初秋の憂鬱
おれはどうしよもなく憂鬱になる。
朝日が登る様をぢっと凝視しながら、
まんじりともせずに眠れなかった夜明けに、
ぐったりと疲れ、
ひねもす疲労困憊なのだ。
そんなおれは
そんなことはお構ひなしに
日常をようやっと生きてゐる。
しかし、それでいいのだ。
疲れない日などある筈もなく、
疲労困憊してゐる中にも
光明はあり、
いや、暗中はあり、
其処へと飛び込む快楽は、
疲労してゐなければ
ちっとも味はへない。
唯、あったのは日常で、
それを発見できただけでも儲けものなのだ。
草臥れちまった中でも生きる喜びはちっとはあって、
宵闇が迫り来る頃、
おれは目覚めたかのように、多少は元気になり、
夜の帳に少しは癒やしを覚え、
真っ暗な部屋の中で、
唯、座ってゐるだけの至福の時間を味はふ。
草臥れているだけに闇がどれほど癒やしになるのか
ひねもす疲労困憊のものならば解る筈で、
奈落に落ちる快楽は已められぬ。
さう、草臥れちまった意識が奈落に落ちる快楽は、
ニュートンの林檎の如くには
普遍の定理には未だなってゐないが、
きっとひねもす草臥れたものが、
その普遍性を見出すかも知れず、
初秋の憂鬱はきっと普遍なものに違ひなく、
おれは、その普遍の中で闇を凝視することで、
その普遍の何かを見出したいだけなのかも知れぬ。
しかし、闇はなんと意識を落ち着かせるのか。
疲労困憊の軀体を引き摺りながらも
おれは、闇の中で独り恬然としてゐる。
それが闇に対する礼儀なのだ。