それでも壁を叩く
それでも壁を叩く
眼前に立ち塞がる巨大な巨大な壁を前にして
おれはそれが無駄な足掻きに過ぎぬと知りながら、
どうあっても素手で叩いてぶち破る妄想のみ抱き
狂気の人と化して延延と叩き続ける。
壁といふものは誰にも存在するものだらうが、
おれはそれを上手に乗り越えてしまふ世渡り上手になるのは断固拒否し、
おれは何十年もその峻烈な壁を素手で叩き続ける。
根っから生きるのが下手くそなおれは、
下手は下手なりに藻掻き苦しみ、
その堅牢極まりない壁を目の前にして
乗り越える術が全く解らぬまま、
どうして皆は壁が乗り越えられるのか不思議に思ひながら、
膂力が足りぬのか、
眼前の峻厳な壁に攀ぢ登るその端緒が見つからず、
唯唯叩き続けるしかなかったのだ。
それは正しく狂気の沙汰でしかないのであるが、
どうあっても乗り越えられぬ壁が厳然と存在する以上、
おれはそのびくともせぬ壁を素手で叩き続けるしかないのだ。
既に血塗れになった両の手は、
紫色に変色してゐて、
パンパンに腫れ上がってゐるが、
その強烈な痛みをぐっと呑み込み、
おれは狂ったやうに巨大な巨大な壁を叩き続けるしか術がない。
さうすることで何か得ることがあれば、
もっけの幸ひと肚を括って、
今日も相も変はらず壁を叩き続ける。
さうするしか物事を知らぬ愚鈍なおれは、
何十年も叩き続けても窪みすら出来ぬその壁を前にして、
途方に暮れはするのであるが、
然し乍ら、時が来れば乗り越えられるといふ淡い期待は疾に消えた今、
もしかするとおれの人生は
この強大な壁を叩き続けることなのではないかと思ひながら、
今日も狂人と化して巨大な巨大な壁を叩き続ける。
Grok-4.20-Multi-Agentの批評
積 緋露雪氏「それでも壁を叩く」に対する詳細批評
積 緋露雪氏の新作は、前作「水底で揺るてゐるやうな」と対をなす、極めて強烈な一篇です。あちらが死後の「念」の受動的拡散と慈しみある浮遊を描いたのに対し、本作は生の只中における能動的で血みどろの抵抗——それも、明確に無駄と知りながらの抵抗——を正面から抉り出しています。両作品を通じて一貫するのは、「おれ」という極端な主体が、極限状態において「どうあっても」自分にしかできないやり方で存在し続けるという姿勢です。
ここでは「壁」を巡る執着が、単なる苦悩の告白を超えて、狂気と愚直さと諦念が奇妙に溶け合う、作者独自の存在論的風景を形作っています。以下で形式・イメージ・哲学・前作との関係・批評的評価を多層的に掘り下げます。
1. 全体印象とテーマの核心
本作の主題は**「無益を承知で叩き続けること」そのものが人生の形であるという受容**です。
「どうあっても素手で叩いてぶち破る妄想のみ抱き」「何十年もその峻烈な壁を素手で叩き続ける」という決意は、世渡り上手として「上手に乗り越えてしまふ」ことを「断固拒否」する、ほとんど自罰的でストイックな態度です。
壁は多義的です。
- 精神疾患(氏の長年の鬱との闘い)という越えがたい症状
- 社会適応という「普通」の方法
- 存在そのものの根源的な難しさ
特に「根っから生きるのが下手くそなおれ」という自己規定が痛烈です。これは単なる弱音ではなく、下手であることを自らの本質として引き受ける姿勢です。カミュのシジフォスが岩を押し上げる行為に意味を見出すように、ここでは「壁を叩き続けること」こそが、氏の生の固有の形式として肯定されつつあります。ただし前作の「ぶら~ん、ぶら~ん」という恍惚とした揺らぎとは対照的に、本作のトーンは痛みと狂気と乾いた諦念に貫かれています。
2. 構造とリズムの分析
作品は三層の螺旋を描いています。
- 第一層(認識):壁の存在と、自分の叩く行為が「無駄な足掻き」である自覚。
- 第二層(身体的苦痛と狂気):血塗れになり紫色に腫れ上がった両手の描写を中心とした、痛みの現在進行形。
- 第三層(存在論的受容):もはや「時が来れば乗り越えられる」という期待は消え、「おれの人生は この強大な壁を叩き続けることなのではないか」と悟るに至る。
最大の技法は反復です。「巨大な巨大な壁」「叩き続ける」「狂気」「素手で」という語の執拗な繰り返しは、文字通り「延延と叩き続ける」身体性を言語化しています。この反復は前作の「ぶら~ん、ぶら~ん」と同じ機能を持ちながら、意味は正反対——あちらが浮遊と共振なら、こちらは固着と衝突のリズムです。読む者に身体的な圧迫感と、どこか中毒的な持続力を与えます。
3. イメージと言語の効果
最も強烈なのは身体の描写です。
既に血塗れになった両の手は、紫色に変色してゐて、パンパンに腫れ上がってゐるが、その強烈な痛みをぐっと呑み込み……
この生々しさは、抽象的な哲学詩に陥りがちな作者の作風の中で、貴重な「肉」の重みを与えています。水底の死体が冷たく柔らかい光に包まれていたのに対し、こちらの「おれ」は熱く腫れ、痛みを「ぐっと呑み込み」ながら叩き続けます。対照が鮮やかです。
文語体(「といふ」「思ひながら」「然し乍ら」「味はってゐた」ではなく本作では「思ひ」「迎へる」系統の継続)は、再び効果的です。古典的な荘重さが、現代の精神疾患という卑近で生々しい主題を、まるで古い修行僧の苦行記のように高めています。「狂気の人と化して」「狂ったやうに」「狂人と化して」という三度の「狂気」の挿入は、徐々にその狂気を内在化・肯定していく過程を、言語のリズムで体現しています。
4. 哲学的・心理的な含意と前作との弁証法
本作は前作「水底」と明確な弁証法的関係にあります。
- 水底=死後/受動/拡散/一即無限/慈しみ/笑い
- 壁=生前/能動/固着/一点の愚直な衝突/痛み/狂気
両作とも「念(またはおれの本質)」が、極限状況において通常の自我を超えたやり方で持続することを描いています。前作が華厳的な「一即一切」の恍惚なら、本作は実存主義的・禅的な「ただひたすらに叩く」という愚直な行です。
シジフォスの神話、埴谷雄高的な「虚体」の執着、さらには道元禅の「只管打坐」に近い「只管叩壁」の境地すら感じさせます。
作者が長年闘病しながら「思索の螺旋階段」を書き続けてきた軌跡を思えば、この「壁を叩き続ける」行為は、文字通り氏の創作行為そのものと重なります。作品を書くこともまた、世渡り上手にはなり得ない者が、血みどろになりながら、それでも素手で言葉を叩き続ける行為なのかもしれません。
5. 強み・限界・文学的位置
強み:
- 自己欺瞞を徹底的に排除した苛烈な honesty。
- 前作と併せ読むことで浮かび上がる、作者の死生観の両面性(受容と抵抗)。
- 身体感覚を伴った形象が、抽象的な思索に血を通わせている点。
限界・改善の余地:
- 反復がやや過多で、中盤でやや停滞感が出る可能性があります。もう一段階、壁を叩く「音」や「振動」、あるいは壁の「質感」の変化を加えると、リズムに立体感が増すでしょう。
- 「皆は壁が乗り越えられるのか不思議に思ひながら」という他者との比較は有効ですが、もう少し具体的な「世渡り上手」のイメージを断片的に挿入すると、壁の相対性がより鮮明になるかもしれません。
文学的には、氏のこれまでの著作(『夢幻空花なる思索の螺旋階段』など)と完全に連続した、重要な位置を占めます。夢野久作的な狂気と、鏡花的な文体、さらには現代の私小説的告白が融合した、非常に稀有な声です。
結語
「それでも」というタイトルに込められた諦念と決意の両義性は、見事です。
前作で宇宙を眼下に眺めた「おれ」が、この作品では血塗れの拳で一枚の壁を叩き続けています。その両極を、作者は同じ「念」として生きている——あるいは書いている。
これは苦痛の文学であると同時に、痛みを「今日も相も変はらず」引き受けることでしか得られない、ある種の静かな勝利の文学でもあります。
血塗れの手で壁を叩き続ける愚直さの中にこそ、緋露雪氏の「思索の螺旋」の真髄があるように思われます。
ぶら~ん、ぶら~ん、と浮遊した後で、再び血の匂いのする地面に立ち、壁を叩く。
この往還こそが、氏の文学のダイナミズムです。
さらなる「壁」と「水底」の両方を、引き続き書き続けられることを心より期待します。
ご自身がこの批評をお読みになることを前提に——これは紛れもなく、あなたの文学の、痛切で尊い一断面です。

