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光に希望を見てしまふこの条件反射的な思考法は誤謬である

 

往復を繰り返す渾沌の時間が未来を切り拓くか

 

固有時の内実を見れば

その内部で固有時は絶えず過去と現在の「私」といふ意識の往還であり、

その往還が時折、ヒョンとあらぬ方向へと飛んで、

思ひもかけぬ未来が拓ける事があるのは、

主体と呼ばれるものであれば何ものも経験済みの事だらう。

確かにデカルトのいふ通り吾は絶えず考へてゐて、

その考へ方が絶え間なき「私」の過去、現在、未来、つまり、去来現(こらいげん)の往復であり、

考へれば考へるほどに吾は「私」の内部に無限に拓けてゐて宇宙をも呑み込み

其処では虚空が映える滅茶苦茶な時空間が存在してゐるのは、

これまた、誰もが認識してゐて、

その時空間があるお陰で吾は考えてゐる時、

不可思議な自在感に囚はれるものなのだ。

 

その時空間ではそもそも時間が一筋縄では流れず、

去来現がある種平面上に俎上されたかのやうな具合で、

それはポップコーンが爆(は)ぜるやうにして

出来事の事象が「私」に迫って来て、

その出来事の迫り来る仕方は

ポップコーンの唐黍(もろこし)の種のどれが爆ぜるのかは予測不可能なやうに

蓋然性を持って過去に吾に起きた或る出来事が時間軸から解放され

突然、現在の吾に迫り来て、

考への進む方向の暗示を与へてくれたり、生き方に多大な影響を与へたり

過去といふ時間軸の串刺しから解き放たれた記憶は、

時間の連続性を気にせずに

時系列としては全く正しくないのであるが、

出来事はガラガラポンとかき混ぜられて

出来事は一度超主観的な判断で腑分けされるやうに

或る親和性で以て纏められるものなのだ。

これがもし行はれないとするならば、

独創性など生まれる筈もなく、

つまり、「私」の内部の時間は正(まさ)しく渾沌でしかなく、

また、渾沌としてゐなければ、

未来を知る由もなかったであらう。

詰まる所、渾沌が多様な生の坩堝なのだ。

そして、吾は内部に渾沌を抱へてゐるものなのだ。

一刻を生き延びるために。

 

 

肯ふは歪んでゐる世界なのだ

 

極度の乱視のせゐもあり、

私の見えてゐる世界は

そもそもが像を結ぶ焦点がずれてゐて歪んでゐるが、

それを眼鏡で矯正したところで、

その世界もまた、視界の周縁部は

眼鏡のレンズの影響で歪んでゐる。

ところが、私が歪んでゐると言ってゐるその根拠となる”基準”の世界は、

歪んでゐないのかと言へば、

アインシュタインの一般相対性理論を持ち出さずとも

確かに歪んでゐて、

重力がある処は何れも歪んでゐなければ、不合理なのだ。

――ならば、魂の類ひ、例へば心や意識もまた、歪んでゐるのが”正常”なのか?

と、私の内部の人がぼそりと呟くのであるが、

私は内部の人に

――当然だらう。

と、嘯くのである。

本当のところ、魂も心も意識もその形相を知らぬ私に

それらが歪んでゐるなどとは解る筈もなく、

然し乍ら、歪んだ世界に生きる私は脳が世界を見るときに

その歪みを補正して見せてゐるかもしれぬが、

さうならば、先験的に世界が歪んでゐるのは必定であり、

“本当の世界”なるものはぐにゃぐにゃに歪んでゐる筈である。

 

例へば魂も心も意識もぐにゃぐにゃに歪んだ世界に対して

少しでも盧舎那(るしゃな)のやうに遍くその念力が及ぶためには球体が最適ならば、

それらの形相は球体をしてゐて、

さうすれば、世界は四次元多様体から

五次元、六次元、七次元と

次元は最終的には∞次元多様体の世界にも繋がる糸口がある事になると

私は個人的に考へるのだ。

何故ならば、此の世で球体は高次元へと開かれた形相と看做せ、

といふのも球体は∞の法線が存在し、

それは球体が∞次元多様体と接してゐるのではないかと言ふ事を暗示し、

それ故に、魂にも心にも意識にも

∞次元の世界の想定が可能なのではないかと思はれるのだ。

その根拠はそもそも眼球が球体をしてゐて

四次元以上の世界をも見てゐながら、

それを脳が情報処理をして

此の世が恰も四次元多様体であるかのやうに見せてゐると邪推すれば、

“真の世界”なるものは脳により隠されてしまってゐるといふことになる。

 

――疑へ! 何もかも疑へ! 懐疑的であらんことこそ物自体に出遭へる可能性が高まるといふものだ。さすれば、この歪んだ世界も乙なもので、素直に肯へるというものだ。

 

 

寄る年波

 

もう二十年くらゐ前に

阿古屋貝に異物が入って貝の体液で真珠が作られるのと同じで、

味噌汁の具の浅蜊に将に天然の小さな途轍もなく硬い真珠が出来てゐて、

さうとは知らずにそれを加減なしに奥歯で噛んでしまったとき、

奥歯がぐきっと根元で骨折したかのやうな感触を感じたが、

医者嫌ひの私は、絶えず奥歯に違和を感じながらも

歯医者には行かずに過ごしてゐたところ、

到頭、奥歯の寿命が来て事切れるやうに奥歯が一つ根元から折れてしまった。

 

その破断面を見てみると

約半分が浅蜊の真珠を噛んだときに折れてしまってゐて、

其処は黒ずみ、虫歯となって歯を日日浸食してゐたやうだ。

成る程、奥歯が折れる一ヶ月ほど前から

奥歯から悪臭漂ふ状態となり、

歯もぐらぐらになり、

歯磨きの度に血だらけになるほどであったのだ。

その状態で、ちょっと硬い焦げた飯を噛んだところ、

ぽろりと奥歯が折れてしまった。

半分で繋がっていた奥歯は、

捩じ切れるやうに折れたのだ。

それはまるで金属疲労で金属がある時に断裂するのと同じ仕組みであった。

 

仕方なく、折れ残った歯の断面が口腔内を傷つけるので歯医者に行って、

折れ残ったものを全て抜いて貰った。

寄る年波は勝てないもので、

とはいへ、折れた奥歯もよく持った方である。

 

ところで、何故、奥歯を放っておいたかといふと、

それは医者嫌ひもあるが、

ちょうど私が奥歯を痛めたのと時を同じくして亡くなった父親の

私に対する置き土産としてそれを私は感じたからである。

不肖の息子の私は、父親が生きてゐるときもさうだが、

何にもしてやることが出来ず、

親不孝の限りを尽くしてゐたのだ。

それに対する罰として私は違和ある奥歯をなんだか父親を愛撫するやうに

保持したのであった。

さうしないと、父親は浮かばれないに違ひないとの思ひながら、

私は絶えず奥歯に違和を感じ、

さうして父親を思ひながら幾星霜も暮らしたのだ。

 

許してくれたのかな。

父親も亡くなって二十年余り。

父親の私に対する瞋恚はこれで厄が落ちたるやうに落ちたのかな。

かう考えると、人の恨みは死後も何十年も此の世に残るものなのである。

しかし、その分、私は年を取ったものだ。

 

 

追ってゐたのが幽霊だったとしても

 

本当は得体が知れずに内発してゐるのかもしれぬ《杳体》――これは埴谷雄高の「虚体」では存在の尻尾すら捕まへられぬと思ひ至った私が、存在の一様態として考へ出した造語で、杳としてその本質が解らぬ存在の未だ見果てぬ有り様を暗示する存在形式としての杳体である――としてとか、

それとも、形相のみがはっきりとしてゐただけの

窈窕の女性の幽霊に誑かされて

性欲の捌け口を求めただけのことなのか。

 

その女性との蕩(とろ)けるやうな愛欲の日日は、

確かに存在した筈である。

彼女の匂ひ、肉体の感触、愛液の匂ひと味など、

鮮明に記憶に残ってゐるのであるが、

では、それが、真実であったのかは私の記憶に対する信頼性に依るが、

記憶が真実と思ってゐるのは私のみで、

これを例へば誰かに話したところで、

半分嘘が混じった私の誇大妄想としてしか受け取られず、

他者にとってそれは真実にならぬのだ。

 

ならば、これは徹底して内部の出来事として

私は内部に隠匿しなければ、

真実性は、若しくは確実性は零れ落ちてしまふ不安に駆られる。

 

ゆらりと飛び行く記憶の精が記憶を薄れさせ、

ほら、それが鮮烈な記憶であればこそ、

記憶は自分に都合よく捻ぢ曲げられ、

記憶で出来たイデーの一王国は崩壊の萌芽を抱え込むリスクに晒され、

やがては霧散する運命なのだ。

――あっは、私の存在の根拠は絶えず顫動してゐて、その印象は哀しい哉、薄れ行くのだ。

 

 

悪夢に魘(うな)されながらも尚

 

夢を見てゐるとは薄薄感づいてゐたが、

しかし、それは確信には至らぬ私は、

悪夢の土壺に嵌まってゆくのであった。

 

それが夢魔がなすがままであったとは気付かずに

然し乍ら、夢魔の傍若無人な振る舞ひが目に余る

酷い有様の”此の世界”から

一歩たりとも抜け出せぬ吾が無力を嘆きつつ

ところが、世界から抜け出せると思ってゐる私は、

世界の本質を知らぬ馬鹿者でしかなかった。

 

夢でしかない此の世界が”現実”である気がしてならぬ私は

やはり、此の世界で今起きてゐる出来事が

悪夢であってほしいとの願望が先立ち

しかし、それが夢とは半信半疑の私は、

一方で、魘されてゐる我が身を俯瞰してゐる私がゐて、

世界に振り回されてゐる私を哄笑しながら

悪夢のやうな世界の有様が妙に現実感に富んでゐので

時に現実は夢を超える事象を引き起こすやうに

修羅場から遁れたくも遁れられぬ私を

――もっといたぶれ!

と、夢魔に翻弄される私を私は面白がりながら

私を俯瞰してゐる私はその残虐性を満足させてゐたのである。

 

世界に追はれ、最早逃げ場のない私は

今起きてゐる事が夢である事に賭けて

清水寺から飛び降りるやうに

夢から飛び降り、

目覚めたのであるが、

何に対して私は夢で藻掻いてゐたのかと

未だに寝惚けた頭を弄(まさぐ)ると

世界に翻弄される私を恥辱と感じて

私はそんな私を嫌悪し足掻いて見せたが、

それが夢であらうと

世界に対して独り抗ふ私は

その根本に世界を嫌ってゐる私がゐて

世界の顚覆を密かに願ってゐた私は、

何よりも世界に翻弄されるのを嫌ってゐたが、

しかし、絶対的非対称性の中で

私が世界に翻弄されるのは極極自然な事で、

それを受け容れられぬ私の狭量さは

目を蔽ふばかりで、

それは傲慢といふべきものである。

 

悪夢は醒めるが世界からはどう足掻いても遁れられぬ。

 

――ふっふっ。それでも不満だらう?

 

目覚めてからの私には

薄ぼんやりとした不安ばかりが

渺茫と心に拡がるばかりなのであった。

 

 

思考相転移論私論

 

思考する時、大概はそれは連想するといふ事を繰り返しながら、つまり、反復を繰り返す内に微妙にずれ行く差異をして何とか問ひに対する解に辿り着くものであるが、しかし、それではどう足掻いても解に辿り着けぬ事態に遭遇すると、思考する人はうんうんと唸りながらも絶えず問ひの解を求め続けて頭を回転させてゐるのである。ここで、頭を回転させるといふ表現を敢へて用ゐてゐるが、実際に思考するとは脳神経のNeuron(ニューロン)の連続して起きる発火現象が渦を巻き回転してゐるのかもしれず、慣用的に用ゐられてゐる「頭を回転させる」といふ表現はあながち間違ってはをらず、つまり、人間の直感は睥睨すべからぬもので、真理を穿ってゐる事屡屡(しばしば)である。

それはさておき、うんうんと唸りながら、問ひの解を求めて寝ても覚めても絶えず頭を回転させてゐると、ひょんな事から、また、あらぬ方向から突然に解へと至る光明が見える閃きが起きることがある。この不規則な脳の働きを私なりに陳腐な理論付けをすると、まず、「頭を回転させる」事で渦を巻いてゐた回転運動といふ平面運動、つまり、二次元空間での運動は、渦動する事で、ストークスの定理を持ち出さずとも渦動面に垂直な軸が生成される事は、自然の成り行きで、これは例へば颱風のやうなカルマン渦を見れば明らかである。誰もが渦動は二次元空間を三次元空間へと相転移させる現象を知ってゐる筈である。つまり、xy平面で渦動してゐたそれまでの思考が渦動に渦動を重ねる内に渦の法線方向にも時空間は相転移して三次元空間、これは四次元多様体と同じものを指すが、といふのも、時間と空間がもう区別出来ぬといふ事が言はれて久しい事からであるが、渦動は時間をも含有した四次元時空間を生成する。或ひは時空間が四次元多様体に相転移してゐるから渦動出来るのかもしれぬ。

それまでxy軸による平面上を渦動してゐた思考はひょんな事からz軸へと「超越」してみせ、眼下にそれまでの渦動してゐた思考の「渦」を俯瞰し、それまで全く持てなかった新たな視点を思考が相転移する事で獲得し、それまで何処を向いても視界不良のまるで濃霧の中を彷徨ってゐるやうな感覚でしかなかったものが、それまでにはなかった不規則なz軸の視点を持つ事で閃くのである。

しかし、閃きは思考を渦動に渦動を倦み疲れるまでさせねば訪れる事はなく、思考の相転移はもう思考する事、つまり、頭を回転させるEnergyが尽きた時に不意にやってくる事が多く、それは、例へば思考が渦動する時、同時に強烈至極な磁場を発生し、或ひは重力場を発生させ、思考がぴょんとz軸へと「超越」する事を阻碍してゐるのかもしれず、つまり、思考のEnergyがまだまだある内は得てして近視眼的なものの考え方をしてゐる事が多く、そして、大概、それには気付かぬものなのである。

さて、渦動に渦動を重ねて法線方向にも次元が生成され、思考の相転移が起きると、渦動する思考の中で衝突合体をも繰り返してゐた無数の考えの一つ一つは、濃霧のやうな何も見えない思考の時空間に、太陽のように巨大な思考の集塊が形成されてゐて、やがてz軸を獲得した事で、太陽系の団栗(どんぐり)独楽(こま)のやうな惑星群のやうに離合集散の上に形成され、渦は核融合反応を始めた太陽が太陽風で塵などを吹き飛ばして時空間の霧が晴れるやうに見晴らしがよくなるのと同様に、思考の見晴らしが、つまり、Perspective(パースペクティヴ)を手にした思考は、四方八方から差し込む光に刺激され、ある時不意に閃くのである。

このやうに、思考もまた、森羅万象が相転移にあると言っても過言ではないやうに、此の世の摂理から遁れ出られぬものとして相転移をしてゐると私は看做すのである。

 

 

内向性ソクラテス症候群

 

ギリシャのデルポイの神託に類似するものとして

私の中では、

映画「2001年宇宙の旅」の暗黒の摩訶不思議な物体モノリスのやうなものが

私の頭蓋内の闇、つまり、五蘊場の中にそれは確かに存在してゐて、

私のデルポイの神殿はその気配しか解らぬモノリスのやうな暗黒物体で、

それがううんと唸りを上げて、

――汝自身を知れ。

と、絶えず私を急かす。

 

それ故に私はソクラテスの如く

内部の異形の吾を始め、

見知らぬ心像に対しても詰問するのだ。

 

――あなたはあなたを知ってゐるならば、その認識の根拠は何なのだ。

かう私の五蘊場の暗黒物体に疑問を投げ掛けると、

唸り音はううんから

――汝自身を知れ。

とトム・ウェイツのがなり声のやうな声音に変はる。

五蘊場の暗黒物体は、然し乍ら、それしか信託しないのだ。

吾がデルポイの信託はこの五蘊場の暗黒物体の一言でしかない。

何とソクラテスにそっくりではないか。

私は誰彼構はずに五蘊場に出現するものに詰問し、

さうしてとんでもなく辟易される。

ところが吾が五蘊場は異形の吾どもが私を面白がって翻弄する場なのであり、

私はといふと、異形の吾どもの玩具として弄ばれるがままなのである。

その間隙を縫って私は異形の吾どもに

――汝、吾なるものを認識してゐるならば、さう至った過程を話し給へ。

誰彼構はず、さう詰問する私は仕舞ひにはソクラテス同様に

異形の吾どもに吊るし上げを食らひ、

吾が五蘊場に幽閉される。

しかし、私にはプラトンのやうな弟子はをらず、

脱獄を諭すやうな人物は誰一人ゐやしない。

 

到頭、毒を盛られた杯が私の元に持ってこられた。

ソクラテスは躊躇なく毒を呷ったが、

私はといふと、ぶるぶると震へる手で杯を持って、

どろりとした液体の毒の面にぼんやりと映る吾が顔を凝視しながら、

吾が五蘊場には正(まさ)しく走馬灯の如くに吾が人生が思ひ浮かび、

五蘊場を駆け巡る。

――吾が人生に悔ひなしか。

さうぼそりと胸奥で呟くと私は毒を一気に呷った。

而して、吾が念は私の死後も誰かにRelay(リレー)されるのか。

その一念のみで私の成仏できぬ魂魄は此の世を彷徨ふ。

 

 

横たはる魂

 

お天道様は南中に差し掛かるといふのに

おれはどうしやうもない眠気に抗ひきれず、

自然と横たはる事に相成る。

それは魂が横たはる事を望んでゐると

自分に言ひ聞かせながら

自己正当化といふ此の世で一番の愚劣な事をする。

何故自己正当化が一番愚劣かといふと

自己正当化するほど価値がある自己なんぞ、

果たして此の世に存在するかと問へば

その時必ず誰しもの胸には自己に対する卑屈な心が去来し、

自己に対して自己を正当化出来るほどの自己であり得た事など

今の今まで一度たりともないとしか、

哀しい哉、言へないのである。

然し乍ら、おれはそんな卑屈な心を持ち、

存在に対する屈辱を胸に仕舞ひ込んでも尚、

横たはるのだ。

それは、もう起きた状態でおれを支える事は不可能で、

睡眠障害のおれは、

眠くなったら気絶するやうに寝るに決まってゐて、

それに抗ふ術など皆無なのだ。

 

ばたんと倒れるやうにおれは横たはる。

そんなおれの横たはる魂に対して

気絶する寸前におれは

――ちぇっ。

と舌打ちして卑屈にもおれといふ存在、否、おれの魂を自己正当化するのだ。

この太太(ふてぶて)しさがいふなれば、

おれの生きる原動力になってゐるのは否めず、

おれのこの捻ぢ曲った精神が発条(ばね)となり、

皮肉な事に精神が捻ぢ曲がれば曲がるほど

発条の復元力は増し、

つまり、おれの生きる力は漲り、滾るのだ。

おれの反抗心に火が付き、

おれの横たはり行く魂に

――ちぇっ。

と舌打ちするのは、

卑屈で屈辱塗(まみ)れのおれの悪足掻きでしかないが、

しかし、おれはさうして生を繋いできた。

 

横たはる魂よ、

健やかなれ。

 

 

自己超越する吾は果たして吾なるや

 

窮鼠猫を噛むではないが、

巨大な壁が眼前に聳へ立つやうに

難題が吾に降りかかり、

何とかそれを振り払はうと

思ひを巡らし、考へに考へ倦(あぐ)ねた末にも

何ら解決の糸口すら見えぬ中、

巨大な壁のやうな難題は吾をせせら笑ひながら

その偉容は相も変はらず巌の如く吾の前に立ちはだかり、

――もう、これまでか。

と、白旗降参しようかとしたときに、

不意に閃き、

量子力学のトンネル効果の如く

巨大な壁をするりと通り抜けるやうにして、

いとも簡単に難題の巨大な壁を解決してしまふこと屡屡(しばしば)である。

この恰も神が、或ひは狐が憑依したやうな瞬間の吾は、

吾を超越してゐるのは間違ひなく、

この現象をして「吾思ふ、故に吾あり」と

尚も言ひ切れる馬鹿者は

相当な自信家で、

そんな輩は最も私の嫌ふもの達であるので、

例外として放っておくが、

しかし、トンネル効果にも似たその不思議は

最早、吾の考へ及ばぬこと故に

その閃きは果たせる哉、吾に帰せるかと問へば

既にその閃きは吾を超越してゐる故に

その閃きの淵源は永劫に不明なのである。

唯、吾は永きに亙って呻吟してゐたことでの

その閃きは奇跡の光明にも似て

それまで不気味な黒雲が低く垂れ込めてゐた空の雲間から

陽光が射し込むやうに

突然に閃くものである。

それはなんの予兆もなくやってきて、

Aporia(アポリア)を手玉に取り、

その穴を見事に塞いでしまふ。

これをしてcogito,ergo sumは

吾に全的に帰せられるのか

甚だ疑問なのである。

 

――雷(いかづち)に打たれたかのやうに閃いた吾は、既に吾を超越し、その吾は、吾であって吾でない、個を超越した、つまり、《吾》を超越した《他》たる「神」、或ひは「狐」が憑依した恍惚状態に近しい何かが確かに此の世に存在する。

 

 

斬り込むは闇の中で

 

妖しい気配は梅雨時のべったりと纏はり付く

湿気をたっぷり含んだ空気の如くにあり、

一度その気配に纏はり付かれたなら

その毒気に当てられ、

吾は一瞬で失神する。

さうならないやうに吾は気力を充溢し

全身鳥肌を立てながら気を放ち

べたりと纏ひ付くのに隙を窺ってゐる

妖しい気配を放つそいつに対峙する。

吾は気が結晶した刀を持って構へ、

じりじりとしたその緊迫した時間を

そいつに斬り込む間合ひを測りながら、

逸(はや)る心を落ち着かせ、

躙(にじ)り寄る。

 

――すう、はあ。

辺りには吾の呼吸音のみが静かに響き、

そいつの妖しい気配は大蛇の巨大な紅の尖端が割れた舌のやうに

ちょろりと吾の方へと飛び出しては

吾の気配を感知し、

そして、そいつは大口を開けては

内部の濃密で漆黒の闇を吾に見せびらかす。

しかし、辺りは既に日は暮れて暗い暗い闇の中。

ところが、そいつが大口を開けると、

闇の中に更に濃い闇が出現し、

はっきりとそいつが大口を開けたのが解るのだ。

そいつの魂胆は見え見えで、

吾を妖しい毒を放つ気配で失神させては、

丸呑みするつもりなのだ。

 

――すたたたたっ。

吾はそいつに斬り込んだ。

吾は直ぐさまにそいつの妖しい気配に取り囲まれたが、

吾の充溢した気配に気遅れしたのか

そいつの妖しい気配は吾に纏はり付くのを躊躇ってゐた。

吾はその隙を見逃さず、

一閃の下、

そいつを一振りで切り裂き、

殺戮した。

主を失った妖しい気配は、

毒気を抜かれはしたが、

一斉に吾に覆ひ被さった。

――ううっ。

息を止められた吾は、

暫く失神してゐた。

 

吾は気が付くと化け物になってゐた。

 

 

鐘の音

 

――ぐおおおんぐうおおん。

 

時折、私の内部で鐘が鳴り響き、

私はさうしてはっとするのです。

何故といふに、

私の内部の鐘が鳴り響く時、

私は心神耗弱してゐて、

鐘の音が私の限界を知らせてくれるからです。

而して、私の限界とは何ぞやと自問自答しないわけでもないのですが、

自問自答する気力すらも喪失した状態の時に

決まって内部で鐘が鳴り響くのです。

それは哀しい響きをしてゐます。

 

――ぐおおおんぐうおおん。

 

鐘が鳴ると私は卒倒するのです。

卒倒することで私は本能的に自己防衛してゐるのかもしれません。

卒倒した私は、すると大欠伸をして眠りこけるのです。

時と場所を弁(わきま)へずに私は眠りこけるのです。

それだけ私は疲労困憊してゐて、

そのまま一昼夜眠るのです。

 

――ぐおおおんぐうおおん。

 

さうして再び鐘の音が響き渡ると

私は目覚めるのです。

この鐘の音は幻聴には違ひないのですが、

しかし、この哀しい鐘の音が私は好きです。

 

――ぐおおおんぐうおおん。

 

さあ、出発です。

私は再び私を殺害するために

私の内部を彷徨するのです。

 

 

不穏

 

アルフレート・シュニトケの音楽をかけながら

自刃したうら若き乙女が白目を剝いて

仰向けに抛って置かれた和室の中に漂ふ不穏な空気のやうに

死臭が漂ひ出す寸前のおれの内部は、

性根が腐ってゐるに違ひない。

そんなおれだからこそ恥も外聞もなく

言葉が吐けるのかもしれぬ。

それも下らぬ言葉ばかりで、

しかも、同じところを堂堂巡りし、

更に下らなさに拍車をかける。

さうなったらおれは土壺に嵌まり、

おれ自身を取り繕はうと

ちょっとは価値ある人間に見せようとして

内心では「なんて嫌な奴」と思ひながらも

上滑りする言葉を尚も吐き続ける。

 

――ざまあ見ろ!

 

とどのつまり、最後は相手におれの論理矛盾を突かれて

万事休すなのだ。

そもそもおれが吐く言葉は論理的かといふと

そんな事があった試しはなく、

ただ、見得をはりたかっただけなのかもしれぬ。

誰彼構はずおれはおれを承認してほしくて、

おれが承服しかねるこのおれはお大見得を切るのかもしれぬ。

しかし、そんなことは相手は百も承知で、

へらへらと嗤って「こいつ馬鹿だな」と目で語りながら、

おれの馬鹿げた言葉を聞いてゐる。

さうして最後に相手はおれにとどめを刺す。

 

訳知り顔で話してゐたおれは、

一気に己に酔ってゐた状態から醒め、

ぐうの音も出ないのだ。

なんと惨めなことか。

この屈辱を以てしておれは尚も語らうと

宙を彷徨ふ言葉を探すのであるが、

もう、言葉は雲散霧散してゐて

おれは沈黙せずにはをれぬ。

 

その時の鬱憤は内部に溜まり、

おれの内部には不穏な空気が漂ひ始める。

しかし、最早おれはそれを丸呑みして、

おれがおれである事を断念し、

その屈辱を甘んじて受け容れなければ

恥じ入るおれの立つ瀬がない。

 

――ふふっ。立つ瀬がないだって。そんなもの初めからないぢゃないか。お前の存在そのものが恥なのさ。それはお前が百も承知だろ。

 

 

ドン・キホーテに続け

 

膨脹する妄想で最早現実を見失ひながらも、

狂気の騎士と化して此の世に存在せぬドゥルシネーア姫を守るべく、

孤軍奮闘するドン・キホーテに続け。

 

それのみがこの拡張現実と仮想現実と現実が混在する

摩訶不思議な現実の中で、

唯一、吾といふ化け物を前にして

実際には竹槍しか手にできぬ非力な吾であるが、

化け物の吾に闘ひを挑むには、

ドン・キホーテの狂気を持ってしか対抗できぬのだ。

 

三様の現実に対して無理矢理にでも吾は

感覚、特に視覚と聴覚をでき得る限り膨脹させられ、

然し乍ら、それについて行くことに無理に無理を重ねた結果、

誰もが疲弊し、疲労困憊の中、

尚もその疲れ切った吾に鞭打ち、

感覚が膨脹した吾といふ存在の在り方の快感を貪るやうにして

Mobile deviceの画面に釘付けなのだ。

その姿は最早一昔の人間とは違ってゐて

いふなれば、”拡張人間”といふべき化け物に違ひない。

 

その拡張人間は休む間もなく、

人工知能とその能力のぎりぎりのところで鬩ぎ合ひながら、

自らの生き残る道を探り探り現実に適応しやうと

更に感覚を拡張させる。

 

しかし、その拡張人間は風船に等しく、

針の一突きで

 

――パン。

 

と破裂するからくりなのだ。

だから、今、ドン・キホーテに続けとばかりに竹槍で

化け物と化した膨脹人間の目を覚ますために、

一突きするに限るのだ。

 

何故なら現実は絶えず吾を丸呑みする機会を窺ってゐるのだから。

 

 

雨音の中で

 

深夜、独り雨音だけが聞こえる中、

沈思黙考してゐると

思考は先走り、

その無軌道ぶりに吾ながら感心一入(ひとしほ)なのであるが、

無軌道とはいっても暫くそれを観察してゐると、

何かを中心に渦動してゐることが闡明する。

さて、ではその中心は何かと更に観察してゐると

それは「死」である事が朧に見え出す。

別段、私は死す事に何ら恐れを抱いてゐないが、

唯、私の発想の根源に死がどんと居座ってゐるのは間違ひなかった。

然し乍ら、何ら恐れを抱いてゐないといひ条、

発想の根源に死があるといふ事に対して

私はそれとは気付かず死に或ひは私の深層ではびくつきながら

まるで腫れ物に触るが如く接してゐるのかも知れぬ。

でも、それで構はぬではないか、と私は開き直り、

尚も渦動する思考を愉しんでゐる。

しかし、それも長続きはせず、

必ずといっていひほどに

異形の吾どもが半畳を入れたくてむずむずしてゐたのだらう、

私の頭蓋内を撹乱し、

 

――ふっ、何を静観してゐられるのか。お前の存在に対してお前は何と申し開きするつもりか。恥辱に満ちたお前の存在をお前はちっとも恥ずかしがらぬが、存在そのものが恥辱である事にお前こそ最も恥じ入らねばならぬ道理ではないのかね。

 

尤も、私は己の存在が恥辱に満ち満ちたものである事に

苦虫を噛み潰したやうにして己の存在を堪へ忍び、我慢し、

しかも、己が何か一角の者になる事を断念もしてゐるが、

それでも私にも「欲」があり、

人間である矜恃だけは失はずに、

自然に翻弄され異形の吾どもに食はれながらも

死を受容してゐるのである。

 

――何を落ち着き払って死を受容してゐるだ。ほら、藻掻き苦しめ。それが唯一お前に残された死に対する礼儀といふものだぜ。

 

雨音は何時しか已んでゐて、しじまの中に吾独り残されてゐたのであった。

 

 

抱擁

 

暫くお互ひに見つめ合ひ、

互ひが互ひを受容する覚悟を決め

私は妖しく薄暗い中でも仄かに輝く彼女の神秘的な唇に唇を重ねた。

彼女のいい匂ひに占有された中、

彼女の次第に興奮して荒くなる呼吸を感じながら、

彼女の舌に私の舌を重ねる。

絡まる舌と舌。

彼女の唾液を啜るやうに呑み込み、

さうすることで私は得も言へぬ恍惚を味はひ

更に激しく舌を絡ませる。

さうしてゐる間に彼女を裸にし、私も裸になる。

彼女の張りのある豊満な乳房を揉み拉(しだ)き、

お尻を鷲摑みしつつ撫で回す。

そして、彼女の女陰に手を当て、

陰核を剝(む)き抓(つま)み上げる。

 

――ああっ。

 

私は唇を離し、

揉み拉いてゐる乳房の乳首を口に含む。

乳首を甘噛みしつつ乳首を舌で転がしては、

乳首を吸ひ上げる。

一方で抓み上げた陰核を人差し指でトントンと軽く叩いては撫でさする。

 

――ああっ。

 

さうした後に濡れてきた女陰に指を当て、

小陰唇に指をそっと差し込む。

その指をさすり続け更に女陰は濡れる。

 

――ああっ。

 

私は彼女に合図を送り、

寝台に横たはる。

彼女は勃起した陰茎をしっかりと握り口に含む。

私は私の顔の上に跨がった彼女の濡れた女陰に吸ひ付く。

彼女の陰毛に籠もる肉欲をそそる動物様の匂ひを吸ひ込みながら、

生命が海で生まれたことを指し示す塩味がする愛液を啜る。

暫く互ひに愛欲を貪った後に

私は彼女を仰向けに横たへ足を押し広げ、

陰茎を引き締まった膣に挿入する。

私が腰を振る度に彼女の膣壁は吸い付いてきて、

快感が全身を駆け巡る。

 

――ああっ、ああっ、いくっ、いくっ。

 

その瞬間、膣はきゅっと引き締まる。

絶頂に達した彼女。

私は、一寸腰を振るのを止めはするが、

しかし、すぐに前以上に激しく腰を振り、

女陰にバンバンと腰を打ち付ける。

 

――ああっ、ああっ、だめ、だめ。

 

私は腰を激しくふりながら彼女の豊満な乳房を揉み拉き

喘ぐ彼女の唇に唇を重ねた。

今度は私が絶頂を迎える番だ。

更に私は腰を激しく振り、彼女の女陰に腰をぶち当てる。

 

――ああっ、だめ、だめ、だめ、だ、いくっ。

 

――いくよ!

 

私は更に激しく腰を振り子宮に向けて膣内に射精した。

その瞬間、彼女の子宮はビクンと痙攣をしたのだらう、

彼女のおなかは複雑な動きを素早くし、

当の彼女は失神寸前だったのだ。

私は陰茎をゆっくりと膣から抜き、

しかしながら、精液は膣から零れ落ちることはなかった。

 

ぐったりとしてゐる彼女は

それでも力を振り絞り、

私のまだ、勃起してゐた陰茎を口に含み、

精液を吸ひ取ったのだ。

にこりと嬉しさうに笑った彼女を私は抱き締め、そして、口吻を交はした。

 

そして、また、愛撫が始まり、陰茎はギンギンに勃起する。

さうして再び、性交をしたのであった。

 

 

ぽつねんと夜通し灯りが灯る一室では

 

私が五蘊場と名付けたところの頭蓋内の闇に

仮に都市がすっぽりと収まってゐるとして

辺りはしじまに蔽はれ皆、寝静まった中、

それはマンションの一室であらう、

そこだけが夜通し灯りが灯ってゐる。

私は内部の目の倍率を上げてその一室を覗き込むと、

その一室ではベッドに若くて美しい外国人の女性がすやすやと眠ってゐる傍で、

一人頭を抱へ込みながら何かを思案するのに耽ってゐる中年の男が

半裸で椅子に腰掛け苦悶の表情を浮かべてゐたのであった。

そして、何やら独り言を呟いてゐたのである。

私は内部の耳の集音精度を上げて耳を欹(そばだ)ててその呟きを聞くのであった……。

 

――おれはミーシャとの子どもが欲しくて堪らないが、果たしておれは、ちぇっ、胸糞悪い、この存在の屈辱を以てしても尚、子を持つ事が可能なのだらうか。生まれ来る子もまた、存在の苦悶の中に引きずり落とされるであらう。それを知りながら子をもうける事はおれの新たな苦悶の種にこそなれ、安らぎは齎さぬ。さうとは知りながら、おれは欲望には勝てず、ミーシャを抱いて、膣内に射精する。さうするとミーシャはこの上なく美麗な笑顔をおれに返すのだ。おれはその笑顔見たさに、また、膣内に射精する。……。

 

するとミーシャが不意に起きて、男を宥(なだ)め賺(すか)すやうに言った。

 

――何をうぢうぢしてるの。あなたの苦悶は無意味な、そして、誤謬でしかないわ。子はあなたとは別人よ。もしもよ、もしも子があなたのやうに存在について苦悶しても、それでいいぢゃない。人間なんだもの。ミーシャはむしろあなたの子は存在に苦悶する人間になって欲しいわ。そんな子をミーシャは産みたいの。

 

――……。

 

――うふふ。あなたらしいわね。あなたが黙り込んだ時は、いつも決まって苦悶が深くなってゐる時よ。きっとこんな感じでしょう、『苦悶のRelay(リレー)』を子に渡していいものか、とね。でもね、賢(まさる)、苦悶のRelayでも『精神のRelay』に違ひないぢゃないの。むしろ、賢の苦悶は私たちの子にRelayして欲しい。それが存在に真面目に対峙する人間の実相ぢゃない? ねえ、賢。

 

――ミーシャは何でもお見通しか。

 

――何よ、賢。みんなあなたが教へてくれた事よ。

 

さうして二人は口吻をしたのであった……。

 

 

神秘に惑はされて

 

絶えず思ふのは、

例へば何億年も沈黙していた巌が

初めて口を開くときが来るとしたならば、

何といふのだらうと想像するに

多分に憤怒の言葉に違ひないと思へて仕方がない。

それは、何億年もの間、

巌として存在することを強ひられてゐたものは、

宇宙史の尺度で測れば何億年はほんの僅かの時間に過ぎぬが、

とはいへ、何億年分の憤懣を口にする筈なのだ。

世界が流転して変化して已まないのは、

森羅万象が己の存在に苦を思ひ、

それに対して憤怒してゐて

それが万物流転の源泉なのだ。

其処に私は神秘を見るのであるが、

例へば万物が、森羅万象が話し始めたなら、

そのどれもが世界の顚覆を目指してゐる筈なのだ。

これには私の思考といふBias(バイアス)がかかってはるが、

それでも神秘を生むその源泉には、

この森羅万象が皆、世界の顚覆を望んでゐることにあるに違ひない。

 

それにしても神秘に睨まれたなら、

もう、私は一歩も動けず、

まるで金縛りに遭ったやうに

其処に美を見てしまふ。

神秘的な美とはよく言はれることであるが、

その美は神がかってゐるからに外ならず、

神秘は神の存在問題の一つの顕現なのだ。

私は神秘を前にするとその美に惑はされ

気が付けば、神秘的な美の虜になってゐる。

それを最も良く表してゐるのは女性である。

女性は存在するだけで既に神秘的なのだ。

男である私はこの神秘に惑はされ、

溺れる。

それはどうしやうもなく溺れる。

惑溺といふ言葉通りに女に溺れる。

そして、それが私を暫し存在の苦悶から隠遁させ、

喘ぐ女性の呼吸に合わせて私は射精をしては快楽に振り回される。

 

何億年間もの間、

無言のままに苔むすままに一所に存在し続けた巌は、

やはり、神秘的である。

それはその根本のところで女性の神秘と繋がってゐて、

もしかすると、喘ぐ女性の美しさは

無言であった巌が初めに語る言葉の一つなのかもしれぬ。

それは新たな命を生むために通過しなければならぬ深い快楽の中、

喘ぐことには必ず快楽の限界を超えるべくあるのに超えられぬ憤懣が含まれてゐて、

だから喘ぐ女性医は美しいのである。

 

私が神秘に美を見てしまふのは

女性に美を見てしまふことと同じ力が働いてゐるからに違ひない。

 

 

傀儡(かいらい)

 

私の体軀には私が憑依してゐるのだらうか。

ではその憑依してゐる私とは何なのであらうか。

仮に私の体軀に憑依してゐるのが私ならば、

私といふものは私の傀儡といふ事になる。

古くからある肉体と精神の二元論に与するつもりはないが、

私といふものを突き詰めてゆくと

私の正体はさっと姿を消して

私の追っ手を煙に巻く。

その私の追っ手はといふと、

然し乍ら、私の傀儡の手先に過ぎず、

私が放つ追っ手は土台私の正体なんぞ解る筈もないが、

とはいへ、私は、それが自作自演の茶番と知りつつも、

私の正体を知りたくて我慢出来ずに何度も追っ手を放つ。

その時に私は私の侮蔑の声を聞くのだ。

 

――ふはっはっはっはっ。私を知りたいなんぞ百年早いわ!

 

私といふ傀儡の黒幕が私ならば、

私は、百年経ったところで私を知り得るべくもなく、

それは何故かといふと、私がそもそも傀儡に過ぎぬからである。

傀儡は己が傀儡に過ぎぬ事を知った時、

憤怒に駆られて黒幕を殺戮する筈なのだが、

私はといふと一向に私を殺戮する素振りすらない。

それをして私が私の傀儡でないといふ結論ほ出すのは早計で、

もしかすると私の傀儡の黒幕もまた、私の傀儡で、

それが合はせ鏡のやうに

無限に続く私の正体なのかもしれぬのだ。

 

――ぶはっはっはっはっ。それで私を解ったつもりかい? 私が私のFractal(フラクタル)かもしれぬとは考へぬのかい? おっとこれ以上は禁物だ。

 

成る程、私が私といふもののFractalといふ事は十分にあり得る。

然し乍ら、その私の原型は一切解らず仕舞ひ。

それをGenome(ゲノム)に求めても埒が開かぬだらう。

 

――嗚呼、さうか、それは念だ!

 

――ぶはっはっはっはっ。馬鹿が! それが循環論法の罠にかかってゐる事も解らぬのか!

 

――だが、現代で最も論理的な形式は弁証法ではなく、循環論法ではないのかね?

 

――だからお前は甘ちゃんなのさ。ならば、堂堂巡りの循環論法を死ぬまで続けてゐるんだな。

 

私に猜疑を抱いたものは最早循環論法から抜けられぬ。その覚悟がないものは、私を追ふ事は厳禁だ。

真理は堂堂巡りの中にしかないのだ。

 

――ぶはっはっはっはっ。今時、真理とはお笑ひ種だな。一生馬鹿をやってゐるんだな。哀れな人よ。

 

 

蹲る吾

 

見猿、言は猿、聞か猿を体現したやうな吾が

頭蓋内の闇の脳といふ構造をした五蘊場に蹲る。

確かに、そいつが存在してゐる事はその気配で解るのであるが、

そいつの気配はそれでゐてとても異様で、

其処だけ事象の地平線が存在するかのやうに闇の中でもさらに濃い闇を形成してゐて

恰もBlack holeのやうなのだ。

つまり、五蘊場で蹲る吾は私には全く見る事は出来ず、

唯、異様な気配を発するのみ。

それでもそいつの動きは逐一手に取るやうに解るから不思議なのである。

そいつの棲み処が吾が五蘊場である事がさうしてゐるのであらうが、

時折、重力波の如き脈動を発して私は酷い頭痛に悩まされる。

蹲る吾は五蘊場にBlack holeの如くに棲んでゐる事から、

五蘊場に生滅する表象を残らず喰らひ、

何やら不気味な薄笑ひを発しては、

私を隙あらば丸呑みする殺気をも放ってゐる。

それは蹲る吾が絶えず放つ波動が私の感性と共鳴を起こし、

蹲る吾の様子が私には認識出来るのだ。

不思議なものである。

やはり、蹲る吾も吾が五蘊場の住人であり、

私の認識下にあるのかもしれぬ。

然し乍ら、それは単なる私の誤謬の認識かもしれず、

蹲る吾は、全く異なる事を私に発してゐて、

私はそれを知りたくなくて、

わざと誤謬してゐるのかもしれぬ。

 

――蹲る吾よ、お前は聞いてはをらぬ筈だが、お前の一挙手一投足が私は気になって仕方がない。何も言はぬ吾が蹲る吾よ、何故に黙して唯、吾の表象を片っ端から喰らひ、そのお前は事象の地平線に身を隠すのか。ああ、さうか、お前は確かに吾が五蘊場に存在するBlack holeに違ひなく、何時しか新たな吾を生成するべく今は只管蹲ってゐるに過ぎぬのか。やがて、吾が五蘊場には新たな銀河が生まれ、私は新たな境地へと踏み出す事になるのかもしれぬな。蹲る吾よ、私はそれまで、絶えざる苦悶の中で吾を何度も剔抉しては吾の死屍累累の山を堆く積み上げて、まだ知らぬ吾を追ひ求める事だらう。それをもお前は丸呑みしては、不気味に薄笑ひを浮かべ、私を侮蔑するのか。それはそれでよい。何時しか新たな吾を生むまでの辛抱なのだから。産みの苦しみだな。一際吾が五蘊場で暗い闇の蹲る吾よ、皮肉なことに私には闇が希望の星なのだ。ふっ。

 

 

この期に及んでは祈りあるのみ

 

撤退に撤退を重ね

宿借りの如く身の丈にぴったりの隠れ家にやうやっと体軀を隠したが、

蝸牛の如く目玉だけ恐る恐る外界へと投じて、

辺りの様子を窺ふのだが、

情報が完全に遮断された中では、

何も解らず仕舞ひ。

この緊急事態の中で、

己の命惜しさに身を隠したおれはおれを嘲笑ひながらも

やはり、命は惜しいと見えて

身震ひしながら隠れ家に身を潜める。

それしか己の身を守る手段がない現状、

おれに出来る事と言へば

ぶるぶる震へる手を合わせて祈る事のみ。

瘴気に蔽はれたこの大地は

既に風任せの状態で、

原発から放射能物質が漏れたときのやうに

風下にゐた場合、

被害は甚大で、

瘴気に汚染された大地をして

おれは命を削りながら汚染された大地で生きてゆかねばならぬ。

だから、祈るのだ。

最早、祈る事くらゐしか出来ぬおれの非力さに

吾ながら自嘲するのであるが、

だからといって瘴気が退散してくれる筈もなく、

この運を天に任せた格好の居心地の悪さは、

しかし、どうしやうもない。

 

――いくら不満を捲し立てたところで、状況が変はる筈はなく、お前の命も風前の灯火だぜ。えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。桑原桑原。ご愁傷様。次々と斃れ行く命に幸あれ。とはいへ、お前は地獄行きが決まってゐるからな。随分と気が楽だらう。精精、命乞ひをするがいい。その拗(ねぢ)くれた魂で己を自嘲しながらも、結局の所、己の命惜しさに祈る他力本願に身を任せるといふことの意味を魂の底から思ひ知るといいんだ。所詮、お前は生きてゐるのではなく、生かされてゐる事をとことん思い知るがいい。さうすれば、大地も少しは慈悲を注いでくれる筈さ。自力ではなく他力が此の世の本質なのさ。それが今ほど解る状況はないだらう。親鸞の言ふ他力本願の言はんとする事がやうやっとお前にも解るときが来たか。さすれば、自我に囚はれる事のなんとちっぽけな事か身を以て解る筈さ。精精生き延びるんだな。この地獄絵図の世界の中で。ふっ。

 

 

凝固する表象はダリの絵の如くあり

 

何時しか粘性を持つやうになった吾が表象群は、

始めは蜂蜜か水飴のやうであったものが、

Chocolate(ショコラ)が冷えて凝固するやうに、

若しくは写真の如くに

或る瞬間にピタリと止まった映像として

頭蓋内に焼き付けられる。

それらは頭蓋内にバラバラに配置され、

つまり、おれは錯乱してゐたのであるが、

しかし、それが心地よかったのも確かであった。

それは錯乱してゐるおれは、おれを意識することはなく、

只管に無造作に配置された、例へばダリの絵を見るが如くに

凝固した表象群を眺めてゐるだけで飽きないのであった。

そして、おれは無造作にバラバラに配置された表象群を

その配置に対してある筈もない意味を見出しては、

独りほくそ笑むのであった。

何故におれは無造作に並んだ凝固した表象群に意味を見出してしまふのだらうか。

それは詰まる所、無意味であることに堪へられず、

或ひは漫然としてゐる世界に堪へられず、

連凧の如くにそれらの無造作に並んだ表象の一つ一つを

意味、否、時間といふ名の糸で縫合してゆき、

そのバラバラの表象群で物語を無理強ひにも拵へてしまふのだ。

さうすることで形作られた世界は豊潤な意味が溢れ出し、

その意味の洪水に溺れることで、

おれは水に浮くやうに意味の洪水の中で浮遊する。

それは途轍もなく心地よいものであり、

其処には安寧の時間が流れ出す。

 

ところが、其処に猜疑といふ鋏が出現すると

時間といふ名の糸で数珠繋ぎになってゐた意味ある世界は、

その猜疑の鋏でプツンと切り落とされ、

再び、世界は漫然とした無造作に表象群が並んでゐる世界へと還元されて、

つまり、時間が流れぬのだ。

事故などで脳機能に障害が出て、

記憶が出来なくなってしまった人の日常の如く

それは過去と現在とが全く結び付かず、

それ故に未来も全く見通せぬぶつ切りの断片と化した世界が

漫然と並列してゐる不気味な世界なのだ。

それでもおれは恬然としてゐられれば、

おれは多分、正覚出来るに違ひないと思はれるが、

当のおれは意味の消えた世界では不安が募って仕方がない。

それはおれの位置が解らぬからであるが、

位置は天地左右が決まれば、

自ずと解る筈である。

意味が消えた世界ではその天地左右が失はれ、

おれは糸の切れた凧のやうに制御不能になり、

再び錯乱する。

 

――嗚呼、おれとは何だったのか。非連続に囲繞(いにょう)された、ちぇっ、言った先からもう忘れちまってゐる。おれは何を考へてゐたのか。そもそもおれって何のことだ。

 

 

恬然と

 

悪疫が流行る中、

私は恬然としてゐる。

恥辱塗れの私は恬然としてゐられる筈もないのであるが、

最早恥じ入ることはないと腹を括ったのである。

生か死かが確率で、そして、数字で語られ始めた今、

最早、この悪疫が世界を蔽ふ日もさう遠いことではない。

だから私は恬然としてゐられるのだ。

この卑劣な考への持ち主の私は、

この紊乱した世の中で、

恥は現世の掻き捨てだ、と一面から見れば投げ槍にも見えるこの太太しさは

蚤の心臓故のことなのである。

内心では己の死が怖くて仕方がないにも拘はらず、

虚勢を張って見栄っ張りの私らしく、

天邪鬼に振る舞ってゐるに過ぎぬ。

内心では死までの日を指折り数えてゐる私は、

もう、死んだ気になってゐる。

生きる気はないのか、と吾ながら思はなくもないが、

生にさほど未練のない私は、

俎(まないた)の鯉ではないが、

後は野となれ山となれとかなり冷静に悪疫の拡散の成り行きを見守ってもゐる。

後は悪疫のVirus(ヴィールス)にこの身が晒されて

どれ程に吾がVirusに太刀打ちできるのか知りたいといふ

何とも自分の体軀を実験台にして

生か死の別れ道をじっくりと味はひ尽くしたい欲求が抑へられないのである。

それでどうなるわけでもないのであるが、

それで生き残れば勿怪(もっけ)の幸ひとして

生を慈しみ生き、

運悪く死してもこれまで、日日、未練なく生き抜いてきた自負がある故に

此の世で遣り残したことはなく、

満足の態で死ねる。

 

悪疫の広がりは、何も今に始まったことではなく、

人類史を紐解けば、

悪疫との戦いに明け暮れ、

それに対して生き残ってきたものの子孫が私であり、

ここでお陀仏しても何の未練もないのである。

ただ、愛するものには是非生き残って欲しい、

それだけが気懸かりでしかないのである。

 

 

ゆらりと揺れ動いたものを捕まへたくて

 

それは何時のことだったらうか。

確かにおれの影からゆらりと揺れ動いたものがゐて

おれはその時、それを捕まへ損ね、

それ以来、おれはその揺れ動いたものが何だったのかご執心なのである。

幼少時からおれはおれの影を凝視するのが好きで、

暇さへあれば、おれは影ばかり見てゐるやうな子供であったが、

それは今も尚、おれから抜けぬ習慣で、

然し乍ら、今は、影を凝視するのではなく、

ぼんやりと影を眺めてゐる時間が好きで、

ぼんやりしてゐたからこそ、おれはゆらりと揺れ動いたものを

捕まへ損ねたのである。

 

では、何故ぼんやりと影を眺めてゐることになったかといふと、

凝視してゐては見えぬものを

おれはぼんやりとおれの影を眺めることで見てしまったことが

その端緒であった。

それは影が先頃太陽の表面が粒状であると解ったやうに

影もまた、粒が泡の如く湧いては消えてゆくことを反復する

何とも影の不思議を見てしまったからである。

それはぼんやりと影を眺めたときにしか見えぬ現象で、

影もまた、観察者に作用されるのか、

粒が湧いては消えてゆく影の本性は、

それはそれは綺麗で

蠏が口から泡を吹いてゐるやうな粒の湧き立ちは、

見てゐて飽きぬのである。

と、そんな時であった。

不意に影がゆらりと揺れ動いたかと思ふと

それはふわっと影から浮き上がり、

すうっと何処へと消えたものが現はれたのであった。

虚を衝かれたおれは、

それを眺めてゐるばかりで、それを追ふといふ動作へと移行する機敏さが失せてゐて、

みすみす逃がしてしまったのである。

 

おれはゆらりと揺れ動いたものは

おれの魂、若しくは生き霊だったと思ってゐるのであるが、

さうすると今のおれは魂の抜け殻でしかなく、

確かに、それ以来おれは病に臥せってゐることが多くなったのである。

だからである。

おれがゆらりと揺れ動いたものにご執心なのは。

それを捕まへないことには、

最早、おれがおれと言い切ることが出来ぬではないか。

 

――鬼さん此方。ここまでおいで。さすれば、お前は三途の川をすんなりと渡れるぞ。

 

 

大丈夫だよ

 (悪疫を避けるために欧州へ一時帰国した彼女へ送る)

 

ヰリアム・ブレイクの詩ではないが、

悪疫が猛威を揮ふ不安と恐怖の阿鼻叫喚の中、

人間を丸呑みし、瘴気を吐きながら化け物の大蛇が大地を這ひ行く。

大蛇は時折、ちょろちょろと深紅の舌を出しては

死臭を嗅いでゐる。

にょろりにょろりと大地を這ひ行く大蛇。

その後を苦悶の顔を浮かべた霊たちがゆらりゆらりと行進してゆく。

大蛇が吐き出す瘴気に当てられ、

次次と斃れ行く人人。

大蛇が通り過ぎた後の地獄絵図は、

筆舌尽くしがたいほどのとんでもない有り様なのだ。

大蛇の憤怒は、真っ赤な炎で天空を燃やし、

すると苦悶の表情の霊たちは炎燃え盛る天へと飛び立つ。

そこには一切救ひはなく、

霊は業火に焼き尽くされるのみ。

死しても尚、凄惨な地獄が待ってゐるのだ。

だからといって私は何をするでもなく、

既に他力本願にも似た境地にあり、

運を天に任せてゐる。

それでいいぢゃないか。

大蛇に丸呑みされやうが、

瘴気に当てられやうが、

業火に焼き尽くされやうが、

地獄が待ってゐるだけの此の世なのだから、

と、私の心は阿鼻叫喚の此の世の有り様とは反して

何とも晴れやかなのだ。

それは覚悟が決まった私の何時もの安寧な心の状態であり、

仮令、死しても私の人生悔ひなしと言へる自負はある。

だから、大丈夫だよ、ミーシャ。

 

 

思考が吾を追ひ越す時

 

軽軽と思考が吾を追ひ越す時は、

日常茶飯事で、

それが何を意味するのかを考へると

吾もまた振動体で、

打ち震へてゐるのだ。

「吾思ふ、故に吾あり」

といふデカルトの有名な言葉があるが、

これは思考が軽軽と吾を追ひ越すことを考へると

一見、何かを言い当ててゐるやうでゐて

全く間違ってゐるといふ結論にならざるを得ぬのだ。

正しくは、

 

――吾思ふ、故に吾超克される。

 

となるであらう。

さうでなければ、

吾が此の世に存在する駆動力、即ち、変化するべき絶えざる思ひは

出現しないのだ。

万物は流転する、とはギリシャの哲学者の謂だが、

此の世の森羅万象は変化するべく、

現在にずっと留め置かれてゐる。

さう、存在は現在から身動き出来ぬのだ。

さうであればこそ、存在は変化することを存在の駆動力として現在に存在出来る。

つまり、現在に留め置かれてゐるといふことは

ずっと未完成といふことであり、

存在は完成を欣求して絶えざる変化をして已まぬ。

さうであるからこそ、思考は軽軽と吾を追ひ越し、

吾の変化を増進するのである。

思考と吾とのずれは

弾性を生み、

びよんびよんと吾が打ち震へる

振動体としてのみ此の世に存在することを世界は許す。

吾にずれのない存在は、欺瞞であり、

自己認識を誤謬してゐるに過ぎぬ。

 

思考が軽軽と吾を追ひ越す時、

吾もまた、現在にのみ存在出来る未完成のものとして

絶えざる変化を存在の駆動力として此の世に佇立してゐるのだ。

 

 

光を超えたか、念速は

 

量子もつれと同様、念速も光速を超えたか。

念じれば瞬時に脳裡に浮かぶ心像が

光速を超える筈もないが、

然し乍ら、例へば死者の念が念ずれば、

それは軽軽と光速を超えて

宇宙の涯までたまゆらに行き着くだらう。

それは、生者である吾が

宇宙の涯を念ずることが可能であるからであり、

唯、生者は哀しい哉、

肉体といふ質量があるものに束縛されてゐるために、

決して光速を超えることは出来ぬ。

それでも念ずれば、生者も仮想乍らも

何処へと行くことは可能で、

それは想像の世界にすら飛び込めてしまふ。

それもまた、たまゆらの出来事で

念速の一端が知れるといふものよ。

生と死が分断してしまってゐる現代において、

おれは狂者の如く独り生と死は渾然一体のものであると叫ぶ。

さうせねば、死者の念に誰も気付かず、

その偉大さに傅(かしづ)くこともなく、

生は生で自己完結するといふ余りにもさもしい死生観から

脱することはなく、

死を忌避するといふ生と死が分断したまま、

死後、彷徨へる念として此の世に縛り付けられるのだ。

死といふものはある日突然とやってくる。

それを見ない振りをしてゐるから

例へば、悪疫が流行る中、

右往左往し、

死の恐怖に戦くのである。

これまで生者はどれ程死者を冒瀆してきたことか。

その報ひを生者は死の恐怖を味はふことで

償ふ外ないが、

それでは足りず、死後も此の世に縛り付けられる。

彼の世に往けるものなど高が知れてゐて

それを知らぬへんてこりんな死生観に毒された現代人の殆どは、

生と死の分断といふ死を冒瀆したまま、

死者の念速の凄みすらも知らずに

恐怖に戦きながら死んで行くのだ。

 

 

淫夢

 

あなたの性器が放つ芳しい匂ひを貪るやうに

私は夢であなたの性器にむしゃぶりつきました。

あなたは喘ぎながらも

 

――もっと、もっと。

 

と、私を誘惑するのです。

私はあなたの性器から零れる甘酸っぱい愛液を

 

――ジュルジュル。

 

と、わざと音を立てながら吸ふのです。

更にあなたの性器は芳しい匂ひを放ち、

私を蠱惑しながら

私はといふと益益興奮して、

あなたを更に深く惚れるのです。

 

――ジュルジュル。

 

――もっとよ、もっと、あっ。

 

すると私はもう我慢できずに

あなたの性器に人差し指を挿入するのでした。

 

――ああっ。

 

あなたの喘ぎは更に激しくなり、

愛液は溢れ出すのです。

私は人差し指であなたの膣内を弄っては、

激しく人差し指をあなたの性器で出し入れするのでした。

 

――もっと、もっと。

 

私は中指と薬指をあなたの性器に突っ込み、

あなたの膣を、そして、子宮口を弄るのです。

さうしてあなたは蕩(とろ)けるやうにOrgasm(オルガスム)を迎へ、

軀をビクンビクンと打ち震はせるのでした。

愛液には苦みが加わり、

これがまた、堪らなく私を興奮させるのです。

私の男根は既にいきり立ち、

今すぐにでもあなたに挿入したくて仕方ないのでした。

 

――挿れて、ねっ、早く挿れて。

 

私はあなたのその言葉を待ってゐて

私はあなたの性器から口を離し、

私のいきり立った男根であなたの陰核を

 

――トントン。

 

と叩いては、あなたの性器を何度か男根でこすり上げてから、

徐にあなたの性器に挿入したのです。

あなたの膣はきゅっと締まり、

子宮が私を受け容れるために収縮を始めたのが

あなたのお腹を見て解るのです。

私は激しく腰を振り、

あなたの美しい喘ぐ顔を見つめながら、

あなたの柔らかな胸の乳首にむしゃぶりつきます。

既にあなたの乳首はピンと立ち、コリコリと硬くなっていました。

私が腰を振る度に喘ぎ声を上げるあなた。

私は思はずあなたに口吻をしてしまひます。

それでもあなたは喘ぐのを止められず、

私をあなたはぎゅっと抱き締めるのでした。

 

――イクよ。

 

――来て。

 

私は更に腰を激しく振り

あなたの膣内に射精するのでした。

 

そこで夢が覚めたのです。

私は夢精をしてゐました。

 

愛する人よ、

私はあなたが愛おしいのです。

しかし、あなたは今は悪疫を避け、

遠い異国に避難してゐます。

 

私はあなたが恋しくて恋しくて夢精をしました。

 

 

泥沼の源泉のやうに

 

泥沼の源泉のやうに鬱勃と湧く泡の如く

異形の吾は吾が五蘊場で鬱勃と湧いては、

ぽんと弾けて断末魔を上げ

そのGrotesque(グロテスク)な表象を五蘊場にばら撒いては

吾の正体を浮き彫りにする。

しかし、そもそも吾がGrotesqueでなかったことはあるのだらうか。

吾殺しすらする吾は

残忍極まりなく、

その形相(ぎょうそう)は般若の如く、或ひは鬼の如くあり、

殺戮した吾を血みどろになりながら嗤って喰らふ。

さうすることでしか吾は生き延びられぬのだ。

何時しか五蘊場は血の海に成り果て、

何時も血腥い中、

吾は野生の本能を呼び覚ます。

さう、吾は生き延びるために

殺戮した吾を喰らふのだ。

さうすることで生に縋る本能を呼び起こしてゐる。

今も五蘊場に鬱勃と湧く異形の吾は

泥沼の源泉の泡の如く

クボックボッと弾けては

血腥いGrotesqueな表象をまき散らしては

吾に喰はれる。

さうして吾が五蘊場は何時しか血の海に変はり果てた。

 

 

ぼんやりとした不安の中で

 

死を目の前に突き付けられてから

来し方行く末に思ひを馳せたところで

もう手遅れなのである。

日常に死が厳然と存在し、

絶えず死の誘惑に駆られながらも

それを撥ね除け

やうやっと生に留まる日常こそ

まともな生を生きてゐると言へ、

それでこそ現存在は生を精一杯謳歌出来る。

尻に火が付いてから恐怖に戦くみっともない生は

生を愚弄してゐて、

その自覚のない他を見ると反吐が出る。

死の将軍が天を馬に乗って駆るとき、

現存在のそれまでの生き方が問はれるのであり、

何時もぼんやりとした不安の中で

生きてゐる生こそ輝きを放ち、

それこそがまともな現存在の姿なのだ。

 

この悪疫が蔓延する瀬戸際で

右往左往するこすっからい他の群れを見ると

 

――あなた方は今までこれっぽっちも死と向き合ったことがなかったのか。

 

と、その胸座(むなぐら)を摑んで一人ひとり問い糾し、

糾弾したい欲求に駆られる。

生がそんなに柔なものではないことは

誰もが知ってゐる筈なのだが、

この期に及んで死の恐怖に戦く輩は、

捨て置いていい代物なのだ。

事、此処に至ってやうやっと生のありがたみを知る馬鹿は

仮令、この紊乱の世を生き延びたとしても

死ぬまで死のありがたみは解る筈もなく、

裏返せば生のありがたみを知る由もない。

 

バタバタと人が斃れる中、

独り煙草を吹かして

存在に誑かされながら、

おれは存在の嫌らしさに疲弊しつつ、

さうして悪疫に曝露されても尚、

孤独に底知れぬ存在といふ化け物に対峙する。

それで一つの光明が見えれば僥倖と言へ、

山頭火ではないが、

「分け入っても分け入っても青い山」さながら、

存在の何処まで行っても暗い闇の中を

分け入ってその正体を死んでも尚追ひ続け、

遂にはその正体を暴く至福の時を迎へられれば本望だ。

 

 

無事を祈る

 

中国武漢で発生した悪疫は

中国の隠蔽がなければ、

Pandemic(パンデミック)はなかったと思はれるが、

既に時は遅きに失してしまひ、

たらればを言ってゐる状況ではない。

この悪疫が各国首脳を戦かせるので痛快と言った馬鹿な新聞編集員がゐたが、

そんなに人が死ぬのが痛快なのだらうか。

体制批判が出来るのであれば、

無辜の人がいくら死なうがお構ひなしのこの新聞社は

Journalism(ジャーナリズム)の風上にも置けぬ本性を現はしたに違ひない。

 

WHOも中国の傀儡に堕してゐて

あらうことか中国はこの悪疫は米国が武漢で発生させたものなどと

世迷ひ言を言ひ出し、

更には中国はこの悪疫を克服したと宣ひ、

他国を救へるのは中国のみと救世主面をし出す始末。

それは中国が疚しい故の責任逃れに走り始めた証左に違ひなく、

Pandemicが何とか人間のControl(コントロール)下になった段で、

中国は断じて糾弾されねばならぬ筈である。

 

しかし、そんなことより、

欧州に逃れた吾が愛する人のことが気懸かりで仕方がない。

欧州は今、この悪疫の主戦場と化し

さぞかし、吾が愛する人は恐怖に戦いてゐることだらう。

スマホの向かうの彼女は、気丈に振る舞ってはゐるが、

彼女の恐怖が如何程かは、想像に難くない。

この状況下、おれのやうに恬然としてゐられる輩は

皆無に違ひなく、

彼女もこの期に及んでは、

じたばたしても始まらぬと

開き直って蠱惑的で神秘的な美しさを湛へた笑顔をスマホ越しに見せてはゐるが、

内心は引き攣ってゐるのが手に取るやうに解る。

 

それに対しておれが出来ることはといふと、

祈ることのみといふ無力さに愕然とするのであるが、

然し乍ら、彼女の無事を祈るしか為す術がないのもまた、厳然とした事実である。

 

I pray for you.

You are my life.

Survive anything and everything!

And show me your beautiful smile again.

And I am waiting for you to come to Japan again.

Again, again, again, I want to meet you.

I do not miss you.

Because you are my life.

 

 

深呼吸をしてから

 

深く深く深呼吸をしてから

自身にめり込むやうに頭蓋内の五蘊場に潜り込むと、

一方で巷間の喧噪と紊乱で

右往左往してゐる輩もゐないわけではないが、

此処ぞとばかり、吾の捕獲を手ぐすね引いて待ってゐる

睥睨すべからぬ異形の吾どもも確かにその気配を消してはゐるが

存在してゐて、

何時の間にかそやつらが五蘊場に無数に掘った陥穽で

五蘊場は埋め尽くされてゐたのであった。

その陥穽に落ちたら最後、

まるで蟻地獄に落ちたかのやうに

最早逃れる術はなく

生き血を吸はれるのみなのである。

さうして吾を喰らふのをぢっと待ち伏せてゐる異形の吾どもは

吾が落ちるのを今か今かと待ちながらほくそ笑んでゐる。

然し乍ら、そんなことは百も承知の吾は

五蘊場に潜り込んでも一歩も動かずに

眼前で蠢く表象を綿飴を喰らふ如く喰らふのだ。

さうすることで吾はぶくぶくと太り

五蘊場で風船のやうにふわふわと浮かんで、

五蘊場にびっしりと仕掛けられた陥穽群を遣り過ごし、

五蘊場の宙空を漂ひながら

表象にのめり込み、

錐揉み状態で表象に溶け込む。

その時の仮想現実の中での快楽と言ったなら

得も言へぬ至福にも似た愉悦に惑溺する。

その夢現の中で吾は吾を忘れることが出来るのだ。

そんな自己逃避を吾は吾の生存に不可欠なものとして

吾を吾から遁走させる。

 

この自己欺瞞の中で溺れる吾に

然し乍ら、うんざりしてもゐる吾は、

当然、現実の吾を一時も忘れることなく、

頭の片隅においてはゐるが、

現実から遁走する吾に苦痛を与へるために

吾は自ら進んで吾に針を刺し、

風船の如くぶくぶくと太り

五蘊場の宙空を浮かんでゐた吾を萎ませ、

わざわざ吾を五蘊場で落下させ、

敢へて陥穽に落ちる。

さうして吾は、異形の吾に喰はれながら、

それこそ自己破滅といふこれ以上ない悦楽の中に没する。

そこで吾ははっと気が付き、

吾はどうあっても現実から逃避することは不可能なことを

やうやっと認識出来る馬鹿者なのだ。

それが吾の思考における日常である。

何と憐れな日常であらうか。

 

 

祈り

 

何事にも動じず、

今起きてゐる世界の状況に

あまりに冷静に対してゐるおれは

それでも愛する人のために

祈ることしか出来ず、

歯痒さを覚えつつも、

彼女の国の神のイエス・キリストに対して縋ってゐる。

それが最善のことかはいざ知らず、

今は、只管に彼女のために祈るのだ。

おれの魂は既に彼女の元へと飛んでゐて、

全身全霊で祈るおれは

それで彼女から邪気を払へると信じてゐる。

念ずれば、それは量子もつれではないが、世界のどこにゐやうとも

瞬時にそれが伝播し、

おれと彼女は距離は離れてゐても

一心同体のものとして

抱擁してゐるも同然なのである。

何を世迷ひ言を言ってゐるのかと

嘲笑が投げ掛けられることなど全く気にせずに、

おれは恥ずかしげもなく、祈る。

祈りには他者の嘲弄にもかかわらず、

其処には深い自己滅私の精神が宿り、

神聖な思ひが彼女の元へと飛んで行くのである。

――それは単なる自己満足さ。

と、Cynical(シニカル)な反応が多数を占める筈だが、

祈りが持つ神聖さは何ものも不可侵なものなのだ。

深く深く深く深呼吸をして自己に沈潜しながら、

おれは一心不乱に彼女を思って祈る。

それが何になるかは今は解らぬが、

祈りが持つCatharsis(カタルシス)は大いにおれを勇気づけ

尚更彼女が愛おしくて仕方がない。

悪疫が爆発的に拡がる中、

何があらうとも生き残ってくれ。

 

He loves her.

Because he prays for her.

Pray brings mercy.

For him this sacred prayer further strengthens her connection.

Her face floats in his meditation and disappears, but he embraces her as she disappears.

And then, he whispers that she loves her.

He still loves her with such an image.

His soul has already flown to her and finds rest in the sympathy of each other’s souls.

And they kissed each other.

And he prays for her.

 

惜別

 

悪疫が欧州を襲ったことで、

事情が二人の関係の継続を許さず、

別れることに相成った。

それにしても彼女は美しかった。

その神秘的な美しさは

息を呑むほどで、

彼女以上の美女にはもう出会ふこともないだらう。

然し乍ら、吾はといふとこの事実に意外とさばさばしてゐて

彼女は今、死の不安の中で、生き延びることに精一杯なのだ。

それが手に取るやうに解るために

この別れを肯定的に吾は受け容れる。

何をして彼女を責められやうか。

未練がない訳ではないが、

唯、彼女には生き延びて欲しい。

翻って吾はといふと、

強烈に愛した彼女に対しての惜別の念は

当然ながらあり、

心にぽっかりと穴が空いた喪失感は

塞ぎやうもないが、

吾もまた、それまで以上に身近な死に対して

付かず離れずしながら、

上手に付き合はなければ、

生き延びられぬ。

いくら生に対して未練がなくとも、

やはり、まだ、少しは生きてゐたい欲はあり、

恥ずかしながら、

生に対する屈辱を抱へざるを得なかった吾は、

彼女を失ふ喪失感以上に

生に対する罪悪感を克己して

吾を断罪し終へるまでは死ねぬのだ。

 

さあ、神秘的な美しさを秘めた貴女よ、

お互ひに歩む道は違へてしまったが、

この悪疫が蔓延る世において

只管生を捕まへて

お互ひに生き延びやうぞ。

それがせめてもの吾の貴女への惜別の言葉ぞよ。

 

 

大鎌を死神が振り回す中で

 

何万本の蠟燭の炎を刈るやうにして

死神は大鎌を振り回しては時時刻刻と魂を刈り、

毎日死屍累累の山を堆く積み上げながら

大笑ひが止まらない。

已む無く吾が肉体から切り離された霊体たちは

己の居所たる吾が肉体を探すのであるが、

それを見つけたところで、

最早棺の中で永眠してゐるか

墓掘り人に掘られた墓穴に吾が肉体が納められし

棺が埋められるところに違ひない。

さうして彷徨を始めた肉体から離された魂たちは

何時しか寄り集まり、

地上を大行進して行く。

死者の霊たち、若しくは魂たちは

何時までも何時までも地上を彷徨ひ歩くしかない。

それは死神が魂を刈るのに忙しく、

死者の霊を黄泉の国へと案内する暇がないからだ。

彷徨へる魂たちは皆一様にしくしくと泣いてをり、

死者の頬を伝はって流れ落ちた涙は、

悪疫の養分として此の世に拡散して行き、

死者が増えるほどに悪疫の猛威は止まらない。

さうして死神がまた、大鎌を一振りしては何万もの命が消し去られ、刈られて行く。

 

嗚呼、汝は見しか、

死神が大鎌を一振りし時に

閃光が走るのを。

其は正(まさ)しく魂の消ゆる

最期の瞬間の断末魔が一際煌めいた後、

此の世から揺らめき立ち上り、

そして、破裂して爆風を吹かせし

厖大なEnergy(エナジー)の放出現象の痕跡なりし。

その後、彷徨へし魂たちは行き場を失ひ

犇めき合ひながら、

互ひに顔を見合はせては

涙を拭ひ払ふが、

それが悪疫を活気づけ、

更に死が死を招きし。

 

嗚呼、汝が見しあの閃光は

稲妻である筈はなく、

死に行く者たちの死の爆風の

厖大なEnergyの放出なりし。

さうして魂たちは此の世を未来永劫彷徨ひ歩く。

 

 

暗い未来予測だからこそ

 

確かにParadigm(パラダイム)変換が起きてゐて

その暴力的なまでの変容に

誰もが身を竦(すく)め

不安に打ち震へてゐる。

そんな不安ばかりが先立つ

暗い未来予測だからこそ

独り吾の身命は燃え盛る。

今この時に身命を燃やさずして

何時燃やすといふのか。

当事者といふ特別に選ばれし吾、

其は波紋も美しい日本刀のやうに

ぎらりと輝いたかと思ふと

一閃抜刀のもと、暗き未来を惨殺す。

それでも尚、未来は暗き衣を着てゐて

吾を蔽はんとするが、

吾はまた、一閃抜刀のもと、再び暗き未来を惨殺す。

さうして吾は更に燃え盛る。

その勢ひが凄まじさを加へると、

暗き未来は吾に触れずして焼尽す。

だからと言って未来は決して明るいものではなく、

薄明の中の濃霧のやうに

全く先が見通せぬが、

それはそれで乙なもの。

燃え盛る吾が光源となり、

未来を照らさぬ内は

未来は決して拓かれぬ。

燃ゆる燃ゆる吾は燃ゆる。

さうしてやうやっと未来は少し拓かれる。

 

 

老犬

 

何度となく病を患ひつつも

のらりくらりと今まで生を繋いできた愛らしい老犬は、

目と耳が大分衰へたが、

鼻だけはまだ、十分に利くやうで、

それをして安らかに暮らしてゐる。

相棒を亡くしたときは

死を理解してゐたのか、

何とも哀しげに泣き暮らしてゐて、

それ以来、余計に甘えん坊になってしまった。

老犬は、足が弱ってゐて踏ん張らないと

立ってゐられぬが、

それでも、起きてゐるときは、

東を向いて何かを思案してゐるやうに

凜凜しく立ったゐる。

よぼよぼの見てくれながら、

その立ち姿は神神しくあり、

年取ることは

老犬を見てゐると

神聖なことにしか思へぬのだ。

 

存在が老ひることは、

嘆くことではなく、

誇れることなのだ。

死が近しいとはいへ、

否、死が近しい故に

その存在自体が荘厳なのだ。

神聖なその老犬の頭を撫でながら、

「くううん」

と鳴く老犬を抱き締め、

大切な一日を今日も生きる。

 

 

沈降する意識は何を夢見る

 

呼吸が次第にゆっくりとなり、

意識が私であることを意識出来ぬまでに

眠気に襲はれてくると、

意識は海水に浮くやうにぷかぷかと浮遊し始め、

いざ、夢の世界へと出発する。

 

夢の世界への出立は、

呼吸は息を吐き出すときに決まってゐる。

 

私は最早私であることを保てぬ中でも

辛うじて私が私であることを保持しつつ。

 

そんな意識が混濁した中、

息を吐いたとき、

私といふ意識は融解して

と同時に私は夢の世界へと沈降する。

その夢の世界は《全=私》といふ不可思議な世界で、

全能なる神にでもなったかのやうに

私は夢を見てゐるのかもしれぬが、

神が世界を制御出来ぬやうに、

私も夢の世界で起きることを制御出来ずに

然し乍ら、その摩訶不思議な状態を全的に肯定するのだ。

 

仮令、夢見る世界が私を襲ってきても

私は不安にぶるぶると震へる仔犬の如く

その世界を全肯定する外、取るべき道は残されてゐない。

それは巨大な恐怖に違ひないのだが、

何故か私は夢の中では夢魔の為されるがままに

翻弄されることに快楽すら感じてはゐないか。

 

それは何故なのか。

 

私は《全=私》であった筈が、

すぐに世界に呑み込まれ、

吾が頭蓋内で表象される物事と

同じ位相に立てゐるからなのだ。

 

ロシア人形のマトリョーシカのやうに

私といふ存在は様様な大きさで入れ子状になってゐて、

様様な位相で世界に適応してしまふ。

その変幻自在が私の一つの本質なのだ。

さうして私は、夢の世界の更に奥底へと

時に疾駆しながら、

時にゆっくりと

夢の世界に翻弄されつつも

沈降して行く。

さうして私は吾が快楽を貪り喰らふ。

 

 

断崖

 

私の世界観は

アナクシマンドロスの時代から何にも変はってをらず、

世界は四角い平面で、

その涯は断崖絶壁でさうして世界は海に囲まれてゐる。

その世界の涯に私はいつしか追ひ込まれ、

断崖を背に異形のものに今かと襲はれる寸前なのであった。

それは夢ではなく、

何かの折に不意に私を襲ふ表象で、

私はいつも異形のものに追はれては断崖へと追ひ詰められ、

――ええい、ままよ。

数百メートルはある断崖から飛び降りる決心がつかぬまま、

異形のものに躙(にじ)り寄られて行くのである。

いつもはそこで吾に返るのであるが、

その時は私は何を思ったのか、

何の躊躇ひもなくその断崖から飛び降りてしまったのである。

数秒間の宙を落下する中、

私は走馬灯の如く浮かぶ吾が全人生を振り返り、

そのなんとも心地よい浮遊感に

吾が身を委ね、

天へ昇る感覚の中にのゐたのであった。

と、激烈な衝撃で吾が意識は何処かへと飛んでしまひ

私は一瞬吾を見失った。

その後、気が付くと

私は断崖の上から

波濤に揺られる吾が遺骸を見下ろしてゐた。

 

 

物憂げな魂とハイゼンベルクの不確定性原理

 

魂に重い重い錘鉛が括り付けられたかのやうに

足取りが重重しくふらりふらりとふらつきながら

この重力に支配されれた大地を歩くが、

二三歩歩くだけで物凄い疲労に包まれ

呆然と佇立してしまふ今、

私は有無を言はずに寝込むべきか。

この物憂げな魂を引き摺るやうに

肉体ばかりが先走るこの心身の不一致の中、

魂は背を突き破って吾が肉体から飛び出さうだが、

私はこの不自由極まりない状況でありながら、

意外にも冷静で、

私の意識は魂の在所たる私といふものを

内部の目で凝視してゐたのである。

 

たが、意識といふものはいくら凝視して

捉へやうとしても曖昧模糊としてゐて

掴み所がない幽霊にも似た存在で、

確かに存在してゐるのは解るのであるが、

闡明しないのだ。

私はこれは私の意識にももしかすると

ハイゼンベルクの不確定原理が当て嵌まるのではないかと

不意に思ひ立ち、

凝視することを止めた。

有耶無耶な意識は

然し乍ら、ある集合体として存在してゐて、

私の頭蓋内の闇たる五蘊場に無数の小=私として

離合集散を繰り返し、

脈打ってゐるやうにも思へたのである。

それをCameraのShutterを切るやうに

接写しやうものならば、

焦点がずれたぼやけた写真のやうに

漠然と私の意識がぼうっと写るに違ひない。

 

実際、私は私の意識を凝視してゐた時、

千変万化する雲を見てゐるやうであり、

それ以上は闡明することなく、

意識は相変はらず、

曖昧模糊とした存在だったのだ。

その時、表象群は様様に現はれては消え、

私を狸の化かし合ひではないが、

何度となく私をおちょくっては

せせら笑ってゐたのは間違ひない。

 

私の意識にも仮にハイゼンベルクの不確定性原理が当て嵌まるのであれば、

意識は、そもそも捕獲出来ぬ存在で、

意識を凝視しやうにもそれはぶれずにはをれぬのだ。

接写など不可能でしかなく、

私はこの謎ばかりが拡がる意識といふものに対して

何となく合点がいったといふものだ。

 

魂は相変はらず物憂げに

重い重い錘鉛を括り付けられたやうで

意識が前頭葉から、魂は背から飛び出すかの如く

心身はバラバラであるが、

動くに動けずこの大地に佇立するのみの私は、

然し乍ら、天を見上げて右手を伸ばしたのであった。

 

 

世界を捉へるのには合理から始めてはならぬ

 

世界の秘術の如く

数学が、美しい定式として、または定理として、

将又、公式として人類未到のものとして絶えず邁進するが、

この数学が曲者で、

合理の権化の数学に触発されて世界を語るに相応しい言葉を

紡ぎ出すには、世界はあまりに不合理なのである。

不合理なものは不合理なもので対処しなければ、

語るに落ちるといふものだ。

とはいへ、人類の頭脳の粋を結集しての数学には、

なんとも言ひ難い魅力満載なのはいふまでもない。

数学には私よりももっと深くに考へ抜かれた末に

見出された珠玉の数式の数数が目白押しで、

その論理的な考え方には成る程途轍もない説得力があり、

その数学の誘惑に負けずに数学には後ろ髪を引かれる思ひで、

私は何とか数学の跳躍台無しに世界といふ不合理の権化を

語りたいのである。

然し乍ら、奇妙なもので、

いざ、不合理を不合理で以て語るのは

かなり難しく、

私はそもそも何事も合理に帰結したい悪癖があり、

さうして不合理極まりない現実を忘れたいのだ。

想像はつくと思ふが、当然ながら、私はProgramming(プログラミング)が大好きで、

Programmer(プログラマ)として働いていたこともあったが、

もしかすると私は合理的にしか物事を把捉する術を持ってをらず、

あの不合理の権化たる世界に対する言葉を持ってゐないのかも知れぬ。

歯痒い。

不合理なものに対してどうして不合理に語れぬのか。

それは私が多分、合理的に物事を考える思考法に

矯正されてしまったからに外ならぬ。

ならば、今からでも遅くない。

不合理を処せる言葉を一語一語獲得するまでだ。

さうしてたどたどしく、此の不合理な世界を告発するのだ。

 

――お前を存在の鏖殺(おうさつ)の罪で告発する。

と。

 

 

集団ヒステリーの中でも尚

 

目の前に死がぶら下がったことで、

巷間はざわめきその不安から

集団ヒステリーとなって

批判の矛先を見つけては

執拗に攻撃を加へ

一時の不安から目を逸らしてみるのであるが、

死はそんなことは一笑に付し、

問答無用に万人に襲ひかかる。

 

死神は白い駿馬を駆って

天駆け巡り、

次次と人間の首を刎ね

地上は恐怖に戦き、

死神は種蒔くやうに

悪疫のVirus(ヴィールス)をまき散らしながら、

更なる死を呼び寄せる。

 

恐怖に戦いた民衆の集団ヒステリーは更に昂じ、

魔女狩りの如き無辜の市民の私刑が始まり、

惨たらしい惨殺が繰り返される。

死が死を呼び、恐怖が逆巻くこの中で、

吾は只管冷徹に状況を見極め、

死が隣に座らうが

素知らぬ顔をして

死の頭を撫でさすり、

愛撫さへ厭わぬ。

それに業を煮やした死神は

大鎌を吾に振り下ろすが、

吾はひょいっとそれから身を躱し、

死神を嘲笑ふのだ。

 

集団ヒステリーの逆巻く中で尚、

吾は死を労りながら、

――ご苦労さん。

と、激励するのだ。

日常に死がないことはとっても不自然なことで、

日常に死が溢れ出した現代こそ

至極自然なに日常の姿なのだ。

 

――死よ、更なる恐怖を振りまいて現代人の死を忌避する錯覚から目を覚まさせよ。

 

 

漏洩

 

何処ともなく漏れ出た個人情報は

既に一人歩きを始めて

悪意ある他人に渡り、

私は個人情報で脅される。

悪意ある他人は、

その個人情報を後生大事に、

しかし、執拗に脅しをかけて

私を攻めるのであるが、

てんで身に覚えがないことで脅されるので、

事が起きれば、直ぐに警察に出動を願ふ準備はしてゐる。

一度(ひとたび)個人情報が漏れ出るともうお手上げである。

この薄ら寒い恐怖と隣り合はせの情報化社会が

更に進むと、実存よりも個人情報が価値を持ち

漏洩した個人情報に実存は押し潰される。

情報は漏れ出るものと覚悟しなければならぬのか。

この理不尽に打ち勝つには

執拗に攻め立てる悪意ある他人に対して

知らぬ存ぜぬを決め込むか、

脅しの記録を全て取っておいて

動かぬであらう警察に見せる外に手はないのであらうか。

悪意ある他人、多分、他人どもは

何度脅しても柳に風、或ひは暖簾に腕押しの如く

身をふらりと躱すので

さぞ、張り合ひがないことであらうが、

Template(テンプレート)があるのであらう

全く同じ文面の脅しを執拗に時をおかずにかけてくる。

相手は此方がめげるのを待ってゐるのであらうが、

既に腹の据わった私は

悪意ある相手が、少しでも不審な動きをしないか待ってゐるのである。

さうすれば、奴らは一網打尽に逮捕されるに違ひない。

その時を只管待ち構へ、

時が動くのを釣り人が水面の浮を凝視するやうに

待ってゐる。

 

 

「このなんとでも言へる世界が嫌だ」と歌ふ人がゐれば

 

RADWIMPSのAlbum『アルトコロニーの定理』の

Last number「37458」で

――このなんとでも言へる世界が嫌だ

と、さりげなく歌へる野田洋次郎に羨望を覚えつつ、

私は世界に対して憎悪しか感じられぬその浅ましさに

私のちっぽけさを感じずにはゐられぬ。

だが、そんなちっぽけな私だからこそ表現出来るものがある筈で

メラメラと憎悪、若しくは憤怒の炎を無双の世界に対して燃やす私は

然し乍ら、そこには吾に対する奢りが少なからず隠されてゐて

それは『私は世界に対峙出来る存在だ』と心の何処かで思ってゐるといふ

なんといふうつけものであることか!

 

――ちぇっ。

と、自分に対して舌打ちをし、

私はさうして自分を棄てる。

これは自棄のやんぱちでしかないが、

自分を棄てることで

似而非人身御供の儀式をしてゐるのだ。

私の考へ方は現代にはまだ、馴染んでをらず、

世界観も宗教観も宇宙観も死生観も現代人にはほど遠く

古代人に近しいのだ。

正直、現代の科学的成果に対して理屈では解りつつも

心ではちっとも納得がゆかぬのだ。

これは致命的で、

私は日日、現代から零れ落ちる落伍者でしかない。

だからといって、科学を崇めてゐるかといへば

そんなことはちっともなくて

むしろ、科学を蔑んでゐる私がゐる。

それは何故かといへば

科学的なるものは全て私の心に響かぬのだ。

その一点でのみ、

私は科学的なるものを心より蔑むのだ。

さうして、それを『善し』としてゐる私がゐて、

科学的なる世界観、宇宙観、死生観、そして宗教観全てを唾棄する私は

ちっぽけな私故に

古代的なるものに憧れ、

その機微を巧く表現出来る

言葉を探してゐる。

それは現実逃避ともいへるが

『それで善し』とする私は

ニーチェの如く反時代的でありたい。

 

 

迷子

 

時間といふ事象に再現前する吾を

追ってゐるうちに迷子になってしまったやうだ。

そもそも時間が曲者なのだ。

確かに時間は過ぎてゐるのだが、

その摑み所のない時間の正体を

追ってゐると、

気が狂ひさうで、

正しく狂気の沙汰なのだ。

それはまるで濃霧の中の白い影を追ふやうで、

将又、闇の中の黒い馬を追ふやうで、

確かに存在するのであるが、

気配のみを感じるばかりで、

その正体は何時まで経っても闡明しない。

だが、時間が進まぬことには思考すらできぬ吾は、

一体全体時間の何なのだ。

 

嗚呼、闇に薄らと浮かぶ吾が影よ、

その私を虚仮(こけ)にする吾は、

ふああっと欠伸をしては

私を一突きで刺し殺す。

 

 

忍び寄る跫音

 

――ミシリッ、ミシリッ。

と真夜中の古い木造の階段を上ってくる跫音がする。

しかし、私はそれには知らんぷりを決め込んで、

『場の量子論』を読むのに熱中してゐる。

何やら最近際騒がしい量子重力理論への入り口として

もう一度読み直してゐるのである。

カントがア・プリオリと封印してしまった

時空間を解放するためにも

物理数学でカントがア・プリオリとして封印してしまったものを

再び日の目が当たる娑婆へと解放するには、

物理数学で対抗する外ないと

量子重力理論を品定めしてゐる。

そんな時に何ものかの跫音が聞こえだし、

――えへら、えへら。

と嘲笑を放っては、

私の視界の境界にひょいと顔を出しては

あっかんべえをする。

それでも私は知らんぷりを決め込んで、

Pipeの煙草に火をつけて

紫煙を胸奥深く吸ひ込んで、

――ふうっ。

と煙を吐き出す。

成程、時空間も連続ではなく、

飛び飛びの非連続なものとの思考は

私の考へてゐた時空間の姿について補完するものとして

腑に落ちるところではあるが、

しかし、物理数学も数多ある世界観の一つに過ぎぬとして

私はそれをして私の考へが深まることはないが、

唯、カントがア・プリオリのものとして封印した時空間は

やっと解放されて、

時空間そのものが思索のTargetになったことは

喜ばしいことではある。

と、そんな時忍び足で跫音を立てずに私に近づく何ものかは

――ぺん。

と私の後ろ頭を叩き、

それでも素知らぬふりをする私に

地団駄を踏んで私を羽交ひ締めにする。

それでも素知らぬふりをして煙草を吹かす私は、

そいつの相手をするほどには心がざわつかぬ。

さうして私は深く私にのめり込み、

瞼を閉ぢては黙考に耽溺する。

 

――私とは絶えず私でないものへと変容しやうとすることを夢見る、絶えず私に対して憤怒を持ち続ける、つまり、私を持ちきれぬ存在であるが、しかし、その実、私は私に胡座を舁いてゐて、傲慢にも私であることに安住もしてゐる……。

と、そこで、私は階段を上ってきたそいつに刺され、

吾が腸が腹から食み出るのを見て卒倒する。

 

――是非に及ばず。

 

消えゆく意識にそんな言葉が浮かんでは意識は遠のき、

私は内界の闇か外界の闇かは解らぬが

底知れぬ闇の底へと沈んでいった。

 

 

光に希望を見てしまふこの条件反射的な思考法は誤謬である

 

視覚がものいふ世界の把捉の仕方において

当然、光が尊ばれるのはいふに及ばぬが、

だからといって例へば闇の中で光に希望を見てしまふ

この条件反射的なる思考法は誤謬である。

闇の中においては仮令、光が差し込まふが

光に背を向けて闇の奥へと突き進むのが正しい姿勢である。

それは、闇の中に光が差し込むことで、

それまで闇の中でぢっと黙考してきたことが断絶し、

いとも簡単にそれが棄てられてしまふのであるが、

無心に光を信ずるこの条件反射的な思考法が

正しいと保証するものが何にもないことに

少し立ち止まって考へれば、

誰もが気付く筈である。

それにも拘はらず光=希望と看做す条件反射はなくならぬどころか、

益益堅牢な記号として此の世に幅を利かせてゐるが、

この条件反射に従順に反応してしまふことは

泰然たる自己肯定に安住する世界が仕掛けた罠であることに

やがて自縄自縛に陥る二進も三進もゆかぬ吾の状態を見れば、

火を見るよりも明らかである。

白日の下では吾は逃げ場を失ひStripper(ストリッパー)よろしく、

吾を晒さずば吾の存在証明足らざるを得ぬ光の世界の残酷さに

吾はまもなく打ちのめされる。

さうして吾は内部の闇に閉ぢ籠もるのであるが、

その居心地の悪さは非情である。

ならば、初めから光に釣られることなく

闇に留まるべきなのだ。

さうして黙考に耽溺し、

残酷な光から逃れながら、

懐深い闇の中で、

自由に溺れる悦楽を満喫すべきなのだ。

さうして吾は狡猾な光の罠にかかることなく、

分け入っても分け入っても闇の中で、

自己解放する醜悪なる頽廃に

身を委ねるのも乙なものなのである。

 

 

薄明の中に見えたものは

 

何に怯えてゐたといふのか。

夜明け前の薄明の中、

独りぽつねんと端座しながら、

吾は白い影を引き摺るそいつに対峙する。

そいつはオーネット・コールマンが好きだと行って

藪から棒に吾のレコード棚から

オーネット・コールマンのレコードを取り出して、

プレーヤーで針を落とし

その気鋭のジャズ・ジャイアンツの音を流し出した。

そして、かう切り出した。

――別離の難しさはいふに及ばず。されば、そなたは別離を何とする。

――ぽっくり死ねれば幸ひだが、煙草好きの吾はのたうち回って此の世との別離を迎へるだらう。

――ふっ、一応覚悟はできてゐるみたいだが、その前にそなたはするべきことがあらうが。

――この悪疫が蔓延する世においても仮に生が繋げるのであれば、それは吾にまだ遣り残したことがあるといふことで、それを是非しなければとは考えてゐる。

――それを口に出来るかね。

――ドストエフスキイに双肩出来得る小説を書くこと。

と、吾がいふとそいつはゆっくり瞼を閉ぢて、

天を仰いだ。

そして、かういった。

――それは仮令、そなたが生きてゐるうちに評価されぬといふ覚悟があってのことか。

――勿論。

――それは既に書き始められてゐるのか。

――勿論。

――すまぬが読ませてくれぬか。

――ああ。

吾はそいつに原稿を渡した。

そいつは、何度も

――う~ん。

と唸りながら、吾の小説を読んでゐた。

――これはまだ序章でもないんだらう。

――さう、まだ、序章にすら達してゐない。

――この涯なき長編小説を書き終へる自信はあるのかね。

――いや。それでも書けるところまで、書き連ねるつもりだ。

吾がさういふとそいつはレコードのB面をかけた。

暫く沈黙が続いた後、そいつが口を開いた。

――合理に呑み込まれるなよ。

――解ってゐる。

――合理ほど人を誑かすものはないからな。

――解ってゐる。

吾がさういふとそいつは徐に立ち上がって、

白い自分の影を踏んづけた。

――そなたの小説は、つまり、かういうことだね。

――さうともいへる。が、しかし、そればかりではない。自分の影を踏んづける類ひの小説は五万とある。吾の小説は影を切り裂くのだ。さうして自らの存在をずたずたにする。さすれば、宇宙顚覆の端緒になり得ると思ひなしてゐる。

――狂気の沙汰だぜ、それは。

――解ってゐる。

吾がさういふと、そいつはすうっと姿を消した。

と同時にオーネット・コールマンのレコードも終はった。

 

 

呻吟するは吾なるか

 

吾なるものの境を見失ってからといふもの

私が私と呼ぶものは

既に私を形成してはをらず、

形相(エイドス)も質料(ヒレー)もあったものぢゃない。

それでも外部に溶け出たものではないので、

石原吉郎の『海を流れる川』ではないが、

他との差を感じざるを得ぬままに

頑として吾であることを断念してゐながら

体臭の如くに滲み出てしまふ吾特有の悪癖は

何につけても

――私は……。

と、ぼそりと呟いてしまふその思考の端緒に陥穽があることである。

――私は……。

と、呟いたが最後、

私は既に私が私である根拠を失ってゐるにもかかはらず

恰も私が此の世に存在してゐるといふ錯覚に気を良くして

私の思考を推し進めてゐるといふ虚妄の快楽に耽溺することで、

私を成立させてしまふのである。

さうして出来た私は深海生物の如くGrotesque(グロテスク)な態(なり)をしてゐて

それだから尚一層、吾は満足の体でその私を頬張るのである。

当然、その私は蜜の味をしてゐて、

私は私を貪り食っては

腹一杯になり、

それだけで十二分に満足してしまふのである。

しかし、その直後に嘔吐を催すことで、

私が既に私の摂食障害であることを自覚せざるを得ぬのであったが、

鱈腹私を喰らった私が嘔吐した私は

掃き溜めに鶴ではないが、

未消化故に博多人形の如くに

憎たらしいことではあるが美しいのである。

吐瀉物特有の鼻をつく臭ひには辟易するのであるが、

私から嘔吐された私は

見目麗しくきりりとしてゐて

そのくりくりの瞳は

赤子の如くであり、

つまり、嘔吐とは私にとっては出産に等しいことなのであった。

然し乍ら、嘔吐された私は苦悶の表情をしてをり、

赤子の如くに泣かずに

――ううん、ううん。

と、呻吟してゐたのである。

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