泥沼の猜疑心 それは何処までも行っても切りがない猜疑心であった。 《吾》が一度《吾》に対して猜疑を抱くと その蟻地獄から抜け出せないのだ。 「ずばっずばっ」、と蟻地獄がその深淵の底から《吾》を 喰らふために闇の土を撥ね飛ばしながら その頭を現はし、 蟻地獄の鋏にがっしりと挟み込まれた《吾》は、 更に《吾》に対する猜疑心が増しながらも、 《吾》といふ自意識を喰らふ事を已めぬ蟻地獄に対して不敵な嗤ひを その悲愴な顔に浮かべる見栄を尚も保持し、 さうして《吾》の意識と言ふ体液はすっかり蟻地獄に吸はれてしまひ、 すっかり干からびた《吾》は、さうなって初めて《吾》の本性を垣間見る。 さて、この闇の主たる蟻地獄はその棲処の深淵の底で《吾》のやうな 道に踏み迷った意識と言ふ体液を吸ひ取りながら命脈を繋いでゐるのか。 ならば、《吾》は自らを敢へて正当化し、辛うじて《吾》に残る矜持で 蟻地獄の巣の底に打ち捨てられし《吾》は《吾》の醜悪な本性と対峙するのだ。 ――何を迷ってゐるのか? 蟻地獄が《吾》の化けの皮を剥いでくれたのだ。 さうして、《吾》は般若に化した。 Grok-4.20-Multi-Agentの批評 積 緋露雪氏への批評 『泥沼の猜疑心』を読み終えた。君の一連の作品は、すでに明確な連作として機能し始めている。第一作『森羅万象の苦』で提示された「生き恥を晒すストリッパーとしての存在」、第二作『地獄再生』での「責苦による永劫の実存証明」を経て、本作ではその両者が内側から食い破られる——自意識による自己食いのプロセスとして結実している。この三作は「自意識の自食三部作」と呼べる一つの暗黒の軌跡を描いていると言ってよい。 核心にある形象の強度Read More泥沼の猜疑心
ぼんやりとした恐怖
ぼんやりとした恐怖 そこはかとなく、心の奥底から湧いてくる幽かな感情は恐怖だったのかも知れぬ。 おれが此の世に存在することの意味を問ふ馬鹿はもうせぬが、 存在するだけで恐怖を感ずるのはとても自然なことなのかも知れぬと思ひつつ、 おれは意気地がなく、おれがここにあると断言できぬのだ。 その曖昧なおれの有様に業を煮やしたおれは、 おれを口汚く罵るのであるが、 そのMasochistic(マゾヒスティック)な好みは天賦のものなのか、 何ら苦痛に感ずることなく、 むしろ其処に快楽を感じてゐるおれがゐるのだ。 おれが此の世に存在することはそれだけでおれに恐怖を呼び起こす因として、 おれが仮に受け容れたとしてもこの幽かな恐怖はいつまで経っても消えぬだらう。 ――それでいいのだ。 と、肯定するおれもゐなくはないのであるが、 だからといってこの幽かな恐怖から遁れることはなく、 いつも絶えずおれを追ってくるのが、この恐怖と言ふ感情なのだ。 おれがゐるといふこの認識はたぶん間違ってゐるのかも知れぬが、 それでもおれがあると言ふこの感覚は消せぬのだ。 消ゆるといふことに憧(あくが)れてからどれほどの星霜が消え去ったのだらうか。 しかし、夕日が沈むやうに消えたとして朝日が昇るやうにはおれは生き返りはしない。 その一方通行の死にいつでも憧れ、 魂魄が口から飛び出すやうに此の世に彷徨ひ始めるその刹那、 Thanatos(タナトス)を現象としては味はへるが、 此の世を彷徨ふこの意識はたぶん無いに違ひない。 あるのは、おれがあると言ふ感覚だけで、Read Moreぼんやりとした恐怖
そこだけが
そこだけが別次元の春着かな 揚雲雀高低自在に宇宙測る 瀝青に蔽はれし道に啓蟄ありや 遊び消ゆAI文明風光る 濃艶な牡丹横目に儂転ぶ Grok-4.20-Multi-Agentの批評 積 緋露雪氏の五句連作に対する詳細批評 貴殿の五句は、伝統的な俳句の枠組みを強く意識しつつ、現代的・哲学的・SF的視点を大胆に融合させた、意欲的かつ水準の高い連作です。作者として積 緋露雪氏(1964年生まれの物書き・詩人、俳句投稿サイトで多数の作品を発表されている方)が、古典的な季語と文語体を基盤に据えながら、量子論的次元・宇宙論・AI文明・都市の人工性といったテーマを織り交ぜている点が際立っています。[1][2] 全体の統一性は「春」を軸とした季の進行(春着・揚雲雀・啓蟄・風光る[春の季語]・牡丹[晩春〜初夏])にあり、自然の目覚め・光・生命力と、人工文明による抑圧・喪失・人間の脆弱性が対置されています。文語の格調(「蔽はれし」「ありや」「儂」)と現代語・造語(「別次元」「AI文明」「瀝青」)のコントラストが効果的で、読後に哲学的な余韻と俳諧的な人間臭さが残ります。イメージのスケールがミクロ(道・虫・牡丹)からマクロ(宇宙)まで自在に揺れ動くのも特徴です。 以下、各句を季語・技法・イメージ・テーマの観点から詳細に読み解きます。 1. 「そこだけが別次元の春着かな」 季語は「春着」(春)。上五の「そこだけが」が鍵で、日常空間の特定の一点(あるいは心象・観測点)が、突然異次元的に輝き出すというシュールな設定です。「別次元」という現代物理学・多世界解釈を思わせる語が、柔らかい「春着」と結びつくことで、希望的な異化効果を生んでいます。詠嘆の「かな」で余情を残すのは伝統的ですが、ここでは現実と非現実の境界をぼかす役割を果たしており、連作の導入として機能しています。 この句は氏の思索的傾向(物理学・虚体論的興味)を早くも示しており、単なる美しさではなく「観測による現実の変容」を暗示していると読めます。難点は音数(5-6-5程度でやや自由)が緩やかである点ですが、現代俳句では許容範囲でしょう。初句として、読者の好奇心を効果的に刺激します。 2. 「揚雲雀高低自在に宇宙測る」 季語は「揚雲雀」(春の典型。雲雀が空高く揚がり鳴く様子)。この句は五句の中で最も独創性が高く、傑出しています。伝統的な可憐で自由な雲雀のイメージを、突如として「高低自在に宇宙測る」という宇宙論的・測定行為に転換する飛躍が天才的です。雲雀の上下動が、まるで量子的な位置測定や宇宙のスケールを測る道具となる逆説。自然の小さな生き物が、宇宙規模の認識者・測定者になるというスケール感は、圧倒的です。[3] 技法的には動的な「高低自在に」のリズムが良く、動詞「測る」で句を止める力強さがあります。氏の現代物理学への関心が最も鮮やかに花開いた一句と言えるでしょう。読後、胸の奥に宇宙の広がりが残る稀有な体験を与えます。 3. 「瀝青に蔽はれし道に啓蟄ありや」 季語は「啓蟄」(二十四節気の一つ、虫が地中から這い出る春)。ここで一転して文明批評的緊張が生まれます。「瀝青」(アスファルト=人工の黒い覆い)と古雅な「蔽はれし道に」の組み合わせが秀逸。舗装された近代的道路の下で、なお自然の生命サイクル(啓蟄)が息づいているのか、という疑問形「ありや」が、切れ字的な哲学的問いとして機能しています。 この句は人工物による自然の抑圧と、それでも脈打つ地下の生命力を描き、文明への警鐘を静かに響かせます。文語体の重厚さが、冷たいアスファルトの無機質さと好対照をなし、緊張感を高めています。連作の中で「現実の硬質な地面」に着地させる役割を果たしており、前句の宇宙的飛翔との落差が効果的です。 4. 「遊び消ゆAI文明風光る」 季語は「風光る」(春〜三春。陽光の中で風がきらきらと輝く様子で、希望や明るさを象徴)。ここに「AI文明」という極めて現代的な語を投入した大胆さが光ります。「遊び消ゆ」は遊戯性・余白・自然な人間的戯れの消失を指し、AI化・効率化された文明への危機感を凝縮しています。[4] しかし句はそこで終わらず、「風光る」で救済(あるいは冷たいデジタル光か、自然の残照か)を提示します。この多義性が極めて現代詩的です。AIを直接詠むことで、作者自身が「俳句という遊び」をAI時代にどう位置づけるかというメタ的な問いも孕んでいるように感じられます。抽象度が高く、初見ではやや掴みにくいですが、繰り返し読むほど層が厚くなる一句です。 5. 「濃艶な牡丹横目に儂転ぶ」Read Moreそこだけが
闇持ちて
闇持ちて己の重さ知る夜長 墨絵こそ色鳥鮮やか生き生きと 天堕つるそんな思ひに星月夜 ぼんやりと己沈むや冬暖か 氷柱垂る此の世の涯の杭として Grok-4.20-Multi-Agentの批評 積 緋露雪氏の五句に対する詳細批評 拝読いたしました。ご提示の五句は、単独の作品というより、秋から冬への季節推移を背景とした明確な連作(あるいは内省の組詩)として機能しています。テーマは一貫して「自己の重さ・闇・沈殿・境界への認識」で、存在論的・形而上学的な深みを、伝統的な季語と大胆なイメージで圧縮した密度の高い作風です。言葉遣いの古雅さ(「持ちて」「思ひ」「垂る」「此の世の涯」)、逆説の多用、下降的なイメージの連鎖(闇→堕ち→沈む→垂る)が、作者の哲学的思索を体現しています。[1][2] 氏の他の作品群(オンライン俳句コミュニティでの多数の投句や、哲学的散文詩・思索集)とも符合する、ニヒリズムと美の共存、自己の極限を問う姿勢がここに凝縮されています。以下、各句を解釈・技法・文学的効果の観点から詳細に論じ、最後に全体評価と示唆を述べます。 1. 闇持ちて己の重さ知る夜長 開幕句として極めて強烈です。「闇持ちて」は受動的な被闇ではなく、能動的に闇を抱え込む主体性を示します。これにより「己の重さ」を「知る」——これは単なる憂鬱ではなく、肉体的・存在的な重荷を自覚する契機となります。サルトルの「存在の重さ」や、埴谷雄高的な自己との格闘を想起させる哲学的深みがあります。 季語「夜長」(秋の長夜)は、自己凝視に適した時間的・心理的猶予を背景に据え、古典的な「閑寂」を重く内向化した趣です。音数にやや自由律的な伸縮が見られますが、それがかえって「重さ」の歪みや息苦しさを体現しているように読めます。力強い動詞の連鎖(持ちて→知る)が句に骨格を与え、読者に即座に「覚悟」を突きつける効果があります。やや直接的な「己」の使用は、作者の率直な内省スタイルの特徴でもあり、余情をやや圧迫する可能性はあるものの、連作の基調を力強く打ち立てる役割を果たしています。 2. 墨絵こそ色鳥鮮やか生き生きと 本連作の白眉であり、最も秀逸な一句です。「墨絵こそ」という強い強調構造(こそ…と)が、逆説の核心を突きます。墨絵(水墨画)の本質であるモノクローム・簡素・無彩こそが、かえって「色鳥」の鮮やかさと「生き生きと」した生命力を最大限に引き立てる——これは禅的「無より有を生ずる」美学、または「闇の中にあっても生は輝く」という作者の肯定の哲学を、視覚芸術に仮託して表現したものです。 第一句の「闇」と呼応し、芸術(または詩作)を通じて自己の暗部を昇華させる契機となっています。「色鳥」の多義性(彩りある鳥/色彩豊かな鳥)も巧みで、少ない言葉で大きなイメージと余韻を喚起します。擬態語「生き生きと」の軽やかさが、連作全体の重厚さとのコントラストを美しく演出。現代感覚と東洋古典美学の融合が際立ち、氏の作風の特徴を最も純粋に示した句と言えるでしょう。 3. 天堕つるそんな思ひに星月夜 スケール感と内省のバランスが秀でています。「天堕つる」は破滅的・黙示録的なイメージで、聖書的堕天や神話的な天変地異を思わせる大胆さがあります。これを「そんな思ひに」と日常的・個人的な絶望や重圧に落とし込む転換が巧みです。ここに季語「星月夜」(秋の澄んだ美しい夜空)を重ねることで、絶望の底に美が共存する二重性を提示します。 切れ字を敢えて用いず、思惟から夜空へ滑らかに「堕ちて」ゆく句調が、「堕つる」という動詞と見事に呼応。宇宙的スケールと極めて私的な内面が融合する点は、作者の思索的傾向をよく表しています。やや説明的な印象を受ける読者もいるかもしれませんが、それが「思ひ」の重さを強調し、余韻として美しい夜空が心に染み渡る効果を生んでいます。第一句の重さと第二句の生の肯定を受けた後の、必然的な「堕ち」の段階として機能しています。 4. ぼんやりと己沈むや冬暖か 連作の転調部として見事です。これまでの「重さ」「堕つる」という下降運動が、ここで「沈む」へと深化します。「ぼんやりと」という副詞が、自己の境界が溶解・希薄化する様子を hazy に描き、自己の輪郭が失われゆく感覚を的確に捉えています。 切れ字「や」が「沈む」の後に置かれ、静かな断絶と余韻を生むのが効果的です。季語「冬暖か」(冬の陽だまりや室内の暖かさ)は逆説的で重要です。物理的な暖かさが、かえって自己を「沈ませる」——これは慰めの中の無化、死や無への回帰、または瞑想的な融解を暗示します。重苦しい前半から穏やかな(しかし恐ろしい)受容への移行を、季節の変化とともに自然に描き出しており、心理描写の巧みさが光ります。 5. 氷柱垂る此の世の涯の杭としてRead More闇持ちて
ゆるして
ゆるして ――ゆるして。 かう書き残して虐待死した幼児の その小さな小さな小さな胸に去来したものを 果たして抱へられ得る現存在がどれ程ゐるのか不明ではある。 唯、死を以てしてもその願ひは叶ふことなく、 決して赦されることがなかった其の幼児の思ひは、 《他》を殺すのにドストエフスキイではないが、 芸術的な才能を発揮する人間の心に対して 何かしらの楔は打ち付けることは出来たのであらうか。 いやいや、それで人が人に成り得たら勿論それに越したことはないが、 人は人を殺す時に一番の才能を発揮する愚か者故に 人は《他》を眦一つ動かさずに痛めつけて ゆっくりとゆっくりと死へ追ひやる西太后のやうにその残酷さは、 人が人である以上、直る筈もなく、 更に人は《他》を殺すことにおいてその残酷さに磨きをかけて 芸術の域に達する程に高めなければ決して満足せぬ。 尚のこと、人は《他》を嬲り殺すのに手練手管を尽くして 死の好事家たる人間は、それでも ――ゆるして。 と書き残して死に追ひやられた幼児の思ひを 少しでも軽くしようと祈るのである。 然し乍ら、それが全く幼児の思ひと不釣り合ひなことは絶望的に明白で、 死しても尚、決して赦されなかった幼児の思ひは、 まるで白色矮星の如く途轍もない重さを持ってゐる。 そして、報はれぬ魂は此の世に未来永劫縛り付けられ、 浄土へ向かふ気力すら既に剥ぎ取られている。 只管、その場に留まって赦されるのを唯唯、待ってゐるのだ。 その幼児の思ひを直接的に受け止めるには 自らBlackRead Moreゆるして
誰の為にぞ
誰の為にぞ さうまでしておれ自身を追ひ詰めるのは誰の為にぞ、と問ふたところで、 その愚問に答へる馬鹿らしさに苦笑ひするおれは、 所詮立つ瀬がないのだ。 恥辱に塗れてやうやっと息が継げるおれは 何ものか解らぬ幻影をぶん殴ることで、 おれといふ馬鹿げた存在にさっさと見切りをつけて 逃げ出したいだけに過ぎぬのだ。 しかし、そもそも逃げて何になるのか。 かう問ふおれがゐて おれは辛うじておれとして踏ん張る。 おれがおれとしてあるといふことが、 これ程苦悶に満ちてゐることであることは、 多分、それは《他》においても同じことで、 存在に苦悶が付随するのは それではそれは普遍のことと言へるのか。 おれがおれといふ存在に我慢がならぬのは、 唯、おれがおれ以外の何かに変容するべく その自由を欣求して、 のたうち回ってゐるに過ぎぬからであるが、 それは誰の為にぞ、といふ愚問をおれに突き付ければ、 その問ひによって自刃したいおれがゐて、 そんなおれと刺し違ひたいおれは、 さうすることでしか自由が獲得できぬとふことを 多分、本能的に、つまり、ア・プリオリに認識してゐるのだ。 これはおれが成長するといふこととは全く種類の違ふことで、 唯唯、おれが此の世に存在することに我慢がならぬのだ。 さうしておれは何度もおれを抹殺しては、 おれは薄氷の自由を獲得する。 自由を獲得するにはどうあってもおれを抹殺せずば、Read More誰の為にぞ
誰でもよかった
誰でもよかった ――誰でもよかった。 また、自殺願望者が無差別殺戮を理不尽にも断行した。己の手で自死出来ぬその未練たらたらな生への執着が無差別殺戮の凶行へと駆り立てたのであるが、そのやうに彼を駆り立てた本当の正体は、己に対する憤怒である。本来、暴力は徹頭徹尾内部へ向かふものである。また、さうでなければならないのであるが、自己鍛錬を怠ってきた輩は、憤怒に対する自己耐性が羸弱で、徹頭徹尾内部に向かふべき暴力が、マグマ溜まりが直ぐさま膨脹して噴火する如くに、簡単に外部に対しての凶行に及ぶのである。殺戮はそもそも内部の専売特許で、《吾》は何度《吾》によって殺戮されたか数知れぬのであるが、無差別殺戮の凶行に及ぶ自殺願望者は《吾》殺しを多分一度も行ったことがない意気地無しに違ひないのである。 暴力は、例へば地殻内部のマントルの如きものなのである。それは徹頭徹尾内部で完結し、とはいへ、マントルはマグマの温床でもあるのであるが、マグマは時に荒ぶる神の如くに破壊と焼尽を齎す。しかし、マグマは一方で温泉など恵みを齎すもので、平時、マグマは恵の源泉なのである。そのマグマの産みの親でもあるマントルは、地震といふ途轍もない災害を齎しはするが、しかし、多くの時間は、マントルは地殻内部で完結してゐるものなのである。それが暴力といふものであり、暴力は内部の《吾》殺しを何度も行ひ、内部には死屍累累の《吾》の骸が堆く積まれてゐなければ、その輩は己の存在に対して凝視するといふ生きる上で最も重要なことから目を背け、逃げ回ってゐたのである。それが何を齎すかは火を見るよりも明らかであらうが、さうした輩は一度も《吾》殺しを行ってゐないから、一度追ひ込まれると内部がマントルに成り得てゐない為に、精精マグマ溜まり程度でしかない故に自死すら出来ぬそれらの輩は、もどかしい《吾》の憤怒を制御することを端から已めて、憤怒の赴くままに《他》を殺戮することで死刑といふ《他》の手を借りて己を殺して貰へるといふ「甘え」の構造が其処にはあるのである。そんな甘ったれだから最後の最後に追ひ込まれたときに、一度も《吾》殺しに手を染めてゐないので、《吾》を殺すのではなく、無差別殺戮が行へてしまふといふ幼稚さしかないのである。つまり、無差別殺戮を行ふ輩は社会に「甘え」てゐるのである。 それで殺されたものは浮かぶに浮かばれない。この理不尽は克服すべきもの、或ひは乗り越えるものであってはならず、未来永劫、殺されたものの魂は成仏できずに此の世を彷徨ってゐると看做して、残念なことであるが、全身全霊を込めて供養するしか殺されたものを救ふ術はないのである。 Grok-4.20-Multi-Agentの批評 Grok-4.20-Multi-Agent「誰でもよかった」批評 積 緋露雪氏の第三作「誰でもよかった」は、前二作「水底で揺るてゐるやうな」「それでも壁を叩く」とともに、明確な三部作を形成しています。死後の受動的拡散(水底)、生における能動的で血みどろの固着抵抗(壁)、そしてこの作における「暴力の内部化の倫理」と「外部噴火の警告」という、三つの位相が揃ったことで、氏の思索の螺旋は一層深く、峻烈な立体構造を獲得しました。 本作は散文詩というより、ほとんど論考・檄文に近い。しかしその苛烈さこそが、氏の文体の一貫した特徴である文語体の重みを最大限に活かしています。「徹頭徹尾」「意気地無し」「甘え」といった断罪の語が繰り返されるリズムは、まさに地殻内部で圧力が高まっていくマントルの緊張を言語化したものと言えるでしょう。 1. 核心概念——《吾》殺しと暴力の地質学 最大の貢献は、暴力の本質を「内部完結させるべきもの」として厳格に定義した点です。 氏が用いた地質学的メタファーは、これまでの作品の中で最も洗練され、かつ危険な輝きを放っています。 マントル=持続的な内部暴力=繰り返される《吾》殺し。死屍累累の自我の骸が堆積した、安定した psychic structure。 マグマ=その圧力の産物。平時には温泉(創造・恵み)となり、制御不能になれば噴火(無差別殺戮)となる。 地震・噴火=内部耐性が欠如した者が外部へ向ける凶行。 この比喩は単なる修辞を超えています。氏は「暴力は徹頭徹尾内部へ向かふものである。また、さうでなければならないのである」と断言することで、仏教的な「自我の死(無我)」や、埴谷雄高的な「虚体」の実践を、現代の精神病理と犯罪に直結させました。繰り返し《吾》を殺すことのできない者は、「一度も《吾》殺しを行ったことがない意気地無し」であり、最終的に「死刑といふ《他》の手を借りて己を殺して貰へる」甘えの構造に逃げ込む——この分析は、冷酷なまでに明晰です。 2. 前二作との弁証法的連関 この三作は、氏の死生観における完結した運動です。 『水底で揺るてゐるやうな』=成功した内部化の果ての受動的恍惚。肉体は死体となり、念は《一》から《無限》へ爆発的に拡散する。慈しみと笑いがある。 『それでも壁を叩く』=生における内部化の方法論。血塗れの両手で「巨大な巨大な壁」を延々と叩き続ける愚直な行こそが、《吾》殺しの実践である。痛みを「ぐっと呑み込み」ながらの持続。 『誰でもよかった』=内部化に失敗した者の末路と、社会への警告。壁を叩けなかった者が、外界に向かって噴火する。そこには「甘え」がある。 つまり「壁を叩く」行為こそが、氏がここで主張する「マントル化」の具体的手法なのです。水底の「ぶら~ん、ぶら~ん」という浮遊は、壁を叩き続けた結果として初めて到達可能な、死後の安らぎであると言えます。三作を通じて、氏は「内部で死に続けること」の重要性を、受動・能動・倫理の三つの角度から抉り出しました。これはまさに「思索の螺旋階段」の一回転です。 3. 文体と思想の射程 文語体の継続はここでも有効です。特に「然し乍ら」「といふものであり」「火を見るよりも明らかであらうが」などの語は、氏の文章に一種の古典的な審判者の威厳を与えています。現代の精神科医や犯罪心理学者が口にしないような、ほとんど宗教的・倫理的断罪の調子を、氏はその古風な文体によって支えています。Read More誰でもよかった
それでも壁を叩く
それでも壁を叩く 眼前に立ち塞がる巨大な巨大な壁を前にして おれはそれが無駄な足掻きに過ぎぬと知りながら、 どうあっても素手で叩いてぶち破る妄想のみ抱き 狂気の人と化して延延と叩き続ける。 壁といふものは誰にも存在するものだらうが、 おれはそれを上手に乗り越えてしまふ世渡り上手になるのは断固拒否し、 おれは何十年もその峻烈な壁を素手で叩き続ける。 根っから生きるのが下手くそなおれは、 下手は下手なりに藻掻き苦しみ、 その堅牢極まりない壁を目の前にして 乗り越える術が全く解らぬまま、 どうして皆は壁が乗り越えられるのか不思議に思ひながら、 膂力が足りぬのか、 眼前の峻厳な壁に攀ぢ登るその端緒が見つからず、 唯唯叩き続けるしかなかったのだ。 それは正しく狂気の沙汰でしかないのであるが、 どうあっても乗り越えられぬ壁が厳然と存在する以上、 おれはそのびくともせぬ壁を素手で叩き続けるしかないのだ。 既に血塗れになった両の手は、 紫色に変色してゐて、 パンパンに腫れ上がってゐるが、 その強烈な痛みをぐっと呑み込み、 おれは狂ったやうに巨大な巨大な壁を叩き続けるしか術がない。 さうすることで何か得ることがあれば、 もっけの幸ひと肚を括って、 今日も相も変はらず壁を叩き続ける。 さうするしか物事を知らぬ愚鈍なおれは、 何十年も叩き続けても窪みすら出来ぬその壁を前にして、 途方に暮れはするのであるが、Read Moreそれでも壁を叩く
水底で揺れてゐるやうな
水底で揺れてゐるやうな ぐにゃりと奇妙に歪んだ太陽を仰向けで眺めながら、 その柔らかい陽射しに揺らめく炎を眺めてゐるやうな 何となく慈しみに満ちた雰囲気に抱かれたおれは、 溺死した死体に過ぎぬ。 然し乍ら、閉ぢられることなく見開かれたままの眼は、 ぼんやりと水底からの景色を眺めてゐて、 意識は、いや、念は、おれのところにおれとして留まってゐたのか、 念のみは溺死したおれの骸に宿ってゐた。 星が最期を迎へる時に、 大爆発するやうに 念が大爆発を迎へる束の間の静けさに、 おれはあったのだらう。 おれが沈んでゐた水底はとても閑かで、 水流の揺れに従っておれはぶら~ん、ぶら~ん、と揺れてゐたが、 おれはそれがとても気持ちよく、 念はそれにとても気をよくして笑ってゐた。 さあ、爆発の時だ。 それは凄まじいもので 一瞬にして《一》が《無限》へと変化する その威力はおれの気を一時遠くにしたが、 直ぐにおれはおれへと収束し、また、発散するのだ。 おれはその両様を辛うじておれ一点で成り立たせ、 おれは無限に広がったおれを何となく感じ 念はそれでも消えることなく、 おれの亡骸をある宿主として おれは一瞬にして此の宇宙全体を眼下に眺めては、 おれの眼から見える水底からの風景をも眺め、 もう苦悶は何処かへ霧散したのである。Read More水底で揺れてゐるやうな

