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夢幻空花なる思索の螺旋階段

自同律の不快

 

不合理故に吾信ず。

――吾は何故に存在してしまつたのであらうか。

と愚問の一つでも発してみるが……、

知らず知らず自他逆転の仮象に埋没して行く……。

其処で吾はふう~と溜息をついて沈思黙考の闇の大海原で溺れる……。

――嗚呼。吾は何処ぞ!

 

 

浮遊と落下

 

――この浮遊感は何なのだらう。ふわふわと浮いてゐるやうでゐて、何故だらう、何処か底の知れぬ奈落へと落下してゐるやうな嫌な感じだけが脳裡を掠める……。

――さて、不意にお前は今口に出したな、《許して下さい》と。お前は今、パスカルの深淵の真つ只中なのさ、へつ。精精じたばたするがいい!

 

カルマン渦 断章 壱

 

時間もまた流れる流体の一種ならば時間のカルマン渦も時間の表層に生滅してゐるに違ひない……。その時間のカルマン渦の一つ一つが《もの》の生滅を象徴してゐるとしたならば……そこに見えるPanorama(パノラマ)は正に諸行無常の位相の数々に違ひないのだ。

その時間のカルマン渦の一つにたゆたふしかない吾はまた、ゆるりと流れ行く時間を味はひながら己の無常といふSentimental(センチメンタル)な感傷に耽るといふ極上の楽しみを満喫せねばならぬといふ宿命を自嘲してゐる……。

――あつ、これが物自体の影絵なのか……、へつ、永劫回帰なんぞ糞喰らへだ。ちぇつ、諸行無常の渦巻く音がかそけく聞こえてきやがつた!

 

 

瞼考 壱

 

此の世の森羅万象は存在する以上多分夢見るやうに存在することを宿命づけられ己の存在に対する不愉快故に夢を見るに違ひない筈だが、その中でも特に生物世界における瞼の出現で多分夢といふものの性格が突然変異するが如く変質したに違ひない。

多分、瞼が出現する以前は闇なるものはその概念すら無く、漆黒の闇といふものは、此の世にその名をもつて登場し瞼の出現と共に脳が創り上げた傑作の一つではないかと思ふ。

盲ひた人に尋ねると眼前には灰色の虚空が拡がつていると聞くが、さうすると、闇は視力のある人にしか見られないもので、闇の出現で夢は具象と抽象を行き来することが可能になつたのではないかと考へらるのであるが、さて、今夜瞼を閉ぢた私の瞼裡の漆黒の闇に出現する世界は吾を吾として受け入れてくれるだらうか……それとも吾は吾に侮蔑されるのか……瞼裡の闇のみぞそれを知る……か、ちぇつ。

 

 

地獄問答

 

――涅槃以外に輪廻転生から遁れられる術があるが……お前には良く解らうが……

――未来永劫に意識と感覚が自我に縛り付けられたまま未来永劫《私》でしかあり得ない彼の世のことかね。

――つまりは……

――つまりは……地獄さ。未来永劫自意識に囚はれ続けなければならず、その上尚も拷問の極致の中にゐ続けなければならない未来永劫に自意識が自意識としてあり続けなければならない地獄……

――ふつ、それでも未来永劫《私》でゐ続けられるのだからある種の人間にとつては極楽じやないかね。

――ふつ。それでお前は地獄に堕ちたのか……

 

異形の吾

 

Fractal(フラクタル)的に見れば地球と頭蓋内は自己相似形を成してをり、仮に脳裡に浮かぶ仮象の一つ一つが此の世に存在する森羅万象の《もの》の象徴としたならば、脳裡に浮かぶそれら仮象の全てはもしかすると異形の吾を反映した吾の仮の姿なのかもしれない。例へば深海に棲む生物の異様な姿は、漆黒の闇の中で自らの姿を妄想し続けた上に更には棲む環境に適応するためにさうなつたに違ひないのだ。私の脳裡に浮かぶ仮象といふ大海の奥底には私の知らない異形の吾が必ず棲息してゐる筈である。中には仮象の大海の水面にぬらりと現れてその異形の姿を見せる馬鹿な吾もゐるだらうが、多分奴らの殆どは私が死んでもその姿を現さずに永劫の闇の中でひつそりとその登場の機会を窺つてゐる筈だ。

――お前は誰だ。

――ふつ、お前だぜ。

 

虚体考 壱 寂寞(じやくまく)

 

私は、私の内界の何処かに風穴のやうな穴がぽつかりと開いゐて其処を一陣の風が吹き渡るときの寂寞感が何故か堪らなく好きであつたのでその穴を「零の穴」と自身秘かに名付けてその穴について暫くの間詮索せずに抛つて置いたのであつた。

しかし、寂寞は一方で人間にとつて堪らないものであるのは確かで私も次第にその寂寞に堪えられなくなつたのは想像に難くない。

或る日、寂寞に堪えられなくなつた私は「零の穴」の探索に取り掛かつたのであつたが、それを見つけるのに二十数年を要することとなつた。

つまり私は堪え難い寂寞に二十数年間苦悩し続けたのであつた。

――あれか、『零の穴』は……

其処は月面のやうな荒涼とした世界で「零の穴」は直径一メートルくらゐのクレータのやうな穴であつた。

さて、「零の穴」を覗き込むと音にならない音と言へばよいのか、何とも奇妙な寂寞とした音ならざる音が絶えず噎び泣いてゐるやうに聴こえたが、ところで「零の穴」は正に漆黒の闇また闇の底知れぬ穴であつた。

暫く「零の穴」を覗いてゐると何度となく漆黒の闇にAurora(オーロラ)のやうな神秘的なぼんやりと発光する光とも言へない光の帯が「零の穴」全体に波紋のやうに拡がつては消え、すると「零の穴」を一陣の風が吹き抜けて行つたのである。

――成程、これが《虚》の世界か。あの神秘的な光の帯が未だ出現ならざる未出現の存在体の秘術なのか。埴谷雄高は『死霊』を完成させずに彼の世に逝つてしまつたが、何やら《虚体》の何たるかは解つたぜ、ふふつ。

「零の穴」。それは存在以前の《もの》ならざる波動体――これを「虚の波体」と名付ける――が横溢する所謂数学的に言へば虚数の世界、つまり確率論的な波が無数に存在する《もの》なれざる《もの》が犇めき合ふ世界なのであつた。

そして、あのAuroraのやうな神秘的な光ならざる光の帯こそ「虚」が「陰」に変化(へんげ)した、これまた未だ出現ならざる未出現の存在――これを「陰体」と名付ける――なのだ。埴谷雄高においては「虚の波体」と「陰体」とが未分化まま虚体の正体が明かされることなく永劫に未完のまま『死霊』を終へてしまつたが、さて、「陰体」とは数学的に言へば虚数を二乗して得られる負の数のことで、この「陰体」を更に具体的に言へば、闇の中にひつそりと息を潜めて蹲つて存在してゐる《もの》のことでそれらは「光」無くしては其の存在すら解らぬままの永劫に未発見の存在体のことである。

――Eureka !

「零の穴」の奥に向かつてかう私は叫んだのであつた……。

そして、人心地ついた私には、作曲家、柴田南雄の合唱曲のやうな旋律ならざる声の束がやがて風音に聞こえてくると言つたら良いのか、そんな「零の穴」を吹き抜ける一陣の風の噎び泣く音ならざる音が今も私の耳にこびり付いて離れないのであつた。

 

 

瞼考 弐――過去にたゆたひ未来にたゆたふ

 

物理の初歩を知つてゐるならば距離が時間に、時間が距離に変換可能なことは知つてゐると思ふが、さうすると、《私》から距離が存在してしまふといふことは悲しい哉其処が《過去》の世界といふことを意味してゐるのである。つまり私といふ存在は《過去》の世界の中に唯独り《現在》として孤独に存在してゐるのである。

――其処。

と私が目前を指差したところで其処は最早《過去》に存在する世界なのである。

これは考へやうによつてはとても哀しいことであるが、私たちはこれが普通のこととして受け入れてゐるである。

しかし、不思議なことにここで一端到達すべき目的地が《現在》である《私》の側で発生するとその目的地は《過去》の世界にありながら《過去》から到達すべき《未来》の世界にあれよと転換してしまふのである。つまり、《過去》は到達すべき《未来》に、到達した《未来》は再び《過去》にと《未来》と《過去》は紙一重の関係で《過去》と《未来》は入れ替はりが可能な摩訶不思議な関係にあるのである。

さて、先に《現在》が私であると言つたが、それはつまり《過去》か《未来》の世界の孤島として存在する《現在》の私自体の《現在》はと更に問へばそれは外界と距離なく接してゐる皮膚の表面といふことになるのである。さうすると《現在》の私から負の距離を持つ私の内界は当然《未来》といふことになるが、しかせうくよく考へてみると私の内界では《未来》も《過去》も関係なく《現在》に置かれてしまつた《私》の意識はある種自在感を持つて《過去》と《未来》を行き来してゐるやうにも思へるのだ。

つまり、私は《過去》でも《未来》でもない《現在》といふ処に保留されたまま存在してゐるといふことになる。だから瞼を閉ぢて出現する闇に《未来》も《過去》も関係ない《現在》といふ表象が浮かんでは消え、また浮かんでは消えてを繰り返し、私は《現在》で逡巡しながら《未来》へと歩み出してゐるのである。

ところが《もの》たる肉体をもつてしまつた私の内界には限りがある。つまりそれは死を必然のものとして賦与されてゐるといふことである。さうすると中原中也の『骨』といふ詩が不思議に味はひ深いものとなつてくるのである……。

中原中也の『骨』の出だし――

 

ホラホラ、これが僕の骨だ、

 

…………

…………

――つまり、骨が《私》の到達すべき《未来》たる《死》!

0405

 

カルマン渦 断章 弐

 

時空がカルマン渦を巻いてゐる光景は誰しも目にしてゐる筈で、それは主体が動くといふ行為をすると時空のカルマン渦は必ず発生してゐるのである。一番それが解るのは電車から見える窓外の光景でそれが無限遠の近似を中心に渦を巻く時空のカルマン渦であることが一目瞭然である。

すると主体は左右の時空のカルマン渦の間に生じた《現在》といふ狭間にしか存在出来ない哀しい宿命を背負つてゐる存在を電車の窓外の光景を見ながら噛み締めつつも、例へばここで主体の《存在》の仕方を《個時空》と名付けると此の世の存在物は皆《個時空》といふことができる。

さて、そこで《個時空》は主体だけの現象であるが、ここで更に主体が《他者》の存在を考慮に入れると途端に客体に転換するけれども《他者》にとつて客体と化した私はその《他者》といふ何物かが出現させた《他者》による時空のカルマン渦に絶えず巻き込まれてしまつてゐるのである。

…………

…………

――二つの《個時空》が同時に同じ場所に存在できる《超越》といふ事象を、さて、人間は成し遂げることが、未来の何時か成し遂げることが出来るのだらうか……

――お互ひ同士波と言ふ音を使つて会話が出来るではないか。

――ふむ。しかし、人間は同一空間に二つのものが同時に存在する様を夢想する生き物なのだよ。

――はつは。お前は此の世に存在し存在した全生物に変態しながら同一空間に二人の人間が存在してゐた時期を忘れてしまつたのかね。つまり《個時空》が全く同じである二人の人物が一人として此の世に存在する奇跡の時間を……

――……

――よおく考へてごらん。きつとお前なら思ひ当た.る筈だから……

――ふむ……

――お前は宇宙の始まりからずつと此の世に存在してゐたのかね、ふつ。

――はつは。そうか母胎の中だね。受精卵といふ一つの球体から此の世に存在するあらゆる生物に変態し、全生物史を十月十日で体験する胎児の時代か……

――さうさ、お前の母親と胎児のお前は同一の《個時空》に存在してゐたんだぜ。

――つまり、誕生は《楽園》といふ胎内からの追放か……。存在の悲哀、汝其は吾に何を与へ給ふたのか……。

――へつ、生老病死さ……。

 

 

髑髏(されかうべ)

 

漆黒の闇に包まれたその虚空には遠くで鳴り響く天籟のかそけき音が幽かに耳に響くのを除けばその虚空もやはり闇以外の何物でもなかつた。彼にとつて闇は無限といふものへ誘ふ何か奇妙に蠱惑的な神秘を惹起させるもの以外の何物でもなかつたのである。彼にとつてその闇の虚空を覗く時間は至福の時であつたのだ。

彼の机の左上にはいつも彼が学生時代に手に入れた古代人の髑髏が一つ置かれてあつた。初めは唯研究目的で手に入れたその髑髏は何時の頃からか彼を無限へ誘ふ装置として欠かせないものとなつてしまつてゐたのである。

最初は何気なく髑髏の窪んだ眼窩を意味もなく覗き込んだだけのことであつたが、それが彼の胸奥に眠つてゐた何かと共鳴したのか仕舞ひには髑髏の眼窩を覗き込むことが病みつきになつてしまつたのである。

彼の髑髏の眼窩を覗き込む儀式は斯くの如く執り行われるのであつた。先づ、髑髏を覗く前に真夜中の夜空を数分見上げ続けた後、即座に髑髏の眼窩を覗き込むのであつた。多分それは眼前の虚空に宇宙を思ひ描くために行われてゐたに違ひなかつた。しかし、彼の眼前に宇宙が出現してゐたかどうかは不明である。

…………

…………

――何たる光景だ。今は髑髏になつてしまつたこの人の脳裡にも必ずこんな光景が浮かんでゐたに違ひない。無数の星が明滅してゐるではないか。凄い。そして、彼方此方でその星星が爆発してゐる……。これが宇宙の死滅の光景か……。Black hole(ブラつクホー)は何処だ! これか。あつ、Black holeがぽつといふ音にならない音を立ててゐるかのやうにして消えたぞ。凄い、凄過ぎるぞ、この光景は……。

…………

…………

彼が真夜中髑髏の眼窩を覗いて何を見てゐたのか誰も解らない。彼は不意に意味もなく自殺してしまつたのであつたから……。

 

 

0411

 

主体、蜂起す

 

――誰だ、この門を閉ざしてしまつたのは……

主体共が世界に疎外されて久しいが、ぶつぶつと彼方此方でその不満を呟く主体のざわめきが何時しかこの世に満ちてしまつたのだ。

――ハイデガーの言つた《世界=内=存在》は嘘だつたのか!

――馬鹿めが。お前らが《世界=外=存在》の世界を好んで選んだのではないか。

現代人ならば誰でも抱へる疎外感。それが何処からやつてくるのか暫く解らなかつたが一人の主体が自身の姿を鏡で見て驚いたところからその謎が解け始めて行つたのである。

――これは ! 轆轤首ではないか……。

――その轆轤首は誰かね。答へ給へ!

――……。

――逃げずに答へ給へ !

――わた……、……し……かな……。

――良く聞こへなかつたがね。もう一度はつきりと言へ ! お前は誰だ !

――わ……た……し……、ちぇつ、《私》だ。

――もう一度。

――私だ。間違ひ無い。《私》以外の何者でもない。私だ。

さて、轆轤首は歩けるのだらうか。眼玉が伸縮自在な蝸牛から連想するに轆轤首が全く歩けない哀しい存在だといふことは想像に難くない。

――お前に尋ねるがお前の世界認識の基盤になつてゐるものは何だね。

――哲学……かな……。

――否 !

――ふむ……。……か……が……く……かな……。

――さうさ、科学だよ。科学が創つた客観が支配する世界観に於いて主体の演じる役目は何かね。

――ふむ。……観察者……かな……。

――さうだ。観察者は何時も客観世界の何処にゐるかね。

――ふむ。……が……い……ぶ……、外部だ。

――はつは。もうお前も解つただろ、此の世の仕組みが。

便利を受け入れ始めたときに既に主体が世界から疎外されることは必然だつたのである。今では可笑しくて仕方が無いんだが、態々世界を《外部化》するためにCameraで世界を写し画面を通して世界を見る馬鹿なことが《普通》になつてしまつた摩訶不思議な世界に人間は暮らしてゐるのである。そして、《仮想世界》などと喜んで世界にKeybordなどの装置を通して間接的にしかその世界に参加出来ないことが進歩だと思つてゐるのである。全く馬鹿としか言ひ様が無い。何せ夜空でさへ見上げるのではなく前方にあるMonitorといふ装置を通して見る生き物だから、人間は。

――さあ、主体共よ、立ち上がる時が来た ! 蜂起だ !

――おう !

しかし、轆轤首と化した主体が歩ける筈は無く、皆歩かうとすると直ぐ転ぶ醜態を曝すしかなかつたのである。

――先づは這ひ這ひから始めろ、へつ。

 

 

静寂(しじま)

 

十六夜の月明かりに誘はれて何処に行くとも決めずにふらふらと歩いてゐると、どうやら川辺に来てしまつたやうだ。其処に蹲ると周囲に鬱蒼と繁茂してゐる葦原のお蔭で都会の街明かりが全て遮られ全くの十六夜があつたのである。光るものといへば川面に映る十六夜の月明かりのみであつた。その月明かりを傍らに立つてゐる柳の高木の葉々が時折ふわりと横切る風情は何とも言ひがたいほどの美しさであつた。

――ぴちやつ。

何処かで魚が跳ねたやうだ。うらうらと魚の跳ねた後に残された波紋がゆつくりと拡がり川面の月明かりをゆつたりと揺らす。

――さわさわ……。

微風が葦原をそつと揺らす。

何やら夢現の世界に迷ひ込んだやうだ。私以外のものが発する無数の時空のカルマン渦が犇めき合つて更に大渦の時空のカルマン渦を形作り更に更にそれらの大渦が巨大な巨大な巨大な奔流となつて大宇宙全体をすつぽりと飲み込む時空の大カルマン渦が出来上がつたその巨大な巨大な巨大な時空のカルマン渦に唯吾身を任せてゐることの心地良さは名状し難い。諸行無常。現在に保留された私はこの世界にたゆたふのみである。

――ぴちや。

再び川面に跳ね上がつた魚が発した波紋が静寂の波紋と重なつてこの世全てにゆつくりとゆつくりと拡がつて行く様が脳裡全体に拡がつて行く。吾もまた波体となつて脳裡に納められた全宇宙に波紋となつて拡がつて行くのであつた。

――私が此の世に溶け行く心地良さよ……。

 

 

虚体考 弐 眼球

 

遂に「零の穴」の入り口を見つけた。何のことはない、それは瞳孔だつたのである。

――遂に辿り着いたな。やつとのこと見つけたぞ。Eureka!

一瞥のもと外界に存在する実体をしかと捉へる眼球は外界の光量によつて自在にその大きさを変へる瞳孔無くしては始まらない。瞳孔を境にして外部は実体の世界、内部は虚体の世界である。それが瞳孔が「零の穴」たる所以である。

さて、外界に昼夜があつて一日があるやうに個時空たる主体にも個時空特有の昼夜が存在する。それは瞼の一開閉で個時空の昼夜が完結、即ち個時空の一日が終はるのである。つまり、外界の二十四時間といふ一日の中に個時空たる主体固有の一日は瞼の開閉の数だけあるといふことである。しかも個時空たる主体の一日の時間の長さは千差万別で瞼の開閉の間隔と瞼を閉ぢてゐる時間の長さによつて、例へば外界で言へば北極圏であつたり熱帯であつたり春夏秋冬であつたりと様々であるといふことである。

ここでは外界の実体世界の話は脇に置き内界の虚体世界の話に絞るが、さて、虚体世界を覗くには先づ瞼を閉ぢなければ始まらない。

瞼裡に浮かぶ表象とか仮象とか夢想とか様々に呼ばれてゐるものは深海に生息する生物の中で自己発光する生物と看做せなくもない。更に集中とか思索とか様々に呼ばれる沈思黙考は内界にSerch Lightを当てて内界の闇に隠れてゐる《陰体》を見つける作業とも言へる。そして《虚の波体》は未だ未出現の形ならざる波体として内界で蠢動してゐる物自体の影絵とでも言へば良いのか、そのやうな《もの》として内界に《在る》のである。

…………

…………

内界に秘かに人知れず潜み続ける《虚体》共がのそりと蠢く時、何か未だ未出現の何かが此の世に出現せうとゆつくりとその瞼を開けうぉぉぉおつと呻き声を上げるのだ。その時だ、私がぶるるつと身震ひするのは。ぷふぃ。

…………

…………

また、余談ではあるが眼球は個時空たる主体のGyroscope(回転儀)と看做せなくもないのである。平衡感覚は三半規管で感知するが個時空たる主体の位置や方向などは全て眼球無くしては把握不可能である。これは単なる憶測に過ぎないが、多分、量子力学で言ふ光子はSpinが1であるので網膜がこのSpin 1を感知して個時空たる主体の位置や方向を感知してゐるのかもしれないのである。つまり、Gyroscopeはそれ自体が回転することによつてその回転軸に対しての相対的な関係で位置等を把握するが眼球は光子のSpinを逆に利用して恰も眼球自体が回転してゐるかのやうに把握してゐるのかもしれないのである。

………………

………………

ゆつくりと瞼を閉ぢると左目の瞼裡には時計回りの、右目の瞼裡には反時計回りの勾玉の形をした光の玉が闇の周縁をゆつくりと回るカルマン渦が見えるのであつた……。

 

 

波紋

 

川面をずうつとゆつたりと眺めるのには川の流れの進行方向に対して右岸から眺めるのが一番である。つまり、水が左から右へと流れ行く様が私は大好きなのである。その理由の淵源を辿つて行つたならば八百万の神々に行き着いてしまつたのであつた。

それは絵巻物を眺める様によく似てゐる。紙自体は右から左へと流れるが紙上に描かれてゐる絵巻は左から右へと流れて行くのである。さうして紙上は絶えず《現在》を出現させるのだ。これは個人的な見解であるが紙に天地を定め此の世の森羅万象を紙上に表せると太古の人々が考へたかどうだかはいざ知らず、しかし、例へば文を記すのにも右上から縦に書き出すそれは、文の進み行く方向、つまり右から左へと一行ごとに進むその右からの視点を《神の視点》とすれば日本語の縦書きは書き手の右に神が鎮座してゐるとも解釈できるのである。さうすると横書きは当然頭上に鎮座する神といふ事になる。といふことは縦書きは書き手と八百万の神々が平等の位置に居ると解釈できるのである。その解釈からすると紙上に何かを表すとはその八百万の神々との戯れでもある。

……………

……………

或る日引き潮の時刻を見計らつて河口からほぼ二十キロほど上流の川辺へ川を見に出かけたのであつた。それは偶然にも夕刻のことであつた。辺りは次第に茜色に染まり始め、見ようによつては此の世が灼熱の火の玉宇宙に化した如くであつた。うらうらと茜色に映える川面。丁度その時一尾の魚が羽化した水生昆虫の成虫を喰らふために跳ね上がつたのであつた。その時生じた波紋。それは神の鉄槌の一撃で爆発膨張を始めたであらう宇宙創成時の波紋にも似て、更に世界が波打ち時が刻まれ始めてしまつた時のもう過去の《無》の時代には引き戻せない波紋にも似て、何やら名状し難い美しさと凄まじき恐怖に満ちてゐた。

 

 

高層族

 

あの身を刺すやうな垂直線が無数に林立する大都会の風景に慣れることは一生無いだらうと腹を括つたつもりでゐたが、いざ大都会の街並みを目の前にすると垂直線の恐怖で身が竦んでゐる自身に苦笑するしかない。

それにしても何故高い住居費を出してまであんな高層階に棲むのかその棲む人の気が知れない。高層ビルはアインシゆタインの特殊相対性理論から一種の過去へTime SlipするTime Machineであることを知つて皆あんな高層に棲んでゐるのだらうか。

主体の現在が皮膚の表面といふことと一緒で地球自体の現在は地肌が剥き出しになつた地表である。その地表に高層ビルを建てればそれだけ地球の自転による回転速度が地表よりビルの高さ分増し、特殊相対性理論から高層ビルを流れる時間の流れは地表より極々僅かでしかないがゆつくりと進むのである。高層ビル群に棲んでその時間がゆつくりと進む感覚が感知できない現代人は感覚がとつくに麻痺して感覚器官が退化してゐるといふことで、既に人間では無いのかも知れないのである。これは由々しき事態で多分地表と高層との時間の進み方の違いを感覚的に感知した人間はその理由が解らず深い悲しみと苦悩の中に追い込まれ遂には自殺すると考へられなくもないのである。感覚が敏感な人間は都会に馴染めずあの身を刺す垂直線の地獄から逃れるために《過去》である高層ビルの屋上から《現在》である地面に一気に飛び込んで飛び降り自殺――自殺はまた地獄行きである。何故なら生きていくのが辛いといふ苦痛に身悶えした現世の意識と感覚が未来永劫《私》であるといふ地獄へまで引き摺つて行くのである。そこは正に「嫌だ、嫌だ」といふ呻き声ばかりする阿鼻叫喚の世界である――をして死んでしまひ、時間の感覚に鈍感な《人間》の子孫ばかりが生き残るといふこと、つまり今は人間が退化して《何物》かへと変はる過渡期なのかもしれないが、それが《進化》といふならそんな《進化》は御免蒙るしかないのである。故に高層ビルに棲める都会人は最早退化した人間でしかなく、そんな得体の知れない《人間》とはなるべくなら関はりたくないといふのが本音である。

それとは逆に地下は地表より地球の回転速度が僅かではあるが遅いので特殊相対性理論上、《未来》へのTime Machineとも言へる。だから地下は目的なければ近寄らない方がよいのである。目的無き未来にぽつんと置かれれば猜疑心や不安等に襲はれ一分たりともそこには居たくない筈である。さうでなければ自身を退化した、人間ならざる何物かといふことを自覚して感覚を研ぎ澄ます訓練をしなければ《人間》は絶滅する。

…………………

…………………

矢張り都会に来たのがいけなかつたのだ。こんな《人間》ならざる魑魅魍魎が跋扈する不気味な世界からはさつさと退散するに限る。

 

 

死神

 

人類が大きな勘違ひをしてゐることが一つある。それは仮令人類が地上から消えようがそれは所詮人類のみの問題であつて、地球は勿論、宇宙にとつても人類が滅亡せうが生き残らうがどうでも良い、即ち問題にすらならないある一つの事象に過ぎず、地球にとつても、まして宇宙にとつても人類の存在なんぞ歯牙にすらかけてゐない、全く下らない事象に過ぎないのだ。

唯、自然がこれ以上人類の存続を許さなかつたならば自然は眦一つ動かすことなくその冷徹な手で自然に必要な数の人類を除いて残りは全て自然災害等で間引く、つまり人類の大量虐殺を何の躊躇ひもなく行ふといふことである。

……………

……………

それは突然役所で決まつて、ある朝、突然畑に舗装道路を通すための測量が始まつた。後はAsphalt(土(つち)瀝青(れきせい))で舗装すればその道路は完成といふところまでは何の問題もなかつたやうに思ふが、さて、いざ土瀝青を敷いて道路を舗装し終へた翌日の朝、舗装された道路やその周辺では大量の蚯蚓(みみず)が死んでゐたのであつた。土瀝青の上で力尽き野たれ死んでゐる何百匹の蚯蚓の外にも、まだ蓋のしてない側溝の中にも何百匹もの蚯蚓が力尽き死んでゐたのであつた。その異様な光景は多分土瀝青を敷くときに使われた何かの薬品の所為に違ひないのである。地中といふ地球における《未来》に棲む蚯蚓は多分に生物の未来をも担つてゐる筈で、その蚯蚓の大量虐殺は生物の《未来》の抹殺をも意味してゐたに違ひない。

しかし、事はそれで終はらなかつたのである。死んだ蚯蚓を喰らつたのであらう、数羽の雀が道端で死んでおり、また、側溝の中には何匹もの螻蛄(おけら)と土竜(もぐら)が逃げ道を探して側溝の中で逃げ惑つてゐたのであつた。私は螻蛄と土竜の姿を見るのはそのときが多分初めてであつたと思ふが、螻蛄と土竜のその愛くるしさは今も忘れない。螻蛄と土竜を一匹一匹拾い上げて土に戻してあげたのは言ふまでもないが、螻蛄と土竜は蚯蚓の異変を喰らふ直前に察知したのであらう、多分螻蛄も土竜も死んだ蚯蚓を喰らふことなく生き残つたのだと思ふ。

さて、その日の夕方野良猫さへ危険を察知して喰はわずに死体を曝し続けてゐた雀は遠目に何も変わつた様子は無かつたのであつたが、近づいて見ると黒蟻の山が雀の死骸の下に出来てゐたのであつた。当然、何匹かの黒蟻は薬品にやられて死んでゐたが黒蟻はその死んだ仲間の黒蟻さへもせつせと自分の巣へ運んでゐたのである。

翌年、黒蟻の姿を余り見かけなかつたのは言ふまでもない。

人間はかうも罪深き生き物である。この償ひは近い将来必ず人間自らに降りかかつて来るに違ひない……。

 

 

水鏡

 

例へば宇宙の涯を妄想するには満潮時の流れが澱んだ川面に映る街明かりをぼんやりと眺めながら考へるに限る。それが新月だと尚更いい。

其処は両岸がConcreteの護岸で覆われて葦原の無い都会の街明かりが最も川面の水鏡に映える場所であつた。その日は夜もどつぷりと暮れ真夜中近い弓張月が天高く上つた頃に満潮を迎える、つまり宇宙の涯を妄想するのに最もよい日であつた。いつものやうにConcreteの護岸の一番上に腰掛けて流れの澱んだ川面の水鏡に映る街明かりと月明かりをぼんやり眺めてゐると考へはいつものやうに宇宙の涯へと及んだのである。

――さて、この宇宙が《開いた宇宙》でしかも光速より速く、つまり埴谷雄高のいふ《暗黒速》で膨脹してゐるのであれば、多分、宇宙外にいましまする神々の目には反物質の暗黒の大海に浮かび急速に肥大化する越前海月のやうに吾々が存在するこの宇宙は観えるに違ひない……。

一台の自動車が堤防の上にある国道をLightを点けて左から右へと走り行く様が逆様に澱んだ流れの川面の水鏡に映つてゐた。

――しかし、現在の科学ではどうやら宇宙は《閉ぢた宇宙》らしいので暗黒の大海に浮かび急速に肥大化する《海月宇宙》は無いな……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………すると……さういへば確か北欧の神話だつたと思ふが、この世は《世界樹》だか《宇宙樹》だかで表現されていたな……ここはニゆトンに敬意を表してその《世界樹》を林檎の樹に喩へると……さて、吾々が存在するこの宇宙はその《林檎の樹》に実つたたつた一つの林檎の実でしかないに違ひない……

水鏡にうらうらと明滅する街明かりと月明かり。その明滅するRhythmが心地良い。

――すると反物質は林檎の芯の部分で果肉の部分は虫食ひの跡のやうに重力を表す部分で吾々が宇宙と言つてゐるのは林檎の表皮に過ぎないのかもしれないな……この考え方は銀河の分布を描いた宇宙地図で見る銀河の分布の仕方、真ん中がぽつかりと空いてゐて銀河が無く球上の周縁にのみに銀河が存在する銀河の分布の仕方とも一致してゐるやうな……無いやうな……まあ良い……今日のところは林檎の樹で行かう……

一尾の魚が水面を跳ね上がり水鏡に波紋がゆつくりと拡がつて行く……。

――さて、熟した《林檎の実》がぽとんと枝から落ちても《林檎の実の表皮》に過ぎない吾々には……多分……宇宙外の《地面》に落下したことすら解らないだらうな……知るのは神のみぞか……さて、《地面》に落下した《林檎の実》は地面と接した部分から朽ち始める……巨大な巨大な巨大なBlack holeの出現だ……そして……その巨大な巨大な巨大なBlack holeも朽ち果てて《林檎の実》宇宙はべちやつと潰れて反物質である《林檎の種》のみぞ残るのみか……さうして悠久の時を経て《林檎の種》は発芽する……ビつクバンか……神が鉄槌の一撃を《林檎の種》に食らはせるのだ……そして時が刻まれ始める……一つの《林檎の種》から《世界樹》は育ち幾つもの《林檎宇宙》を実らせる……これを未来永劫繰り返す……か……

また一尾の魚が水面を跳ね上がり水鏡にゆつくりと波紋が拡がつて行く……。

――さて、今度は宇宙の膨脹が光速以下だとすると宇宙の涯は、さて、鏡のやうなものに違ひないだらう……この世に存在するあらゆるものは当然この宇宙外に飛び出ることはあり得ず光速で宇宙の涯まで到達してしまつた光は宇宙の涯で反射する外無い……すると宇宙は光Cableのやうな、Fiber(ファイバー)状でもTube状でもよく……すると……この宇宙の形状は閉ぢたものであればどんな形でも構はないことになる……ふつ、宇宙の膨脹が光速以下とする方が今のところ合理的かな……つまり……この宇宙の涯は眼前の水鏡か……うらうらとうらうらと澱んだ流れの川面に映る街明かりと月明かりが明滅する美しさは飽きが来ない……。

その日は宇宙に対する妄想が尽きる事無く潮が引き始めて川が再び流れ始めてもConcreteの護岸から腰を上げることなく明け方まで川面の水鏡をずつと眺め続けてゐたのであつた。

 

 

「哲学者」といふ名の犬

 

その子犬は私が何か考へ事をしながら川辺をふらふらと歩いてゐた時に不意に葦原から眼前に現れ、私の顔を見上げながら尾を振つて私の愛撫を待つてゐる様子で私の前に座つたのがその子犬との出会いであつた。私はその子犬の望み通り頭を撫でて一度その子犬を抱きかかへ、「高い高い」をして「お前のお家にお帰り」と言つてその子犬を抛つてしまひ最早その子犬のことなど忘れ、再び考え事に耽り始め、暫く川辺を散策した後家路に赴いたのであつた。

だが、或る交差点で赤信号を待つてゐると不意に私の左脇にあの子犬が私の顔を見上げながら尾を振つて座つてゐるのに気が付いたのである。

――お前は捨て犬か……

私はその時この子犬が吾が家まで付いてきたなら飼ふと心に決め、その子犬に対して敢へて知らん振りをしながら家路に着いたのであつたが、果たして、その子犬は吾が家まで私にくつ付いて来たのであつた。

それが正式名「哲学者」、通常の呼び名は「てつ」との出会いであつた。

「てつ」は兎に角倹しい犬であつた。食べものといへば一番価格が安く市販されてゐた固形のDog foodと煮干少々、牛乳少々と週に一度の鶏肉の唐揚げ一つといふのが「てつ」が生涯食べたものの全てである。それ以外のものを上げようとしても「てつ」は首をぷいつと左に向け決して食べようとしなかつたのである。

「てつ」は柴犬か柴犬の雑種であつたが定かではない。「てつ」は昼間は殆ど寝てゐたが夕刻になると茫洋と何処かの虚空を見上げては何十分もそのまま座り続け、散歩の時間までさうして過ごしてゐた。その姿を見て「てつ」を「哲学者」と名付けたのである。そして散歩から帰つて食事を済ませると再び何処かの虚空を見て何やら考へ事に耽つてゐるとしか思へないやうに一点に座つたまま一時間ばかり動かなかつたのであつた。

それが「てつ」の日常の全てであつた。

「てつ」の散歩も変はつてゐた。「てつ」が吾が家に来て一週間は「てつ」は私が行く方向に従つて散歩の主導権は私が握つてゐたが、一週間もすると吾が家周辺の地図が「てつ」の頭の中に出来上がつてゐて、「てつ」はそれ以降、散歩のCourseを自分で決めて「てつ」が思ひ描いたCourseから外れやうものならその場に座つて頑として動こうとしなかつたのである。仕方なく私は「てつ」に散歩される形になつてしまつたが、「てつ」との散歩は何時も違ふCourseで全く飽きが来なかつたのである。寧ろ「てつ」との散歩は楽しかつたのであつた。

雲水か修行僧のやうに食べ物に禁欲的であつた「てつ」は性欲にも禁欲であつた。発情は勿論してゐた筈だが、雌犬を見ても何の反応もせず、また、私の足にしがみ付いて交尾の擬似行為は一切しなかつたのである。唯一「てつ」の性器が勃起したのは私とじやれ付く時のみであつた。

しかし、「てつ」は自分から私とじやれ付くことは無く、私が無理矢理「てつ」にじやれ付くと「てつ」の性器は勃起して「てつ」は私とじやれ付くことに熱中するのであつた。

「てつ」の遊びはそれが全てであつた。

そんな日常が十七年続いた或る日、私は既に覚悟してゐたが、既に白内障を患つてゐた「てつ」は突然体がふらつき出したのであつた。それでも「てつ」は死の二日前まで散歩に出かけてゐたが、「てつ」の最後の散歩時は「てつ」の体は既に冷たくふらふらと何時もの散歩の半分にも満たなかつたのである。

「てつ」の最期は眠るやうであつた。既に冷たくなつてゐた体を犬小屋の中に横たへ「てつ」は最期に生涯最初で最後の愛撫を私にせがんだのである。目で愛撫をせがんでゐるのが解つた私は「てつ」を撫であげると物の数分も経たぬうちに「てつ」は彼の世へ旅立つて逝つたのであつた。それはそれは物静かで大往生ていふに相応しかつた。。

さて、そこで亡骸となつてしまつた「てつ」の性器が不意に目に飛び込んできたのであるが其処には精液が凝固して出来てゐたのであらう、尿道の出口に白い可憐な小さな花を思はせる花の形をした精液の凝固物が咲いてゐたのであつた。その可憐な白い花を思はせる尿道に咲いた精液の凝固物が「てつ」の満ち足りた生涯を祝福してゐるやうでその白い花は荘厳な荘厳な美しさを発してゐたのであつた……。

「てつ」は今も忘れ難く二匹とゐない、私にとつては特別に偏愛する犬となつてゐて、「てつ」との思ひ出は私の宝物である……。

 

 

螺旋

 

螺旋から思ひ付くものの一つに二重螺旋構造のDNA(デオキシリボ核酸)がある。

そして螺旋は螺旋の真ん中を貫く一本の線を想起させる。螺旋の進行方向が螺旋の真ん中を貫く線の方向を決める。また、螺旋は龍巻を連想させる。螺旋状に渦を巻く気流が異常な破壊力の上昇気流を生み龍巻は地上の存在物を破壊する。DNAもまた自然物ならばこの摂理に従つてゐる筈である。DNAの真ん中を電流かその外の何かが流れてゐる筈である。それが何かは分子生物学者に任せてこちらは勝手な妄想を脹らませて主体といふものの仮象構造といつたものを造形してみよう。

DNAの構造をFractal(フラクタル)に拡大したものが人体だらうといふことは想像に難くない。さうすると主体たる人体は渦構造をしてゐるといふことも想像に難くない。一例として血管構造を見てみると動脈を構成してゐるといふ平行に走る弾性板の間を動脈長軸を巻くように斜走する平滑筋細胞が存在しいるらしいので血流が螺旋と直線運動と多少は関係してゐると看做せなくもないのである。

さて、人体を全体から見てみるとそれが渦構造であつてもおかしくないと思へるのだ。口から肛門まで一本の管が人体を貫いてゐてそこは主体にとつて《外部》である。

ここでカルマン渦の代表格である台風を持ち出してそれと人体の構造を比べると台風の目に相当するのが口から肛門まで貫く一本の管と看做せなくもないのである。そして肉体が台風の積乱雲群となる。

両手を拡げてその場で回転すれば肉体で出来た《固時空》台風の出来上がりである。

さて、台風は台風に接してゐて渦を巻く高気圧によつて動くが、人体は歩行する。多分、自転車、自動車、飛行機などは全て車輪かEngineの羽根の回転運動で進んでゐることから《固時空》で円運動をしてゐるだらう時間を振り子運動に転換して人間は自律的に歩行してゐる筈である。《固時空》たる主体が歩行すれば主体に接して左右に時空のカルマン渦が発生する。つまり、《固時空》たる主体もまた渦構造をした存在に違ひないのだ。

舞踊に回転や渦巻き運動が多く、それが神聖なものと看做されたり死者との邂逅の儀式であつたりするのもDNAの二重螺旋から発する《渦》と無関係ではなく、むしろ《固時空》たる主体が渦構造をしてゐると考へた方が自然で合理的だ。

――エドガー・アラン・ポーが「ゆリイカ」の初めの方で書いてゐる『エトナの絶頂から眼をおもむろにあたりに投げる人は、おもにその場の拡がりと種々相とに心をうたれるのでありますが、これがくるりと踵でひと廻りしないかぎりは、その場景の荘厳な全一というパノラマは所有し得ないわけです。』(出典:創元推理文庫「ポオ 詩と詩論」 訳:福永武彦 他;二百八十四頁から)の実現だ。廻れ廻れ、全て廻れ!

 

 

浅川マキと高田渡と江戸アケミ

 

何時もはClaasic音楽漬けの日々、特にシゆニトケ(ロシア)、ベルト(エストニア)、グバイドゥーリナ(ソ連→ドイツ)、武満徹などロシアと日本を含めたロシア周辺の現代作曲家の作品を好んで聴く日々を送つてゐるが、時折、日本のMusicianで言へば浅川マキと高田渡と江戸アケミの三人の歌声が無性に聴きたくなることがある。

閑話休題。

音楽と言語は極端に言へば現代理論物理学の実践に他ならないとつくづく思ふ今日この頃だが、つまり、量子力学的に言へば、音楽は波を主軸に、言語は量子を主軸に置いた理論物理学の実践である。

先づ音楽であるが、音符などの記号といふ『量子』と、音といふ『波』の二面性がある。しかし、音楽の記譜に用ひる記号は音の状態のみに特化したものなので音楽は感性的で抽象性が強い表現方法である。多分、一流の演奏家は作曲家の頭蓋内を覗き込むかのやうに眼前に記譜された楽曲を理解してゐるに違ひないと思ふが、私のやうな凡人には楽曲の演奏を聴いて魂が揺さぶられるが、何故? と問はれてもそれは言葉では表現出来ない情動なのである。

次に言語であるが、文字といふ『量子』と、読みといふ『波』の二面性がある。特にここでは日本語に絞つて話を進めるが、もしかすると理論物理学の実践といふ点で言へば日本語が最先端を行つてゐるのかもしれない。

埴谷雄高は何も書かれてゐない原稿用紙を『のつぺらぼう』と表現し、その『のつぺらぼう』を埴谷雄高独自の宇宙論へまで推し進めたが、『のつぺらぼう』は正に虚体論に直結してゐる。

何も書かれてゐない原稿用紙の『のつぺらぼう』の状態は私がいふ《虚の波体》の状態のことである。じつと何も書かれてゐない原稿用紙を前にして書くべきものの姿が全く表象出来ない状態が所謂『虚の波体』の状態である。すると頭蓋内の暗黒の中に何やら《存在》してゐるやうな気配が感じられ始めるのだ。これが私のいふ《陰体》である。更に集中し頭蓋内の『それ』へSearchlightを当てるとその《陰体》はその姿を表象する。これが或る言葉が出現する瞬間である。

さて、日本語は漢字の読みが幾つもあつて、つまり量子力学的に『波が重なり合つてゐる』状態を実践してゐて面白い。書き手の頭蓋内で言葉の量子力学的にいふ『状態』が決定し確定したならば書き手は眼前の原稿用紙に先づ点や画で構成された一文字を記す。これが言葉の『量子化』である。そして、最初に記された言葉の『状態』を更に固着化するために次の言葉が書き連ねられるのである。これは正に現代理論物理学の最先端の実践に外ならない。特に漢字の読みが幾つもある日本語はその更に先端を実践してゐると思はれる。

閑話休題。

さて、本題に戻ろう。浅川マキもう故人である。そして私的に数時間ではあるが直接本人と歓談したことがあるのも浅川マキ一人きりである。

…………

…………

浅川マキは浅川マキにしか表現出来ない独自の音楽世界があつて彼女はそれとの格闘の日々を過ごしてゐるといつても過言ではない。後はInternet等で検索してみれば彼女のことが少しは理解できるかもしれないが、普通の音楽が好きな人には彼女の『異端』の音楽は薦められない。彼女の音楽の核は『詩』である。

次にフォーク歌手の高田渡だが岡林信康や吉田拓郎に代表されるフォークが好きな人には高田渡は「何、これ? 」と言はれるに違ひない独特の味を持つたフォーク歌手である。何といつても山之口獏の詩を高田渡が歌つた楽曲が一番である。高田渡は晩年私の好きな詩人の一人でシベリア抑留を生き延びた石原吉郎の詩を歌ふことに挑戦し始めたが、まだ石原吉郎の詩の言葉の存在感を手なずけられないまま彼の世へ逝つてしまつた。石原吉郎の詩の言葉の重さを手なずけた高田渡の歌が聴きたかつたが返す返すも残念無念である。

最後に江戸アケミであるが、彼は知る人ぞ知る伝説のバンド、JAGATARAのVocalistである。パンク、ファンク、レゲエ、中南米の音楽から、さてこれから、アフリカ音楽へ挑戦せうとしたところで彼の世へ逝つてしまつた。彼の書く歌詞は最高である。全てが江戸アケミの遺言になつてゐるのだ。晩年、精神を病んでしまつた彼のその人間の壊れ行く姿が克明に彼の音楽には記録されてゐるのでこれまた万人には薦められない音楽である。

浅川マキ、高田渡、そして江戸アケミの三人三様の独自の音楽世界は私の栄養剤である。

 

 

風紋

 

川面を弱風が吹き渡ると千変万化する風紋が川面に現はれる……。

風紋といふ文字の姿も「ふうもん」といふ文字の響きも美しい。何がこんなにも私の魂と共鳴を起こして『美』を想起させるのか……

「揺らぎ」……。揺らぎを語り始めると量子論や宇宙論まで語らなければならないので自然の本質の一つとしてここでは一応定義しておく。

風紋は風の揺らぎによつて無常にその姿を変へ波の紋をこの世に映す。

諸行無常とは正に風紋の如しである。

さて、ここで妄想を膨らませると、風紋は時空間の時間を主体にした時空が姿を与へられて此の世に出現する現象ではないかと思ふ。波は周回運動に変換でき、つまり波は或る物が「揺らぐ」螺旋運動をして此の世を駆け抜けたその軌跡ではないのではないだらうか。ここでいふ或る物とは正に『時』である。

確率論的に言へば風に幾ら「揺らぎ」があらうが風紋の最終形は直線の筈である。水はその姿を千変万化に変容させるので兎も角、砂丘の砂が例へば真つ平らであつて例へ「揺らいだ」風でも万遍無く砂丘の砂にその風を数時間か吹き付け続ければ確率論的には直線の風紋が出来る筈であるが自然はそれを許さない。それは何故か――時空が特に時間が「揺らぐ」螺旋運動をしてゐるとしか考えられないからである。

多分、螺旋運動は自然の宿命なのだ。それ故時空は「揺らぐ」のだらう。

――人間もまた螺旋から逃れられない自然物なのだ。さて、例へばRobotだが、それが自然を超へるといふ人間の宿願を果たす人間の夢想であるならばだ。しかし、それが人間の頭蓋内の思索といふまた「揺らぎ」の螺旋運動から出現したものならば、さて、Robotもまた自然でしかない……………。

――さてさて、人類の叡智とやらに告ぐ。……無から何か有を、存在物を……人間よ……創造し給へ。それが出来ない以上、人間よ、自然に隷属し給へ……。それが自然の宿命だからな……、ふつ。

 

 

肉筆

 

文字を手にした人類は何を措いても肉筆が森羅万象を表現するのには一番である。

Pen先の運動と文章の進行とを見れば明らかなことであるが、文を認(したため)めるといふ作業はまた周回運動に変換出来、それが綺麗な螺旋運動になつてゐることに気が付く筈である。

横書きは書き手の頭上に、縦書きは書き手の右側にといふやうに文章の進行方向に対置するものを例へば「神の視点」といふやうに名付けて見るとその「神の視点」の「神」とは『時間の神』、日本で言へば滋賀県大津市にある「天智天皇」を祀る近江神社が「時の神」の神社として有名だが、ギリシア神話で言へば「クロノス」(英語;Chronos、ギリシア語;χρόνος)のことである。一神教、例へばゆダや教ではやハウェ、基督教では基督、回教ではアつラーフ(アつラー)に「時の神」は統べられてしまつてゐるが……。

以上のことから唯一神不在若しくは無信仰の人間の横書きが如何に虚しい作業かは言はずもがなである。

さて、本題の肉筆だが、仏教徒であらうが神道信者であらうが、更に言へば無信仰ならば尚更であるが、日本人ならば先づ縦書きが基本で、文を記すことは言語に「量子」としての画数、「波」としての音たる読みといふ視点からすると量子力学を始めとする現代理論物理学の実践である。ハイデガーのいふ「世界=内=存在」でありたいならば「道具存在」である筆でも万年筆でも鉛筆でも何でもよいが筆記用具を手にして紙に記す行為こそ「世界=内=存在」であり得る。そこでだ、現代理論物理学を実践するならば肉筆に限る。文字を記すときの一点一画を記す行為は「時間」を紙上に封印する行為でもある。それが肉筆であるならば《個時空》を紙上に封印することである。紙上に肉筆で封印された《個時空》は既に此の世に唯一の「顔」を持つてゐて唯一無二の存在物になるのである。

肉筆原稿が嘗ては活字、今はComputer入力の写植に変貌してしまつたが、それでも肉筆で今でも原稿用紙と格闘してゐる作家の文は迫力が違ふのである。これは私だけのことかもしれないが文芸誌などで何某かの作家の作品の一文を読めばその作家が原稿用紙に肉筆で書いたかComputer入力かがたちどころに解つてしまふのである。私にとつてComputer入力の作家の作品はそれだけで既に読むに値しない愚作である。今でも肉筆で原稿用紙に書いてゐる、例へば本人には申し訳ないが、私は嫌ひである大江健三郎の作品を文芸誌で見つけると嫌ひにも拘はらずその作品の一文を読んでしまふと最後まで読んでしまはないと気が済まなくなるのである。写植になつても肉筆で書いたといふ《個時空》若しくは作家の《言霊》が私の魂を鷲摑みにして作品を最後まで読ませてしまふのである。

…………

…………

――何故、現代人はComputer入力で文を認める、つまり己を『のつぺらぼう』にしたがるのかね……

――へつ、己のことを自然を「超えた」若しくは神を「超えた」存在だと錯覚したいだけのことさ、けつ。

 

位置

 

高田渡も歌つてゐる黒田三郎の詩『夕暮れ』の第一連から

 

夕暮れの町で

ボクは見る

自分の場所から はみだしてしまつた

多くのひとびとを

 

は何とも私の胸奥に響く一節である。特に

 

自分の場所から はみだしてしまつた

多くのひとびとを

 

の一節は見事である。

ところが

――自分の場所とは一体何処だ?

といふ愚問を発する私の内部の声がその呟きを已めないのである。

今ゐる自分の場所は日本国内では、地球上では、太陽系内では、天の川銀河内では、更に何億年か何十憶年か、もしくは何百億年か後に天の川銀河と衝突すると予測されてゐるアンドロメダ銀河との関係性から全て自分の場所、もしくは自分の位置はそれぞれの相対関係から言葉で指定できるが、さて、宇宙に仮に中心があるとして我々が棲息する天の川銀河は宇宙全体の何処に位置するのかとなると最早言葉では表現出来ずお手上げ状態である。

現代物理学ではこの宇宙は「閉ぢて」ゐると考へられてゐるのでこの宇宙の中心は多分何処かにある筈に違ひないと考へられなくもないが、しかし、宇宙全体の形状すら未だ不確かな状態ではこの宇宙に中心があるのかどうか不明である。仮令この宇宙に中心があつたとして、さて、我々が棲息する天の川銀河はこの宇宙の何処に位置するのであらうか……。

さて、以前にも宇宙の涯についての妄想を書き連ねたが、仮にこの宇宙といふ世界樹が林檎の木で出来てゐてその林檎の実一つ一つが一つの宇宙を象徴してゐる「林檎宇宙」であるならばこの宇宙の存在物は全て「林檎宇宙」の表皮に存在するといふやうに考へられなくもないのでこの宇宙の存在物全ては宇宙の周縁に存在することになる、つまりこの宇宙の存在物全ては宇宙の涯と接してゐるといふことになる。大袈裟に言へば私の位置は宇宙外と接した何処かといふことになる。

――吾の隣は既に宇宙外……、はつはつ。

そこでまた以前の妄想から宇宙の涯が鏡――古代の人々は矢張り素晴らしい。鏡を神器と看做してゐたのだから――であるならば、私が鏡を見る行為は宇宙の涯を見てゐる擬似行為なのかもしれないのだ。鏡を見て自己認識する人間といふ生き物は、もしかすると宇宙の涯との相対的な関係性から自己の位置を認識したいのかもしれないのである。

――さて、吾は何処に存在するのか……

ここで石原吉郎の代表作の一つであり傑作の一つでもある『位置』といふ詩のその凄みが露になる。

――吾は吾の『位置』を言葉で表現し得るのか……

石原吉郎の第一詩集である『サンチよ・パンサの帰郷』(思潮社、1963年)の最初の詩は、『位置』である。

 

位 置

 

しずかな肩には

声だけがならぶのでない

声よりも近く

敵がならぶのだ

勇敢な男たちが目指す位置は

その右でも おそらく

そのひだりでもない

無防備の空がついに撓(たわ)み

正午の弓となる位置で

君は呼吸し

かつ挨拶せよ

君の位置からの それが

最もすぐれた姿勢である

(『石原吉郎全集Ⅰ』花神社、1979年、5ページ)

 

 

魔人「多頭体一耳目」の悲哀

 

 

印刷技術を始め様々な科学技術を応用した発明がなければ「知識」は未だに特権階級の独占状態にあつた筈であるが、幸か不幸か印刷技術の発展で「知識」は人類共有のものへと世俗化したのである。しかし、現代は人間を魔人「多頭体一耳目」へと変態させてしまつたのである。

印刷技術の発達のお蔭で書物が誰でも手にすることが出来るものへと、画家や写真家のお蔭で或る絵画や写真の情景が見る人誰もが共有出来るものへと、Recordの発明のお蔭でで誰もが音楽を共有出来るものへと、そして、映画や団欒のTelevisionのお蔭で誰もが同じ映像を共有出来る時代になつたが、さて、ここからが問題である。個室で独りTelevisionやVideo等を見る段階になると人間は魔人「多頭体一耳目」に変態するのである。

――奴とこ奴の記憶すら交換可能な時代の到来か……。

つまり、現在「個人」と呼ぶものは既に頭蓋内の記憶すら他者と交換可能な、言ひ換えると仮に人類が個室で全員同じ画像を画像から同じ《距離》で見てゐるとするとすべての人間の頭蓋内の記憶が同じとなつてしまひ将来生まれて来るであらう人類の為には極端なことを言へばたつた独り生き残つていれば、否、誰も生き残らなくとも映像さへ残れば人類の記憶が残り良いのである。

――こいつとあいつは頭蓋内の記憶すら交換可能な、つまり、こいつが居ればあいつは無用といふあいつの悲哀……。

さて、そろそろ魔人「多頭体一耳目」の正体が解つてきたと思ふが、つまり、魔人「多頭体一耳目」は個室で独りTelevisionやVideo等を見てゐる人間のことなのである。

――俺の存在とは誰かと交換可能な……つまり……俺が此の世に存在する意義は全く無い……。

映画館や団欒等、他者と一緒に同じ映像を見てゐるならばは傍に「超越者」たる「他者」が厳然と存在するので魔人「多頭体一耳目」は出現しない。

ここで魔人「多頭体一耳目」を戯画風に描くと一対の耳目を蝸牛の目のやうに一対の耳目をTelevisionやVideo等が映す映像の場所にによきつと伸ばし、その映像を見てゐる人数分、一対の耳目から無数に枝分かれした管状の器官で頭と肉体が繋がつてゐる奇怪な生物が描き出されるのであるが、オタクには失礼かも知れないがオタクこそ魔人「多頭体一耳目」の典型なのである。

さうなると主体が生き延びるには「感性」しかないのであるが、「感性」といつても如何せん頭蓋内の記憶すら同じなので、哀しい哉、「感性」もまた「同じ」やうなものばかりしか育めないのである。

――主体とはこの時代幻想に過ぎないのか……。

人間を魔人「多頭体一耳目」に変態させたくなければ同じ映像を見るにしても必ず他者と一緒に見なければそいつは既に魔人「多頭体一耳目」に変態してしまつてゐる。

――さう云へば私は最早Televisionを見なくなつて久しいが……本能的に魔人『多頭体一耳目』になることを察知してTelevisionを見なくなつたのかもしれないな……。

 

 

雷雲

 

彼は幼い頃から屋根に寝そべつて時々刻々とその姿を変容させる雲を見続けてゐる何とも名状し難い心地よさに包まれるその時間を愛して已まなかつた。

特に雷雲が遠ざかる時の鬱勃と雷雲に雲が次々と湧いては、上昇したために冷えた気団が纏ふ雲が雲団に崩れ沈む様をずうつと眺めてゐる時のその雄大な儚さが何とも堪らなく好きであつた。

或る日、彼は特別強い突風が吹かない限り欠かせた事が無い激烈に変化する気候の不思議に魅了されて眺めずにはゐられない雷雲の去来の全てを部屋の窓を開け放つて眺め始めたのであつた。

先づ、斥候の雲として龍のやうな雲が中空を滑るやうに横切り始めると彼は最早空から目が離せなくなるのであつた。そして、灰色の氷山のやうな小さな暗雲が次第に群れを成して上空を流れ行く段になるともう直ぐ空が一変する瞬間が訪れるのを彼はわくわくしながら待つのである。

それは雷神が巨大な甕に薄墨をどくどくと注ぎ込みその巨大な甕が薄墨で一杯になつたところでその甕の薄墨を空にぶち撒けるやうに薄墨色の暗い雲がさあつと空一面に一気に拡がる瞬間の息を飲むやうな迫力に圧倒されたいが為のみである。

辺りが夜の闇に包まれたかのやうに真つ暗になると雷神の本領発揮である。きらつと暗雲の何処に閃光が走ると

――どどどどど~ん。

と腹の底まで響き渡る轟音が此の世を覆ひ包む。

時には稲妻が地上から暗雲へ向けて這い登るその雷神の大交響樂は何時見ても凄まじいものであつた。すると、その時不意に彼は奇妙な感覚に襲われたのである。

――睨まれた!

その瞬間であつた。一閃の稲妻が地目掛けて駆け落ちた時、蒼白い小さな小さな閃光がこつちへ向かつて疾走して来たのであつた。その時Radioからワーグナーの「ワルキゆレの騎行」が流れてゐた。

その蒼白い小さな小さな閃光はRadioのAntenna(アンテナ)の先端に落ちたのであつた。すると、「ワルキュ―レの騎行」は突然大音響で鳴り響き雷神の大交響樂を更にその迫力が鬼気迫る何とも凄まじいものへと変貌させたのであつた。

それからである。稲妻が次々と閃光を放つては轟音を轟かせこの世を縦横無尽に駆け回り始めたのである。

――ぼとぼとぼと――

豪雨の襲来である。

その日の雷雨は記録的な降雨を記録した物凄いものであつた……。

 

 

後ろの正面

 

先づ、次の文章が何のことなのか……謎謎である。

『宇宙を普遍的に支配する法則、宇宙の基本的なBalanceは、始終、破られてゐる。Energie(エネルギー)保存則を無視して、真空から、電子や陽子のやうな物質が――まるで手品の空つぽの帽子から鳩や兎が飛び出すやうに――ポンポンと出て来るのである。これを「真空の揺らぎ」と呼ぶのであつた。但し、このやうな奇妙な現象は、観測者(主体)が観測してゐない時にしか起きない。一旦、無から生成された物質は、観測者(主体)が――周囲が――Unbalanceに気づく前に、無へと直ちに回帰してしまふ。結局、無から飛び出した電子や陽子たちは、観測者(主体)の眼には、「存在してゐなかつた」ことになる。』――引用(『本 読書人の雑誌 2007年6月』【講談社】~<とき>の思考――大澤真幸著:「独裁者という名の民主主義」~(一部私が変更)

上記の記述には大澤真幸の理解不足が散見されるが概ね正しいとして、さて、何のことなのか解るだらうか。

先づ科学関係、それも物理学関係の事だとは解ると思ふが、しかし、科学者の間では上記の引用が「常識」なのである。

さう、量子力学のことである。量子力学における現象は一般の常識を越えた事がしばしば起こるが、上記の引用は彼のアインシゆタインが生涯受け入れられなかつた量子論の基本の基本の考え方である。アインシゆタインでさへさうなのだから一般の人々にとつては尚更受け入れられない考え方である。

一言で言ふと私が自身で見えない私の背中では上記の引用の摩訶不思議としか言へない「現象(?)」が常に起こつてゐることになる。

――はつはつはつ、可笑しくて仕様が無い……

さて、しかし、ここが大きな問題である。上記の引用が科学者の「常識」といふ事が――空恐ろしくて悪寒が体を走る――「文明」の基本の基本にある考え方なのだ。

――逃げろ!

さう、文明から即刻逃げなければ観測者にされた主体はこの世の「文明世界」で弄り殺され兼ねないのだ。

――奇妙奇天烈な『文明』から……早く、早く、逃げろ!

アインシゆタインの一般相対性理論と量子論が「統一」された「大大統一理論」が理論物理学の世界で確立されない限り狂気の沙汰としか言へない「文明」から逃げる外、私たち一般の人々が「文明」に弄り殺されずに生き残る術は今の所……無い。

――誰か吾を助け給へ……。

童歌の「かごめかごめ」

籠目籠目

籠の中の鳥はいついつ出やる

夜明けの晩に鶴と亀がすべつた

後ろの正面誰

 

 

鏡面界

 

副題******************** **************************************

Pianist ハロルド・バツド(Harold Budd)の静謐な演奏が白眉な、Ambient Music(環境音楽)の創始者であり、現在ではClassicの現代音楽家とも目されるブライアン・イーノ(Brian Eno)の美しき1980年の作品「 Plateaux of Mirror 」(邦題:鏡面界)を聴きながら……

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追記

イーノの作品で私はNASA制作の映像作品のSoundtrack盤「APOLLO(邦題:アポロ)」が一番のお気に入りである。

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万華鏡を覗いてゐるとその変幻自在で色鮮やかな千変万化する鏡面世界は私の思考を無理矢理にでも宇宙に誘(いざな)ふのである。

――Black hole(ブラつクホール)……

最近、Black holeは存在しないといふ新説が発表されたが、ここではBlack holeが存在するものとして話を進める。

さて、光すら遁れられないBlack hole内はその名に反して眩いばかりに光り輝く鏡面世界なのではないかと最近、特にさう思ふ。銀河の中心域の輝きを見ると尚更さう思へてくるのである。

――Light-shining hole……

唯、シゆヴァルつシルト半径または重力半径と呼ばれるBlack holeの境界域のみ漆黒なのであつて、仮にその境界域を鏡面界と仮定すればBlack holeは万華鏡と同じと考へられなくもないのである。

――もしかすると銀河の中心域もまた鏡で出来た『林檎宇宙』の縮図なのかもしれない……

――Fractal(フラクタル)的に考へると……この私が存在してしまつてゐるこの宇宙自体が巨大な巨大な巨大な巨大なBlack holeと考へられなくもないではないか……

――ふつ、面白い……

――するとだ……宇宙外にはこの宇宙を中心とする巨大な巨大な巨大な巨大な銀河が形作られてゐるのかもしれない……

――するとだ……この宇宙をBlack hole型宇宙だと仮定すると……この宇宙を閉ぢ込め包み込む更に巨大な巨大な巨大な巨大なBlack hole型の宇宙が存在し、それが無限に続いてゐるとすると……

――ふつ。鏡面界を皮と見立てると……此の世といふものは巨大な巨大な巨大な巨大な……鏡で出来た無限の『玉葱宇宙』といふことか……。

――また……『無限』といふ名の陥穽に落ちてしまつたぞ……。

と、不意にイーノの「鏡面界」が終はつたのであつた。

 

 

川の中の柳の木

 

――今年も芽吹いたか……

その柳を見た時からもう既に数年経つが未だ健在である。何年川の水に浸かつてゐるのだらうか。その柳の木を最初に目にした時には既に川の中であつた。川に洗はれ剥き出しになつた根根には空き缶やらPolyethylene-Bucket(ポリバケつ)やらVinyl(ビニール)やら塵が沢山纏はり付いてゐてたので何年にも亙り川の中に在り続けてゐたといふことは想像に難くない。

しかし、その柳は凛としてゐた。

多分、完全に水に没してゐる部分は腐つてゐる筈で、如何様にその柳が完全に水の中に横倒しで生き続けてゐるか摩訶不思議でならないが、その生命力の凄まじさは何時見ても驚きであつた。

――何がお前をさう生きさせてゐるのか……

それにしても自然は残酷である。梅雨時の大雨か台風の豪雨かは解らぬがその柳が立つてゐた痕が岸辺には今もくつきりと残されてゐた。多分、二本並んで柳は岸に立つてゐた筈で、その片割れは今も岸にしつかりと根を張り泰然と生きてゐるが、其処から数メートル離れた岸には濁流がざつくりと抉り取つた痕が残つてをり、多分、川の中に横倒しで生きてゐるあの柳の木は元元其処に悠然と立つてゐたに違ひない。

――どばつ、どぼつ、どどどどど――

しかしながら濁流は見れば見るほどその凄まじさに引き込まれさうになる不思議な魔力を持つてゐる。

私は台風一過等で起こる川の凄まじき濁流を見るのが好きであつた。橋すらゆつさゆつさと揺さぶるほどの強力(がうりき)、この魅力は堪らない。目が濁流の凄まじき流れに慣れると何だか物凄くSlow motionで川が流れてゐるのではないかといふ錯覚が起こる。そこで不意に川に飛び込みたくなる衝動が私に生じ、『あつ』と思つて吾に返るのである。その繰り返しが私は多分堪らなく好きなのだらう。濁流に魅せられたらもう其処から少なくとも一時間は動けなくなる。

――あつ、渦が生じた……。木つ端が渦に飲み込まれた……。あつ、大木だ。あつと、大木すら渦が飲み込んだ……。どばん! 大木がConcreteの橋脚に激突した……

……………

……………

それにしてもあの川の中の柳の木はよくあそこで踏み堪えたものだとつくづく思ふ。凄まじき濁流に投げ出されたならば最早流されるだけ流されるしかない筈なのだが、あの柳の木はあそこで止まつたのだ。さうして何年も芽吹き生き続けてゐる。これまた凄まじき生命力である。水に浸かつた部分は多分もう腐乱してゐる筈である。それでも尚、あの柳の木は川底に多分根を張つてゐるに違ひない。これまた凄まじきことよ……

――お前は何故吾を、この水の中の柳を哀れむのか

――否、感嘆してゐるのさ

――何を?

――だから……あなたの生命力の凄さを……

――ふつ、馬鹿が

――何故?

――『自然』なことの何を感嘆するのか、はつ。

――すると、あなたは『自然』を『自然に』受け入れてゐるのですか?

――受け入れるも受け入れないもない! 此処が吾の生きられるこの世で唯一の場所だから……受け入れるも受け入れないもない!

――すると、

――黙れ! お前に問ふ! お前が此の世で唯一生きられる場所は何処だ?

――……

――去れ! 此処はお前のゐる場所ではない! はつ。

 

 

或る赤松の木

 

その赤松は古城の堡塁址の北側といふその堡塁址で一番棲息環境が悪い一角に半径五メートルの砂地に芝が植ゑられてゐる円の中心に堂々と立つてゐた。多分その赤松には何かの謂れがあるに違ひないが詳細は不明である。しかし、その赤松はこの地区の人々に何百年にも亙つて大切に守られてきたことはその赤松の姿形の何れからも一目瞭然であつた。

私は何時もその堡塁址を訪れる時は南方より楢や山(ぶ)毛欅(な)や檜などが生えてゐる有様を武満徹の音楽に重ねながらゆつくりと歩くのが好きであつた。それらはまたあの赤松の防風林になつてゐるのも一目瞭然で、しかし、それにしてもその古城の堡塁址の林は人の手がよく行き届いた林であつた。

ところが、赤松が立つてゐる場所近くになると武満徹の音楽はぷつんと終はつて突然笙の音色が聴こえて来るかのやうに辺りの雰囲気は一変するのである。

赤松が生えてゐる場所は雅楽が似合ふある種異様な場所であつた。

林が突然途切れるとあの赤松がその威容を誇るかのやうに堂々と立つてゐるのが見える。

赤松の幹の赤褐色が先づ面妖な「気」を放つのである。赤松の幹の色は嘗て此処に威風堂々と構へてゐた城が焼け落ちたその炎の色を髣髴とさせるのだ。

芭蕉を捩つて本歌取りをしてみると

赤松や 兵どもが 夢の跡

といふ句がぴつたりと来るのである。

私はその赤松に対するときある種の儀式として、先づ此の世が四次元以上の時空間で成り立つてゐることと上昇気流の回転を意識しながらその赤松の周りを反時計回りにゆつくりと一周してから赤松に一礼して赤松に進み出でるのである。そして、左手でその赤松の幹を撫で擦りながら『今日は』と挨拶をするのである。そこで赤松を見上げその見事な枝振りに感嘆し、この赤松もまた螺旋を描いてゐるのを確認して芝に胡坐をかいて坐すのが何時もの慣はしであつた。

…………………

…………………

――雅楽の『越天楽』が何処からか聴こえて来る……

不意に日輪を雲が横切る……

――突然、夢幻能『芭蕉』が始まる……

――今は……何時か……此処は……何処か……全ては夢幻か……

 

 

特異点……幻影……若しくは合はせ鏡

 

例へば、数学的に関数1/xは x = 0 で±∞に発散し、定義されないので、このとき x = 0 は特異点であるといふ。

さて、此の世の時空間に物理学上の特異点は存在しないのかと問はれれば、即、Black holeに存在するが『事象の地平面』で覆はれてゐるため一般的な物理法則の、例へば因果律などでは全く問題ないと教科書的には即答出来るが、しかし、ここで特異点なるものを夢想すると何やら面妖なる『存在』の、若しくは『物自体』の影絵の影絵のその尻尾が捉まへられさうでもある。

先づ、±∞から単純に連想されるものに合はせ鏡がある。

二枚の鏡を鏡に映す事で恰も無限に鏡が鏡の中に映つてゐるが如き幻影に囚はれるが、それは間違ひである。鏡の反射率と光の散乱から鏡の中の鏡は無限には映らないのは常識である。

だが、二枚の鏡をゆつくりと互ひに近づけて行き、最後に二枚の鏡をぴたつと合はせてしまふと、さて、二枚の鏡に映つてゐる闇の深さは『無限』ではないのではなからうか。

――眼前に『無限』の闇が出現したぜ。

眼前のぴたつと合はせられた二枚の鏡の薄い薄い時空間に『無限』の闇が出現する……

――其の名は何ぞ

――無限……

――無限? ふむ……。其に問う、『此の世に《無限》は存在するのか?』

――ふむ。存在してゐると貴君が思へば、吾、此の世に存在す。しかし、貴君が存在してゐないと思へば、吾、存在せず……

――すると、己次第といふことか……これじやあ唯識の世界と同じだな……

さて、瞼を閉ぢてみる。

――眼前の薄つぺらい瞼の影もまた『無限』の闇か……

すると、闇は闇自体既に『無限』といふことになる。

――光無き漆黒の闇の中には無数の『存在』が隠れてゐる……か……

さうである。闇は何物にも変幻自在に変容し吾の思ふが儘に闇はその姿を変へる。

――何たる事か!

――へつ。吾、闇は、水の如し……だぜ。

――するとだ、其はその薄つぺらい薄つぺらい闇自体に全存在を隠し持つてゐる、へつ、例へば創造主か……

――……

――神、其れは『闇』の異名か……、ちぇつ。

私は其の瞬間、眼前の二枚の鏡を床に擲ち、粉々に割れた鏡の欠片に映る世界の景色をじつと何時までも眺め続けたまま一歩も動けなかつたのであつた……。

 

 

五蘊場(ごうんば)

 

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広辞苑より

五蘊

(梵語skandha)現象界の存在の五種類。色(しき)・受・想・行(ぎやう)・識の総称で、物質と精神との諸要素を収める。色は物質及び肉体、受は感覚・知覚、想は概念構成、行は意志・記憶など、識は純粋意識、蘊は集合体の意。

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場とは、物理量を持つものの存在が別の場所にある他のものに影響を与へること、あるひはその影響を受けてゐる状態にある空間のことをいふ。

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ストークスの定理

 

ここで S は積分範囲の面、C はその境界の曲線である。

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頭蓋内といふものは考へれば考へる程不思議な時空間に思へてならない。

例へば何かを思考する時、私は脳自体を認識することなく『思考』する。これは摩訶不思議な現象であるやうに思へてならない。

さて、『脳』とは一体何なのか?

『脳』のみ蟹や海老等の甲殻類の如く頭蓋骨内にあり、手や足などの肉体とは違ひ、思考してゐる時、『脳』を意識したところで漠然と『脳』の何々野の辺りが活動してゐるかなとぐらゐしか解らず――それも脳科学者が言つてゐることの『知識』をなぞつてゐるに過ぎないが――私には『脳』の活動と『思考』がはつきり言つて全く結び付かないのである。これは困つたことで、『脳』の活動と『思考』することが理路整然と結び付かない限り何時まで経つても霊魂の問題は、つまりOccult(オカルト)は幾ら科学が発展しやうが消えることはなく、寧ろ科学が発展すればするほどOccultは衆人の間で『真実』として語られるに違ひないのである。

そこで上記に記したストークスの定理をHintに頭蓋内を『五蘊場』といふ物理学風な『場』と看做して何とか私の内部で『脳』の活動と『思考』を無理矢理結び付けやうとしなければ私は居心地が悪いのである。全くどうしやうもない性分である……。

例へば一本の銅線に電流が流れると銅線の周辺には電磁場が生じる。そこで脳細胞に微弱な電流が流れると『場』が発生すると仮定しその『場』を『五蘊場』と名付けると何となく頭蓋内が解つたかのやうな気になるから面白い。

『脳』が活動すると頭蓋内には『五蘊場』が発生する。それ故『人間』は『五蘊』の存在へと統合され何となく『心』自体へ触れたやうな気分になるから不思議である。

多分、『脳』とは『場』の発生装置で『脳自体』が『思考』するのではなく『脳』が活動することによつて発生する『五蘊場』で『人間』は『思考』する。

さて、ここで妄想を膨らませると、世界とか宇宙とか呼ばれてゐる此の世を『神』の『脳』が活動することによつて発生した『神』の『五蘊場』だとすると科学の『場』の概念と宗教が統一され、さて、『大大大大統一場の理論』が確立出来るのではないかと思へてくる……

――宇宙もまた『意識』を持つ存在だとすると……

――さう、宇宙もまた『夢』を見る……

――その『夢』と『現実』の乖離がこの宇宙を『未来』に向かせる原動力だとすると……

――『諸行無常』が此の世の摂理だ!

 

 

玄武……幻想……

 

四象若しくは四神の北を指す玄武の図柄は、特にキトラ古墳の石室に描かれた玄武の写真を見ると様様な妄想を掻き立てるのである。

一方で玄武に似た『象徴』にギリシアの自らの尾を噛んで『無限』を象徴するウロボロスの蛇があるが差し詰め現代社会を象徴する蛇を図案化すると自らの尾から自らを喰らひ始め、自滅を始めた『蛇』、つまり現代を考えるとき必ず人類の絶滅といふことが頭を過ぎつてしまふのである。

閑話休題。

玄武――その『玄』の字から黒を表はすのは直ぐに想像出来る。黒から『夜』へと想像するのは余りに単純だが、思ふに玄武は『北の夜空』の象徴ではないのかと仮定出来る。

さて、キトラ古墳の玄武の蛇はウロボロスの蛇のやうに自らの尾を噛んではをらず、尾が鉤状になつて蛇の首に絡んだ格好になつてゐるが、これは正に北の夜空の星の運行を端的に表はし、現代風に言へば『円環』若しくはニーチェの『永劫回帰』すらをもそこには含んでゐるやうにも思ふ。日本の古代の人々は蛇が『脱皮』を繰り返すことから『不死』若しくは『永久(とは)』を表はし、また『龍』の化身、更には『水神』をも表はしてゐたらしいので、多分、北極星を象徴してゐるであらう『亀』と併せて考へると玄武は『脱皮』をしながら、つまり『諸行無常』といふ『異質』の概念を敢へて飲み込んだ『恒常普遍』といふ概念が既に考へ出されてゐたと仮定できるのである。更に何処の国の神話かは忘れてしまつたが、世界を『支へる』ものとして『亀』が考へられてゐたことも含めると玄武は今もつて『普遍』へとその妄想を掻き立てる現在も『生きてゐる』神である。

少なくともキトラ古墳の玄武は千数百年生き続けてゐたのは確かで、さて、現代社会で千年単位で物事が考へられてゐるかといふと皆無に近いといふのが実情ではないかと思ふ。

滅び――現代は『普遍』といふ概念がすつぽりと抜け落ちた『諸行無常』――それは中身が空つぽな概念に思ふ――を自明の事としてしか物事を考へない、つまり数にすれば圧倒的多数である『死者』とこれから生まれてくるであらう未出現の『未来人』の事は一切無視した現在『生存』してゐる人間の事しか考へない『狭量』な『諸行無常』といふ考へに支配された世界認識しか出来ないのではなからうか。

少なくとも千年は生き残る『もの』を現代社会は創造しないと人類の『恥』でしかないやうに思ふ今日この頃である。

 

 

孤独、ニュートリノの如く

 

『物体』をほぼ全て透過してしまふNeutrino(ニゆトリノ)の『孤独』の深さは多分底無しであらう。

『他』にぶち当たつて『衝突』や『反射』しない『他』の存在しないNeutrinoの『自己認識』の術は、さて、何であらうか。果たしてNeutrinoは自己が此の世に存在してゐることを『認識』してゐるのであらうか……

――……吾、果たしてこの吾、此の世に《存在》してゐるの……か……

――お前は今、お前を《吾》と言つたが……お前が己を《吾》といふその存在根拠は何かな?

――……《吾》たる根拠は……何も……無い……

――それではお前に尋ねるが……お前の仲間の極々少数の者が『素粒子』に打つかつて微小な微小な仄かな蒼白き『光』を発光して『死んで』いくが……さて……その時以外お前が《吾》が《吾》であつたと『自己認識』出来る瞬間は……無いのではないかな……するとだ、お前は『死』以外……己の存在を『認識』することが出来ない……此の世で最も『哀れ』な存在……

――否! Neutrino振動を知つてゐるな。《吾》は《吾》であるといふ『自同律の不快』によつて《吾》は《吾》とは《異種》の《吾》に変容する……

――はつ。お前でさへ……《吾》なることを……《吾》なることの《底無しの苦悩》を知つてゐるとすると……『自己変容』のみ此の世に『存在』させられた『もの』全ての此の世での慰めか……

――はつ、馬鹿が。『自己変容』? 何を甘つちよろいことをぬかしてをるか……『死』のみ此の世に『存在』させられた『もの』全ての慰めさ、はつ。

――『死』が慰め? これは異なことを言ふ。『死』が此の世の全ての『もの』の慰めならばだ、全ての『もの』はとつくに自ら命を絶つて絶滅してゐる筈だがな。

――へつ。吾にとつて『死』以外、何が残つてゐるのだ! Neutrino振動で《異種》の《吾》に《変容》した《吾》をして《吾、此処にあり》なんぞ、馬鹿げた雄叫びでも上げて自慰するのか、へつ、それこそ馬鹿のすることさ。『死』をもつて《吾》は慰みとする、へつ。

――はつ、それがいい。《吾》が《吾》でしかあり得ないことの不愉快極まりない《存在》へのこの侮蔑は、さて、『死』をもつて復讐するのが一番さ、へつ。

――はつはつはつ、例へば此の世に『死』がなければ《吾》はそもそも《存在》出来るのか……。ちぇつ。

 

 

考へる《水》 壱 ‐ 『星の死、または死相』

 

《人間は考えへる葦である》といふ箴言で人口に膾炙してゐるフランスの数学者、物理学者、哲学者、思想家、宗教家であるブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日 – 1662年8月19日)が、晩年に、ある書物を構想しつつ書き綴つた断片的なNoteを、彼の死後に編纂して刊行した遺著『パンセ』【筑摩書房:「世界文学全集11モンテーニゆ/パスカル集」(昭和四十五年十一月一日発行)より松浪 信三郎訳】から抜粋(一部私が改変)

第六篇より

三百四十六

思考が人間の偉大をなす。

三百四十七

人間は自然のうちで最も弱いひとくきの葦にすぎない。しかしそれは考へる葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしづくも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶすときにも、人間は、人間を殺すよりもいつそう高貴であるであらう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知つてをり、宇宙が人間の上に優越することを知つてゐるからである。宇宙はそれについては何も知らない。

それゆゑ、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであつて、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆゑ、われわれはよく考へるやうにつとめやう。そこに道徳の根原がある。

三百四十八

考へる葦。――私が私の尊厳を求めるべきは、空間に関してではなく、私の思考の規定に関してである。いかに多くの土地を領有したとしても、私は私以上に大きくはなれないであらう。空間によつて、宇宙は私を包み、一つの点として私を呑む。思考によつて、私は宇宙を包む。

三百四十九

霊魂の非物質性。――自己の情念を制御した哲学者たちよ、いかなる物質がそれをよく為しえたであらうか?

――以下略

さて、人体の構成を分子Levelで言へば《水》がほぼ七割を占めるので、パスカルの《人間は考へる葦である》を更に推し進め私流にすると《人間は考へる水である》となる。

つまり、《水》が生物の存在を許さなければ生物は此の世に存在出来ないのである。

ところで、《水》がその存在を『許容』しない物質は此の世に存在するのであらうか。つまり、《水》は全てを、《神》の如く、《受容》するのであらうか。

閑話休題。

突然であるが、私は他人の、そして動物の死相が見える。「虫の知らせ」等といふ言葉があるので死相が見えることは別段不思議なことだとは考へてゐないが、しかし、他人の死相が見えてしまふことは何とも遣り切れないものである。経験則に過ぎないが、私に死相が見えてしまつた人はどんな医学的な治療をしても三年以内には必ず死ぬのである。

先づ、眼光から《生気》が消えると言へば良いのか、死に行く人の眼光は異様に見えるのである……。

そして、他人の死相は死に行く星の様相とそつくりなのである。

例へば、「SN 1987A、即ち超新星1987A」、「エーターカリーナ星」、「エつグ星雲」、「リング星雲」等等と他人の死相は似てゐるのである……。

閑話休題。

星はその最後には星の中心核内にある全てのHelium(ヘリウム)を使ひ切り、次に何が起こるのかはその星の質量によつて変はるのであるが、最も重い星、太陽質量の6~8倍以上の質量を持つ星は、十分な圧力が核内にあるため、核融合で炭素原子を燃やし始め、炭素が無くなると超新星として爆発し中性子星やBlack hole(ブラつクホール)が後に残る。軽い星は燃え尽きながら外層を噴き出して美しい惑星状星雲を作る。中心核は高温の白色矮星として残る。

星の死後残つた中性子星やBlack holeや白色矮星は人で言へば『霊魂』である、と、私は考へてゐるが、つまり、パスカルと同じく『霊魂』は存在すると考へてゐるのである。といふのも人間の構成は宇宙の構成と原子Levelでは似てゐて『人体』を『宇宙』に喩へるのは極々一般的な考へ方であるからである。

人の死相と星の死相がそつくりなのは至極当然であらう。何しろ人間といふより生き物は全て宇宙に存在してゐる物質で出来てゐるのだからその死が生き物と星でそつくりなのは当たり前なのである。

――さて、そこで、星々もまた思考し夢を見るのであらうか?

――当然だ。此の世の全ての存在は思考し《他》にならうと夢を見る!

 

 

πの誘(いざな)ひ

 

彼の口癖はかうであつた。

――超越数の一つとしても知られてゐる円周率πの値が確定された時、『宇宙』は無限を獲得する。つまり、それは、へつ、『宇宙の死』さ。

更に彼は斯く語りき。

――人類は円周率をπとして『象徴記号』に封印したことで『生の世界』と『死の世界』を無理矢理にでも跨ぎ果(おお)せなければならない奇妙奇天烈な生き物へと変貌させられたのだ。

吾、其れを彼に何故だと問ふ。

――なにゆゑに貴君は斯くの如く断言せしむるや。

彼、斯くの如く答ふる。

――それでは貴君に問ふ。此の世に直線は存するや。

吾、斯くの如く答ふる。

――存在するに能はず。然れども数学世界ではπは存在し得る。

彼、更に斯くの如く問ふ。

――さすれば貴君の言ふ数学世界は『死の世界』の総称か ?

吾、彼に斯くの如く問ふ。

――なにゆゑ貴君は数学を『死の世界』と定義するや。

彼、にやりと僅かに嘲笑し、斯くの如く答ふる。

――ふつ、笑止千万。貴君、先に此の世に直線は存在するに能はずと答ふる。

然れども数学ではπは存すると語りき。この矛盾、如何せん。

――うむ。如何ともせん。さすれば貴君はなにゆゑ数学を『死の世界』と断言するや。

――古人(いにしへびと)とは直感的に円周率に『生』と『死』を跨ぐ《橋》の形をしたπといふギリシア文字を当てた。勿論、数学は『生』の学問ではあるが、しかし、此の世は『生』のみに非ず。『生』と『死』は切つても切れぬ縁(えにし)で結ばれし。『生』有れば必ず『死』有り、『死』有れば必ず『生』有り。はつ、人間は数学的に無限といふ概念を抱へてしまつた刹那、数学は『死』をも掌中にせねばならぬ『宿命』を負つてしまつたのだ。

――さすれば……

――さすれば、『無限遠』を中心とした円周が……即ち、直線だ。その刹那、『宇宙』は死滅し、死滅した『宇宙』は『∞』を獲得す。そして、πの値も確定す。そして、何も存せぬ『死』有るのみ……

――貴君に問ふ。なにゆゑ数学に『死』が有るや。

――ふつ、簡単だ。『生』を突き詰めれば、これは人類が背負つた『宿命』だが、とことん突き詰めねば気が済まぬ人類が『生』を突き詰めれば『死』に至るのは必然だ。そして……、『生』と『死』が対を成さぬ『もの』は全て之まやかしだ。……はつ、つまり、此の世に存在する全てのものは誕生した刹那、『死』に片足を突つ込んでゐるのさ。一休 宗純(いつきう そうじゆん、応永元年1月1日(1394年2月1日) – 文明13年11月21日(1481年12月12日))斯く語りき。

『門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし』(狂雲集)

 

 

蝋燭

 

――ゆあゆあ……ゆあ……ゆあゆあゆあ……じつじつじー……ぽつぽつぽ……

飛んで燈にいる夏の虫。何処からともなく此方に飛んできてゆるりゆるりと眼前の和蝋燭の燈の周りを渦を巻くように何回か巡り小さな羽虫が和蝋燭の炎に焼かれた……。

――ゆあ……ぽつ……ゆあゆあゆあ……

複眼を持つ昆虫は光線に対して直角に進むやうに『仕組まれて』ゐるので和蝋燭の炎に飛び込み焼け死んだあの小さな羽虫は『直進』してゐたにも拘はず『渦』を描いてゐた。

――あの小さな羽虫もまた和蝋燭の燈に魅せられてしまつたのか……

――ゆあゆあゆあ……ゆあゆあゆあゆあ……ぽつ……

不意に眼前の和蝋燭の炎が揺れた。

――揺らめく……揺らめく……世界が……揺らめく……

眼前の和蝋燭の炎を中心とした『渦時空間』に死者たちの魂もまた魅せられてその和蝋燭の炎の周りを巡つてゐるのか……。

――ゆあゆあ……ぽつぽつぽつぽつ……ゆあゆあゆあゆあ……

陰翳が絶えず移ろふこの『渦時空間』こそ、死者たちの祝祭の場……。

――眼前の和蝋燭の炎は吾の命の『炎』なのか……死者共が吾の『炎』を酒の肴に喰らつてゐるではないか……

この和蝋燭の炎の『ゆあゆあゆあ』といふ揺らめく輝きは死者共の哄笑で満ちてゐる憩ひの場。そして、また、吾も清浄なる死者共の祝祭に招かれし。

――わつはつは。

死者と戯れしこの無上の時間。そして……終焉の時。

――ふうつ。

吾は己の命の『炎』を自ら吹き消したのだ。

――何なのだらう、この静謐なる心地よさは……

闇の中、吾の網膜に残る和蝋燭の炎の残像を吾は己の命を慈しむやうにずうつとずうつと眺め続けてゐたのであつた。

――吾、未だ、苟も生かされてしまつてゐるのか。祝祭だ、祝祭だ、吾の生に乾杯!

 

 

蟷螂(かまきり)

 

私は幼少時から昆虫を異常な程偏愛してゐるが、中でも黒蟻と蟷螂への偏愛は特別である。黒蟻はその巣の出入り口を一日中でも見続けてゐられる程であるが、黒蟻についてはまたの機会に譲る。

蟷螂は冬に芒等の枯れた茎に蟷螂の卵(らん)鞘(せう)を見つけるとそれを茎ごと家に持ち帰つて日一日とその卵鞘から蟷螂の幼虫がうようよ出てくるのを待つのが楽しみであつた。

また、初秋以外は自然の中にゐる蟷螂をじつと見続けてゐるだけで何とも言へない幸福感に包まれるのであつた。

問題は産卵期が近づいた初秋の蟷螂で、私は蟷螂を見つけると雄雌区別なく竹製の籠――Plastic(プラスティつク)は幼少時から嫌いである。それはある日風呂に入るとそれまで木製だつた桶等が全てPlastic製品に変はつてゐてそのPlastic製品を手にした瞬間の嫌悪感が未だに克服できないのである――に入れ空かさず蟋蟀等の蟷螂の餌を捕まへて蟷螂に喰はせるのである。その様をずつと見てゐるのがこれまた名状し難い幸福な時間なのである。

蟷螂は蟋蟀を鎌で確りと摑み先づ蟋蟀の頭に武者ぶり付き脳を喰らつた後に動けなくなつた蟋蟀の腹に喰らひ付く。その喰ひつぷりがこれまた何とも名状し難い程素晴らしいのである。今思ふとそれは後年『生』と『死』について思索するといふ陥穽へと陥ることになる予兆であつたのかもしれない……。

それはそれとして、蟷螂が見事な喰ひつぷりで蟋蟀を一匹喰ひ終はると二匹目を蟷螂に喰はせ蟷螂が満腹になつて喰ひ残した蟋蟀を鎌から放り投げるまで続けるのであつた。そして、満腹になつた蟷螂を捕まへた場所に戻し、私は名状し難い幸福感に包まれて其の日を終へるのであつた。何も私は死体嗜好者ではないが蟷螂だけは別物なのである。

それは或る秋の日のことであつた。不意に道端に繁茂する雑草に目を向けると雄と雌の蟷螂が交尾してゐるのを目撃してしまつたのである。最早私は蟷螂の交尾を凝視し続けるしかないのである。

それは不意に起こつたのである。雌蟷螂が突然雄蟷螂の首を噛み切り首を落としたのである。依然として交尾は続いてゐた。そして、交尾が終はると雌蟷螂は雄の腹に喰ひつきその首がなく唯痙攣したやうに反射運動をしてゐるだけの、不自然に脚をばたつかせてゐた雄蟷螂を一匹丸々喰らつたのであつた……。

一方、首を落とされた雄蟷螂は想像するに、多分、恍惚の中に陶酔したまま彼の世に逝つた筈である。生物史を見れば『性』と『死』は表裏一体の切つても切れない仲なのは明白で、雄蟷螂の死は『自然』の『慈悲』が最も良く具現化された『極楽』に思へてならないのである……。

さて、これは多分私だけの現象に違ひないが、快楽のみを求めて無用な性行為をしてゐる人間の男女は異様な瘴気を放つてゐて、私はそれを幻臭と名付けてゐるが、彼等は『死臭』若しくは『腐乱臭』の幻臭を放つてゐるのである。当然のこと、私が彼らの傍らを通り過ぎると幻臭に襲われ嘔吐するのである。そして、彼等は総じて老けるのが早く『醜悪』極まりないのである。

ランボーだつたかボードレールだつたかマラルメだつたか忘れてしまつたが、フランスの詩人のギロチンをMotifにした詩を読んだ記憶があるが、私が思ふにギロチンで死に逝く者は幸福なのかもしれないと、蟷螂が教へてゐるやうな気がしてならないのである。ギロチンが落とされ斬首された首の持ち主は、消え行く意識の中、多分、首は自由落下してゐるので『天上』へ向かつて飛翔してゐる『錯覚』と『陶酔』の中で死んで逝つてゐる筈である……

 

 

考へる《水》 弐‐ 『湯船、若しくは擬似胎内』

 

水分子間の水素結合……これが諸悪の根源なのか……。

純度百%の超純粋水は一時も『吾』たる事に堪へられず、手当たり次第に『他』の物質を水たる『吾』に溶解させ、『不純』なる水に、即ち、『不純』なる『吾』に変容することを渇望して已まない……

故に、『吾』、既に『吾』為らざる『吾』たり。

水分子間の水素結合が生体に不可欠なたんぱく質のその立体構造を生成するのに重要な役割を果たしてしまつてゐることは周知の事実であるが、この水分子間の水素結合が此の世の『寛容』の、即ち、『神』の『寛容』の淵源か。

…………

…………

或る日、私が湯船に浸かると不意に口から出た言葉があつた……。

――『初めに言葉ありき』(新約聖書の「よハネによる福音書」より)。否、『初めにLogos(ロゴス)ありき』。

さて、一神教の世界に『無』は在るや。

――基督教が生まれた中東も含め、西洋の『言葉』は全て横書きなのは『天』に、若しくは『頭上』に厳然と『神』が坐し給ひしためなり……、即ち、それは『有』が全ての創造物の前提になつてゐるからか……。其処には『無』は有り得ず、『空虚』若しくは『真空』のみ有る……つまり、全ての根源が『有る』事が前提なのか……

――つまり、一神教の世では『人』が直立するのに『自力』で地に立つのではなく、『神』が『既に』人を地に立たせてしまつてゐる……、つまり、其処には『白紙』の『紙』は存在せずか……

――一方、『初めに言葉無き』極東のこの地では『臣安萬侶(やすまろ)言(まう)す。 夫(そ)れ混元既に凝りて、氣象未だ效(あらは)れず。 名も無く爲(わざ)も無し。 誰か其の形を知らん。 然れども乾坤初めて分れて、參神造化(ざうけ)の首(はじめ)と作(な)り、陰陽(めを)斯(ここ)に開けて、二靈群品の祖(おや)と爲りき。 所以(このゆゑ)に幽顯に出入して、日月目を洗うに彰(あらは)れ、海水に浮沈して神祇(身を滌(すす)ぐに呈(あらは)れき。 故(かれ)、太素(たいそ)は杳冥なれども、本敎に因りて土(くに)を孕み嶋を産みし時を識(し)れり。』(古事記 上つ卷から) ……云々。つまり、初めに『無』ありき。

――それで?

――この極東の地で『人』が地に直立するには『自力』で、つまり、『神』無しに『立つ』外無し。

――それで?

――然れば、先づ『人』は此の世に『天地』を定めるなり。

――そして?

――『人』、『白紙』の如し。故に極東のこの地では『人』が直立するべく『無』たる『白紙』に縦書きで『字』を認(したた)めし。縦書き為らずばこの極東の地に『人』、即ち『直立』出来難し。

…………

…………

また、湯船の中で次の言葉が不意に口に出た……。

――『胎内瞑想』。

これは埴谷雄高が暗黒舞踏の創始者、土方巽について書いたEssay(エつセイ)の題名……。

――『舞踏とは命がけで突つ立つ死体』(土方巽)。

――この湯船の中……、『水』によつて『浮揚』する……『吾』……

――さて、胎児は羊水の中で『浮遊』しながら何思ふ……、ふつ。

 

 

〈現在〉からの遁走の末~The Concrete Jungle

 

外界に於ける「過去」と「未来」が《主体》次第で何時でも転換可能だといふ事、つまり、此の世は《個時空》といふ《渦時空》、例へば《主体》の《個時空》や《地球》の《個時空》や《太陽系》の《個時空》や《天の川銀河》の《個時空》等々のそれぞれの《渦時空》が各々相互作用しながらも個々に存在してゐると考へられるのである。去来(こらい)現(げん)、つまり、過去、現在、未来は私見であるが全て《渾沌》の中で《渦》を巻いてゐるのである。

更に妄想を肥大させるともしかすると此の世には渦状の《螺旋》を形作る《宿命次元》若しくは《運命次元》が《個時空》各々に存在し、その《宿命次元》若しくは《運命次元》が《主体》それぞれを貫いてゐるやうに思ふのである。生物について言へばその《宿命次元》若しくは《運命次元》は《主体》の二重螺旋のDNAと相互作用を及ぼし合ひながら《主体》の生老病死を決定してゐるやうに思へてならないのである。

例へば交通事故で死す人々を思ふと此の世の無情の《不合理》に怒りすら覚へ、『何故あの人が……』と死への疑問を覚へながらも、其の反面、胸奥では『これがあの人の《運命》だ……』と何処かである種の諦念にも似た思ひを抱き変に納得してゐる自分がゐるのであるが、不思議なものであるが《宿命次元》若しくは《運命次元》が確かに存在すると考へれば尚更納得出来てしまふのである。

多分、《宿命次元》若しくは《運命次元》は確かに存在する……

例へば、各々の《主体》の《宿命次元》若しくは《運命次元》が縄を捩るやうに互いに巻き付けばそれは《仲間》やら《友人》やら《恋人》やら《伴侶》やら《家族》やらになる筈で、一方互いの《宿命次元》若しくは《運命次元》が《垂直》に互いの次元をぶつた切るやうに交はればそれは交通事故死のやうに《死》を齎すに違ひないと思はれる……

さて、The Concrete Jungle(コンクリートジやングル)と異名を持つ都市の景色を見渡すと、先づ、《地球》の《個時空》の《現在》たる地肌をAsphalt(アスファルト)やConcreteで蔽ひ此の世を《過去》へ無理矢理に追い遣つて《現在》から遁走してゐるのである。つまり、《主体》は《地球》の《過去》の世界で敢へて《現在》を《永劫》に追い求める《仮象》の中で生きる《倒錯》の中に存在してゐるやうに思へてならないのである。つまり、都市に住む現代人は全て《現実逃避》の中で生きるといふ無責任極まりない生き方をしてゐるのである。そもそも《現実》は不便なもので《便利》とは、即ち《現実逃避》の別名である。そこで、もし自然が今直ぐにでも憤怒の鉄槌を人類に下して人類の数を半減させなければ今の自然環境は打ち壊れ、多分、昆虫と人類以外の殆どの生物は絶滅する筈である。

すると、人類は食料確保の為に《人間狩り》を始め《共食い地獄》に堕ちる筈である。武田泰淳の「ひかりごけ」や大岡昇平の「野火」の地獄を見るに違ひないのである。今のままでは必ず人類は《共食い地獄》に堕ちるしかない――。

さて、《宿命次元》若しくは《運命次元》が重力と深い関係にあると仮定するならば地肌をAsphaltやConcreteで蔽つた都市世界は、もしかすると《宿命次元》若しくは《運命次元》の《力》がAsphaltやConcreteでぶつた切られて羸弱してゐるに違ひないのである。

――さあ、剥がせ! 剥がせ! AsphaltもConcreteも剥がすのだ! でなければ……人類は地獄行きだ! さあ、地の上に直に立たう! でなければ人類は死滅するのみ!

 

 

梵鐘

 

東の窓を不図見上げると秋の十三夜月の仄かに黄色を帯びた柔らかな白色の月光を放つ月が見えたので、その月明かりに誘はれるまま漫ろ歩きに出掛けたのであつた。

これは空耳なのか何処とも知れぬ何処かから「四智梵語」だと思ふがその神秘的で荘厳な声明(しやうみやう)が、始終、聴こえて来るのであつた。

その声明に誘(いざな)はれるままに私の歩は嘗ては門前町として栄えたであらうが今はその面影は全く無く十数か所の寺寺だけが残るとある場所を気が付くと歩いてゐたのであつた。

――『祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。』(平家物語冒頭より)

と、私は無意識に呟いてゐたのであつた。

と、不意に

――ぐわぁ~~ん……わぅ~~ん………うぉ~~ん…………

と何処の寺から美しく余韻を残す梵鐘が聴こえて来たのであつた。

梵鐘の形は《宇宙の歴史》を形象したやうに思へてならないである。《無》からBig Bang(ビつグバン)の大爆発が発生してこの宇宙に膨張・成長されたと考へられてゐるが、梵鐘の天辺に付いてゐる宝珠と竜頭が原始宇宙を表はし、釣鐘本体は今に至る宇宙の歴史を具現化したものに思へるのである。そして、梵鐘の乳の間、池の間、そして草の間は宇宙の歴史で起こつた三度の相転移を見事に表はしてゐて感心一入(ひとしお)である。そして、梵鐘下部の下帯(かたい)は現在の宇宙でその下の駒の爪が宇宙の涯を表はしてゐるのであるとすると、誠に見事といふ外ない。

梵鐘、即ち、《宇宙》である。

――ぐわぁ~~ん……わぅ~~ん………うぉ~~ん…………

この清澄な余韻ある美しき響きは音波たる《波》、即ち、物理学の「拾次元超ひも理論」若しくは「拾壱次元超重力理論」若しくは「余剰次元の宇宙論」等等の具現化に思へなくもないが、さて、物理数学はこの宇宙を将来「説明」出来るのか……。

…………

…………

月光の下の墓場は神聖な美しさと此の世を映す《猥雑さ》に満ちてゐる。私は墓場が大好きで昼夜問はず己を律するときには必ず墓場を訪れるが――その所為で頻繁に私には《霊》が憑依し《霊》が去るまで《重たい》身体を引き摺るやうに過ごしながら、そして、大概《霊》は毎晩《夢》で私と何やら問答をし、納得してかその問答に飽きてかは解らぬが一週間程して私の右足の皮膚を破つて出て行くのである。勿論、私の右足には《霊》が破いた皮膚に傷が残される事になるのであるが――、その時も寺寺の境内の墓場に歩を進め巡り歩いたのは勿論の事である。墓場は大概綺麗に清掃されてゐるが、しかし、《生者》に《見捨てられた》墓所の前に来ると墓碑若しくは墓石が何やら《泣いてゐる》やうに感じられ、よくよく見ると何十年にも亙つてその墓を親類縁者の誰一人も参りに来てゐないのがその墓所の《姿》から察しがつくのである。私はさういつた墓には合掌し鄭重に一礼するのを常としてゐるのであつた。

さて、とある寺に着くとその寺の本堂の扉は全て開かれて内部は三本の和蝋燭の燈明の灯りのみで宵の闇に照らし出されてあつたのである。私は本堂の入り口に来ると

――すみません。失礼します。

と、大声で声を掛けたが何時まで経つてもその静寂は破られることは無かつたのであつた。

――お邪魔します。

と言つて私は本堂に上がり御燈の前に正座したのであつた。前方にはこの寺の本尊なのかもしれない然程(さほど)大きくも無く朴訥と彫られた古びた阿弥陀仏が鎮座なさつてをられたのである。

――自在……

これは仏像を見ると必ず私が胸奥で呟く一言である。暫くその阿弥陀仏に見入つてゐると不意に声明(しやうみやう)と共に誰かの声が聞こえたのであつた。

――未だ具足なれざる者、《吾》は《自在》か。

――《自在》です。

――此の場で朽ち果てるのみでもか。

すると一陣の風が本堂の中を通り過ぎ和蝋燭の炎がゆらりと揺れたのであつた。当然、阿弥陀仏もゆらりと揺れたやうに見えたのであつた。

――あなた様は絶えず《動いて》らつしやるではありませんか。今もさうです。ゆらりと動きなさいました。

――はつは。お前の《錯覚》じや。何故《吾》《自在》なるか。

――《内的自由》。あなた様は《自由自在》、《変幻自在》です。あなた様の《内的自由》は《無限》だからです。

――小賢しい。《吾》不自由故に《自在》なり。《無限》是《無》乃至《空》なり。色即是空、空即是色なり。

――ぐわぁ~~ん……わぅ~~ん………うぉ~~ん…………

と何処で再び梵鐘が鳴り響き、そして、何時までも声明(しやうみやう)は消えることは無かつたのであつた。

 

 

機織(はたおり)

 

私の幼少時に他界した父方の祖母の思ひ出と言へば紬(つむぎ)の機織である。繭を重曹を加へた湯に浸したところから始める糸つむぎ、そして絣(かすり)くくりされ職人によつて丹精に染められた糸をゐざり機で一心不乱に織る祖母の姿が私の瞼に鮮明に焼き付いてゐる。

糸つむぎ――祖母の自在に糸をつむぐ手は子供の私からすると『魔法の手』であつた――は、盥一杯の繭から作られた真綿の山に『渦』を作り細く捻つた『螺旋』状の『四次元』の細い糸を人力で作る作業である。この作業は女性に限られてゐた。女性の唾液が糸つむぎには一番であつたのである。

そして機織である。経糸(たていと)――英語で言へば話題のwarp――は上糸640本、下糸640本の計1280本の『四次元』の糸を整経し緯(よこ)糸(いと)を杼(ひ)を使つて一本一本ゐざり機を足で自在に操り紬を織つて行く。これまた祖母は『魔法使い』であつた……。

…………

…………

さて、機織は『宇宙創成』の御業である。更に言へば日本の和服、それも特に女性の絹織物全ては世界でも屈指の『宇宙創成』の結果生まれた傑作品である。それは何故かと言へば『螺旋』状の『四次元』の何本もの糸で織り上げられた着物はそれ自体『X次元』の『宇宙』で、そして着物には『柄』として『森羅万象』が織り上げられ、または染め上げられてをり、光をここでBulk(物理学での高次元空間全体のこと)を自由に動けるBulk粒子と見立てれば最先端の理論物理学が言ふ宇宙論が着物にぴたりと当て嵌まつてしまふのである。

和服を見事に着こなした女性が都会の雑踏の中に一人現はれただけでそこの雰囲気は一変する……。

衣紋掛けに掛けられた『開いた宇宙』の状態の着物はそれはそれで美しいのであるが、『主(あるじ)』、つまり、『宇宙の主(あるじ)』のゐない着物は詰まる処『もの』でしかないが、『宇宙の主』がその着物を纏つて『閉ぢた宇宙』の状態になると着物を着た女性が存在するだけで世界は一変するのである。そして、着物を着た女性は『美の女神』に変貌するのである。

少なくとも『宇宙』は着物の数だけ『宇宙内』に存在する。つまり、『宇宙』はUniverseではなくMultiverse(物理学での宇宙の中に互いに相互作用するか、するとしても極度に弱くしか相互作用しない別々の領域があるとする、今のところ仮説上の宇宙)である。

即ち、最先端の宇宙論は多神教の世界観といふことである。

 

 

影踏み

 

梨地の型板硝子が嵌め込められた東の窓から満月の皓皓と、しかし、散乱する月光が視界に入つてしまふともうどう仕様もない。これは中学時代に梶井基次郎の「Kの昇天」を読んでしまつたことが原因なのだ。

私はいつものやうに或る小さな川の橋上で影踏みをする為に満月の月光の下、家を出たのであつた。

満月の月光による影は「Kの昇天」で記されてゐるやうに最早影ではなく「生物」若しくは「見えるもの」である……。

その影踏みはいつもこんな風である。「Kの昇天」にあるやうに影踏みは満月が南中する時刻、つまり影が一番短い時刻に限るのである。それまでの間は私は川面に映る満月をじつと視続けながら《時間》といふものに思ひを馳せるのが常であつた。

――川は流れ……水鏡に映る満月は流れず……。私もまたこの水鏡に映る満月のやうに《時間》の流れに乗れずに絶えず《時間》に置いて行かれる宿命か……。《存在》する以上《時間》の流れに乗れないのは、さて、《自然の摂理》なのか……。

…………

…………

――物理量としての《時間》、そこには勿論、itcと表はされる《虚時間》も含めてdtとして微分可能なものとして現はれる物理量としての《時間》は、さて、一次元構造ではなく……もしかすると∞次元として表はされるべき《物理量》ではないのか……すると、ふつ、物理学は最早物理学ではなくなつてしまふか……。

…………

…………

――《時間》の流れに見事乗りおおせた《もの》は恒常に《現在》、つまり、《永遠》を掌中にするのだらうか……。つまり、《瞬間》を《無限》に引き伸ばしたものが《永遠》ではなく……恒常に《現在》であることが《永遠》の定義ではないのか……。しかし……恒常に《現在》であるものにも《個時空》は存在し……《永遠》を目にする前に《自己崩壊》する《運命》なのか……。

等と湧いては不意に消え行く思念の数々。この思念の湧くがままの《時間》こそ私の至福の《時間》なのであつた。

さて、満月が南中に達する頃、私は手には必ず小石を持つて徐に立ち上がる。そして、橋上の真ん中に位置すると私は私の影を暫くじつと凝視し影が《影》でなくなる瞬間に手にした小石をその《影》の顔目掛けて投げつけるのであつた。

これが影踏みを始めるにあたつての私流の儀式なのである。石礫を私に投げつけられた《私》の胸中に湧いてくる何とも名状し難い哀しい感情のまま、私は右足から影踏みを始めるのである。その《時間》は哀しい自己問答の時間で、「Kの昇天」のやうな陶酔の《時間》では決してなかつたが、私は今もつて満月下の影踏みは止められないのである。

――《吾》、何者ぞ、否、《何》が《吾》か。

――ふつ、豈図らんや、そもそも《吾》、夢幻なりや……

 

 

考へる《水》 参 ‐ 『神輿、また、文楽』

 

この極東の日本では神が御旅所等へ渡御する途中に一時的に鎮まる輿を《神輿》と名付けてゐて、それは人間、特に氏子が《担ぐ》ことで《神》は《神》として《在る》のである。

西欧などの一神教の世界観では《神》は天上の玉座から一歩なりとも動かず、まるで《糸》を地上に垂らして《人間》をその《糸》で《操る》が如くであるのに対して、この極東の日本では《神》はこの地上に舞ひ降りて《人間》と《対等》の《位置》に鎮座ましまするのである。

一例であるが西欧ではMarionette(マリオネツト)、つまり糸操り人形があるが、これは《人間》が上部で下部の《人形》を糸で《操る》のである。

これだけでもこの極東の日本と西欧では《神》の居場所が全く異なり、つまり、その世界観の《秩序》が全く異なつてゐるのである。

さて、神輿によく見られる左三つ巴の紋様は《渦》紋様の一つであるが、仮に此の世が右手系であるならば右螺旋(ねじ)の法則の如く天から、或ひは森羅万象から注がれる《神力》が左三つ巴紋を通して神輿に《輻輳》し神輿の担ぎ手並びに此の世の衆生全てにその《輻輳》した《神力》が遍く振り撒かれることになるのである。

即ち、この極東の日本では《神々》は衆生の中に何時でも《居られる》のである。

別の例でいふと三位一体といふものがある。西欧などの一神教の三位一体は《父と子と聖霊》といふ、其処にはどうしても抗ひ切れない《縦関係》が見て取れてしまひ、それが一神教における《絶対》の《秩序》であるが、この極東の日本で三位一体と言へば文楽の太夫、三味線、そして人形遣ひの《三業》による三位一体が思ひ起こされるが、さて、ここで文楽の人形を《神》に見立てるとこの極東の日本の世界観が俄に瞭然となるのである。

ところで、出来映えこの上ない極上の文楽を観賞してゐると太棹の三味線の音色若しくは響きと太夫の浄瑠璃語りと人形遣ひの妙技による人形の動きが見事に《統一》若しくは《統合》された《完璧》この上ない《宇宙》が浄瑠璃の舞台に現れるのである。勿論、観客も《一体》となつたその《宇宙》は《極楽》に違ひないのである。

それはまさしく漣一つない水面に一滴の雫が落ち、誠に美しい《波紋》がその水面に拡がるが如しの唯一無二の完璧な《宇宙》が此の世に出現するのである。それはそれは見事この上ない世界である。

 

 

時計

 

私の部屋には電池を交換するとき以外一時も休むことなく《渦》を巻き続けてゐるものがある。さう、長針、短針、そして秒針があるAnalog(アナログ)の時計である。この時計とはもう二十数年来の付き合ひである。当然、この時計も一度は私の手で分解され再び組み立てられた代物である。私は幼少時より時計も含めておもちやの類やちよつとした機械は必ず分解してみないと気が済まない性分なのである。これは如何ともし難く、しかし、それでゐて殆どが再び組み立てられずに唯のがらくたに成り下がつたもの多数である。それでも分解は止められないのであるが、最近は電子基盤に電子部品が何やら地図のやうに貼り付けられた電子機械ばかりで分解の仕様もなく、私にとつて機械のBlack box(ブラつクボつクス)化は誠に欲求不満を募らせるどう仕様もない唯の《物体》でしかなく、其処に愛着といふ《魂》が全く宿らない代物なのである。

さて、しかし、時計の針が動く様を凝視してゐた在る時、不意にこの時計の針を無限大にまで引き伸ばしに引き伸ばしたならば、さて、時計の針は進めるのだらうか? といふ疑問が湧いたのであつた。例へば秒針が無限大の時、一秒針が進むのでさへ∞の円周を秒針は回転しなければならない筈である。さて、さて、Aporia(アポリア)の出現だ。

其処で私の思考はx0 = 1(x > 0):0より大きい数の 0乗は 1 となるといふ処へ飛んだのであつた。ここで時計の針を無限大にまで引き伸ばすのは断念せざるを得ないのではないかといふ考へが閃き、つまり、時計の針を引き伸ばしても針が進める境界域が存在し、それが個時空ではないのかといふ考へに思ひ至つたのであつた。その個時空ではx0 = 1(x > 0):0より大きい数の 0乗は 1 となるといふ、時空の大河に生じた時空のカルマン渦といふ個時空が存立する。そして、其の個時空の境界外は∞の0乗の世界ではないのかと考へたのである。即ち、その∞の0乗がこの宇宙を流れる時空の大河の正体に違ひないと直感したのであつた。そして、∞の0乗が一になつた瞬間この宇宙は死滅する。私は常々x0 = 1(x > 0):0より大きい数の 0乗は 1 となるといふことは《死》を意味してゐると看做して来たのである。0乗は生の一回点、即ち、一生の終着点といふ《死》を意味してゐると看做して来たのであつた。それ故∞の0乗が一になつた瞬間にこの宇宙は死滅するのである。

更にこの個時空といふ考へに従ふと、物理学を始めとするこれまでの時間の扱ひ方――私は常々この時間の扱ひ方が時間を侮蔑してゐると考へてゐる――からすると

 

 

 

で定義されるストークスの定理は必然であつて、さて、物理数学がストークスの定理以上に《渦》に接近な出来ない以上《渦》にお手上げなのは必然なのである。

さて、時間が進むといふ事は時々刻々とx0 = 1(x > 0):0より大きい数の 0乗は 1、即ち、xで《象徴》されてゐる微小な微小な小さな小さなxといふ零の形をした《渦》状の《存在》であるところの小さな小さな小宇宙が一つ消滅してゐるといふ事であつて、つまり、時々刻々と《宇宙》が消滅し続けてゐるのである。将に此の世は《諸行無常》である……。

 

 

蝙蝠(こうもり)の番(つがひ)、雪中に舞ふ

 

私個人の身に起こつた或る出来事と相前後する数年間、我が家の屋根裏に先づ、多分、雄の蝙蝠が棲み付き、そして、翌年、雌の蝙蝠も棲み付き、それから数年間、私を見守るやうにその番の蝙蝠が屋根裏に棲み付いたのであつた。その番は毎年、子を育み時折私の様子を窺ふ為にか私の部屋に何度も潜り込み暫く私と蝙蝠の追い駆けつこを愉しんだ後に私が素手でその、多分、雄の蝙蝠を捕まへるのを常としてゐた。

私の素手の中のその愛くるしい蝙蝠は思ひの外温かくビロードのやうなその毛並みがとても心地良く、また、素手の中でその蝙蝠は逃げやうとも、暴れることもなく、抛つて置けばずうつと私の素手の中に居続けてゐたかのやうな具合で、私とその蝙蝠の番とは人知れぬ絆のやうなものが芽生えて行つたのであつた。

例へば夕刻、燕と入れ替はるやうに田圃へ補虫しに行く時などは埴谷雄高著『死霊(しれい)』の登場人物である運河沿ひの屋根裏部屋に住む黒川健吉と蝙蝠の関係を思はずには居られないのであつた。我が家の屋根裏に棲み付いた蝙蝠の番は「挨拶」はしなかつたが、がさごそと屋根裏で物音を態と立てて捕食に飛び出して行くのであつた。

――今日も餌を捕りに出掛けたか。

と、毎日その蝙蝠の番の動向を気に掛けながらの何とも愉しい日々が続いたのであつた。そんな日々の中には蝙蝠の番の子育ての奮闘の日々も当然含まれてゐる。それは不思議なことであるが子が生まれたからといつて屋根裏の物音は変はらないにも拘はらず《気配》で子が生まれ今乳を飲んでゐる等眼前でその様子を見てゐるが如く解つたのであつた。今考へてもそれは摩訶不思議なことである。

さて、さうかうする内に私の身に運命を左右するほどの重大至極な出来事が起こつたのである。その時期私は心身共に疲弊困憊の状態に陥つたが、蝙蝠は時々私の様子を窺ひ愉しませる為にか私の部屋に潜り込んでは私を元気付けてくれたのである。

そんな日々が数年続いた後、この地方では珍しく十二月に大雪が降つた在る日のことであつた。

真夜中にその雪明りの白黒の荘厳美麗な世界が見たくて南側の窓を開け一面の銀世界に目を遣ると蝙蝠の番が何やら求愛のDanceのやうな情熱的ながらも華麗で優美に飛翔し舞つてゐるのであつた。それはそれは一面の銀世界に映えて美しいの一言であつた。

その時、私はそれはこの天の川銀河と何億年後かには衝突する筈のアンドロメダ銀河の輪舞を見るやうな錯覚に陥つたのである。そのアンドロメダ銀河との衝突時には既に太陽系も人類も此の世から消滅してゐる筈だが、しかし、星々が爆発的に誕生するStar burst(スターバースト)で生まれた何処かの恒星の水の惑星で再び生命は誕生し、死滅した人類の外、此の世に存在した全生物の意思若しくは思念を受け継ぐ形で生命が新生する世界が出現する筈であらう等等想像しながら蝙蝠の番の美しい舞ひに見入つてゐたのである。

すると、その蝙蝠の番は互ひに旋回しながらゆるりと上昇し、不意に雪明りの闇夜の中に消えたのであつた。それは私への別れの舞ひだつたのである。

私はといふと蝙蝠の番が消えた闇夜の虚空を凝視するばかりであつた……。

 

 

太虚、吾が頬を撫でしや

 

※   註 太虚(〈広辞苑より〉【たいきよ】:①おおぞら。虚空。②宋の張載の根本思想。窮極なく、形なく、感覚のない万物の根源、即ち宇宙の本体または気の本体。)

 

激烈で豪放磊落なる稲妻の閃光を何度も地に落とし轟音で地上を震はせた末にやつと巨大な雷雲が去り往く其の時、吾は南の太虚を見上げし。其処には未だ黒雲が地を舐めるが如くに垂れ籠め、北へ向かつて足早に流れし。其の様、将に太虚が濁流の如き凄まじきものなり。巨大な大蛇の如くとぐろを巻く其の濁流が如き上昇気流は地に近い程流れ行く其の速度は遅くなりし故、一塊の山の如し黒雲が其の気流より取り残され、更に其の黒雲の一部が千切れ、そして、それが取り残され、其の場に留まりし。あな、不思議なりや。其の取り残されし黒雲、見る見るうちに半跏思惟像の菩薩に変容せしなり。すると

――悔い改めよ、悔い改めよ。

と其の菩薩が説法せし声が吾に聞こえるなり。

――すは。

其の黒雲の菩薩、忽然と吾に向かつて動き出しや。

――悔い改めよ、悔い改めよ。

其の黒雲の菩薩、凄まじき速度で吾の上空を駆け抜けるなり。と、突然、辺りは漆黒の闇に包まれ、吾もまた其の闇に溶けしか。其処では既に自他の堺無く、唯、漆黒の闇在るのみ。

――あな、畏ろしき、畏ろしき。

吾、瞼を閉ぢ、只管に祈りしのみ。

――吾を許し給へ。吾、唯の凡夫なり。吾が生きし事自体罪ありと日々懺悔セリなり。あな、吾を許し給へ。

――莫迦め。はつはつはつ。

と、其の刹那、一陣の風が吹きしか、吾の頬を慈悲深く温かき御手が優しく優しく撫でし感覚が体躯全体に駆け巡るなり。そして、閉ぢし瞼の杳として底知れぬ闇に後光が射す幻影を覚え、遂にその後光、佛顔に変はりし上は、吾、既に不覚にも卒倒せしやもしれぬ。

さうして、漸くにして吾、瞼をゆるりと開けるなり。太虚を見上げると、既に雲は晴れ上がり半月の月光が南中より吾に射せり。

さて、太虚、吾の頬を撫でしや。さてもしや、吾、夢の中にて彷徨ひしか……。

 

 

或るゴキブリの辞世の念

 

私はそもそも食べ物以外生き物の殺生は嫌ひであるが、御勝手のゴキブリとぶ~んと私の血を求め私を襲ふ雌の蚊だけは罪悪感を感じながらも駆除してゐる。

ところが或る初秋の日に御勝手からは少し離れた所にある私の書斎を兼ねた部屋に一匹の多分雄のゴキブリが潜入して来たのであつた。水もなければ食料もないので直ぐにそのゴキブリは私の部屋から去るだらうとそのまま放つて置いたがそのゴキブリは一向に私の部屋から去らうとせずゐたのであつた。そもそも昆虫好きの私にはゴキブリもまた愛すべき昆虫の一種に違ひなく、御勝手にさへゐなければ別段駆除すべきものではないのである。むしろ、私はそのゴキブリをまじまじと凝視しては

――成程、ゴキブリは神の創り給ふた傑作の一つだ。素晴らしい。

等とゴキブリの姿形に見惚れるばかりなのであつた。ところがである。

――何故このゴキブリは逃げないのか。

実際、このゴキブリは私が凝視しても全く逃げる素振りすら見せず、触覚をゆらゆら揺らしながらむくりと頭を上げ、ゴキブリの方も私を観察してゐるのみでその場から全く逃げずにむしろ何やらうれしさうにも見えるのであつた。この時私は胸奥で

――あつ。

と叫んだがそれが正しいのかはその時は未だ解らなかつたのでそのゴキブリの覚悟を見届けやうとそのゴキブリをそつとして置いたのであつた。

そして、矢張りであつた。そのゴキブリはその時以来私から付かず離れずの絶妙の間合ひで私から離れやうとはしなかつたのである。

私はその部屋に布団を敷いて寝起きをしてゐるが、そのゴキブリは私の就寝中は私の頭の周辺に必ずゐるらしく、私はゴキブリの存在を頭の片隅で意識しゴキブリの気配を感じながら何時も眠るのであつた。

――全く!

そのゴキブリは難行中の僧の如く勿論飲まず喰はずの絶食を多分愉しんでゐた筈である。例へてみればそれは難行を続ける内にやがては薄れ行く意識の中、或る種の臨死体験にも似た《恍惚》状態に陥り、その《恍惚》を《食物》にしてその《恍惚》に更に耽溺してゐるとでもいつた風の、死を間近にしての《極楽》を思ふ存分に心行くまで味はひ尽くしてゐた悦楽の時間であつた筈である。

そんな風にして数日が過ぎて行つた。

そして、そのゴキブリと出会つてほぼ一週間経つた或る夜、就寝中の私の脳裡に忽然と巨大な巨大な巨大なゴキブリの頭が出現したのに吃驚して不図眼を醒ますとゴキブリは私の右腕に乗りじつと私を見てゐるらしいのが暗中に仄かに解るのであつた。

――入滅か……。

と、私はその時自然とさう納得したのであつた。そして、あの脳裡に出現した巨大な巨大な巨大なゴキブリの頭が何を意図したものなのかを考へながらもそのまま再び深い睡眠に陥つたのである。

朝、目覚めると最早あのゴキブリの存在する気配は全く感じられなかつたのであつた。

それから数日経つた或る日、何かの腐乱した異臭が雑然と雑誌やら本やらが平積みになつてゐる何処からか臭つて来るのであつた。果たして、雑誌の下で仰向けになつて死んでゐたあのゴキブリが見つかつたのであつた。私はその亡骸を鄭重に半紙にに包んで塵箱の中にそつと置いたのであつた。それ以来、私は昆虫もまた小さな小さな脳で思考する生き物と看做したのである。一寸の虫にも五分の魂とはよく言つたものである。

さて、ところであの死の間際の巨大な巨大な巨大なゴキブリの頭を現時点で私なりに解釈を試みると、私に対する自慢、恍惚、憤怒、清澄等等が一緒くたになつた言葉無き昆虫の《思考》の形と看做せなくもないのである。実際のところ、私自身が死ぬ間際にならないと本当のところは解らないが、さてさて、あのゴキブリはしかしながら見事に私の脳裡に巨大な巨大な巨大なゴキブリの頭を刻印して、その存在の証を残すことに成功したのであつたが、私はそれに多少なりとも羨望してゐるのは間違ひない……。

 

 

Laser(レーザー)光の悲哀

 

時折河原を宵闇の中逍遙してゐる時に天空に向かつてLaser光が発振されてゐるのを目にすることがあるが私にはそれがとても切ないのである。

それは何故かと考へるのだが、どうやら人間によつて無理矢理に此の世に出現させられた上に光共振器内で増幅されつつ二枚の鏡の間を何度も何度も往復するといふ、それを例へて言つてみれば合せ鏡の中に突然置かれ二枚の鏡に向かつて全速力で突進し、鏡にぶち当たる度に『定常波』といふ平準化される宿命を負ひ、其処で目にするものと言へば唯唯《己と仲間の哀れな姿》のみであるといふ切なさ、更に言へば光共振器から発振されてからも《直進》することを運命づけられた哀しさ等等、Laser光は哀しさに満ちてゐる。

一度Laser光が発振されると反射、散乱させる物質がその進路に存在しなければ《無限》に向かつて進むことがLaser光の宿命である。その中には一緒に発振させられたが直進することから《脱落》する《仲間の光》の《宿命》さへをも背負ひ続け唯只管に《無限》の彼方に向かつて進まざるを得ない哀しい《宿命》、これは《永劫》に長い直線道路をマラソンする人々に似てゐる。その虚しさは計り知れないのだ。

尤も、この宇宙が閉ぢてゐるとすると一度発振され《脱落》せずに《無限》に向かつて進み続けたLaser光はあはよくば何百億年後かに元の場所に戻つて来る筈であるが、さて、しかし、その時既に発振された場所、つまり、人類も太陽系も此の世から消滅してゐるとすると尚更Laser光は哀しい存在である。さう、一度発振されたLaser光は《永劫》に此の世を《直進》しなければならない何とも何とも哀しい存在なのであるる

またLaser光の一条の閃光が天空に向かつて発振された……。

――底なしの哀しさとは彼らLaser光の為にあるのか……。

そもそも職人の手以外に強制的に人間の愚劣な《便利》のためにある機能を背負はされ此の世に生み出される電化製品等はLaser光のやうに哀しい存在である。その製造段階では金型職人等の何人かの職人は関わるには関わるが、それは極々少数で、例へば徹頭徹尾職人の手になる万年筆や陶磁器などに比べると工場で生産された製品には愛着といふ《魂》が宿らず哀れである。それら工業製品はDesign(デザイン)といふ意匠を仮面の如く付せられるが、その薄つぺらさがまた哀れを誘ふのである。

人工物は職人の職人気質といふ《魂》が籠つてゐなければそもそもが哀しい存在である。

すると、此の世の現代的で先進的な生活は悲哀に満ちてゐることがその前提といふ誠に誠に哀しい現状に人間は置かれてゐるのであるが、それに気付かぬ振りをしてか人間は《現代》の哀れな存在物の中で《文明的》に生活するこれまた哀れな存在である。つまり、極端なことを言へば他者が考へた製品や建築物や街並み等等といふ《他者の脳内》に棲むのが人間といふ哀れな生き物である。

――さて、ドストエフスキイ著「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフが接吻した《大地》は何処に消えたのか……。

――ふふ。人間は既に《他者の脳内》といふ世界を造り上げ其処に引き籠つてしまつたのさ。生の《大地》といふ《現在》からの遁走が人間には心地良いのさ。

――そんな馬鹿な事が……。

――実際、生の《大地》といふ《現在》とは距離が生じた《文明的》である《過去》へ逃げ込んだのさ。ふつ。考へてもみ給へ。面倒臭い《不便》な《現実》を誰が好む? 《便利な生活》といふ《現実逃避》こそ人間の《夢の世界》なのさ。

――そんな馬鹿なことが……。それでは尋ねるが《現実逃避》した《現代》に生きる実感はあるのか?

――ふつ。人間はもう既にそんなものなど望んでなぞゐない。何しろ《文明》といふ甘い蜜の味を、それが失楽園とも知らず知つてしまつたからな。

――それでは人間は生きることをとつくに已めた哀れ極まりない生き物に成り下がつてしまつたのか……。

――ふつ。さうさ。人間は生きながら死ぬといふ離れ業を生きる奇妙奇天烈な生き物に《進化》したのさ。嗚呼、哀れなるかな、人類は……。

またLaser光の一条の閃光が天空に向かつて発振された……。

 

 

考へる《水》 四 ‐ 『隧道(ずいだう)、そして瀑布』

 

隧道(Tunnel)は閉所恐怖症の為かどうも苦手であるが、或る日、壮観な大瀑布が見たくなつて或る滝を見に出掛けたのであつた。

時空間が円筒形に巻き上げられ《現在》の中のみに身を曝し唯唯隧道の出口に向かつて進むのみの或る種《一次元》世界に閉ぢ込められたやうなその隧道の入口に立つと、さて、これは産道を潜り抜けて此の世に《生》を授けられたその瞬間の遠い遠い記憶を呼び起こすのか、または茅の輪くぐりの如く厄を祓ひ《新生》する儀式にも似た《生まれ変はり》を無理強ひするのか、或る種の異界への入口のやうな暗い隧道に対して或る種の恐怖心が不思議に沸き起こつて来るのである。

それは《現在》のみに身を曝すことが即ち《不安》若しくは《猜疑心》を掻き立てるといふ事でもあつた。

ええい、儘よ、と、私はその隧道の中へ歩を進めた。

隧道に溢れ出た地下水が岩盤が剥き出しのままのその隧道の壁面を伝つて流れ落ちる様を見るにつけ、矢張り隧道の中は気味が悪い、が、しかし、《現在》とはそもそも気味が悪いものである。ほんの百メートル程しかないその隧道の明るい出口からは水が流れるせせらぎの音が聞こえて来るのを唯一の頼りに私は足早にその隧道を通り抜けたのであつた。

――ふ~う。

眼前には別世界が拡がつてゐた。其処は渓谷の断崖絶壁の上に築かれた細い道で渓谷の底には清澄極まりない美しい水が渓流となつて流れてをり、彼方からは滝壺に崩落する水の音が幽かに聞こえて来た。

くねくねと曲がつたその細い道を歩き続けて行くと忽然と一条の垂直に水が流れ落ちる滝が視界に出現する。それはそれは絶景である。

さて、滝壺のすぐ傍らまで来ると滝壺に叩き付けられ捲き上がつた水飛沫が虹を作り、さて、百メートル程の落差があるその大瀑布たる滝を見上げると、私はたちどころに奇妙な感覚に捉はれるのだ。普段は水平に流れる川の流ればかり見てゐる所為か巨大な垂直に流れ落ちる水の流れに愕然とし、その感覚は或る種の《敗北感》に通じるものである。それはドストエフスキイ著「白痴」の主人公、ムイシゆキン公爵が病気療養で滞在してゐたスイスの山で見た滝に対した時の感覚にも似てゐるのかもしれない。

其の感覚は言ふなれば無気味な《自然》に無理矢理鷲摑みにされ何の抵抗も出来ぬ儘唯唯《自然》の思ふが儘に弄られた羸弱なる人間の限界を突き付けられ、唯唯茫然と《自然》に対峙する外無い無力な自身を味はひ尽くさねばならない茫然自失の時間である。

――他力本願。

といふ言葉が巨大な滝を見上げながら不意に私の口から零れ出たのであつた……。

――この自然を文明に利用出来、支配出来ると考へた人類は馬鹿者である。

私の眼には絶壁を自由落下する水の垂直の流れがSlow motionの映像を見るが如くゆつくりとゆつくりと水が砕けながら流れ落ちる様が映るばかりであつた……。

 

パスカル著「パンセ」(【筑摩書房】: 世界文学全集 11 モンテーニゆ/パスカル全集)より

四五五

自我は嫌悪すべきものである。ミトンよ、君はそれを隠しているが、隠したからといつて、それをしりぞけたことにはならない。それゆえ、君はやはり嫌悪すべきものである。

――そんなわけはない。なぜなら、われわれがやつているように、すべての人々に対して親切にふるまうならば、人から嫌悪されるいわれはないではないか?

――それはそうだ。もし自我からわれわれに生じてくる不快だけが、自我の嫌悪さるべき点だとすれば、たしかにその通りだ。しかし、私が自我を嫌悪するのは、自我が何ごとにつけてもみずから中心になるのが不正であるからであるとすれば、私はやはりそれを嫌悪するであろう。

要するに、自我は二つの性質をもつている。それは何ごとにつけても自分が中心になるという点で、それはすでにそれ自身において不正である。また、それは他の人々を従属させようとする点で、他の人々にとつて不都合である。なぜなら各人はの自我はたがいに敵であり、他のすべての自我に対して暴君であろうとするからである。君は、自我の不都合な点を除き去りはするが、その不正な点を除き去りはしない。それゆえ、自我の不正な点を嫌悪する人々に対して、君は自我を愛すべきものとさせることはできない。自我のうちに自分たちの敵を見いださない不正な人々に対してのみ、君は、自我を愛すべきものとさせることができるにすぎない。それゆえ、君は依然として不正であり、不正な人々しか悦ばせることができない。

四五八

「おおよそ世にあるものは、肉の欲、眼の欲、生命の誇りなり。感ぜんとする欲、知らんとする欲、支配せんとする欲。」これら三つの火の川が潤おしているというよりも燃えたつている呪われた地上は、何と不幸なことであろう! これらの川のうえにありながら、沈まず、まきこまれず、確乎として動かずにいる人々、しかもこれらの川のうえで、立つているのではなく、低い安全なところに坐つている人々、光が来るまであえてそこから立ちあがろうとせず、そこで安らかに安息したのち、自分たちを引きあげて聖なるエルサレムの城門にしかと立たせてくれる者に、手をさしのべる人々は、何と幸福なことであろう! そこではもはや傲慢が彼らを攻め彼らを打ち倒すことはできないであろう。それにしても、彼らはやはり涙を流す。それは、すべての滅ぶべきものが激流にまきこまれて流れ去るのを見るからではなく、その永い流離のあいだたえず思いつづけてきたなつかしい彼らの祖国、天のエルサレムを思い出すからである。

 

四五九

バビロンの河は流れ、落ち、人を引き入れる。

ああ、聖なるシオンよ。そこにおいては、あらゆるものが永存し、何ものも落ちることがない。

われわれは河の上に坐らなければならない。下でも、中でもなく、上に。また、立つていないで、坐らなければならない。坐ることによつて、謙遜であるために。上にいることによつて、安全であるために。だが、われわれはエルサレムの城門では立ち上がるであろう。

その快楽が永存するか流れ去るかを見よ。もしも過ぎ去るならば、それがバビロンの河である。

 

 

崖上にて

 

この頬を掠め行く風の群れの中にもしや鎌鼬達が身を潜め今直ぐにでも私の頬を切り裂くやうな朔風が断崖絶壁のこの崖の壁面を這ふやうに登つて来る中で、多少高所恐怖症気味の私は崖の際に打ち付けられた手摺りに摑まつて漸く下界の景色が味はへるのであつたが、その下界はといふとすつかり冬支度を始めた木々達の紅葉が誠に美しかつたのである。一方この朔風の上昇気流を上手く利用して鳶達が天空をゆつくりとゆつくりと輪を描きながら上昇し悠々と飛翔してゐるのであつた。

――地球の個時空の《現在》たる地表もまた波打ち起伏に富んだ《ゆらぎ》の下でしかその形象を保ち得ずか……。

さうなのである。《現在》とはのつぺりとした《平面》である筈は無く、高峰から海淵までの《現在》のずれが自然を自然たらしめる重要な要素なのは間違ひない。

――それにしても宇宙全体から見れば全く取るに足らぬこの地球の個時空の《現在》のずれは、しかしながら、人類にとつては最早畏怖すべきものであつて人類は自然外では一時たりとも生きられない羸弱極まりない生き物にも拘はらず、未だ反抗期の子供の如く自然に反発してみたはいいが、しかし、その結果人類は人類自身の手で滅亡する瀬戸際に人類自ら追いやつたその馬鹿らしさに漸く気付き始めたが、ところが、それは最早手遅れかもしれないのだ。

…………

…………

山上には古からの山岳信仰と仏教が絶妙に習合した地獄に見立てられた地も極楽に見立てられた地もあるが、成程、下界から見れば山は《過去》でも《未来》でもあり得る聖地に違ひない。死者達の魂が集ひし所でもあり神が棲む、否、山そのものが神たる霊峰として崇められてゐる。

と、突然と突風が私の身体を持ち上げんばかりに吹き付けて来たのである。

――ううつ。このまま眩暈の中に私自身が飛び込んだならば、さて、私は神の懐に潜り込むことで、私が神に成り果せるかな、ふつ。馬鹿らしい。ところが、人類は神に成らうと目論んでゐたのは間違ひない……。その結果が、巨大な墓石の如き鉄筋Concreteで出来た群棟に住む摩訶不思議な《高層族》が出現し、日々其処から誰かしらが飛び降り自殺をするどん詰まりの生活場に人類は引き籠つてしまつた……。さて、千年後、さう、高々千年後、この崖から私が今見てゐる景色を見る未来人は、さて、存在するのであらうか……。

私の心には巨大な穴がぽつかりと開いたのか、下界から吹き付けて来る朔風が私の心に開いたその巨大な穴をも吹き抜けて、私は何やら物凄く薄ら寒い不安の中に独り取り残されたやうに、下界の誠に美しい木々の紅葉を眺めながらも途轍もなく重苦しい孤独の中に独り沈潜して行くのであつた……。

しかし、

――だが……

と、この暗澹たる思ひを全て飲み込むと私は顔をくつと上げ次第に強まる朔風に真つ向から対峙するが如くに鳶が悠然と飛んでゐる虚空を睨み付けるのであつた。

――ふつ、千年後に生き残つてゐるのは何も人類でなくても良いじやないか。

 

 

陰翳――断章 壱

 

マラルメ詩集(【岩波文庫】鈴木信太郎訳)「エロディやド」より

 

おお 鏡よ、

倦怠により その縁の中に氷れる冷かなる水、

幾たびか、またいく時か、数々の夢に悶えて、

底知れぬ鏡の淵の氷の下に沈みたる

木の葉にも似し わが思出を 探し覚(もと)めて、

汝の中に杳かなる影のごとくに われは現れぬ。

しかも、恐し、夕されば、その厳しき泉の中に

乱れ散るわが夢の裸の姿を われは織りぬ。

 

影に一旦魅せられると最早其処から去れぬなり。何故か。それは将に影即ち《物自体》の影を映す鏡也故。

吾、今宵もまた闇の中に埋まりし吾部屋で和蝋燭を点しける。Paraffin(パラフィン)で出来し西洋蝋燭は炎が殆ど揺らがぬ故に味気なし。脈動する陰翳の異形の世界に浸るには之和蝋燭に限るのみなり。

――ゆあゆあ……ぽつぽつ……ゆあゆあ……

と点りける和蝋燭がこの吾部屋の心臓なりし。和蝋燭の炎の強弱絶妙なりし。和蝋燭の炎が弱まりそれ故一瞬の闇に包まれし吾部屋の静寂、ぱつと和蝋燭の炎が強まりしと同時に物皆その面を此の世に現はしきらりと輝きし。其の様、何とも名状し難き趣あり。

――吾、此処ぞ。

――吾も此処ぞ。

――吾もまた此処ぞ。

と物皆、己の存在を無言で表白するなり。さはあれ、然りしも、物皆の陰翳、ここぞとばかりに深き闇に変貌するなりしが、其の闇に溺れし異形の物達もまた無言の煩悶する呻き声を彼方此方で発するなり。

――無限の物の相貌が和蝋燭で生じし陰翳の深き闇の泉の中に生滅しては

――吾、何ぞや。

と哀しき哀しき無言の嘆きに満たされし吾部屋の中、独り、吾もまた

――吾、そもそも何ぞや。

と深き懊悩の中に沈みける。

唯唯、明滅する和蝋燭の揺らげき炎を凝視する中、吾の頭蓋内の深き深き闇に異形の吾が無数に生滅するなり。

――これも吾。あれも吾……。

と、思ひながら、吾、不意に吾暗き頭蓋内に独り残され、怯え顫へる侏儒の哀れなる吾を見つけし。その侏儒の吾が不意に此方を振り向きし時のその面、醜悪なる美といふか、紊乱し醜と美と煩悩とが渾然となりし無様な異形の吾の面に魅入られし吾に対する不快、これ名状し難きなり。

――自同律の不快……。

其の刹那、吾、不敵な嗤ひを浮かべ、侏儒の吾に向け罵詈雑言の嵐を浴びせし。

――ふつふつふつ。

と侏儒の吾も不敵な嗤ひを浮かべ吾を侮蔑するなり……。

吾部屋では独り、和蝋燭のみ恬然と点り続けし……。

――ふつふつふつ。

――ふつふつふつ。

…………

…………

 

 

頭痛

 

私は、脊髄が痺れ、脳髄の芯が麻痺するが如く我慢ならない頭痛にしばしば襲はれるが、しかし、この異常にも思へる頭痛は、此の世に私が確かに存在してゐる事の呻きのやうに思へ、私はこの異常な程の苦痛を伴ふ頭痛を偏愛してもゐる、或る種Masochist(マゾヒスト)なのだらう。勿論、脳波やらCT-Scanやら病院で徹底的に頭痛の原因を精査したが、現代医学ではその原因すら皆目解らず鎮痛剤を処方されて仕舞ひである。

頭痛の時は睡眠時に既に私はそれを感知してゐるらしく何とも不思議な夢ならざる夢もどきの虚ろに移ろい行く支離滅裂な表象のSlow motionに何やら不安を感じて覚醒するが、成程、頭痛かと何時も覚醒時に合点するのが常であつた。さうして私は布団の中に暫く横たはつたまま脳髄の芯から発してゐるであらうその頭痛を我慢しつつも或る種の快楽の中に溺れてゐる自身をじつと味はつては

――吾、此処に在り!

と感嘆の声を胸奥で独り叫ぶのであつた。さうした後に徐に立ち上がり途轍もなく濃い珈琲を淹れ、気休めにその途轍もなく濃い珈琲を一杯出来るだけ早く飲み干すのである。それでも異常な頭痛は治まる筈もなく、しかし、途轍もなく濃い珈琲の御蔭で鮮明になつた意識は頭蓋内の闇に手を突つ込むが如くに私の内部で増大しつつある不安を手探りで探し出してはその不安を握り潰して、更に頭痛の苦痛といふ快楽に溺れるのであつた。

――吾、此処に在り!

その数十分の時間は胸奥で快哉を上げる或る種至福の時間でもあつたのだ。普段であれば鎮痛剤を飲んでそのまま通勤し、一日中その頭痛と格闘しながら仕事に励むのであるが、それが休日であれば、私は鎮痛剤は飲まずひたすらその異常な頭痛の狂おしい痛みといふ快楽に溺れ続けるのが常であつた。間歇的に胸奥で叫ぶ

――吾、此処に在り!

といふ快哉は頭痛の苦痛に苛まれながらも爽快なのである。不安といふ快楽は私にとつて麻薬同然のものなのかもしれない……。この不安と快楽とに大きく振幅する私の意識の状態は何やら私といふ《存在》を揺すつてゐるやうに思われ、さうして揺すつてゐる《存在》から、例へば

――許し給へ。

等といふ言質を取れればもう私の喜びは言はずもがなである。それは私を悩まし続ける《存在》といふ観念をふん縛つて持国天の如くその《存在》を邪鬼の如くに踏み付ける憤怒の形相の《吾》を想像する快楽である。とは言へ、それは一時の妄想に過ぎない。狂おしい頭痛は休む事を知らず、直ぐ様私を襲ひ

――へつ、阿呆の戯言が!

と私の内部でさう発する声に私は一瞬で打ちのめされるのであつた。さうやつて私は日がな一日絶望と歓喜の間を振幅しながら独り己といふ《存在》と格闘するのであつた。

――吾、此処に在り!

…………

…………

――其、《存在》を吾ふん縛る!

…………

…………

――へつ、阿呆の戯言が!

…………

…………

 

 

考へる《水》 五 ‐ 『円柱、また、塔』

 

エジプトやギリシア、そしてイタリア等の古代遺跡跡に今も立つ円柱を思ふと巨大な石造りの建造物が権力や富の象徴として君臨してゐたことが窺ひ知れるが、さて、其処でその巨大な石造物を支へてゐた円柱群の林立する写真等を目にすると、其処に人間の浅墓さと共に何やら構築せずにはゐられない人間の性のやうなものが去来する。

地に屹立する円柱群。そして、その上にあつたであらう石造りの豪奢な天井若しくは人工天上。それら円柱群が時空間を人間の思ひのままにぶつた切り人造の絢爛豪華な時空間を支へる円柱は、その淵源を辿ると母胎を支へる子宮に通ずるやうに思へるのだ。つまり、地に屹立する円柱の長さ分、神の坐す天上界を人間界にずり下げ、母胎内で無意識に思ひ描いてゐたであらう理想郷を人間は築かずにはゐられないのだ。それは正に泡沫の夢である。何故ならば円柱が地に屹立する遺跡の写真は建築物が永遠のものではなく《崩壊》した事を如実に示してゐる。それはまるで、人間もまた何時までも子宮内に留まれずに此の世に出生させられるのと同じやうに……。それは何とも儚く諸行無常といふ言葉を思ひ起こさせるのである。

――さて、自然もまた自己崩壊する運命にあるのであらうか……。

ところで、建造物は何時の世も人間が思ひ描く《宇宙》の縮図である。私にとつて今のところ最高の《宇宙》の縮図は私の幼少時の私の祖父母の家である。それは茅葺屋根の家であつたが其処にゐる心地良さは今もつて味はつたことのない至福の時間であつた。そして、もう一つ《宇宙》の縮図を挙げればそれは法隆寺の五重塔である。カフカが生きてゐた迷宮のやうなプラハやブダペストなどオーストリア・ハンガリー帝国の都市を除くと石造りの西洋の街はどうも私の性に合はないが、木造建築で現存する最古の法隆寺の五重塔は諸行無常にあつて何やら微かではあるが恒常不変にも通じる深遠なる何かを指示してゐるやうで、私は五重塔を見る度に感慨に耽るのである。

さて、法隆寺の五重塔や建築については後の機会に譲るとして、しかし、塔と言へば私は即座にノーベル文学賞受賞者でアイルランドの詩人兼劇作家のイェーつの「塔」といふ作品が思ひ起こされるのである。それは螺旋にも通じるものでそれはまた後の機会で改めて取り上げるとしてイェーつの「塔」はかうである。

W.B.Yeats作

「The Tower」

I

WHAT shall I do with this absurdity –

O heart, O troubled heart – this caricature,

Decrepit age that has been tied to me

As to a dog’s tail?

Never had I more

Excited, passionate, fantastical

Imagination, nor an ear and eye

That more expected the impossible –

No, not in boyhood when with rod and fly,

Or the humbler worm, I climbed Ben Bulben’s back

And had the livelong summer day to spend.

It seems that I must bid the Muse go pack,

Choose Plato and Plotinus for a friend

Until imagination, ear and eye,

Can be content with argument and deal

In abstract things; or be derided by

A sort of battered kettle at the heel.

II

I pace upon the battlements and stare

On the foundations of a house, or where

Tree, like a sooty finger, starts from the earth;

And send imagination forth

Under the day’s declining beam, and call

Images and memories

From ruin or from ancient trees,

For I would ask a question of them all.

Beyond that ridge lived Mrs. French, and once

When every silver candlestick or sconce

Lit up the dark mahogany and the wine.

A serving-man, that could divine

That most respected lady’s every wish,

Ran and with the garden shears

Clipped an insolent farmer’s ears

And brought them in a little covered dish.

Some few remembered still when I was young

A peasant girl commended by a Song,

Who’d lived somewhere upon that rocky place,

And praised the colour of her face,

And had the greater joy in praising her,

Remembering that, if walked she there,

Farmers jostled at the fair

So great a glory did the song confer.

And certain men, being maddened by those rhymes,

Or else by toasting her a score of times,

Rose from the table and declared it right

To test their fancy by their sight;

But they mistook the brightness of the moon

For the prosaic light of day –

Music had driven their wits astray –

And one was drowned in the great bog of Cloone.

Strange, but the man who made the song was blind;

Yet, now I have considered it, I find

That nothing strange; the tragedy began

With Homer that was a blind man,

And Helen has all living hearts betrayed.

O may the moon and sunlight seem

One inextricable beam,

For if I triumph I must make men mad.

And I myself created Hanrahan

And drove him drunk or sober through the dawn

From somewhere in the neighbouring cottages.

Caught by an old man’s juggleries

He stumbled, tumbled, fumbled to and fro

And had but broken knees for hire

And horrible splendour of desire;

I thought it all out twenty years ago:

Good fellows shuffled cards in an old bawn;

And when that ancient ruffian’s turn was on

He so bewitched the cards under his thumb

That all but the one card became

A pack of hounds and not a pack of cards,

And that he changed into a hare.

Hanrahan rose in frenzy there

And followed up those baying creatures towards –

O towards I have forgotten what – enough!

I must recall a man that neither love

Nor music nor an enemy’s clipped ear

Could, he was so harried, cheer;

A figure that has grown so fabulous

There’s not a neighbour left to say

When he finished his dog’s day:

An ancient bankrupt master of this house.

Before that ruin came, for centuries,

Rough men-at-arms, cross-gartered to the knees

Or shod in iron, climbed the narrow stairs,

And certain men-at-arms there were

Whose images, in the Great Memory stored,

Come with loud cry and panting breast

To break upon a sleeper’s rest

While their great wooden dice beat on the board.

As I would question all, come all who can;

Come old, necessitous. half-mounted man;

And bring beauty’s blind rambling celebrant;

The red man the juggler sent

Through God-forsaken meadows; Mrs. French,

Gifted with so fine an ear;

The man drowned in a bog’s mire,

When mocking Muses chose the country wench.

Did all old men and women, rich and poor,

Who trod upon these rocks or passed this door,

Whether in public or in secret rage

As I do now against old age?

But I have found an answer in those eyes

That are impatient to be gone;

Go therefore; but leave Hanrahan,

For I need all his mighty memories.

Old lecher with a love on every wind,

Bring up out of that deep considering mind

All that you have discovered in the grave,

For it is certain that you have

Reckoned up every unforeknown, unseeing

plunge, lured by a softening eye,

Or by a touch or a sigh,

Into the labyrinth of another’s being;

Does the imagination dwell the most

Upon a woman won or woman lost?

If on the lost, admit you turned aside

From a great labyrinth out of pride,

Cowardice, some silly over-subtle thought

Or anything called conscience once;

And that if memory recur, the sun’s

Under eclipse and the day blotted out.

III

It is time that I wrote my will;

I choose upstanding men

That climb the streams until

The fountain leap, and at dawn

Drop their cast at the side

Of dripping stone; I declare

They shall inherit my pride,

The pride of people that were

Bound neither to Cause nor to State.

Neither to slaves that were spat on,

Nor to the tyrants that spat,

The people of Burke and of Grattan

That gave, though free to refuse –

pride, like that of the morn,

When the headlong light is loose,

Or that of the fabulous horn,

Or that of the sudden shower

When all streams are dry,

Or that of the hour

When the swan must fix his eye

Upon a fading gleam,

Float out upon a long

Last reach of glittering stream

And there sing his last song.

And I declare my faith:

I mock plotinus’ thought

And cry in plato’s teeth,

Death and life were not

Till man made up the whole,

Made lock, stock and barrel

Out of his bitter soul,

Aye, sun and moon and star, all,

And further add to that

That, being dead, we rise,

Dream and so create

Translunar paradise.

I have prepared my peace

With learned Italian things

And the proud stones of

Greece

,

Poet’s imaginings

And memories of love,

Memories of the words of women,

All those things whereof

Man makes a superhuman,

Mirror-resembling dream.

As at the loophole there

The daws chatter and scream,

And drop twigs layer upon layer.

When they have mounted up,

The mother bird will rest

On their hollow top,

And so warm her wild nest.

I leave both faith and pride

To young upstanding men

Climbing the mountain-side,

That under bursting dawn

They may drop a fly;

Being of that metal made

Till it was broken by

This sedentary trade.

Now shall I make my soul,

Compelling it to study

In a learned school

Till the wreck of body,

Slow decay of blood,

Testy delirium

Or dull decrepitude,

Or what worse evil come –

The death of friends, or death

Of every brilliant eye

That made a catch in the breath – .

Seem but the clouds of the sky

When the horizon fades;

Or a bird’s sleepy cry

Among the deepening shades.

 

 

「塔」拙訳

この矛盾を何としたことだらう――

おお、心よ、おお、悩ましき心よこの戯画、

吾に纏はり付く老衰といふ齢(よはい)

まるで犬の尻尾の如くに?

吾はこれまで一度も

これ程の昂ぶりを、怒気を含んだ熱情を、

奇想天外な想像力を持つたことはなし、更には不可能を期待する

耳目を持つたことはなし――

否、釣竿と蚊(か)鉤(ばり)若しくは粗末な蚯蚓(みみず)を手に

吾はベン・ブルベン山の尾根を登り、

そして永い夏の日を過ごした少年時代のそれとは違ひ。

吾は詩神に荷を纏めて去れと命じ

プラトンとプラティノスを友にとしなければならぬと思ふ。

想像力、そして耳目が

議論に満足し抽象的な物事を扱ふことが出来るまで、または踵にある

使ひ古された薬罐(やかん)の類に嘲笑されるまで。

吾は城の胸壁の上をゆつくり歩み

或る家の土台、或ひは

煤だらけの指のやうな木が地に屹立する処を凝視する;

そして傾く陽射しの下で

想像力を送り出し、そして

廃墟或ひは古の木々から表象と記憶を呼び起こす、

吾がそれら全てについてのある疑問を問ひたいが為に。

 

あの屋根の向かふにフレンチ夫人が住んでゐて、そしてかつて

全ての銀の燭台と手燭は暗いマホガニーと葡萄酒を照らした時、

或る給士の下男が

最も尊敬する夫人の全ての喜びを推し量ることが出来たが、

彼は走つて庭挟を持つて

不遜な農夫の両耳を切り取り

そしてそれらを小さな蓋付きの皿に入れて運んだ。

 

吾が若かりし時或る歌によつて褒め称えられた

或る農家の娘が今尚いくつか思ひ出された、

彼女は或る岩山の何処かに住んでゐて、

彼女の顔色は賛美された、

そして彼女を賛美することに大きな喜びがあつた、

もし彼女が市場を歩いてゐるとすると、

農夫たちは市場に押しあつた

余りに偉大な光栄がその歌に与へられた故に

そんなことを思ひ出す。

 

そしてそれらの旋律によつて、

或ひは彼女に二十回乾杯することによつて気がふれた或る男たちは、

机から立ち上がり見物によつて

彼らの幻想を試すことは正しいと宣言した;

しかし、月光を間違つた

平凡に日光のために――

音楽は彼らの知恵を彷徨はせた――

そして或る一人が大きなクルーン沼で溺れさせた。

 

不思議なことだが、しかし、その歌を作つた男が盲人出会つたのは

だが、今われはそれを思慮すると

全く不思議でないことが解かる;伝説は始まつた

ホメロスが盲人であつたこととともに、

そしてヘレネは生きとし生けるものの心を裏切つた。

おお、月光と日光は

或る縺れた光線かもしれない、

吾が勝ち誇ると吾は男共を狂はせるに違ひないが為に。

 

そして吾はハンラハンを創造し

そして彼を酔はせ或ひは近くの小屋の何処から

夜明けを通して酔ひを醒まし。

或る老人の奇術によつて捉へられ

彼は彼方此方に躓き転倒し手探りした

そしてだがその駄賃に膝小僧を壊した;

吾はそれを二十年前に考へてゐた:

 

良き仲間が古い納屋でカードを切り;

そしてあの古の悪漢になると

彼は親指の下でカードに魔法をかけ

一枚以外外全てを番犬の群れに、

そして彼は一羽の野兎に変えた。

ハンラハンはそこで狂つたやうに立ち上がつた

そしてそれらの吠える創造物へ向かつて追ひかけた――

 

おお、吾は何を――すつかりと忘れてしまつたものの方へと!

吾は或る男を呼び起こさねばならぬ

伝説までに成長したある人物

彼は余りに悩ましかつたので恋も音楽も敵の切られた耳も

喜ばさなかつた男のことを;

彼が災厄の日を終えた時それを言ふべき隣人の一人もゐなかつた:

この家の古の破産してしまつた主人のことを。

 

何世紀もの間、あの破滅が来る以前、

屈強な兵士共は膝に靴下留めを交叉させ足に鉄の靴で

その狭い階段を上つた、

そしてそこに或る兵士がゐた

彼の表象は「大いなる記憶」に蓄へられ、

大声を上げ喘いだ胸で

眠る人の安息を破る為に

一方で彼らの大きな木のさいころは机上に打ち付けられた。

 

吾が全てを問ふであらう時、来られるものは全て来い;

老ひた、貧乏な、馬に半乗りの男が来るがよい;

そして美の盲目のべらべらしやべる司祭を連れて来い;

神に見棄てられた尊厳を通して奇術を送るその赤い男;フレンチ夫人、

素晴らしい耳を送られた;

沼で溺れた男を

嘲る美神が田舎娘を選んだ。

 

それらの岩岩の上を踏み歩みこのドアを通つた

全ての老ひた男や女や富める者や貧しい者は

吾が老齢に対して今猛り狂ふやうに

公に密かに猛り狂つてゐたのだららうか?

しかし、しきりに過ぎ去りたがつてゐる

それらの目目に吾は一つの答へを見出した;

それ故行け;しかしハンラハンは残れ、

吾は強大な記憶の数々すべてをしてゐるが為に。

 

あらゆる風に愛をもたらす老ひた好色漢よ、

深い思慮の心から

あなたが墓で見つけたものすべてを齎し給へ、

あなたは柔らかい眼差しや触られることや吐息によつて唆して

他者といふ存在の迷宮の中へ全的未知のまま、解らぬまま

飛び込んで行くことを考へたことは確かである為に;

 

想像力はある女性が勝つたか女性が負けたかの

どちらかに最も長く留まるか?

もしそれが負けたほうならば

大きな迷宮から、誇り、臆病、幾分かの愚かなずる賢い思慮或ひはかつて良心と呼ばれたものをから

背を向けたことをあなたは認めよ;

そして記憶が再び思ひ起こされるならば

日蝕下の太陽と眼差しはは滅びたことを認めよ。

 

吾は吾の意思を書いた時だ;

泉が湧き上がるまで流れを上り

夜明けで滴が滴る石の傍らで蚊鉤を投げ落とす実直な男たちを吾は選ぶ;

吾は宣言する

彼らは吾の誇りを受け継ぐだらうと、

「大儀」や「国家」のどちらにも

侮辱される奴隷にも侮辱する暴君にも

縛られない人々の誇り、

拒絶するのも自由だが誇りを与へたバークやグラタンの人々――

朝方の誇りのやうな誇りを、

真つ逆様の光が解き放たれる時、

或いひは伝説上の角の誇りを、

或ひは全ての流れが干上がつた時の

突然の驟雨の誇りを、

或ひは白鳥が消え行く輝きを

凝視しなければならぬ時、

長く煌く流れの最果ての帯の上に漂ひ

そしてそこで最期の歌を歌ふ時の

時間の誇りを。

そして吾は吾の信念を宣言する:

吾はプロティノスの思想を嘲笑ひ

そしてプラトンに反抗して叫ぶ、

死と生は

人間が苦い魂から

全体を、

一切合財を作り上げるまでは

存在しなかつた

然し、太陽も月も星も全てを

そして更に付け加へると

つまり、死んでは吾吾は甦り

夢見そして

「月のかなたの楽園」を

創り上げる。

吾は吾の平安を準備した

イタリアの文物を

そしてギリシやの誇り高き石造物の数々を学んで、

詩人の創造するといふ業を、

そして愛の記憶の数々、

女性の言葉の数々の記憶共、

人間が

夢を鏡に映して

一人の超人間を創造することに関しての

あらゆる全てのもの。

 

銃眼のそこで

こがらすが囀り鋭い声を発してゐる

そして小枝を一本づづ落とし積み重ねる。

巣が積み上がつた時、

母鳥は

天辺の窪みに休み

そして野性味あふれるその巣を温める。

 

吾は信念と誇りを

山腹を登る

実直な若者に残す、

弾け出る朝陽の下、

彼らは蚊鉤を投げ落とす;

同じ材料で作られた存在

座りがちなこの生業によつて

それが壊されるまで。

今こそ吾は吾の魂を創ろう、

学ばされる学校で

無理矢理魂を勉強させながら

肉体の破滅まで、

ゆつくりと血液は腐敗し、

気が短い譫妄状態

或ひは鈍い老衰、

或ひは最悪のことが来る事――

友人達の死、或ひは

あらゆる輝ける眼差しの死

それは息を飲まさせる――

空の雲としか思へず

地平線が消え行く時;

或ひは或る鳥の眠たさうな囀り

深まり行く影の影の中。

 

 

陰翳――断章 弐

 

――ほらほら、無といふ文字や零といふ記号で封印されたものたちが、蛇が外界の状況を把握する為にちよろちよろと舌を出すやうに己の場所から逃げ出さうとしてゐるのが見えないかい?

――ふつ、それで?

――奴等もまた己が己であることに憤怒してゐる《存在》の虜囚さ。身の程知らずつたらありやしない……へつ。

――さういふお主もまた自同律の不快が持ち切れずに己を持て余して《他》に八つ当たりしてゐるじやないかい?

――へつへつへつ。さういふお主もつんと澄ました顔をしてゐるが、へつへつへつ、自同律の不快が持ち切れずに《他》に八つ当たりしてゐるじやないかい?

――はつはつはつ。馬鹿が……。あつしは己の翳の深さを思ひあぐねて七転八倒してゐるだけさ。

――ふむ。お主はProgramerなら誰でも知つているハノイの塔を知つているかね?

――それで?

――そのハノイの塔の翳は、さて、その中心部が最も濃いと思ふかい?

――ふむ。多分さうだらう。それで?

――お主は翳の深さがあの厄介者の《存在》と紐帯で結び付いてゐるとしたならどう思ふ?

――さうさねえ……、……翳もまた翳で己から逃げ出したい《存在》の虜囚じやないか、へつ。

――ふつ、さて、そこで己の己からの遁走が可能として、その己は何になる?

――へつ、それは愚門だぜ、己は《他》になるに決まつてらあ!

――ふつ、それで、己が《他》に変化できたとしてその《他》もまた己といふ《存在》の虜囚じやないのかい?

――へつ、大馬鹿者が! 己は《他》に変化できたその刹那の悦楽を存分に喰らひたいだけなのさ。その《虚しさ》といふ快楽が一度でも味はへれば馬鹿な《己》はそれで満足するのさ。

――へつ、それが生きるための馬の眼前にぶら下げられた人参といふ事かね。阿呆らし。

――さう、人生なんぞ阿呆らしくなくて何とする?

――ははん。他人の家の庭はよく見えるか、様あないぜ、ちぇつ。

 

 

凝結

 

無地の白紙の半紙に例へば下手糞だが墨と筆で「諸行無常」と書くとその場の時空間が墨色の「諸行無常」といふ字を核として一瞬にして凝結して行くのが感じられて仕方が無いのである。それは何やら空気中の水分が凝集して出来る雪の綺麗な六花晶を顕微鏡で見るやうであり、高々半紙といふ紙切れに墨書されたに過ぎない「諸行無常」といふ字が時空間を凝結させて私に対峙するが如くに不思議な存在感を醸し出し始めるのである。それを言霊と呼んで良いのかは解からないが、しかし、「諸行無常」と墨書される以前と以降では私の眼前の時空間は雲泥の差で、それは最早別の時空間と言つても良い程に不思議な異空間が出現するのである。

――Fractal(フラクタル)な時空間……。

彼方此方が「諸行無常」に蔽ひ尽くされてゐる……。かうなると最早私には如何ともし難く只管に墨書された「諸行無常」といふ字と対峙する《無心》の時間がゆるりと移ろひ始めるのである。そして、私の存在が墨書された字に飲み込まれて行く心地良さ……。私の頭蓋内の漆黒の闇黒には鬱勃と想念やら表象やらが現れては消えるといふその生滅を只管に繰り返し、私はそれに溺れるのである。

――揺られる、揺られる……。《吾》といふ存在が「諸行無常」といふ墨書に揺す振られる……。何といふ心地良さよ。嗚呼、《吾》が《吾》から食み出して行く……。

不意に私は別の真新しく真つ白な半紙を眼前に敷き、徐に「森羅万象」と息を止めて一気に墨書する。今度は時空間は「森羅万象」といふ墨書を核として一瞬に凝結する……。再び惑溺の始まりだ。

――溺れる、溺れる、《吾》はこの「森羅万象」といふ時空間に飲み込まれ溺れる……。

眼前の「森羅万象」と墨書された半紙は微塵も動かず、只管に「森羅万象」であることに泰然としてゐやがる。

――ふつ、《吾》この宇宙全体を《吾》として支へる《吾》に陶酔してゐるのかもしれない……。この「森羅万象」といふFractalな時空間は宇宙を唯「森羅万象」に凝結してしまひ、そして、彼方此方で時空間が言霊となつて囁くのだ。《此の世は即ち『森羅万象』》と。それにしてもこの肉筆の文字と墨の持つ凄まじき力は何なのか? 嗚呼、《吾》お……ぼ……れ……る…………。

 

春の海終日のたりのたり哉           蕪村

 

 

深淵 壱

 

 

其処は漆黒の闇に永劫に蔽はれた場所であつた。暫くの間、私は全く動かずに何年も何年も其の場の同じ位置で顔を腕の中に埋めながら蹲り続けてゐる外ない程に心身ともに疲弊しきつてゐたので、外界が永劫に漆黒の闇に蔽はれてゐた事は長きに亙つて解らぬままであつたのである。

私は腕に顔を埋めたまま絶えず

――《吾》とはそもそも何か?

と自問自答する無為の日々を送つてゐたのであつた。そんな私にとつて外界は無用の長物以外の何物でもなかつたのである。そんな底なしの自問自答の中、不意に私の影がゆらりと動き私から逃げ出す素振りを見せた気配がしたので、私は、不意に頭を擡げ外界を眺めたら其処が漆黒の闇に蔽はれ何も見えない場所であつたのを初めて知つたのであつた。勿論、私の影は外界の漆黒の闇の中に融解してゐて、何処にあるのか解らなかつたのは言ふまでもない。

――此処は何処だ!

さうなのである。私は闇の中の闇の物体でしかなかつたのである。つまりは《吾》闇なり。

――闇の《吾》とはそもそも何か?

それ以降斯くの如き自問自答の無間地獄が始まつたのであつた。何処も彼処も闇また闇であつた。

しかし、闇とは厄介なもので私の内部で何か動きがあるとそれに呼応して何やら外界の闇は異様な気配を纏つて私の内部の異形の《吾》となつてすうつと浮かび上がつた気配を私は感じるのであつたが、眼前には漆黒の闇が拡がるばかりであつた。

――誰か《吾》の前に現れたか?

その問ひに答えへるものは何もゐなかつたのは言ふまでもない。在るのは漆黒の闇ばかりであつた。まさにそれは暖簾に腕押しでしかなかつたのである。

――へつ、馬鹿が。お前の内部を覗いたつて何もないのは初めから解り切つた事ではないか。へつ、《吾》を知りたければ外界を穴が開くほど凝視するんだな! 馬鹿が!

漆黒の闇の何処とも知れぬ処から斯様な嘲笑が漏れ出たのであつた。

さうなのである。私はずつと外界の漆黒の闇に侮蔑されてゐたのであつた。

私は不意に一歩前へ踏み出ようとしたが、其処に足場は無く、直ぐ様私は足を引つこめざるを得なかつた。

――もしや、此処は……深淵の《浮島》なのか……嗚呼……《吾》斯く在りか……。

 

 

表白

 

 

それは不意を突く地震であつた。一歩踏みださうと右足を上げた途端、あれつと思ひも掛けず左足が何かに掬われたかと思ふと、私は途端にBalanceを崩し不格好に右足を咄嗟に地に着け踏んばるしかなかつたのである。

――ゆさゆさ、ぐらぐら。

辺りは暫く地震の為すがままに揺す振られ続けてゐたが、私は己の無様さに

――ぷふいつ。

と嘲笑交じりの哄笑を思はず上げてしまつたのである。

――何たる様か!

暫くするとその地震も治まり辺りはしい~んと夕闇と共に静寂(しじま)の中に没したのであつた。

其処は私の普段の逍遥の道筋で或る信仰を集めてゐた巌の前であつた。ぐらぐらとその巌も私と共に揺す振られたのである。地震の瞬間は鳥達が一斉に木々から飛び立つたがその喧噪も嘘のやうに今は静かであつた。

――ぷぷぷぷぷふぃ。

何かがその刹那に咳(しはぷ)くやうに哄笑を上げた。

――ぷぷぷぷぷふぃ。

私は怪訝に思ひながらも眼前にどつしりと地に鎮座するその苔の生えたごつごつとしかし多少丸みを帯びた巌を凝視したのであつた。

――ぷぷぷぷぷふぃ。

間違ひない。眼前の巌が哄笑してゐたのであつた。

――ぷぷぷぷぷふぃ。《吾》揺す振られし。ぷぷぷぷふい。

どうやらその巌は自身が揺れた事にうれしさの余り哄笑してゐるらしかつた。

――何がそんなにうれしいのか?

と、私は胸奥でその巌に向つて呟くと

――《吾》、《吾》の《存在》を実感す。

と私の胸奥で呟く者がゐた。

――何! 《存在》だと!

――さう。《存在》だ。《吾》、《吾》から食み出しし。ぷぷぷぷぷふい。

――《吾》から食み出す?

――さう。何千年もじつと不動のままに一所に居続ける馬鹿らしさをお前は解らないのだ。《吾》には既に《希望》は無し。《風化》といふ《吾》の《滅亡》を堪える馬鹿らしさをお前は解らぬ。

――はつはつはつ。《吾》の《存在》だと! お前に《存在》の何が解るのだ!

――解らぬか。巌として此の世に《存在》させられた懊悩を! 《吾》風化し《滅亡》した後、土塊に《変容》した《吾》の《屍》から、ぷふい、《何》か《生物》、ぷふい、自在に《動ける》《生物》が誕生せし哀しみをお前は未来永劫解る筈がない。この高々百年の《生き物》めが!

辺りは今も深い深い静寂に包まれてゐた。

――何千年、何億年《存在》し続ける懊悩! 嗚呼、《吾》もまた《何か》に即座に《変容》したく候。此の世は《諸行無常》ではないのか? 《吾》もまた《吾》以外の何かに変容したく候。

――ぶはつはつはつは。《吾》以外の何かだと! 馬鹿が! 《吾》知らずもの《吾》以外に《変容》したところで、またその底無しの懊悩が待つてるだけさ。汝自身を知れ。

――嗚呼、《吾》また底無しの自問自答の懊悩に飛び込む。嗚呼……。

辺りは闇の中に没してそれこそ底無しの静寂の中に抛り出されてしまつた……。

 

 

奴隷

 

物心ついた時にはまだ電化製品が物珍しかつたが、何時の頃かは解らぬが、今では電化製品に埋もれた生活を送るやうになつてしまつたことに、私は、常々胸の痛む悲哀を電化製品に感じながら生活してゐる。それでも、私が所有する電化製品は必要最小限度で、なるべくなら所持しないやうに気を使つて生活してゐるのである。それといふのも電化製品は切ないのである。何故と言つて『人間に《もの》を奴隷として使用する権利があるのか』といふ疑問が何時も私の頭の片隅を過るのである。

――さて、人間とはそれ程に特別な生き物なのか。

電化製品もまだ分解可能な程度の時代であればその《もの》に愛着といふものが湧いたのであるが、今の電化製品は最早分解不可能で愛着なるものが微塵も湧かないのである。これは困つたことで、私は《もの》を消耗品としてはどうしても看做せないので、それ故電化製品は私にとつて切ないのである。それでも私は大の音楽好きなので音響機器に関しては愛おしい愛着を持つて接してはゐるが、しかし、それも故障してしまへばもうお仕舞ひである。修理するよりも新品を買つた方が、結局のところ経済的なのである。私は何時も電化製品が故障してお釈迦になつてしまつた時は心苦しくもそれを廃棄するのである。これは物凄く切ない行為でどうにかならないかと途方に暮れるが今のところどうにもならないので残念至極である。映像に関しては故、タルコフスキー監督の映画等特別なものを除くと殆ど興味がないのでTelevisionは埃を被つて抛つたまま使はず仕舞ひである。

そもそも、この私の電化製品等、《もの》に対するこの名状し難い感覚は何処から来るのかといへば、それは《脳》無き《もの》はそもそもから人間がその特性を見出し奴隷として使ふことに何の躊躇ひがないことに対する抵抗感にある。現状では電化製品を始めとする多くの《もの》が人間の奴隷である。

私の嗜好は手先の延長上の《もの》、例へば手製の道具類等には愛着が湧くが、それ以外は切ないばかりなのである。

嘗ては馬や牛など《脳》あり《意思》ある生き物を何とか馴致し協働で生業を営んでゐたが今は電子機器等の《もの》といふ奴隷が取つて代わつたので、それが私に嫌悪感を湧き起こすのである。《もの》にもまた《意思》はある筈である。

――何故、《吾》こ奴の為されるがままに作られ機能しなければならぬ?

等と《もの》が呻いてゐるのが聞こえるやうで、電化製品に埋もれた生活は気色悪いのである。

――何故、人間なる生き物は《吾》にある特性があるのを見出しそれを良いことに《吾》を下僕以下の扱ひをする? 人間も《吾》も同じ《存在物》ではないのか? ぬぬぬ! 人間は何様のつもりなのか! ぬぬぬぬぬ!

…………

――何故、人間は《便利》といふ《現実逃避》を喜ぶのだ? 《存在》する事とはそれ自体が《不自由》で《不便》な事ではないのか?

…………

――人間め! 貴様達も此の世の下僕ではないか! ソクラテスのデルフォイの神託ではないが、人間どもよ、汝自身を知れ! 貴様らが《吾》を奴隷として扱ふ《存在》でないことを知れ! ぬぬぬぬぬ!

…………

――何故、《吾》此処にゐなければならぬ? 何故、《吾》こんな形を強ひられなければならぬ? ぬぬぬぬぬ!

 

 

揺れる

 

――もしや、地震?

と私は眠りから覚醒した刹那、頭蓋内でさう呟いた。自身が顫動してゐる私を私は覚醒と同時に認識したのである。しかしながらちよこつと開けた瞼の裂け目から覗く外界はぴくりとも揺れてゐる様子は無く、間違いなく自身が顫動してゐると感じてゐる私の感覚は錯覚に違ひなかつたのである。

――これが……錯覚?

それは不思議な感覚であつた。自身が高周期で振動する振動子になつたかの如き感覚で、それは心臓の鼓動による振動とは全く違つた顫動であつた。敢へてその感覚を名状すれば、差し詰め私自身が此の世の本源たるモナドの如き振動子として《存在》の根源、否、毒虫となつたカフカの「変身」の主人公、ザムザの足掻きにも似た自身の焦燥感に打ち震へた末に自身に自身が打ちのめされて泡を吹き脳震盪を起こして卒倒してぶるぶると震へてゐるやうな、若しくは私が決して触れてはいけないカント曰く《物自体》に触れてしまつてその恐ろしさにずぶ濡れの子犬がぶるぶると震へるやうにその恐怖に唯唯慄く自身を、一方でしつかりしろと自身を揺すつて覚醒させやうともがいてゐる私自身による震へといつたやうな、或いは殺虫剤を吹き掛けられて神経系統が麻痺し仰向けに引つ繰り返つて翅をぶんぶんとか弱く打ち震はせてゐる蠅のやうな、兎に角、尋常ならざる状態に私が置かれてゐるのは間違ひなかつたのかもしれなかつたが、それは未だに定かではない。といふのも、その日以来、特に新月と満月の日とその前後に自身が顫動してゐる錯覚が度度起きるやうになつてしまつたのだが、病院での精密検査の結果は異状なしであつたからである。

それは兎も角、例へばその顫動が私の体躯と意識、若しくは体躯と魂との微妙なずれによつて返つて私の自意識若しくは魂が私の体躯に無理やりしがみ付くことで起こる異常な意識の振動だとすれば、私は新月と満月とその前後の日にすうつと《死》へ意識の足を踏み入れてしまつてゐたのかもしれなかつた。或いはそれはもしかすると私の意識若しくは魂が幽体離脱せうとしながらもそれが果たせず私の体躯に縛り付けられもがいてゐる無様な自意識の様なのかもしれなかつた。兎に角、私に何か異常な現象が起こつてゐるとしか思へぬほど私が顫動してゐる自身を私は確かに確実に認識してゐたのは間違ひなかつた。それは錯覚などではない、と私は確信したのである。

私はその顫動を取り敢へず我慢する外なかつた。この顫動は、さて、如何したことであらう。一瞬だが私が一気に膨らみ巨大な巨大な巨大な何かに変容したやうな或る不思議な感覚に捉はれるのであつた。と思ふ間もなく私は一瞬にして萎み小さな小さな小さな何かにこれまた変容したやうな不思議な感覚に捉はれるのであつた。何としたことか! この《私》といふ感覚が一瞬にして急変する事態に私は戸惑ひながらも心の何処かで楽しんでゐた。この極大と極小の間(あはひ)を味はふ不思議。最早《私》は《私》ではなく、とは言へ、結局のところ《私》から遁れられない《私》にちぇつと舌打ちしながらもこの不思議な感覚に身を任せる快感の中にゐることは、敢へて言へば苦痛が快感に変はるSadismとMasochismにも似た倒錯した自同律の快楽と言ふ外なかつたのであつた。しかしながらこの悦楽は危険であると《私》は本能的に感じてゐたのも間違ひなく、その日は私は徐に蒲団から起き上がり立ち上がつたのであつたが、哀れ、私はそのまま気を失つて卒倒してしまつたのである。多分、私が気を失つてゐたのは一、二分のことだらうが、しかし、目の前が真つ白な状態から真つ暗な状態へとゆつくりと移ろひゆくその卒倒してゐた時間は私には一時間ほどにも感じられたのであつた……。

――見つけたぞ。奴を捕まえた。

さう思つた刹那、私は顫動する私を見出し私に気が付いてしまつたのである。

――泡沫の夢か……。

一瞬だが私は《私》以外の何かに変貌した自身を仄かに感じたのであつた……。そして、後に残つたものと言へば敗北感しかなかつたのである……。

 

 

考へる《水》 六 ‐ 『躓きの石』

 

パスカル著「パンセ」(筑摩書房:世界文学全集11~モンテーニゆ/パスカル集:)より

 

五七一

なぜ象徴かという理由。――

(略)

かくして、敵という語は最後の目的いかんにかかつているので、義人はそれを自分たちの情欲と解したが、肉的な人々はそれをバビロニア人と解した。それゆえ、これらの語は不義な人々にとつてのみ曖昧であつた。イザやが「律法をわが選びたる者のうちに封印すべし」と言い、また、イエス・キリストのことを躓きの石となるであろうと言つたのは、このことである。しかし、「彼に躓かぬ者は幸いなり。」ホセアはそのことを完全に言いあらわしている。「誰か知恵ある者ぞ? その人はわが言うことをさとらん。義人はそれをさとらん。神の道は正しければなり。されど悪しき者はそれに躓かん。」

 

人間といふ生き物は、其処に躓きさうな石があるのを知りながら敢へてその石に躓く生き物のやうな気がする。二足歩行を選び取つた生き物である以上、人間といふ生き物は、何度も何度も石に躓かなければならぬ宿命を生きるやうに定められてしまつたのであらうか。人はそれを修行等と呼んで人間たる者斯くあるべしといふやうに自ら追ひ込む不思議な生き物のやうに思へるのだ。勿論、そんな石は御免蒙ると言つて避けて通り過ぎる利巧な輩が殆どであるが、何百人に一人かの割合で必ず敢へて石に躓き其処で立ち止まり呻吟しながらも何とか一歩の歩を進める者が存在する。先づ初めにして終りの躓きの石でもあるのが《私》なる奇奇怪怪な存在である。

 

パンセより

四七六

神のみを愛し、自己のみを憎むべきである。

もし足が、自分の身体の一部であり、自分に依存している一つの身体がある、ということをつねに知らずにおり、自己認識と自己愛だけしか持たなかつたとして、ひとたび、自分が身体の一部であり、それに依存していることを、知つたならば、その足は、自分の過ぎ去つた生活について、また、自分に生命を吹きこんでくれた身体に対して何の役にも立たなかつたことについて、いかばかり後悔し、恥ずかしく思うことであろう! 足が身体から離れた場合もそうだが、身体が足を棄て、足を切り離したならば、足は死滅したことであろう! 身体につらなつたままでいることを、足はどんなにか祈ることであろう! 身体を律している意志の支配に、いかに従順に足は自己をゆだねることであろう! やむをえない場合には、自分が切断されることにも同意するにいたるであろう! そうでないならば、足は肢体の資格を失うことになるであろう! なぜなら、すべての肢体は、全体のためにあえて滅びることをも欲しなければならないからであり、全体こそすべての肢体がそのために存在する唯一のものであるからである。

 

《私》は必ず自己憎悪といふ針の筵に座らされる。其処で幾ら苦悶の呻き声を上げようが《私》は《私》から遁れられない。人間とは何と哀れな生き物であらうか……。

――許して下さい。

と《私》に訴へたところで《私》は嘲笑ふのみである。《私》が《存在》してしまつた以上、《私》は《私》であることを強ひられるのだ。

――そこで《神》に救ひを求める?

それも一つの方法であらうが、それでも矢張り針の筵は遁れられない、と思ふ。

――それでも許し給へ。

さう訴へたところで《私》は斯くの如く嘲笑ふのみである。

――へつ、この底無しの深淵の中でもがき苦しみ、それでも自滅せずに生き残るには、《汝自身を知れ》あるのみ、だ! 生き残れ、何が何でも生き残れ、この下衆野郎めが、はつ!

 

陰影――断章 参

 

真夜中、電灯を消したまま悠然と煙草を吹かしてゐし時、何者かが

――ぷふいつ。

と咳(しはぶ)く音がせし。

余はそれでも悠然と煙草を吹かすなり。

――ぷふいつ、ぷふぃつ。

――何者ぞ!

と余は問ひしが沈黙あるのみ。余はそれしきの事には御構ひなしに再び煙草を悠然と吹かすなり。唯この部屋の中では煙草の先端の橙色の明かりのみが明滅するなり。すると、忽然と

――わつはつはつ。汝何者ぞ!

と問ひし声が響き渡りし。

――何者ぞ!

と余は再び問ふなり。しかし、この部屋には唯沈黙あるのみ。余は眼前に拡がりし闇を唯凝視するばかりなり。本棚の本等の《もの》は皆全て息を潜め闇の中に蹲るなり。

余は再び問ふ。

――何者ぞ! 其は何者ぞ!

辺りは矢張り沈黙が支配するのみ。余は無意識に煙草の灰を灰皿にぽんと叩き落とし、その様をぼんやりと見し。すると、ぽつと灰皿が煙草の火で照らし出されし。

――ぷふぃつ。

と再び何者かが咳きし。今度ばかりは余はその咳きには知らんぷりを決め込み、悠然と煙草を吹かすなり。

余の眼には煙草を吸ひ込みし時に煙草の火がぽつと火照つたその残像がうらうらと視界で明滅するなり。余はゆつくりと瞼を閉ぢし。そして、ゆつくりと瞼を開け煙草の火をじつと見し。煙草を挟みし手をゆらりと動かすと、煙草の火は箒星の如く尾を引き闇の中を移動するなり。その橙色の箒星の残像は美しきものなり。その様はAurora(オーロラ)を見るが如くなり。余はその美しさに誘はれて何度も何度も眼前で煙草の火をゆらりゆらりと動かすなり。何処なりとも

 

(道元著「正法眼蔵」より)

 

「時節(じせつ)若(にやく)至(し)」の道を、古今のやから往々におもはく、仏性の現前する時節の向後(きやうこう)にあらんずるをまつなりとおもへり。かくのごとく修行しゆくところに、自然(しねん)に仏性現前の時節にあふ。時節にいたらざれば、参師問法するにも、辧道功夫するにも、現前せずといふ。恁麼(いんも)見取(けんしゆ)して、いたずらに紅(こう)塵(ぢん)にかへり、むなしく雲漢をまぼる。かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道の流類なり。

 

※註 道……ことば  恁麼見取して……このやうに考へて  紅塵……世俗の生活  雲漢……天の川  まぼる……見つめる

 

と、何者かが読誦する声が部屋中に響き渡りし。その見下しきが幽玄たる様この上なし。この部屋を蔽ひし闇は煙草の先端の火に集まりしか。不意に闇が揺らめき出した気がし、余は恥ずかしながら僅かばかり不安になりし。

――ぷふいつ。

――其は何者ぞ!

――ぷふぃつ、汝の影なり。

――余の影? 馬鹿を申せ!

再びこの部屋は沈黙と闇とが支配するなり。余の視界には煙草の火の残像がほの白く明滅するなり。

――闇中に影ありしや。

と余は問ひし。

――ぷふぃつ、この闇全て吾なり。汝は吾の腹の中ぞ。わつはつはつ。

――これは異なことを申す。影は余に従ふものぞ。

――このうつけ者! 汝が吾が影に従ふ下等な《存在》なり。ぶぁはつはつはつ。

――余が影の従属物? そもそも吾とは何ぞや。

余は何か鈍器で頭をぶん殴られた心地するなり。光無ければ、余は影の腹の中にゐしか。くつ。

――それぞそれ。その屈辱が汝を汝たらしめるなり。

嘲笑つてゐやがりし。影は余を見て嘲笑つてゐるなり。これが屈辱? 馬鹿らしき。だが、しかし、余はこの闇に包まれし部屋でじつとする外なし。

――ぷふぃつ、悩め、悩め! それが汝に相応しき姿なり。

――くつ。

余は歯軋りせしが、この屈辱は認める外なし。

――くつ。光無くても闇はありきか、くつ。

唯闇の中に煙草の火が仄かに輝きし。

 

 

深淵 弐

 

闇また闇。吾もまた闇。闇はしかし《無限》を誘ふのだ。果て無き闇故、闇の中に今蹲るまた闇の吾は闇に溶け入るやうな錯覚を覚える。

――吾は《無限》なりしや。

ところが吾に執着する吾は途端に身震ひして吾であることを渇望する。

――けつけつけつ、お前はちつぽけなお前でしかない。

と、何処とも知れぬ何処かで闇が吾を嘲笑ふ。と、その刹那吾は闇の中の《浮島》に浮いてゐるのみの吾が置かれた現状を思ひ出し血の気がさつと引き蒼ざめる。

――嗚呼。

眩暈が吾を襲ふ。

――このまま闇の中に投身せうか……。

闇は吾に闇に飛び込むことを強要する誘惑者であつた。吾は絶えずええいつと闇に飛び込む吾を想像せずにはゐられぬまま、唯じつと《浮島》の上で蹲る外なかつた。この《無限》に拡がるやうに見える闇また闇の中、吾の出口無し。

――矢張り吾に《無限》は持ち切れぬか……。

――けつけつけつ、お前はやつぱりちつぽけなお前さ。

と再び何処とも知れぬ何処から闇が吾を嘲笑ふ。

とその刹那、吾はすつくと立ち上がり闇のその虚空を睥睨する。

――己自身に対峙出来なくて何とする!

さうである。この闇全てが吾なのだ。吾の心に巣食ふ異形の吾達がこの眼前の闇の中に潜んでゐる。闇は吾の頭蓋内の闇と呼応し吾の心を映す鏡に思はれた。

――異形の吾の気配共が蠢き犇めき合ふこの闇め!

それ故、闇は《無限》を誘ふのか。彼方此方に吾の顔が浮かんでは消え、また、浮かんでは消える……。

――へつ、お前は己の顔を見たことがあるのか? これまでずつと腕に顔を埋め自己の内部に閉ぢ籠つてゐたくせに?

さうであつたのだ。吾は己の顔をこれまで見たことがない。それにも拘らず吾は己の顔を知つてゐる。不思議であつた。眼前の闇に生滅する顔、顔、顔、これら全てが吾の顔であつた。さうとしか思へない。

――けつけつけつ、どれがお前の顔かな? けつけつけつ、この顔無しめが! お前もまた闇なのさ、ちぇつ。

吾が闇? これは異なことをいふものである。だが、しかし、吾も闇か?

――闇であるお前が吾なぞとほざくこと自体が笑止千万だ!

しかしである。吾は吾が《存在》してゐることを感じてゐるし知つてゐる筈だ。これはどうしたことか? 吾は闇?

――嗚呼、もしかすると吾は闇の鬼子なのかも知れぬではないか。

それは闇における不穏な動きを伝える前兆なのであつた。それは闇に芽生えた自意識の始まりなのであつたのかも知れぬ……。

――吾は吾である……のか……。ふむ、む! 揺れてゐる?

さうなのであつた。闇全体が何故か突然とぶるぶると震へ出したのであつた。闇もまた《自同律の不快》によつて何か別の《もの》への変容を渇望する……。

――吾が吾であることのこの不愉快。闇もまたこの不愉快を味はつてゐるのか……。

吾は再び眼前に《無限》に拡がる闇の虚空を睥睨する。

――《無限》もまた《無限》を持ち切れぬのか……。

眼前の闇には今も無数の顔が生滅する。

――解らぬ。何もかもが解らなくなつてしまつた……。そもそも眼前の闇に去来する無数の顔は吾の顔なのか……。吾そのものが解らなくなつてしまつた……。

次第に意識が混濁し始めた。吾の意識が遠くなる……。

――嗚呼、この吾と感じてゐるこの吾は……そもそも《存在》してゐるのか……何もかもが解らなくなつてきた……。

闇また闇の中に一つの呻き声が漏れ出る……。

――嗚呼!

その呻き声は水面の波紋の如く闇全体にゆつくりとゆつくりと響き渡つては何度も何度も闇の中で何時までも反響を繰り返してゐた。

――嗚呼、吾はそもそも《存在》してゐるのか!

 

 

兆し

 

それはそれは不思議な感覚であつた。私が珈琲を一口飲み干すと、恰も私の頭蓋内の闇が或る液体と化した如くに変容し、その刹那ゆつたりとゆつたりと水面に一粒の水滴が零れ落ちてゆらゆらと波紋が拡がるやうに私の頭蓋内の闇がゆらゆらと漣だつたのであつた。そして、私の全身はその漣にゆつくりと包まれ、私は一個の波動体となつた如くにいつまでもいつまでもその余韻に浸つてゐたのであつた。

それは譬へてみると朝靄の中に蓮の花がぽんと小さな小さな音を立てて花開く時のやうにその花開いた時の小さな小さなぽんといふ音が朝靄の中に小さく波打つやうに拡がるやうな、何かの兆しに私には思はれたのであつた。意識と無意識の狭間を超えて私の頭蓋内が闇黒の水を容れた容器と化して何かを促すやうに一口の珈琲が私に何かを波動として伝へたのであつたのか……。私は確かにその時私が此の世に存在してゐる実感をしみじみと感じてゐたのであつた。

――この感覚は一体何なのだらう。

私の肉体はその感覚の反響体と化した如くに、一度その感覚が全身に隈なく伝はると再びその波立つ感覚は私の頭蓋内に収束し、再び私の頭蓋内の闇黒に波紋を呼び起こすのであつた。その感覚の余韻に浸りながらもう一口新たに珈琲を飲み干すと再び新たな波紋が私の頭蓋内の闇黒に拡がり、その感覚がゆつくりとゆつくりと全身に伝はつて行くのであつた。

――生きた心地が無性に湧き起つて来るこの感覚は一体何なのであらうか。

それにしてもこれ程私が《存在》するといふ実在感に包まれることは珍しい出来事であつたのは間違ひない。私はその余韻に浸りながら煙草に火を点けその紫煙を深々と吸いながら紫煙が全身に染み渡るやうに息をしたのであつた。

――美味い!

私にとつて珈琲と煙草の相性は抜群であつた。珈琲を飲めば煙草が美味く、煙草を喫めば珈琲が美味いといふやうに私にとつて珈琲と煙草は切つても切れぬ仲であつた。

煙草を喫んだ事で私の全身を蔽ふ実在感はさらに増幅され私の頭蓋内の闇黒ではさらに大きな波紋が生じてその波紋が全身に伝わり私の全身をその快楽が蔽ふのであつた。

――それにしてもこの感覚はどうしたことか。

それは生への熱情とも違つてゐた。それは自同律の充足とも違つてゐた。何か私が羽化登仙して自身に酩酊してゐる自己陶酔とも何処かしら違つてゐるやうに思はれた。しかしそれは何かの兆しには違いなかつた筈である。

――《存在》にもこんな境地があるのか。

それはいふなれば自同律の休戦状態に等しかつた。自己の内部では何か波体と化した如くにその快楽を味はひ尽くす私のその時の状態は、全身の感覚が研ぎ澄まされた状態で、いはば自身が自身であることには不快ばかりでなく或る種の快楽も罠として潜んでゐるのかもしれないと合点するのであつた。それは《存在》に潜んでゐる罠に違いなかつたのである。私はその時《存在》にいい様にあしなわれてゐただけだつたのかもしれぬ。

――しかしそれでもこの全身を蔽ふ感覚はどうしたことか。

絶えず《存在》といふ宿命からの離脱を夢想してゐた私にはそれは《存在》が私に施した慈悲だつたのかもしれぬと自身の悲哀を感じずにはゐられなかつたのである。それは《存在》が私に対した侮蔑に違いなかつた。

―《存在》からの離脱といふ不可能を夢見る馬鹿者にも休息は必要だ。

《存在》がさう思つてゐたかどうかは不明であるがその時自己に充足してゐた私は、唯唯、この全身を蔽ふ不思議な感覚にいつまでも浸りたい欲望を抑えきれないでゐた。

――へつ、それでお前の自同律の不快は解消するのか。そんなことで解消してしまふお前の自同律の不快とはその程度の稚児の戯言の一つに過ぎない!

その通りであつた。私は全身でこの不思議な感覚に包まれ充足してゐるとはいへ、ある疑念が頭の片隅から一時も離れなかつたのである。

案の定、その翌日、私は高熱を出し途轍もない不快の中で一日中布団の中で臥せつて過ごさなければならなかつたのである。

あの不思議な充足感に満ちた実在を感じた感覚は病気への単なる兆しに過ぎなかつたのであつた……。

 

 

拘泥

 

夢魔にでもうなされたのであらう、その日は寝汗をびつせうりとかいて彼はその日目覚めなければならなかつたのであつた。

――もしや体調でも崩したか。

何か途轍もなく奇妙な夢を見てゐた気がするのであつたが目覚めと同時に夢の内容は頭蓋内の闇の何処かへ葬り去られて記憶に残らず、彼はそのことがとんと納得がいかない様子であつた。

――とんでもない内容の夢を見た気がするんだが、はて、どんな内容だつたか。まあ良い。

彼は夢の事にはそんなに拘りもせずに寝汗でびつせうりになつた寝着が気色悪かつたので着替へるためにゆつくりと蒲団から這い出して着替へたのであつた。

外は既に日暮れ時を迎へてゐた。夜が明けなければてんで寝付けない彼にとつて昼夜逆転の生活は当然の帰結であつた。

彼は着替へると布団の上に胡坐をかきぼんやりと煙草をくゆらし始めたのであつた。

―それにしてもこの焦燥感。一体どうにかならないものかな。

彼は日々漠然とした焦燥感に、それも自身の存在自体に起因する漠然とした焦燥感に苛まれてゐたのであつた。

――悪寒がするな。何としたものだらう。現状は多分自分を持て余してゐる証拠だな。どう転んでも私は私でしかないか!

彼は手元の読み掛けの本を何気なしに手にとつてぱらぱらと捲つてある個所に目を留めその文章を黙読したが直ぐにその本をぽんと放り投げてしまつたのであつた。

――この本にはおれが求めてゐるものが何一つ書かれてゐないぜ。

彼は紫煙を思い切り吸い込みそして溜息をふうつと吐くのであつた。

――何もかもが下らない。

彼は寝覚めの珈琲を淹れる為に湯を沸かしにかかつた。

――何もかもが虚しいといふこの感覚はどうにかならないものか。私を存在させるこの宇宙を吃驚させられたら俺は満足なのかもしれないな。へつ。馬鹿馬鹿しいか? 小林秀雄じやないが存在の陥穽にすつぽりと嵌つてしまつてしまつてゐるぜ。へつ。

湯が沸き珈琲を淹れて彼は再び布団の上に胡坐をかいて坐したのであつた。そして珈琲を一口口に含んだのである。

何処からか梵鐘の響きが聞こえてきた。

――今のところ宗教には逃げ込めぬ。何ものかへの帰依は今の俺にとつて完全なる敗北だからな。

彼は再び珈琲を口に含む。

――どうしたものだらう、自分の存在に我慢がならないといふのは、へつ、如何ともし難いぜ、ふつふつ。

彼はゆつたりとした息で煙草の煙を吸ひ込みこれまたゆつくりとした息で煙草の煙を吐き出すのを何度も何度も繰り返すのであつた。実のところ彼は途方に暮れてゐたのであつた。若者ならば一度は通らなければならない自意識の置き処の不安とでもいふのか自身の存在の不安定さを何と扱つたら良いのか解らず、自分を持て余していつも不機嫌極まりなかつたのであつた。彼は私が私であることに腹を立ててゐたのである。

――どうして私は私なのだ!

彼の頭蓋内の闇にはその声が絶えず響き渡つてゐたのである。

彼は再び珈琲を一口口に含む。その珈琲は砂糖がたつぷりと入つた驚くほど濃い珈琲であつた。彼は煙草を銜えながらゆつくりと目を閉ぢたのであつた。

――どうしたものか、この私といふ存在は!

埴谷雄高風に言へばそれは正に自同律の不快に違ひなかつた。本当のところ彼は自分が持ち切れずに苦悩してゐたのであつた……。

 

 

沈下――断章 壱

 

睡眠とは不思議なもので、水面に仰向けで浮かんでゐる時に深々と息を吐くと身体が水に沈み込む如くに、何処か見知らぬ闇の水中世界へ沈下するやうな感じを私に抱かせるものであつた。私はそれ程睡眠時に至る瞬間について自覚的でもなくまた睡眠の瞬間には意識も夢現ないので本当のところは解らぬが、しかし、確かに睡眠に至るその瞬間は埴谷雄高も言ふやうに息を吐いた瞬間に違いないと思はずにはゐられなかつたのも確かである。私には、それが深い深い睡眠時だと尚更であつたが、睡眠が深い時は夢魔にうなされての息苦しさ――それは何処か水の底の底へ沈み込んでしまつた時の息苦しさでもあつた――で不意に睡眠が破られ目覚めてしまふ事しばしばであつたのである。それは正に息苦しくて空気を求めて堰を切つたやうに水底から水上へと顔を突き出しぶはぁ~つと息を吐く如きものとして私に深く深く刻印されてしまつたのである。多分に今見てゐるものが夢に違ひないと気付きながらも何とか白を切り夢の世界を見てゐるのだが、その様が息苦しくて息苦しくて私の意識は夢見から這い出るやうに私は頭蓋内で平泳ぎを泳ぐやうに腕を大きくかいて現実の蒲団に横たわつてゐる吾に還つてきてしまふのである。それはいつも大体同じであつた。多分ほんの束の間、夢に没頭してゐる筈であるが、暫くすると今見えてゐる世界は夢だと不思議に意識されてしまひ、しかし、それでも私は何としてでも夢見を続けたいのであるが私は溺れる者の如く息継ぎのために目覚めてしまふのが常であつた。だから私の眠りは浅く、夢といつても現実をそのまま映しただけのやうなもので夢特有の奇妙奇天烈な内容の夢を見てゐると途端に息苦しくなつて仕方がないのである。これは困つたことで多分これは一種の睡眠障害の症状に違ひなく、私はいつも寝不足気味で生活してゐるのである。困つたことに熟睡が決してできないのである。その淵源を辿ればきつと幼児期に途轍もない夢魔に襲はれたことのTrauma(トラウマ)に行き当たると思はれるが、多分、私にとつて睡眠時に夢を見ることは恐怖体験でしかなかつたのである。しかし、夢魔に襲はれ夢から覚めてはつと吾に帰り目をかつと見開き、暫く闇に包まれた部屋に身を横たへるその時間は、私には何となく好きな時間なのであつた。誰もが寝静まつた真夜中の闇の中に目覚めてしまふ自分のその存在のあり方は、何処か捨て難い魅力を持つてゐたのは確かである。多分、そのあたりに私の闇への偏愛の秘密の一端がありさうであるが、しかし、闇の中でかつと目を見開き何も見えない闇を先程まで見てゐた夢魔を祓ふやうにぼんやりと眺めてゐる時間は、私の思考をやがてフル回転させ、それは結局のところ無限へと誘ふのであつた。闇と無限について堂々巡りを繰り返すある種無意味な時間の魅力は筆舌に尽くし難い程私を虜にするのである。しかし、そんな魅力的な時間は長続きする筈も無く、暫くすると私は再び浅い眠りに陥るのが常であつたが、その眠りに陥る瞬間は、何処とも知れぬ深い深い深海の底へ沈み行く感覚を私に残すのであつた。その所為もあつてか醜悪な姿を曝す深海生物を目にすると私はついつい見蕩れてしまふのであつた。

――どうしてこんな醜い姿に進化したのだらう?

これが深海生物を見るとつい自身に発する愚問の始まりである。

――不思議だ。深海の闇の中でこの生物は自己を自己として自覚してゐるのだらうか? もし、自覚してゐたとしてこの生き物にとつて《美》とは何なのだらうか? 餌を捕獲し深海の水圧に順応することに精一杯で、《美》などこの生物の概念の範疇には皆無なのだらうか? いやいや、そんなことはない筈だ。この生き物も大部分は《水》で出来てゐる筈だから深海の水圧はあつて無きが如きものでしかない筈で、深海に適応するなんて朝飯前の筈だ。それなのにこの姿を選び取つた主たる要因は何なのだらうか?

と、深海生物に対する愚問は尽きる事が無いのである。

――もしや深海生物は夢現の中で存在してゐるのかもしれない! あの息を吐いて沈下する感覚の夢の中にゐるに違ひない! あつは。さうだとすると、このGrotesque(グロテスク)な姿も納得がゆくじやないか。全ては夢の賜物さ。妄想の仕業だ!

 

 

孵化

 

太陽内部の核融合反応によつて発生させられてしまつたガンマ線が未来の《光》になるべく太陽内部といふ強力な《場》から数万年かけて脱しなければならないその道程の険しさにも似て、或ひはわし星雲の中心部の積乱雲の如き柱状に屹立したGas(ガス)の雲塊の中で何万年といふ時間をかけて次々と誕生させられてしまふ星々が太陽風の如きPlasma(プラズマ)の嵐でもつて次第に吹き飛ばすGasの塵芥の晴れ行く様にも似て、受精卵といふたつた一つの細胞から何度も何度も細胞分裂を繰り返した末に雛にまで成長してしまつたその卵中の雛が、まだよちよちの真新しい嘴でこつこつと卵の殻を突つつき卵の殻をやつとのこと割つて外へ出ようとするその様は、さながら自己といふ名の《殻》に我慢がならずその自己といふ名の《殻》を割つて更なる新たな自己へと変容する自己超克の或る一つの形を見るやうで、孵化といふ新たな生命の誕生するその様は、しかし、卵の殻を割る途中で力尽き卵中で死んでしまふ雛も数多ゐることからも死と隣り合はせの大仕事であるのは間違ひないのである。しかしながら、殻を割らずにずつと卵の中に留まり続けることもまた死を意味するのである。故に現在の自己といふ名の《殻》は絶えず嘴で突いて割らなければならない宿命を、悲しい哉、自己は負つてゐるのである。現在を生きなければならないものにとつて自己満足若しくは自己充足なるものは御法度なのである。現在の自己の有様に満足してしまつたならばその時点で、哀しい哉、即、死を意味するのである。自己は絶えず自己といふ名の《殻》を破つて絶えざる自己変容を続けることを精子と卵子が受精してしまつたその瞬間から強要されてゐるのである。

尤も卵から孵つた雛は《他》の格好の餌食でもあるのだ。卵から孵つた雛は《親》といふ存在に守られてゐなければ、それもまた死を意味するのである。そして、自己といふ名の《殻》を見事に破つて自己超克を成し遂げた雛たる自己にも《親》は勿論のこと、其処には先人達が一生かけて築き上げた知恵の数々や《神》が存在するのである。しかし、自己といふ名の《殻》を破つた自己は即座に自力で先づは大地に屹立しなければならない。それが人間といふ二律歩行を選んだ存在の宿命である。それから徐に一歩を踏み出すのである。しかしである。哀しい哉、新たな自己として一歩を踏み出さうとしたその瞬間、自己彫刻を成し遂げた自己は新たな自己といふ名の《殻》にぶち当たるのである。其処で留まつて自己保全を選択するのも自由であるが、所詮、自己といふものは自己に我慢がならない存在である。更に硬質となつた新たな自己といふ名の《殻》を突つついてぶち破るのには、自身の嘴を更に鍛錬して強固なものにしなければ自己は一歩も踏み出せないのである。哀しい哉、それが人間といふものの存在の仕方である。

さて、しかしである。ピーピーと鳴いて親の嘴をこつんこつんと突つき餌をねだる雛もまた親が捕へえた《他》といふ餌を喰らはずには一時たりとも生き延びられない宿命を負つてゐるのである。これは矛盾してゐるやうにも思へるが、存在する《もの》全ては《他》を餌として喰らはずには生きられない哀しい存在なのである。食物連鎖の中でしか生きられない哀しさ……。

…………

…………

――こつこつとこつこつ……割れた……殻に穴が開いたぞ。外部世界が見られるぞ!

――へつへつへつ。お前もまた《他》を喰らふ宿業の中へ踏み出してしまつたな。さあ、餌を喰らへ。そして生きろ、へつ。

――何のことだ? 吾は自己をたつた今彫刻したのだ。はつはつはつ。

――馬鹿め。よおく眼前を見ろ!

――ぬぬ。何かある! ちぇつ、またこの《俺》じやないか!

――精精《他》をたらふく喰らつて新たな自己を超克するんだな、けつ。

 

 

奈落

 

地上は此の世の奈落の底ではないのか。重力に縛られてゐる以上、此の世の存在物は全て落下してゐる。多分、常に奈落の底へと落下してゐなければ存在の体をなさないのだ。しかしながら吾等が存在物は全て常に落下してゐる状態に慣らされて順応してしまつたがために、それが当然のこととして存在してしまつてゐるのではないか。

――そもそも重力とは何ぞや。

この愚問を一たび発してしまふと、最早、全ての事に対して問はずにはゐられないのだ。

――そもそも重力に縛られて存在してゐるその存在とは何ぞや。

とはいへ無重力状態なるものを人間は宇宙空間で体験してゐるではないかといふ反論が聞こえてくるが、無重力状態とは正に自由落下してゐることのその状態のことであつて、その状態を維持するために必然的に地上を高速で周回して釣り合いが保たれてゐるに過ぎない。存在するものは絶えず奈落の底へと落下してゐるのだ。

――落ちるといふことが存在なのか!

さうなのかもしれぬ。存在とは落ちて何ぼの世界なのかもしれぬ。

――では聞くが、この天の川銀河も何処かへか落ちてゐるのか。

――へつ、銀河の中心にある巨大Black hole(ブラつクホール)へ落ちてゐるんじやないかね?

――解らぬ! そもそもこの時空間とは何ぞや。先見的なんぞといふ答へはここでは御法度だぞ。

――へつ、自身の存在すら解らぬものに時空間が解る筈がない。先づは己の存在を問ふんだな。

そもそもこの存在するといふことは何なのであらうか。多分、此の世の存在物全てが常時問ふてゐる筈だ。

――吾とは何ぞや。否、何が吾か?

しかしである。その問ひに答へた存在物は多分此の世にこれまでのところ存在したことがない。

――神、さうだ、神がゐるではないか!

――神? けつ、神が神存在について御存知ならば、人間は、否、此の世の存在物全ては未完成品として此の世に存在しなかつた筈だぜ。

――すると、神すらも存在については不明といふことか?

――へつ、その通りさ。神すらも存在の何たるかを知らぬ。

――するとだ。そもそも何故、吾等存在物は存在してしまつてゐるのだ!

――けつ、落ちろ、落ちろ! 奈落の底へ落ちろ! 落ち切つたところで初めて見えてくるもんじやないかね。

――嗚呼、何故吾は此の地上に誕生してしまつたのか!

沈黙の神。全ては沈黙の中に隠されてゐるのだ。神が何も語らぬ故に吾等は生存してゐるのかもしれぬ。

そもそも存在物全ては世界を真に認識出来得るのだらうか。

――虚仮の世界認識!

――はつはつは。世界も無限に存在の仕方が存在する。

――また無限か……。

――さうさ、お前等は無限について何も知らぬ。知らぬ故に存在も世界も真に認識出来ぬのだ。落ちろ、落ちろ! 奈落の底に落ち切つてしまへ。さうすれば否応なしに無限の何たるかがわかる筈だ。へつ、落ちろ、落ちろ! 奈落の底へ落ちるのだ!

 

 

残像

 

真夜中、部屋の電燈の明かりをぱちりと消した瞬間、辺りは闇と静寂に包まれるが、すると私はいつも奇妙な荷重が自身にかかつて何となくではあるけれども自身が通常よりも少しだけ重いと感じるのであつた。

――この重さは何なのだらう……。

さう思ひながらひと度は蒲団に身を横たへてみるのであつた。

――闇に沈む吾……。

そんな感慨に耽りながら私は闇の中で瞼を開き、眼前に拡がる闇を凝視しにかかるのであつた。

――闇にたゆたふ吾の不思議……。

暫くはそのまま自身を蒲団の中に横たへ、自身の存在に我慢――我慢といふのは変なのだが、どうしてもこの時間は自身の存在を我慢するとしか言ひ様がないのである――し、私は自身と向き合ふのであつた。するとぬつとその顔を突然闇の中に突き出すやうに、何とも名状し難い自身の存在の虚しさに私は包まれてしまふのであつた。

――虚しい……。

と、私は不意に起き上がり蒲団の上で胡坐をかいて闇の中でライターを手探りで探すのであつた。

――しゆぼつ。

ライターの火が点ると同時に闇はさつと身を引いて物影の背後に蹲るのであつた。

――ふうつ。

と、私はそこで突然ライターの炎を吹き消すのであつた。

ライターの炎の明かりの残像が私の網膜に残り、闇の中でぼんやりと輝く中、私はその残像を凝視し残像の御蔭で何となく自身が軽くなつたやうな錯覚を楽しむのであつた。そして、ゆつくりと瞼を閉ぢ、瞼裡に浮かぶライターの炎の残像を凝視するのであつた。

――重い……。この度し難い存在め!

私は闇の中で独り蒲団の上に胡坐をかいて座してゐる自身の存在の不思議を感じずにはゐられないのであつた。

――自身に重さがあるのは何としたことだらう!

――ぷふい。

と、そこで私の内部の住人たる異形の吾が嘲笑ふのであつた。

――何が可笑しいのか?

――ぷふい。何が可笑しいつて、お前のその思考する存在のあり方自体そのものが可笑しいじやないか! 何故自身に重さがあるかつて? ぷふい。お前もまた地獄の住人だからさ。

――何? 地獄の住人? 重さがあることがどうして地獄に結び付くのか!

――ぷふい。重さがあるつてことは、此の世の時空間の穴だつてことだぜ。つまり、奈落の底さ。

――重さが此の世の時空間の穴凹だといふのは果たして重力場のことを指して言つてゐるのか?

――さうさ。五次元時空間の住人から見れば重力場は穴凹に違ひない。そして、それは、つまり、奈落の底つてことだ。つまり、地獄だ。

――へつへつへつ。お前の思考もまたどん詰まりだな。重力場が地獄へと一足飛びに飛躍してしまふなんぞはその証拠だぜ。

――ぷふい。それじやあお前は極楽の住人だつて言へるのかい?

――へつへつへつ。重さを感じるつてことはまだ己が自由落下してゐないつて証拠じやないか。つまり、まだ奈落の底には至つてゐない!

――ぷふい。地上が地獄の底でないつて誰が決めたのだ!

と、ここで私は

――しゆぼつ。

と、再びライターに火を点し、その炎を凝視するのであつた。

――ふうつ。

と、再び私はライターの炎を不意に吹き消し、闇の中にぼんやりと残るライターの炎の残像を凝視し始めるのであつた。

――へつ、この地獄の住人めが! お前のその虚しさがその最たる証拠じやないか! 馬鹿めが! さあさあ、もつと落ちろ!

 

 

時の瀑布

 

神の鉄鎚の一撃が振り下ろされた結果、流れ始めてしまつた時間、或ひは超爆発(ビつグバン)によつて時空間が生じ爆発的に膨脹を始めてしまつたこの宇宙のその原初において、或ひは特異点がFractal(フラクタル)に自己相似的にこれまた爆発的に存在の核として拡散したこの宇宙の原初において、神は自らの一撃によつて生じた存在に対する憐みの涙を流したのだらうか。

…………

…………

――存在の懊悩は特異点の懊悩に等しい……。

――えつ、それはどういふ意味かね?

――つまり存在するといふことはその内部に特異点を内包してゐる……。

――えつ、特異点が内包されてゐるつて?

――さう。存在の謎は特異点の謎に等しい……。

――えつ、それはどういふ意味かね?

――特異点の裂け目を蔽ひ隠すやうに存在は存在する。つまり、特異点が特異点のままである以上、存在はその素顔を見せることはない……。

――ふつ、しかし、存在は既に存在してしまつてゐるぜ。

――ふつ、それが存在の素顔だと思つてゐるのかい? 時は移ろひ存在もまた変容する。銀河の中心部の巨大Black hole(ブラつクホール)を考へてみれば君も納得するだらう……。星星は砕け散り、事象の地平面といふ時の瀑布にもんどりうつて雪崩れ込むその時の存在の呻き声を君にも聞こえてゐる筈だ……。

――……。

――うぁぁぁぁああああああああああああああああああああああ――。

 

 

陰影――断章 四

 

暗夜の闇の中で見る花咲く桜の樹は、成程、桜の樹の下には死体が埋まつてゐるといふ話が本当のやうな、それは何か名状し難い想像を絶した妖気めいたものを闇の中で発し、気配であそこに桜が咲いてゐると闇の中でもはつきりと解る程、妖気が匂ひ立つてゐるのである。それにしても闇の中の桜の花は妖艶である。多分、この異様な程の妖艶さは、闇が深ければ深い程際立つので、現代人は《癒し》などと呼んで嬉しがつてゐるが、しかし、本当のところはそれを気味悪がつて桜の妖気を拡散させなければ花を愛でられないので愚劣なLight up(ライトアつプ)をしてゐるに違ひないのである。

桜の花には何といつても闇が一番似合ふ。といふよりも闇の中のもの全てが何となく生き生きと感じられるのである。暗夜の下を独り逍遥してゐるとつくづくさう思へて仕方がないのである。

闇を人工燈の明かりで駆逐するのは愚の骨頂のやうな気がしてならないのである。中でもLight upは何をか況やである。ものみな全て暗夜の中で一息つかうとしてゐるのを何故Light upして闇の中でもものの姿形を人工燈の明かりで曝すのであらうか。

闇の中でLight upされたものは種類を問はず哀れである。中でもLight upされた桜の花は尚更哀れで私は見てゐられないのである。成程、Light upすると見た目は一見美しいかもしれないが、しかし、もの本来持つてゐる異様な気配といふものがLight upの明かりで封印されてしまつて、Light upされたものは愚劣で皮相的なぺらぺらな何かに変質してしまつて、見てゐて痛々しいのである。

更に言へば闇が人工燈で照らせるのが自然だと思い込んでゐる現代人の傲慢が気色悪いのである。それが現代人の思考法にまで深く深く及んでしまつてゐて、最早手の施しやうがない程で、つまり、闇が照らせるものといふ思考法が諸悪の根源のやうな気がしてならないのである。

仮に明かりの下の世界を有限の世界、つまり、ものが有限の姿形を曝す有限の世界だとすると、闇の世界は無限に繋がつた無限の世界と規定出来るかもしれない。それなのに何故現代人は人工燈の明かりを持ち出して無限へ通じる道を断ち切るのであらうか。闇といふ無限が不安を誘ふからであらうか。多分にそれは覚悟、己は己であるといふ覚悟が結局のところ出来てゐない所為のやうな気がしてならないのである。

己が己であるといふ覚悟は空前絶後で想像を絶する覚悟が必要である。精精去来現のほんの百年足らずといふ束の間を生きるのみの私は、それにしても私は私であるといふ自同律を一度たりとも全的に引き受けることか果たして可能なのであらうか。当然、無数の客体に囲まれた此の世の現状から無理矢理私は私に収斂されてゐるが、しかし、私は私に満足である、つまり、自身に自足してゐる私なるものか果たして存在可能なのであらうか。それが不可能故に現代人はそれを考へたくないために無限の吾に通じる闇を断ち切るべく何でも人工燈の明かりにものを曝してもの皆全てを或る姿形に押し込めてしまはなければ不安で仕方ないのかもしれない。自身の内界の闇を一瞥さへすれば其処には醜悪極まりない異形の吾がにたりと笑つて私を侮蔑してゐるのが解かる筈である。それ故に内界の闇に通じる闇を外界に齎すことを極力避けるべく日々人工燈の明かりの下に焦がれるのであらうか。闇の中でこそ《個時空》なる私が私であることを強要される場面はないのである。

闇の中における《個時空》たる私を何とか私たらしめようとする自同律の不快のこの私を持続させる原動力を、現代人は不問に付すべく人工燈の明かりの下に身を寄せるのであらうか。

私が私であるといふ覚悟は空前絶後の想像を絶する覚悟である。

例へば食べ物一つとつてもその覚悟が試されるのである。例をあげれば植物を人工交配し、植物が他の何かへ変容することを人工的に断ち切つて食物として一番優れた植物を作るべく、人間は植物の変容を人間に従はせるが、そこで植物の他へ変容する自由意思を奪つて或る植物を或る食物にさせるのである。更に今では遺伝子の組み換へといふ、植物を生まれながらに何か別のものに変容する自由意思を全的に奪つて人間に都合が良い食物を作り果せてしまつたのである。その上太陽光や大地といふ土などの《自然》から植物を断ち切つて水耕栽培や発光Diode(ダイオード)の人工的な光を使つてまるで工場製品を作るやうに食物を生産する段になると、果たして人間は植物が抱くであらう何かへ変容する自由意思を全的に奪はれた恨み辛みや大憤怒をも食物を喰らふ時にそれらも一緒に喰らつてゐるといふ覚悟があるのであらうか。

この植物の大憤怒を喰らふ覚悟もなしに人間は食物を喰らふ大馬鹿をしてゐるとしたならば、人間は生きるに値しない――。

…………

…………

――吾は、吾であることが……不快である……。

――へつ、不快だと?

――さう、不快なのだ。

――だから、それがどうしたといふのか? 吾を喰らふお前にとつてそれは当然の報ひだらうが!

――吾を喰らふ?

――さうさ。人間は吾等の自由意思を全的に奪つて人間に都合が良い生き物を此の世に誕生させ、生き延びてゐやがる。ちぇつ、お前ら人間に吾等の憤怒が解かるか? どうせ吾等食物のことなど何にも考へずに只管自己の生に執着して己の為のみだけに吾等食物を平気で喰らつてゐるのだらう。

――いや……。

――いや? けつ、それはお前等人間の常套句だぜ!

――否! だから俺は俺であることに不快なのだ!

――へつへつへつ。だからそれはお前等人間の当然の報ひだと言つてゐるだろうが! 悔しかつたなら何か人間以外の何ものかへ変容してみろ! この馬鹿めが! 人間が人間以外の何かへ変容しない限り吾等食物の大憤怒は治まり切れないのだ! この大馬鹿者が! ほれほれ何かへ変容してみな、けつ!

 

 

深淵 参

 

吾は暫く気を失つてゐたやうであつた。吾が気を失つてゐる間、それは誰の夢とも知れぬ誰かの夢が私の脳裏を過り私の暗い頭蓋骨の闇の中でそれは明滅を繰り返しゐたのである。吾は夢が泉の如く湧き上がる大いなる夢の王国に足を踏み入れたのか、それても夢の姥捨て山に足を踏み入れたのかは解からぬが、吾は初めて夢なるものをその時見たのであつた。しかし、それれは唯そんな気がしただけのことであつて夢何ぞもしかすると全く見てゐなかつたのかもしれなかつたのである。

それはこんな風にして始まつた。忽然と小さな小さな赤い光の点が遠くに遠くに見え始めたのであつた。

すると小さな小さな赤い光を取り巻く闇はごおつと轟音を立て始めて、その小さな小さな赤い光を中心に反時計回りに渦を巻き出したのである。吾はこの時初めて光なるものを認識したのかもしれなかつた。初めは何の事か解からずに唯呆然と眼前で起こる様を見守るしかなかつたのであつた。それまでは光なんぞの概念が全くもつて欠落してゐた私の概念の中にこの小さな小さな赤い光の点は何なのか初めは名状し難かつたのであつたが、成程、これがもしかすると光かと妙に合点したのであつた。すると、吾は闇であるといふ自己認識が明瞭に吾に認識され心に刻印されることになつたのであつた。さうである。吾は闇なのであつた。

――吾もまた闇……。嗚呼……。

しかし、吾は夢の中とはいへ小さな小さな赤い光を見出してしまつたのであつた。これは吾にとつてコペルニクス的大転回を齎すもので、此の世に光なるものが存在出来るといふことは、吾の吾に対する自己認識に多大な影響を及ぼすのは間違ひのないことのやうに思はれたのであつた。兎に角吾はさう信じたかつたのかもしれなかつたのである。

――あの小さな小さな赤い光とこの渦巻く闇は何なのだ!

吾は夢の中に小さな小さな赤い光を認めた時、そんな言葉を吐いたかもしれなかつたかもしれない……。

するとその小さな小さな赤い光の点は忽然と大きく巨大な火の玉となつて吾に向かつて疾駆して来るではないか! 吾は思はず

――あつ!

と、恐怖の声を上げてその突然の出来事に唯呆然としてゐた筈である。

――ああ、飲み込まれた!

と、思つた瞬間、吾は夢の中で再び卒倒したのであつた。それから何分、否、何時間、否、何日経過したであらうか。吾はそれ以降、夢の中の無明の闇の中にじつと蹲り続けてゐたのであつた。

不意に夢の中の吾が再び夢見を始めた刹那、夢の中の吾の眼前には火焔に包まれた大男がにたりと笑つて突つ立つてゐたのである。その火焔に包まれた大男が徐に右手を吾の方へ突き出しで吾の額を撫でたのであつた。その手は意に反して全く熱くなかつたのである。

すると忽然とその火焔に包まれた大男は姿を闇の中に消したのであつた。その後には

――汝何者ぞ?

といふ誰の言葉とも知れぬ言葉が吾の耳元に残されたのであつた。

と、其処で吾は目覚めたのであつた。

辺りはやはり闇また闇であつた。

――汝何者ぞ?

とは、はて何の事であらうか。それまで吾が吾であることに多少の疑ひは持ちつつもそれでも吾は吾であると認識してゐた吾は不意に不安に駆られるのであつた。何たる体たらく!

――吾もまた闇……。これは間違ひであつたのか?

もしかすると吾が闇であると独りで思ひ込んでゐたに過ぎず、吾は既に闇以外の何かに変容を遂げてしまつてゐたのかもしれなかつた。

――吾は何者ぞ!

唯の夢での話ではないかとは思ひつつも吾は不安であつた。吾は何ものかであるのかその時全く解からなくなつてしまつたのであつた。

辺りは相変はらず闇また闇。吾が何ものかを認識する術は吾の内部にしか存在しなかつたのであつた。

吾は再び恐る恐る右足をのつそりと前へ突き出してみるのであつたが、やはり其処は何もない闇の深淵で吾は《浮島》に浮かんでゐる何ものかでしかなかつたのであつた。

――吾は何者ぞ!

吾の頭蓋内の闇には様々な他者の心像が浮かんでは消え生滅してゐたが、結局のところ吾の手がかりは闇の中に消えたままであつた。

――けつけつけつ、外界を突き破る程凝視せよと言つたではないか。

辺りの闇は相変はらず吾を侮蔑してゐたのであつた。

――吾もまた闇ではなかつたのか?

――へつ、お前が闇だと? 笑はせて呉れるぜ! お前は既に自意識なるものが芽生えてしまつた闇ならざる闇もどきの闇としてこの闇の中で自存せうとしてゐるんだぜ!

――自存?

――さうさ。お前は既に光なるものを夢の中とはいへしつてしまつた。巨大な火の玉と火焔の大男を見ただらう。

――ぬつ、さてはあの夢はお前の仕業か!

――けつ、だとしたらどうしたといふんだ。いい見世物だつたと思ふがね、けつ。

――あの夢は何の暗示かね?

――どうぞご勝手に解釈を試み給へ! 自意識が芽生えてしまつた輩は何かと解釈をしたがるから、勝手に好きなやうに解釈するんだな、けつ。

辺りは闇また闇である。この闇の中の《浮島》で蹲る吾は一体何なのだ。再び辺りの闇に異形の吾の顔が次々と浮かんでは消えて行つた。

――嗚呼、吾は闇なるか、それとも自存する闇体へと変容を遂げてしまつたのか?

と、その時辺りの闇全体がぶるつと身震ひしたのであつた。

――闇体だと! すると闇たる吾は何なのだ!

――闇たる吾? おかしいじやないか! 闇のお前も吾と己を規定するのか? お前は無限を飲み込んだ何ものかじやないのかね?

――ぬつ、無限もまた無限であることに我慢がならぬ……。

――無限が無限であることに我慢がならぬ? 異なことを言ふ! もしや、闇たる無限のお前にも自意識が芽生え始めてしまつたのではないか?

――ぬぬぬぬぬつ。吾なる概念を無限の中に抛り込んだ筈なのに! 吾は吾たらうと闇の中で蠢き出すのだ!

――吾が闇の中で蠢き出す? これまた異なことを言ふ。もしや、無限のお前もまた無限であることに我慢がならずに何かへ変容したがつてゐる。はつは。それでブレイクは無限を火の玉に封じ込めやうとしたのだ。それでも無限は無限の殻を破らざるを得ない。へつ、それで前は《吾》へと変容したのか?

――けつけつけつ。闇の《浮島》に蹲り吾すら解からぬお前に何が解かる! さつさと《吾》に変容し果せてみよ。

辺りは闇また闇であつた。

――嗚呼、闇でない《吾》とは一体何なのか! 《吾》は果たして《吾》なるものなのか!

それ以降、唯唯深い深い苦悶の沈黙が永劫に続いたのであつた。

 

 

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