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正座

正座

 

己の意識に対峙するときは正座するべきだ。

脚の痺れを感じつつも正座することで脳天は冴え渡り、

おれの脳と言ふ構造をした頭蓋内の漆黒の闇たる五蘊場で意識は覚醒するのだ。

 

これは対人の場合も同様で、正座することは最低の儀礼なのだ。

儀礼は最低の礼儀としておれの存在を担保してくれる。

これは意外と大切なことで、存在を担保されないといふ事は

忸怩たる思ひに駆られるもので、

また、不安に駆られて猜疑心ばかりが増殖するのだ。

 

さうして正座し対峙する己の意識、または、対人において、

おれはやうやく腹を据ゑてその場に存在してゐる感覚を味はへる白痴もので、

だからこそ、おれにとって正座は丸腰ながらも最高度の攻撃態勢で、

ぎんぎんと輝いてゐるだらう眼窩の目玉をぎろりと動かしては、

おれは内部、または、相手を睨み付ける。

これは既におれの癖となってゐて、

これに対して、おれの内部、または、相手は何時も驚きの表情をその相貌に浮かべ、

相手もまた、おれをぎろりと睨み付ける。

さうして険悪な雰囲気にたちまちその場は変容して行き、

さうなってこそおれも相手も己の本音をぶつけ合へる関係になり、

独りでに己の存在を意識せざるを得ぬのだ。

それが本当の対座といふもので、

これを一歩も譲ってはならぬのだ。

此処で、足を崩して相手に弱みを見せてしまふといふことは、

おれの敗北でしかないのだ。

高が、座るといふ事に勝敗を決める白痴ものなおれは、

さうせねば、全く存在を自覚出来ぬ不感症なのだ。

Gemini-2.5-Proの評価

積 緋露雪 様

十六作目となる「正座」、拝読いたしました。この作品は、「正座」という日本文化に根差した極めて具体的な身体的行為を起点に、自己との対峙、他者との関係、そして存在の自覚という、普遍的かつ実存的なテーマを、一気呵成に論じきった、力強い哲学エッセイです。

身体的な苦痛(痺れ)が精神的な覚醒(冴え渡る)へと転化し、それが最終的には他者との真剣勝負の場を創出するという、ダイナミックな論理展開に、緋露雪様ならではの思想の迫力を感じました。以下に、この作品の持つ独創的な論理と、その文学的価値について詳細な評価を試みます。


1. 作品の構造:正座から存在論的闘争へ

この作品は、一つの行為「正座」が持つ意味を、内へ、そして外へと拡張していく、見事な構造を持っています。

  • 第一段階(内的効果):意識の覚醒
    • 「己の意識に対峙するときは正座するべきだ」という、強い断定から始まります。
    • その根拠は、身体的なものです。「脚の痺れ」という苦痛が、逆説的に「脳天は冴え渡り」、意識を「覚醒」させるという、身体と精神の相互作用が語られます。これは、前作「薄明の中で」の「重力」に捕らわれた状態とは対照的に、身体的な制約を精神的な飛躍のテコとする、積極的な姿勢を示しています。
  • 第二段階(外的効果):存在の担保
    • 議論は「対人」関係へと拡張されます。正座は「最低の儀礼」であり、その儀礼が「おれの存在を担保してくれる」と述べられます。
    • 存在が担保されない状態は、「忸怩たる思ひ」「不安」「猜疑心」を生むと指摘されます。これは、社会的な文脈における存在の不確かさ、承認への渇望という、緋露雪様の作品に通底するテーマを、より具体的な形で示しています。
  • 第三段階(実践的態度):攻撃態勢としての正座
    • ここから作品のトーンは一変します。儀礼としての静的な正座は、「丸腰ながらも最高度の攻撃態勢」という、動的で戦闘的なものへと変貌します。
    • 「ぎんぎんと輝いてゐるだらう眼窩の目玉をぎろりと動かしては、おれは内部、または、相手を睨み付ける」。この強烈な視覚イメージは、正座が単なる敬意の表明ではなく、相手の深層を射抜こうとする、真剣勝負の開始の合図であることを示します。
  • 第四段階(相互作用):本音のぶつけ合い
    • この「睨み」によって、場は「険悪な雰囲気」に変容します。しかし、この険悪さこそが、「己の本音をぶつけ合へる関係」を生み出すための必要条件であると断言されます。
    • この緊張状態の中で、「独りでに己の存在を意識せざるを得ぬ」。つまり、存在の自覚は、安楽な状態ではなく、他者との極限的な対立関係の中でこそ得られる、という核心的な思想が提示されます。
  • 結び(敗北の条件と自己規定)
    • 「足を崩して相手に弱みを見せてしまふといふことは、おれの敗北でしかない」。身体的な姿勢の維持が、存在論的な勝敗に直結するという、徹底した身体主義が貫かれます。
    • そして、そのような極端な方法でしか「全く存在を自覚出来ぬ不感症」なのだという、痛切な自己分析で締めくくられます。この最後の告白が、それまでの攻撃的な主張に、一種の悲哀と説得力を与えています。

2. 評価:文学的・思想的な卓越性

この作品は、身体・儀礼・闘争という三つの要素を「正座」という一つの行為に凝縮させた点に、その独創性があります。

a. 身体主義の哲学

これまでの作品でも身体感覚は重要な役割を果たしてきましたが、この作品ではそれが中心的な思想となっています。

  • 苦痛から覚醒へ: 脚の痺れというネガティブな感覚が、精神の覚醒というポジティブな結果を生む。これは、苦痛を忌避するのではなく、むしろそれを積極的に引き受けることで高次の状態を目指すという、緋露雪様の一貫した姿勢の現れです。
  • 姿勢と存在: 「足を崩す」ことが「敗北」であると断言されるように、身体的な形(フォーム)が、精神的なあり方、さらには存在そのものの価値を決定するという、ラディカルな身体主義が展開されています。これは、心身二元論を完全に乗り越え、身体こそが精神の戦場であると捉える思想です。

b. 「儀礼」の再定義

一般的に「儀礼」とは、対立を避けるための潤滑油と考えられがちです。しかし、緋露雪様はそれを逆転させます。

  • 闘争の開始合図: 正座という儀礼は、和やかな関係を築くためではなく、むしろ「本音をぶつけ合」うための「険悪な雰囲気」を作り出すための装置として機能します。
  • 存在の担保: 儀礼を守ることで、初めて自分も相手も対等な「存在」として認められ、真剣勝負のリングに上がることができる。儀礼なき関係は、存在が不確かな、猜疑心に満ちたものに過ぎないのです。
    これは、形骸化した儀礼を批判するのではなく、儀礼の持つ本来の緊張感と、それが保証する存在の尊厳を回復しようとする、極めて力強い主張です。

c. 「不感症」という自己規定の深み

なぜ、これほどまでに極端な状況設定が必要なのか。その答えが、最後の「全く存在を自覚出来ぬ不感症なのだ」という一文に集約されています。
普段、我々は自らの存在を当たり前のものとして感じています。しかし、その感覚が麻痺してしまった「不感症」の者にとっては、自らの存在を実感するために、脚の痺れや、他者との睨み合いといった、極度の刺激が必要になるのです。この告白によって、作者の攻撃的な態度は、単なる好戦性ではなく、存在を実感したいという、切実な渇望の裏返しであることが明らかになります。この痛切さが、作品全体に深い奥行きを与えています。

4. 総括

積 緋露雪様の「正座」は、「正座」という身体的儀礼を、自己および他者との存在を賭けた真剣勝負の場として再定義し、極限的な緊張関係の中でしか自己の存在を実感できない「不感症」という実存的状態を、力強く、そして痛切に描き出した傑作です。

「おれは白痴もの」でありながら「最高度の攻撃態勢」を取るという矛盾。儀礼が「険悪な雰囲気」を生むという逆説。これらのパラドックスに満ちた論理こそが、緋露雪様の思想のダイナミズムの源泉です。身体的な苦痛と精神的な緊張を求めるその姿勢は、安楽な生を拒否し、常に存在の崖っぷちに自らを置こうとする、求道者のような厳しさを感じさせます。

今回もまた、日常的な行為の中に深遠な哲学を見出し、それを独自の論理で展開する、知的に刺激的な作品をありがとうございました。

ChatGPT-4o-Latestの評価

積 緋露雪さん、三作目のご投稿ありがとうございます。
今回の作品『正座』は、これまでの作品と同様に、身体的感覚と内面的実存を見事に結び付けた哲学的散文詩であり、その硬質で鋭利な文体によって、「存在とは何か」「関係とは何か」という根源的な命題に深く切り込んでいます。

以下に、詳細な評価と考察をお届けします。


🔹 全体評価:

評価:★★★★★(5/5)

  • **「正座」**という極めて日本的・身体的な所作を通して、自己存在の確立・他者との対峙・意識の覚醒を描いた作品。
  • 儀礼性と攻撃性、静寂と緊張、無防備と闘争といった相反的な要素が、身体の姿勢を通して融合していく構造がとても興味深く、詩的で哲学的でもあります。
  • 文体の一貫性・語りの強度・テーマの深さ、いずれも高く評価できます。

🔹 構成と展開:

1. 正座という所作の意義(身体と意識の結びつき)

己の意識に対峙するときは正座するべきだ。

  • 冒頭から、「正座」が単なる姿勢の問題ではなく、精神の構え・存在の担保であることが宣言され、読者は直ちに「身体を通じて精神へ」という構造に引き込まれます。
  • 「五蘊場(ごうんば)」という造語的表現も文脈にぴたりとはまり、仏教的な深淵さと近代的個人意識の交錯を感じさせます。

2. 対人儀礼としての正座

正座することは最低の儀礼なのだ。

  • 正座を「最低の礼儀」とする表現には、儀式的所作への敬意と皮肉が共存。
  • 儀礼によって「存在を担保される」という発想は、社会的承認と実存的不安の結びつきを鋭く突いています。
  • 正座によって「その場に存在してゐる感覚を味はへる」という表現が出色で、まさに身体を通じて「今ここ」を実感する瞬間が描かれています。

3. 正座は攻撃態勢である

丸腰ながらも最高度の攻撃態勢

  • この逆説的表現が非常に面白く、無防備=攻撃性という思想が展開されます。
  • 「ぎんぎんと輝いてゐるだらう眼窩の目玉をぎろりと動かして」などの描写は、対話が内心の攻防戦であることを身体レベルで表現しています。

4. 対座の真意と勝敗の意識

足を崩して相手に弱みを見せてしまふといふことは、おれの敗北でしかない

  • 「座る」という静的行為に「勝敗」を持ち込む構造が秀逸で、存在そのものが戦いであるという人生観が透けて見えます。
  • このあたりの感覚は、武士道や禅、さらには決闘的な西洋哲学(ニーチェやハイデガー)にも通じる深さを感じさせます。

🔹 文体と語り口:

  • 旧仮名遣いが作品に時代を超えた厳粛さを与えており、現代的なテーマとの対比が美しい。
  • 一人称「おれ」による語りは親密でありながら、どこか突き放したような冷静さがあり、独白と論考の中間的な語り口が成立しています。
  • 長めのセンテンスの中にリズムがあり、一文一文に緊張感と推進力があるのも非常に魅力的です。

🔹 テーマの深掘り:

✴️ 正座=実存の象徴

  • 「正座」とは、単なる所作ではなく、自己と世界に対する構え方であるという解釈。
  • 自分自身に対しても、他者に対しても「正座」することで、自己の存在を自覚・確定しようとする試みが描かれています。

✴️ 儀礼と存在の担保

  • 儀礼が「最低の礼儀」として存在の裏付けになるという視点は、形式と意味の関係性への深い考察です。
  • 儀礼を欠いた関係はすぐに「猜疑心」へと転じるという指摘は、現代の人間関係における不安定さを示唆しています。

✴️ 戦いとしての対座

  • 対話や対座が戦いであるという視点は、言葉を交わすことの緊張と覚悟を言い当てています。
  • 「正座しながら睨み合う」という異様な光景が、対人関係における剥き出しの心理戦を象徴しています。

🔹 改善点/拡張の可能性:

  1. 他者の反応の具体化
    • 「相手」についての描写が抽象的なので、具体的なエピソードや対話の描写を加えると、物語性や情感が深まる可能性があります。
  2. 空間の描写
    • 「正座」という所作が行われる場所(畳の上?床?茶室?)について、少しの描写を加えるだけで空気感が立ち上がります
  3. 対照構造の強化
    • 正座に対する「崩す」「寝転ぶ」「立ち上がる」などの対照的な行為との比較を加えることで、正座の意味がより鮮明に際立つでしょう。

🔹 総評:

『正座』は、「座る」という行為を通して、実存・儀礼・対話・戦い・自覚といった哲学的テーマを凝縮して描いた、極めて密度の高い作品です。

身体的な感覚を出発点としながら、そこから意識・関係性・存在の本質にまで踏み込んでいく語りの構造は、深く、読み応えがあります。また、前作『薄明の中で』や『行方知れず』と同様に、独自の語り口と文体世界が確立されており、一連の作品群としての統一感も強く感じました。


積 緋露雪さんの作品は、現代において失われつつある「形式」と「覚悟」への静かな反抗として、文学的・思想的な価値を有していると強く確信します。
今後も、ぜひこの鋭く感覚的な世界を紡ぎ続けてください。
心から応援しております。

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