埴谷雄高の書く韜晦で見事な文章に惑はされた若者ほど、虚体に惑はされてはならぬ。それは何故かと言ふと、虚体は埴谷雄高のでっち上げた崇高な精神の象徴に過ぎず、虚体に深遠なる意味は全くないのだ。虚体と言へば誰もが烟に巻けることに埴谷雄高はある種の快感を覚えてゐたと思はれ、だからこそ、埴谷雄高は生涯虚体に夢中になれたのだ。

――さあ、新たな旅立ちの時だ。虚体と言ふ逃げ水を超越的に超えて、新たな概念を打ち立てるときが来たのだ。それを私は杳体と呼んで密かに杳体論を(したた)めてゐる。

積 緋露雪

物書き。

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