思弁的超越論私論 気配すらをも潜めし《それ》は、 自らの意思、否、《念》において 「先験的」に《吾》は存在すると自覚してゐて、 カント曰くところの「物自体」はカントの誤謬かもしれず、 物自体は全てかっと目を開き、 世界を睥睨してゐる存在として 此の世界に確かにある筈だ。 ――世界が本質に先立つ? 馬鹿な、 世界にとって《吾》の存在なんぞ、 どうでもよく、 《吾》が死なうが生きようが窮極的には知ったことではなく、 全く的外れなそんな問ひに対して 物自体は ――ひっひっひっ。 と、嘲笑してゐる筈である。 思弁的超越論において、 《吾》の問題も《他》の問題も 幽霊の存在を認識するかしないかの違ひでしかなく、 そんな幽霊のやうな世界に対して、 ――世界が本質に先立つ。 などと言ふ馬鹿げた問ひを発する此の《吾》は、 まだ、これまで一度も「私」とか「主体」とか己のことを呼んだことはなく、Read More思弁的超越論私論

