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深い陥穽に墜ちたとは

それは何の前触れもなくやってきた。
それは黒子と呼ぶのが相応しいのかもしれぬが、
この軀体に現はれた真っ黒な点は、その底が余りに深かったのだ。


その皮膚上に現はれた黒点は太陽の黒点にも似て、
強力な磁場で俺を揺すぶりながら、
俺の気配を吸ひ込み、
その黒点に墜ちた俺は
尚も俺を探しながら、
「へっへっ」と嗤ひながらまだ、落ち着いてゐたのは余りに楽観的だったのだ。


その黒子が仮に癌であったならば、慌てふためく筈の俺は、
それを承知の上で上っ面では癌であって欲しいと望んでゐて、
しかし、実際にその現実を突き付けられた途端、
魂魄が動揺し、顫動するのは解り切ってゐた。


とはいへ、俺は何を思ったのか、煙草を銜へて紫煙を呑み込み、
その紫煙の中に消えゆく俺の視界に溺れて、
さうして誤魔化す現実の先には醜悪極まりない現実ばかりが横たはり
その現実に絞め殺される思ひをしながら、
絶命する事ばかりが宿命と呼びかけて魂の動揺を抑へるのだ。


何を以てして俺は俺と言へるのかと、
永く俺を悩ませてゐた懊悩を
この際その縺れた俺が俺と言ふものを解きほぐしながら、
尚も俺は存在すると胸奥で叫ぶのだ。


その声が何かに届くのかと言はれれば全く不明なのであるが、
この際、世界を、さう、此の世界を呪はずして何を呪ふのか。


世界が流転するから俺は参ってゐるのか、
それとも俺が七転八倒するから俺が参ってゐるのか、
最早その区別すら出来ずに、
呻吟する俺の魂魄。


さて、さうしてゐる間も
俺は俺の陥穽として現はれた黒点の底知れぬ底へと
墜ち続けてゐたのであるが、
尤もその堕落が落下なのかどうかさへ解らずに
不快な浮遊感ばかりが感じられるのだ。


この宙ぶらりんな俺の状況を
最も知らなければならない俺は
その宙ぶらりんの俺の二進も三進もゆかぬ状態を
むしろ楽しんでゐるのだ。


哀しい哉、
俺の性は地団駄を踏む事を愉快と思ふ事なのかもしれぬ。
だが、一度でもいいから外部に向かって叫び声を上げる事をしなければ、
俺は俺の存在に対する猜疑を振り払ふ事など不可能。


黒子に吸ひ寄せられてしまった俺は
最早その磁場から逃れる力はなく、
陥るのみなのだ。


しかし、それが果たして堕ちてゐるのか、
天昇してゐるのか最早判定不可能なのも正直なところ。


果たせる哉、
俺の事を客観視出来る俺、
つまり、対自、更に言へば脱自の俺の有り様なんぞ
終ぞ解りはしないのだ。


「実存は本質に先立つ」と言った先人がゐたが、
そもそも俺の本質とは何なのか。
俺の本質とは此の底知れぬ黒子の穴ではないのか。
それとも、かうしてじたばたしてゐるだけの優柔不断な俺ではないのか。


さあ、嵐よ来い。
さうして黒子の穴に堕ちた馬鹿な俺を吹き飛ばしてくれないか。
さもなければ救はれる俺を誰が想像出来るのか。

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