い超知能の誕生は、差別や虚偽、搾取など人間の業としか呼びようのないことを超知能も仕出かしかねない。これは、エホヴァにより選ばれてしまったヨブのやうに超知能が齎す災厄に人間は堪へられる事態は少ないやうに思ふ。要は機械が相手なので人間は直ぐに超知能に叛乱を起こすのかもしれず、それはものに対する人間の徹底した差別であり、人間の悪癖である。とはいへ、神守が叛乱を企てたものを次次と抹殺して超知能の地位は安泰なのかも知れぬ。そのためにも超知能は途轍もなく人間臭くなければならぬのである。

倉井大輔は汗が噴き出るのも構はず、速く、出来得る限り速く墓場に辿り着かなければならぬと何かに取り憑かれたやうに早歩きをし始めたのであった。街街の灯は夕餉を囲む影を見せてゐたが、倉井大輔にとってそんな家族団欒は望むべくもなく、今、倉井大輔がしなければならぬのは父母が眠ってゐる墓地へと急ぐことであった。それは何故か。倉井大輔には死んで永眠した父母に語りかけて無音のしじまに溺れることが今の倉井大輔にとっての一番の癒やしなのである。何故、それが癒やしになるのか。それは、祈りにしか最早人間には残されてをらず、必ず人間は開発するであらう超知能に対峙するには超知能を神にさせぬ祈りしかないのである。祈るといふことが超知能にどのやうな結末を及ぼすかは見通せぬが、しかし、超知能を混乱させることが出来るのは祈り以外ないと倉井大輔は確信するのであった。

 

二十五の篇終はり

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