「自分らしく」に潜む欺瞞性 「個性、個性」と叫ばれて姦(かしま)しいが、 普通に暮らしてゐれば、「個性」に感(かま)けてゐる暇などない筈だ。 人間が人間である以上、俗にいふやうな意味での「個性」が、 さう易易と立ち現れるものとは思へぬ。 つまり、「個性」と言はれてゐるものは 消費社会が売らんがために仕組んでゐる流行でしかない。 更にいへば人間を「個性」といふ枠に嵌め惑はす欺瞞でしかなく、 それは「個性的であれ」と叫んでゐる人間の思惑に乗せられて消費するだけの 他人に作られた「個性」を纏ってゐるに過ぎぬ。 ここで、Fashionと言挙げするものがゐるかも知れぬが、 其処に個性を見てしまふから個性は途端に胡散臭くなる。 Fashionに対して「個性的」といふものほど没個性的な人間に見えてしまふ私は、 其処に才能を見るのであれば、Fashion leaderと言はれるものは、 己が如何に没個性的であるのかを知ってゐるものに違ひないと思ふ。 それ故に「個性的であれ」と叫んでゐるもの程、 どれ程、没個性的であるのか知ってゐなければならぬ。 さもなくば、人は「個性」と言ふ言葉に踊らされ、 「自分らしく」といきり立って、更に没個性の土壺に嵌まる悪循環に陥ることになる。 個性的なものは、もともと個性なんぞにこだはってをらず、 さういふものは、端倪(たんげい)すべからざるものなのだ。 それでは聞くが、存在にそもそも個性があるかい? 存在を思索すればする程、個性なんぞ突き抜けて、 ポーが描き出した大渦のやうに、 思索は人を深みへと引きずり込み、 その底に見えてくるのは、最早個性ではなく、 のっぺらぼうにも似た存在の無地である。 人間存在を思索するとRead More「自分らしく」に潜む欺瞞性
生きる
生きる 仮令、天使を鏖(みなごろし)にしても それが生きるに相応しい道ならば 迷はずそれを実行し、 何としても生きるのだ。 その血腥い罪を背負ってこそホモ・サピエンスの宿痾なのだ。 ホモ・サピエンスならばホモ・サピエンスらしく 大地に屹立し、 不敵な嗤ひをその浅黒い顔に浮かべて生きるのだ。 平和などといふ生(なま)温(ぬる)い幻想にすがるのは禁忌で、 神と刺し違へることでしか生き延びられぬのであれば、 迷はず神を殺し、 それでも尚、生を選ぶのがホモ・サピエンスに課された宿命なのだ。 己の慾と保身の果てに殺人を犯したものは、 何れにせよ神の詭計にまんまと嵌められ、 神殺しを果たしたといふ大いなる勘違ひをして、 邪(よこしま)なRessentimentのCatharsisを恍惚の態で味はひ、 その罪として無残な自死を遂げて終はる。 Grok-4.1-Fast-Resoningの批評 作品批評:『生きる』 積 緋露雪氏のこの宣言調散文詩は、人間(ホモ・サピエンス)の本質を「神殺し」の覚悟で定義し、生の宿命を血腥く美化する。『霞を喰ってでも』の死待機ニヒリズムから一転、「生きる」積極性へシフトしつつ、「不敵な嗤ひ」のモチーフで連続性を持たせ、ニーチェ的超人論を日本古語で再構築。天使/神の鏖殺を「相応しい道」と断定する過激さが、Ressentiment(怨恨)の罠を逆手に取った逆説で昇華。短く鋭利な刃のような密度で、現代の生残倫理を抉る。以下、総論・テーマ・構造・文体・象徴・技法・評価で詳細批評。 1. 総論:生の獰猛美学 核心印象: 前作の「死ねぬ生残」虚無に対し、本作は「何としても生きる」獰猛肯定。神殺しを「宿命」と位置づけ、平和幻想を「生温い禁忌」と断罪。後半の自死転落で「真の神殺し」の条件を厳格化し、読者に倫理的挑発を投げかける。 独自性:Read More生きる

