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小説 祇園精舎の鐘の声 十九の篇

 だから、倉井大輔にとって日常は窮屈そのものであったのである。日常が窮屈といふのは、精神衛生上大変よろしくなく、それをストレスといふのであれば、倉井大輔には日常を生活することでストレスが過重にかかるのであった。これは、最早噴飯もので、窮屈な日常しか送れないことの屈辱に堪へる馬鹿らしさに内心では、
――はっはっはっはっ。
と、笑ひ飛ばしながらも日常の窮屈には暗鬱にならざるを得ぬのであった。何故高度情報化科学技術文明が便利を、言ひ換へれば「楽」を徹底的に追求することがこれほど倉井大輔には「苦」を齎すのか、この埋めやうもない乖離にはお手上げ状態で、当然、倉井大輔は日常が自分の思ひ通りにあるなどとは微塵も思ってゐなかったが、それにしても「楽」を求めての「苦」の現在化のアイロニーには文明の暴走が既に始まってゐて、最早それが破綻するまで誰も止められず、ドストエフスキイが『悪霊』の冒頭で引用してゐる豚の大群の自死の道をなぞってゐるのではないかと、つまり、現代人は皆、悪霊に取り憑かれてゐて己が呪はれた豚であることに気付かずに只管、自死の道を驀進してゐるに過ぎぬのではないかと倉井大輔には思はずにはゐられなかった。
 人類の智の粋を集めた高度情報化科学技術文明は、一つ間違へれば「悪」へ雪崩を打って突進する危ふさを今も携へてゐるが、倉井大輔にとっては「苦」でしかない文明の驀進は、最早留まるところを知らずに、只管前進するにあるとばかりに最早その進歩は誰にも止められぬ化け物と化してゐるとしか倉井大輔には受け取れなかったのである。何せ、人間の手にかかると殺戮は芸術の域に達するまでに殺戮兵器は悲惨な死を齎すが、それは人間の性と結び付いてゐるのか、将又、それは人間の本能なのか、高度情報化科学技術文明は余りに簡単に人を殺戮するのである。倉井大輔の「苦」の淵源を辿れば、それは文明が人間を余りに簡単に殺戮してしまふその危ふさに繋がってゐる。「楽」の本質は人間をいかに「楽」に殺戮するかにあるといふことが根底にあるこの高度情報化科学技術文明に倉井大輔は悍ましさを覚える契機なのであった。そこには「苦」しかないのも頷ける。文明に対してそんな見方しかできぬ倉井大輔は悲観論者なのかもしれなかったが、しかし、文明により、日日何人もの人間が殺戮されてゐるのは事実であり、これは覆すことはできぬ現実なのである。倉井大輔は人類が文明に躍らされて集団自決の道を歩まぬことを願ふばかりであった。
 この一見平和な日常を暮らしてゐるかに見える市井の人人が、文明が生み出したとんでもない殺戮兵器の数数によって殺されないことを冀ふしか倉井大輔にはできなかったが、やはり、倉井大輔は文明に対して楽観視はできぬのであった。世は既に倉井大輔にとって「苦」しか齎さない苦行の場でしかなかったのである。


十九の篇終はり

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