連続は維持すべきものなのか
連続は維持すべきものなのか おれであることを”連続”したものとして認識するおれは、 決定的に何かが欠落してゐると思へ。 それが此の世に対するおれの最高のもてなしなのだ。 おれが連続してゐるなんぞまやかしに過ぎず、 記憶といふ過去世の存在が辛うじて保たれてゐると錯覚することで、 おれであると無理矢理悟性がおれの連続性をでっち上げてゐるこの現状は、 誤謬と思った方がいい。 そもそもおれと言ふ体軀は既に最新のTechnology(テクノロジー)により解体されて、 その”死体”を晒してゐるぢゃないか。 主体の死屍累累の山は、 過去世に堆く積まれて、 あったかも知れぬ主体の骸のどれもにその悍ましき怨念が宿ってゐる。 さう思ふのは時間は連続と言ふBias(バイアス)が 不知不識(しらずしらず)のうちに かかってゐるからであり、 悍ましき怨念もまた、非連続に現れるとしたならば、 時間はそもそも非連続と看做せる筈である。 さて、時間は時間において衰滅するものなのか。 時間もまた、量子的なものと看做して ここで、安直にChronon(時間子)なるものを取り入れると 仮にChrononとGraviton(重力子)は互いに相互作用するならば、 確かに時間は非連続と言ひ切れるのであるが、 それこそ強弁と言ふもので語るに落ちると言ふものである。 時間は時間において衰滅するものなのか。 かう問ふたところで時間の無駄なのかも知れぬが、 しかし、この問ひは非常に重要におれには思はれ、 仮に時間は衰滅するものであるならば、 認識論はその根底から崩れ去り、 そもそもおれが連続である根拠を喪ふ。 ここで、刹那に逃れて時間は刹那で生滅して、 また、刹那に生滅する非連続なものと看做す愚行をすれば、 それは遠い昔からある刹那論に与し、 存在の現象としては面白いかもしれぬが、 手垢に塗れた存在の現象に堕すのみ。 そもそも時間の衰滅から時間の非連続は 飛躍しなければ結びつくものではない……。 或ひはびよーんと引き延ばされた時間において 思考が何回回転できるかに、 仮に主体の生存の秘訣が隠されてゐるとして、 回転が時間の本質にも関係してゐると無理矢理看做せば、 時間はその場合必ず非連続の飛び飛びのものであり、 それが自然な見方だと思ふのだが、 実際、時間がびよーんと引き延ばされたかのやうに感じることはあって、 例へば事故に遭ったとき、過去の記憶が走馬燈の如く甦るSlow motion(スローモーション)の時の流れが現前するのだ。 Slow…
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