武骨な
どす黒き欲望抱へ花曇
枯死匂ふ古木の桜鮮烈に
幹朽ちて尚も桜樹絢爛と
春宵の冥き道行き何処までも
cluade-opus-4.7の評価
積緋露雪「武骨な桜の幹」連作五句詳論
全体構造の把握
提示された五句は、独立した俳句としても読めるが、五句連作として読むことで一つの精神的軌跡を描く構造を持っている。連作の主題は桜と自己の重ね合わせであり、より厳密には老境・衰滅と美の併存である。五句は以下のような展開を見せる。
第一句――自己と桜の幹の同一視の宣言。
第二句――その自己が抱える内的な暗黒の表出。
第三句――枯死を予感させる古木の、なお鮮烈な美。
第四句――幹の朽廃と花の絢爛の対比的併存。
第五句――春の宵の闇への旅立ち。
この展開は、自己宣言→内面告白→美の発見→対比の深化→闇への移行という五段階の精神的軌跡として読める。連作全体が一つの詩として機能しており、個々の句の評価と連作全体の評価を共に行う必要がある。
以下、各句を順に詳論する。
第一句――「武骨な桜の幹こそ吾が身の写し」
句の構造分析
この句は定型(五七五)から逸脱した破調である。「武骨な/桜の幹こそ/吾が身の写し」と区切ると、六・七・七となり、合計二十音で定型より三音多い。この破調をどう評価するか。
破調は俳句において必ずしも欠点ではない。むしろ、作者の感情の高ぶりや思想の重みを表現する手段として、伝統的に用いられてきた。本句の場合、「武骨な」という重い形容、「こそ」という強調の係助詞、「吾が身の写し」という重厚な断定――これらの意味的重量が、定型の枠を破って溢れ出すという構造になっている。破調は、句の内容との必然性によって正当化されている。
「武骨」という語の選択
「武骨」という語は、桜の幹を形容する語として極めて独特である。桜を讃える伝統的な語彙――「華やか」「艶やか」「妖艶」「可憐」など――のいずれとも異なる方向性を持つ。「武骨」は通常、洗練を欠いた荒削りな力強さを表現する語であり、人物の性格や器物の作りに用いられることが多い。これを桜の幹に適用することで、本句は桜の通念的イメージを大きく転倒させている。
ただし、この転倒は恣意的ではない。桜の花は確かに華やかで艶やかであるが、桜の幹は実際には黒く、節くれだち、ひび割れた、極めて荒々しい姿をしている。特に老木の幹は、ほとんど不気味なまでの異形を呈する。本句の「武骨」は、桜の実在の幹の質感を正確に捉えた語であり、通念的桜イメージを排して幹そのものの実相を見つめる眼差しから生まれている。
この幹への注視が本連作全体の出発点である。多くの桜の詩歌が花を主題とする中で、本句は幹を主題とすることを冒頭で宣言する。この宣言は、本連作が伝統的な桜の美学から距離を取り、独自の桜観を提示することを予告している。
「こそ」という係助詞の機能
「こそ」は強調の係助詞であり、「他ではなく、まさにこれ」という排他的指示を行う。「武骨な桜の幹こそ」と言うことで、作者は武骨な幹こそが自己の写しであり、他のもの(花、若木、別種の樹木など)ではないことを強調している。
この排他性は、自己認識の精度の高さを示す。作者は自己を漠然と桜に喩えているのではなく、桜のうち特に武骨な幹に限定して自己と重ねている。花でもなく、若い枝でもなく、まさに老いて荒々しい幹こそが自分である――この限定の精度が、本句の自己認識の鋭さを支えている。
「吾が身の写し」という結句
「写し」という語は、「複写」「鏡像」「映し」などの意味を持つ。物理的な複製ではなく、本質的な相似を表す語である。「吾が身の写し」は、桜の幹が自己と本質的に相似する存在であるという認識を表現している。
ここで注目すべきは、自己と桜の幹の相似が外形的相似ではなく本質的相似として捉えられている点である。作者は自分の身体が桜の幹に似ていると言っているのではなく、自分の存在の質が桜の幹の存在の質と同じであると言っている。武骨で、荒削りで、節くれだった存在――それが自己であり、桜の幹である。
この存在の質の同一視は、後続の四句で展開される自己と桜の重ね合わせの基盤となる。第一句の宣言があることで、第二句以降の桜の描写がそのまま自己描写としても読める二重構造が成立する。
句全体の評価
第一句は、破調を厭わず重い宣言を行う、力のある冒頭句である。「武骨」という意外な語の選択、「こそ」による強調、「吾が身の写し」という重厚な断定――これらが連動して、本連作の精神的基調を確立している。
ただし、この句単独で見ると、やや散文的である。「こその写し」という構造は論理的な叙述に近く、俳句に求められる飛躍や省略がやや弱い。連作の冒頭として宣言的役割を果たすために散文性を許容しているとも読めるが、句単独の俳句的強度としては、後続の句の方が高い。
第二句――「どす黒き欲望抱へ花曇」
句の構造分析
「どす黒き/欲望抱へ/花曇」で五・六・四、合計十五音となり、定型より少ない字足らずである(正確には「欲望抱へ」を「よくぼうかかえ」と読めば七音となり、五・七・三で十五音)。「花曇」を「はなぐもり」と読めば五音であり、五・七・五で十七音の定型に収まる。読み方によって字数が変わるが、いずれにせよ標準的な定型ないしそれに近い形となる。
「どす黒き」という強烈な形容
「どす黒い」は、単に黒いというより、不純で禍々しい黒さを表す語である。血液の暗赤色、淀んだ水の色、不健康な顔色などに用いられることが多く、生理的な不快感を伴う。
この語を「欲望」に冠することで、欲望の質が極めて強烈に規定される。単なる欲望ではなく、自己嫌悪を伴う禍々しい欲望である。作者は自己の内面の暗黒を、美化することなく、最も厳しい語で告白している。
俳句において、「どす黒き」のような直截的に否定的な形容は珍しい。俳句の伝統的美学は、否定的なものも美的に昇華して描くことを好み、「どす黒い」のような生理的に不快な語は避けられる傾向がある。本句があえてこの語を用いることは、伝統的美学への意識的な反逆である。作者は美的な自己描写を拒否し、自己の暗黒をそのまま提示することを選んでいる。
「欲望抱へ」という告白
「欲望」という語自体も、俳句の伝統的語彙からは離れている。俳句は通常、外的世界の描写を通じて間接的に内面を表現するが、「欲望」のような内面の概念を直接名指すことは稀である。本句は、伝統的な含蓄的表現を捨てて、内面を直接的に告白する近代的・現代的な姿勢を取っている。
「抱へ」(抱えて)という動詞も注目される。「抱く」(いだく)ではなく「抱へ」(かかえ)である。「抱く」が観念的・心的な保持を表すのに対し、「抱へ」は物理的・身体的な保持のニュアンスを持つ。欲望を心の中に抱くのではなく、文字通り両手で抱えるように身に保持している――この身体性が、欲望の重量感と切実さを表現している。
「花曇」という季語の機能
「花曇」は春の季語で、桜の咲く頃の薄曇りの天候を指す。明るい春の日差しではなく、桜を覆う仄暗い空を表現する語である。
この季語の選択が本句の核心である。桜を直接描かず、桜を覆う空を描くことで、本句は桜の周辺の暗さを主題化している。第一句で自己と重ねられた桜は、第二句では曇った空の下に立つ存在として描かれる。明るい青空の下の桜ではなく、薄暗い曇天の下の桜――この設定が、第一句の「武骨」な自己認識と呼応する。
さらに、「どす黒き欲望」と「花曇」の色彩的呼応も看過できない。「どす黒き」と「花曇」(灰色の空)は、いずれもくすんだ暗色であり、両者は色彩的に同じ系統に属する。内面の暗色と外景の暗色が呼応することで、自己と世界の同色化が達成されている。
取り合わせの妙
本句は、上五中七の「どす黒き欲望抱へ」と下五の「花曇」が取り合わせ(二つの異質な要素の併置)の構造を取っている。前者は内面の告白、後者は外景の描写であり、両者は表面的には無関係である。
しかし、両者は色彩的呼応と情調的呼応(暗鬱さ)によって深く結びついている。取り合わせとして、これは極めて巧みな構成である。直接的な因果関係や論理的接続を排して、二つの要素を並置することで、両者の間に詩的な共鳴を生み出している。
句全体の評価
第二句は、本連作の中で最も俳句的強度の高い句の一つである。「どす黒き欲望」という強烈な内面告白と「花曇」という季語の取り合わせが、伝統的俳句美学への反逆と俳句的構造の継承を同時に成立させている。
第一句が宣言的・散文的であったのに対し、第二句は俳句本来の取り合わせの妙を活かした構造を持っており、句単独の完成度が高い。連作の中で、第一句から第二句への移行は、宣言から実作への移行として機能している。
第三句――「枯死匂ふ古木の桜鮮烈に」
句の構造分析
「枯死匂ふ/古木の桜/鮮烈に」で六・六・五、合計十七音となり、定型と同じ音数だが区切りが定型から外れている。中七が「古木の桜」で六音、上五が「枯死匂ふ」で六音となっており、字余りを含む変則的構造である。「枯死匂ふ」を「こしにおう」と読めば五音となり、五・六・五で十六音となる可能性もあるが、いずれにせよ標準的な定型からは逸脱している。
「枯死匂ふ」という不穏な提示
「枯死」は植物が枯れて死ぬことを意味する重い語である。「匂ふ」は本来は香りを発することを意味するが、ここでは「気配が感じられる」「兆しが見える」という意味の比喩的用法である。「枯死匂ふ」は、枯死の兆しが感じられるという意味になる。
この比喩的用法は、俳句的に巧みである。「匂ふ」を文字通りの香りとして読めば、枯死した植物が放つ実際の腐敗臭のニュアンスが生まれ、句に生理的な不快感が加わる。比喩的に読めば、まだ枯死していないが枯死の兆しがある状態を表現する。両義性が、句に深みを与えている。
「古木の桜」という対象
「古木の桜」は、樹齢を重ねた老桜のことである。日本の桜文化において、古木の桜は特別な美的価値を持つ。各地に「~の桜」と固有名で呼ばれる古木があり、それらは数百年の樹齢を経て、なお花を咲かせる存在として尊崇されている。
本句の「古木の桜」は、特定の名木を指しているのか、一般的な老桜を指しているのか、句からは判然としない。しかし、特定性は重要ではない。重要なのは、樹齢を重ねた老桜という設定である。これは第一句の「武骨な桜の幹」と直結する。武骨な幹を持つのは、まさに古木の桜だからである。
「鮮烈に」という結句
「鮮烈に」は、強烈で鮮やかな印象を与える様を表す語である。この語が、句の核心である。
ここで注目すべきは、句の構造である。「枯死匂ふ古木の桜」までは、衰滅と老いのイメージで一貫している。しかし、結句の「鮮烈に」によって、句は反転する。枯死を予感させる古木の桜が、なお鮮烈に咲いている――この衰滅と鮮烈の併存が、本句の主題である。
「鮮烈に」の後に動詞が省略されている点も俳句的に巧みである。「鮮烈に咲く」「鮮烈に在る」「鮮烈に立つ」など、読者が動詞を補完することで、句は完結しない開かれた構造を持つ。この未完結性が、句の余韻を深めている。
第一句との呼応
本句は第一句と深く呼応している。第一句で「武骨な桜の幹こそ吾が身の写し」と宣言された後、本句で「枯死匂ふ古木の桜」が登場する。両者は同じ存在の異なる側面を描いている。第一句は静的な存在の質、本句は時間的な状態(衰滅の兆し)を描く。
そして、本句の「鮮烈に」は、衰滅の兆しの中にある美の鮮烈さを提示する。これは第一句の「武骨」と表面的には対立するが、深層では呼応している。武骨で荒々しい幹が、鮮烈な花を咲かせる――この外形の荒々しさと美の鮮烈さの併存が、第一句と本句を貫く主題である。
句全体の評価
第三句は、衰滅と美の併存という本連作の核心的主題を提示する重要な句である。「枯死匂ふ」「古木の桜」「鮮烈に」という三つの要素の組み合わせは、それぞれが独自の重みを持ちながら、全体として一つの状況を描き出す。
ただし、字余りの構造はやや音数の重さを感じさせる。「枯死匂ふ」を「こしにおう」と五音に読めば多少緩和されるが、「枯死」という重い漢語を含む上五は、どう読んでも軽快さを持たない。この重さは、句の主題と合致しているため欠点ではないが、読みやすさという点ではやや障害となる。
第四句――「幹朽ちて尚も桜樹絢爛と」
句の構造分析
「幹朽ちて/尚も桜樹/絢爛と」で五・六・四、合計十五音となる。「桜樹」を「おうじゅ」と読めば三音、「さくらぎ」と読めば四音となり、いずれにせよ字数が変動する。仮に「みきくちて/なおもおうじゅ/けんらんと」と読めば五・七・五で定型に収まる。読み方によって音数が変わる難しい句である。
「幹朽ちて」という決定的状態
「朽ちる」は、植物が腐敗して崩れることを意味する。第三句の「枯死匂ふ」が枯死の兆しを示していたのに対し、本句の「朽ちて」は朽廃の進行を示している。第三句から本句への展開は、衰滅の段階の進行として読める。
この進行は重要である。第三句では「枯死匂ふ」がまだ予兆の段階であったが、本句では「朽ちて」として現実の朽廃が描かれる。連作の時間軸が、衰滅の進行と共に展開している。
「尚も」という逆接の強調
「尚も」は「それでもなお」という逆接的な強調を表す副詞である。幹は朽ちている、それでもなお桜樹は絢爛と咲いている――この逆接が句の核心である。
この逆接構造は、第三句の「枯死匂ふ古木の桜鮮烈に」と本質的に同じである。両句とも、衰滅と美の併存を主題としている。しかし、本句の「尚も」は、第三句の「鮮烈に」よりも逆接性が明示されている。第三句では衰滅と美が並置されるだけであったが、本句では「尚も」によって逆接的併存が強調されている。
この明示化によって、本句は連作の主題をより鋭く提示する。衰滅にもかかわらず、いやむしろ衰滅故に、桜樹は絢爛と咲く――この逆説的命題が、「尚も」の一語に凝縮されている。
「絢爛と」という表現
「絢爛」は、華やかで美しいさまを表す語である。「鮮烈」が鋭さ・強烈さを強調するのに対し、「絢爛」は豪奢さ・豊かさを強調する。両者は重なる部分もあるが、ニュアンスは異なる。
本句の「絢爛と」は、朽廃する幹の上に咲く花の豪奢な美を表現している。この豪奢さは、朽廃の貧しさと対比されることで、いっそう際立つ。「朽ちる」と「絢爛」――最も貧しい状態と最も豊かな状態が、一本の樹において併存する。この極端な併存が、本句の詩的衝撃を生み出している。
「絢爛と」の後の省略
第三句の「鮮烈に」と同様、本句の「絢爛と」も後に動詞が省略されている。「絢爛と咲く」「絢爛と在る」「絢爛と立つ」など、読者が動詞を補完する開かれた構造である。
この省略の繰り返しは、連作の構造的特徴の一つである。第三句と第四句が共に末尾に動詞を省略した副詞で終わることで、両句の対応関係が形式的にも明示されている。
句全体の評価
第四句は、第三句の主題をより鋭く展開した句である。「幹朽ちて」と「絢爛」の極端な対比、「尚も」による逆接の明示――これらが連動して、衰滅と美の逆説的併存という連作の核心的主題を最も鋭く提示している。
ただし、第三句との内容的重複もやや感じられる。両句とも衰滅と美の併存を主題としており、表現は異なるが核心は同じである。連作として読むと、第三句から第四句への移行が深化として機能するか、それとも反復として感じられるかは、読者によって判断が分かれる可能性がある。
私見では、第三句が予兆段階の併存(枯死匂ふ vs 鮮烈に)、第四句が進行段階の併存(幹朽ちて vs 絢爛と)として、衰滅の段階的進行を描いていると読める。この読み方では、両句は反復ではなく深化として機能している。
第五句――「春宵の冥き道行き何処までも」
句の構造分析
「春宵の/冥き道行き/何処までも」で五・七・五、合計十七音となり、定型に最も近い句である。連作の最後で定型に収束する構造は、終結の安定感を与える。
「春宵」という季語
「春宵」(しゅんしょう)は春の宵を意味し、春の季語である。蘇軾の「春宵一刻直千金」(春宵一刻値千金)で知られるように、漢詩文の伝統において春の宵は美の極致として詠まれてきた。本句の「春宵」は、この漢詩文の伝統を背景に持つ。
しかし、本句の「春宵」は、伝統的な美の極致としての宵ではない。続く「冥き道行き」によって、闇の宵として描かれる。伝統的な「春宵」の華やぎが、本句では闇の深まりへと転倒される。
「冥き道行き」という表現
「冥き」(くらき)は、文語の連体形で「暗い」を意味する。「冥」という漢字は、単なる暗さではなく、死の世界に通じる暗さを含意する。「冥界」「冥土」「冥府」などの語に見られるように、「冥」は死後の世界の暗さである。
「道行き」も重要な語である。「道行き」は文字通り「道を行くこと」だが、特に心中道行のように、死へと向かう旅を意味することが多い。浄瑠璃や歌舞伎の伝統において、「道行き」は男女が心中の場へと向かう道程を指す美的形式である。
「冥き道行き」は、これらの含意を重ねて、死へと向かう闇の旅を表現している。これは第三句・第四句で描かれた衰滅の主題が、本句で死への移行として展開されたものである。
「何処までも」という結句
「何処までも」(いずこまでも)は、限りなく続くさまを表す副詞である。死への旅が、終わりなく続いていく――この無限性が、本句の余韻を深めている。
この無限性は二重に解釈できる。一方では、死そのものは個別の出来事であり、終わりを持つ。他方では、死へと向かう過程は、生きている限り続いており、終わりがない。本句の「何処までも」は、後者の意味で、生のうちに進行する死への旅の無限性を表現していると読める。
また、「何処までも」は方向の不確定性も含意する。どこへ向かうか分からないが、ともかく闇の中を進み続ける――この目的地の不在が、句の不安と深さを支えている。
連作の終結としての機能
本句は連作の終結として、極めて巧みに機能している。第一句から第四句までは、桜と自己を主題とし、現世の風景を描いていた。本句で初めて「桜」という語が消え、代わりに「春宵」「道行き」が登場する。これは連作の主題が、桜の風景から死への旅へと移行したことを示している。
しかし、移行は断絶ではない。「春宵」は桜の咲く時季の宵であり、桜の世界の延長である。「冥き」は第三句・第四句の衰滅イメージの延長である。「道行き」は連作全体が描いてきた精神的軌跡の集約である。本句は、これまでの全要素を引き継ぎながら、新たな次元(死への旅)へと移行している。
句全体の評価
第五句は、連作の終結として完璧に機能する句である。定型への収束による形式的安定、「春宵」「冥き」「道行き」「何処までも」という重層的な語の選択、桜の風景から死への旅への主題的移行――これらが連動して、連作を深い余韻と共に閉じている。
句単独でも高い完成度を持つ。「春宵の冥き道行き何処までも」という流れは、音数も滑らかで、意味も明晰でありながら深い含意を持つ。本連作の中で、最も伝統的俳句美学に近い句であると同時に、最も現代的・実存的な内容を持つ句でもある。
連作全体の評価
主題的統一性
五句は、桜と自己の重ね合わせという主題のもとに、緊密な統一性を持つ。第一句の宣言、第二句の内面告白、第三句・第四句の衰滅と美の併存、第五句の死への旅――この展開は、一つの精神的軌跡として読める。
構造的工夫
連作の構造には、いくつかの巧みな工夫が見られる。第一に、桜のイメージの多面的展開である。第一句は「幹」、第二句は「花曇」(背景)、第三句は「古木の桜」(全体)、第四句は「桜樹」(全体、別語)、第五句は「春宵」(時季)――桜の異なる側面が句ごとに焦点化されている。
第二に、衰滅の段階的進行である。第三句の「枯死匂ふ」(予兆)から第四句の「幹朽ちて」(進行)を経て、第五句の「冥き道行き」(死への移行)へと、衰滅が段階的に深まる構造である。
第三に、自己と桜の重ね合わせの度合いの変化である。第一句で明示的に重ねられた両者は、第二句以降では明示的な重ね合わせが消え、桜の描写がそのまま自己描写としても読める二重構造へと移行する。第五句では桜が背景に退き、自己(の闇の旅)が前景化する。重ね合わせが、明示から暗示を経て、自己の前景化へと展開している。
伝統と現代の融合
連作は、伝統的俳句美学と現代的・実存的内容の融合を試みている。「花曇」「春宵」などの伝統的季語、「絢爛」「鮮烈」などの伝統的美的語彙、「道行き」という伝統的劇形式の語が用いられる一方で、「どす黒き欲望」のような近代的内面告白、「枯死」「朽ちる」のような直截的な衰滅描写、「吾が身の写し」のような自己同一性の主題が展開される。
この融合は、本連作の独自性を支える重要な特徴である。完全に伝統的でもなく、完全に現代的でもなく、両者の緊張関係の中に独自の詩的空間を切り開いている。
緋露雪氏の他作品との関係
本連作は、これまでの「死を前にして」「遠吠え」などの哀悼詩と異なり、自己の老境と死への旅を主題としている。哀悼の対象が他者ではなく自己自身である点で、独自の位置を占める。
ただし、衰滅と美の併存、闇の中の旅、無限性の感覚など、緋露雪氏の他作品にも見られる主題が、本連作にも貫かれている。これは緋露雪氏の作品世界の一貫性を示すものである。
個別の検討点
第一句の散文性
第一句は、宣言的役割を果たすために散文的傾向を持つ。連作の冒頭としては機能しているが、句単独の俳句的強度は他の句に比べてやや低い。「武骨な桜の幹こそ吾が身の写し」は、論理的・直接的な自己宣言であり、俳句的な飛躍や省略が少ない。
これを改善するならば、「こその写し」という直接的構造を、より間接的・暗示的な構造に変える選択肢がある。例えば、桜の幹の具体的描写と自己の状態の暗示を取り合わせる構造などが考えられる。ただし、現状の直接性は連作冒頭の宣言として機能しており、変更は連作全体の構造に影響を与える。
第三句と第四句の重複感
第三句と第四句は、衰滅と美の併存という同じ主題を異なる表現で展開している。連作として読めば、衰滅の段階的進行として両句は差異化されるが、句単独で読むと類似性が目立つ可能性がある。
両句のどちらかを削るか、より差異化された内容にすることで、連作の凝縮性が高まる可能性がある。しかし、現状の二句構成は、衰滅の予兆と進行という二段階を描く意義を持っており、削除は連作の段階的構造を損なう。
音数の不統一
連作の各句の音数は、第一句が二十音(破調)、第二句が定型または字足らず、第三句が字余り、第四句が字足らず、第五句が定型と、不統一である。この不統一は、各句の内容に対応した自然な変動として読めるが、連作としての形式的統一性はやや弱い。
伝統的な連作俳句(連句)では、各句の音数は厳密に守られるが、現代俳句連作ではこの規則は緩和されることが多い。本連作の音数の変動は、現代俳句の自由度の中で行われたものとして許容される。
総合評価
積緋露雪氏の本連作五句は、桜と自己の重ね合わせを主題に、衰滅と美の逆説的併存、死への旅という主題を展開する、構造的に統一された連作である。各句は独立した俳句として一定の完成度を持つと同時に、連作全体として一つの精神的軌跡を描いている。
最も評価される点は、伝統的俳句美学の語彙と構造を継承しながら、近代的内面告白と実存的主題を取り込んだ独自の詩的空間の構築である。「武骨」「どす黒き」「枯死」「朽ちる」「冥き」などの直截的・否定的な語と、「花曇」「鮮烈」「絢爛」「春宵」「道行き」などの伝統的美的語彙が共存することで、伝統と現代の緊張関係から独自の美が生まれている。
最も強い句は第五句「春宵の冥き道行き何処までも」である。定型に収まる音数、重層的な語の選択、深い余韻――これらが連動して、連作の終結として完璧に機能している。緋露雪氏の俳句作品の中でも、特に完成度の高い一句である。
やや改善の余地がある点としては、第一句の散文的傾向、第三句・第四句の主題的重複感、連作全体の音数の不統一が挙げられる。ただし、これらはいずれも欠点というより選択の問題であり、現状の判断に十分な根拠がある。
緋露雪氏の俳句作品として、本連作は哀悼詩・自由詩とは異なる短詩形における自己探求の到達点を示すものとして評価される。特に、自己の老境と死への旅という重い主題を、五句という限られた形式の中に凝縮した手腕は注目に値する。「武骨な桜の幹こそ吾が身の写し」という冒頭宣言から「春宵の冥き道行き何処までも」という終結に至る精神的軌跡は、本連作を緋露雪氏の作品世界の中に確固として位置づけるものである。

