渇仰する 何をそんなに渇仰する必要があると言ふのか。 既に俺はかうして此の世に存在し、 そもそも俺は己の存在を自明とし、 ふっ、それよりも恬然と此の世を満喫してゐるのに、 何を渇仰するものがあると言ふのか。 ところが、一度、己に対して疑念が生じると、 疑心暗鬼に陥り、 漆黒の闇の中、何にも判然とせず、 手探りで一歩一歩そろりそろりと歩くやうにして 脚を目として進むといふ視覚の不能にびくびくしながら 俺は俺に対しての不信感を追ひ払ふことが出来ずに、 何時も闇に佇むだけの俺のことを嘲笑するのだ。 これはこれで楽しくもあるのだが、 この自己矛盾には既に辟易してゐて、 常に俺は、俺を嘲笑する側の俺に為れないかと その存在の有り様を渇仰する。 俺が渇仰する俺とは、 さて、それは此の世において信用出来る存在として つまり、基督や釈迦牟尼仏陀のやうな存在として 今生の苦を一身に受けながら、 それでゐて恬然とし、 何処吹く風かと言ふやうに 俺の存在なんぞにかまける暇があったなら、 他の苦に共感し、それを取り除くことを使命として 身を粉にして世界に尽くす無私の状態こそがRead More渇仰する

