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際にて

いつもだと軽軽と奈落に落ちる吾なれど

今回ばかりは際にて立ち止まりをり。

さうして覗き込む奈落の底は

言はずもがなの闇なれど

ぢっと凝視し続けると

ゆっくりゆっくり渦を巻き出す。

それは正しく吾の心の動きを写したものなれど

渦巻く闇に見蕩れる吾は

やはり、そこへと飛び込む運命か。

すると、吾の視界の際に

柔らかい光の粒が出現し

ゆるりと視界の際を巡る。

それが仮令吾の魂魄であらうが

吾はそいつのなすがままにさせるだらう。

闇と光などといふ

使ひ古された二項対立を持ち出すまでもなく、

柔らかだった光の粒は

その闇との際ははっきりとしてゐた。

仮令脳がさう見させてゐようが

将又それがアリストテレスのいふ形相エイドスだとしても

渦巻く闇に質料ヒレーはなきに等しい。

詰まる所、光に質量がないことが全てを物語ってゐるのか。

例へばどれほどの光度の光が

どれほどの闇と等価なのだらうか。

闇と光を計ることは

そもそもがをかしいのか。

もの皆、アインシュタインによれば

光と等価であるが

その光はどれほどの闇があって輝くといふのか。

この袋小路のジンテーゼは

光が輝くためには

無限大の闇が必要なのだらうといふことに帰する。

闇に没すれば

誰もがその恐怖を知ってゐる。

その恐怖は闇が無限大を想起させるからだ。

人でさへ無限大は持ち切れぬものなれど

脳のみ無限大を持ち切れる。

しかし、そこには恍惚とした

恐怖の底無し沼が存在する。

それから派生したのが夢幻といふもの。

やはり、闇は徹頭徹尾心を写すのだ。

それは闇が無限大故のことか。

際にて吾さう思ふなり。

 

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