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無意識、若しくは前意識を疑ふ

存在に果たして無意識、若しくは前意識といふ意識状態は存在するのであらうか。
思ふに、もしかするとそれらは全て
この不合理な日常を持て余した結果の方便に過ぎず、
全てはまやかしに過ぎぬのではないだらうか。
存在に現はれる無意識の表象、若しくは前意識の表象は
唯単にその淵源が見通せない故の方便に過ぎぬのではないだろうか。
無意識、若しくは前意識は、大概が非論理的故に
意識下とは区別してゐるが、
そもそも日常は不合理であり、非論理的なものであり、
意識下の統制にあらぬものである
それでは日常は無意識、若しくは前意識の類ひかと言へば
それが全く的外れな事でしかなく、
日常は歴とした意識下での出来事であり、
それは冷酷な現実である。
それに対峙するために、
存在は無意識、若しくは前意識の状態でなければ、
存在はその存在に堪へられず、
便宜上、無意識、若しくは前意識といふものを持ち出して
日常の不合理な冷酷な有様から目を背け
只管、日常から遁走してゐるだけに過ぎぬのではないか。
そもそも無意識、若しくは前意識の行動はあり得ず、
全ては意識下に統制されてゐると考へると
逃げ道のない存在にとって
此の不合理な日常に真摯に向き合へ、
己の存在の不合理に対しての辻褄が合ふのではないか。
此の世は概して合理的なことは限りなく少なく、
殆どが不合理である。
その不合理を合理で繋ぐことを思考するのが存在の性であるならば、
合理であることは全てにおいて欠陥があるといふ事であり、
合理は存在の途轍もない楽観が成せる業であり、
不合理は何処まで行っても不合理なのである。
此の世に法則が存在すると看做すのはある意味存在の傲慢であり、
それは神への冒瀆に匹敵するのである。
アインシュタインが何ものぞ。
物理法則は日常のほんの一部を合理的に説明したに過ぎず、
日常は合理的な事から溢れ出るのが一般的である。
厳然と現実に存在する日常は夢現ではなく、
その不合理な日常に対する方便として、
存在は無意識、若しくは前意識なるまやかしを持ち出して
日常の不合理に目を瞑るが、
それは全て嘘っぱちであり、
そもそも無意識、若しくは前意識なんぞはないのである。
存在は無意識、若しくは前意識といふ現実に対する緩衝材を作ったために、
冷酷極まりない日常から逃げ果せ、
何時まで経っても
日常を身を以て体験する事をせず、
そうして解らず仕舞ひなのである。
だから、不合理に堪へ切れず、
合理を志向しては
此の世を理解したと自惚れてしまったのである。

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