移ろひ
流れる雲を見て、坂本龍一は音のない音楽のやうだと最期が迫る時だに形容したが、その変容する様は流麗ながら劇的だから始末に置けぬのである。例へば気流の関係で鬱勃と湧く雲と霽れとの境界では湧き上がった雲が、上昇気流の勢ひを失った時、土筆状に伸び上がった雲は分厚い雲の中に倒れ込むのであるが、その偉容は何やら人間が闇の中にもんどり打って斃れ行く様に似てゐて、さうして次第に己の輪郭を失ふ雲は闇に溶け行く影にも似て個と全体の区別を超えて一、若しくは無限大に収束、もしくは発散するかのやうに此の世と合一して何かの真理を摑み取るやうにしては消ゆる。その神神しくも美麗極まりない様は吾の内部と共鳴しては、吾の統覚を免れた異形の吾の出現を促すのだ。さうして現れた異形の吾はこの吾とは当然、相容れず、絶えず吾を喰らはむとしてその鋭き牙を剝いて闇を纏ふのだ。吾は異形の吾との間合ひを保ちつつ、この状態のまま死んでも尚、異形の吾との睨み合ひを未来永劫続ける覚悟を以てして存在しなければ、異形の吾に喰はれるのは火を見るより明らかなのだが、吾には異形の吾に喰はれたいと言ふ欲求が無きにしも非ずなのである。外界は千変万化してこの上なく美しく移ろひ、然し乍ら、吾の内部は永劫に膠着したまま移ろはず死を俟つのみなのか。しかし、内部の目、それは内部をSearchlightで照らすかのやうな不気味に輝く目に違ひないが、その内部の目で内部を凝視すれば、吾も異形の吾も時時刻刻と変化してゐるのが解る筈なのだ。さうして時は移ろひ、吾の死の時もまた、訪れる。それまでは、精精異形の吾と戯れながらも、吾が存在を断念する狂気を獲得する絶好の機会なのだ。此の世は断念する狂気なくしては一時も吾の存在は存続し得ぬといふことを時が移ろふことで自ら識らずば、憤死しても死にきれぬのが道理といふもので、断念することを体得したものこそある真理を摑むに相応しい存在になり得るのだ。