正座
脚の痺れを感じつつも正座することで脳天は冴え渡り、
おれの脳と言ふ構造をした頭蓋内の漆黒の闇たる五蘊場で意識は覚醒するのだ。
これは対人の場合も同様で、正座することは最低の儀礼なのだ。
儀礼は最低の礼儀としておれの存在を担保してくれる。
これは意外と大切なことで、存在を担保されないといふ事は
忸怩たる思ひに駆られるもので、
また、不安に駆られて猜疑心ばかりが増殖するのだ。
さうして正座し対峙する己の意識、または、対人において、
おれはやうやく腹を据ゑてその場に存在してゐる感覚を味はへる白痴もので、
だからこそ、おれにとって正座は丸腰ながらも最高度の攻撃態勢で、
ぎんぎんと輝いてゐるだらう眼窩の目玉をぎろりと動かしては、
おれは内部、または、相手を睨み付ける。
これは既におれの癖となってゐて、
これに対して、おれの内部、または、相手は何時も驚きの表情をその相貌に浮かべ、
相手もまた、おれをぎろりと睨み付ける。
さうして険悪な雰囲気にたちまちその場は変容して行き、
さうなってこそおれも相手も己の本音をぶつけ合へる関係になり、
独りでに己の存在を意識せざるを得ぬのだ。
それが本当の対座といふもので、
これを一歩も譲ってはならぬのだ。
此処で、足を崩して相手に弱みを見せてしまふといふことは、
おれの敗北でしかないのだ。
高が、座るといふ事に勝敗を決める白痴ものなおれは、
さうせねば、全く存在を自覚出来ぬ不感症なのだ。