分析哲学全盛の中でも尚
哲学といへば分析哲学のことと同義語になったこのご時世で、
――それって単なる言葉遊びに過ぎぬ。
としか思へぬ私は、
反時代的などとニーチェのやうに
大仰には幟旗を掲げるのも烏滸がましいとはいへ、
分析哲学に馴染めぬ私は
その根本に反アメリカがあるのかもしれぬと思ひつつも、
音楽はブルーズとジャズが大好きな私は、
反アメリカといひながら、
嫌ひになれぬアフリカ系アメリカ人、つまり、黒人が生んだ音楽を思ふと
消極的な反アメリカとかしかいへぬ
何とも宙ぶらりんな立ち位置なのである。
とはいへ、分析哲学は欧州大陸をも席巻してゐて、
この流行の哲学に対して食はず嫌ひなのではないかと
何度も何度も挑戦しやうと試みてはゐるが、
分析哲学の本の二、三頁を読むと
虫唾が走るではないが、
根本的に性に合はぬのである。
数学好きだから量化子などの記号で表はす分析哲学が
嫌ひな訳がないのである筈が
その狐に化かされたやうな分析哲学の方法が、
気に食はぬのである。
この憎悪にも似た感情が分析哲学に対して沸き起こる私は
然し乍ら、空っぽの無学者である。
――今の哲学者は、こんな言葉遊びで可能世界を語ったりしながら、何が愉しいんだらう?
と訝り、言語学が行き着いた先に分析哲学があるのだとしたならば、
これが哲学の進化といへるのか。
分析哲学の淵源を辿ればアリストテレスなどのギリシャ哲学に行き着くが、
私はアリストテレスの哲学が性に合わぬのである。
それは何故か、と自身に問へば
その冷徹なまでに知性的に何事も分析するその様が性に合わぬのである。
私は断然プラトンのイデア論の方が読んでいて愉しいのである。
私の性分が大雑把であることも関係してゐるとは思ふが
ハイデガー哲学のやうな詩的な部分が哲学に全くない分析哲学に対して
それでは哲学ではなく、数学の専門書を熱中して読んでゐる方が
断然愉しい私は、そもそも分析哲学と親和的な論理学が嫌ひなのかといへば
決してそんなことはなく、
論理学は論理学で愉しいのである。
ならば何故分析哲学が性に合わぬのかと自身に問へば
その合理的な考へ方なのかもしれぬ。
合理は私が最も嫌ふもので、
とはいへ、数学などの合理は読んでゐて、
また、問題を解いてゐて物凄く愉しいのであるが、
文章、つまり、存在を合理で解釈することには何とも遣る瀬なさが募ってくるのである。
文章、若しくは存在を数学的に取り扱ふことに抵抗を感じる私は、
Romanticistとの謂れを逃れることはできぬが、
一切、無駄を省く思考方法を採る分析哲学には与できぬのである。
私は分析哲学は一種の流行病に近いと踏んでゐて
時期がくれば分析哲学は廃れると思ひ、
今は静かに身を潜め、独り観念論や実存主義などに耽って
マルクス・ガブリエルの本など読みながら、
来るときに備えやうと思ふのであった。