独断的存在論私論 二 錐揉み状に此の世にばっくりと大口を開けたパスカルの深淵に落ち行く吾は、 果たせる哉、底無しの中を何時までも自由落下し、 それは何時しか浮遊感とも混濁し、 吾が果たして落ちてゐるのか浮遊してゐるか最早己では解らなくなってゐる。 この曖昧な感覚に不快を覚える吾は、 徹底的に落下の感覚を意識するのであるが、 しかし、私の軀体はどうあっても浮遊してゐると内臓から感じるのだ。 自由落下が浮遊感を齎すのは、しかしながら、余りに自然な事で 自由落下してゐる吾は、その錯覚を真実と看做してしまひ、 真実を目隠しする。 しかし、その錯覚してゐる事こそが真実であり、 己の感覚に反する事を意識し、それをして認識とするのは吾には 余りにも酷と言ふものだらう。 認識といふものは、そもそも曖昧で、錯覚塗(まみ)れのものでしかない。 錯覚を錯覚と指摘したところで、 それが錯覚だと思ひなすには吾は余りにも未完成なのだ。 そして、未完成故に時間は流れる。 時間が流れるものならば、 その時間には固有時といふ小さな小さな小さなカルマン渦が生じる。 未完成が完璧を欣求する事で時間の大河は流れざるを得ず、 固有時のカルマン渦の寿命は現存在の寿命にぴたりと重なる。 世界が完璧を欣求することを諸行無常とする吾は、 森羅万象が欣求するものこそ、 詰まる所、悦楽の死んだ世界なのかもしれぬとも思ふのだ。 死の周りをぐるぐる回る吾の思考癖は止まるところを知らず、Read More独断的存在論私論 二

