確かにあったものが
無いことの薄ら寒さにぞっとしながらも
それを受け容れなければならぬ齢になったのかと
感慨に耽る余裕はこれっぽっちもなく、
忘却は、しかし、なし崩し的にやってきて、
根こそぎ、おれの記憶を奪ひ去って行くのだ。


それとも数多に散らばる記憶の断片に紛れ込んで、
それを探す術を見失ったために過ぎぬのか、
とはいへ、それもまた、おれのニューロンの道筋の一つが断絶しちまったことの証なのであるが、
何処かに紛れ込んだ記憶は、
もうおれの現前に現われないのか。


不意に忘却した記憶が現はれることもなくはないのであるが、
しかし、それはとっても僅少の出来事でしかなく、
一度忘却しちまったものは、
いくら頭蓋内を攪拌したところで
見つからないものは見つからないのだ。


識別力が減退したのだらう。
確かに今も記憶にある筈のものが
おれには見えぬのだ。
さうして記憶世界の中で道具存在としてあり得る筈のものが
記憶世界に溶解しちまったこの事実に愕然としながらも
おれはこの事実を黙して受け容れる外ないのか。
最後までじたばたしながら、。
忘却に対して最後の最後まで抵抗してみるが、
それは見るも無惨な有様で終はるのが常としてゐる。


忘却は、しかし、必要不可欠な能力でもあり、
忘却なくして、この複雑な世界に対しての情報の洪水に溺死するは間違ひないのだ。


何をして忘却と言ふのかは人それぞれだと思ふが、
忘却してゐることを自覚してゐるのはまだましなのかも知れぬ。
仮に忘却してゐることすら自覚できぬことになった場合、
それはそれで己にとっては幸せで、
唯、周りの人には迷惑に違ひない。


忘却と言ふ河がゆっくりと流れてゐて
その大河におれはぷかぷかと浮かんでゐるに過ぎぬのかも知れぬ。


忘却しようとも、
最後までおれと言ふことに対する違和を以てしておれの存在証明とせねば為らないのかも知れぬ。
さうしてなし崩しの忘却の中で、
おれは溺死することで本望を遂げるのか。
積 緋露雪

物書き。

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積 緋露雪
Tags: 忘却

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