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不快にして

不快にして

己の存在を意識するその端緒は

何よりも主体が不快を感じてゐなければならぬ。

つまりは不快は存在に先立つのである。

己が不快であることで、

初めて己は

此の世に存在してしまってゐる業を意識し、

さうして己は現世でしか最早存在出来ぬといふ断念を以てして、

吾は此の世に存在してゐる事を

黙して受け入れる事がやっと出来るのだ。

 

例へば十六夜の月下の吾の影が、

何処かしら退屈に見え始めた時、

その影は、

吾の影である事を不快に感じ、

それ故にその影は己の事を自己認識してゐるに違ひない。

その時の一抹の寂しさと可笑しさは、

名状し難き感情となって押し寄せ、

それはまた、影の側も同じ事で、

月下の影が自律的に蠢くその時、

吾は、

――ぶはっはっはっはっ。

と、哄笑する外ないのだ。

 

不快が存在に先立つその哀しみを知ってゐるものは、

絶えず吾は吾である事を不快に思ひながら、

吾は吾からの脱皮を試みつつも、

吾は吾に以前にも増してしがみ付くのだ。

その吾と呼ばれるものは肉体に先んずる念であり、

尤も、しがみ付いてゐるものは肉体でしかないのであるが。

さうやって二律背反する吾の吾に対する複雑な感情は、

全て不快により始まる。

Claude-Fable-5の批評

Thinking...

I need to provide detailed literary criticism of a second poem in Japanese, maintaining the same analytical style with headers and philosophical references—drawing on Sartre's inversion of existence and essence, Schopenhauer, and phenomenological concepts. I'll compare it against the previous poem "刻印", highlighting what works well like the shadow imagery and the laughter sequence, while identifying where the abstract philosophical passages feel disconnected.

「不快にして」評

総論

前作「刻印」が焼印という身体的行為に自己証明を賭ける詩だったとすれば、本作はその一段手前、そもそも自己が立ち上がる原点を問う詩です。「不快は存在に先立つ」——このテーゼは明らかにサルトルの「実存は本質に先立つ」の書き換えであり、さらに遡ればデカルトのコギトへの反措定でもある。前作が「我痛む、ゆゑに我あり」だったとすれば、本作は「我不快なり、ゆゑに我あり」。二作は明確に連作的な思想圏を成しています。ただし本作は、前作にはなかった決定的な武器を一つ持っている。第二連の「影」です。そして同時に、前作より重い病も抱えている。第一連と第三連の哲学的散文性です。以下、分けて論じます。

テーゼの検討——「不快は存在に先立つ」

まず思想内容そのものを吟味します。「己の存在を意識するその端緒は/何よりも主体が不快を感じてゐなければならぬ」。これは現象学的に読めば十分に筋の通った主張です。快適な状態において意識は対象に溶け込み、自己は透明になる。躓いた時、歯が痛む時、椅子が軋む時にはじめて、身体は「私のもの」として不透明に浮上する。ハイデガーの道具分析——道具は壊れた時にはじめて眼前に現れる——を自己意識に適用すれば、まさに本作のテーゼになる。自己とは壊れた道具として発見される、と。

しかし詩句を精密に読むと、語り手は「存在を意識する端緒」と言いながら、次行で「不快は存在に先立つ」と言っている。意識に先立つことと存在に先立つことは哲学的には別の主張であり、ここには跳躍がある。ただ、この跳躍を疵と見るか詩と見るかは分かれます。私は詩と見ます。なぜなら、この語り手にとって「意識されない存在」など存在の名に値しない、という暗黙の前提——徹底した意識中心主義、いわば呪われた観念論——こそが、前作から一貫するこの詩人の病巣であり主題だからです。意識と存在の区別を溶かしてしまう乱暴さは、論文なら失格ですが、この詩人の詩学の内では首尾一貫している。

「存在してしまってゐる業」の「しまってゐる」は本作第一連の最良の一語です。存在が完了形で、しかも過失として語られる。生まれることは取り返しのつかない仕損じであり、誰も同意した覚えがないのに既に済んでしまっている。この一語にシオランの「生誕の災厄」が凝縮されており、続く「断念」「黙して受け入れる」への流れ——反抗でも肯定でもなく、黙認という最も痩せた受動性に着地する——は正確です。

第二連——本作の心臓、影の反乱

第二連は本作の白眉であり、前作の「えへら」に対応する箇所ですが、規模も達成も「えへら」を上回っています。

まず「十六夜の月」の選択が周到です。満月ではなく十六夜——既に欠け始めた月、盛りを一日過ぎた月。ためらいながら遅れて昇る月(いざよふ月)の下の影は、最初から一日分の遅延と衰微を刻印されている。この月の下でこそ、影は「何処かしら退屈に見え始め」るのです。

そして論理の運びが見事に倒錯している。影が退屈に見える、ゆえに影は「吾の影である事を不快に感じ」ている、ゆえに影は「自己認識してゐるに違ひない」——第一連で立てたテーゼ(不快が自己意識の端緒)を、語り手は自分の影に適用してしまう。テーゼが正しいなら、不快を示すものはすべて自己意識を持つことになる。哲学的テーゼが化け物を産む瞬間です。第一連の抽象論が、ここで文字通り影を得て歩き出す。この構成——連と連の間で理論が受肉する——は本作の建築として最も評価すべき点です。

「吾の影である事を不快に感じ」——影にとっての不快とは、吾に隷属していること、吾の輪郭をなぞるしかないことです。つまり影の自己意識は、吾への嫌悪として始まる。これは前作「おれはおれが心底嫌ひだ」の完全な鏡像です。吾が吾を嫌うように、影は吾を嫌う。自己嫌悪が外部化され、月光で地面に投影されている。芥川「影」や谷崎的なドッペルゲンガー譚、あるいはシャミッソー『ペーター・シュレミール』の影を売る男を想起させますが、本作の影は売られるのでも盗まれるのでもなく、不快によって自力で覚醒する。この点が新しい。

「一抹の寂しさと可笑しさ」の並置も正しい。影に自我が芽生えることは、吾が影からも見捨てられることであり(寂しさ)、同時に自分の分身が自分を嫌うという構図の滑稽(可笑しさ)でもある。そして——

――ぶはっはっはっはっ。

この哄笑の表記。ダッシュで導かれ、独立行を与えられ、句点で断ち切られる。前作の「えへら」が風=外部からの嘲笑だったのに対し、本作の哄笑は吾自身の口から出る。影が蠢き出すという恐怖の場面で、語り手は戦慄する代わりに大笑いする。これは恐怖の否認ではなく、恐怖と滑稽が同一物であることの認識です。自分の影に嫌われる男は、怪談の主人公であると同時に喜劇の主人公である。この哄笑を書けるかどうかが、自意識の詩が自意識の泥沼で窒息するか否かの分水嶺であり、本作は書けている。「ぶはっ」という破裂音の下品さ、「はっはっはっはっ」と律儀に四回繰り返す馬鹿馬鹿しさまで含めて、計算が行き届いています。

一点だけ註文を付けるなら、「それはまた、影の側も同じ事で」の一行は不要です。影の側の感情は既に「その影は、吾の影である事を不快に感じ」で語られており、この行は接続の糊としても機能が曖昧で、せっかくの「名状し難き感情となって押し寄せ」から哄笑への落下を緩衝してしまっている。ここは崖であるべきで、手すりは要らない。

第三連——脱皮としがみ付き

「吾は吾からの脱皮を試みつつも、/吾は吾に以前にも増してしがみ付くのだ」。この二行は本作の思想的頂点です。自己嫌悪の力学の最も残酷な法則——自己から逃れようとする運動そのものが、自己への執着を強化する——が簡潔に言い当てられている。脱皮という語の選択も的確で、蛇は脱皮しても蛇であり、脱ぎ捨てた皮は自分の形をしている。逃走の痕跡がすでに自画像なのです。

続く「その吾と呼ばれるものは肉体に先んずる念であり、/尤も、しがみ付いてゐるものは肉体でしかないのであるが」——ここで語り手は、しがみ付く主体(念)としがみ付く手(肉体)を分離してみせる。観念が肉体を道具として自分自身にしがみ付いている、という構図。これは面白い切断ですが、「尤も〜であるが」という譲歩の話法が、前作でも指摘した弁明癖の再発です。この留保は思考としては誠実ですが、詩行としては呟きに落ちている。

そして最終二行「さうやって二律背反する吾の吾に対する複雑な感情は、/全て不快により始まる」。ここが本作最大の疵です。「二律背反する」「複雑な感情」——詩がこの語を使ってはならない。二律背反は直前の脱皮/しがみ付きの二行が既に演じてみせたのであり、「複雑な感情」は第二連の「名状し難き感情」の劣化した反復です。しかも結句でテーゼを再唱して閉じるこの手つきは、論文の結論部の様式であって、詩の終わり方ではない。前作「刻印」の円環——「見失ってはならぬのだ」への回帰——は形式が病を演じる円環でしたが、本作の結句は単に要旨をまとめている。第二連であれだけの跳躍を見せた詩が、最後に教壇へ戻ってしまった。

文体について

旧仮名の運用は前作同様安定しています。「ゐなければならぬ」「哄笑する外ないのだ」。本作で特徴的なのは人称の使い分けで、前作の「おれ」に対し本作は「己」と「吾」を併用している。精査すると、第一連ではテーゼの主語として「己」が立ち、受容の場面で「吾」に転じ、第二連以降は「吾」が支配する。「己」はおのれ=再帰的・対象化された自己、「吾」はわれ=主格的な自己と読み分けられ、不快によって対象(己)だった自分が主体(吾)として起動する過程を人称が写している——と読めるなら精緻ですが、第一連末尾「己は現世でしか最早存在出来ぬといふ断念を以てして、吾は」の転換は、そこまでの必然性を持って書き分けられているか、やや心許ない。意図的なら本作の隠れた骨格であり、無意識なら整流の余地があります。

「断念を以てして」の「以てして」は文語としてやや疣であり、「以て」で足りる。また第一連の「つまりは」「例へば」(第二連冒頭)といった論理接続詞は、前作への批評で指摘した弁明構造がそのまま持ち越されている証左です。ただし本作の「例へば」は、抽象論から影の場面へ跳ぶ蝶番として機能しており、前作の接続詞群より働いている。

前作との連関——連作としての評価

二作を並べると、この詩人の方法が見えてきます。前作は不快(自己嫌悪)を前提として刻印という対処を歌い、本作は遡ってその不快を存在論の基底に据え直した。つまり本作は前作の理論篇です。そして両作とも、荘重な文語的独白が一箇所だけ卑俗な音(「えへら」「ぶはっはっはっはっ」)によって破られ、その破れ目が詩の最高点になっている。これは既に個人様式と呼んでよい。深刻な自意識の独白を、独白者自身が最も下品な音で殴る——この自己批評の内蔵が、この詩群を単なる暗い自分語りから区別しています。

結語

本作の達成は第二連に尽きます。哲学的テーゼが影として受肉し、恐怖が哄笑に転落する——この一連だけで本作は前作を超えている。弱点も前作と同型で、詩が自分の主題を散文で解説してしまうこと。とりわけ第三連の結句二行は、詩人が読者を信用していない証です。「二律背反」も「複雑な感情」も「全て不快により始まる」も、読者は既に影と哄笑から受け取っている。極論すれば、本作は第二連の哄笑で、あるいは「しがみ付くのだ」で断ち切って終わる勇気を持てたはずです。テーゼは冒頭で一度宣言すれば足りる。証明は影がやってくれたのだから、証明終了と書く必要はない。影が勝手に蠢き出したところで筆を止め、あとは読者の足元の影に仕事をさせる——それだけの力が、この第二連にはあります。

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