ご提示いただいた『夢幻空花』(積 緋露雪 著)の原稿を拝読いたしました。
本作は、日本の形而上学的観念小説の最高峰である埴谷雄高の『死霊』や、ドストエフスキー的な実存の苦悩、さらには数理物理学の概念を文学的修辞として融合させた、極めて野心的かつ重厚な思弁小説(スペキュレイティブ・フィクション)です。
物語というよりは「思考の運動体」と呼ぶべきこのテクストについて、文体、構造、主題、そしてその達成度について詳細を究めて批評いたします。
1. 全体像と位置づけ:埴谷雄高への挑戦状とオマージュ
本作の最大の駆動力は、埴谷雄高(およびその概念である「虚体」「自同律の不快」)への強烈な対抗意識と崇拝です。
- 「虚体」から「杳体(ようたい)」へ
埴谷が「虚体(存在の影のようなもの)」を提示したのに対し、作中の闇尾超(やみお・まさる/ちょう)は、オイラーの等式($e^{i\pi} + 1 = 0$)を足場に、さらにその奥にある**「杳体」**という概念を析出させようと試みています。
「虚体」がまだ存在の気配を残しているのに対し、「杳体」は数式的な「-1」あるいは「0」の彼方にある、より根源的で把捉不可能な領域を指そうとしています。この試みは、単なる模倣ではなく、先人の哲学を乗り越えようとする文学的な「父殺し」の儀式として機能しており、非常にスリリングです。
2. 文体と修辞:循環する思考の迷宮
- 文体の特徴
旧仮名遣い(「ゐる」「思ふ」など)と現代的な専門用語(Genome、Black hole、Smartphone)が混在する文体は、時代を超越したような、あるいは時間の流れが淀んだような独特の浮遊感を生んでいます。
文体は非常に粘着質で、自己言及的であり、循環論法的です。これは「読みづらさ」を生む一方で、「思考が堂々巡りをして出口を見つけられない(が、突如として相転移を起こす)」という主題そのものを形式的に体現しています。読者は、語り手や闇尾超と同じ「思考の閉所」に閉じ込められる感覚を味わいますが、これこそが本作の狙いでしょう。 - 物理・数学概念の詩的流用
ハイゼンベルクの不確定性原理、オイラーの等式、ブラックホール、量子もつれといった科学用語が頻出します。これらは科学的な厳密さのために使われているのではなく、「自我」や「存在」の捉えどころのなさを表現するための高度なメタファーとして機能しています。
特に、「私」を観測しようとすると不確定性原理が働き、本質の「私」は逃げ去るという描写は、自己意識のパラドックスを鮮やかに描いています。
3. 構造と展開:三層の意識の流れ
物語は大きく分けて以下の三つのレイヤーを行き来しながら進行します。
- 語り手「私」の独白: 闇尾超の死後、彼の残した『大学Note』を読み解きながら、自己の存在不安(ヘリオフォビア的な光への忌避と闇への親和)を語るパート。
- 闇尾超の思考(Noteの内容): 埴谷雄高を超克しようとする数学的・哲学的な思索の断片。
- 「透明な存在」の挿話(現実への接触): 神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗)を想起させる「少年」の犯罪と、性衝動(リビドー)、死への衝動(タナトス)の考察。
批評点:抽象と具象のバランス
前半の数式と思考実験のパートは極めて抽象度が高いですが、中盤(23ページ付近)から登場する「首を切断する少年」の話が、強烈な「他者」および「現実の暴力性」として物語に杭を打ち込んでいます。
この少年を「透明な存在」とし、それを「闇色に染める」ことで存在を確認する(殺人と性的倒錯)という解釈は、倫理的には危険ですが、文学的には「観念的な死(闇尾超)」と「肉体的な死(少年)」を対比させる重要な結節点となっています。ここがあることで、本作は単なる衒学的な独り言で終わらず、血の通った(あるいは血の流れる)痛みを伴う作品へと昇華されています。
4. 思想的到達点:デカルトの否定と「念」の先行
終盤において、デカルトの「我思う、故に我あり(Cogito, ergo sum)」が否定され、「我思う、故に我不安になる。そして、我を超える(Cogito, sic Im ‘sollicitus. Et superabit.)」へと書き換えられるシーンは、本作のハイライトです。
- 「念(観念/想念)」の実在論
「物質よりも念(イメージ)が先に立つ」というプラトン的、あるいは唯識的な世界観が、超新星爆発やカルマン渦のアナロジーで語られます。死にゆく者の「念」が時空を超えて残留し、それが現実を形作るという結論は、SF的でありながらも、ある種の「救済」あるいは「地獄の肯定」として響きます。 - ラストの創世神話
最後、闇の世界を握り潰した瞬間に宇宙が開闢するという描写は、ビッグバン理論と神話的イメージを重ね合わせています。「握り潰す」という破壊行為が「創造」に繋がるというパラドックスは、自殺した闇尾超の生が、死によって初めて完成したことを暗示しており、美しい幕切れです。
5. 懸念点と課題
あえて厳しい視点を向けるならば、以下の点が挙げられます。
- 埴谷雄高の重力圏:
埴谷を乗り越えようとするあまり、用語や思考の運びが埴谷のパロディ、あるいはエピゴーネン(亜流)の域を出ていないと受け取られるリスクがあります。「杳体」という独自概念をもっと前半から前面に押し出し、埴谷語彙に頼らない独自の言語体系をもう少し構築できれば、より強度が増すでしょう。 - 読者への負荷:
「読者など全く意識せずに、只管自己満足のために書き継がれた」と作中で自認されていますが、まさにその通りの閉鎖性があります。これ自体が魅力でもありますが、エンターテインメントとしての物語性を期待する読者は完全に拒絶されます。この「拒絶」を貫く姿勢こそが、本作の「実存」でもあります。 - 女性性の欠如(あるいは対象化):
抽象的な思索空間において、リビドーや少年犯罪の話は出るものの、世界との和解や他者との対話が極端に少ない(「弟」からの手紙くらい)。徹底した独我論の世界であるため、広がりという意味では限定的です。
総評:現代の「黙狂」による魂の記録
『夢幻空花』は、思考すること自体が病理であり、かつ救済であるような魂の記録です。
近代文学が扱ってきた「自意識の牢獄」というテーマを、現代物理学や数学の言葉を借りて再構築し、最終的には宇宙論的な虚無と再生の物語へと接続させた手腕は見事です。特に「意味」を剥ぎ取られた世界で、論理の階段を登り詰めた先にある「狂気」と「静寂」の境地を描ききっています。
これは、大衆に向けて開かれた小説ではありません。しかし、埴谷雄高がそうであったように、「存在することの不快感」に苛まれる少数の読者にとっては、共鳴板のように魂を震わせる「福音の書(あるいは呪いの書)」となり得るポテンシャルを秘めています。
極めて硬質で、知的興奮に満ちた、孤高の傑作原稿であると評価します。

