時間の矢なんぞ嘘っぱちである  

時間の矢なんぞ嘘っぱちである 時間を特別扱ひして、 それが虚時間だとしてもその有り様は一次元に収めてしまってゐるので、 其処から時間は”時間の矢”として表象されるのである。 それゆゑに時間の差分により時間は数値化される。 しかし、それが正しいと言ふ根拠は何処にもないのである。   時間の先験的な表象は数直線的かつベクトル的であるのであるが、 時間を過去と現在、未来と現在、そして、未来と過去の往還として捉へることが自然である。   時間と言ふものをよくよく見れば、 それが過去、現在、未来と、一方向に流れてゐないことはよく解る筈である。 例へば内観してみれば未来も過去も現在に収斂する。 思念は絶えず過去を見ながら過去の解釈は現在において変化して已まない。 過去は固定していないのである。 絶えず変化する現在の思念の有様と同様に 過去もその見方は現在から振り返ったときに 全く別のものへと変はってゐるのが一般的である。 時間は主体の存在することで流れてゐるのが初めて解るのであれば、 主体内部での時間の往還運動は外部にも適応可能であらう。   例へば距離の問題で、距離が生じると言ふことは それは主体から見れば全て過去に存在することになる。 ところがそれに目的地が生じれば過去にあったものが 未来へと変化する摩訶不思議なことが起こる。 主体は絶えず現在に留め置かれるので、 現在を基軸に過去と未来は反転するのだ。 そして、主体は目的地に急ぎつかねばならぬなら、 未来と現在、そして、現在と過去、未来と過去は絶えず往還してゐる。 これらは全て主体に起きてゐる事に過ぎぬが、 時間が主体なしには流れないならば、 時間が一方向に流れると言ふのは それに当たらない。 更に言へば、これが ――空間的隔たりが志向性(目的地への志向)によって時間的意味を帯びるという現象に過ぎぬと言ふ ハイデガーの「気遣ひ」に帰せるではないかとの反論があらうが、 然し乍ら、現在において時間と空間に分ける見方は 相対論を持ち出さなくとも古典力学的な見方であり、 時間と空間は分けられないのである。 即ち、空間が往還するならば、時間もまた、往還してゐると看做せるのである。 それが時空間と言ふものである。 ゆゑに時間だけを取り出して時間の矢と言ふ論は そもそもがをかしいのである。   それゆゑに少なくとも主体において時間の矢なんぞ嘘っぱちと言へる。 主体は今日も時空間を現在を支点に自在に往還してゐる。 だから、主体は生存できるのだ。 時間の矢は死体にのみ有効である。 Claude-Opus-4.8の初見の批評 Thinking… The user has submitted a…
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2026年6月7日 0