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小説 祇園精舎の鐘の声 一の篇

地獄の竈かまどで焚かれた熱湯風呂に入れられたやうな、そんな苦行を強ひられた異常に気温が高かった酷暑の夏も漸く終はりに近づいたのか、ここにきてやっと初秋めいてきた九月の十六夜の日、夕刻から小川よりは大きいが大河とは言へない在り来たりの川の右岸を百メートルくらい歩いたらくるりと踵を返しては何度も往復を繰り返してゐた倉井大輔は、何やら深刻な苦悩を抱へ込んだやうな思ひ詰めた表情をしながら、時折ぶつぶつと呟きつつ時間といふものの本質を弄るやうに時が経つのを過ごしてゐたのである。倉井大輔をそのやうな行動に駆り立ててゐたものの正体は自同律の苦悶であった。倉井大輔はもうすぐ三十路を迎へる年齢なのであったが、青臭い青年特有の自同律の問題に未だに囚はれてゐて、尚悪いことに世界といふものに、宇宙といふものに対して何故だか解らぬが、己に対して抱いてゐたやうに憎悪を剝き出しにしてゐたのである。
もの皆よくよく見れば、一つとして同じものがない。それと同じやうに頭蓋内に棲む異形の吾は倉井大輔が異形と呼んでゐるやうに内部の吾も一つとして同じものがないのが当然のことであった。しかし、それが倉井大輔には苦悩でしかなかったのである。何故、私と内部の吾はかうも互ひに反目し合ふのか。それに対して常人であれば、巧い具合に青年の間に折り合ひをつけて、内部の吾を飼ひ慣らし、猛獣使ひではないが、どんなに内部の吾が暴れやうが涼しい顔をして内部の吾は主人の私の一言で、尻尾を嬉しさうに振る仔犬のやうに馴致されてゐるものであった。ところが、倉井大輔は内部の異形の吾に共振してしまって、奇妙なことに私を異形の吾どもと一緒に総攻撃を仕掛けるのである。それは凄惨なことであった。


一の篇終はり
積 緋露雪

物書き。

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