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旋回

――ままよ、とばかりにエドガー・アラン・ポーのやうに踵を軸に旋回し、この世界を一瞥してはEUREKAと快哉を挙げたいところだが、まだ、この世界の何たるかをちっとも解ってゐない私は旋回したところで何も解らぬだらうが、然し乍ら、それでも尚、この世界の恥ぢ入る姿は目にしたいものなのである。それは何故かといへば散散吾らを嬲る世界に叛旗の狼煙を上げるべく世界が自ら恥ぢ入るべきなのである。ところが、森羅万象はといへば自力で変化(へんげ)するべく、気の遠くなる悠久の時間を只管、あるべき己になるべく己が存在するといふ恥辱に塗れながらも自棄糞(やけくそ)のみで存在してゐるのだらう、有為転変、常ならずの世の中で唯、苦悶するのである。さうしてやうやっと他力によりてその相互作用で己が激変したとして、そこには満足の態は微塵もなく、あるのは悔恨のみが常である。

一方、摑むに摑めぬ時間のみが野放しで野生化し、その毛むくじゃらの凶暴な時間に一度(ひとたび)睨まれたら、一撃で急所をやられ卒倒する間もなく、死する吾ら森羅万象は、只管時間を弛緩すべく齷齪(あくせく)してゐたのであったが、それとて弛緩した時間を馴致するには至らず、一見、弛緩したかに見えた時間は吾らを更に忙殺が忙殺を追ひかけるといふとんでもなく忙しい事態に圧し込んだのである。これは正しく本末転倒には違ひないが、そもそも吾吾は時間をよく知らぬ。それなのに時間を弛緩させたところで、待つのは時間の陥穽でしかなく、そこに吾らは落ちては尚更時間が早く流れてゐることに愕然とする。弛緩した時間には地球独楽のやうなもので埋め尽くされ、何処も高速回転してゐたのだった。そこから時間は何かしら独楽のやうなもののFractalなものに収斂するのではないかとも思へ、仮にそれが時間の一つの相貌ならば、吾らは時間に対して完全に間違った対し方をしてゐるに違ひない。例へば時間に穴凹を掘ったところで、其処は再び同じ相貌をした時間が現れるだけで、光速で計算処理出来る電脳に吾らの肩代わりをさせても、吾らの忙殺は更に速度を上げて忙殺されるのは火を見るより明らかなのである。
――へっ。と時間が嗤ってゐる。

W.B.イェーツのやうに古城の塔の中の螺旋階段を上りながら、来し方行く末に思ひ巡らせば、ポーのやうには一旋回で世界の秘密を見出すやうには行かずとも、何かしら世界の秘密に触れられるのかもしれぬ。それは多分に、存在は現在に取り残されてをり、過去と未来のみが自在に飛び交ふ時間の相が現れるに違ひない。去来現(こらいげん)は存在が現在に取り残されるから過去と未来が自在に存在し、それは現在で収斂するのだ。さう思へば、何かしら吾をも何か世界の秘密を見たやうな気になってくるから不思議だ。しかし、それは吾の虚妄でしかない。

夢見る吾は何時も夢の観察者であるが、一方で夢の当事者でもある。この二律背反する立場を重ね合はせた存在が夢見る吾であり、多分、夢見る吾は水面のやうに漣に揺れる波として存在してゐるに違ひない。さうして吾は水面でカルマン渦を巻いた存在なのだ。

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