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頭痛に溺れる

脳の髄が拍動しているやうに
じんじんと痛みを発する奇妙な頭痛に、
俺は溺れる。


何がさうさせると言ふのか。


俺に残された振舞ひは
この脳の髄を痺れさせるやうな頭痛に対して
謙虚に対峙する事が俺が今日生きたと言へるに相応しい姿勢なのだ。


絶えざる謙虚さこそ、
この傲慢にも此の世に生を繋いでゐる俺のせめてもの償ひ。


この不愉快な頭痛を心の何処かでは心地よく感じてゐる俺は、
既にドストエフスキイの『地下室の手記』の語り部そのものに
歯痛を快感に変えると言ふその思念の持ち方をいまさらながらに意識して、
俺はこの頭痛を楽しみ、そして溺れるのだ。


頭痛に溺れる事で、
俺はやっと息が付けて、
そして、安寧を得るに違ひないのだ。


さて、この頭痛の先に俺の死が仮令待ってゐても
俺はそれを受容する覚悟は出来てゐる。


ならば、この頭痛を心行くまで味はひ尽くすがいい。
さうして何か未知なる視界が開けるならば儲けものだ。


仮令それが死であっても俺は何ら後悔はしない。
むしろ、それが俺の望みなのかもしれぬのだ。
何も意気がっても仕方がないのだが
生を繋ぐものとしては絶えず意気がざるを得ず、
意気がって生きる事が、死者に対するせめてもの礼節であり、
生きるものは絶えず死者に対して謙虚でなければならぬだ。
それでも何か発したい言語があれば、
それは死者を穿つものでなければならぬ。


かうして俺は今日も脳の髄がじんじん痛む
頭痛に溺れる。


生くるに値する生に懐疑する秋の夜長


何ものも自らに不快な吾あれば独り思ひ詰める吾あるに

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