惑溺
――本当か? ただ、性交してゐる《吾》に対する客観的な視点が湧きでてしまふ《吾》に幻滅してゐるだけだらう?
眼前に全裸の女性がゐれば、自然と色恋沙汰が始まる《世界》に溺れる事を善しとする根拠がない事《吾》の全的な性交への没入を妨げる。
――子供が欲しいのか?
勿論、子供が欲しいのが、既に性交に執着する歳は過ぎにけり。
性交が文学的な主題になる時代はもう終はったのだ。
――嗚呼、禁忌が次々と破られし二十世紀の文学的な主題、また、哲学的な命題は、
今となっては子供のお遊びでしかなかった。
《吾》とは、幻滅、屈辱、そして 薔薇でしかなかった。つまり、二十世紀の文学に遠く及ばない。勿論、十九世紀の文学にはその足元にも及ばない。
せいぜい現代を生きる《吾》ができることと言へば愚劣な先祖返りでしかなかった。
だが、《吾》に巣食ふ《異形の吾》に何時かは食ひ潰されるその《吾》は、果たして、《吾》と名乗れるのか?
それでも《吾》は《吾》と名乗るのが《他》に対する最低限の儀礼だ。それが、いくら不毛でもだ。