時間の矢なんぞ嘘っぱちである
それが虚時間だとしてもその有り様は一次元に収めてしまってゐるので、
其処から時間は”時間の矢”として表象されるのであるが、
時間は経過した差異により数値化される。
しかし、それが正しいと言ふ根拠は何処にもないのである。
時間は先験的な事象故にその表象は数直線的かつベクトル的であるのであるが、
時間もまた振動子として捉へることが自然なのである。
Analogue(アナログ)時計を例に出せば、
短針長針が時計回りで回ることで時間の経過が計れるが、
回転は振動以外の何ものでもないことは三角関数を知っている人であれば解る筈である。
デジタル時計は例えば古いところでは水晶の振動数により時間の経過を表してゐたのである。
つまり、時間の矢なんぞ嘘っぱちで、
時間もまた一つの振動子の連なりでできてゐると考へた方がとっても自然なのである。
なのに、何故か、時間は今に至るまでその表記は全く変はらず、
Δtといふ“差異”により数値化されるので、
其処には微分積分の這ひ入る余地が残されてゐたのであるが、
ニュートンも時間を先験的な事象とせずに
よくよく考へて時間もまた振動子と、つまり、ライプニッツの見方を少しでも取り入れれば、
物理学は時間に対して手出しができないやうな柔な学問になってゐる筈はないのだ。
また、現行の世界認識は時間を振動子として捉へれば、
全く変はる筈である。
時間を振動子として看做したならば、
世界認識は現行の世界として現はれる筈はなく、
別=世界、例へば渦巻きが此の世の一単位として立ち現はれ、
さうすると、自然は渦巻き相似体として存在するのである。
つまり、此の世は渦巻きが自然な在り方で、
何ものも諸行無常の宿命を背負って此の世にある渦巻きとするならば、
渦巻きは何時かは回転を止めて衰滅するのである。
つまり、時間もまた、衰滅する。
さうして、世界は屹立するのだ。
そして、世界もまた、ちぇっ、衰滅するのだ。