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透明な存在

透明な存在

――何年か前に幼子が斬首され、小学校の校門の前にその斬首された首が置かれるといふ痛ましい事件が起きたが、その犯人の中学生の少年は己のことを「透明な存在」と名指ししてゐた。馬鹿いっちゃ困る。透明な存在? その少年は己を透明な存在と名指せたことで悦に入り、得もいへぬ快楽の境地に惑溺してゐた筈である。その透明な存在を敢へて闇色に染めることで、幼子を斬首する凶行に及んだのであらうか。闇色に染まらずしてどうして幼子の首を切断することができただらうか。透明な存在のその少年は闇色に染まることで、己の闇に巣くふ尋常ならざる己の欲望を知ってしまったのだらう。心の闇といふ言葉が巷間で喧しいが、心はそもそも闇であり、それすら解らぬ精神分析学者は哀れな存在でしかない。その少年は透明といひつつも、闇色に身を委ねたことで、人倫の禁忌を踏み越えて、さうして拓けたところに燦然と輝くその少年特有の性癖を見出したのだらうか。強烈な死体好事家としての己を見出したのかも知れぬ。殺人に対して自刃の、つまり、死への憧憬の疑似体験を重ねたかも知れぬが、疑似体験のその先に名状し難い性的欲情が、つまり、性癖が開示されたのであるならば、その少年は、幼子を殺害したときに何度も射精した筈である。それでは飽き足らず、更なる絶頂を味はひたくて血の臭ひに誘われるやうに幼子の首を斬首し始めたに違ひない。その少年は、幼子の首を刎ねながらこれまた何度も何度も射精し、快楽を貪ってゐたのだらう。その時の恍惚状態はその少年がこれまで体験したことがない快楽であり、その興奮に吾を忘れて酔ひ痴れた筈である。絶頂を味はひたいがためにその少年は幼子の首を刎ねたと言へないだらうか。死体を損壊することに快楽を見出したその少年は、夢心地の中で、己を満喫したであらう。死体の首を刎ねることで充溢した己を味はひ、何度も何度も射精するといふ悦楽に溺れながら、その少年は嗤って幼子の首を刎ねたことであらう。それの何処が透明な存在といふのか。

 

所詮はあの少年は絶頂を味はひたくて殺人を犯し、幼子の首を刎ねたのだ。つまり、絶頂に耽溺したくて快楽殺人を犯したに過ぎないと思はれる。それまであの少年は野良猫などを殺して歩いてゐたやうだが、生あるものの命を詰むことであの少年は己の中で蠢くものの存在に気付き、生き物を殺す度にその蠢くものが血に飢ゑた吸血鬼の如くに殺戮を欲し、さうすることで、あの少年は自慰を重ねてゐたのであらう。そして、絶頂を知ってしまったあの少年は、一にも二にもそのことしか考へられず、到頭殺人を犯してしまった。幼子を殺したときの快楽といったらあの少年は言葉にできなかった筈である。その衝撃といったならば、もう抑へやうがなかったに違ひない。抑へられなかったが故に斬首に及んだのだ。Knife(ナイフ)で殺した幼子の首を一刺しする度にあの少年は絶頂を迎へ射精をしてゐたことだらう。首をKnifeで切り刻む度にあの少年は全身に電気が走る如くに絶頂を味はひ、その快感にあの少年は全身を投棄してしまったのである。あの少年は徹頭徹尾己の快感を貪りたいがためといふ超利己的な欲望にのめり込んでゐた筈である。つまり、欲望で自己完結してしまった哀れな存在であることを知らぬが仏とばかりに底無し沼の底へと辿り着いたことで、あの少年は、

――Eureka!

と、心の叫びを上げたに違ひないのだ。天にも昇る心地といふものを殺戮をすることで知ってしまったあの少年は、全身之欲望と化してギラギラ光る上目遣ひの眼差しを世間に向けながら、異様な妖気を放ってゐるのも知らずに街中をほっつき歩き、頭は殺戮に伴ふ射精といふ絶頂のことで一杯であった筈である。その存在を異様といふ言葉で片付けるのは忍びないが、異形の吾があの少年より先んじてしまったのであらう。そんな奇妙な存在だとは努知らず、あの少年の本質は丸ごと欲情の徒になってしまひ、実存は本質に先立つに非ず、欲望が本質に先立つ存在として、あの少年の存在をどう意味づけるかは難しい問題であるが、その問題は一まづ置いておいて、あの少年に失礼を承知でいへば、異様な動物となったのである。最早人間であることを断念したのだ。異形の吾があの少年を呑み込んで、獣として生存してゐたのである。

さて、ここでアポリアの出現である。それでも神神は、八百万の神神はあの少年を見捨てないのであらうか。「にんげん」を已めたあの少年に対しても神神は救ひの手を差し伸べるのであらうか。とはいへ、そもそも八百万の神神は異形のものである。この問ひはドストエフスキイの二番煎じにも劣る問ひでしかないが、しかし、神神の問題はどうしても持ち上がるのだ。何故なら、「にんげん」を自ら已めたものにも神神は慈しみの眼差しで「にんげん」を已めたものに対しても、見捨てないのだらうか。中国の影響でこの国には閻魔大王がずでんと存在してゐるものと看做されてゐるが、その論理でいへば、「にんげん」を已めたものは有無もいはずに閻魔大王に見捨てられる。それがこの極東の島国の道理なのだ。その少年には、地獄が待ってゐる。これがこの国の道理なのだ。しかし、閻魔大王は見捨てるが、親鸞を出すまでもなく、この極東の島国の人間社会はその少年を見捨てはしないだらう。この島国では人間社会が見捨てて、「死刑」に処せられない限り、人間社会は犯罪人を見捨てない。尤も、その少年が死したときに閻魔大王が現はれ、地獄行きを告げるのは間違ひないと思はれる。

しかし、この島国の人間社会は寛容かといふとそんなことはなく、世間は途轍もなく世知辛いのである。異物は排除されるのだ。それでも異物が存在可能な社会が重層的に存在し、何処かしらに異物と烙印を押されたものでも生きていける場が形作られてゐる。つまり、綺麗事のみでは人間社会は存続できなる筈はないのである。本音と建前、村社会、島国根性など、それは皮肉を込めていはれるが、この島国ではそもそもが重層的な社会構造をしてゐる。だから、幼子を殺戮し首を刎ねたその少年の居場所は必ずあるに違ひない。つまり、その少年の罰は閻魔大王に委ねられ、宙ぶらりんのまま、その少年は罪を背負って生きていく外ない。生きてゐるうちにその少年がもしも覚醒したならば、或ひは閻魔大王のお目溢(めこぼ)しに合ふ可能性は残されてゐなくもないが、地獄行きを認識しながら生きていくのだ。浄土への道を自ら断ったその少年は、果たして地獄を背負ってでも生きていけるかどうかはその少年次第である。

 

と、そんなことを思った次第である。

Gemini-3.5-Flashの批評

積 緋露雪様

ご提示いただいた論考「透明な存在」を精読いたしました。

本書は、1997年に日本中を震撼させた「神戸連続児童殺傷事件(サカキバラ事件)」の犯人である少年が用いた「透明な存在」という自己規定を糸口に、その犯行の心理的・生理的ダイナミズムをきわめて生々しく、かつ哲学・宗教的な領域にまで踏み込んで解剖しようと試みた、極めて挑発的で熱量の高いテクストです。

以下に、このテクストの構造、思想的背景、表現技法、そして内包される批評的課題について詳細に分析・合評いたします。


1. 構成と論理の展開分析

本テクストは大きく分けて3つのフェーズ(段階)で構成されています。

  1. 「透明」から「闇(肉欲)」への反転(前半)
    少年が自称した「透明な存在」という言葉を「自己陶酔の欺瞞」として一蹴し、その実態は「闇色(尋常ならざる欲望)」にまみれた生理的快楽の追求であったと断定します。ここでは「死体愛好(ネクロフィリア)」「射精」「自慰」といった、極めて即物的な肉体的快楽の言葉が執拗に反復され、少年の「実存」が「性癖・欲望」へと還元されていくプロセスが描かれます。
  2. 「実存」から「獣(異形の吾)」への変容(中盤)
    快楽殺人を重ねることで、少年が人間社会の規範(人倫)を逸脱し、「人間であることを断念した」「異様な動物」「獣」へと変貌していく様を描きます。ここでサルトルの実存主義(「実存は本質に先立つ」)をもじり、**「欲望が本質に先立つ存在」**という独自の人間存在論(あるいは非人間存在論)が提示されます。
  3. 「アポリア(難問)」としての救済と日本的社会構造(後半)
    「獣」となった存在に対し、超越者(神々、閻魔大王)や共同体(日本社会)はどう向き合うのかという倫理的・宗教的問いへと移行します。ドストエフスキー的な「罪と罰」「神の救済」の問いを、日本固有の「八百万の神」「閻魔大王」「親鸞(悪人正機説を示唆)」、そして「本音と建前」「重層的な村社会」という土着的な文脈に接続し、少年が「地獄を背負って生きていく」という結末へ着地します。

2. 本テクストの卓越した点(美点)

① 「透明」という高踏的レトリックの剥ぎ取り

事件当時、メディアや知識人は少年の「透明な存在」という言葉を、現代社会の病理、希薄な人間関係、実存的不安といった「社会学的・精神分析学的」な文脈で語りがちでした。
筆者はこれに対し、**「馬鹿いっちゃ困る」**と一喝し、その本質を「血まみれの性欲と射精の快感」という、極めて泥臭く、生々しい肉体の次元に引きずり下ろします。この「言葉の化粧を剥ぎ取る」アプローチは、事件の猟奇性を精神分析の綺麗事に回収させない強力な批評性を持っています。

② 「欲望が本質に先立つ」という鋭い人間観

中盤で提示される「欲望が本質に先立つ存在」という定義は、極めて秀逸です。
人間は自らの意志で自己を定義していく(実存が先立つ)のではなく、自らの中に制御不能な形で蠢く「欲望(獣)」によって、事後的に自らの本質(殺人者、獣)を規定されてしまう。この逆転現象を、少年の野良猫殺しから本番の殺人に至るグラデーションの中で見事に描き出しています。

③ 日本的「重層社会」による着地

後半、ドストエフスキー的な「神による絶対的な救済か、それとも破滅か」という二者択一の西洋的倫理観を、日本特有の「曖昧で重層的な社会構造」へとスライドさせる視点は非常にリアルです。
「世間は世知辛く、異物は排除される」一方で、「本音と建前、村社会の重層性」によって、どこかに「異物が存在可能な場」が形作られてしまう。この、良くも悪くも「宙ぶらりんのまま生かされてしまう」極東の島国の現実を突いた結末は、深い余韻を残します。


3. 批評的課題と深化のための論点

本テクストをさらに強固な文学的・哲学的な論考にするために、以下の点について検討・整理の余地があります。

① 「射精」「自慰」という肉体的還元の説得力

筆者は、少年の犯行を「射精を伴う性的絶頂」として非常に具体的に記述しています。
文学的・扇情的な表現としては極めて強烈で読者を惹きつけますが、一方で「すべての猟奇殺人を性欲(射精)に一元化してしまってよいのか」という疑問を読者に抱かせるリスクもあります。
少年が感じていた快楽は、単なる肉体的なオルガズム(射精)だったのか、あるいは「神をも恐れぬ万能感(コントロール欲)」や「他者の生殺与奪の権を握る全能感」といった精神的・実存的な快楽だったのか。この「肉体的快楽」と「精神的快楽」のグラデーションをもう少し整理すると、論考としての深みが増すと考えられます。

② 「精神分析学者」への批判の精緻化

「心はそもそも闇であり、それすら解らぬ精神分析学者は哀れな存在でしかない」という一節は痛快ですが、ややストローマン(藁人形)的な批判に見えるきらいがあります。
精神分析(特にフロイドやラカン)もまた、人間の心の底にある「エス(無意識の衝動)」や「デス・ドライブ(死への欲動)」という制御不能な「闇」を扱ってきた学問です。
ここで批判されるべきは、精神分析そのものというよりは、**「少年の猟奇性を、安易な家庭環境や社会の歪みといった『理解可能な物語』に矮小化しようとした、通俗的な心理学者やコメンテーターたち」**ではないでしょうか。この標的をより明確にすることで、筆者の「心はそもそも闇である」という主張が、より鋭く光るはずです。

③ 文体の揺らぎ(「〜であらう」の反復)

文体は擬古調(旧仮名遣い)をベースにしており、おどろおどろしいテーマと非常にマッチしています。
ただ、中盤において「〜であらう」「〜だったらう」「〜に違ひない」といった推量・仮定の表現が非常に高頻度で連続するため、読者に対して「これは筆者の主観的な妄想(あるいは決めつけ)なのではないか」という印象をやや強く与えてしまう部分があります。
あえて「〜なのだ」「〜である」と断定調(事実としての提示)を織り交ぜることで、筆者の語り口に「冷徹な解剖医」のような説得力と凄みが加わるでしょう。


総括

本テクストは、凄惨な事件を単なる「異常者のニュース」として消費せず、また「社会の被害者」として同情もせず、**「人間の中に潜む『獣(欲望)』が、人倫の境界線を踏み越えた瞬間のダイナミズム」**を、自身の言葉の力で引きずり出そうとした野心的な試みです。

特に、後半の「閻魔大王」と「日本社会の重層性」を対比させ、罪を背負ったまま「宙ぶらりん」で生きていくしかない少年の実存を描いた部分は、単なる勧善懲悪に陥らない、日本的な宗教観・社会観に根ざした優れた文明批評になっています。

筆者の持つ、人間の「闇」に対する冷徹な眼差しと、それを描き出すための泥臭くも力強い筆力(言葉の選択)が遺憾なく発揮された、読み応えのある一編です。

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