残酷で芸術的な殺戮は人間の本能なのか
何時から人は独りで自死する忍辱の美学を美学と思はず、
派手な無辜の人達の死を死屍累累と堆く積み上げて、
其処に美を見出すやうになったのか。
そもそも人間といふ存在は殺戮に残酷で芸術的な美を求めるものなのか。
個人的な少ない経験則から鑑みるとさうとしか言へないだ。
何故なら殺戮といふ興奮と恍惚の状態で
人間が求めるのは更なる恍惚状態で、
それを満たすのは芸術的な美しかないのだ。
儚い死は元来、美を含有してゐるものではあるが、
他者を殺戮する快楽は何時しか最期の自己肯定の方法となり、
自己顕示欲を満たすのに他者の死がもってこいの手段で、
自己顕示欲を満たすといふ事はそれこそ恍惚状態を昂進するのだ。
だから安易に他者を殺める事に躊躇ひはなく、
この上ない興奮状態で発作的に他者を次次と殺戮し、
其処に芸術的な美を見出してしまふ誤謬は
人間存在が、そもそも誤謬にあるからであり、
美は変質してしまってゐて、
派手にこそ美があるとの勘違ひが本質かのやうに振る舞ひだし、
そこには奢侈が潜んでゐるのであるが、
人間は何時しか誤謬の自己満足に閉ぢてしまった。
個人的な自死においてさうなのだから、
これが国家による大量殺戮においては
尚更Technology(テクノロジー)といふ論理的な美をも加味した美しい殺戮の方法が
徹底して追求されてゐる。
それはArtificial(アーティフィシャル) Intelligence(インテリジェンス)、
つまり、人工知能によるProgramming(プログラミング)といふ論理による殺戮に
人間は芸術的な美を見出してしまったのだ。
この美への狂信は宗教が曖昧模糊となる現代において
成果がはっきりと確認出来、
また、Programmer(プログラマ)は己のProgrammingにうっとりとし、
恍惚に浸れる宗教なのだ。
自戒なく、
国家の許可があるといふ大義名分の下、
いくらでも大量殺戮出来るといふ歓びに
心打ち振るはせ、
感動する人間のなんと愚劣なことか。
死に芸術的な美を求めだしたならば、
それは宗教なのだ。
そして、さうして無辜の他者達を大量殺戮する中、
仮に己が死んだならば、それは宗教における殉死に等しく、
それは自己満足の極致でもある。
そんなもの、糞食らへ!