闇の中の光ほど欺瞞に満ちたものはない
光に希望を見るのは誤謬であると常常思ふが、
その際たるものは今もロザリオで磔刑に処されてゐる基督であらう。
光はしかし、闇なくして輝くことはないが、
だからといって光に希望を見るのは
なんとも無謀といはざるを得ぬ。
つまり、飛んで火に入る夏の虫といふ慣用句があるやうに
此の世の光は近づけば大概は灼熱地獄である。
地獄に希望を見るといふのは
最早殉教を信条としたカルトと何ら変はりなく
カルトに身を投じて自己陶酔の中死ぬのは勝手だが、
光に希望を説く宗教は大抵が他に対して閉ぢた集団で、
それは集団催眠にかかってをり
皆が修行の名を借りた自慰行為をしながら
恍惚の中に溺れる欺瞞を行ってゐるに過ぎぬ。
その時、世界が目を開き、
此の世を一瞥したならば、
世界が自己嫌悪にならぬ方がをかしいのである。
しかし、この自己嫌悪が推力となり、
世界は瞬時も休みなく生生流転する。
つまり、変はるといふことには
必ず自己嫌悪が含まれてをり
それが自在に行われるところが闇である。
闇は寛容にも何ものも呑み込み得、
来る者拒まずである。
だから、闇こそに希望を見なければ、
それは欺瞞であり、
闇こそが千変万化するに相応しい
希望が休まる場所なのだ。