思索・アフォリズム・詩

人は麵麭(ぱん)のみに生くるに非ず

不意に労働とは何なのかといふAporiaが

頭蓋内に湧いて

吾、そのAporiaに振り回されてをり。

貧富の格差が途轍もなく大きくなった現代において、

殆どの人は麵麭ぱんを求めての労働に変質してゐるのかもしれぬ。

つまり、喰ふために働いてゐるといふことだ。

その麵麭が月を追ふごとに値上がりしてゐて

収入は据ゑおかれたままなので

どうしても麵麭を追ふのに汲汲とせざるを得ぬ。

そもそも全資本の99%は人類の1%が保有してゐると言はれる現状では、

一昔前のやうな大きなPieも富裕層に搾取に搾取を重ねられて

極端に縮こまったPieを人類の99%で奪ひ合ふその様は、

見てゐられないほどに殺伐としてゐて、

少ない麵麭を分捕った人の胸奥に去来する虚しさは

多分に底知れぬほどに深い。

それでも生きていかなくてはならないと考へる人は

なり振り構わずに毎日麵麭の分捕り合戦に参加して

口を糊塗するのが精一杯で、

この極端な競争に疲れしものは自死してゆく。

基督キリストが生きた時代よりも数段も超高度科学技術が発達したこの世において

麵麭を奪ふのに汲汲としてゐる人類は

この2000年余り、

何ら豊かになってをらず、

基督の時代と同様に権力を握ったものの勝ち逃げの時代なのだ。

基督が何度となく説いた

――人は麵麭のみに生くるに非ず

といふ言葉は多く人には虚しく響くだけかもしれず、

社会的には底辺にゐると自覚してゐても尚、

麵麭を奪ひ合ふ分捕り合戦とは一線を画し、

腹を空かしながら

己について深い思索に達したものもゐるに違ひなく、

それが現代の光明かもしれぬ。

 

労働とはさういふもので、

自己に深く沈潜するための経験に過ぎず、

麵麭の分捕り合戦に参加するべく、

生きてゐるものは幸ひなのかもしれぬ。

とはいへ、それは動物としての人間を浮き彫りにしてゐるに過ぎず、

人は麵麭のみに生くるに非ずにには生涯至らぬのだ。

だからといって、

人間に備はった野生の部分が際立つ時代は転回の時代といへ、

人類は再び、Paradigm変換の過渡期に置かれてゐるとも言へる。

積 緋露雪

物書き。

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