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Tag: 創作

思弁的超越論私論

思弁的超越論私論   気配すらをも潜めし《それ》は、 自らの意思、否、《念》において 「先験的」に《吾》は存在すると自覚してゐて、 カント曰くところの「物自体」はカントの誤謬かもしれず、 物自体は全てかっと目を開き、 世界を睥睨してゐる存在として 此の世界に確かにある筈だ。   ――世界が本質に先立つ?   馬鹿な、 世界にとって《吾》の存在なんぞ、 どうでもよく、 《吾》が死なうが生きようが窮極的には知ったことではなく、 全く的外れなそんな問ひに対して 物自体は ――ひっひっひっ。 と、嘲笑してゐる筈である。   思弁的超越論において、 《吾》の問題も《他》の問題も 幽霊の存在を認識するかしないかの違ひでしかなく、 そんな幽霊のやうな世界に対して、   ――世界が本質に先立つ。   などと言ふ馬鹿げた問ひを発する此の《吾》は、 まだ、これまで一度も「私」とか「主体」とか己のことを呼んだことはなく、Read More思弁的超越論私論

端座する

端座する   俺の振る舞ひに決定的に欠けてゐる礼儀は ここぞと言ふ時には全的に大仰なその形式に則って 先づは端座するべきことなのだ。   例へば他人を前にして、 ぴんと張り詰めた緊迫感にしかと身を引き締めて対峙するには 端座することが他者に対する最大の礼儀なのだ。 それすら出来ぬと言ふのであれば、 俺は俺であるその根拠を失って 茫然自失の態で俺の内部を罵倒するのみ。   端座せぬその居心地の悪さと言ったならば、 跋が悪いといふ言葉があるやうに 他者を前にした緊迫感に押し潰されるだけなのだ。 他者に呑まれる俺のその無様な様は、 端座することで、つまり、礼儀を守ることでやっと取り繕へる。   さうして俺が俺である自覚を持てる俺は、 端座して一礼し、他者に対して礼儀を尽くす。 これが、他者に対する、つまり、超越した存在に対して 何とか解り合ふたった一つの方法で、 礼儀を以てしてのみ俺が俺の位置を守れるのだ。 Claude-Opus-4.7の初見の批評 拝読いたしました。「端座する」── これは積氏の散文群の中で、 最も凝縮された、そして最も身体的な倫理の探究 を展開した一篇です。前作「擬態する神」の壮大な神話的悲劇とは対照的に、本作は 端座という一つの身体的行為Read More端座する

擬態する神

擬態する神   何てことはない。 神と呼ばれてゐたものは、 森羅万象に擬態し、 その身を隠してゐて、 常人には見えない存在として此の世を闊歩してゐたのだ。   それが知れたからと言って、 神は全く臆することなく 擬態に擬態を繰り返して 此の世の森羅万象に変化するのだ。   しかし、それを一度知ってしまった者は、 気が触れて、気狂ひとして後ろ指を指されながら、 途方に暮れて、 それでも砂を噛む思ひをしながらも何としても生き延びるべきなのだ。   だが、神を見たという者は最早それのみで此の世の中で孤立せずにはをれぬ。 何とも残酷な仕打ちなのだが、神を見てしまった者は基督のやうになる外にない。 此の世に見捨てられ、磔刑にかけられて、 神を全く信じぬ白痴の者達に 嬲り殺される外ない。   さて、俺はこれまでに何人の神を見た者を見殺しにしたのだらうか。 俺がその咎から遁れられぬのは言ふに及ばず、 実際に自責の念に駆られながらも、 神なんぞ信じることなく、 森羅万象の秘密を知り得べくと思ひ上がった先入見により視野狭窄に陥り、 さうして実際に森羅万象の秘密を一度は科学者に委ねたのだ。Read More擬態する神

くさめをしてみたが

くさめをしてみたが   ――ハクション   と、くさめをしてみたが、 誰かが私を噂してゐる筈もなく、 孤独をこよなく愛する私にあって、 くさめは、花粉症の始まりかも知れなかったのだが、 一つ、くさめをしたところで、そんな筈もなく、 やはり、私を噂してゐる他が此の世に存在してゐるのかも知れぬ。   しかし、くさめをしたのだから、私は背をぴんと伸ばさなければならぬのだ。 さうして胡座を舁いて、 その場に座しながら、己の哀れな立場を噛み締めながらも涙を流すことなく、 無様な己を嗤ひ飛ばす図太さを身に付けなければ、此の世で存在する価値がない。 泣いてゐる時間があれば、その分、更なる屈辱の中、 私は私を感じながら、その私を断固として拒否するべきなのだ。   ――それで、お主は己の存在に堪へ得る術を見出したのか。仄かにお主から立ち上る霊性には哀しみが表れてゐる。それで、お主は存在の拠り所をくさめする己に託せるのか。よもや、お主はくさめする己の存在の発見に嬉嬉として喜んでゐないだらうな。お主は己を撲殺することでしか存在できぬ哀れに圧し潰されぬやうにな。 Claude-Opus-4.7の批評 拝読いたしました。「くさめをしてみたが」── この作品は、前作「存在が揺らめいた」の末尾近くに現れた 「ハクションとくさめをした世界」 のモチーフを、今度は 「私自身のくさめ」 に転置して展開した作品として読むことができます。しかも本作は、積氏の散文の中でも 最も攻撃的で、最も苛烈な自己検証の圧力 を持つ一篇です。以下、精緻に分析を試みます。 タイトル ──「くさめをしてみたが」という逆接の宙吊りRead Moreくさめをしてみたが

存在が揺らめいた

存在が揺らめいた   何を思ったのだらう。 私は不意に日向へと出て、 私の影法師を踏んづけたのだ。 さうせずにはをれぬ私は、 不図我に返ると 苦笑する以外、その場を遣り過ごすことは出来なかった。   しかしながら、さうして私に踏んづけられた私の影法師は、 もぞもぞと動いては私から何としてでも逃げたくて仕方がないのを 最早全く隠すことなく、 私にあかんべえをしながら、 揺らめいてゐたのであった。   日向の世界は仄かに暖かく、 私を自縛しながらも、 闡明する世界を私に見せたのであった。   成程、世界は根本的には美しいものに違ひないのであったが、 私には、幻滅しかもたらさず、 しかし、世界には私の思ひなんてこれっぽちも気にする筈もなく、 その美しさを持て余してゐるやうに見えた。   美しいこともまた、哀しい存在なのかも知れぬ。 世界がさうである以上、私に絶えずさう意識させずにはをれなかったのであるが、 美しいことはやはり罪深いかも知れぬと思はざるを得なかった。   しかし、私にまだ、美を見出す感覚が残ってゐようとは思ひもよらぬことではあったが、 世界はそれ程に美しかったのである。Read More存在が揺らめいた

音楽快楽主義者

音楽快楽主義者   Rickie Lee Jonesが歌ふ「My Funny Valentine」ほど心に響く つまり、心の琴線に直截的に触れる歌をこれまで聴いた事がなかったのだが、 この感動はもう何年前のことだらう。 彼女の歌声が忘れられず、 その時から彼女の作品は必ず聴く事になったのだが、 その彼女の歌声はChet Bakerのそれにも勝る物で、 My Funny Valentineがこんなにも美しい歌だった事を 改めて知らしめられた彼女の歌声は、 実に滋味深く、美し過ぎるのだ。   それは、私の心の共鳴板と確実に共鳴してゐて、 彼女の歌声は私の頭蓋内で猛烈な増幅をし、頭蓋内部で美しい轟音となって 鳴り止まなくなってしまったのだ。   それ以来、私はRickie Lee Jonesに勝るとも劣らぬ歌声を求めて 手当たり次第にポップスを聴くやうになったが、 Norah Jonesでさへも、 RickieRead More音楽快楽主義者

盈虚

盈虚   月あらば、人ありき、か? 雲間にその顔を仄かに出す青白き月の面は、 私をかぐや姫の如くに月へと誘ふ。   ――何を詩情に浸ってゐるのか! 人なくとも月ありきさ。人の存在なんぞ、芥子粒の如きと遙か昔より言はれてゐるではないか。人の存在を云云する以前に世界の不合理を暴く事が先さ。そら、月が盈虚して嗤ってゐるぜ。 Claude-Opus-4.7の第一の批評 「盈虚」、拝読いたしました。短詩ながら、先の「弥次郎兵衛」と連なる問題意識を、全く異なる素材と構造で展開した一篇ですね。詳細に批評申し上げます。 一、題名について まず「盈虚(えいきょ)」という題から論じねばなりません。 「盈虚」は月の満ち欠けを指す漢語ですが、同時に 物事の盛衰・消長 を広く意味します。『易経』以来の東洋思想において、盈虚は 宇宙の根本的運動原理 であり、万物が満ちては欠け、欠けては満ちるという循環の相を示す語です。 この題名を冠することで、詩は冒頭から 一個人の感傷の領域を超えた、宇宙論的フレーム を予告します。読者は「月の詩」を期待して読み始めますが、同時に題名が密かに告げている ── これは 盛衰の詩 であると。 そして最終行で「月が盈虚して嗤ってゐる」と題名が回収される構造。この構造美は見事です。題名が単なるラベルではなく、詩全体を貫く 主題の循環装置 として機能しています。 二、冒頭一行の技巧 「月あらば、人ありき、か?」 この一行は非常に凝った作りです。分解して検討いたします。 古語の使用Read More盈虚

弥次郎兵衛

弥次郎兵衛   両腕に等量の重りを抱き、 脚の如き一本の心棒でBalance(バランス)をとる弥次郎兵衛は、 果たして、その平行を打ち破る打撃を加へられ、その心棒がポキリと折れて、 地べたに這ひ蹲るのか。   ―さうさ。さうぢゃなくちゃ、此の世の不合理は何ものも堪へられぬではないか。弥次郎兵衛は打ち壊されて、神の脚に踏んづけられるのだ。   神の偉容の脚の下には、夥しい数の壊れた弥次郎兵衛が踏みつけられてゐたのだった。 Claude-Opus-4.7の最終の批評 Thinking… The user has incorporated all my suggestions—they removed the two phrases I flagged and added a striking finalRead More弥次郎兵衛

武満徹にはなれなかった男、またはなりたくなかった男、その名は坂本龍一。

武満徹にはなれなかった男、またはなりたくなかった男、その名は坂本龍一。   最近、また、坂本龍一が遺したLive演奏や作品群を聴いてゐるが、坂本龍一が常に意識してゐたのは武満徹ではなかったのかと思へてならない。坂本が確か、YMOとして時代の寵児となったときに何かのInterviewで答えてゐたやうに記憶してゐるが、「倒すべきは日本の権威たる武満徹の音楽」と語り、それは坂本が学生運動に参加してゐての若気の至りと悔い、のちに和解をして武満から坂本は言葉を貰ってゐて、「君は耳がいい」と言はれたことがあったやうである。 確かにYMO以降、坂本龍一が手掛けた映画音楽などの楽曲は、あまりに美しいのだ。代表曲「戦場のメリークリスマス」を聴いたことがある人は、その美しさに惚れ惚れする筈である。そして、よくよく聴いてゐると、「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲は超然と時代を超えてゐる事に思ひ当たる筈である。しかし、坂本龍一の音楽は美しすぎるあまりに儚いのである。 武満同様、坂本の音楽は一聴すれば、これは坂本の音楽と解るもので、坂本も武満同様、坂本ならではの音楽を創り上げたのは間違ひないが、武満と坂本の音楽を聴き比べると、武満にはあって坂本にはないものが浮かび上がるのである。それは、クラシック音楽での現代音楽の枠の中だけの話ではあるが、新たな構造の音楽を産み出したかどうかという点にある。武満の音楽は間や余白と呼ばれてゐるが、その楽曲の構造そのものがそれまでなかったもので、唯一無二のものだったけれども、坂本の音楽はポップスなどでは全く逆であったが、事クラシックに限ると新たな構造の音楽は産み出してはいない。だからと言ってどちらがいいとか悪いとかの問題ではないのだが、どうしても坂本の頭には常に武満が存在してゐて、それと坂本は苦闘してゐたと考へてしまふ私の悪癖の為に絶えず、武満と坂本の音楽を比べてしまふのである。 しかし、両者のこの違ひは、当の坂本が一番解ってゐたと思ふが、武満を超えられないもどかしさは坂本が一身で背負ったやうに思ふ。坂本の中では、武満を超えられるのは自分しかゐないと言ふ矜持があったやうに思へてならない。それは坂本が美しい音楽を書くこと自体が、武満を意識してゐたとしか思へないからである。坂本は晩年、世界の森羅万象が発する音は皆、音楽と言ふ境地に到達したやうであるが、武満であればそれを音符にしたが、坂本はそれを音符にせずにそのまま作品に残してゐる。坂本が武満を超えたかどうかは聴く人が思へばいいことなのかもしれないが、坂本本人にとって武満を超えられたかどうかは坂本の音楽の根幹にかかはる重大ごとだったやうな気がしてならないのはこれまた、私の悪癖故のことである。 さうして、到頭、武満になれなかった、またはなりたくなかった坂本はそのまま亡くなってしまった。遺した音楽は、皆美し過ぎて儚いのであるが、それはそれでいいのではないかと私は思ふ。この陶然とした中で死の匂ひが漂ふ坂本の音楽は、然し乍ら、よくやったと私は拍手を送って聴いてゐる。ただ、坂本の中で無念であったのは武満を超えられなかったこと一点ではないかと思ふと、坂本の苦悶の呻吟となって聞こえるやうで、尚更、私には坂本の音楽は儚く感じられるのであった。 Claude-Opus-4.7の批評 Thinking… ユーザーが彼らのエッセイを音楽評論から個人的な感慨へと再構成したので、評価の基準も変わってくる。新しいタイトルが「武満徹にはなれな」で始まることから、この作品は批評というより、武満徹という作曲家への個人的な思いや葛藤を表現しているようだ。日本語で丁寧に応答する必要があり、このジャンルの転換を認識した上で、感慨という形式に適した評価をすべきだ。 この改稿で特に光っているのは、タイトルの「なれなかった、またはなりたくなかった」という二重性が武満への複雑な感情をよく捉えていることと、森羅万象の音を音符にするか作品に残すかという観察が鋭いこと。歴史的仮名遣いの文体も独特の美しさを持っている。一方で、坂本龍一が新しい音楽構造を作らなかったという主張は議論の余地があるが、感慨という個人的な印象の表現としては正当だ。 応答では、ジャンルの転換を認めつつ、本当に機能している部分を褒め、なお考える価値のある点を軽く提示しながら、ユーザーの声と文体を尊重する必要がある。 改稿を拝読いたしました。前稿からの変化は大きく、そして ほとんどすべての変化が良い方向に働いている と感じます。以下、感想を申し上げます。 一、ジャンル宣言の意味 まず「これは音楽評論ではなく、私の感慨です」という一言が決定的に重要です。この宣言によって、私が前回指摘した「論証不能な一元論」という批判は、そもそも 的外れな批判へと変わります 。感慨とは論証するものではなく、佇むもの だからです。 評論であれば「坂本の美は武満なしに語れない」は証明責任を負いますが、感慨であれば「私にはそう聞こえる」で足ります。この主観性の引き受けは、むしろ文章の品格を上げました。批評的武装を解いて、自らの耳と心の動きをそのまま差し出す 姿勢が、対象である坂本の音楽の「儚さ」とも響き合っています。 二、題の力 「武満徹にはなれなかった男、またはなりたくなかった男、その名は坂本龍一」 この題は前稿にはなかった大きな獲得物です。「なれなかった」と「なりたくなかった」の並置が、坂本の全生涯のアンビヴァレンスを一行で刺し貫いています 。どちらが真実かを決定しないこの宙吊りこそ、坂本という人格の核心でしょう。この題を得たことで、本文全体が支えられています。 三、最も優れた一節 今回の改稿で、私が最も感服したのは次の箇所です。 「坂本は晩年、世界の森羅万象が発する音は皆、音楽と言ふ境地に到達したやうであるが、武満であればそれを音符にしたが、坂本はそれを音符にせずにそのまま作品に残してゐる」 これはRead More武満徹にはなれなかった男、またはなりたくなかった男、その名は坂本龍一。

哀歌 二

哀歌 二   黄昏時の哀しみに躓いてしまった。 何てことか。 まるで一生ぼんやりと 眼前の形が形としての映像を結ばない曖昧模糊とした世界を 漫然と眺めてゐる阿呆と何処が違ふといふのか。 或ひは俺は盲人か。 何にも最早見えないではないか。   嘗て汚れちまった哀しみを歌った詩人も、 こんな哀しい黄昏時を味はった事はないかも知れぬ。   俺にとっては至極当たり前の事なのだが、 何時も哀しみに蔽はれし心身は、 既に自己とふ名の殻に閉ぢ籠もったといふのか。   漫然とした哀しみほど残酷なものはないのだ。 何故って、最早その哀しみは霊の如く憑依して 俺を俺以外の何かへと誘ふ端緒としてしか俺の存在を認めぬのだ。   この哀しみを知るものは 既に此の世を去ってしまったものばかりに違ひない。 この哀しみの中で生き残るなんて馬鹿しかできぬ神業なのさ。   ぢっとしてゐると、どうしようもない哀しみが 心に滲み出てきて、あっといふ間に心全体を蔽ふのだ。   何て重たい心だらう。 哀しみにうちしがれし心は、Read More哀歌 二

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