犇めく《もの》
一斉に美麗な声でマーラーの「大地の歌」のやうな歌を歌い出した。
それは余りに美しく、そして、余りにも哀しい歌詞で、
かう《吾》の内奥に響き渡るのだ。
――何たることよ。《吾》の羸弱なるその《存在》に対し、
《吾》は歌ふしかないのだ。
嗚呼、《吾》が《吾》に留め置かれる哀しさよ。
そして、現在にのみ放り出されし《吾》は、
未来永劫に亙り《吾》為りし。
過去も未来もともに反転可能な此の《世界》の有様は、
唯、《吾》を哀しませるだけなのだ。
何もかも流されるがいい。
しかし、時間はどうして流れゆく《もの》なのか。
《吾》を一人現在に置いてゆく。
嗚呼、《吾》が《吾》為る事の哀しさよ。
こんなに哀しいことはない。
だが、《吾》は尚も現在を生きねばならぬのだ。
其処は底無しの沼の如く何時果てるとも知れぬ深淵。
現在とは穴凹なのだ。
其処に貉の如く《吾》は生くるのみ。
生くるは孔への陥落、堕落。
さうして、《吾》は杭の如く現在に佇立し、
時空間のカルマン渦が派生する。
さうして《吾》は《吾》が作りしカルマン渦に呑み込まれるのだ。
嗚呼、こんなに哀しいことはない。
《吾》は《吾》為る事の哀しさは、
《吾》にしか《認識》出来ぬのだ。
さうして、《吾》は渦に呑み込まれ、
底無しのその孔に自由落下、若しくは昇天するのだ。
嗚呼、こんなに哀しいことはない。
《吾》が《吾》であることを知ってゐる《もの》は
全てその哀しさの深さを測りかねてゐる。