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水鏡

微風が戦(そよ)ぎ漣が立つ水面(みなも)に映る真夜中の太虚に心奪はれ、
ぢっとそれを凝視しながら、
――これが此の世の涯に違ひない。
と、思はずに入られぬその美しさが映へる水鏡は
此の世の涯の仮象を確実に、
そして、精確に見せていゐる筈だ。


さうして何をも映す水鏡に此の世の涯を仮象するおれは、
水鏡に要らぬ期待を持ってしまってゐるのかもしれぬが、
此の世の涯が鏡だとするおれは、
何をも映す水鏡こそ此の世の涯の景色を具体的に見せる存在だと思ひ込みたくて、
偏執狂的に水鏡を偏愛してゐるに違ひないのだ。


一陣の風が吹き、
水鏡にまた漣が立つと、
それを重力波の如くに見立てる癖があるおれは、
波立つ水鏡こそがやはり此の世の涯の写しに違ひないと思へて仕方ないのだ。
太虚に昇る十六夜の月が水鏡に映るその景色は、
現存在が見る此の世の涯の具象に過ぎず、
此の世の涯はおれの隣にあるかも知れぬのだ。
おれがゐる場所が宇宙の中心だと言ふ考へは、
誰しも持ちたがる現存在の悪癖だが、
現存在がゐる場所が宇宙の涯であっても何ら不思議ではないのだ。
天動説から地動説へのコペルニクス的転回は、現存在の意識にはまだ、起きてはをらず、
意識的に天動説と思って初めて現存在は、己が宇宙の中心だと言ふ思ひを捨てられるのだ。


ともするとおれは宇宙の辺境にゐるかもしれず、
それはそれでとっても面白い事に違ひなく、
それでこそ水鏡が此の世の涯といふ証左にもなり得るのだ。


見とれるほどの美しき太虚は、水鏡に忠実に映され
おれは尚も水鏡を凝視するのであるが、
それが仮象であっても
おれは一向に構はぬと思ってゐる。


やがてくる死を前にして
この水鏡の美しき太虚の姿を抱くだけで
おれは本望を遂げるのだ。
其の仮象を抱けただけでも幸せといふもの。


再び、一陣の風が吹いて水鏡には漣が立つ。
此の世を波が輻輳する場であるとするならば、
水鏡こそがそれに相応しく、
幾つもの波が重ね合はせられて、
不思議な文様が其処に浮かび、
Topologyの相転移が正しく起きてゐるのが水鏡の水面なのだ。
それを美と言はずして何を美と言ふのか。
秩序と渾沌の境を見せる水鏡の水面では、
それでも太虚が厳然と映ってゐるのだ。
揺らぐ此の世は正しく水面の世界に等しきもので、
水鏡に魅せられぬ存在があるものなのだらうか。

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