それは何とも不思議な事であった。
確かに哀しいと言った奴がゐて
俺はそちらに面を向けると
そいつは既に姿を消してゐた。
ところが、哀しいと言った奴は
姿は隠したが、絶えず声を発してゐて、
俺を弾劾するのであった。


何をして俺は弾劾されねばならなぬかと言ふと
俺はそもそも此の世に存在するが罪だと言ふのだ。
そんな事を言ったならば、
俺以外も同じではないかと思ふのだが、
そいつに言はせると
存在が哀しいと思へぬ者は全て弾劾されるべきものであったと言ふのだ。


確かに哀しいと言った奴がゐて、
そいつの警告を解からぬ馬鹿な俺は、
怖いもの知らずで、俺の存在は、と胸を張り、
さうして墓穴を掘るのだ。


何の事はない、
俺はこれまで一度でも俺の存在に対して胸を張った事はなく、
むしろ、俺は穴があったら入りたいといふ姿勢で
これまで卑屈にも生きてきたのではないか。


そいつにすれば、俺のその卑屈さが気に入らなかったのだ。


確かに哀しいと言った奴がゐて
俺はと言ふと、
既に哀しいと言ふ感情を擦り切らしてゐて、
既に哀しいと言ふ感情が俺に湧き上がる事がなく、
そして、虚しいのだ。


虚しい俺は、もうとっくに忘れてゐた
哀しいと言ふ感情を懐かしむ余裕はなく、
渺茫と己の胸奥に開いている穴凹を覗き込みながら、
虚しいと言ふ感情を呼び起こしながら、
確かに哀しいと言った奴の
面持ちを想像するのであった。


だが、哀しいと思へる事は
俺にすれば途轍もなく幸せな事で、
その幸せを知っている哀しいと言った者の
影を追ひながら、
俺は哀しいと言ふ感情に無性に憧憬を覚えるのであった。






哀しさの 消ゆる夜長に 咳一つ


自意識に 拘泥するは 吾のみか そして此の世は 自意識を馬鹿にす
積 緋露雪

物書き。

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積 緋露雪

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