樹の枝に引っ掛かった深淵

此の世の光景とは思へぬ荒涼とした風景の中、

眼前の枯死寸前の大木の枝には巨大な深淵が引っ掛かってゐて

竜巻の如く何もかも呑み込まうとしてゐるが、

吾のみは深淵が嫌ってゐるのか

深淵に引っ張られることなく大地に佇立してゐる。

風逆巻き暴風が吹き荒れ、

何もかもが反重力の世界に連れてこられたやうに

地上のものは何もかもふんわりと浮き上がっては

轟音を立てて深淵へと飛び込む。

すると深淵から噎び泣く声が轟く。

それは多分に深淵が探し求めてゐるものがないといふ

嘆きなのかも知れぬが、

深淵もまた、深淵のままでゐることに恥ぢ入ってゐるのか。

苦悶に蠢きとぐろを巻く深淵は、

大蛇にでもなりたからうのか、

魂魄のみとなってしまった肉体を失いしものに似てゐる。

さうしていると、

深淵は吾のみを残し世界を丸呑みしたのであった。

吾の足下にもまた、深淵が現れたり。

何故に吾のみ呑み込まれぬのだらうと

不審に思ってゐたところ、

もしかしたなら、

深淵が探してゐるのは吾なのではないかと思ひ当たる。

吾を呑み込むのに深淵どもは皆怯えてゐるのだ。

多分に永劫に探してゐた吾といふものが

眼前にゐるといふのに

手出しが出来ぬのは

深淵に躊躇ひがあるのだらう。

その躊躇ひは何ものかになることへの恐怖であり、

現状維持で温温としてゐたい深淵の怠慢である。

吾はとっくに覚悟が出来てゐて

いつでも深淵に呑み込まれる心づもりではあったが、

深淵が吾に怯えてゐるのだ。

だから、深淵は噎び泣く。

その轟音が宇宙大の大合唱となっては

やがて風音へとなり消ゆる。

このままではいつまでも深淵は吾を呑み込まぬので、

吾自ら深淵へと飛び込んだ。

が、しかし、途端に深淵から吐き出され、

深淵は嗚咽を上げた。

――汝自身になれ!

さういふと深淵はシュルシュルと縮退して行き消えたのである。

すると世界は再び世界として出現したのであった。

積 緋露雪

物書き。

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