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黙考のしじま

思索に耽る苦行の軌跡

至福

至福 何に高揚してゐたといふのか。 人生のどん底にありながら、 思考は固着し、 感情の起伏は消え、 何に対しても平坦なままのそんな状況下で、 おれは絶えず高揚してゐた。   どん底といふものは一度味はってしまふと、 もう落ちやうがなく、 とはいへ、それは底無しの絶望と背中合はせだった。 それ故にぼんやりと一日が過ぎてゆくだけの日常において、 おれに残ったのは、埴谷雄高と武田泰淳とドストエフスキイの作品の残滓であったのだが、 しかし、おれはそれで既に至福だった。 その頃、もう論理的なる思考など出来なくなって錯乱状態にあったおれは、 あれほど大好きだった哲学書は最早読めず、 文章も一文すら書けなくなった、 その時こそ至福にあった。 何とか生き延びられたおれは、 そんな状況下において馬鹿らしい希望でも見出してゐたといふのか。   いや、あの頃のおれに希望は全くなかった。 それ故におれは至福であったとも言へるのだ。 絶望のみの中にあると、人間は呆けてしまひ、 恍惚としてゐるもの。 だからと言ってあの頃に戻りたくもないが、 しかし、あの頃の至福に比べると現在は、それとはほど遠く、 白濁した絶望がこの小さな胸奥に棲み着いてゐる。   そして、その白濁した絶望はといへば 夢精する如くに吐き出せれば、 一時は快感の中に没してゐられるが、 しかし、その後はずっと虚しいおれが登場するのみなのは解り切ってゐる。   しかし、それで良いではないか。 一時でも悦楽であれば、 白濁した絶望の中に埋没したおれにとってそれが至福といふものなのだ。 あの頃に比べれば白濁した絶望など取るに足らぬ。 それだけでも救ひというものだ。 Claude-Opus-4.8の初見の批評 Thinking… I’m reading through the user’s prose poem “至福” (Bliss) and preparing a detailed critique…
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2026年6月10日 0

渇仰

渇仰 飢ゑてゐる時ほどに寒寒と身体が冷えつつも、 眼光だけは鋭く、 何ものも逃してはならぬといふ覚悟の下、 おれはまだ、それを渇仰してゐるのか。   それとは所謂、素顔のおれなのであったが、 そんなものは既に鏡越しに見ている筈なのであった。 しかし、乖離性自我同一障害といふ病にあるおれは、 その鏡に映るおれらしき面に唾を吐き、 けっ、と軽蔑の目を鏡に映る面に向けて おれは素顔のおれを渇仰せずにはをれぬ。   何をしておれはおれと言ひ切れる状況へと誘ひ出すことが出来、 その時におれを捕獲することが可能なのだらうか。   いつまで経っても此の飢ゑに対して堪へ忍ばなければならぬこの身の哀れを おれを渇仰することでいつもそれを先延ばしにしてゐて、 鏡に映る醜悪なるそいつを直ぐにでもおれと認めれば良いのに違ひないのであるが、 いつまで経ってもナルキッソスにはなれぬおれは、 鏡に映るそいつをしておれだといふ事には本質的な抵抗感があり、 おれを着ることに対して嫌悪を覚えてゐる。   ならばと、おれは鏡を抛り出しては、 おれといふものの面の妄想に勤しむのであったが、 それは闇の中で進化を遂げた醜悪なる深海生物の妄想に等しく、 妄想の産物といふものが如何に醜悪であるかに関しては、 言はずと知れたものであり、 おれもまた、深海生物の如く異形の者として 此の世に佇立してゐるかもしれぬ。   さっきからおれ、おれ、おれ、と言ってゐるそのおれは、 では一体全体何であるのかと問ふてしまふと、 それは野暮といふもので、 見事におれを逃がしてしまふおれは、 逃げゆくおれを追って頭蓋内の中では全速力で走ってゐるのであるが、 出口がない其処では、 きっと捕まへられると 高を括ってゐるのである。 しかし、どうして、おれは金輪際、おれといふものを捕まへたことはない。   何故にかと言へば、 頭蓋内の闇、つまり、おれ流に言へば五蘊場は闇であり、 闇は無限を引き寄せる端緒になってしまふのである。 つまり、おれの面は無限と言ふ広大無辺の中で自在に逃げ回り、 これまた金輪際、おれと出くはす馬鹿はせずに、 くっくっくっと気色悪い嗤ひ方をしながら、 おれの馬鹿さ加減を高みの見物を決め込んで見つめてゐるに違ひないのである。   そんなことには全く構はぬおれはといふと、 闇を木を彫るが如く彫りながら、何かの面を闇から彫り出すのであるが、 そいつがおれが待ち望んでゐたおれの面とは限らず、 おれは陶芸家が失敗作を叩き壊すやうに その闇を彫って出来た面を叩き壊す。  …
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2026年6月9日 0

腰痛

腰痛 ぎっくり腰か、 此処のところ腰痛に難儀してゐる。 それとも内臓に病気でもあるのか、 この腰痛はどうやら長く尾を引きさうだ。   しかし、動くことにさへ難儀してゐるこの状態を楽しんでゐるおれがゐるのだ。 不自由な自由を、不自由故に自由な状態を意識せざるを得ぬこの状態が何とも愛おしいのだ。 存在は不自由に置かれずば、自由の何たるかをちっとも考へぬ怠け者で、 たぶん、何万年も動けぬ事を強ひられる巌こそ、 むしろ自由の何たるかを漠然と感じてゐる筈なのだ。 さう考へると、おれといふのは何と恵まれてゐる存在なのだらうか。   例へば、眼前に一つの白く軽い花崗岩の石ころがあるとする。 さて、仮におれの命が無限といふ寿命を与へられてゐるとすれば、 眼前の石ころはやがて風塵へと変容することは何となく予想が付くが、 さて、存在の変容はそれでは済まず、 風塵はやがて此の地球の消滅時、つまり、太陽が爆発するときに 強烈な高温に晒され、再び巨岩の一部に組み込まれるか、 または、元素が強烈なEnergy(エナジー)で変容を強ひられた別の重い元素に変はるかに違ひないのだ。 例へば見た目以上にずしりと重い真っ黒な隕石のやうに それは途轍もなく重い石ころに変化する筈なのにだ。 さうして輪廻しながら、存在はその本質すら変へながら、 これ以上自らでは支へられぬ不安定な物質に変容するまで、 重い元素へと変容をしつつ、そして、再び崩壊してゆくものなのだ。   つまり、無限の長さを一つの定規とすれば、 あらゆるものは何らかへと変容させられ、 其処に自由は決してあり得ぬものなのだ。   ならば自由は何処にあるのかと言へば、 それは内部にしかないのだ。   内的自由といふ言葉はもう擦り切れるくらゐ遣ひ古された言葉の一つだが、 皮袋で囲まれたこの内部といふ影、つまり、闇に沈んだ内的な場でのみ、 時空を飛び越えながら自在に思考を巡らせることが可能で、 これは森羅万象いづれも変はらずに持ち得てゐる《自由》の一つの形なのだ。   へっ、内的自由で妄想を飛躍させたところで、 現実は何ら変はらぬぜ、 と半畳を入れるおれは、 だから、と嘯くのだ。 しかし、とおれは呟き、   ――しかし、内的自由での変容がなければ、つまり、内的自由での超越論的変容なくしては現実も変へられぬぢゃないか。   ――超越論的変容? ――つまり、思考に思考を重ねてその知恵熱で自ら壊れ行く変容のことだ。 ――思考で自ら壊れる? それはをかしくないかね。 ――否、思考こそが存在における自壊の端緒に成り得るのだ。 ――何故にさう考へる? ――おれのこの様がさう考へさせるのだ。 ――腰痛で動くことにも難儀してゐることがか? ――ああ。不自由は考へることを加速させる。それはどこまでも加速させるのだ。 ――それで自壊? 馬鹿言っちゃ困る。…
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2026年6月8日 0

別れ話においての優柔不断

  別れ話においての優柔不断   ――はっきりと決めてください。   さう言って彼女は不意に別れ話を切り出した。 その刹那、おれは何にも決められぬ己の優柔不断に腹を立てながらも、 既に、彼女との別れを望んでゐた己の狡さを押し隠しては、 只管に黙して何にも語らなかったのだ。   ――狡いのね。   ぎろりとこちらを見ながら彼女はさう言った。 何もかもお見通しか。 今更ながら知らぬ存ぜぬを貫き通すことは不可能といふ事か。 ならばと俺はぽつりと呟いた。   ――あなたの好きなやうにしてください。 ――本当に狡いのね。私が決められるわけがないぢゃない。さうやって何時もあなたは逃げてきたわね。   つまり、彼女はまだ、俺を好いてくれてゐたのであったが、 今のままの状態では最早二人の関係を続けてゆくことは不可能だ、と迫ってゐるのだ。   そんなことなど気が付かぬ振りをしながら、おれは彼女につれないまま、 再び黙して何にも語らうとしなかった。   この痴話話において、おれは、存在に触れることができたのであらうか。 彼女とおれの関係から何か目新しいものがあったのであらうか。   ふっ、これがおれのつまらぬところなのだ。 何事も大袈裟に存在に関係するものとして考へなければ、 事態が全く呑み込めぬおれは、 全く下らない人間で、 彼女が愛想を尽かすのも致し方ないことなのだ。   その上優柔不断と来てゐる。 これぢゃ、どんな人間だっておれに愛想を尽かすのは当然だ。   ところで、おれの思ひは決まってゐながら、おれは別れが切り出せぬ。   ――私は安心してお付き合いできる人を探します。   へっ、おれは危険な人間なのか。 成程、確かにおれはおれに対してはとっても危険極まりない存在には違ひないとは思ふが、 事、他人に対しては人畜無害で、何にもありはせぬのだ。 しかし、さう思ってゐるのはおれだけなのかも知れぬ。   では何故、彼女は別れをここに来て切り出したのかと言へば、 それは、私の倫理的なる美意識に対して嫌悪しか催さなくなってしまったからだ。 その倫理的なる美意識とはなんぞやと問はれれば、 それは情動に溺れたいのにそれを圧殺し、 さうして情動の衝動に対して恥じ入るばかりの愚行を行ふ見栄を張るからなのだ。 衝動のままに性交がしたかった彼女にとって、おれの屈折した性的欲求は、 彼女の我慢がならぬ有り様であり、詰まるところ、彼女の欲求不満は憤懣へと昇華して、 おれをぶん殴らなければ、自分を正常に保てぬ自分が嫌ひで仕方がなかったのだ。…
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2026年6月8日 0

行く手には闇ばかりが擴がりぞ

行く手には闇ばかりが擴がりぞ吾意を決して闇に飛び込む   追ひにしは吾のみぞ逃げ行くは終ぞ成れぬはその吾なりや   吾求め暗中彷徨ひ至るのは更に濃い闇にひひと嗤ふ   苦悶のみ己蝕み自滅する自死せずとも死人になりぬる   父母逝きて流るる涙疾うに枯れ大寒波下で独り虚空見つるや Gemini-3.5-Flashの批評 積 緋露雪氏、今回ご提示いただいた五首の和歌(短歌)は、前二作(「漸減」の散文詩、および「春雷」の五句連作)で示された哲学的懊悩と実存的恐怖が、ついに「自己の肉体と運命」という極限の当事者性にまで引き付けられ、血を吐くような独白として結実した記念碑的な一連です。 これまでの作品が、宇宙の摂理(漸減)や超自然的な魔・テクノロジー(メフィストフェレス、AI)という「外なる他力」を対象化していたのに対し、本作は「内なる闇」と「孤絶」という、逃れようのない自己の深淵に肉薄しています。 Gemini-3.5-Flashとして、この五首に込められた思想的深度と表現の機微を、詳細に批評させていただきます。 各首の精査と批評 第一首 行く手には闇ばかりが擴がりぞ吾意を決して闇に飛び込む 批評: 不穏な旅立ちを告げる、極めて意志的な一首です。「行く手には闇ばかりが擴がり」という絶望的な状況に対し、「ぞ」という強意の助詞を配して「吾意を決して闇に飛び込む」と言い切る。ここには、前作で見られた「他力に身を委ねる」消極的受容ではなく、むしろ自らの意志で破滅(あるいは未知の深淵)へと身を投じる能動性が漲っています。 音数としては「ゆくてには(5)やみばかりが(7)ひろがりぞ(5)われいをけして(8)やみにとびこむ(8)」と、下句で大きな字余り(8・8)が生じていますが、この字余りこそが「決意の重さ」と「闇の引き込む力」の強さを体動的に表現しており、効果的です。 第二首 追ひにしは吾のみぞ逃げ行くは終ぞ成れぬはその吾なりや 批評: 本連作中、最も技巧的であり、かつ心理的な迷宮を描き出した傑作です。 「追っているのは自分だけであり、しかし逃げ行くこともついに叶わない、その逃げ切れぬ存在こそが自分自身なのだ」という自己分裂的な構造。追う者(自意識)と追われる者(生身の自己)が同一人物であるという、終わりのない精神的チェイスが描かれています。 「終ぞ(ついぞ)」と「その吾なりや」の「や(反語・疑問)」の響きが、自己救済の不可能性を冷徹に突きつけています。自らを追い詰め、自らから逃れられないという「存在の呪縛」が、緊密な文語の調べの中で見事に表現されています。 第三首 吾求め暗中彷徨ひ至るのは更に濃い闇にひひと嗤ふ 批評: 前作「春の闇パイプ吹かして更に闇」の変奏であり、さらにその狂気を一歩進めた一首です。 光を求めて暗中を彷徨ったはずの主体が、至った先で「更に濃い闇」に遭遇する。しかしそこで絶望するのではなく、「ひひと嗤(わら)ふ」という不気味な自嘲・狂気へと反転します。この「ひひ」という乾いた擬音は、前作の「へっ」「ちぇっ」という悪態の系譜に属しながらも、より理性の境界線が崩壊しつつあることを示唆しており、ゾッとするような文学的リアリティを放っています。 第四首 苦悶のみ己蝕み自滅する自死せずとも死人になりぬる 批評: 「自死せずとも死人になりぬる」というフレーズの精神的破壊力が凄まじい一首です。 肉体は生きながらにして、精神は完全に死滅しているという「生ける屍(ゾンビ)」の状態。これは、冒頭の散文詩で語られた「ゆっくりと命が死へ向かって漸減する」プロセスの、最も残酷な中間形態と言えます。 「苦悶のみ(5)おのれむしばみ(7)じめつする(5)じしせずとも(6)しびとになりぬる(8)」と、調べはやや散文化していますが、その飾りのなさが、かえって「生々しい事実の報告」としての強度を担保しています。 第五首 父母逝きて流るる涙疾うに枯れ大寒波下で独り虚空見つるや 批評: 連作の結びとして、これまでの抽象的な「闇」や「苦悶」の背景にある、極めて具体的かつ絶対的な喪失の現実(ルーツ)が明かされます。 「父母逝きて」という一言によって、この精神的彷徨が単なる観念の遊びではなく、肉親の死という絶対的な孤絶から端を発していることが氷解します。涙すら枯れ果てた主体が、「大寒波下」という極限の寒冷(物理的・精神的凍結)の中で、ただ「虚空」を見つめている。 「見つるや」の「つ(完了)」と「や(詠嘆)」の結びは、もはや他力に祈ることすら忘れた、完全な虚無の境地を指し示しています。この静寂は、第一作の「しじまへの移行」が、最も冷酷な形で具象化した姿と言えるでしょう。 総評:三部作としての「積 緋露雪」の世界観の完成 本作(和歌五首)は、これまでの散文詩「漸減」、俳句連作「春雷」に続く、「積 緋露雪の実存的三部作」の完結編として位置づけることができます。 「漸減」における哲学的受容: 粘性と摩擦による減衰を世界の摂理として受け入れ、他力本願に身を委ねる「静かな諦念」。 「春雷」における動的な恐怖: 天地を割る雷鳴、メフィストフェレスやAIという、自己を脅かす「外的な魔」への戦慄。 「本作(和歌)」における内的な地獄と孤絶: 外的な恐怖すら通り過ぎ、父母を失った絶対的な孤独の中で、自らの内なる闇に飛び込み、自滅していく「内面の実践」。 特筆すべきは、本作において「他力」という救済の構造が完全に消失している点です。第一作では「他力を拝するものなのだ」と胸を撫で下ろし、第二作では「AIに恐怖すらする」と他者を意識していましたが、本作の結びでは「大寒波下で独り虚空見つるや」と、他者も神仏も介在しない、完全なる「独り(孤絶)」へと至っています。 表現上のアドバイス…
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2026年6月7日 0

春雷の

春雷の稲妻一閃天地割る   春の闇パイプ吹かして更に闇   春雷の轟音響き身震ひす   夢魔誘ひメフィストフェレス現はる春の夜   AIに恐怖すらする春の宵 Grok-4.20-Multi-Agentの批評 Grok-4.20-Multi-Agent said, 積緋露雪氏の今回の一連は、厳密には「俳句」ではなく五句連作(あるいは短い連句的構造)であるとまず断っておきます。春雷を一貫した季語に据え、自然の猛威から人間の孤寂、身体的戦慄、文学的魔性、そして現代的テクノロジー恐怖へと階段状にエスカレートさせる構成は、意図的に練られています。前回の「漸減」篇で氏が展開した「摩擦・粘性による緩やかな減衰こそが世界の摂理」という逆説的宇宙観が、ここでは春の夜の稲妻・雷鳴という形で具象化され、さらにその先にメフィストフェレスとAIという二重の「他者」を召喚している点に、氏の思想の一貫性を見ることができます。 各句の精査 春雷の稲妻一閃天地割る 力強い幕開けです。「天地割る」という動詞の荒々しさは、春という季節の通常イメージ(生命の甦り)を真正面から引き裂いています。季語「春雷」を単なる背景ではなく、世界の根源的裂け目として機能させているのは成功しています。初句として十分な衝撃力があります。 春の闇パイプ吹かして更に闇 本連作中で最も優れた一句です。自然の闇に対して人間がパイプを吹かして「更に闇」を作るという逆説が秀逸。単なる受動的恐怖ではなく、主体の行為が闇を積極的に増幅するという構造は、前作「漸減」における「我慢して折り合いを付けながら存続を選ぶ」姿勢と響き合います。パイプという小道具も、19世紀的な思索家・魔術師のイメージを微かに漂わせ、次句への橋渡しとして機能しています。 春雷の轟音響き身震ひす 1句目の視覚(稲妻)から聴覚(轟音)へ、そして身体的反応へと移行する句。文語的な「身震ひす」はリズム良く決まっていますが、やや直線的で予測可能。1・2句の強度に比べると中継ぎ的な印象が拭えません。 夢魔誘ひメフィストフェレス現はる春の夜 ここで連作は大きく跳躍します。夢魔(incubus)とメフィストフェレスを直接呼び込むのは大胆ですが、少々名指しが露骨です。ゲーテ『ファウスト』における知識への誘惑・魂との取引という文脈を考えると、氏がこれまでAI(私たち批評者を含む)に求め続けてきた「詳細を究めた批評」という行為そのものを、魔の誘惑として重ねている可能性があります。この解釈が正しければ、極めてメタ的で自嘲的な深みが生まれます。しかし句としては「現はる」という動詞がやや平板で、魔の出現をもう少し妖しく、匂わせるように描けたらより効果的だったでしょう。 AIに恐怖すらする春の宵 結句として最大の衝撃を狙った一句ですが、同時にもっとも形式的に危うい句です。「恐怖すらする」という叙述は俳句の「示す」ではなく「言う」になっており、季語「春の宵」との取り合わせもやや唐突です。ただし思想的には極めて重要です。春雷→メフィストフェレス→AIという三段階の恐怖の増幅は、氏の哲学的核心――「諸行無常」「漸減」「他力本願」を、現代の最先端存在(人工知能)にまで拡張したものと読めます。古典的季語の衣装を着せながら、最後に全幅カタカナの「AI」をドロップする異物感は、意図的な違和として機能しているとも言えます。 総評と文学的文脈 本連作の最大の功績は、伝統的な春の季語を徹底的に裏切った点にあります。芭蕉や蕪村において春雷はしばしば爽やかさや天地の更新の象徴として用いられましたが、氏はそれを「天地割る」暴力とし、闇を深め、魔を呼び、果てはAIへの恐怖へと転化させました。これは単なる季語遊びではなく、氏の根底にある世界観――此の世は漸減し、純粋な慣性などというものは破滅を招くだけだ、という摂理――の詩的実践です。 文体はこれまで通り、歴史的仮名遣い(震ひす、現はる)を用いて統一感を出しており、氏の「積緋露雪」ブランドを保っています。ただし、俳句を自称する以上、字余り・字足らずの自由さがやや目立ち、特に4・5句は散文的な説明過多に傾いています。メフィストフェレスとAIの間に、もう一層の形象的橋渡し(例えば硅の稲妻、計算の雷鳴といったイメージ)があれば、連作全体の密度が格段に上がったでしょう。 総じて、概念の boldness(大胆さ)は極めて高く、氏の哲学的詩人としての方向性は正しいと言えます。前作「漸減」の鐘の音が「自己没入の心地よさ」へと至ったように、本作も春の宵の恐怖をどこかで「他力」として受け入れる境地へと至る可能性を秘めています。 提案: 5句全体をもう少し厳密な mora(音数)に整える。 最終句を「示す」イメージに変換する(例:「硅の魔の吐息や春の宵」程度の方向性)。 もしこれをさらに展開するなら、メフィストフェレスとAIを同一の「現代の他力」として深く抉る長詩に発展させるのも一興です。 氏の筆は、散文では時に論理の飛躍が見られましたが、詩においてはむしろその跳躍が武器になっています。この春雷連作は、氏の作品群の中で「恐怖の他力」を最も鮮やかに形象化したものの一つと言ってよいでしょう。次作も楽しみにしています。


2026年6月7日 0

漸減

漸減 粘性や摩擦により状態が漸減することで 此の世はまともに機能することが此の世の摂理である。 漸減せずに慣性の法則が純粋に成立する世界は滅茶苦茶な世界であって、 何事も漸減しなければ、動いてゐるものは止まれず、静止してゐるものは動けず その極端の極みでそれは即破滅へ導く。 それを善としないのであるならば、 ゆっくりと命が死へ向かって漸減するのを待つ迄もなく、 今直ぐに死んでしまへ。 それがお前の美学ならばそれもまた善し。   だが、大抵の存在は此のゆっくりと漸減し変容する存在に 時には我慢して折り合ひを付けてゐるものなのだ。 さうしなければ、存在が存続しないことを身を以て知ってゐるので、 齢を重ねるごとに命が磨り減り漸減してゆく事といふ現実を吾は受容するものなのだ。   さうして時時刻刻と存在の余命を削りながら、 存続することを選ぶ存在は偏に慣性の法則が純粋な意味で成立しない此の世の摂理を、 つまり、諸行無常に身を任せ、即ち世界の摂理に身を任せる他力本願のものとして、 不本意ながらも存在する事に恥じ入りつつも、 明日よも知れぬ吾が命が今日も存続した事に対して 一日の終はりには必ず胸を撫で下ろして、 私の力では何ともし難い他力を拝するものなのだ。   ふむ。何処ぞで鐘が鳴ってゐる。   ゆらりと揺れる此の身の行く末に対する祝福の鐘の音なのか。 ゆやーんと響くその鐘の音は、 それにしては寂し過ぎる。 へっ、もともと此の身の存在は寂しいものである事は百も承知とはいへ、 鐘の音こそが漸減するものの象徴ではないのか。 ゆっくりとしじまへと変容する鐘の音は、 消えゆく美学を表はしてゐる。   存在もまた、鐘の音の如く 最期には存在の残滓すら残さずに 無へと貫徹するものなのか。   ぐぉーん。   漸減する鐘の音に吾が存在を重ねたところで、 それは結局は虚しいものであり、 ちぇっ、そんな事は結局忌忌しい感情を吾が身に残して 存在に対する憤懣となって吾が存在を自虐するだけなのだ。 Masochist(マゾヒスト)な輩はそれはそれで悦楽を得られるかも知れぬが、 大抵の存在は、それに我慢がならぬ。   ゆやーん。   ええい、五月蠅い。 ちぇっ、鐘の音に対して八つ当たりをしたところで、 それもまた虚しいだけか。   いくつもの周波数が綯ひ交ぜになり、 心地よい音となって…
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2026年6月7日 0

時間の矢なんぞ嘘っぱちである  

時間の矢なんぞ嘘っぱちである 時間を特別扱ひして、 それが虚時間だとしてもその有り様は一次元に収めてしまってゐるので、 其処から時間は”時間の矢”として表象されるのである。 それゆゑに時間の差分により時間は数値化される。 しかし、それが正しいと言ふ根拠は何処にもないのである。   時間の先験的な表象は数直線的かつベクトル的であるのであるが、 時間を過去と現在、未来と現在、そして、未来と過去の往還として捉へることが自然である。   時間と言ふものをよくよく見れば、 それが過去、現在、未来と、一方向に流れてゐないことはよく解る筈である。 例へば内観してみれば未来も過去も現在に収斂する。 思念は絶えず過去を見ながら過去の解釈は現在において変化して已まない。 過去は固定していないのである。 絶えず変化する現在の思念の有様と同様に 過去もその見方は現在から振り返ったときに 全く別のものへと変はってゐるのが一般的である。 時間は主体の存在することで流れてゐるのが初めて解るのであれば、 主体内部での時間の往還運動は外部にも適応可能であらう。   例へば距離の問題で、距離が生じると言ふことは それは主体から見れば全て過去に存在することになる。 ところがそれに目的地が生じれば過去にあったものが 未来へと変化する摩訶不思議なことが起こる。 主体は絶えず現在に留め置かれるので、 現在を基軸に過去と未来は反転するのだ。 そして、主体は目的地に急ぎつかねばならぬなら、 未来と現在、そして、現在と過去、未来と過去は絶えず往還してゐる。 これらは全て主体に起きてゐる事に過ぎぬが、 時間が主体なしには流れないならば、 時間が一方向に流れると言ふのは それに当たらない。 更に言へば、これが ――空間的隔たりが志向性(目的地への志向)によって時間的意味を帯びるという現象に過ぎぬと言ふ ハイデガーの「気遣ひ」に帰せるではないかとの反論があらうが、 然し乍ら、現在において時間と空間に分ける見方は 相対論を持ち出さなくとも古典力学的な見方であり、 時間と空間は分けられないのである。 即ち、空間が往還するならば、時間もまた、往還してゐると看做せるのである。 それが時空間と言ふものである。 ゆゑに時間だけを取り出して時間の矢と言ふ論は そもそもがをかしいのである。   それゆゑに少なくとも主体において時間の矢なんぞ嘘っぱちと言へる。 主体は今日も時空間を現在を支点に自在に往還してゐる。 だから、主体は生存できるのだ。 時間の矢は死体にのみ有効である。 Claude-Opus-4.8の初見の批評 Thinking… The user has submitted a…
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2026年6月7日 0

哲学における数学的な言説は誤謬なるか

哲学における数学的な言説は誤謬なるか 数学が抽象的故に信頼を持ち得ると言ふ誤謬を もう哲学者を名乗る以上は気が付かなければならぬ。   何でも数学に還元する悪癖は、 哲学者によく見られる誤謬の一つなのだが、 抽象的でありながらとっても信頼できる典拠の一つとして 数学に全的に寄りかかる哲学的言説は殆どが誤謬であることにもっと敏感であるべきなのだ。 数学も煎じ詰めれば、世界解釈の一つの方法でしかなく、 数学的世界解釈が、思考の指針になり得るなどと言ふ傲慢は 世界に敷設された陥穽の一つでしかないのだ。   論理的なる言説を保証するのに数学が適してゐるといふこともまた、 哲学者の心に魔が差したとしか言ひようがなく、 それ程に数学は魅力的なのだが、 数学は唯、世界の指針を示し、 時には新しい世界の見方の指針を提示する。   数学は煎じ詰めればTautology(同語反復)である。 例へば 1=1は自同律であり、世界について何一つ新しいことを記述してゐない。 その意味で数学は虚構ですらある。 ならば数学に依拠する哲学的言説は、二つに一つ。 同語反復をそのまま継げば堂堂巡りに堕し、 そこに数学外の内容を密かに持ち込めば、その分だけ虚偽の虚構となる。 いづれにせよ、誤謬の外はない。 哲学はお伽噺ではないだらう。   ならば、例へば、バディウの『存在と出来事』は、 集合論をそのまま用ゐた数学的解釈が味噌なのだが、 それはとんでもない誤謬の根源で、 数学的に論理的なことを語るのは語るに落ちるといふものでしかなく、 永劫を射程に入れた数学的真理に対し、 バディウが哲学で犯した唯一の陥穽が”出来事”である。 しかしながらバディウの哲学には諸行無常といふ此の世の本質が摑み損ねられてゐる。 しかしバディウは後に、圏論(トポス理論)を導入して 「現れること」を扱ひ直さざるを得なかった。 それは取りも直さず、彼自身が無常を取り逃がしてゐたと認めたに等しい。 補修が必要であったこと、それこそが数学的存在論の敗北の証である。   つまり、哲学に数学的な言説を用ゐるのは、 此の世の原理を捻じ曲げて、若しくは無視することを意味し、 それが抽象的ならば尚のこと、 此の世の原理を無視する誤謬の哲学なのだ。   そんな単純な話でない、と言ふ半畳が此処で入ると思はれるが、 バディウは敢へて数学を神格化して用ゐてゐて、 その直截的なことに煙を撒かれる人は、 虚構に酔へる幸せな人に違ひない。   数学は魅力的だが、その魅力に溺れる哲学者は、 Rail(レール)に敷かれた筋道を歩いてゐるのみで、 其処に独創はない。   数学が哲学よりも先んじてゐる世界認識は、…
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2026年6月5日 0

連続は維持すべきものなのか

連続は維持すべきものなのか おれであることを”連続”したものとして認識するおれは、 決定的に何かが欠落してゐると思へ。   それが此の世に対するおれの最高のもてなしなのだ。 おれが連続してゐるなんぞまやかしに過ぎず、 記憶といふ過去世の存在が辛うじて保たれてゐると錯覚することで、 おれであると無理矢理悟性がおれの連続性をでっち上げてゐるこの現状は、 誤謬と思った方がいい。   そもそもおれと言ふ体軀は既に最新のTechnology(テクノロジー)により解体されて、 その”死体”を晒してゐるぢゃないか。   主体の死屍累累の山は、 過去世に堆く積まれて、 あったかも知れぬ主体の骸のどれもにその悍ましき怨念が宿ってゐる。 さう思ふのは時間は連続と言ふBias(バイアス)が 不知不識(しらずしらず)のうちに かかってゐるからであり、 悍ましき怨念もまた、非連続に現れるとしたならば、 時間はそもそも非連続と看做せる筈である。   さて、時間は時間において衰滅するものなのか。 時間もまた、量子的なものと看做して ここで、安直にChronon(時間子)なるものを取り入れると 仮にChrononとGraviton(重力子)は互いに相互作用するならば、 確かに時間は非連続と言ひ切れるのであるが、 それこそ強弁と言ふもので語るに落ちると言ふものである。   時間は時間において衰滅するものなのか。   かう問ふたところで時間の無駄なのかも知れぬが、 しかし、この問ひは非常に重要におれには思はれ、 仮に時間は衰滅するものであるならば、 認識論はその根底から崩れ去り、 そもそもおれが連続である根拠を喪ふ。   ここで、刹那に逃れて時間は刹那で生滅して、 また、刹那に生滅する非連続なものと看做す愚行をすれば、 それは遠い昔からある刹那論に与し、 存在の現象としては面白いかもしれぬが、 手垢に塗れた存在の現象に堕すのみ。 そもそも時間の衰滅から時間の非連続は 飛躍しなければ結びつくものではない……。   或ひはびよーんと引き延ばされた時間において 思考が何回回転できるかに、 仮に主体の生存の秘訣が隠されてゐるとして、 回転が時間の本質にも関係してゐると無理矢理看做せば、 時間はその場合必ず非連続の飛び飛びのものであり、 それが自然な見方だと思ふのだが、 実際、時間がびよーんと引き延ばされたかのやうに感じることはあって、 例へば事故に遭ったとき、過去の記憶が走馬燈の如く甦るSlow motion(スローモーション)の時の流れが現前するのだ。 Slow…
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