玄武が司る北方に憧れて
地球が自転してゐても
殆ど動かずに一点にある北極星の不動性に
吾、達磨を其処に見たのか、
または玄武の象りに憧れたのか
北方神には特別な思ひがあるのは確かだ。
差し詰めヰリアム・ブレイクでいふとユリゼンに当たるのか。
北方は単純に見れば、
寒さが思はれるが、
それはやがて、冷徹で理性的なものへと変化していき
其処に温情は存在しないのものとして語られることが多いが、
しかし、玄武は守護であり、長寿であり、智慧の北方神である。
現代人で玄武に憧れないものなどゐないであらう。
それだけ古代の東洋の思想は魅力的でもある。
玄武は陰陽の太陰をも表してゐて
これまた、とても魅力的なのだ。
何故に吾は北に惹かれるのであらうか。
その大元はぶれないことなのかもしれず、
此の宇宙が大きな帳を張ったものと考へれば、
北は天頂を意味するであらう。
つまり、北は全てを統べてゐるのだ。
差し詰め人間でいへば頭を指してをり
北なくしては物事が始まらぬともいへ
それで吾は憧れるのかも知れぬ。
方位神を思ふとその奥深さに感嘆するが、
果たして、現代人は四方をそれ程までに思ひ遣ることは可能なのか。
思想の多層性。
これが歴史といふものではないか。
晴れた夜、北方の夜空を見上げては
北極星を探し、
其処から北斗七星、カシオペア、
ぼんやりとしたアンドロメダ星雲を特定しては、
その多様さに心躍り、
しかし、何億年後かは最早この夜空の星星は
今の位置にはあらず、
違った様相を表すだらうと想像が羽ばたく。
万物流転。
恒星でもまた、それは免れず、
そもそも此の宇宙が今のままでは満足できずに
生生流転を繰り返すのだ。