何に怯えてゐたといふのか。
夜明け前の薄明の中、
独りぽつねんと端座しながら、
吾は白い影を引き摺るそいつに対峙する。
そいつはオーネット・コールマンが好きだと行って
藪から棒に吾のレコード棚から
オーネット・コールマンのレコードを取り出して、
プレーヤーで針を落とし
その気鋭のジャズ・ジャイアンツの音を流し出した。
そして、かう切り出した。
――別離の難しさはいふに及ばず。されば、そなたは別離を何とする。
――ぽっくり死ねれば幸ひだが、煙草好きの吾はのたうち回って此の世との別離を迎へるだらう。
――ふっ、一応覚悟はできてゐるみたいだが、その前にそなたはするべきことがあらうが。
――この悪疫が蔓延する世においても仮に生が繋げるのであれば、それは吾にまだ遣り残したことがあるといふことで、それを是非しなければとは考えてゐる。
――それを口に出来るかね。
――ドストエフスキーに双肩出来得る小説を書くこと。
と、吾がいふとそいつはゆっくり瞼を閉ぢて、
天を仰いだ。
そして、かういった。
――それは仮令、そなたが生きてゐるうちに評価されぬといふ覚悟があってのことか。
――勿論。
――それは既に書き始められてゐるのか。
――勿論。
――すまぬが読ませてくれぬか。
――ああ。
吾はそいつに原稿を渡した。
そいつは、何度も
――う~ん。
と唸りながら、吾の小説を読んでゐた。
――これはまだ序章でもないんだらう。
――さう、まだ、序章にすら達してゐない。
――この涯なき長編小説を書き終へる自信はあるのかね。
――いや。それでも書けるところまで、書き連ねるつもりだ。
吾がさういふとそいつはレコードのB面をかけた。
暫く沈黙が続いた後、そいつが口を開いた。
――合理に呑み込まれるなよ。
――解ってゐる。
――合理ほど人を誑かすものはないからな。
――解ってゐる。
吾がさういふとそいつは徐に立ち上がって、
白い自分の影を踏んづけた。
――そなたの小説は、つまり、かういうことだね。
――さうともいへる。が、しかし、そればかりではない。自分の影を踏んづける類ひの小説は五万とある。吾の小説は影を切り裂くのだ。さうして自らの存在をずたずたにする。さすれば、宇宙顚覆の端緒になり得ると思ひなしてゐる。
――狂気の沙汰だぜ、それは。
――解ってゐる。
吾がさういふと、そいつはすうっと姿を消した。
と同時にオーネット・コールマンのレコードも終はった。
積 緋露雪

物書き。

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